2021年09月03日

法事をしてよかったなあ

先月、母の三回忌法要を勤めました。新型コロナウイルスの影響を考えまして、兄夫婦のみの参加となりました。叔母や叔父にも参列してもらいたかったのですが、年齢を考えますとコロナ禍では仕方なかったかと思います。昨年は一周忌法要でしたが、今年以上にコロナのことでゴタゴタしていまして、わが家だけでのお勤めとなり、兄家族にはお墓参りだけしてもらいました。昨年はあまり話をする時間もなく終えました。

今年は兄夫婦とも話をする時間がもてまして、とても嬉しい三回忌でした。法事はもちろん故人を偲ぶ場ではありますが、普段なかなか会えない人にも会うことができます。実は母の病気や父の介護のことなど、兄夫婦とはあまりうまく行っていない状況が続いていました。何となくギクシャクしていたわけです。しかもコロナ禍なので気軽に食事に誘うわけにもいかず、母が亡くなって以来、話をまともにする機会を逸していたのです。

三回忌法要で兄夫婦と話が出来まして、ギクシャクしていたものがなくなりました。少なくとも私のなかではなくなり、とても気分がスッキリしました。母のお陰なのかと、あらためて三回忌の仏縁に感謝です。自分の力だけではどうにも解決できないことでしたが、仏となった母が救ってくれたのかもしれません。まだまだ教えてもらうことが多いもんだなあと、しみじみ感じました。法事をしてよかった。

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2021年08月27日

次世代型のお寺とは

今のお寺のあり方は基本的には江戸時代からのものであり、それが何と今まで継続しています。葬儀や年回法事を担うということで、言うなれば死別の悲しみの受け皿になってきました。それが全国的に認知され続けてきたからこそ、社会のなかで役立つお寺であったのでしょう。しかし、どうも最近はそうでもなく、お寺に期待することは特にないという風潮が高まってきたかもしれません。言い方を変えれば、お寺は社会に役立っていないと感じる人々が増えたということです。お寺の怠慢ということもあるでしょう。高圧的な住職であったり、お布施を強要することがあったりしますと、さらによくありません。

仏教は人生を生老病死と見ます。生まれて老いて病気になり死んでいくのが私たちです。最大の悩みであるとも言えるわけですが、不老不死にはなれません。むしろ人生は生老病死なのだと知ることこそが、根本的な悩み解決に向かう糸口となります。お寺はそういうことを常に伝えていかねばなりません。葬儀や法事そして法話会などでその都度こうした話をするわけですが、これ以外にも伝える方法があっても良さそうです。言葉だけではなく、社会的行動によって伝えることだって可能でしょう。次世代型のお寺が今こそ必要なのです。

ただし、問題があります。私にはまったくその具体案が頭に浮かばないのです。ここ数年はずっとこの事ばかり考えています。医療や福祉と協働するなど、本山ではすでに動きが見られるのですが、では私はどうすれば良いのかまだ妙案が出てきません。もっと頭をひねる必要がありそうです。

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2021年08月17日

お盆を終えまして

今年もお盆参りが終わりました。コロナ禍と大雨でしたが無事勤められたことに感謝です。熱海の土石流があった日に善福寺でも土砂崩れがあり、その怖さを知った夏でもありました。今回の大雨でも亡くなられた方がいらっしゃいます。土石流や土砂崩れはその土地の形状に大きく関係してきます。形状はそうそう変わるものではありませんので、過去に被害があったのかも知っておくべきかと感じました。もちろん初めて被害が出る箇所もありますが、過去の教訓や言い伝えはとても大事です。温故知新、過去を尋ねることは日々歩む上で肝腎だと思います。

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2021年08月05日

嘘も方便?いえいえ方便は仏様だけの手段です

皆さん、「方便」という言葉を聞いたことあるでしょうか。ことわざにも「嘘も方便」とあります。嘘をつくことは悪しきことですが、それを肯定するかのように響きます。ただ、「方便」だと嘘ついてもいいのかというと、もちろんそれは違います。「方便」とはサンスクリット語でウパーヤと言いまして、仏教用語で「手段」を意味します。悟りに近づけるため、仏様が我々を導くためにあれやこれやと使う手段のことです。我々は基本的に言うこと聞きませんから、色々と仏様もうまいよう仕向けてくれるわけです。

たとえば有名なたとえ話ですが、子(=我々)が遊んでいる家が火事(=迷いの世界)となっているも、子はそれに気づかず夢中で家のなかで遊び続けています(=迷いのなかにいることに気づかない)。親(=仏様)は子を外に出すため、外には子が欲しがっていたおもちゃ(=身近な仮の教え)があるでー!、と呼びかけます。すると、子はそれに釣られて火事の家から出てくるわけです。しかし、外には欲しがっていたおもちゃがあるわけではなく、親はもっと素晴らしいもの(=本当の教え)を子に与えましたとさ、というお話です。

子が欲しがっていたおもちゃは「ない」のですから、「ある」と言えば嘘になります。しかし、これこそ「方便」であり、本当の教えに気づかない我々を救う手段として、敢えて造作されたのが「方便」なのです。仏様は嘘をつきません。「方便」とはあくまでも真実に導くための手段として存在します。なので、我々には「方便」を使うことは出来ません。迷っている我々が「方便」と称して何らか手段を講じても、それは迷っているままなのですから嘘になってしまいます。


オリンピックは「安心・安全」とのことでしたが、これはもちろん「方便」とは言えません。


仏様は悟りに至る道程をすべて完璧に理解されているので、上記のような「方便」を用いることが可能なのです。道程が理解できていなければ、当然不可能ということになります。分かってないのに導くことは出来ないですよね。あたり前です。

新型コロナウイルスはまだまだ分からないことが多いはずです。分かってないのにいい加減なこと言ってはいけません。オリンピックやるならば、「安心・安全」とかの妄言でななく、分からないこと、分かっていること、ちゃんと明白に正直に国民に語りかけるべきだと思います。国民は不安なんですから。大きなことやるなら、正直に行くべきかと率直に感じます。単なる嘘はいかんですよ。


しかしまあ、もうちょっとうまい言い方あると思うんですけどねえ。政治家は言葉が命だと思いますが、もっと言葉を選んで大事にして欲しいなあ。

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2021年07月27日

ちゃんと本質を見るようにしたい

スポーツ選手とりわけ女性選手への視線が問題となっていますね。スポーツ選手を評価すべき本質は顔やスタイルではありません。競技です。ファッションモデルは顔やスタイルを評価すべきです。俳優は演技ですし歌手であれば歌声です。心のなかで思うだけであれば良いでしょうが、競技内容よりも顔とかスタイルで評価されると本人は困るでしょう。かわいいなあとか、かっこいいなとか、セクシーだなあとか、そう思うのはもちろん勝手なのですが、その部分をわざわざ写真に撮ったり、ましてや報道したりSNSに投稿するのは問題です。

本質を評価できるような倫理を持ち合わせていきたいものです。オリンピックはもとよりアマチュアリズムの美しさを競うものでしょう。商業化しすぎると本質が評価できなくなってしまいそうです。大事なところを見失わないように生きていきたいものです。

人生の本質と言えば、それこそ生き死にです。まさに一大事。

posted by 伊東昌彦 at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii