#仏教 #死 #阿頼耶識
死ぬということは、仏教ではどういう意味なのでしょうか?
1つの考え方です。
仏教では心こそが人の本体と見なしますが、心は多層構造であると考えます。自分自身である「私」という認識は、心の一部である「意識」が身体を通して認識しています。「意識」は知性です。身体の脳が大きな役割を果たしています。他者への認識も同じです。他者と交信する際にも身体を通じて直接行われ、「意識」が誰々と認識をします。
そして「意識」より深い層には、普段の自分では知り得ることのできない部分があります。深い瞑想によって知り得ることが可能とされ、これを「阿頼耶識(あらやしき)」などと言い表します。簡単に言えば、過去いく世にも重ねてきた自分の行為やその影響が貯蔵されており、言うなればデータ貯蔵庫です。前世のみならず、無限の過去世からのデータです。
この「阿頼耶識」は、この世において「意識」や身体と同じように刻一刻と変化していますが、身体の「死」によって「意識」も継続不能になる一方、「阿頼耶識」は継続します。そういう意味ではこの「阿頼耶識」が人の本体であるように思えてきますが、実際にはただの入れものにしか過ぎません。本体というと不変な存在をイメージしがちですが、仏教ではそういう本体はないとされます。
なので敢えて言えば、ここに貯蔵されている自分の行為やその影響、これを「業(ごう)」と言いまして、この「業」こそが本体ということにもなるかもしれませんが、これはやはり現代的なデータのような存在なので本体と言えるかどうかは微妙です。しかしいずれにしても、「業」によって自分自身は次から次へと転生しますので、私たちは不滅であるとも言えるわけです。
じゃあ死ぬってのは、いったい何なんだと言いますと、すでに述べてしまいましたが、この世で身体が継続不能になることです。脳も含めて身体が継続不能になれば、この世での「意識(つまり「今の私」)」も消滅します。しかし、「阿頼耶識」は継続します。自分の「業」は大量に残っているので、それに基づいた来世がスタートします。転生です。新たに身体を得て、新しい「意識」も出てきます。記憶は継続しませんが、「業」はしっかり貯蔵されています。こういう意味で不滅なのです。
上記を言い換えますと、普段の「意識」レベルで自分や相手を認識出来なくなった状態が「死」です。「阿頼耶識」は普通は知り得ませんので、私たちは相手の手がかりをなくしてしまうことになります。交信不能に陥るというわけです。私は両親を亡くしましたので、両親とは生前のような交信は不可能になっています。しかし、両親はとくにどこにも行っていません。私の「阿頼耶識」と両親の「阿頼耶識」は、今でも関係性を持っているはずです。「意識」レベルでは分からないだけです。
ただ、仏教(大乗仏教)では成仏することが目的なので、成仏すると「阿頼耶識」は仏の智慧に取って代わります。業も消滅し、自他平等のさとりの境地に至ります。これが果たしてどういう状態なのか、色々と経論には説かれています。「業」によって輪廻転生を繰り替える私たちを、その「業」の鎖から解き放ってくれるはたらきとなるのでしょう。両親が成仏していれば、両親の「阿頼耶識」は仏の智慧になっており、智慧は私を救ってくださるはたらきです。やはり、私と両親は関係性を持っています。
死ぬということは交信不能なだけであり、仏教的にはとくに別離ではないと言えそうですね。私たちがいかに身体に頼って生きているのかが良く分かります。
とは言え、大事な方が亡くなることは耐え難い辛苦です。交信できないのであれば、事実上の別離ではあります。これを仏教では「愛別離苦」と言い表しますが、交信不能であっても語り掛けること、古来、人は語り掛けることによって「愛別離苦」を受け止めて来ました。写真に語っても、手紙に語っても、本堂やお墓で語っても、何でも良いのだと思います。「死」を経てなお語ること、無意味だとは思えません。
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2023年11月06日
2023年10月18日
日本人に人種差別あるのか
日本人に人種差別あるのかと言えば、これはもちろん主観ですが、「人種」だけでの差別は多くはないと思えます(ないとは言いませんが)。
しかし、差別はある。
いわゆる日本人、抽象的ですが一般的な日本人にとって、「違う」と思うことは「日本人的感覚」に基づいているように思えます。「日本人的常識」でもいい。これを判断基準として、違和感を覚えなければ人種が何だろうと、どこの国の人だろうと、あまり差別はないでしょう(ないとは言いませんが)。
ただし、このフワっとした「日本人的感覚」や「日本人的常識」っていうのは、とても難しい。
この島国で、その伝統を重んじ、大和政権以来、実は政治の枠組みに大きな変化のない日本。江戸時代からの滅私奉公の感覚が仕事場でも息づいている。日本古来の神祇信仰から、先祖崇拝、仏教伝来、神仏習合、キリスト教伝来、色々な宗教が混じり合って熟成された宗教観。他者との関わり方も、ここで育たなければ、なかなか真似のできるものではないでしょう。
ここから発した「感覚」や「常識」から外れると、ダメなんですよね。そこに「人種」は関係なく、同じ日本人でもダメだったりするから、これまた厄介。しかも場によって、地域や学校や会社といった場によって、それぞれ異なる側面を見せることもあるので、それに乗れるか乗れないかという難しい局面がある。フワフワなので難しい。
肌の色が何だろうが、一般的な日本人にとって大事なのはここなんだと思います。
ここから外れると、差別されます。いじめですよ。明瞭ではなく、陰湿な傾向です。
一般的な日本人にとって、個性や個人、プライベートって、やはり欧米の感覚であって、いまだに良く分かってないところもあると思えます。私もそうです。理解しようとしても、心の奥底から、どこかから湧いてくる違和感を禁じ得ない。とは言え、それが間違っているわけではないので、それが差別につながってしまうことのないよう努めることが大切だと思っています。「日本人的感覚」や「日本人的常識」が悪いのではなく、それを差別につなげてしまう短絡的な思考が悪いのです。
日本人は曖昧な感覚を好みますので、実際にはかなり寛容的です。宗教を見ても、1つを選ぶことはしないでしょう。差別を生まないような思考が出来るはずなので、気をつけていきたいと思います。
しかし、差別はある。
いわゆる日本人、抽象的ですが一般的な日本人にとって、「違う」と思うことは「日本人的感覚」に基づいているように思えます。「日本人的常識」でもいい。これを判断基準として、違和感を覚えなければ人種が何だろうと、どこの国の人だろうと、あまり差別はないでしょう(ないとは言いませんが)。
ただし、このフワっとした「日本人的感覚」や「日本人的常識」っていうのは、とても難しい。
この島国で、その伝統を重んじ、大和政権以来、実は政治の枠組みに大きな変化のない日本。江戸時代からの滅私奉公の感覚が仕事場でも息づいている。日本古来の神祇信仰から、先祖崇拝、仏教伝来、神仏習合、キリスト教伝来、色々な宗教が混じり合って熟成された宗教観。他者との関わり方も、ここで育たなければ、なかなか真似のできるものではないでしょう。
ここから発した「感覚」や「常識」から外れると、ダメなんですよね。そこに「人種」は関係なく、同じ日本人でもダメだったりするから、これまた厄介。しかも場によって、地域や学校や会社といった場によって、それぞれ異なる側面を見せることもあるので、それに乗れるか乗れないかという難しい局面がある。フワフワなので難しい。
肌の色が何だろうが、一般的な日本人にとって大事なのはここなんだと思います。
ここから外れると、差別されます。いじめですよ。明瞭ではなく、陰湿な傾向です。
一般的な日本人にとって、個性や個人、プライベートって、やはり欧米の感覚であって、いまだに良く分かってないところもあると思えます。私もそうです。理解しようとしても、心の奥底から、どこかから湧いてくる違和感を禁じ得ない。とは言え、それが間違っているわけではないので、それが差別につながってしまうことのないよう努めることが大切だと思っています。「日本人的感覚」や「日本人的常識」が悪いのではなく、それを差別につなげてしまう短絡的な思考が悪いのです。
日本人は曖昧な感覚を好みますので、実際にはかなり寛容的です。宗教を見ても、1つを選ぶことはしないでしょう。差別を生まないような思考が出来るはずなので、気をつけていきたいと思います。
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2023年10月17日
報恩講 お能 医療講座
≪報恩講のご案内≫
◎逮夜法要11月18日(土)
・午後4時〜読経と法話 当山住職
・午後5時〜能楽奉納 鎌倉能舞台 中森貫太師
半能「熊坂」
◎日中法要11月19日(日)
・午後1時〜雅楽法要
・法要に引き続きリコーダー演奏
小田原リコーダーコンソート
・午後2時〜医療講座
茅場町いとう医院副院長 伊東佳子先生
講座「肝臓について」
本年の能楽奉納は半能「熊坂」です。医療講座はお馴染みの伊東先生による「肝臓について」となります。リコーダー演奏もありますので、皆様どうぞお参りください。法要に参加して心を健康に、そして医療講座で体も健康に。自分にとって充実した毎日を過ごしましょう。 合掌
お能「熊坂」
「都から東国へ下る途中、赤坂にさしかかった旅僧(ワキ)が一人の僧(前シテ)に呼びかけられ、さる者の命日の回向を乞われ、僧の庵室に導かれる。そこには仏像がなく、おびただしい武具がある。シテの僧は、それを横行する山賊に備えてのためという。ついで仏も武器によって悪魔降伏をする事を語り、寝所へ去る。中入で、赤坂の里人(アイ)が熊坂長範の事跡を語る。旅僧が弔っていると、長範の霊(後シテ)が夜風激しい中に現われ、黄金商人三条吉次信高を襲ったときの有様を再現し、当夜、眼光炯々として見張っていた十六、七の小男が牛若だと知らなかったのが運の尽きであったと語る。キリは長刀を使う熊坂が牛若丸に翻弄されるさまを見せる。長刀物で爽快な所作を見せる上、夢幻能としての詩情も溢れる名品。」(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)
◎逮夜法要11月18日(土)
・午後4時〜読経と法話 当山住職
・午後5時〜能楽奉納 鎌倉能舞台 中森貫太師
半能「熊坂」
◎日中法要11月19日(日)
・午後1時〜雅楽法要
・法要に引き続きリコーダー演奏
小田原リコーダーコンソート
・午後2時〜医療講座
茅場町いとう医院副院長 伊東佳子先生
講座「肝臓について」
本年の能楽奉納は半能「熊坂」です。医療講座はお馴染みの伊東先生による「肝臓について」となります。リコーダー演奏もありますので、皆様どうぞお参りください。法要に参加して心を健康に、そして医療講座で体も健康に。自分にとって充実した毎日を過ごしましょう。 合掌
お能「熊坂」
「都から東国へ下る途中、赤坂にさしかかった旅僧(ワキ)が一人の僧(前シテ)に呼びかけられ、さる者の命日の回向を乞われ、僧の庵室に導かれる。そこには仏像がなく、おびただしい武具がある。シテの僧は、それを横行する山賊に備えてのためという。ついで仏も武器によって悪魔降伏をする事を語り、寝所へ去る。中入で、赤坂の里人(アイ)が熊坂長範の事跡を語る。旅僧が弔っていると、長範の霊(後シテ)が夜風激しい中に現われ、黄金商人三条吉次信高を襲ったときの有様を再現し、当夜、眼光炯々として見張っていた十六、七の小男が牛若だと知らなかったのが運の尽きであったと語る。キリは長刀を使う熊坂が牛若丸に翻弄されるさまを見せる。長刀物で爽快な所作を見せる上、夢幻能としての詩情も溢れる名品。」(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)
2023年10月14日
永代供養墓のご案内
善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
少欲知足を心がけたい
戦争や紛争などの争いを始めるのは権力者です。そういう権力者ってのは、なんて欲深いのかと思う。あれも欲しい、これも欲しいなんだろうな。争いの原因は欲望だ。子どもの喧嘩だって、物の取り合いが多いだろう。欲があるから人は生きているわけだが、欲は少なくても実は大丈夫。
少欲知足
少欲知足
2023年10月03日
ヒゲ
最近、あごヒゲのある坊さん、長さ1pほどなんですが、とくに若い坊さんをよく見かけます。浄土真宗は頭髪に規制や慣習がないので、ヒゲについても規制や慣習はないと思います。伸び放題でもなんでも、勝手にすれば良いわけですが、個人的には短いあごヒゲは好きではありません。あごヒゲでも30pぐらいあれば威厳ありますが、1pほどですとねえ、これは現代的にはただワルっぽいだけだなあ。
そもそもヒゲは国柄や宗教で意味が異なりますが、おおむね、(曖昧ですが)それなりの地位や業績のある方が蓄えることが多く、未熟者に許されるというのは、宗教的に厳しい場合を除けば、慣習としてはあまりないように思います。若い坊さん、何の意味があって短いあごヒゲなのか、まあ、ファッションでしょう。
袈裟を許されてファッションってのもねえ、自己表現とか、求道には無関係だし、他人を意識した表現なんてしないで自己探求しようよ、と思います。ヒゲに見合うだけの修学修行をしてほしいものです。私なんてヒゲ濃いから、毎日毎日、一所懸命にヒゲを剃るので面倒。いっそ30pぐらい蓄えるかなあとも思うけど、まだ、そんな深みには達していないし、生涯、蓄えることはないでしょう。
そもそもヒゲは国柄や宗教で意味が異なりますが、おおむね、(曖昧ですが)それなりの地位や業績のある方が蓄えることが多く、未熟者に許されるというのは、宗教的に厳しい場合を除けば、慣習としてはあまりないように思います。若い坊さん、何の意味があって短いあごヒゲなのか、まあ、ファッションでしょう。
袈裟を許されてファッションってのもねえ、自己表現とか、求道には無関係だし、他人を意識した表現なんてしないで自己探求しようよ、と思います。ヒゲに見合うだけの修学修行をしてほしいものです。私なんてヒゲ濃いから、毎日毎日、一所懸命にヒゲを剃るので面倒。いっそ30pぐらい蓄えるかなあとも思うけど、まだ、そんな深みには達していないし、生涯、蓄えることはないでしょう。
2023年09月26日
クローンだって別々の命
本日9/26付けの日経新聞1面に、「テクノ新世 Technopocene「神の」領域へA」という記事がありました。亡くなった息子さんの遺体から精子を取り出し、代理母によって孫を得ようとする夫婦。亡くなったペットのクローンを飼っている夫婦。クローンが家に来たときには、「家に帰ってきた」と感じたと言います。いずれも大切な存在が亡くなってしまい、なんとかその悲しみを乗り越えようとしていることが分かります。これは誰しもが経験する可能性のあることであり、とても自然な感情と言えます。
テクノロジーのことは私には分かりませんが、宗教家として言えることは、亡くなるということも自然だということです。子のいない息子さんが亡くなったということは、それ以上でもそれ以下でもありません。ペットも亡くなれば、同じことです。非常に辛いことですが、仮にその分身とも言える存在や、クローンである存在があったとしても、決して同じ命ではありません。器である肉体が近い存在であっても、あくまでも命は別の存在として来たと言えます。
日経新聞は記事の最後に、哲学者であるスティーブン・ケイブ氏の、「これまで宗教が担ってきた(死を乗り越える)物語を科学が語り始めただけだ」という言葉を引きます。そして、日経新聞の言葉として、「科学によって死の悲しみを乗り越える。そんな時代がやってきた。」と結びますが、引用されたケイブ氏の言葉を見る限り、やや勇み足のような印象です。
科学技術はもちろん生命の領域まで触手を伸ばし、あたかも死について語り始めたように見えるでしょうが、それをもって「死の悲しみを乗り越える」「時代がやってきた」とは断定できません。宗教であっても、自分や大切な方の「死の悲しみを乗り越える」ということは主要な課題とはいえ、乗り越えることは簡単なことではありません。仏教では「生老病死」と言いまして、この世における4つの苦悩のことですが、必ず命あるものは死ぬのだと説きます。これが真理です。現代的に言い換えれば、これが自然なのです。こうした真理を受け入れることが、唯一、「死の悲しみを乗り越える」ことにつながると言えます。
私はケイブ氏のことはほとんど知りませんので、もしかしたら、記事の締め括り方に間違いはないかもしれませんが、科学技術も生命の領域まで来たということを述べているだけで、科学によって死を乗り越える、とは言ってないのではないかと思えます。もし、仮に科学万能主義のようなことを言っているのであれば、それはもはや哲学ではないでしょうし、敢えて記事にするようなことでもないかと思えます。クローンなどの存在で死の悲しみを乗り越えることが出来るのであれば、特筆すべきことはなくなるからです。そうすればいいだけですから。
テクノロジーのことは私には分かりませんが、宗教家として言えることは、亡くなるということも自然だということです。子のいない息子さんが亡くなったということは、それ以上でもそれ以下でもありません。ペットも亡くなれば、同じことです。非常に辛いことですが、仮にその分身とも言える存在や、クローンである存在があったとしても、決して同じ命ではありません。器である肉体が近い存在であっても、あくまでも命は別の存在として来たと言えます。
日経新聞は記事の最後に、哲学者であるスティーブン・ケイブ氏の、「これまで宗教が担ってきた(死を乗り越える)物語を科学が語り始めただけだ」という言葉を引きます。そして、日経新聞の言葉として、「科学によって死の悲しみを乗り越える。そんな時代がやってきた。」と結びますが、引用されたケイブ氏の言葉を見る限り、やや勇み足のような印象です。
科学技術はもちろん生命の領域まで触手を伸ばし、あたかも死について語り始めたように見えるでしょうが、それをもって「死の悲しみを乗り越える」「時代がやってきた」とは断定できません。宗教であっても、自分や大切な方の「死の悲しみを乗り越える」ということは主要な課題とはいえ、乗り越えることは簡単なことではありません。仏教では「生老病死」と言いまして、この世における4つの苦悩のことですが、必ず命あるものは死ぬのだと説きます。これが真理です。現代的に言い換えれば、これが自然なのです。こうした真理を受け入れることが、唯一、「死の悲しみを乗り越える」ことにつながると言えます。
私はケイブ氏のことはほとんど知りませんので、もしかしたら、記事の締め括り方に間違いはないかもしれませんが、科学技術も生命の領域まで来たということを述べているだけで、科学によって死を乗り越える、とは言ってないのではないかと思えます。もし、仮に科学万能主義のようなことを言っているのであれば、それはもはや哲学ではないでしょうし、敢えて記事にするようなことでもないかと思えます。クローンなどの存在で死の悲しみを乗り越えることが出来るのであれば、特筆すべきことはなくなるからです。そうすればいいだけですから。