2023年05月31日

世襲が増えましたね

跡継ぎというものは、血縁で継承しなければならない家業の場合、その親にとって重要です。ただ、実のところ血縁での継承が前提となる家業というのは、そんなものあるのかな。少なくとも私は知りません。親のDNAを継承しなければ業務上不具合を来すなんて、そもそもそんな事業は存在しないでしょう。

これはつまるところ、親が自分の得た業務上の立場や特権を、そのまま子に継承させたいということなんだと思います。まあ、そりゃそうですよね。そのほうが親も余生が気楽だし、思い残すところも少なくなるかも。

たしかにその家庭で育つことが、その家業を継承するのに有利なことはあります。お寺はまさにそうで、お寺で育ってお経を幼少の頃から習えば、得度(=僧侶の資格をいただく)するときに楽です。大人になってから暗誦するのは結構大変だと思います。古典芸能の家であれば、この傾向はより大きくなることでしょう。親が頑張っている家業を継ぎたいと思うことも、その子にとって自然な感情とも言えます。問題はありません。

もちろん、自分の子じゃなくても良いわけです。弟子を取れば良いのです。しかし子に恵まれていて、その子がやる気であるならば、親としてはその子に継承させたくなります。世襲ですね。

ところで最近、各界で世襲多いですよね。お寺だって、明治時代になるまでは浄土真宗以外の宗派は世襲ではなかった。それが今では、だいたい世襲です。経済界も、政界も、芸能界も、印象ですが増えたような気もします。スポーツ界は、これは結構難しそう。実力が数値で出ますし。開業医の先生にも多いですよね。意外かもしれませんが、学校の先生にも親子ともに先生という場合も見られます。

善福寺も子に継承してもらいたいのですが、導くのはとても難儀なことです。甘やかしすぎないよう、気をつけたいと思います。それを再確認させられるようなニュースが連続してありました。亡くなられた方々は、本当に無念なことだった思います。お悔やみ申し上げます。

政界のほうは、、、日本の行く末が心配になりました。大丈夫かな。

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2023年05月30日

指導死という言葉に触れて

インターネットでニュースを見て、「指導死」という言葉を知らなかったので調べてみたところ、多くの事例があることが記されていました。今に始まったことではなく、かつ、どの学校にもということではありませんが、学校の先生のなかには指導不適格な人物がいることは頷けます。

敢えて言いますと、学校の先生は児童生徒にとって、学校、とりわけクラスではまさに「天下」です。

以前、PTA活動を通じて知り合った校長先生が語っておられましたが、「教師は良くも悪くも学校しか知りません。多くの教師が大学を卒業して、そのまま学校へ就職しています。他業種を知る機会のないまま、ずっと学校にいるわけです。若い先生方には他業種の方の話を聞いたり、体験する機会をもっと持って欲しい」という趣旨であったかと記憶しています。

世間知らずになるなってことです。情報を得るためのアンテナはいつも立てていましょうと。閉じたなかにおいては、熱意もいつしか傲慢になるかもしれません。

行き過ぎた指導というものは、往々にして傲慢です。そうならないことを願います。

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2023年05月19日

煩悩即菩提

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という仏教用語があります。煩悩とは心身を悩ます悪い精神作用のことですが、それは菩提、すなわち仏のさとりと、そのまま離れることがないと説かれるのです。煩悩については、私自身の心のあり様を観察すれば具体的に分かります。毎日毎日、繰り返し心に現れる困った存在、たとえば自身の愚かさや貪りや怒りといったもので、他にもたくさんあります。嫉妬心や傲慢心もそうです。

大乗仏教では基本的に瞑想修行によって煩悩を消滅させていくことが推奨されまして、段階的に煩悩が消滅しては転じて部分的ながら智慧となり、その智慧によって完全に煩悩を消滅させた状態をさとりと言います。智慧によって真如をさとります(真如とは、物事のあるがままのすたが、とか言われますが省略します)。智慧とは物事の善悪を正しく見定める作用です。煩悩が完全に消滅した最終段階で智慧は完成し、同時に仏に成ることができます。したがいまして、さとるということの内実は智慧であり、それが菩提に他ならないことになります。

さて、こうした流れは私がさとりへ向かう際の見方、言うなれば人目線によるものですが、この向きを変えて、仏の立場から煩悩あふれる私を見たとすれば、次のようになります。すなわち、人は煩悩があって悩み苦しんではいるものの、それが縁となるからこそ、悪に対する善の精神作用によって正しい方向へ進もうとするのであり、仏の教えを聞き、それが智慧を獲得することにつながります。言い換えれば、煩悩があるからこそ仏に成ることができるのであり、結果的に見れば煩悩と菩提とは切っても切り離せない、表裏一体と言える関係であったとも言えるのです。

これはあくまでも仏と成ってからの見方、人目線に対しての仏目線ではありますが、似たような事態は私たちの人生においてもあるでしょう。辛く悲しい経験であっても、それがあったからこそ今の自分があるのだと思えることはあります。辛く悲しいときはそんなことは分かりません。しかし、振り返って見るならば、つまり立場が変わったのであれば、別の角度から冷静に見つめることもできるわけです。煩悩即菩提とは、このような見方に立った教えとなります。ただし、教理としてこれを知っておく意味はありますが、煩悩があれば良いと安易に理解することは危険ですので、慎重な受け取りが必要なことは知っておいて下さい。

なお、大乗仏教の唯識思想においては、すべての事象について、有為法(ういほう、→私たちが普段感じているこの世界、変化をし続ける相対的なもの)と、無為法(むいほう、→真如、変化を超えた絶対的なもの)に分類します。有為法と無為法の関係はと言いますと、有為法の本性が無為法になります。本来は無為法しかないのですが、私たちの心の動きにおいて有為法が存在していることになります。悪の精神作用である煩悩は当然、有為法となるわけですが、善の精神作用、そして智慧もまた有為法とされます。完成された仏の智慧も有為法であるというのは、智慧は私たちにおいて作用するからです。煩悩であっても、智慧であっても有為法であり、その本性は無為法、すなわち真如となります。つまり、こうした唯識思想の観点からしても、煩悩即菩提ということが明らかにされるのです。ちなみに唯識思想のこうした分類は、高度な仏教教理に基づいた深い瞑想によって仏に近づいた結果、ようやく得た知見なので、煩悩あふれる私たちの目線ではないことは言うまでもありません。

そして最後に、これは重ねて気をつけねばならないことなのですが、迷いのさなかにいる私からは、煩悩即菩提とは言い得ません。煩悩即菩提は、あくまでも仏の立場からの見方であり、ここを混ぜ合わせてはいけないのです。煩悩あふれるこの身の上からは、即菩提は決して出てこない言葉です。そのつもりで受け取らなければ、自分自身を真摯に見つめることが出来なくなってしまいます。とりわけ私たち浄土真宗においては、何事も私たち人の立場から語ることを教義的前提としています。私たちの仏教理解として、私においてどうなのか、私から見て仏、浄土真宗で阿弥陀如来はどうはたらいて下さるのか、そこが教義の屋台骨を形成しています。煩悩即菩提ではあっても、私は煩悩のまなこに遮られ、その真実のあり様にまったく気づくことが出来ていないからです。

浄土真宗においては、阿弥陀如来の本願他力のはたらきにより私が救われ、煩悩ある身でそのまま往生浄土、即座に菩提を得ることが出来ると説かれます。たしかに、煩悩ある身であることに気づかされ、はじめて阿弥陀如来に出あうことが出来るのですから、煩悩が菩提を得る縁になっていることは間違いありません。しかし、これを私の目線において語ってしまいますと、煩悩が際限なく肯定されてしまう恐れがあります。この点を逸脱してしまうと浄土真宗とは言い難くなってしまいますので、どんな仏教用語に臨むときでも、私たちはよくよく肝に銘じておきたいものです。合掌

浄土真宗本願寺派 善福寺住職 伊東昌彦
東洋大学博士(文学) 仏教学専攻

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2023年05月12日

伝統って言うけど、ほんとに古いものなの?

伝統という概念は厄介な一面もあり、場合によっては強制力を発生させることもあります。伝統だから無批判に続けていることもあるでしょう。なぜそうなのか、誰も理由が分からないのに続いていることもあります。続けていることを中止するというのは、とても勇気がいることだからです。

宗教には伝統はつきものです。仏教においては僧侶が着用する袈裟も伝統的なスタイルですが、袈裟は起源も変遷も明確なので問題はありません。宗派で規定されている伝統的な物事を見ますと、多くはそうである理由が明確になっています。

厄介なのは規定のない、地域性・習俗性の高い事物です。これは宗派のような組織が管理しておらず、地域のボランティアによって継続されているだけなので、「何となく伝統的だからそうである」ということで、無批判に継続されていることもあるでしょう。誰も中止できないので仕方なく続いている。

宗教において伝統的と言えば、古くは奈良平安の頃から、やや古くて江戸の頃からというイメージが多いでしょうか。明治大正だと新しいイメージかもしれません。昭和は最近ですし。しかし、全国各地に色々と存在している、伝統的と一般に思われている地域性・習俗性の高い宗教事物というのは、意外と明治以降に形態の整った新しい事物も多いようです。その起源はたしかに古くとも、それが継続されてきたという確固たる証拠もなく、どういう形態であったのか不明であったり、ぼんやりとした言い伝えしか残っていない場合もあるでしょう。行われている理由についても、実は後付けであったりすることもあります。

伝統を守ることは、それに関連する地域や人々の生活習慣や思考を今に保存することになるので、私は出来る範囲で大切にすべきだと思います。しかし、その伝統が現代の価値観にそぐわない場合もあるでしょうし、批判が多くあるような事物については、現代の価値観に合わせて内容を可能なかぎり改訂するとか、保存技術も高度になっている現代において、それを丸ごと保存することも十分可能かと思います。

そしてまた、そもそもそれが本当に多くの人が思うような伝統的な事物なのか、今一度検討してみることも大事かと思えます。実は意外と最近のものかもしれません。それを伝統的と捉えるのかは、もちろん主観に関わることではありますが、批判があるようであれば検討しても良いはずです。

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2023年05月09日

境内一部車両通行止めのお知らせ

≪お知らせ≫
本日5/9(火)〜5/12(金)まで、山門参道向かって左側からの駐車場は道路工事のため通行止めになっております。お車でお参りの際は右側の駐車場をご利用下さい。なお付近に工事車両が停車しておりますので、十分お気をつけてのお参りをお願い申し上げます。ご不便をおかけしまして申し訳ございません。合掌

善福寺住職 伊東昌彦

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2023年05月04日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2023年05月02日

親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要

ご本山(西本願寺)で「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が修行されまして、私と坊守(女房)で参拝してきました。久しぶりの京都となったわけですが、ご本山に来ると懐かしい気分になります。30年前の得度(坊さんの資格をいただく)のときを思い出すのか、はたまた阿弥陀様の本願力によるものなのか、とても不思議です。得度のときは一刻も早く家に帰りたかったものですが、今回はもう少し本山に滞在したかったなあという気分でした。

法要案内サイト↓
https://www.hongwanji.or.jp/850800houyou/

ご本山参拝のあと、親鸞聖人の先輩である信空上人ゆかりの浄土宗大本山・金戒光明寺にもお参りに行きました。威厳のある山門やご本堂の佇まいを目の前にしまして、お若いころの親鸞聖人や信空上人が浄土教について学ばれていたことに思いを馳せながら、帰宅したら勉強をしようという思いがこみ上げてきました。有難いことです。 合掌

金戒光明寺サイト↓
https://www.kurodani.jp/

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