2020年02月27日

楽友会中止のお知らせ

楽友会ご参加の皆様、日頃より大変お世話になっております。さて本日開催の楽友会ですが、イベント開催に関します政府発表もございましたので、急遽中止とさせていただく存じます。当日のお知らせになりましたこと、お詫び申し上げます。来月につきましては状況を鑑みまして、またご連絡申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。

善福寺住職 伊東昌彦
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2020年02月21日

お寿司屋さんのカウンター

小田原のお寿司屋さんに行きました。檀家さんに連れて行っていただき、あまりにも美味しくて家族でも行ったのです。いわゆる昔ながらのお寿司屋さんで、大将と言うのでしょうか、カウンター席では気風のよいマスターが面前で握ってくれます。実のところ、わが家の子はこうしたお寿司屋さんのカウンターにまともに座ったことがなく、事実上、初めての体験であったと思います。マグロと納豆巻しか食べない次男(小学生)には少々辛かったかもしれませんが、長男はかなり満喫してくれたようです。残念ながら娘は塾で不参加でしたが、いつか連れて行きたいなと思っています。

しかし小田原と聞きますと、お寿司屋さん多そうなイメージがあるかと思いますが、今は8軒しかないそうです。かつては80軒もあったそうですが、今は8軒。すごい減りようですよね。回転寿司は増えています。私は回転寿司も好きなので別に回転寿司のせいだとは思っていませんが、たしかに値段的には勝負にならないところありますよね。でも、回転寿司と昔ながらのお寿司屋さんってのは、同じ寿司ではありましても、味はさておき、食べるまでの手続きはまるで違います。そう考えますと、単純に回転寿司のほうが安いからと言うよりも、むしろその手続き、つまりマスターとのやり取り自体、さらに言えば人と人とのコミュニケーションの変化に問題があると言えるでしょうか。

物とインターネットが接続されるIoTの時代到来と言われますが、私たち生物がインターネットと直接接続されることは当分不可能でしょう。かならずこの五感のどれかを通じて、インターネット上の物事と接触するしかないわけです。どこまで行ってもアナログですね。アナログの感覚を捨ててしまうと、私たちはいつか、本当にデジタルなインターネットの世界に支配されてしまいそうです。電気機器が全部インターネットとつながっても、電源プラグを抜けばその機器はシャットダウンします。バッテリーがあっても、充電されなければエネルギー切れでシャットダウンです。電源プラグ抜くなんて、なんてアナログなことなんでしょう。でもそういう方法が残っていないと、インターネットの暴走は防げそうにありません。コミュニケーションはアナログの最たるものです。そこを捨てるということは、人をやめることにもなりかねません。

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2020年02月07日

小中一貫校と中高一貫校

小中一貫校(小学校と中学)、皆様も最近聞かれたことあるかもしれません。国や都道府県は既存の公立小学校と公立中学校を再編し、あらたに9年間の公立小中一貫校の設置を推進しています。少子化が進むなか、どの地域でも学校統廃合は課題となっています。統廃合によって小中一貫校を新設することも多いようです。当然ながらメリットもあるでしょうし、デメリットもあろうかと思います。公立小学校と公立中学校を一貫化することは、いずれも管轄が市区町村であることから難易度は比較的低いでしょう。都道府県が推進してはいても、1つの市区町村の教育委員会と行政と議会で決めることができるからです。

一方、公立の中高一貫校(中学と高校)という存在を、皆様はご存知でしょうか。これは主として既存の都道府県立高校をもとに、簡単に言えば都道府県立中学校をそれに加えて成り立っています。中高一貫(←ここでは高校入学が可能な学校も含めます)と言えば、私のような年代ですと私立と国立しかなかったように思います。私立は独自教育を掲げての中高一貫であり、国立は国立大学の付属ということで実験校としての存在です。私立はたとえば慶應義塾であれば小学校と大学も含めて16年一貫という場合もあり、国の方針に基づいていないということは明白です。福沢先生です。国立中高一貫校は東京だと東大教育学部付属、学芸大附属、筑波大付属があります。いずれも教育学と関わりのある学校です。実験的に共学であったり別学であったり、色々な形態が用意されているようです。東大合格者の多い筑波大付属駒場は男子校ですね。

都道府県の設置する公立中高一貫校は、こうした私立や国立の中高一貫校と形態は同じもので、選抜制なので入学するには試験に合格しないとなりません。巷の小学生向け進学塾では「公立一貫校コース」を設けているところも増えてきました。私立や国立の中高一貫校を目指す小学生と同じように、それなりに早い時期から受験勉強を始めないと合格することは難しいのが現状です。ちなみに都市部を中心に中学受験が過熱している背景には、こうした公立中高一貫校の増加があります。都道府県のなかには、小中一貫校化を推進しながら、同時にこうした中高一貫校を設置しているところが増えてきているのです。

しかし、この2つの形態はいずれも一貫校でありながらも、内実としては相当に存在意義が異なります。小中一貫校は地域にある一般的な学校で、中高一貫校は大学進学を前提とした進学校です。中高一貫校は大学受験に有利だと言われます。小中一貫校化のメリットを喧伝しておいて、同時に選抜制の中高一貫校も自前で設置している。たしかに私立のようには費用のかからない公立において、色々な形態の学校を用意することは意義あることと思います。勉強をしたい子にとっては、選抜制であっても進学校である中高一貫校は魅力的です。それで費用が比較的かからないとなれば、これは本当に有難いことです。それは理解できることなのですが、独自教育の私立や、実験校としての国立ではない、日本では広く等しく教育の機会を与える役割のある公立が、同じ一貫校でありながらも、あからさまに形態の異なる2つの存在、つまり地域の一般校である小中一貫校、そして進学校としてエリート教育をする中高一貫校という2つの形態から成り立っている、もしくはそれに向かっているという現状に、余計なお世話ながら不安を覚えます。

もちろん、現状においても都道府県立の公立高校には入学試験があり、大学進学実績の優れた高校もあります。しかし、現状では公立中学校から、高校進学を目指す皆が同じようにそれぞれの学校の入学試験に臨みます。これは機会において平等です。中高一貫校も公立小学校から出願可能ですので、一見すると同じように機会において平等かのように見えるのですが、現実は違います。中高一貫校は今、非常に人気の高い学校です。人気があれば試験倍率は上がります。県立高校は中学校での成績によって志望校を決めますので、倍率が実質5倍なんてことはないでしょう。しかし中高一貫校は実質5〜6倍なんてこともあるのです。私立や国立であっても、なかなか実質5倍にいきません。2〜3倍程度です。これはものすごい倍率なのです。合格するためには、少なくとも私立や国立を目指す子たちと同じ程度の勉強を、進学塾で早期から始めないと難しい。進学塾は費用がかかります。高校受験でも塾代はかかりますが、中学受験のほうが費用はかさみます。費用を出せる家庭は出せばいいのですが、仮に小中一貫校と中高一貫校が併存している場合、こうした受験対策が可能な家庭の子だけ、小中一貫校を途中で離脱するかたちで中高一貫校を目指すことになります。そして、大学進学実績の優れた公立中高一貫校に優秀な生徒を集まれば、その都道府県において、既存のトップ公立高校の学力レベルは相対的に下がることでしょう。トップ公立が入れ替わることすらあるかもしれません。そうなりますと、公立中高一貫校に合格するための進学塾費用を捻出できない家庭の子は、いくら成績が優れていてもその地域のトップ公立には入学できないという事態になります。

こうした状況が全国的に広がり盛んになったらどうでしょう。校数の少ない私立や国立ではなく、全国各地にほぼまんべんなく広がる公立において、一般校とエリート校の二極化が出現するのです。子は日本の将来です。全国各地で二極化教育が実施されれば、それがそのまま日本の社会を基礎づけることになります。つまり、日本の社会も明確に二極化されるということになるかもしれません。全国的に広がらなければ、それほど問題にはならないことでしょう。都道府県が勉強の出来る優秀な子により高いレベルの機会を与えることは社会的にも良いことですし、私も反対はしていません。ただ、全国的に広がったら…。日本全国、小中一貫校を途中で離脱していく子たちが増え、その子たちは残った子たちとは別の道を歩むことになる、なんてまるで別の国のような状況が身近になってしまうかも。小中一貫9年+高校3年、一方では小中一貫校途中離脱6年間+中高一貫6年という、同じ公立校でありながら、こうしたまったく異なる教育課程が併存することになります。ちなみに多くの生徒が高校進学する時代、9年+3年はアンバランスに思えてなりません。既存の6年+3年+3年で十分で、もし中学1年生になるとき、急激な学習段階のアップなどで問題となるならば、小学校と中学校の連携をもっと深めれば問題解消につながるのではないでしょうか。

なお、この記事においては、中高一貫校であっても高校からの入学も可能な学校も一貫校として含めましたが、昨今、公立中高一貫校であっても、高校からの募集を停止するところが出てきています。私立にそういう動きが顕著ですが、公立も私立の後追いを始めたわけです。なぜ日本の公立でこうしたエリート校を作ろうとするのか、私にはまったく理解できません。たしか日本ではエリート校を公立では作ってはいけない、という決め事のあることをどこかで見たような気もしますが、何かの見間違いだったのかもしれません。いずれにしましても、公立はこんなダブルスタンダードのような真似事はせず、もっと勉強意欲のある子に返済不要な奨学金を用意すべきだと私は思うのです。公立中高一貫校に合格するため、多くの家庭が進学塾に費用をかけるような状況を作り出すよりも、よほど健全です。ちなみに公立中高一貫校がたくさんできれば、私立一貫校も経営が圧迫されることになるでしょう。民業圧迫という点でも問題です。奨学金を与え、その意義を理解させた上で使命感をもって学ばせたほうが、より日本のためにはなるように思います。

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2020年02月05日

わが家での節目が終えました

今日は2月5日です。あまり知られていませんが、中学受験がほぼ終わりを告げる日なのです。それぞれの家庭によって教育方針は異なります。わが家は宗教関連学校に通学させたいという考えがあり、3人とも受験をさせました。本人たちは迷惑であったかもしれません。とくに長女は今でも私が厳しすぎたと批判的です。その度に私は謝っています。実際、そうであったと反省をしているからです。ただ、受験をさせた意図は理解してくれていますし、今の学校で出会った友人や部活には満足してくれていると思います。肝腎な宗教教育については、これまた効果あったと私はほくそ笑んでいます。と言いますのは、長女はプロテスタント系の学校なのですが、聖書の授業を受けたことにより、キリスト教と日本人の感性について自ら感じるところがあったようだからです。

長男はカトリック系に通っています。長女の学校に比べて宗教的儀式への参加は緩いようですが、倫理の授業ではキリスト教から西洋哲学、そして東洋哲学や仏教思想まで扱ってくれているようです。長男はアカデミックな側面からそれらの思想に興味は多少持ってくれているようですが、ミサや黙想をする会にはまったく興味を示してはいません。彼なりの思いもあるようなので、私からは何も指示はしないことにしています。そして次男がこの度、受験を終えまして何とか宗教教育のある学校に合格することが出来ました。当初は仏教系を志望していたのですが及ばず、プロテスタント系の学校です。お寺なのに異様だと思う方もいらっしゃるでしょうが、伝統教団であれば中高で触れるキリスト教は教養程度のものが多く、むしろ勉強になることは多いようです。家のなかでは仏教一色なので、いろいろな思想に触れることは人格形成の上でも大切なことだと私は思っています。

その次男の学校は最もキリスト教色が強いと思われ、入学式も完全に宗教形式な模様です。度合いとしては、次男>長女>長男の学校という具合です。次男は寺院後継予定者です。わが宗派は基本的には高校1年生のときに得度という最初の習礼を受けることができますので、夏休みを利用して早々に京都まで生かせる予定です。次男の学校には幸い大学もありまして、普通に勉強をしておけば多分進学できると思うので、大学受験が免除される分、早めに浄土真宗の教育を受けさせたいと思っています。わが宗派は缶詰状態のいわゆる修行期間は短いのですが、座学に費やす時間はそれなりにあります。最低でも1年間は京都に行かせて、そこで1年間の行事なども経験してもらえればと思っています。大学卒業後は京都1年間での修学になるでしょう。

ちなみに私は京都に行くのが嫌だったので、東洋大学の大学院に張り付いていました。それでも何とかなるのですが、どうしても本山とは縁遠くなってしまいますし、交友関係も地域限定になってしまうので京都に行ったほうが良いでしょう。

今日もこれから午前9時から試験が始まるという学校が多いと思います。長女も5日まで頑張りました。長男は3日で終了、次男は2日で終了でしたので、長女は本当に忍耐強く頑張ったと今でも思います。もう高校2年ですが、根性だけは姉弟では一番あるようで、5年間剣道部で修練いたしました。お陰様で先日、三段を与えられました。試合にはあまり勝てませんでしたが、部活辞めたいと言いつつも最後まで貫徹出来たことは大きな成長であったと思います。部活の友人にも恵まれまして、剣道部とのご縁がなければドロップアウトしてしまいそうな時もありました。友人との出会いに心から感謝いたします。

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2020年01月30日

Rockをもて仏教す Part10

Rockをもて仏教す Part10

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、そこだけ勝手に仏教解釈をしてみます。今回は高校1年のときに池袋で間違えて買ってしまい、けれども聴いてみたらかっこよくて今でも好きなThe Eaglesから、やはりHotel Californiaです。

Mirrors on the ceiling,
The pink champagne on ice
And she said, “We are all just prisoners here, of our own device”

And in the master’s chambers,
They gathered for the feast
They stab it with their steely knives,
But they just can’t kill the beast

イントロのギターから泣かせます。全体的にメロディーはとても憂鬱な雰囲気の曲です。1969年を境にしてアメリカの精神は失われしまったと嘆くことで有名ですが、それは商業的音楽の蔓延への批判を意味しているとも言われます。ただ、こうした高尚な譬喩と同時に、やはり注目すべきはドラッグ依存症への警鐘だと思います。ホテルカリフォルニアは鏡張りの天井ですとか、ピンクのシャンパンとか、とても魅惑的な場所です。でも、その滞在者は皆、そのホテルの魅惑に囚われている。と同時に、とても居心地のいいものだと感じてもいる。

ドラッグ依存症なのです。ナイフで他の滞在者を刺し殺そうとするけど、彼らを殺すことはできない。彼らは獣のような存在なのですが、おそらく自分自身も同類だから。ロックにはこうした、自己嫌悪からくる怒りを歌詞にすることが多いと思います。この曲は怒りに任せているわけではありませんが、ひどい苛立ちを感じます。自分自身に向き合っているつもりでも、背を向けてしまっている自分に頭くるのでしょう。それはそうです。ドラッグ依存症ではなくとも、誰しも自分自身に向き合うことは難儀なことです。たいてい自分の行動なんてダサいものですから。

理想と現実に悩み始めるとキリがありません。自分のダサさを受け入れなければ、いつまでも獣を排除することはできないでしょう。刺し殺そうとするのではなく、敢えて言えば受け入れることでしょうか、自分も獣であったということを。譬喩とはいえ、獣に失礼なような気もしますが、譬喩にあふれた魅力的な曲です。

posted by 伊東昌彦 at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 六賢楼 -rock'n'roll