2021年07月19日

アート思考と唯心

美術の先生であり、アーティストでもある末永幸歩先生が「アート思考」という概念を紹介されていました。「自分の答えを創出する=アート思考」ということで、今は存在しない自分の答えを生み出す思考とのことです。

自分の思考というものは蓄積されていて、答えはすでにその中に存在していると私は考えています。ただそれに気がつかないだけで、表層的な自分から深層的な自分に至る思考によって、答えは自から出てくるものと信じています。先生は「創出」という言葉を使われていますので、この点で私の考えとは表現のうえで違うわけですが、なるほどなあと興味を惹かれました。

仏教は「唯心」と言いまして、心こそ世界そのものと観ますので、意識を内面へ内面へ向けさせる傾向にあります。いたずらに外に向けても、それは自分の心を出るものではないとするからです。世界とは自分が蓄積してきた行為やその影響によって成り立っており、自分を出るものではないとします。人生とはまさに心の探求なのです。

こうした蓄積から芽が出て世界そして自分自身にもなっていくのですが、これは見方を変えれば「創出」ということにもなるかもしれません。断片的な思いをつなぎ合わせていくことにより答えを「創出」する、これはまさに心の深層への探求とも言えるでしょう。

実は私も話をしているなかで答えを見出すことが多々あります。自分の気づかぬ点が見えてくるのだと思っていましたが、これこそ「創出」です。上述のように、心の内面というものは世界をも含むものである以上、感覚で得られるすべての要素も捨て置いてよいとうことではありません。議論することによって自分自身にある答えを知る、答えを「創出」していく、そのためには色々な物事を受け入れていく柔軟性も必要なことでしょう。私は自問自答で終始してしまう傾向にあるのですが、これでは深層への探求にはなりません。外部こそ自分自身の内面だからです。それこそ「唯心」なのです。

アーティストの方は感性を磨くことに注力されるとは思うので、思考であっても感性的、即応的なものを大切にされるのでしょう。やりっぱなしというか、放り出すことができれば、それこそ深層を掘り出していることと同じだと思います。

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2021年07月12日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2021年07月05日

雨水を大量に含んだ土はとても重たいのです

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自分のところは大丈夫だろうと思っていますと、こうなります。災害は対岸の火事とせず、常に他山の石とする心掛けが大切だと身にしみました。ただし、自然災害は対策を講じましても、それ以上の被害をもたらすことも多いでしょう。人の力を過信せず、自然と共生していくという心掛けもまた大切なことなのだと自省いたしました。

今日は善福寺清掃メンバーの方々と埋没したお墓から土を除きました。石塚石材さんも駆けつけてくれまして、とても助かりました。有難うございます!

熱海での土砂災害で亡くなられました方々に哀悼の意を表します。合掌

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2021年07月01日

7月で48歳になります

今日から7月ですね。私は7月12日が誕生日です。昔は自分の誕生日が好きでした。両親や祖父母も祝ってくれましたし、大人に近づくのが嬉しかったですね。最近はそうでもありません。単純に年取ったなあと思ってしまうのもありますが、仏教ではそんなにめでたくないからだと思います。キリスト教だと生まれることが宗教的に祝福されるかと思いますが、仏教だとそうでもないんですよね。

なぜかと言えば、キリスト教は多分、神に選ばれて人として生まれてくるのに対して、仏教は過去世からの自分の行いの結果として、善くも悪くも人としての命のステージに生まれ出るからです。非常に個人的な問題なのです。ラッキー要素もあって選ばれるということではなく、自分の成績のまま・・・、って感じなんです。いちおう「可」なので60点ぐらいとか。しかも人はまだ迷いの世界の真っ只中なので、迷ったままやって来ました、ああ、どうしようかな、と。

もちろん、生まれ出るときには自ら両親を探して、自分に相応しいと思える両親の間に生まれ出るという説もありますので、めでたい要素がまったくないわけではありません。また、迷いから覚りへ至る道程において、まず人に生まれないとそのきっかけすら掴めないとも言われます。人に生まれることが覚りへの近道になるわけですから、結構いい路線にはいるわけです。これはめでたい。ただ、やはりすごく地道なイメージであるからなのか、ハッピーな雰囲気ではないような気もしますよね。

むしろ、ここまで育ててくれた両親や周囲の人に感謝すべきかなと思います。そうでないと坊さんにはなってないわけですし、今の自分はありません。それなりに努力して生きていくことが出来るようになったのも、両親の導きがあってのことと言えそうです。

ちなみに大人になった私は、祝ってもらうのが得意なほうではありません。小恥ずかしいというのもありますし、人を祝うほうが得意なほうなのです。誕生日にはかつての両親や祖父母を思い、感謝の心を深めたいと思います。こうした環境に育つことができて、そういう意味において非常にラッキーかつハッピーであったのかもしれません。仏教としては、たしかに過去世による行いに関係しているのですが、今の私は過去世の記憶がありませんので、やはり率直にそう思えます。

posted by 伊東昌彦 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2021年06月22日

善福寺仏典会のお知らせ

経典から学ぶ「善福寺仏典会」は、今まで第三日曜日の開催でございましたが、その翌日、月曜日の開催にさせていただきます。14時から1時間ほど、今は曇鸞大師の『往生論註』を学んでおります。皆様、よろしくお願いいたします。

≪善福寺仏典会≫
毎月第三日曜日の翌日、月曜日の14時から
善福寺会館において開催

住職 伊東昌彦

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