2020年10月23日

交差点の猫

昨晩、車で帰宅中にある交差点で猫がひっくり返っていました。車と衝突したのでしょう。まだ生きているようでした。時間も遅いし疲れていたので早く帰宅したいなあと思い、可哀相だが申し訳ないと思いつつそのまま通過しました。しかし、どうも気になって仕方ない。わが家の猫のことを思いました。野良でしたが大人しかったので連れてきたのです。交差点の猫も野良でしょう。あのままですと、さらに車に轢かれて命を落とすことはほぼ間違いないと思えました。車をUターンさせ、交差点へ戻りました。轢かれていませんように・・・。

幸い、まだ交差点でぐったりしており、トムとジェリーのトムのようにペチャンコにはなっていませんでした。交差点付近に車を止めまして、ひとまず車載の毛布でくるんで歩道まで移動。ほとんど抵抗しませんが生きています。息が荒くつらそうでした。大量ではありませんが血が流れていました。車も少なかったので作業はすぐ終わりました。さてどうするかと思い、知り合いの獣医さん2名に電話しましたが、いずれも出られませんでした。時間も時間で、もう夜の10時近くだったのです。市役所にも電話しましたが、守衛さんしかおらず、明日朝にならないと対応できないとのことでした。仕方ないです。

お寺に連れ帰ろうかとも思いましたが、苦しそうな声をあげて体を動かしています。お寺まで30分近くかかる場所でした。大けがをしているようなので私には対応できず、忸怩たる思いのなか帰路につきました。簡単に言えば放っておいたわけです。歩道ですので轢かれることはないでしょう。毛布は目立ちますので、どなたか心ある方が通りかかることを願って去りました。野良ですので、野生というか猫の生命力に託すしかないと思ったのです。中途半端になってしまいましたが、私に出来ることはそこまででした。24時間対応の獣医さんもあったようですが、距離もあり難しかったかもしれません。

どうしていいか分からない自分の無知加減を残念に思いながら、仏教で説く「業」について思いを馳せました。

業とはこの世と前世や前々世といった遠い昔から、自分の命が積み重ねてきた行為とその影響を言います。業はこれからの出来事の種になります。いつ発芽するかは分かりませんが、命あるものはすべて業を蓄えていると考えるのです。猫ちゃんの業がまだこの世に命をつなぐようなものあれば、きっと助かるでしょう。しかし、そうでなければ、次の命のステージに向かうはずです。つまり、死ぬわけです。わが家の猫も野良でしたので、うちに連れて来なければどこかで轢かれ死んでいたかもしれません。しかし、わが家に来たということは、そういう業であったのでしょう。これは運命論ではなく、自分自身の行為の結果としてのことなのです。

なかなか可愛い猫ちゃんでしたよ。

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2020年10月17日

親鸞聖人御消息第六通

「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」

今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
 
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
 
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。

仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2020年10月05日

報恩講のご案内

毎年、善福寺報恩講は10月最終日曜日(及び前日土曜日)に修行しておりますが、今年は新型コロナウイルスの影響によりまして、縮小開催とさせていただきます。医療講座を含む日曜日の日中法要は中止とさせていただきまして、前日土曜日の逮夜法要と献能のみの修行といたします。

≪令和二年 善福寺報恩講≫
10月24日(土)17時逮夜法要 17時30分献能(鎌倉能舞台)
10月25日(日)日中法要ならびに医療講座は中止

本堂にご入堂の際には消毒とマスク着用をお願い申し上げます。
お参りをお待ちしております。合掌

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2020年09月27日

テクノは忍耐だ(ロックは諦めだ)

先日のことですが、RCでお世話になっているK氏の会社に所用でうかがいましたら、待ち合いに「テクノは忍耐だ」という書が掲げられていました。K氏はテクノミュージックに長年携わっておられます。なぜ忍耐なのかと言いますと、私が解釈するようなことではないのですが、テクノは音色の調整やプログラミングなど、とにかく地道にひたすら耐え忍んで下ごしらえをしないといけません。私もロックバンドをしていまして、かつてロックとテクノを合わせた変テコな音楽に傾倒したときがあります。その時、ほんの少しこうしたテクノのことを学びまして、自分でも少しトライしてみました。もの凄く大変です。夢中になりますと、もう寝ている場合じゃないというほどです。結果、私には無理だなとなりまして、単純なロックに戻っていきました。

この「テクノは忍耐だ」という書を見まして、じゃあロックは何だろう、と考えたわけですが、ずばり「ロックは諦め」だと思います。曲をバンド仲間で作っていても、「まあ、こんなもんじゃない?」というところで適当に切り上げます。あまり作り込むと重たくてダサロックになるので、私は好きではありません。作り込むのは好きなほうなのですが、ロック特有のノリが消えてしまうような気がしまして、途中で諦めるわけです。「ああ、めんどくせ〜」というのもロック特有な発想なので、こういう感覚も大切です。それなりに大変なのではありますが、座右の銘は「めんどくさい」でもいいくらいなのです。

「忍耐」と「諦め」、これ実は仏教の実践行に含まれております。「忍耐」はそのまま、いろいろな苦しい厳しい状況においても、ひたすら耐え忍ぶということ、修行には不可欠です。世間には理不尽なこと、理解不能なことも多くありますが、それを含めて自分自身なわけであり、逃げていては始まりません。「忍耐」は仏教的人間形成において必須事項であるのです。一方、「諦め」は何なのかと言いますと、「諦める」という言葉は、実のところ「あきらかにする」という意味から来ているのです。物事のあり様をあきらかに観察するわけです。闇雲に突き進むわけではなく、状況をあきらかにして次のステップへ行くということです。人生は忍耐強く、そして状況をあきらかにすることが大事だと言うのでしょう。ただ、私はテクノもロックも好きなのですが、これを実践するのはなかなか難しいなあと、昨今、実感しております。

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2020年09月20日

秋季彼岸会のご案内

今年の秋季彼岸会は、9月22日(火、秋分の日)午前11時から善福寺本堂での修行となります。新型コロナウイルス感染予防の観点から、本堂へご参拝の際はマスク着用、手先の消毒をお願いしております。どうかご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

善福寺住職 伊東昌彦

〜夫婦墓のご案内〜
夫婦墓「えんまん」に5名様(最大8名様)までご納骨いただける、ロング区画をご用意いたしました。ご夫婦はもちろん、ご家族やお仲間でどなたでもご一緒に入っていただけます。善福寺サイトにご案内を掲載しましたので、ご覧ください。

http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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