2021年10月26日

親鸞聖人御消息第十五通

「かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ」

本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。

往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。

これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。

自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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2021年10月14日

伝統という言葉に潜む実態

伝統って何なんでしょう。すごく抽象的で分かりにくい。もう少し具体的に、日本の伝統とは。さらに分かりにくい。では、わが家の伝統となりますと、う〜む、教育を大事にするところ・・・、と思いつきましたが、これは単に父親の考えで、それを私が継承しただけかなあ。父方の祖父祖母も同じ考えだったかもしれませんが、直接聞いたことがないので本人たちの考えまでは分かりません。つまり、わが家の伝統だと感じつつも、ひも解いてみればせいぜい2代〜3代前のことであったわけで、年月としては案外浅そうです。

わが家のことは置いておきまして、では日本の伝統となるとどうでしょう。日本の歴史は長そうですし、そもそも国家なのでわが家よりも伝統が具体化していそうです。日本の伝統を大切に、という言葉も巷にはあふれかえっています。でも、ひと言では言い表せません。伝統芸能とか伝統工芸とか、政治とか宗教とか様々ありますが、1つ言えることは、いずれもどこかの時代で誰かが何かしら「まとめ」ている事柄を、現代人は伝統だと感じているということです。これはわが家の場合と同じです。

私たちが伝統だと感じている事柄には、由来のよく分からない自然発生的な要素も含まれますが、構成は異なります。構成は誰かがこしらえているのです。たとえば神話を伝統とするならば、神話は語り継がれた要素を含んでいるものですが、どこかで誰かがまとめているから神話となって今に伝わっています。当然、まとめた人の主観、敢えて言えば思惑が入って構成されています。いらないと感じた要素は切り捨てられています。それを後代の私たちは伝統だと思い込んでいるわけです。伝統という言葉は便利なものですが、意外と要注意だと私は思っています。

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2021年10月04日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2021年10月01日

熱帯魚屋さんに行きました

中高時代は生物部でした。熱帯魚が好きで家でも飼っていました。古代魚が好きなんです。肺魚とか。獨協中学の卒業論文は「古代魚について」というテーマでした。父に専門書を1冊買ってもらい、それと『アクアライフ』という熱帯魚雑誌で勉強をしました。論文とはいえ、結局多くは丸写しになってしまい失敗です。その後、古代魚熱もいつしか冷めて今に至ります。

昨日、生物部時代の友人に誘われまして、もの凄く久しぶりに熱帯魚屋さんに行きました。町屋です。友人はクリーニング業を営んでまして、店舗に水槽を置きたくなったそうです。昔、よく二人で水槽の水換え作業をしました。部室にある水槽は古くて重く、かなりの重労働でした。サイフォンで水を抜いてはそれを飲んでしまい(ホースで水を吸うのです)、悲惨な思いを何度したことか。

夢中になっていた時代が懐かしく、なんだか再度飼育にチャレンジしたくなってきました。しかし、大抵はそんな気がして終わります。あの時の情熱はどこに行ってしまったことやら。年を重ねると経験が多くなり、先回りして物事を予測を立てるクセがつきます。予測しているうちに面倒くさくなるわけです。物事が輝いて見えなくなる原因です。

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2021年09月21日

もしかして、祈祷をしたら罰が・・・

浄土真宗では祈祷をしたら罰が下ることがあるのでしょうか?という主旨のご質問をただきました。簡潔に答えるならば、もちろん罰は下りません。実は他でもない、私もこっそり祈祷をしたことはあります。気づいていないだけかもしれませんが、とくに罰は下っていないと思います。ご質問には次のようにお答えしました。

質問≪祈祷をしたら罰が下りますか?≫
回答≪下りません≫
浄土真宗はたしかに現世祈祷を頼りとしない宗旨でございます。理由を申しますと、浄土真宗の目的はまず私たちが来世に浄土へ往生させていただき、そこで自ら仏となった上で自由に人々を救うことにあります。往生は阿弥陀如来のはたらきに由っており、私たちの行為に由ってはいません。祈祷をするということは、私たちが神仏へ祈り、その行為に由って神仏が応えるという事態を指しています。阿弥陀如来のはたらきはこれとは異なり、祈る前から私たちにはたらいて下さっています。したがいまして、祈る必要がまるでないわけです。

このように、祈祷は浄土真宗の目的には当てはまらない行為となっていますが、そもそも祈祷は現世においての幸せを祈ることが目的です。しかし、現世での辛苦というものは早々なくなるものではなく、私たちは常に迷い続けています。間違えをおかしてしまったり、人に迷惑をかけてしまったり、こうしたことの連続が現世であると言えます。そして、それこそが私たちの真実の姿であり、それを誤魔化すことは出来ません。人生をよりよく歩むためには、誤魔化さず、しっかりと自分自身を直視することがむしろ必要です。失敗しても良いのです。阿弥陀如来は失敗しても見守って下さり、しっかりと浄土へ参らせていただけます。

とは言いましても、神仏に祈りたくなるのも私たちの姿です。苦しいときは神仏を頼みにしたくもなります。それで良いのです。こうした私たちの迷いを含めて阿弥陀如来は救って下さいます。祈祷をしたからと言って、決して罰が下るということはございません。それでもなお、阿弥陀如来は温かく見守って下さっています。ご安心下さいませ。現世は思い通りならぬものではございますが、阿弥陀如来のはたらきをいただき、ともに励んで生きて参りましょう。

posted by 伊東昌彦 at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge