2022年02月08日

親鸞聖人御消息第二十一

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

先日、自坊に「わが家は一向宗(いっこうしゅう)なのですが、法事はそちらのお寺さんで大丈夫でしょうか?」というお電話があり、どこか不思議な思いのなか応対をいたしました。一向宗とは浄土真宗の古くからの呼び方で、私は歴史のなかでというイメージを持っていました。地域によっては一向宗という呼び方が残っていると知らず、失礼な物言いになってしまったかもしれません。電話のあとでこれはしまったと反省しつつ、日頃より杓子定規な言い方をしがちな性分を改めようと思ったことです。

さて、浄土真宗という宗派名をひも解いてみますと、お浄土へ参らせていただく真実の教えという意味合いが出てきます。宗派名というものは、古くはインド仏教における部派名までさかのぼります。説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)ですとか、中(ちゅう)観派(がんは)や瑜伽(ゆが)行派(ぎょうは)などです。もちろん最初はお釈迦様の教え一本なのですが、百年ほどへて教団が分裂しました。なぜ分裂したのかと言いますと、おそらくお弟子さんのなかで、それぞれ重視する側面が異なっていたからでしょう。修行中心の立場であったり、布教中心の立場であったり、教えの受け取り方はそれぞれだったのだと思われます。部派名や宗派名というものは、その重視する立場や教えにもとづいて呼称されています。

一向宗という宗派名には、今回のご讃題とさせていただきました、「念仏往生の願を一向に信じてふたごころなき」、という親鸞聖人の教えが反映されています。念仏往生の願とは『無量寿経』第十八願のことです。第十八願で阿弥陀如来は、「至心(ししん)信楽(しんぎょう)して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ」と誓われています。すべての人々がお念仏ひとつでお浄土へ救われる願い、それが第十八願であり念仏往生の願です。その願を一向に、ふたごころなく信じてお浄土へ参らせていただく教えであるがゆえ、一向宗と呼ばれるのです。浄土真宗ということと意味合いは同じになります。

私たちは今、浄土真宗本願寺派という宗派に属しておりますので、お寺は日本の法律でもそのように扱われます。しかし、この場合はあくまでも法律上、たくさんあるお寺を行政が管轄するための便宜的な分類に過ぎません。浄土真宗の法灯を伝え、本願寺をご本山としていただくのが浄土真宗本願寺派なのですが、教えにおいて浄土真宗とは一向宗のことであり、念仏往生の願を一向に信ずる道です。歴史上、かつて一向宗と呼ばれたというのは、法律上の物言いでしかありません。「わが家は一向宗なのですが」と電話口で仰る声を聴き、「今は浄土真宗と言います」と分かったような口を利いた自分を恥じ、有難くご讃題をいただきたく存じます。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2022年02月01日

打ち込める心こそ大事

2月1日になると自分の中学受験を今でも思い出します。獨協中学は今年、やや人気回復のようですね。OBとして嬉しいな。中高一貫校に行くと、地元友人との交流は薄くなりがちなんだけど、中高時代6年間の友人とは異様に濃くなります。今でも仲良し。

勉強はもちろん大事なんだけど、あの6年間で何かに継続的に打ち込める心を養えたならば、それこそ社会に出て強いと感じます。部活だけではなく、たとえばバンドとかゲームとかアニメでも、何でもいい。振り返れば、そういう打ち込める心を得たやつらは、まあまあ上手く行ってるかなあ。勉強はいまいちであったとしても。

私はちょっと最近その心が薄らいできたようで、自分でも心配です。今年は夢中になっていた自分を取り戻したいなと思っています。獨協中学を受験される諸君に幸あれ。と言いつつも、実は大学受験も今日ありまして、わが浪人中の娘にも頑張ってほしいと思います。

中高時代は楽しかったらしいけど、楽しすぎて勉強の仕方を忘れたようです。学校でたくさん教えてもらったはずなのになあ、何をしてんだかって思いますけどね。そんな娘も6年間打ち込むものはあったようで、それはそれで社会に出てからの糧になることでしょう。

ちなみに勉強に打ち込むのも大いに結構なことだと私は思います。

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2022年01月26日

悪意のない悪は最悪だ

「悪意のない悪」と、「悪意のある悪」、どちらがより問題かと言いますと、仏教では「悪意のない悪」となります。理由は明快で、悪意がないということは、その「悪」に気づいていないからです。「悪」という行為はどちらも問題なのですが、さらにその行為者へ着目した場合、悪い事をしたという自覚がないのは「最悪」です。

車の運転を例にとってみれば、違反をすれば警察に捕まります。免停になることもあるでしょう。違反という行為は道路交通法において「悪」です。道路交通法を遵守することを条件に運転免許を交付されていますから、それを守らない行為は「悪」になります。違反は多いから「悪」であるとか、回数は問題ではありません。違反はすべて「悪」です。

免停の回数が少ないからいいとか、違反しながら道路交通法を学ぶとか、そういう発想や思考には違反という「悪」への認識がありません。認識がないということは、これはつまり「悪意のない悪」なのです。悪いと思っていない。だから最終的に無免許運転という愚行へ至るのです。そういう元議員がいるようですね。

私も違反をしたことがあります。駐禁を切られたり、スピード違反や車線変更違反です。20代の頃ですが免停になったこともあります。恥ずかしいですね。今はゴールド免許になりました。ただし、スピード違反はしていないわけではないので、本当はゴールドとは言えないかもしれません。気をつけています。

悪意がなくなるとはどういうことなのでしょう。その人の立場がそうさせるのか、私には分かりません。しかし悪を認識する自覚がなければ、いつまでたっても悪を繰り返します。自らの愚かさに気づかないからです。どこかで心を翻さないと、その泥沼からは決して脱することができません。廻心して欲しいものです。

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2022年01月18日

学校は人間形成の場

私は地域のロータリークラブに加入しています。ロータリークラブは地域の経営者が集う、異業種間での奉仕と親睦の団体です。会社法人経営の方が多いですが、なかには私のような宗教法人経営や医療法人経営の方もいます。しかし経営を学ぶことが主目的ではなく、あくまでも地域や日本社会への奉仕、ひいては国際奉仕や世界平和がクラブの存在目的となります。言葉をかえれば、ロータリークラブ活動を通じて経営者としての倫理観を高め、職業を通じて人間教育を広めていく場とも言えます。

ロータリークラブには会員交流のために雑誌が発刊されています。この雑誌には全国各地のロータリークラブが紹介され、会員が誌面に登場することもあります。自分自身の職業の紹介であったり、様々な奉仕活動の報告であったり、ロータリークラブの会員として、他の会員の参考になる情報を提供しているわけです。

ある時、この雑誌に有名進学校の関係者の方が登場されました。ロータリークラブ会員とのことで、学校関係は会員としては珍しいので驚きつつ拝読しました。しかし、読み進めるうちに非常に残念な思いになったことです。学校での教育全般について話されていたのですが、力を入れられている部分がどうも東大合格者数のことなのです。ご自身が役職に就任されてから大きく飛躍したと。

たしかに近年は極めて多くの東大合格者を輩出している学校ですが、私が中学受験したときからも優秀な学校であったと記憶しています。なにもそこまで、しかもロータリークラブの雑誌で喧伝することなのか、非常に疑問を感じたことです。もっと教育者として人間形成をどのように考えているのか、社会へはばたく中高生をどのように育てているのか、そういう部分に力を入れて話をしてもらいたかった。たしかに東大合格者数が増えたことは結構なことですが、その価値観の掲揚こそが、今回の東大前での刺傷事件の一因になっているのではないでしょうか。

ロータリークラブは地域の高校と共同で奉仕活動をすることもあります。奉仕活動を通じて立派な社会人になってもらいたいと願うからです。東大合格者数を誇ることがロータリークラブの価値観では決してありません。そして学校というものは、勉強や学問を通じての人間形成の場であると私は信じています。

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2022年01月17日

刺傷事件、とても悲しい

東大前での刺傷事件の報に触れて思いました。ああ、そういう発想になってしまったかと。東大に行けとか医学部に行けとか、それが絶対善のように加害者が大人から言われたことも事件の一因なのは明白です。東大合格者数高校ランキングとか世に出ますし、まるでスポーツを観戦するかのように面白がる大人も多いでしょう。学校説明会で臆面もなく東大合格者数を喧伝する中学高校もあります。異常だと思います。塾なら理解できます。それが役目です。しかし中学や高校という学校は純然たる教育機関であり、東大合格者数で塾生を集めて増収を図る営利目的で存在しているわけではありません。塾だって教育の一端を担ってはいますが、学校とは目的が異なります。社会人として生きていけるよう教育するのが学校です。当たり前ですが、東大進学は手段でありゴールではありません。ゴールは社会人となり一人の人間として生きていくことです。

刺傷することは許されることではありません。まず被害者の方々の救済が先決なことは言うまでもない。そして一方、加害者はこの行為に真摯に向き合わねばなりません。加害者周囲の大人も同じです。加害者は来年東大を受けると発言していたそうですね。刺傷行為に対しては罪を償わねばなりませんが、同時にとても悲しく、加害者がとても可哀相に思えてなりませんでした。昨今の首都圏における教育熱の過剰ぶりには驚きを隠せませんが、教育を履き違えている大人どもは多そうです。

posted by 伊東昌彦 at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii