2019年02月05日

2月になるとわが母校

どうもこの時期、2月になると自分や子の受験を思い出してしまいます。何だか最近の受験は長丁場らしく大変です。私なんて獨協立教学習院でおしまい。いずれの学校も今より難しかったんですよ。立教や学習院なんて四谷大塚で言えば60前後はあったんじゃないかなあ。青山学院の女子なんて桜蔭やJG並みだったような気が。今、再び付属校人気らしいですが、小学生も大変。

なお獨協も今より10ポイント以上偏差値良かった…、と思う。先日、獨協中高の仲間と飯田橋で飲みまして、どうも獨協中高の経営はいかんねえという話になりました。偏差値ガタ落ちなんです。仲間は皆小規模ながら経営しているので興味があるんだと思います。私も一応、経営者の端くれなのですが、寺は会社に比べればのんびりしたもんです。住職であっても他業種の方と交流するのは価値あることでしょう。

学校もお寺も、時代とともに変化しないと置いてけぼりです。獨協中高はドイツ語を学ぶ学校が前身なので、かつてはドイツ語クラスもありました。でも今ではドイツ語の需要はあまりなく、ドイツ語クラスも消滅です。自由な校風で生徒の自主性が重んじられる学校でもありました。時代が変わりまして、ドイツ語という特徴がなくなった学校はカラーのない学校へ、そして進学実績を上げるため管理教育へ。

わが母校ながら、時代に乗るのが巧いとは言えないかなあ。ドイツ語の需要がなくとも、それが長年の特色であるのだからドイツ語教育を前面に出すべきだと思うし、今風の管理教育なんて伝統私立校には上手くできないでしょう。だって先生の顔見ても懐かしい顔多いんだから、そりゃ無理な話じゃなかろうか。ドイツは今なお学ぶべきところがある国だし、仮に日本でドイツへの興味が薄れていたとしても、それを逆手に取ってさらなる特色にしていけばもっと注目されると思うんだけど、気のせいか。

お寺も同じとこあるかもしれません。何でも今風がうけるわけでもなく、長年大事にしてきたところに、さらに磨きをかけるべきなのかと、わが母校の現状から学びました。有難う獨協中高!復活に期待!!

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2019年01月28日

2月法話会お休みのお知らせ

2月法話会は都合により休会といたします。申し訳ございません。次回は3月3日(日)午後2時からとなりますので、お参りをお待ちしております。 合掌

住職 伊東昌彦
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2019年01月15日

Rockをもて仏教す Part7

Rockをもて仏教す Part7

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。前回のBad Religionと同時期に好きになったThe Offspringから、The Kids Aren't Alrightです。

When we were young the future was so bright
The old neighborhood was so alive
And every kid on the whole damn street
Was gonna make it big and not be beat

Now the neighborhood's cracked and torn
The kids are grown up but their lives are worn
How can one little street
Swallow so many lives

なんともまるで今の日本だなあと思えてしまう冒頭です。昭和48年生まれの私からしますと、ああ、そうかもね、と昔が懐かしんでセピア色。私が生まれ育った街も様変わりしたことでしょう。一緒に遊んだ仲間たちはどうしているかなあ。1人も消息知らんなあ。小学校入学から仲良くしてもらったH君、明るい未来を歩んでくれているだろうか。でも多分、40代になればそれぞれ皆モヤモヤ抱えながら生きてるんだろうなあ、と思わず哀愁漂ってきてしまいます。The Offspringも「泣きコア」ですからね。うんうんと大きく頷いて涙目でも構いません。

諸行無常なのです。平家物語そのものがこの世であり、鐘の音のように響いては消えていく。桜の花のように、美しく咲いては散ってゆく。桜の花は、明日は嵐が吹くかもしれずとも、それでも文字通り懸命に咲いています。散り際に美しさを見るのは、日本人の情けでしょうか、それとも達観した美徳とも言えるでしょうか。私には良く分かりませんが、洋の東西を問わず、諸行無常であることは普遍です。仏教は現実直視の世界観を持っています。現実の苦悩からの脱却として、苦悩の原因を自己のみへ求め、瞑想修行によって自己解決に至るのがインド仏教です。直視して修行スタート。

パンクロックはとても現実的です。私はパンクロックが大好きです。

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2019年01月12日

ストレスフルな坊さん

40代ってのはどうも悩み多いですね。20代は親に甘えて、30代はいきがって、40代になってへこんでます。幸い子を授かったので子の進学、両親も幸い健在なのですが健康不安、おまけに肝腎の寺院経営も不安定と、皆さんも同じだと思いますが、これで50代さらに60代はどうなってしまうのか。もとより性根がないというか、フラフラしがちな性格で、そうかと思えば自己主張好きという困ったちゃん。主体性をもって生きているつもりなんですが、どうも人のことも気になるという、扱いにくい野郎なのです。女房も大変だろうなあと思います。そして実際大変そうだ。

先日、箱根であった新年会でのこと、お隣の方と話をしていまして、「ホントの話、ストレス解消って酒以外に何かあります?」って話題になりました。ないんですよね。マジでないんです。そりゃ色々とご意見あろうかと思います。スポーツやれば?とか。ぜんぜんやる気になんかならないし、わざわざ時間作るのもねえ。だったら一杯やるわってなっちゃう。でも飲み過ぎはよくないし、最近どうも二日酔いが激しくて翌日もよくない。ストレスあるから酒も進んでしまう。絵に描いたような悪循環。

仏教は本来出家主義なので、こうした世俗浮世のことは捨てて、修行に邁進するのが解脱への道だと説きます。まったくその通り。でも浮世離れしてしまっていて、これじゃあんま普通の人の悩みに応えることができない。途中から大乗仏教ってのが出てきて、これは利他を強調するのですが、普通の人が救われていく道も説くようになった。出家も大事なんだけど、在家にも注目が集まるようになって、日本仏教では在家主義も根づくようになった。浄土真宗の坊さんは出家しないから在家なんです。つまり私は坊さんでありながら普通の人で、浮世どっぷり坊主なのでした。

坊さんが修行のストレスならまだしも、日常生活や家族のことでストレス抱えるなんて笑っちゃうけど、日本仏教ではむしろ現象としてよくあることなのです。日本仏教は浮世において仏教しろって言うわけだから、意外と難しい面もある。坊さんが法衣のまま車運転して反則切符とか何とか話題になったけど、すごく浮世で笑えない。私も葬儀会館や火葬場行くのに運転するから。でもまあ、法衣のうえに作務衣でも羽織って、なおかつ運転用のスニーカーでも履いてれば問題ないので、ご当人は気の毒だけど、安全面も考えてこうすることにしました。すごい浮世。

でもこれ大事なことで、だから日本仏教はダメだとか、そういう意見には意味がない。出家主義が日本には根づかなったいことは事実だし、性に合わないんでしょう、日本人の。お釈迦様の説かれたところとは違うんだけど、それもまあいいんじゃないかと思います。日本仏教はこうして成り立ってるんだから、それでそのまま行ったほうが意味あることだと思う。宗教ってのは流れも大事だし、急に上からああだこうだと言うのは宗教として危険。上から目線の宗教ほど危険なものはないので、それは控えるべきでしょう。

現在はツイッターのような短文傾向ですが、どうも短文で表現できるほど国語出来ず、いつも長文化してしまいます。ツイッターで発信する人って俳句や短歌に強いと思うなあ。私は苦手だけど。センスあると思う。で、今回は何を言いたかったかというと、今年もストレス解消に悩みそうだなあということでした。好きなことやるのが一番なんだけど、ストレス多いときって、どうも好きなこともやる気にならないことあるので、早めにやってしまうのがいいかも。今、任天堂DSのファイナルファンタジー3やってます。毎年やろうやろう思って買ってあったんだけど、ぜんぜん進んでなかった。

でもこれ、リメイクなんだけど基本古いRPGだからか、レベル上げを意識しないとクリアできないから大変。昔、獨協中高時代の友人K君が中2か中3の頃これやってて、あまりにも理不尽な難度に憤慨し、コントローラー投げる程度ならいいものの、本体のファミコンを破壊したという逸話があります。ラストダンジョンの難易度はリメイクで下がったようですが、気持ちは分かります。その彼も、いまでは立派に飲食系のご家業を継いで、六本木で獅子奮迅の活躍を見せています。中学のころ、K君の家によく遊び行って(六本木だからか妙に大人になった気分ww)近くのゲーセン(たしかスクエアビルの1F)でストリートファイターをやった。ストUじゃなくて初代のやつね。しかも思い切り手で叩くっていうアレ。K君うまくてねえ〜

posted by 伊東昌彦 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年01月02日

本年もよろしくお願いいたします

皆様、本年もよろしくお願いいたします。かつて私が坊さんなりたて20代の時分、浄土真宗では「良いお年を〜」とは言わんのだ(→年に良いも悪いもないから)、とある先生が仰っていたのを拝聴しました。ついでに「あけましておめでとう」とも言わん(→新年になってもめでたいことはないから)、とのことでした。若い私はなるほど、素晴らしいこれこそ仏教なのだと合点したものです。たしかに良し悪しというのは自分自身に帰属するものなので、良い年や良い日があるわけではないというのは実に仏教的です。

そのせいもあるのか、今でも年内はどうも挨拶に困ってしまうときがあります。年末はたいてい皆さん「良いお年をお迎えください〜」ってなるので、そうなると20代の刷り込みが効きまして、思わず「あっ、有難うございます」と適当な返答になってしまうのです。間違ってない返答ですが気が利かないですよね。浄土真宗ってのは傍から見ると髪の毛フサなので軟弱な印象を受ける方もいるかもしれないのですが、意外と教えには頑固なところありまして、妥協は許さぬという、何とも厳しい掟のようなものがあるのかないのか。

クリスマス頃にディズニーランドに行きましたら、出会うキャスト出会うキャスト(→ディズニーランドではスタッフをキャストと呼ぶのだと女房から伝授)、皆さん「ハッピーホリデー」と声を掛けてくれました。昔は違ったかと思います。数年前からなのかもしれませんが、今回はとくに印象深かった。これは長年アメリカにおられた先生から教えてもらいましたが、「メリークリスマス」だとキリスト教徒だけなので、他宗教の人々に配慮してクリスマス休暇でも使用されるようになった挨拶だそうです。ディズニーはアメリカン。

挨拶でも色々と宗教事情が関係してくるもので、やっぱり宗教は生活に深く関わっているものなんだなあと思います。そもそも「挨拶」だって仏教、とりわけ禅で使われていた言葉ですし、こういうのもっと発信していかないとわけわからなくなってしまう。「挨拶」は相手の心を見極めるという意味だったかと思うので、実は返答こそが大変重要なわけです。なので年末での上記のような私の返答では、何だか適当な返答だなあと思われることとなってしまい、修行が足りんということになるでしょう。

一般的には「良いお年を〜」と同じ言葉を返すのが穏当なわけですが、仏教的には「良し悪しなし!」とかいきなり返答すれば良いのでしょうか。多分、相手の方は焦りますよね、気に障ること言ったかなって。かつて臨済の山田無文老師がある講演会の質疑応答か何かで、「あの世はどんなところでしょうか?」と尋ねるおばあちゃんに、いきなり「ない!」と返答したとの逸話を聞いたことがあります。おばあちゃん焦ったろうなあと思いますが、禅としてはたしかに「ない」なんですよね。諸々の存在というのは、人が普段使っているところの「ある・なし」ではないからです。

とは言ってもねえ、もちろん老師もその後フォローされたと思いますが、返答ってのは大事だもんだなあというのが「挨拶」の本義から窺い知ることが出来ます。で、「良いお年を〜」に対する返答はと言いますと、浄土真宗としては相手の気持ちを有難くいただき、「有難うございます」と答えつつ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を添えるのがひとまず穏当でしょうか。うまい返答が見つかりません。浄土真宗の場合、「南無阿弥陀仏」がオールマイティ性を発揮してしまうので、言葉は悪いですが面白味に欠けるかもしれませんが、教えにも適っているとは思います。

私たちは、良し悪しとは本来、自分自身に帰属するものであるにも関わらず、それを年や日のせいにしているところがあります。今年は良くない年だからとか、そんなのまともに考えればあるわけないことです。でもなあ、どうしても責任転嫁したくなりますよね。何でも自分でしょい込むのは辛い。それが現実なんだと分かったときはもっと辛い。「一切皆苦」と仏教では説きますが、ああ、ほんと苦しいこと多いなあと40代も後半になってつらつら思います。阿弥陀仏という仏様は、もとよりこんな私たちを救うためにいらっしゃるので、だからこそ阿弥陀仏におまかせしましょう、ということで「南無阿弥陀仏」なのでした。

あなたにとって「良い年」になりますように、という意味を含んだ「良いお年を〜」という挨拶ですが、実のところ嫌いではありません。仏教的にはちょっとなという側面もありまして、このように考えてみたくなったわけですが、何とも日本人的な奥ゆかしさがあり心地よい響きだと思いません?

posted by 伊東昌彦 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge