2019年03月06日

運転に出るその人の精神

車を運転しているとイライラもあります。小心者だから普段は大人しいけど、ハンドル握ると強気になってしまう。嫌ですよね〜。私です。不思議ですよね。人対人だとビビるのに、なんで車対車だと豹変するのか。車内にいるからか、外からは丸見えなんだけど。私のみならず、最近よくドライバー同士のトラブルがあるようで、皆でイライラが募っているのかなあ。

若いころ、やはり悪っぽくするのがカッコいいもんだと思ってました。バンドもやってたし、バンドの人って悪っぽく見える人多いでしょ。でも、いいバンドってのは、どこか真面目なとこがあって、チャランポランに見えても真剣にバンドやってるから曲もいい。主張や精神を精一杯歌詞にしたり、ギターやベースやドラムの求道者にようになっているのは、やっぱり真面目にバンドに取り組んでいるからだと思う。

私が好きなバンドって、着ているもの普段着なんですよ。派手な服装やメイクでいかにもロックスターってのも好きなんだけど(それはそれで真面目だから)、最終的には普段着バンドがいいようになったなあ。まあ、カッコの問題はどうでもいいんですが、心を打つのはそのバンドの精神に共感するからなんでしょう。人はやっぱり精神なんだと改めて思います。

車を運転するってことは、社会において結構重大なことです。下手すれば人命に関わるわけだし、真面目に取り組んで当然でなければならない。社会は多くの人々で成り立っているのだから、そのなかでの行動はチャランポランじゃ困る。固い言い方になりますが、運転だってちゃんと真面目に取り組まないといけない。大事なことに真面目になれるというのは、これはその人の精神によるところも大きいと思います。

マナーの良い運転は美しいし、何よりその人の精神の美しさを具現している。精神が美しいということは、チャランポランではなく真面目であって、初めて成し得ることではないでしょうか。そこに本当の格好良さというものはあるわけで、ちゃんとしているほうが余程カッコいいもんだと、昔々、母親に言われた言葉の意味がこの年になってようやく分かりました。

美しく、格好の良い運転を心がけたいものです。・・・とは言いましても、根が小心な私は運転でトラブルになったことはありません。少しばかり小心のほうが、むしろ良いこともあるかもです。

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2019年03月01日

修正する力

私は結構しばしば、よく間違いをします。昔は間違いをするのが嫌で、なかなか認められなかった。よくいるじゃないですか、そういう阿呆な輩。根拠のないプライドばかり高くってねえ、甘えん坊さんなんですよね。周囲に甘えていたんだと思います。甘えられるのっていい。とても楽。お陰様ですね。

とは言いましても、甘えられる周囲はたまったもんじゃありません。両親や友人、女房(坊守)はとても迷惑だったと思います。しかし40歳も過ぎたころ、周囲を見渡せば甘えられる人も年を取り、女房もいい加減にしろと言いたげな雰囲気を醸し出すなか、ようやく間違えを修正する方法を見出しました。

すごい簡単でした。周囲の人の話を聞くだけ。昔から自己中だったので、とにかく自分本位でした。大事なことも勝手に気分で決めたり、間違いを指摘されれば逆ギレ連発。うわっ出た、最悪なやつ。しかも酒癖悪いとくれば、私でも付き合いたくないと思えてしまう。ははは、こんな人嫌ですよねえ。

宇宙なんて間違いだらけだと思います。間違えるから進化があるのでしょう。間違えを放置しないで即座に修正できるから宇宙が成り立っているような気がするのです。修正する力が働くからこそ、何事も万事進んでいくのではないでしょうか。間違えたら修正すりゃいいんですよ。意外と簡単なことでした。

30代はなんだか生きづらいなあと思えるときもあり、座りの悪さを感じる日もありました。そういうのは結局自分自身の問題であり、自業自得という仏教の教えが身に沁みます。大事に育ちすぎてしまったのか、両親の慈愛に溺れていたのかもしれません。しかしまあ、何という成長の遅さ。呆れますねえ。

修正する力こそ進化の原動力なのだと思います。そのためには傾聴ですね。

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2019年02月15日

宇宙の流れに還る

あの世はあると思います?

私は多分何かしらあるんじゃないかと思っています。とか言って、坊さんとしては極楽浄土なんですが、これも敢えて言えばそう名づけているだけで、世間的な言い方に過ぎません。私は浄土真宗で言うところの、浄土へ還るって言い方がとても好きなんですが、私たちはどっかへ還るんですよ。でも、それはこの宇宙と無関係なところではなく、次元は異なるかもしれないけど宇宙のどこかに関係していると思うんです。仏教では因果応報と言いますが、因果というのは関係性であって、関係性は絶対に継続し続ける。継続すると言うけれど、それは私たちが普段感じているような直線的な時間においてではなく、円になってつながっている。過去や未来というのは直線的なイメージにすぎず、円であれば過去は未来で未来は過去になる。命はおそらく、こうした宇宙の根源的で無限な流れに還っていくのではなかろうか。

私の命は、今、私なわけですが、私じゃないときもあり、無数に宇宙のなかで生きてきている。それはこれからも無限に続いていくわけで、還っては往き、往っては還る。還るまでの過程がどうなっているのかは分からない。幽霊がよく出るらしいけど、幽霊だってもしからしたら何らかの過程であって、何かの間違いで見えてしまっただけにすぎないかもしれない。システムにエラーはつきもので、エラーと修正を繰り返している。幽霊はエラーのたぐいかもしれない。しかし、幽霊が妙に人の姿であったりするのは、どうも変だなあ。私という個性はデータとして命に残るだろうけど、それを私というステージが終わっても表示する意味はまるでない。還るわけだから。やはりそこは生きている人のイメージであって、極楽浄土などの描写と同じように、世間的なイメージなんだと思う。経典は言葉で表現されるものなので、どうしても世間を超えることは出来ない。

私は宇宙であり、宇宙は私なのではなかろうか。一即一切、一切即一、という言葉があるけど、まさにその通りで、私自身が宇宙なんだという発見が仏教にはあるのでした。そして、宇宙は成、住、壊、空を繰り返している。この無限な繰り返しに私は還るのではなかろうか。

宇宙の流れに還るのが死ぬってことなんでしょう。ただ、還るっていうのも世間的なイメージです。

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2019年02月12日

前世と来世‐解脱‐

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/

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2019年02月08日

児童虐待の報に接して

児童虐待が増えているとの報道が今朝ありました。以前も聞いたことです。歴史的に見れば減っているとも言えるのかもしれませんが、現代的には増えているのは明白でしょう。報に接するたびに大きな憤りを感じます。仏教では阿弥陀如来の慈愛を親に譬えることがあります。如来は利他そのものですから、自分を省みないような親の愛をそこに見るのです。しかし、やはり如来と人とでは大きな違いがあります。あたり前のことですが、どんな親でもかつては子です。人はいつになっても経験から抜け出せないところがあります。如来はそうした過去の経験をすべて捨てているわけですが、人はそうはいきません。子であったときに受けた何らかの影響というものが、親になったときの行動指針になっていることは誰でも思うことでしょう。どんなに親が嫌いであっても、同じような親になってしまうということもあるようですし、それこそ経験から抜け出せていないことの証拠だと思います。

私もそうです。父の口癖は「勉強しろ」でした。私は父のように優秀ではなかったので、申し訳ないという気持ちと同時に、こういう親にはなりたくないものだと密かに思っていました。しかし今、私は子に向って「勉強しろ」です。なんだ同じではないか。酒ばかり飲んでいる父でした。ああはなりたくないものだと学生時代に思ったものですが、ああ、今日も酒飲みたいなあと思ってます、酒量は違いますが。基本的にはなかなか変わらないのが遺伝子なのか、良く分かりません。顔や声、仕草も似ているようです。

野田市での事件の父親は、いったいどんな家庭環境だったのでしょう。調べる気にもなりませんが、何かあったんだろうなあと思います。亡くなった子のことを思うと胸が張り裂けそうですが、こうした悲しい事件を少しでも減らすためには、児童相談所の充実や法整備はもちろんですが、基本は家庭環境の向上でしょう。景気が悪くなればこうした事件も増えるわけですが、それでもなお家庭環境を悪化させないため、国はもっと予算を割いてもらいたいものです。子は宝なんだと日本人は長年思ってきていること、今こそ忘れないでもらいたい。

posted by 伊東昌彦 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii