2018年12月02日

電話嫌いになっている私

堀江貴文さんは電話嫌いなようで、何かの記事でそう仰っていました。私の記憶によりますと、たしか一方的に電話かかってきて、いきなり貴重なマイ時間を占拠されるからというような理由だったと思います。う〜む、なるほど、たしかにその通りの側面はあるわけで、実は私も中年になってから電話不得意です。メールに慣れてしまったからでしょうか、電話で要件をいきなり前触れなく言われますと、その瞬間での回答に窮してしまうことがあるのです。折り返し電話すれば良いのでしょうが、だったらメールや何かのほうがいいのになあと思ってしまいます。

中高時代、とにかく電話大好きでした。友人の電話番号、まだ二人分は完璧に憶えています。なんとその番号は東京03のあと、4ケタではなく3ケタになりますので、随分昔のことになるなあと感慨深い思いがします。やたら深夜まで電話。用事なんてないんですよ。今からカップラーメン食べるとか、あ〜つまんね〜、とか互いに言ってるんだからアホかと思いますよね。電話代もかかるので親にはよく叱られました。とにかく今じゃ考えられないほどの電話好きで、まあ、今は娘もラインの無料電話で同じような状態なので、若い頃はこういう状況になる人はある程度いるのかもしれません。

ちなみに坊守(=女房)は電話嫌いで、彼女が20歳だか21歳で私がその3つ上という時分に知り合ったのですが、とても迷惑そうでした。そんな私ですが、今じゃすっかり電話しない派になってしまい、なんでもメールかメッセンジャーかラインかって具合なんですから、年取ると性格変わるんだなあと感心します。言い換えれば、色々と考えないといけない状況や条件が多くなって、若い頃のようにほぼ何も考えず瞬時に回答することが出来なくなったのかもしれません。嫌ですね〜、今日ヒマ?と聞かれ、ヒマに決まってんだろ、と返答していた時代が懐かしく思えます。

ちなみにお寺の場合、ヒマなんだけどヒマじゃないというのが多く、ホントは今も結構ヒマなんですが、出かけるわけにもいかないので、ヒマに決まってんだろ、とは言い難いわけです。

メールなどに慣れてしまうと、たしかにいきなり重要人物から電話かかってくると焦ります。携帯だからこっちは移動中だったり、ほら、用を足している最中とか、色々な状況あるじゃないですか。焦って出ても即回答しないでいいような内容だったりすると、だったらメールしといてよね、と思ってしまうことしばしばです。ただ、メールなどもまだまだ全世代に浸透しているわけではないので、メールアドレス公開していてもメール見ない方もいます。個人的には見ないのであれば教えないでくれと思うのですが、これは仕方のないところでしょう。たまに見るとか、そういう使い方もないわけではないでしょうし。

堀江貴文さんの意見に触れまして、今まであたり前だと思っていたことが、実はよくよく考えてみると変じゃない?ってこと、結構あるもんだなあと思いました。あたり前の毒とも言えるでしょうか、物事、それがあたり前だと思ってしまうと思考停止してしまいます。私は堀江さんと同年代ぐらいだと思うのですが、この年でああいう思考が出来るのって凄いなあと思いました。私なんてもう凝り固まってしまい、新しい思考って出てこないんですよね。前例踏襲になってしまい、頭のなかがまるでお役所。それはそれで問題なく進むには都合いいんでしょうが、まったく斬新ではなくなりますよね。新しいものを受け付けなくなっている私ですが、今こそ、何か新しいものにチャレンジすべきではなかろうかと、思うだけ思っています。

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2018年11月16日

Rockをもて仏教す Part 5

Rockをもて仏教す Part 5

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において、こういう難しいロックもあるんだなあと勉強になったBad Religionから、代表曲とも言えるAmerican Jesusです。

We've got the American Jesus
Bolstering national faith
We've got the American Jesus
Overwhelming millions every day

皮肉たっぷりのこの曲、パンクっぽくて好きです。Bad Religionは歌っているグレッグ氏が学者なせいか、とても歌詞は難しく真面目にパンクしてます。あんま不良っぽくない。だからなのかメッセージは明確かつ強力で、あんまファンタジってない。ステージもやたら普段着なので、親近感湧くんですよね。ホント、そこらへんにいるフツ―のおっちゃんって感じで、失礼ながら最近は頭もさっぱりしつつあるようです。

アメリカの神様は国家の信念を支えており、何百万人の人々を毎日圧倒しているとのことです。これは2回目のサビです。そもそもBad Religionっていうバンド名からして、何やらアメリカの宗教、つまりキリスト教、主としてプロテスタントを揶揄している雰囲気ありますよね。バンドのロゴは十字架禁止を意図したようなデザインです。この歌詞がアメリカ万歳、神様万歳を意味しないことは明白です。

地球上では歴史的にも現代的にも、宗教は政治と密接に関係していることが多いようです。日本も実はそうですが、欧米のキリスト教ほどではないかもしれません。そこは一神教とアジア的な多神教・汎神教の違いなのかも。日本だと宗教的な義務感ってあまり感じない、と言うかないに等しいですよね。一神教は唯一神のもと統合されるので、上意下達でこうあるべきだ論的に民意が動いていくことも多いのかなあ。

グレッグ氏において、神はいつの間にかアメリカという国家仕様になってしまったように見えるのでしょう。アメリカの振る舞いすべてを支える存在として、神は換骨奪胎されてしまった。グレッグが無神論者あるのかは分かりませんが、おそらく無神論者ではないでしょう。私にはそう思えます。宗教、キリスト教の人類的意義を真面目に考えているがゆえ、敢えて無頼に振舞っているかのようです。坊さんとして、グッときますね。

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2018年11月08日

子を導くことの難しさ

ここ数年のことなのか分かりませんが、最近、主として公立中学校での運動部のあり方に注目が集まっています。簡単に言えばハードすぎるということです。休みは週1回というレベルなようですね。かく言う私は思い切り文化部な人なので、運動部事情は分からないわけです。文化部でも演奏系はハードらしいのですが、私はぜんぜん生物部。夏休みの餌やり当番はハードでしたが、もちろん気楽なものでした。顧問の先生はほぼいない状態でしたので、色々と自分たちでやりたい事考えて、結構楽しかったなあ。とまあ、繰り返しますが気楽なもんでした。

学校でのスポーツは教育の一環だということが、大学スポーツの問題に関係して再確認されたことは記憶に新しいことです。スポーツには勝敗があるものですが、観客に技術や戦略の高さを見せるプロでないのであれば、むしろ勝敗は価値として半副次的なものと言っても良いかもしれません。ましてや中学生において、まだ体格的にも成長過程にあるにも関わらず、勝利至上主義のもと部活動をさせるというのは、自主運営文化部、そして部活ではなかったですがこれまた自主運営バンドで青春していた私からすると、なかなか別世界に思えてくるのです。

おそらく運動部の方からしますと、その部活動から培った精神というものは貴重であり、社会に出てからも大いに役に立つということになるのでしょう。そして実際、社会のリーダーであるような方々にはスポーツマンの方が多く、立派だなあと思うことしばしばです。しかしどうやら、最近はあまりにも勝利にこだわりすぎたせいか、逆に中学生を苦しめているのではなかろうか、という見方が出てきているようなのです。昔の子と今の子を単純に比較することは出来ませんが、それでもなお、過度とも言える部活指導に苦しんでいるとのことなのです。

こうした部活には大人の指導者がいるでしょうし、保護者のサポートもかなりあるんじゃないかなあと思います。しかし、それでも問題視されている。生徒が自主的にほぼ毎日練習したいと言ってくるのか、問答無用で練習をさせているのか、もちろん個々のケースで違うことでしょう。しかし、中学生はまだまだ心身ともに成長段階にあることは間違いなく、直接であろうが間接であろうが、大人の指導があって初めて部活動が出来ているのは確かなことです。実のところ大人からすれば、中学生に「自主的発言」をさせるのは簡単なことだと思います。そう仕向ければ良いだけですから。

これは部活動に限ったことではなく、様々な習い事や受験塾においても似たようなことが言えると思います。たとえば私は子を中学受験させましたが、中学受験は完全に産業化しており、塾業者や一部の学校の扇動によって親は盲目的になりがちです。塾の用意した偏差値という、本来は学校のランク付けではないものが、あたかもランク付けのような存在となり、偏差値至上主義がまかり通っています。偏差値は志望校へ向けての勉強には役立ちますが、そもそも志望校は偏差値だけによって決めるものではないでしょう。とくに私立学校は独自教育をしているわけですから、偏差値だけで志望校を決めるのは奇妙な話です。

少しでも偏差値の高い学校へ子を入学させたい。こう思う親も多いわけですが、それは上記のような部活における勝利至上主義と重なって見えてきます。中学受験において、親は受験の情報源を持っていない場合が多く、ほとんど塾やその関係者からの情報に頼ることとなります。彼らは商売熱心ですから、一所懸命に親を偏差値至上主義へ誘導します。「お子さんなら、もう少し上の学校狙えますよ」、こう言われて気分の悪くなる親はあまりいないでしょう。しかし、そのためにはもっと講座を受講させて、ほぼ毎日、夜遅くまでお弁当持参で塾に子を拘束させねばならない。ライバルたちもやっているからと、親はあまり疑問に思わず費用をバンバン出す。

親がこうであれば、その話を真に受ける子も同じような思考になっていくことでしょう。親に喜んでもらたいのが子の本心です。だから難関校へ自分も行きたいと言う、言っているうちに、そのうちそれが本心のようになってしまう。大人によって、子が扇動されていく構図です。正直言いまして、小学生が難関校に行きたいとか、その学校がどんな学校かも予想できないのに、まだ中学校生活を体験したこともないのに、独自に判断できるわけありません。多くの場合、大人に言わされているんですよ。もちろん、実際に学校を見て本人が気に入った、それがたまたま難関校であった、ということもあるでしょう。しかし、見学に行く学校を選ぶのは親ですし、子が勝手に選ぶなんてことはレアケースです。

親であれば、わが子にはこうあってほしい、こんな大人になってほしいと思い描くことは罪ではありません。むしろ、そのようなイメージを持つことは必要で、だからこそ子を育てる責任があるんだと思います。難関校に入れたいというのも良いでしょう。しかし、それが本当に二人三脚のようになっているのか、親の独善的な発想・妄想、そして暴走になってはいないか、ちゃんと自己診断しないと危険だと思います。部活の試合で勝たせてあげたい、そのように考えるのは親としては自然です。しかし、子の成長速度よりも、勝利することを優先させていないだろうか。中学受験の場合は、それ自体が産業化しているところもさらに問題であり、子が塾経営の道具にされてしまう可能性すら孕んでいます。

私も中学受験を経験しました。結果、一時的に勉強大嫌いになりました。親には感謝していますが、これは事実です。

部活動も受験も必要です。部活動は正課では学べない仲間との連携や責任などを学ぶことが出来ます。受験だって基礎的な学力向上には不可欠だと思います。私は大学受験は推薦に逃げましたので、大学では英語、とくに語彙不足に苦労しました。そして、いずれも子に忍耐力を身につけさせることになりますので、この点においても私は評価しています。私は大学受験の苦労を知りません。そして、あまり忍耐力があるほうではありません。ただ、大人にはちゃんと子の気持ちに寄り添ってもらいたいと思うのです。子が主役であるにも関わらず、脇役である大人が勝手していませんか?子をうまいようにコントロールして私物化していませんか?私はこの点こそ最大の問題だと感じています。

私もまだ子育て中であり、子を導くことの難しさを日々実感している最中です。陥りがちな過ちとして、「オレがなれなかったものになってくれ」です。子が勝手に思うぶんにはいいんですが、押し付けになりがちなんです、私の場合。偉そうなこと書きましたが、自分自身が一番危なっかしい。

posted by 伊東昌彦 at 13:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年10月30日

Rockをもて仏教す Part 4

Rockをもて仏教す Part 4

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において最も影響を受けたRed Hot Chili Peppersから、初期の名作Behind the sunです。


Now while I shower in the rain
I watch my dolphin swim away
The one who listens to the surf
Can feel the pulse beat of the earth
And like my dolphin swims so free
The sun does swim into the sea
Behind the sun


この歌はもう、はっきり言って意味不明です。下ネタ連発なのか、それとも何らかの衝撃であちらの世界に行ってしまっているのか、私にはサッパリ分かりません。しかし、最初から最後まで、イルカちゃんが導き手になっているのは面白いなあと思います。イルカちゃんっていうのは、これは下ネタ系の暗喩だとは思いますが、本来的な自分自身ということなのではないでしょうか?作詞者は男性です。そう考えますと、意外と深い(?)歌詞に思えて来るから不思議。

海と太陽というのは自然の象徴でしょう。その代弁者がイルカちゃんなのですが、それは自分自身でもある。つまり、自然と自分自身は本来的にはつながっている、むしろ同一であるにも関わらず、自分自身はそれに気づいていない。凄い!やたらと深い歌詞になってしまいました。仏教では眼前に広がる自然も自分の心の投影だと理解します。敢えて言えば自分自身が、自分自身の心を眺めているのが自然なのです。それをイルカちゃんが教えてくれている。イルカちゃんこそ、おそらく真如からのはたらき、つまり自分自身の内面にある仏に他ならないのです。

曲名にもなっている「Behind the sun」という詞は、太陽の向こう側にこそ、自然の向こう側にこそ、真如法性はそこにあるのだという意味・・・、ではないかもしれませんが、そのように理解することは可能です。いずれにしても、とても難解な歌詞に見えるのですが、おそらく、もっと単純なことを言っているのだと思います。彼女と自分とのホットな時間のこととか、容易に想像できますね。ハハハ

善福寺 住職 伊東 昌彦

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posted by 伊東昌彦 at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 六賢楼 -rock'n'roll

2018年10月29日

Rockをもて仏教す Part 3

Rockをもて仏教す Part 3

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。

I’m playing my role in history Looking to find my goal
Taking in all this misery But giving in all my soul
Made in heaven, made in heaven It was all meant to be, yeah
Made in heaven, made in heaven That’s what everybody says

偉大すぎて説明の要なしと言えるQueenから、Made In Heavenです。実際にはボーカルのフレディ個人名義作だったかと思いますが、手元にあるのがQueen名義のCDなので、そういうことにしておきます。

この歌はもう思い切り宗教歌なわけですが、実は結構、多くの日本人にとりましては、心の底から共感するということが難しいかなあと思います。この歌を貫き通す信仰はズバリ、「神の思し召し」です。フレディ自身はゾロアスター教徒なのか、ちょっと良く分かりませんが、歌詞からは一神教的な思いを感じ取ることが出来ます。ゾロアスター教は一神教です。しかし、こうした一神教的な感覚は日本には根づかず、多神教やちょっと汎神教(←真理の現れが世界なのだとするような教えの分類のことでしょう)的な感覚こそ、一般的な「日本人」を作り上げている土台の一部と言えます。つまり、そこには人々が従うべき絶対的な神の存在性は薄く、物事それぞれがそれぞれ機能し、有機的にダイナミックに結びついている。敢えて言えば勝手に物事が進んでいくなかで、乗り遅れないよう一所懸命に祭祀をするのが日本人ではないかなあと。これは「自然」ということであり、あるがままにあるということを重んじるのが、日本的日常とでも言いましょうか。

さて、歌詞を見てみますと、自分は歴史上での「自分」という役割を演じ、自らの最終目的を探しているのだと言います。神によって定められた役割があるという信仰であり、それを知ることこそ人生なのだという、強い信念が見て取れます。おそらく、同じ一神教徒であるキリスト教徒の方々にとっても、大きく頷かれるところかと思います。その後に続く、悲惨な事柄も自分の魂のなかに受け入れようという歌詞からは、神に跪く敬虔な姿が想像されます。そして、こうした一連の事柄は「Made in heaven」、つまり、天国にいる神が造りたもうたものなのだ、それは運命なのだと、皆がそう言っていると結論づけるのです。

皆さん、いかがでしょう。私は坊さんだからでしょうか、こうした信仰のあり方に敬意を表すると同時に、どことなくこそばゆいような感触を禁じ得ません。ここまで大々的に信仰を表明できるというのは、むしろ立派なことだと思うのですが、自分にはないなあと。ただ、仏教では物事について、そのまま真実のありようを受け取ることこそ悟りなのだと説くわけですが、ゾロアスター教などの一神教においても、神の意思ということにおいて、実は同じようなことを言っていることに気づかされます。

仏教ではあくまでも自己における内的変革、つまり、余計なフィルターを通さず物事に透徹していく心を持つことを重んじます。坐禅のような瞑想修行はもちろん、仏への信仰においても、仏への信仰を通じて自己変革を達成することこそ仏道なのです。そして、その変革によって先入観による執着を捨て、真に自由なものの見方を体得していきます。すなわち、これは一神教徒においても、神の名のもとに悲惨さを含め、すべてをあるがまま受け入れていくのですから、そこに変革を見ることができるでしょう。道程は違えども、究極的には仏教であっても諸々の一神教であっても、同じような境地に達するのではないでしょうか(ただし、道程が異なるという点は重要です)。

歌詞にあるこうした表現の仕方に、違和感とまでは言わなくとも、なかなか共感を持てないというのが多くの日本人的感覚かもしれません。しかし、最後に行きつくところは同じであったというのは、面白いことだと思います。仏教では「八万四千の法門」と言いまして、人の数だけ教えの入口はあるのだとします。宗教が違うということは入口が違うということになりますが(本来は仏教内でのことですが、ここでは広く捉えました)、よくよく考えればどんな宗教でも同じ人間同士の営みなのですから、突飛なものではなく長く続いている宗教であれば、同じようになるのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。

善福寺 住職 伊東 昌彦

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posted by 伊東昌彦 at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 六賢楼 -rock'n'roll