2019年07月22日

自分自身のこととして

この時期は7月盆と8月盆のあいだでご供養もひと休みです。例年わが家ではこの時期もしくは8月盆あとに海に行くのですが、今年は都合がつかず予定がありません。梅雨が長引いていますので良かったかもしれませんが、災害も多くなっているようで自分も気をつけないといけません。

ニュースの報道では悲しい事件事故が頻発しています。ニュースの見方には色々とあるでしょうが、少しでも自分自身のこととして写し見ていくことも大切かと思います。ニュースの世界はまるで向こう側ですが、実は同じこの世の出来事です。でも、なかなかそうは見ることが出来ません。私なんてまるで映画を見るかのようにニュースを眺めているときすらあります。

仏さまの慈悲のなか「慈」とは読んで字のごとく他者を慈しむことですが、「悲」は他者を悲しむということではありません。他者の悲しみというものを、自らにあてはめて同じように悲しむということのようです。今風に言えば悲しみの共有のようなことだと思われます。なかなか私には出来ることではありませんが、少しでも仏さまのあり方に学んでいきたいものです。

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2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

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2019年06月26日

自分という「意識」はどうなるのか

以前、たしか本ブログで死後を予想して書いていた際、今の自分という「意識」が、今まで輪廻転生してきた命のステージの意識になりかわり、あたかも代表するかのようにあればいいなと勝手に妄想しました。しかし、どうやらこれは大間違いであったと、最近は思っています。宇宙を感じればこそ、そんな自分に都合の良いことなんてあるわけないということに気づかされます。自分という「意識」は、本来の「命」へ還元されるはずです。

還元されるわけなので、自分という「意識」が消滅するわけではないでしょう。輪廻転生の一部に還るようなイメージでしょうか。「命」というものは際限がなく、私は宇宙と同じで繰り返しなんだと思っています。そういう意味においては命は宇宙そのものであり、これは『華厳経』の教えなのですが、相即しているというのが実際のところなのではないでしょうか。宇宙に還れば、今感じている苦悩なんていうものは苦悩ではなく、そういう苦悩もひっくるめて宇宙の営みなのです。たぶん

と言うことで、やっぱり自分という「意識」を今のように保持することは出来ないかもしれません。意識がなくなるのは怖いですよね。しかし、仏教的に考えても、そもそも成仏するということは、自分という「意識」がなくなることでもあるのです。「自他平等」ですから、他者と自分の区別のない絶対平等のあり方が仏です。これこそ宇宙に還るということであり、浄土とはそういうあり方の、この世から見たイメージなのかもしれません。阿弥陀如来とは宇宙そのものであり、その人格化なのです。

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2019年06月22日

シャアのセリフ

皆様、『逆襲のシャア』という映画をご存知でしょうか。ガンダム映画なのですが、本来は敵役であったシャアという人物がタイトルになっています。そのシャアがラストシーンに近いところで、本来の主人公であるアムロに向ってこう言います、「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と。ララァはアムロによって、アムロにとっては不本意ながら撃墜され亡くなっています。シャアはそんなララァに、自分の母親になって欲しかったようなのです。当時、やたらマザコンなやつだと思ったものです。

しかし今、ああ、こういうこともあるのかあと、30年以上たって感じています。


最近、やや参ってます。両親がともに病気になり、とくに母親は命に関わる重篤なようです。父は心の病気です。ただ私は大人になってから両親とはあまり反りが合わず、ここ数年に至ってはほとんど会話をしていません。近くに住んでいるのですが、こんなあり様だったのです。両親には感謝をしておりますが、色々とゴタゴタありましてなかば喧嘩状態、と言いますか、精神的にはもう絶縁状態に近かったのです。成人してからというもの、両親に振り回される日々でした。

両親は東京で私を生み育ててくれました。普通のサラリーマン家庭でした。中高時代は反抗期でしたが、よく理解をしてくれて誇れる両親でした。しかし大学生も半ばのころから、父は会社で左遷されたような状況になり、そのまま退職を待たずにアルコール依存症になりました。退職後はお寺に移住しまして、酒浸りのなか仏事を営んでいました。私との住職交代でもひと悶着あり、今でも父は周囲に私への不満をぶちまけているようです。依存症で住職を続けさせることは出来ず、お寺のことを考えて私が継職をしたわけです。

依存症の治療でも私は尽力したつもりですが、お酒をやめたあと、父は心の病になってしまったようです。母を罵ることも多く、最近では虐待のようなことに発展していたように見て取れます。母は不満を私にぶつけて来ましたが、いつの間にか認知症になってしまい、別の病気を発症して今に至ります。ここ数年はあまり交流もなかったことから、母が重篤であるという知らせを受けても、私自身、心の動揺はほとんどありませんでした。幼い頃は母親っ子で、学生時代も母を頼りにしていましたが、私の心もどうかしてしまったかのようです。

奇妙な感覚なのですが、私の両親はまだ東京の実家にいるような気がします。そこに帰れば普通に出迎えてくれそうな気がするのです。ただし、もう家はなくなっているので、やはり両親は東京で亡くなったんだとも思えてきます。じゃあ近所にいる今の両親は何なのかと言いますと、よく分かりません。不遜ながら偽物かとも思ってしまうほどです。なんだか相当いかれてしまったのかとも思うのですが、正直に書けばこんな感じです。堂々と発表するようなことでもないのですが、こういう状況もあるんだと言うことです。

母という存在が欠けることは辛いことです。私、母親っ子ですからね。

ここ数年は母を欠いていたような状況で、今、母が実際に重篤に陥り、それが実感できました。母がいるんだけどいないというような、気妙な感覚のなか過ごしてきたのです。私は家族に対してとても自分勝手なところがあり、こうあって欲しいという自分の思いを押しつけがちです。だからでしょうか、立派であった父がアルコール依存症になって堕ちていくのを目の当たりにするのは、とても辛い日々でした。それに伴い、慈悲深かった母も愚痴の塊のようになり、私はかなり困惑しました。

両親とはこうあって欲しいという、私の身勝手さが自分自身を苦しめています。両親だっていつも立派であるわけもなく、子だからと言ってそれを許せないというのは、あまりにも一方的すぎます。何事も自分自身に原因があります。相手が悪いのではなく、自分自身の心が相手をそう思い、勝手に苦しんでいるのが私たちの実際です。私もこうなっている両親を受け入れなければなりません。しかし、これはとても難しいことです。自分の心は自分の心であっても、うまく制御できません。仏教の修行は心の制御でもあるのです。

やはり、あまり自信が持てません。私は基本的に自信過剰なほうですが、今回ばかりは参りました。母になってくれるような存在がいないと、やはりダメなのかもしれません。とは言いましても、こんな私につき合ってくれそうな人はいないでしょう。仮にいたとしても、その人にはその人の人生があるわけですし、やはり無茶苦茶な話です。こういうところからも、自分自身の身勝手さを思い知らされます。心が弱っているときほど、人は身勝手になってしまうのかもしれません。なぜでしょう。

シャアは幼いころ両親を謀略によって亡くしており、その怨みを晴らすために生きてきた人物です。しかもエースパイロットであり、政治的にもかなりの力を持っています。自分の思い通りになることも多かったと思われます。私とは随分と尺が違うわけですが、そんなシャアでも母という存在は特別なものであったのでしょう。ガンダムではシャアの苦悩というものが描かれますが、結構勝手なところがある人物です。反対に主人公のアムロには母がいます。シャアが独善的なのは、母という存在の欠落が影響しているのでしょうか。

心の弱さとは何でしょう。逆に強さとは何なのでしょうか。最近の課題です。

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2019年06月07日

教育虐待という言葉に触れて

最近よく見かけて気になる言葉に「教育虐待」というものがあります。これは教育を受けさせない虐待ではないようです。むしろ教育の名のもと過度に子へ勉強を強制することにおいて発生する虐待であり、具体的には成績下降時の過度の叱責や制裁が当たります。成績落ちたら叱られる、成績落ちたからおもちゃ没収される。昔からよくあるシーンだと思いますが、やり過ぎなんです。

これは私の印象ですが、教育虐待というのは中学受験前後に関係することが多いように思います。今や中学受験準備は小学校に上がる直前から始まるという、何とも言葉にならないような驚きを禁じ得ません。本ブログでも数回書いたように思いますが、わが家では子そして私自身も中学受験に挑みました。その経験から申し上げますと、たしかに中学受験というものは「虐待性」を孕んでいると言えそうです。

中学受験は親が関与しながらも受験勉強の主体は親ではなく子だけになり、親がいくら立派であっても子が振るわなければうまく行きません。いわゆるお受験である小学校受験、そしてこれらとはやや性格の異なる高校受験においても虐待性は認められるとは思いますが、前者は親自身も受験対象となることもあるようですし、後者に至っては一部で中学受験化していることもあるとはいえ、一般的には親の関与は大きくありません。

このように中学受験は親の関与が高いと同時に、いかに子に勉強をさせ成績を上げるのかということが重大案件になりますので、結果的に過度の勉強をさせることにつながっていくことは容易に想像が出来るわけです。私自身もその落とし穴にはまりそうになったこともあり、今でも上の子に咎められることがあります。私自身は受験とは相性が悪いというか、努力をしないのがダメなんでしょうが、うまい結果ではありませんでした。子には自分よりも難易度が高い学校へ合格してほしいという一心、つまり自分の失敗経験の名誉回復を子に託すという無茶苦茶なことをしそうになったわけです。

幸い途中で気がついたので過干渉はやめたのですが、それでも上の子には辛い思いをさせたかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。とは言いましても、中学受験の骨格形成を担うことの多い進学塾は、塾生の成績向上による難関校合格こそが業績を左右することになるので、そんな家庭の事情なんてお構いなしに過度のカリキュラムを半ば強制的に提供してきます。

私は今、進学塾に対してやや批判的に書いてしまっていますが、実は勉強をたくさんしたからと言って難関校に合格できるわけではないという現実は、進学塾こそよく知っているはずです。努力を継続するということも含め、勉強にも先天性の要素がかなり影響します。もちろん子はまだ発達段階ですので、これから伸びていく子もたくさんいることでしょう。

小学校6年生において、今のその子にとって、学力のほか性格なども含めて適した学校に入学させることこそ、親が本来すべきことなのです。偏差値の高いより難関な学校に押し込むことではありません。一方、塾はその反対で、偏差値の高いより難関な学校へ塾生を合格させることこそ、彼らの本業です。親と塾では目的が一部重なりながらも、見るべき到達点は異なるということになるので注意が必要なわけです。塾は塾として至極当然のことをしています。

成績が親の思い通りにならなくても、それも含めて自分の子です。そしてそれと同時に、子は自分とは人格が異なる存在です。子は子の人生を歩んでいます。親とは違って当然。教育虐待が原因の1つとなって事件が起きることがあります。とても悲しいことですが、ねじ曲がった親心なんて子には不要であり、私もそうなるところであったと猛省をしています。

親子であっても、それぞれがそれぞれの命において生きています。親子は縁が深くつながりも深いわけですが、そうではあっても別々なのです。個々が独立しつつも縁によって結び支え合っているというイメージが仏教的な命の見方です。子は親の所有物でもなんでもありません。親が立派だからと言って親のように立派になならなきゃいけないわけもなく、親がいまいちだからと言って親より立派にならなきゃいけないわけでもありません。

私は基本的には中学受験には賛成です。10歳前後で脳を鍛えることはその後の発達にも好影響を与えると思っているからです。また、10歳前後になると個性がより確立され、皆が同じような学校で大丈夫ということにはならなくなってきます。真ん中の子は地元小学校ではやや浮いたろところがあり心配でありましたが、今、そういう浮いてる子がたくさんいそうな学校に通っており、自分より浮きまくっているような仲間に出会えて楽しそうです。

親子であっても自分勝手な「思い」の押しつけは迷惑な話ですよね。

posted by 伊東昌彦 at 10:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii