2024年03月23日

賭け事は不得意

賭け事のことで世間を賑わせていますね。私は賭け事はしません。熱くなるタイプで賭けに弱いからです。賭けている時は不安感だけで高揚感はありません。賭け事をする人はお金儲けというより、ドキドキ感というか高揚感が好きなのでしょうか。トータルで見れば、賭け事はお金に関して非合理的なので損はするでしょう。それでも続けるということは、賭け事をすること自体を楽しんでいるのだと思います。

損をしてもいいのだ、というぐらいの心持ちじゃないと深い深い穴に落ちそうです。

ちなみに亡父は30代まで競馬にはまってました。資料もすごい量で、かなり燃えていたのかなと思います。私が小学校低学年の頃でしたか、いつの間にか競馬テレビを見なくなっていました。大負けでもしたんでしょうか。事情は不明ですが、父も性格は私と似通っているのでやめて正解であったかと思います。


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2024年03月19日

多文化共生、まず日本を知る大切さ

日本もいよいよ「多文化共生」になりますね。相手を知ることも大切ですが、まずは自分たちのことを知る必要があると思います。日本のこと、私たち日本人はちゃんと理解しているでしょうか。

宗教、習慣、歴史、思考など、文化的側面を客観的に知ることは大切です。知らないから、外国人に対して過剰な対応をしてしまう。外国人の文化を理解することも必要ですが、まずは自分たちのことを知らないと。

仏教には「慚愧」という言葉があります。自分に恥じ、他人に恥じるという意味です。恥という文化は日本人の節度や礼儀ある行いに現れ出ています。こうした文化を自分たちがまず知っていきたいものです。


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2024年03月17日

今日からお彼岸ですね

近頃、自治会や町内会、PTAなど、さまざまな地域団体において、会長などの役を担う人材が減っていると実感します。実はお寺の檀家組織も例外ではなく、総代や世話人など、役を受けて下さる方は減少傾向にあります。

かつてはこうした団体は今より有益であり、助け合いのほか、情報収集にも役立つ存在でした。しかし現在においては、地域に依らず個々に自立することは不可能ではなく、地震などに被災した場合であっても、本来不利益なことはありません。

情報収集という観点からしても、インターネットから情報を得ることは容易であり、むしろそのほうが人間関係のしがらみもなく、知りたいことだけを知ることが可能なので、億劫なこともありません。地域団体から足が遠のくのも、分からない話ではありません。

簡単に言えば、そういう時代なんでしょう。

買物をするにしても、近所にあった昔馴染みの小規模スーパーは少なくなり、やや遠くにある全国展開の大規模店が残ります。近所の方もいるでしょうが、小規模スーパーのようなご近所感は薄れます。知った顔に会う可能性も減るでしょう。

大規模店は品数も多く、効率的に買物が出来て便利です。総論的に言えば、大規模店を便利だと思う方のほうが多いかなと思います。

いずれにおいても、他者とのつながりが希薄なのが今の時代です。

しかし、人は他者とつながらずに生きることは出来ません。どこかで何らかつながりがあるから、生きていることが可能なのです。つながりを減らしても構わないとは思いますが、必要なつながりは大切に思ってもらいたいと思うのです。

今日はお彼岸の入りの日です。

亡き方への感謝の気持ちを新たにしていただき、その心をそのままご自宅までお持ち帰りいただきたく思います。私たちは他者とつながり、相互に助け合いながら生きている存在です。亡き方のはらたきがあったからこそ、今の私たちがいます。感謝の気持ちは日常生活で忘れがちですが、家族や友人、身近なところへの感謝を忘れないようにしたいものです。


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2024年02月29日

宗教的な発想

この世のあり様は、すべて「諸行無常」が真理です。移り変わりの世界であって、固定的であることはなく、それぞれの物事が互いに関係し合いながら、それぞれ別々に変化していきます。仏教ではそう考えています。真理とは普遍的なものであり、どこかに真理が存在しているということではなく、正しいものの見方をすれば真理は自から認識可能です。

ところで仏教は宗教です。生死を語ること、とりわけ死後を語る。真理とその普遍性を語る。この2点だけでも完全に宗教です。死後なんて宗教じゃないと語れませんし、真理と言いましても、もしかしたら普遍的ではないかもしれません。いずれも立証は今のところ不可能ですので、これを説くことこそ宗教の醍醐味です。仏教においては、真理の顕現もしくは具象化が「仏」であり、仏と成る、すなわち成仏することは真理に到達することを指しています。仏像は真理の象徴であり、実践者が目指すゴールでもあります。

裏を返せば、こうした事柄を言い出す思想というのは、宗教とまでは言い切れなくとも、宗教性をかなり帯びていると言って間違いありません。哲学がそうです。東西を問わず、哲学のなかにはかなり宗教へ近づいたものもあります。西洋哲学は合理性のイメージが強いかもしれませんが、キリスト教と相互に影響を受けている面もあるようです。

ちなみに倫理というものは道徳や規範であり、人と人との間での事柄に限定されます。哲学も人の理性によっているのでその点で倫理と通じてはいますが、哲学は人の存在について根本的原理を探る営みかと思いますので、やっている事は違います。倫とは仲間のことです。倫理に普遍性はありません。限定されたなかでの道徳や規範になります。

いずれにしましても、普遍性ということを説きだすと宗教的になりがちです。そもそも、何らかの思想というものに普遍性があるのかどうかは、よく考えたら誰も分からないことであり、創唱者がそうだと説いて、それに賛同する人がいれば、まあ、そこではそうなんだろうなあということに過ぎません。信じるか信じないかの問題です。

世間には宗教とは言えなくとも、宗教的な発想はいくらでもあります。大切なことは、どんな思想であっても、一方的に信じ込まないことです。私は坊さんなので基本的には仏教思想を信じていますが、経論のなかにはいくらでもいい加減な表記はあります。肝腎なことは、正しいものの見方です。極めて難しいことではありますが、出来るだけそれに努めることで、生き方は随分と自由になってくると思います。信じ込むということは、自由を犠牲にすることでもあるからです。


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2024年02月16日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
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何事も「聞・思・修」

少なくとも地球というまとまりにおいて、本来、生命は好きなように生きていい。常識や規則があるのは人だけ。ペットであっても好きに生きていい。そもそもペットになるのは人の支配下に置かれたからで、生存のための強弱では弱いから。

ただし、何事も自業自得。言い換えれば、自分の行為とその影響の結果は、自分で引き受けねばならない。我慢する必要はないけれど、好きなように生きたことの結果は、ちゃんと自分で責任持たないといけない。生きるということは冷酷なことなのだ。人のなかに常識や規則が作られたのは、出来れば悲惨な結果を避けたいという本能からだろう。冷酷な現実は耐え難いものだ。しかし常識や規則はすべて人に適合するほど万能ではない。これもやはり、強い存在によって設定されている。

仏教の考えにおいて、「生まれ」は今の自分ではどうにもならない。それは先天的な業(行為とその影響)によるものであるから、今の自分ではなく、過去の自分(→今、業は引き継ぐが人格は異なる)の業の結果だから。しかし、今、どう生きるのかは、今の自分で決めていい。もちろん思い通りにならないことも多いが、方針を決めるのは今の自分でいい。好きに生きていいのだ。

お釈迦様も説かれた。生まれでバラモン(→インドの伝統的宗教家で、身分的に最上位)になるのではなく、生き方によってバラモンになるのだと。

たとえば身体的な先天的性別を変えたいのであれば、可能なかぎり努力してもいい。ただし、性別変更という行為と、その影響から来る結果は、すべて自分で責任をもって引き受けねばならない。影響は個人的にも社会的にも色々とあることだろう。「後始末はよろしく」、ではダメだ。引き受けるほどの覚悟がないのであれば、別の方法を考えなければならない。自分の行為とその影響は、周囲に良く思われることもあれば、悪く思われることもある。そのすべての結果は自分が引き受ける。

何事も「聞・思・修」と言って、まず聞く、そして自分で考える、それから行動へ移す。考えなしに生きていけるほど、生命というものは緩くはなさそう。


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2024年01月29日

大切に思う人、思われている人がいる

すこしでも想像してみれば、ある程度は分かるはず。すべての人にはそれぞれの人生があり、大切に思う人、思われている人がいる。命は個々で歩むものであると同時に、縁によって結ばれて互いに影響し合いながら存在している。自分の今までの歩みを振り返って見ても、これは比較的容易に分かるはず。

自分の欲望や都合、慢心した理想によって、勝手に他者を殺傷することは悪業だ。これは現世において報いを受ける因となるのみならず、来世における命のあり方を直接決定する因となる。簡単に言えば、そういう悪業を自分自身に植え付けてしまうと、来世は地獄という命のあり方になる。地獄に落ちると表現されるが、むしろ自分自身の心が地獄なのだ。だから地獄に落ちる。

もちろん、その悪業を消し去ることは可能だ。無限とも言える期間、地獄の苦しみを受け続ければ、いつかは悪業は消える。無限とも言える期間になることは間違いないけどね。現世においても過ちに早々に気づき、真摯にその悪業に向き合い、悪業が花開かずいつか消滅するかのような大きな善業を自分自身に植え付けることが出来れば、もしかしたら地獄行きは逃れることが出来るかもしれない。

でも、そんなことにならないよう、すこしでも想像してみることが大切だ。想像が苦手であっても、他者だって自分と同じように生きているし、大切に思う人、思われている人がいると知ってほしい。他者を殺傷することは、その人が大切に思う人、思われている人の命をも傷つけることになる。だから、悪業が極めて大きい。

地獄の閻魔様は、こうした悪業の象徴なのだ。決して逃れることが出来ない。決して許されることがない。それほど厳しく、冷徹なものが悪業だ。私はそんな地獄に落ちたくないので、出来るだけ他者のことを想像し、思うことにしている。せこい欲望も都合も理想もあるけれども、他者を殺傷してまで押し通す価値なんてまるでないね。それを肯定するような本も世にはあるが、読む価値は絶対にない。


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