2021年06月19日

牛乳焼酎牧場の夢(人吉市「大和一酒造元」)

地元ロータリークラブのご縁によりまして、九州の方から大変嬉しいプレゼントをいただきました。

実は私、普段あまり遠出が出来なこともありまして、西日本へは中学時代に修学旅行で広島に行ったきり、それより西を訪れたことがありません。九州は浄土真宗のご縁が深い地ではあるのですが、なかなか行けず終いでした。そんな折、九州地方の豪雨支援のためロータリークラブから冷蔵庫を送ったことがあり、その御礼として、オンラインで開催の例会に、遠く九州から当地のロータリークラブの皆様が参加して下さることとなりました。

あまり九州にご縁のない私ですが、行きつけの飲み屋で愛飲している焼酎があります。製造元などあまり気にしない性分なので、ラベルをまじまじと見てはいなかったのですが、製造は熊本県人吉市の合資会社大和一酒造元とありました。ああ、そう言えば熊本の焼酎であったなあと再認識していたところ、そのオンライン例会におきまして、人吉市の方とお会いすることができました。焼酎愛飲していますとお話したところ、製造元をよくご存知とのことで、話が一気に通じて大変嬉しい思いでありました。

後日、なんとその方から私が愛飲している「牛乳焼酎牧場の夢」がお寺に届きました。牛乳焼酎なのです。とくに牛乳大好きというわけではないのですが、なんともマイルドで私の好みです。牛乳なので好き嫌いあろうかと思いますが、私は長年愛飲しています。有難うございます。ちなみにこちらです。↓

牧場の夢.jpg

ラベルには「人吉温泉水と良質の水、しぼりたての牛乳で造った風味豊かで体にやさしい天然のアルカリ性焼酎」とありまして、コロナ禍において免疫力が高まっていきそうな気がします。人的交流の乏しい私にとりまして、非常に嬉しい出来事でありました。

また、九州の食品で楽しみなことと言えば、ブラックモンブランというアイスがあろうかと思います。こちら関東には基本的に売っておらず、食感が似ていそうな大阪のチョコバリは流通していますが、以前から一度体験したいと思っていました。それがこの度、関東にも進出されるとのニュースがあり、個人的にとても楽しみです。

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2021年06月04日

親鸞聖人御消息第十二通

「「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり」

私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。

ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。

なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。

さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)

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2021年05月31日

走ってきました、はこね金太郎ライン

はこね金太郎ラインで仙石原まで往復したのですが、やはり走行注意です。県道ではありますが、かなりの山道でクネクネなのです。助手席や後部座席の方は酔うでしょう。私は酔う人なので、運転していても気持ち悪くなりそうな予感でした。そして何より道が狭いので、対向車と正面衝突しないよう細心の注意が必要です。車幅が2メートル近い車だとスムーズにすれ違いが出来ないかもしれません。煽り運転は厳禁です。中央ラインがないので即事故につながると思います。また、本当に落石、というか岩に近い物体も落ちていたりしますので、天候が悪いときはさらに注意が必要です。先日、仙石原までゴルフしに行ってきたという方とお話しましたら、実際に岩に近い石が落ちていたそうです。箱根は本当に山なので、天候も平野部とは異なります。東名降りて雨降っていなくても、箱根は大雨とか普通にありますので、天候には十分お気をつけ下さい。

ややネガティブなこと書いてしまいましたが、いずれにしましても、東名大井松田方面から箱根が近くなりました。安全に運転していけば、とても便利な道路だと思います。お店もほとんどない所を通りますので、また違った箱根の楽しみ方も出来るかもしれません。私も安全運転でドライブしたいと思います。

posted by 伊東昌彦 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2021年05月06日

懐かしい、ミスターロボット

仏教では修行の階梯は非常に明確化されています。どの程度修行すればどうなるのか、サボればどうなるのか、ゴールはどんな具合なのか。実際に進んで行くことは極めて難しい階梯なのですが、分かるようになっているわけです。分かるからこそ、やる気も出るのだと思います。高僧方は後進のため、ちゃんとまとめておいてくれたのですから、とても有難いことです。

人生は諸行無常です。まさに一寸先は闇なのですが、無計画ではあまりにも効率が悪い。人生は時間的に限られているのですから、あまりボーとしていますと終了してしまいます。人生の目的云々は置いておきまして、ある程度道筋が見えてこないと精神的に辛い思いをします。

今、地域によっては非常事態宣言が発出されているのですが、あまりにも漠然としています。今まで何回か非常事態宣言が発出されていますので、同じことでは好転しないことは私にも分かります。何度も同じことをしないで、ちゃんと新たな道筋をつけた階梯を歩んでいきたいものです。その旗振り役はもちろん政治家の方々です。リーダーとしての役目を果たしてもらいたいものです。

私が生まれ育った時代、バブル崩壊まで日本は未来ある日本でした。科学の力とか、世界一の技術とか、そういうイメージで育った感があります。バブル崩壊後のおよそ30年間はそうしたイメージが崩れていく日々でしたが、まだ日本は大丈夫だと信じていました。そう教わって育ったからでしょうか、結構根強く信じていた自分に今、気づかされる思いがします。

資源もない、科学技術もない、そんな日本になりつつあることを、このコロナ禍で実感、まさに体感した思いでいます。NECのマイコンでよく遊びました。PC-8801FH。中学時代、親にねだって高価な品を買ってもらいました(納屋でぐーぐー眠っています)。小学校時代、先進的な友人はアップルUというマイコンを所持していましたが、NECはそれにも負けていないように感じたものです。しかし、日本からはとうとう、今のいわゆるGAFAMのような企業は出てきませんでした。ああ

ガラケーという言葉があったように、日本はガラパゴス諸島なんでしょう。まさに言い得て妙です。でも内需が強かった時代が去り、ガラパゴス諸島では経済的な発展は見込めない時代になっているようですね。やたら機能的なトイレとか、個人的には凄いなあって思うのですが、世界的には不要なんでしょうか。この感覚のズレって逆に面白く、日本製が復権すればなあと、かつてのスティクスというバンドの「ミスターロボット」という歌を懐かしく感じる今朝です。

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2021年05月03日

政府はちゃんと「挨拶」してほしい

政府はオリンピックを開催する方向ですが、国民にはこのコロナ禍で開催反対の方も多いようですね。新型コロナウイルス感染の状況を数値だけで捉えますと、世界的に日本は優等生な側面もありそうです。しかし一方、私たち国民としては、だからこそ海外からたくさんの関係者の方が入国されることに不安を覚えます。日本のいわゆる水際対策は甘いとの報道もあります。オリンピック開催が国難となるのか国益となるのか、政府と国民では見方が違うのでしょう。違って良いのですが、国民目線を理解してくれない政府だと不安は増大しますよね。今の政府は究極的に説明不足なのではないかと感じます。

ところで、「挨拶」という言葉はもともとは禅宗の言葉で、互いに相手の心を開いて心のキャッチボールをするというような意味になります。人間関係は挨拶に始まるわけですし、相互理解が何よりも大切です。一方的では絶対に片方が不満になります。政府にはちゃんと挨拶してもらいたいなあと、ここのところ毎日思ってしまいます。

ちなみに私はオリンピック自体にはあまり興味はありません。スポーツはほとんどしませんし、観戦も野球だけです。オリンピックの野球は、かつては社会人野球の選手が頑張っていましたが、いつの間にかプロ化していました。私の世代ですと、まだ「オリンピックはアマチュアスポーツの祭典&共産圏の国威発揚」という印象が残っていますが、今のメインは「商売」ですね。それぞれの種目で世界大会は別にあるでしょうし、オリンピックの位置づけって、「スポーツビジネスの祭典」ってことになるのかなあ。何だか異様にお金もかかるようですし、日本はオリンピックをキャンセルできないとかなんとか、このへんの事情も国民には明確に伝えられていませんし、わけわかりませんね。

posted by 伊東昌彦 at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii