2020年08月14日

坊さんとして思う言葉「英霊」

明日は終戦の日ですね。「英霊」という言葉があります。仏教では本来的には使用しません。もとは中国古典に見られるようですが、私は門外漢なので手近なところでウィキペディアで調べてみました。「英華霊秀」という言葉に原意を求められるようです。道教の「気」も関与する言葉のようですが、四字すべてが「すぐれている」という意味に通じていますので、これを人にあてはめれば「すぐれた人物」という意味合いになることでしょう。道教的に言えば仙人とまでは言わずも、すぐれた「気」を持っている人ってことでしょうか。

それで「英霊」というように二字のみ抽出すれば、とりわけ「霊」には「すぐれている」という意味のほか、「死者の魂」という第一義的意味がありますので、「英(すぐ)れた霊魂」という意味合いが強調されることになると思います。仏教、とくにインド仏教には「霊魂」という考えは本来的には存在せず、むしろ否定的です。日本仏教では、宗派によっては霊魂という言葉の使用も見られるようですが、これは中国思想との習合によるものです。ちなみに浄土真宗では使用しませんので、私にとっても霊魂という言葉は身近ではありません。

霊魂が何なのかというのは、上記のような事情もあるので私にはよく分かりません。イメージとしては、亡き方の死後精神というようなことになるのかなあ(ちなみに、唯識で言う阿頼耶識とはまったく違います)。おそらく、根源的なものとの合一には至っていない状態で、まだ生前の個性が保たれており、場合によってはある程度意思があるのかと思います。幽霊なんて意思丸出しですよね。怨んで出てくるわけですし。とまあ、かなりいい加減な規定にはなってしまいますが、おそらく、多くの方も厳密には霊魂が何なのか分かっていないと思うので、この程度のイメージで良いかと思います。

そして、「英(すぐ)れた霊魂」ということになりますと、どの点が英(すぐ)れているのかと言えば、それはもちろん生前の行いということになるのでしょう。死後の行いは不明ですし、当然、生前だと思うのです。日本で「英霊」という言葉を使用する場合、これはとりわけ日露戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦で戦死された方の霊魂を敬ってのこととなります。戦争で国家に殉じたと方と言っても良いので、この点において「英(すぐ)れている」と言えるのだと思われます。

今の平和、現代日本の平和というものは、こうした方々の犠牲の上に成り立っていることは言うまでもありません。戦死された方、戦病死された方、戦争による攻撃で亡くなられた方、戦争の関連で亡くなられた方、たくさんの方々が戦争で命を落とされました。おそらく、日本や家族を思って亡くなられたことでしょう。たくさんの方々の犠牲によって、私たちの今日一日があるのです。原爆の日をへて終戦の日が近づくにつれまして、毎年厳粛な気持ちになってまいります。今日という日を「あたり前の一日」だなんて思っては、本当に申し訳ないことです。

私は坊さんとして、「英霊」という言葉からは距離のある立場であり、いわゆる「霊魂」の存在を全面的に肯定しているわけではないのですが、戦争で犠牲になられた方々を敬う心はしっかりと持ち合わせています。もし仮に、そうした方々すべてを指して「英霊」と言うのであれば、それはそれで問題ないと思います。ただし、実際には戦死された方々に限定して使用されていることがほとんどだと思われますので、そこには聖戦的に戦争を賛美する志向を孕んでいるような気がしてなりません。国家に殉じることは尊いことではありますが、亡くなられた方々の思いをあわせ考えてみますと、安易な使用かなとも思えてきます。

そもそもの原意を訪ねてみましても、生前にすぐれた行いのあった方を指して「英霊」と言うことになるので、この言葉をとりわけ戦争に関係づけて用いること自体、果たして相応しいのか問題ではあります。原意とは独立して規定されている言葉であれば、容認できなくもないのですが、一般的な使用に耐え得るほど人口に膾炙していると言えるのでしょうか。もちろん、「英霊」という言葉を使われる方々の気持ちも理解できるのですが、聖戦的に戦争を賛美しているかのような場面で使われてしまっていることもあり、難しさを感じます。

戦争で亡くなられた方々を悼むことは、今を生きる日本人すべてにとって必要なことです。しかし、それはどんな戦争であっても、その戦争という行為自体を容認することであっては決してなりません。言葉を選ぶことは難儀なことなのですが、「英霊」という言葉に対しても、どういう方々を対象として使うのか、どんな場面で使うべきなのか、もっと議論があっても良さそうなものです。昨今、そういう気配はあまり感じられませんが、安易な戦争賛美が深まっていかぬよう、慎重にあってもらいたいものです。

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2020年08月04日

意外と近い、山中湖

先日、山中湖まで行く機会がありました。山中湖は富士五湖のなかでも神奈川寄りなので、実はお寺から車で30分程度で着いてしまいます。南足柄から山北、そして小山を通って三国山経由で行くと近道なのです。観光の方は少なめでしたが、車は神奈川県ナンバーのほか、埼玉県や千葉県のナンバーも見受けられました。しかし、東京都は多摩ナンバーは見かけましたが、23区ナンバーはほとんどいなかった印象です。23区の方は自粛されている方が多いのかもしれません。8月ではありますが、観光業はやや寂しい様子でした。

山中湖は標高も高いせいもあり、南足柄とは空気が違います。箱根と南足柄は同じですが、緑の香りが違うのです。植生が異なるので当然かもしれませんが、距離的に近くても遠くに来たような気になります。ちなみに鳴いている蝉の声も違いました。アブラ蝉っぽい鳴き声でしたが、こちらのアブラ蝉とは音色が異なっており種類が違うのかもしれません。滞在は長くありませんでしたが、なんだか妙にリラックスできて嬉しいひと時でした。

不思議なもので、人は何故、「いつもと同じ」という事柄に対して「飽きる」という感情を懐くのでしょうか。同じであることは有難いと思いながらも、やはり飽きていること多いと思います。新しかったり久しぶりだと何故か嬉しいとか、そんなのありますよね。

生物学的(?)に言えば、強く生き残るために新しく別の環境を常に求めているから、とか言えそうですけど、仏教学的には何でかなあ。いつもと違うものを求めるということは、それはもちろん「少欲知足」の正反対のことで、「強欲」で「不足」であるからに他なりません。やはり煩悩によっていると言えそうですね。

しかしまあ、そんな小難しいこと考えると、せっかくのリラックスも効果が薄れそうですので、あまり仏教学的に解明しないようが良いかもしれません。

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2020年07月16日

感覚の違いを尊重できるよう

9月から法話会など、お寺での会を再開しようかと思っています。法話会やスイーツ教室については、何度かお問い合わせをいただきました。大変有難いことだと思います。しかし最近、東京を中心にコロナ禍が再拡大しはじめています。行政から何らか制限が出されれば、9月再開も延期になるかもしれません。第二波とならぬ程度で収まれば良いのですが、経済活動との両立は難しい舵取りが要求されそうです。

こうしたなか、肝腎なことはひとりひとりの行動にあると思います。マスク着用や消毒はもちろんですが、会合や外食は細心の注意が必要です。とくに外食は経済活動にも直接関与することなので、単純に自粛をすればそれで良いということにもいきません。個人的には、行動範囲が不明瞭な方との会食は避けるべきだと思います。家族や親しい知人で行動範囲が掴めている間柄であれば、コロナ対策の取れているお店での飲食はあり得るでしょう。

と、私の考えを書きましたが、もちろんそう思わない方もいます。難しいのは、人それぞれで考えが異なることです。小田原近辺におきましても、以前のように普通に飲み会をしている方もいます。東京ではないですし、小田原付近なら大丈夫とお考えなのでしょう。ちなみに東京でも飲み会をされている方は当然います。私の場合は、家族で対策の取れているお店で外食はしますが、飲み会は出来れば参加したくありません。

いわゆる温度差は本当にバラバラで、これからコロナのなかで生活するということを想像したとき、感覚の違いは結構な社会問題になるんじゃないかなと思えます。問題化を防ぐためには、それぞれの考えを尊重する気持ちが何より大切です。コロナウイルスをばら撒くなんて言うのは論外ですが、多少、自分自身よりも感覚の緩い方、厳しい方がいても、それはそれで仕方ないと思えるよう準備をしておきたいものです。

人というのは、生活や仕事の背景をそれぞれ持っていますので、社会への考え方は本当に千差万別です。相互に尊重する心を、基本的なところで持ち合わせていきたいと思っています。

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2020年07月04日

日中は空腹状態

私は身長170センチです。169ではなく、常に数ミリ170以上なのです。それはどうでもいいのですが、体重は60キロです。マックスで67キロでしたが、狭心症入院のあとやせました。学生時代に戻った感じです。数日の入院でしたが、精神的に弱小なのですぐやせたわけです。それでそのまま維持するよう努めたのですが、方法は簡単です。あまり食べません。しかし今、ストレス発散と言えば私の場合、飲食しかないのです。ではどのようにしているかと言いますと、朝昼はあまり食べないのです。夜はビール飲みますし食事もちゃんとします。日中腹減るだろうと思われますかもしれませんが、それがいいのです。一般的には夜食べないほうがダイエットには良いようですが、私は夜食べないとストレスたまるのでダメです。

日中はほぼ常に空腹ですが、慣れてくるとそのほうが仕事がはかどります。ストイックになれると言いましょうか、集中力が増しました。かつてはその逆で空腹だと機嫌も悪く、集中できないたちでした。今では空腹のほうが心地よく、苦痛に思わなくなってしまいました。単純に年を取っただけかもしれません。

運動はあまりしませんが、山寺なのでほぼ毎日、雨降っていても境内掃除は欠かせません。それがいいのかもしれませんが、部分的にしか身体を使っていないので全体運動ではないです。坊さんは掃除、勉学、修行が肝腎ですが、これは一般でも言えそうだなあと最近思います。ちなみに夜はヒマなので9時に寝てしまいます。朝は4時30分には目が覚めてしまい、午前中が長くなりました。ロングスリーパーなので、本来は8時間最低でも7時間は毎日寝ないと調子が狂います。寝ているからいいのでしょう。なお家ではビールを飲むことはほぼありません。たまにはありますが、酔いがまわりやすいので好きではありません。

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2020年06月18日

人種差別は極めて愚かな行いです

人種差別の根底にある心って何でしょう。私は自己への執著心だと思います。自己と異なった外見や、異なった文化・生活に違和感を覚えるのは、自己を保全したいという執著心の裏返しです。自己なんて言うものは、よくよく観察すれば本当にいい加減です。変化しない自己はありません。考えてることなんて、毎日コロコロ変わっていますし、外見だって日に日に変化しています。人は変化に弱い。変化が恐ろしい。だからそれに抗う。でもそれは不可能なので、仕方ないから別の方法で一時の安心を得る。それが差別です。自己と異なった外見や、異なった文化・生活を排除すれば、何となく自己を守っているように感じるからです。

人種差別は極めて愚かな行いです。

もとより愚かな自分自身に気づけば、こんなこと出来ないはずなんだけどなあ。

posted by 伊東昌彦 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge