2019年01月15日

Rockをもて仏教す Part7

Rockをもて仏教す Part7

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。前回のBad Religionと同時期に好きになったThe Offspringから、The Kids Aren't Alrightです。

When we were young the future was so bright
The old neighborhood was so alive
And every kid on the whole damn street
Was gonna make it big and not be beat

Now the neighborhood's cracked and torn
The kids are grown up but their lives are worn
How can one little street
Swallow so many lives

なんともまるで今の日本だなあと思えてしまう冒頭です。昭和48年生まれの私からしますと、ああ、そうかもね、と昔が懐かしんでセピア色。私が生まれ育った街も様変わりしたことでしょう。一緒に遊んだ仲間たちはどうしているかなあ。1人も消息知らんなあ。小学校入学から仲良くしてもらったH君、明るい未来を歩んでくれているだろうか。でも多分、40代になればそれぞれ皆モヤモヤ抱えながら生きてるんだろうなあ、と思わず哀愁漂ってきてしまいます。The Offspringも「泣きコア」ですからね。うんうんと大きく頷いて涙目でも構いません。

諸行無常なのです。平家物語そのものがこの世であり、鐘の音のように響いては消えていく。桜の花のように、美しく咲いては散ってゆく。桜の花は、明日は嵐が吹くかもしれずとも、それでも文字通り懸命に咲いています。散り際に美しさを見るのは、日本人の情けでしょうか、それとも達観した美徳とも言えるでしょうか。私には良く分かりませんが、世の東西を問わず、諸行無常であることは普遍です。仏教は現実直視の世界観を持っています。現実の苦悩からの脱却として、苦悩の原因を自己のみへ求め、瞑想修行によって自己解決に至るのがインド仏教です。直視して修行スタート。

パンクロックはとても現実的です。私はパンクロックが大好きです。

posted by 伊東昌彦 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 六賢楼 -rock'n'roll

2019年01月12日

ストレスフルな坊さん

40代ってのはどうも悩み多いですね。20代は親に甘えて、30代はいきがって、40代になってへこんでます。幸い子を授かったので子の進学、両親も幸い健在なのですが健康不安、おまけに肝腎の寺院経営も不安定と、皆さんも同じだと思いますが、これで50代さらに60代はどうなってしまうのか。もとより性根がないというか、フラフラしがちな性格で、そうかと思えば自己主張好きという困ったちゃん。主体性をもって生きているつもりなんですが、どうも人のことも気になるという、扱いにくい野郎なのです。女房も大変だろうなあと思います。そして実際大変そうだ。

先日、箱根であった新年会でのこと、お隣の方と話をしていまして、「ホントの話、ストレス解消って酒以外に何かあります?」って話題になりました。ないんですよね。マジでないんです。そりゃ色々とご意見あろうかと思います。スポーツやれば?とか。ぜんぜんやる気になんかならないし、わざわざ時間作るのもねえ。だったら一杯やるわってなっちゃう。でも飲み過ぎはよくないし、最近どうも二日酔いが激しくて翌日もよくない。ストレスあるから酒も進んでしまう。絵に描いたような悪循環。

仏教は本来出家主義なので、こうした世俗浮世のことは捨てて、修行に邁進するのが解脱への道だと説きます。まったくその通り。でも浮世離れしてしまっていて、これじゃあんま普通の人の悩みに応えることができない。途中から大乗仏教ってのが出てきて、これは利他を強調するのですが、普通の人が救われていく道も説くようになった。出家も大事なんだけど、在家にも注目が集まるようになって、日本仏教では在家主義も根づくようになった。浄土真宗の坊さんは出家しないから在家なんです。つまり私は坊さんでありながら普通の人で、浮世どっぷり坊主なのでした。

坊さんが修行のストレスならまだしも、日常生活や家族のことでストレス抱えるなんて笑っちゃうけど、日本仏教ではむしろ現象としてよくあることなのです。日本仏教は浮世において仏教しろって言うわけだから、意外と難しい面もある。坊さんが法衣のまま車運転して反則切符とか何とか話題になったけど、すごく浮世で笑えない。私も葬儀会館や火葬場行くのに運転するから。でもまあ、法衣のうえに作務衣でも羽織って、なおかつ運転用のスニーカーでも履いてれば問題ないので、ご当人は気の毒だけど、安全面も考えてこうすることにしました。すごい浮世。

でもこれ大事なことで、だから日本仏教はダメだとか、そういう意見には意味がない。出家主義が日本には根づかなったいことは事実だし、性に合わないんでしょう、日本人の。お釈迦様の説かれたところとは違うんだけど、それもまあいいんじゃないかと思います。日本仏教はこうして成り立ってるんだから、それでそのまま行ったほうが意味あることだと思う。宗教ってのは流れも大事だし、急に上からああだこうだと言うのは宗教として危険。上から目線の宗教ほど危険なものはないので、それは控えるべきでしょう。

現在はツイッターのような短文傾向ですが、どうも短文で表現できるほど国語出来ず、いつも長文化してしまいます。ツイッターで発信する人って俳句や短歌に強いと思うなあ。私は苦手だけど。センスあると思う。で、今回は何を言いたかったかというと、今年もストレス解消に悩みそうだなあということでした。好きなことやるのが一番なんだけど、ストレス多いときって、どうも好きなこともやる気にならないことあるので、早めにやってしまうのがいいかも。今、任天堂DSのファイナルファンタジー3やってます。毎年やろうやろう思って買ってあったんだけど、ぜんぜん進んでなかった。

でもこれ、リメイクなんだけど基本古いRPGだからか、レベル上げを意識しないとクリアできないから大変。昔、獨協中高時代の友人K君が中2か中3の頃これやってて、あまりにも理不尽な難度に憤慨し、コントローラー投げる程度ならいいものの、本体のファミコンを破壊したという逸話があります。ラストダンジョンの難易度はリメイクで下がったようですが、気持ちは分かります。その彼も、いまでは立派に飲食系のご家業を継いで、六本木で獅子奮迅の活躍を見せています。中学のころ、K君の家によく遊び行って(六本木だからか妙に大人になった気分ww)近くのゲーセン(たしかスクエアビルの1F)でストリートファイターをやった。ストUじゃなくて初代のやつね。しかも思い切り手で叩くっていうアレ。K君うまくてねえ〜

posted by 伊東昌彦 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2019年01月02日

本年もよろしくお願いいたします

皆様、本年もよろしくお願いいたします。かつて私が坊さんなりたて20代の時分、浄土真宗では「良いお年を〜」とは言わんのだ(→年に良いも悪いもないから)、とある先生が仰っていたのを拝聴しました。ついでに「あけましておめでとう」とも言わん(→新年になってもめでたいことはないから)、とのことでした。若い私はなるほど、素晴らしいこれこそ仏教なのだと合点したものです。たしかに良し悪しというのは自分自身に帰属するものなので、良い年や良い日があるわけではないというのは実に仏教的です。

そのせいもあるのか、今でも年内はどうも挨拶に困ってしまうときがあります。年末はたいてい皆さん「良いお年をお迎えください〜」ってなるので、そうなると20代の刷り込みが効きまして、思わず「あっ、有難うございます」と適当な返答になってしまうのです。間違ってない返答ですが気が利かないですよね。浄土真宗ってのは傍から見ると髪の毛フサなので軟弱な印象を受ける方もいるかもしれないのですが、意外と教えには頑固なところありまして、妥協は許さぬという、何とも厳しい掟のようなものがあるのかないのか。

クリスマス頃にディズニーランドに行きましたら、出会うキャスト出会うキャスト(→ディズニーランドではスタッフをキャストと呼ぶのだと女房から伝授)、皆さん「ハッピーホリデー」と声を掛けてくれました。昔は違ったかと思います。数年前からなのかもしれませんが、今回はとくに印象深かった。これは長年アメリカにおられた先生から教えてもらいましたが、「メリークリスマス」だとキリスト教徒だけなので、他宗教の人々に配慮してクリスマス休暇でも使用されるようになった挨拶だそうです。ディズニーはアメリカン。

挨拶でも色々と宗教事情が関係してくるもので、やっぱり宗教は生活に深く関わっているものなんだなあと思います。そもそも「挨拶」だって仏教、とりわけ禅で使われていた言葉ですし、こういうのもっと発信していかないとわけわからなくなってしまう。「挨拶」は相手の心を見極めるという意味だったかと思うので、実は返答こそが大変重要なわけです。なので年末での上記のような私の返答では、何だか適当な返答だなあと思われることとなってしまい、修行が足りんということになるでしょう。

一般的には「良いお年を〜」と同じ言葉を返すのが穏当なわけですが、仏教的には「良し悪しなし!」とかいきなり返答すれば良いのでしょうか。多分、相手の方は焦りますよね、気に障ること言ったかなって。かつて臨済の山田無文老師がある講演会の質疑応答か何かで、「あの世はどんなところでしょうか?」と尋ねるおばあちゃんに、いきなり「ない!」と返答したとの逸話を聞いたことがあります。おばあちゃん焦ったろうなあと思いますが、禅としてはたしかに「ない」なんですよね。諸々の存在というのは、人が普段使っているところの「ある・なし」ではないからです。

とは言ってもねえ、もちろん老師もその後フォローされたと思いますが、返答ってのは大事だもんだなあというのが「挨拶」の本義から窺い知ることが出来ます。で、「良いお年を〜」に対する返答はと言いますと、浄土真宗としては相手の気持ちを有難くいただき、「有難うございます」と答えつつ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を添えるのがひとまず穏当でしょうか。うまい返答が見つかりません。浄土真宗の場合、「南無阿弥陀仏」がオールマイティ性を発揮してしまうので、言葉は悪いですが面白味に欠けるかもしれませんが、教えにも適っているとは思います。

私たちは、良し悪しとは本来、自分自身に帰属するものであるにも関わらず、それを年や日のせいにしているところがあります。今年は良くない年だからとか、そんなのまともに考えればあるわけないことです。でもなあ、どうしても責任転嫁したくなりますよね。何でも自分でしょい込むのは辛い。それが現実なんだと分かったときはもっと辛い。「一切皆苦」と仏教では説きますが、ああ、ほんと苦しいこと多いなあと40代も後半になってつらつら思います。阿弥陀仏という仏様は、もとよりこんな私たちを救うためにいらっしゃるので、だからこそ阿弥陀仏におまかせしましょう、ということで「南無阿弥陀仏」なのでした。

あなたにとって「良い年」になりますように、という意味を含んだ「良いお年を〜」という挨拶ですが、実のところ嫌いではありません。仏教的にはちょっとなという側面もありまして、このように考えてみたくなったわけですが、何とも日本人的な奥ゆかしさがあり心地よい響きだと思いません?

posted by 伊東昌彦 at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2018年12月24日

年末は宗教ラッシュ

今日はクリスマスイブですね。私、クリスマス大好きなんですよ。世代なのか分かりませんが、もう無性に嬉しくなってしまう。サンタさんにプレゼントもらったからでしょうか。親には感謝しないといけません。そして不思議なことに、クリスマスが終わると一気に日本は大晦日〜お正月。この変わり身の早さは日本的だなあと感心します。キリスト教、仏教、神道、年末には色々な宗教が登場して面白いですよね。こういう催事は楽しみたけりゃ楽しめばいいし、嫌なら無視していれば過ぎていくものです。テレビなんか見なけりゃいいわけですから。まあ、街中の雰囲気は如何ともし難いですが、そこはまあ我慢しましょう。

ただ、宗教の本質はもちろんこうした催事化した部分ではないわけで、人生のいつか、それがいつかは分かりませんが、宗教が必要なときが誰しもあると私は思います。理性だけでは行き詰ってしまうときなんかも、やはり宗教は必要なんだと思います。日本の公教育には宗教が原則的にはないから、宗教は宗教施設や家庭などで教わらないといけない。宗教っぽものは溢れている日本なんだけど、どうも深入りしないのが日本人的感覚なのでしょう。畏怖の念というやつかもしれません。さらぬ神に祟りなしとも言えるでしょう。宗教は大事だけど、ある程度の距離を取っておきたいなあという心情かと思います。祟り怖い。

それもまあいいとは思いますが、宗教にはせっかく人生の歩みに役立つような思想があるのだから、ちょっとぐらい拝借したほうがいいかと思います。仏教だって除夜の鐘やるでしょう。あれは煩悩ってのを打ち消すためだと言われるけど、煩悩ってのは何なのか。どうやら皆にあるようなもので、あまりよろしいものではない。自分自身のものなんだけど、それが自分自身を苦しめているという。なんともまあ人間というものは矛盾極まりないものだということが分かります。煩悩は簡単には捨てられず、だから毎年、除夜の鐘が開催されるのでしょう。自分で自分を苦しめているのだ、というのは多くの伝統宗教で説くところかもしれませんね。

posted by 伊東昌彦 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2018年12月12日

おじさん的な感動の仕方

皆さん、『マイティジャック』という特撮をご存知でしょうか。『マイティボンジャック』ではなく、円谷プロ制作のほうです。私はウルトラマンな世代(しかも幼稚園でタロウかレオがリアルタイム)なので、名前しか聞いたことなかったのですが素晴らしい作品ですね。発進するとこが『宇宙戦艦ヤマト』のようで、私はヤマトのオリジナルかと思っていましたが違いました。また、『Thunderbards』のあと数年で作られたらしく、これまた凄いなあ。

おじさんになったせいか、どうもCGばっかりだと感動が薄れるんですよね。CGも好きなんですが、質感はまだ本物にかなわないですし、作り物感があふれていても特撮のほうが感動してしまう。なんでかなあ、CGだって製作している人は大変な努力をしているはずなんだけど、特撮のほうがそれが伝わってくるですよね。まあ多分、私がそういう世代だからなんでしょうが、心が伝わりやすいってとこもあるかなあ。おじさん達の努力がにじみ出ている。

心の伝わり方ってのは、おそらく世代によってかなり違うんでしょう。最近は他にも、ファミコンで高度なグラフィックを実現していたゲームに感動しました。おじさん的な感動の仕方だと思います。
posted by 伊東昌彦 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii