2020年04月29日

オンラインと肌感覚

日常生活での「オンライン」の役割が大きくなっています。人と人との接触を出来るだけ少なくしなければならないとなれば、オンラインはうってつけです。仕事も学校もオンラインで続けることにより、接触の機会を少なくすることができます。ただ、もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、うまくいかない場合もありそうです。たとえば小学校低学年ですと、双方向のオンライン授業を開始したとしても集中力が何分もつか分かりません。保護者が画面の前から子が離れないよう監視していれば別ですが、教室に比べれば先生の影響力は限定的になりますので難しいこともあるでしょう。

今、私は「先生の影響力」と書きましたが、まさにこの点に大きな問題点があると感じます。

と言いますのは、人のコミュニケーションは口と耳と目だけで行っているわけではありません。人には五感というものがあるでしょう。実は普段あまり気づきませんが、五感で会話しているのだと思います。実際、舌(=味)はあまり関係ないとは思いますが、肌で感じるところってあるでしょう。その場の雰囲気です。息遣いとか。相手が目の前にいるっていう雰囲気です。肌感覚というのは、私はもの凄く大きいものだと思っています。コミュニケーションの場面において、メール<電話<直接会う、と考える人もいるでしょう。しかし、私は電話<メール<<<直接会う、という具合です。電話は私にとってあまりうまくなく、耳だけで判断しないといけないのは苦痛です。メールのほうが目で判断できて、なおかつ読み返せるので楽なのです。

そして、いずれにも大差をつけて直接会うことを大事にしています。ではオンラインで画面を通して顔を見ながらの会話だとどうでしょう。私も何度か試しまして、実際、会合もオンラインで参加しています。まだ慣れていないというのもあるかもしれませんし、テクノロジーが進化すればもっと現実的になるのかもしれませんが、肌感覚がないため不安です。うまくコミュニケーションできているか不安なのです。もしかしたら、電話が発明された当時も、同じような不安感を持っている人がいたかもしれません。でも、今はあまりいませんよね。私も不安というよりは、電話では不満なだけです。一応、コミュニケーションは出来ていると思います。オンラインもいずれ慣れることでしょう。しかし、やはり肌感覚はありません。

全身全霊という言葉があります。人を身体と精神に分けて考察する見方は仏教にもあり、「色(=身体)、受、想、行、識(=以上、すべて精神)」と見ます。全身全霊というのは、さまざまな精神作用、つまり自分自身の意識のみならず、無意識の部分も含めての精神(=霊)と身体をもってという意味になります。人のコミュニケーションも実は全身全霊で行っているもので、だからこそ深く分かり合えるのだと思います。身体すべてで感じ取った情報は、すべて精神に伝えられます。身体は五感です。五感が欠けている状態ですと、当然のことながら伝達情報も欠けたものになります。電話は耳と口だけですから、それ以外は欠けています。メールはもちろん目だけです。言葉と文章ですよね。人は長年、言葉と文章だけでコミュニケーションを取れるよう、創意工夫をして技術を身につけたのだと思います。だから欠けている部分が補えている。

低学年の子にとっては、まだまだこうした技術を身につける途上にあるわけですから、肌感覚というものが重要になってきます。小さい子と電話で話をしても何だか良く分からないのは、こうした技術が未習得だからです。そうなりますと、双方向のオンライン授業をいきなり行っても先生の思いはなかなか児童には伝わらず、ひっちゃかめっちゃかなカオス状態になることでしょう。先生の影響力が限定的だからです。もちろん、子は柔軟ですのですぐ技術を習得して慣れていくとは思いますが、オンラインというものが即効性あり万能であるかのような喧伝は不誠実です。肌感覚のないコミュニケーションというのは、感覚を一部欠いているという認識が必要です。これは電話でもメールでも同じです。人と人とが直接会わなくてもいいという日常が到来するとすれば、それは全身全霊で生きている人をやめるということにもなることでしょう。

ただし、それが「進化」なのだという考えもあるかもしれません。人は宇宙の真理、それは一神教的に言えば神の意志であり、仏教的に言えば変化を繰り返す宇宙のあり方ということになりますが、それをを超えて行動できているわけではないので、テクノロジーも宇宙の摂理です。人の進化を今、目の当たりにしているとすれば、ああ、たしかに私も不安になるはずだ。

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2020年04月26日

法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会

新型コロナウイルスによって亡くなられた方々に対しまして、心より哀悼の意を表します。また、罹患されてしまわれた方々のご快復を、心よりお念じ申し上げます。私は今のところ罹患していないようですが、諸行無常のなか生きている私たちにとりまして、すべては自分事として受け止めねばならぬことと存じます。明日、どのようになるのか、本当に分からない世の中になってきました。この現状を把握し、自覚を持って生活を続けていきたいものです。自分自身がウイルスを運ぶ縁にならぬよう、細心の注意を払いたいと思います。

善福寺におきましては、法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会を現在、休止しておりますが、当面はこのまま休止とさせていただきます。葬儀と法事は今まで通り行っておりますが、本堂・会館においては間隔を空けてお座りいただき、必ず手の消毒をお願いしています。近隣の葬儀会館におきましても、同じように皆様のご協力をいただいているようにございます。

新型コロナウイルスの一日でも早い収束を願ってやみません。個人的なことではございますが、家飲み用に購入した大ジョッキが活躍してくれています。なかなか気分出ますね。

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2020年04月14日

大ジョッキを手に入れました

のんきな内容ですみません。かつて坊さんの先輩に月に1度は行事を作ったほうがいい、中高の友人からは忙しくしていたほうがいい、とアドバイスを受けました。そもそも善福寺は兼業寺院(父はサラリーマン兼業)であったこともあり、専業で入寺した30代は何をして良いのか分からず、少々暇で困ったこともあったのです。法務(お寺の場合は読経など)も忙しくしたいと思いまして、月忌参りを始めたりもしました。それから法話会、仏典会、楽友会、スウィーツ教室のような集いを始めました。また、地域のお役も積極的に受けるようにしまして、それなりに忙しい毎日を過ごしていたものです。が、法務以外はすべて休止となっている今、とても暇になってしまいました。前向きな方ですと、こうした境遇をチャンスに変えて英会話を習うとか、未来につなげるような行動を起こすことでしょう。私は後向き人間なのでしょう、とくに何もやろうと思ってはいません。ははは

家族団欒の時間は増えました。お寺の場合、専業だとだいたいお父ちゃん(住職)は家にいるんですよ。だからそれほど違和感なく、団欒時間は増えて嬉しいなぐらいなんですが、お勤めの方ですと違和感大ありかもしれませんよね。とくにお母ちゃん。毎日3食きっちり用意しないといけないとなりますと、これは大変でしょう。家庭によって状況様々だと思いますが、こうした普段から逸脱した家庭状況によって、アルコール依存症や家庭内暴力、児童虐待の件数が増えているとの報道もありました。多くの方が不安のなか過ごしていると思いますし、ああ、もう酒飲むしかねえ、と思う気持ちも分からんではありません。私もビール好きなので良く分かります。お酒は脳を麻痺させるのでしょう。疲れているときは疲れが吹き飛びますし、不安なときは大きな気持ちになったりするものです。しかし問題解決にはならない場合が多く、まやかしと言える作用ばかり続きます。それが分かってないと、いわゆる「お酒に飲まれた」ことになり、問題行動が発生するんじゃないかなあと思うのです。

とは言え私はビール好きなので、在宅用に大ジョッキを購入しました。1000mlにしようかと思いましたが、ひるんで800mlにしました。家ならば少なめなほうがいいかもしれません。昨日はそれで飲みましたが、まあ、あんま面白くはないです。私は完全に外飲み派で家ではほとんど飲みません。家にいることが多い仕事なので、家で飲んでいても区切りというか、気持ちの切り替えが出来ないからです。ただ、こうした今の状況が長引くとなれば、少々お酒との付き合い方を変えたほうが良いかもしれませんね。気持ちの切り替えができない家飲みでは、おそらくストレスが溜まってくるんじゃないかと思うからです。ストレスというのは困ったもので、簡単に言えば自分の欲望を抑え込んでいると溜まります。じゃあ欲望のまま生きればいいのかと言えば、そんなことしたら社会生活は送れません。仏教でも欲望をなくすほうがいいと説きますが、抑え込むことはむしろ良くなく、その根源を退治することが奨励されます。ただまあ、根源って簡単に言ってもねえ、まあ普通に生活しているぶんにはほぼ無理ですよ。自分の心にある根源的問題ってのは、早々簡単に解消できません。心は本当に厄介なもので、実は「私」という意識の管理下にはない部分も多いのです。そしてストレスの原因というのは、その管理下ではない部分に存在します。難しいわけですよね。

いずれにしましても、悶々としたものが溜まってきそうな気配ですが、他者にあたらないようにしたいものです。すべては自業自得、自分のことはすべて自分でなんとかするというのが仏教です。他者に支えられつつも、自分ひとりがこの世を生きていることを心に留め置いておきたいものです。

亡くなられた方や罹患されている方に心をよせながら、この状況が早く収束することを念じます。 合掌
posted by 伊東昌彦 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年04月06日

善縁と悪縁

緊急事態宣言が発令されそうです。先週末のことですが、県西端の山北町まで法事があり、車で門徒さん宅までうかがいました。途中、国道246号線を通ります。すいているかと思ったのですが、比較的混んでいました。国道なので普段から色々なナンバーの車が通るのですが、県東端の横浜ナンバーが比較的多かった印象です。門徒さんの話によれば、近隣の県立公園駐車場も、横浜ナンバーの車が普段より多かった様子です。

自粛疲れと言われています。ずっと家にいると何だかおかしくもなりますよね。住職は普段から家にいないといけない職なので、その辛さはよく理解できます。外に出たいというのは、当たり前の感覚です。ただ、ウイルスは自分でフラフラ飛んでいくわけでもないので、人などが運んでいると言えます。緊急事態宣言が発令されるほどであれば、今はもう、ウイルスを遠くへ運ぶことにつながる行為は慎むべきでしょう。

世の中は関係性によって成り立っています。仏教ではそれを「縁」と言います。縁には善縁もあれば悪縁もあります。できれば自分自身が悪縁にはなりたくないですよね。ウイルスは本当に人と人との縁によって運ばれてしまっています。本来はつながりがあることは嬉しいことなのですが、それが他者を苦しめるようであれば、とても悲しいことです。皆さんが善縁で結ばれますよう、お念じ申し上げます。
posted by 伊東昌彦 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2020年03月12日

ウイルス感染予防と中道

先日、地元近所の焼肉屋さんに行きました。ガラガラでした。普段からガラガラではなく、通常ならば繁昌しているお店です。新型コロナウイルスの感染拡大で外食産業はかなりの痛手を被っているようです。不特定多数の人々が集まって密着する場所、そして換気の悪い場所は感染の可能性が高まると言います。焼肉屋さんは目の前に排気口があるから大丈夫なのではないか、という私の独断でしたが、隣席どころか入店時は誰もいませんでした。

外食産業は地元経済の一端を担っています。そして街の賑やかさということを考えた場合、小売店や食事処はさらに貢献度が高いと感じます。しかし、多くのお店は小規模経営なので資金力は大きくなく、一度閉店になってしまえば復活は難しいでしょう。街が寂しくなってしまえば、人口は増えるどころか減少に拍車がかかってしまうことは明白です。そうかと言いましても、地元で感染拡大すれば営業どころではなくなることでしょう。

ところでこんな話を聞きました。地元市内では今、中学生のインフルエンザ罹患がゼロだそうです。休校ということもありますが、おそらく、コロナ対策で例年以上に皆が気をつけて除菌に取り組んでいるからでしょう。しっかり対策をしておけば、たとえば外食であれば、ちゃんと除菌をして、あまり長時間にならず、わが家であれば家族以外の方との接近を出来るだけ避けるのであれば多少は大丈夫でしょうし、経済活動への影響を最小限に留めることも可能かもしれません。

仏教では中道ということを説きます。偏らない道です。

修行しすぎても修行自体への執着心が増すますし、だかと言ってまったく修行しないということであれば、どんどん堕落していくことでしょう。偏らずにバランスを取って行動することは、仏教の修行論のみならず、私たちが普段生活していくなかでも大切なことだと思えます。バランスのとり方は状況によって異なりますが、こうしたウイルス蔓延が心配される状況下であれば、感染予防に努めつつ活動を続けることが望ましいと言えそうです。

posted by 伊東昌彦 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge