2021年07月12日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2021年06月22日

善福寺仏典会のお知らせ

経典から学ぶ「善福寺仏典会」は、今まで第三日曜日の開催でございましたが、その翌日、月曜日の開催にさせていただきます。14時から1時間ほど、今は曇鸞大師の『往生論註』を学んでおります。皆様、よろしくお願いいたします。

≪善福寺仏典会≫
毎月第三日曜日の翌日、月曜日の14時から
善福寺会館において開催

住職 伊東昌彦

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2021年06月04日

親鸞聖人御消息第十二通

「「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり」

私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。

ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。

なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。

さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)

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2021年03月21日

浄土は「あの世」とは言わない

あの世といえば、一般的に死後の世界となります。この世とあの世。あっちの世界ってことです。ただ、浄土は「あの世」とは言いません。「世」とは迷いによって輪廻する世界のことで、浄土は「出世間」だからです。出世間とは、世間・世界から出た状態のことで、すなわち迷いのない覚りに至ったことを意味します。浄土は仏の覚りによって現ぜられた国土となります。

実は私、「あの世」を使用しないのは俗的な言い回しだからだとばかり思っていたのですが、よく考えてみますと、学術的にも「あの世」=「浄土」は間違いだということに最近気づきました。となりますと、浄土を「仏の世界」と言うことも間違いになります。法話の際、思わず言ってしまいそうですが、気をつけたいと思います。

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2021年01月23日

親鸞聖人御消息第九通

「五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり」

本御消息は「慈信房義絶状」とも言われ、親鸞聖人が異説を唱える慈信房善鸞を義絶されたものです。善鸞は親鸞聖人の御子息です。親鸞聖人は、善鸞が浄土のみ教えの要となる第十八願を蔑ろにした布教を行っていたことから、義絶という苦渋の決断に至られました。破門ということだけではなく、親子の縁をも切ったことになりましょう。親鸞聖人にとりまして、阿弥陀如来のご本願を誤って人々に伝えることは、わが子であっても許されないことであったのです。なぜかと言えば、善鸞の行いは五逆そのものであったからです。

仏教には五逆という五つの重たい罪のあることが説かれ、これを犯した者は地獄の深みに落ちていくとされます。また、第十八願には「五逆と誹謗正法とをば除く」とありまして、ご本願からも五逆が漏れてしまうことが説かれています。この五逆について、中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)によりますと、@母を殺すこと、A父を殺すこと、B聖者(阿羅漢)を殺すこと、C仏の身体を傷つけて出血させること、D教団の和合一致を破壊し分裂させること、とあります。善鸞は異説を広めていたわけですから、Dに該当するのだと思われます。阿弥陀如来のご本願の救いは、たしかにすべての命に向けられています。しかし、だからと言って何をしても許されるというわけではありません。

この世のあり様を見るならば、新聞やニュース番組には毎日のように五逆があふれかえっています。家族同士のいざこざ、尊大な態度、裏切り行為、本当に切れ間なく報道されています。いえ、報道ばかりではありません。私たちの身近なところで、さらに言えば自分自身においてさえ、こうした五逆はあり得ることとして認め得るはずです。仏教でいくら五逆は地獄行きだ、ご本願からも漏れてしまう、と警告を発したところで、実際にはこのあり様です。私たち凡夫は、いつでも五逆と隣り合わせなのです。むしろ五逆こそが私たちの姿であると言えましょう。では、救われない私たちにとりまして、ご本願はどのようにはたらいてくるのでしょうか。

親鸞聖人は義絶というショッキングな方法で、わが子である善鸞を導かれたのだと思います。善鸞はおそらく、自らの罪の重さに気づいていなかったのでしょう。わが子が五逆の大罪を犯しているなんて、こんなに悲しいことはありません。表題のお言葉からは、聖人の親としての悲しみが伝わってきます。第十八願で敢えて除かれる五逆ですが、五逆こそが私たち凡夫なのであり、善鸞なのです。そこに気づかされてこそ、はじめてご本願のはたらきを素直に喜べることでしょう。もとより阿弥陀如来の救いに条件はありません。ご本願には、私たちのなかの五逆を知らしめるはたらきもあることを、本御消息から学ばせていただきたいものです。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2020年11月20日

聞くことの大切さ

仏教では「聞く」という行いを重視します。教えを聞いて、自分で思考して、そして修行に励むわけです。第一段階は「聞く」ことなわけですね。しかしこれ、意外と難しいと思いません?私みたいに自分が自分がの人ですと、どうも人の話の途中で「と言うかさあ」とか、「そうじゃなくて」というように割り込みたくなってしまいます。しかも相手を否定するという、これまたどうしようもなく悪い癖があるのです。50歳も近いので、そろそろいい加減やめたいなあと思っています。

なぜ途中で相手に割り込みたくなるのかと言えば、これは簡単です。相手を負かしたいから。相手が間違っているから正したい、というかもしれませんが、根っこは相手を負かして自分が優位に立ちたいということです。よく考えれば、別に相手がどう考えていようが、あまり自分には関係のない場合もあります。家族であればある程度は同じ方向を向いていたほうが良いかもしれませんが、同じ思考でなければならない決まりはありません。それぞれ違うのが当然と言えば当然です。

ましてや友人であればなおさらで、考えが合わなければつき合いをやめればいいだけです。何も自分の思うように正す必要はありません。何か言ってきたら、ああ、そうなんだ、というように聞いていれば良いのです。聞くなかにおいて、自分にとって大切なことがあれば、それを自分に活かしていけばいい。ただそれだけのことなのですが、人にはどうしても相手より優れていたいという欲求があるようです。驕り高ぶる心はなかなか捨てることができません。50歳に向けて、自分自身の戒めにしたいと思います。

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2020年10月31日

11月1日法話会

明日、11月1日(日)の法話会につきまして、お知らせいたします。急遽、お葬儀のお勤めとなりまして、住職の帰寺が15時を回ってしまいそうです。14時からは松田師が読経導師をいたしまして、その後、松田師が短めの法話をいたします。どうか宜しくお願い申し上げます。合掌

善福寺住職 伊東昌彦
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2020年10月17日

親鸞聖人御消息第六通

「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」

今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
 
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
 
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。

仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2020年09月27日

テクノは忍耐だ(ロックは諦めだ)

先日のことですが、RCでお世話になっているK氏の会社に所用でうかがいましたら、待ち合いに「テクノは忍耐だ」という書が掲げられていました。K氏はテクノミュージックに長年携わっておられます。なぜ忍耐なのかと言いますと、私が解釈するようなことではないのですが、テクノは音色の調整やプログラミングなど、とにかく地道にひたすら耐え忍んで下ごしらえをしないといけません。私もロックバンドをしていまして、かつてロックとテクノを合わせた変テコな音楽に傾倒したときがあります。その時、ほんの少しこうしたテクノのことを学びまして、自分でも少しトライしてみました。もの凄く大変です。夢中になりますと、もう寝ている場合じゃないというほどです。結果、私には無理だなとなりまして、単純なロックに戻っていきました。

この「テクノは忍耐だ」という書を見まして、じゃあロックは何だろう、と考えたわけですが、ずばり「ロックは諦め」だと思います。曲をバンド仲間で作っていても、「まあ、こんなもんじゃない?」というところで適当に切り上げます。あまり作り込むと重たくてダサロックになるので、私は好きではありません。作り込むのは好きなほうなのですが、ロック特有のノリが消えてしまうような気がしまして、途中で諦めるわけです。「ああ、めんどくせ〜」というのもロック特有な発想なので、こういう感覚も大切です。それなりに大変なのではありますが、座右の銘は「めんどくさい」でもいいくらいなのです。

「忍耐」と「諦め」、これ実は仏教の実践行に含まれております。「忍耐」はそのまま、いろいろな苦しい厳しい状況においても、ひたすら耐え忍ぶということ、修行には不可欠です。世間には理不尽なこと、理解不能なことも多くありますが、それを含めて自分自身なわけであり、逃げていては始まりません。「忍耐」は仏教的人間形成において必須事項であるのです。一方、「諦め」は何なのかと言いますと、「諦める」という言葉は、実のところ「あきらかにする」という意味から来ているのです。物事のあり様をあきらかに観察するわけです。闇雲に突き進むわけではなく、状況をあきらかにして次のステップへ行くということです。人生は忍耐強く、そして状況をあきらかにすることが大事だと言うのでしょう。ただ、私はテクノもロックも好きなのですが、これを実践するのはなかなか難しいなあと、昨今、実感しております。

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2020年09月05日

明日は久しぶりの法話会

明日は久しぶりの法話会です。勤行も含めて1時間以内に終わるよう短縮しました。10月末には報恩講がありますが、こちらもお逮夜のみの短縮開催とします。短縮でも良いので、何かしら始めていかないと忘れてしまいそうです。4月からの新入社員がコロナ禍のため自宅待機となり、それでもお給料がある程度出るので働くのがめんどくさくなってしまった、という記事を見ました。これはまずいですね、人は低いほう低いほうへ転がっていく性質があります。怠惰です。自分を律しなければ煩悩はどんどん増幅しますので、これは困ったものです。

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2020年08月21日

法話会再開のご案内

コロナ禍のなかではございますが、法話会を再開することとなりました。勤行と法話の時間を短縮しまして、あまり長時間にならぬよう配慮いたします。本堂内ではマスクをしていただき、手の消毒、余裕をもった着席をお願いしまして、感染リスク軽減にご協力いただければと思います。

善福寺法話会

9月6日(日)14時から 15時頃には終了予定
勤行:『讃仏偈』(『正信偈』は中止いたします)
法話:当山住職(短めな法話となります)

皆様、お参り下さい。なお、この時期、本堂内は大変暑くなっておりますので、その点もお気をつけていただければと思います。よろしくお願いいたします。

住職 伊東昌彦

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2020年08月14日

坊さんとして思う言葉「英霊」

明日は終戦の日ですね。「英霊」という言葉があります。仏教では本来的には使用しません。もとは中国古典に見られるようですが、私は門外漢なので手近なところでウィキペディアで調べてみました。「英華霊秀」という言葉に原意を求められるようです。道教の「気」も関与する言葉のようですが、四字すべてが「すぐれている」という意味に通じていますので、これを人にあてはめれば「すぐれた人物」という意味合いになることでしょう。道教的に言えば仙人とまでは言わずも、すぐれた「気」を持っている人ってことでしょうか。

それで「英霊」というように二字のみ抽出すれば、とりわけ「霊」には「すぐれている」という意味のほか、「死者の魂」という第一義的意味がありますので、「英(すぐ)れた霊魂」という意味合いが強調されることになると思います。仏教、とくにインド仏教には「霊魂」という考えは本来的には存在せず、むしろ否定的です。日本仏教では、宗派によっては霊魂という言葉の使用も見られるようですが、これは中国思想との習合によるものです。ちなみに浄土真宗では使用しませんので、私にとっても霊魂という言葉は身近ではありません。

霊魂が何なのかというのは、上記のような事情もあるので私にはよく分かりません。イメージとしては、亡き方の死後精神というようなことになるのかなあ(ちなみに、唯識で言う阿頼耶識とはまったく違います)。おそらく、根源的なものとの合一には至っていない状態で、まだ生前の個性が保たれており、場合によってはある程度意思があるのかと思います。幽霊なんて意思丸出しですよね。怨んで出てくるわけですし。とまあ、かなりいい加減な規定にはなってしまいますが、おそらく、多くの方も厳密には霊魂が何なのか分かっていないと思うので、この程度のイメージで良いかと思います。

そして、「英(すぐ)れた霊魂」ということになりますと、どの点が英(すぐ)れているのかと言えば、それはもちろん生前の行いということになるのでしょう。死後の行いは不明ですし、当然、生前だと思うのです。日本で「英霊」という言葉を使用する場合、これはとりわけ日露戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦で戦死された方の霊魂を敬ってのこととなります。戦争で国家に殉じたと方と言っても良いので、この点において「英(すぐ)れている」と言えるのだと思われます。

今の平和、現代日本の平和というものは、こうした方々の犠牲の上に成り立っていることは言うまでもありません。戦死された方、戦病死された方、戦争による攻撃で亡くなられた方、戦争の関連で亡くなられた方、たくさんの方々が戦争で命を落とされました。おそらく、日本や家族を思って亡くなられたことでしょう。たくさんの方々の犠牲によって、私たちの今日一日があるのです。原爆の日をへて終戦の日が近づくにつれまして、毎年厳粛な気持ちになってまいります。今日という日を「あたり前の一日」だなんて思っては、本当に申し訳ないことです。

私は坊さんとして、「英霊」という言葉からは距離のある立場であり、いわゆる「霊魂」の存在を全面的に肯定しているわけではないのですが、戦争で犠牲になられた方々を敬う心はしっかりと持ち合わせています。もし仮に、そうした方々すべてを指して「英霊」と言うのであれば、それはそれで問題ないと思います。ただし、実際には戦死された方々に限定して使用されていることがほとんどだと思われますので、そこには聖戦的に戦争を賛美する志向を孕んでいるような気がしてなりません。国家に殉じることは尊いことではありますが、亡くなられた方々の思いをあわせ考えてみますと、安易な使用かなとも思えてきます。

そもそもの原意を訪ねてみましても、生前にすぐれた行いのあった方を指して「英霊」と言うことになるので、この言葉をとりわけ戦争に関係づけて用いること自体、果たして相応しいのか問題ではあります。原意とは独立して規定されている言葉であれば、容認できなくもないのですが、一般的な使用に耐え得るほど人口に膾炙していると言えるのでしょうか。もちろん、「英霊」という言葉を使われる方々の気持ちも理解できるのですが、聖戦的に戦争を賛美しているかのような場面で使われてしまっていることもあり、難しさを感じます。

戦争で亡くなられた方々を悼むことは、今を生きる日本人すべてにとって必要なことです。しかし、それはどんな戦争であっても、その戦争という行為自体を容認することであっては決してなりません。言葉を選ぶことは難儀なことなのですが、「英霊」という言葉に対しても、どういう方々を対象として使うのか、どんな場面で使うべきなのか、もっと議論があっても良さそうなものです。昨今、そういう気配はあまり感じられませんが、安易な戦争賛美が深まっていかぬよう、慎重にあってもらいたいものです。

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2020年07月16日

感覚の違いを尊重できるよう

9月から法話会など、お寺での会を再開しようかと思っています。法話会やスイーツ教室については、何度かお問い合わせをいただきました。大変有難いことだと思います。しかし最近、東京を中心にコロナ禍が再拡大しはじめています。行政から何らか制限が出されれば、9月再開も延期になるかもしれません。第二波とならぬ程度で収まれば良いのですが、経済活動との両立は難しい舵取りが要求されそうです。

こうしたなか、肝腎なことはひとりひとりの行動にあると思います。マスク着用や消毒はもちろんですが、会合や外食は細心の注意が必要です。とくに外食は経済活動にも直接関与することなので、単純に自粛をすればそれで良いということにもいきません。個人的には、行動範囲が不明瞭な方との会食は避けるべきだと思います。家族や親しい知人で行動範囲が掴めている間柄であれば、コロナ対策の取れているお店での飲食はあり得るでしょう。

と、私の考えを書きましたが、もちろんそう思わない方もいます。難しいのは、人それぞれで考えが異なることです。小田原近辺におきましても、以前のように普通に飲み会をしている方もいます。東京ではないですし、小田原付近なら大丈夫とお考えなのでしょう。ちなみに東京でも飲み会をされている方は当然います。私の場合は、家族で対策の取れているお店で外食はしますが、飲み会は出来れば参加したくありません。

いわゆる温度差は本当にバラバラで、これからコロナのなかで生活するということを想像したとき、感覚の違いは結構な社会問題になるんじゃないかなと思えます。問題化を防ぐためには、それぞれの考えを尊重する気持ちが何より大切です。コロナウイルスをばら撒くなんて言うのは論外ですが、多少、自分自身よりも感覚の緩い方、厳しい方がいても、それはそれで仕方ないと思えるよう準備をしておきたいものです。

人というのは、生活や仕事の背景をそれぞれ持っていますので、社会への考え方は本当に千差万別です。相互に尊重する心を、基本的なところで持ち合わせていきたいと思っています。

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2020年06月18日

人種差別は極めて愚かな行いです

人種差別の根底にある心って何でしょう。私は自己への執著心だと思います。自己と異なった外見や、異なった文化・生活に違和感を覚えるのは、自己を保全したいという執著心の裏返しです。自己なんて言うものは、よくよく観察すれば本当にいい加減です。変化しない自己はありません。考えてることなんて、毎日コロコロ変わっていますし、外見だって日に日に変化しています。人は変化に弱い。変化が恐ろしい。だからそれに抗う。でもそれは不可能なので、仕方ないから別の方法で一時の安心を得る。それが差別です。自己と異なった外見や、異なった文化・生活を排除すれば、何となく自己を守っているように感じるからです。

人種差別は極めて愚かな行いです。

もとより愚かな自分自身に気づけば、こんなこと出来ないはずなんだけどなあ。

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2020年06月06日

自粛警察する前に

自粛警察って言葉、ここんとこ何度か耳にしました。正義を振りかざすって言うのでしょうか、ネット上でもよくありますよね。すごく正しそうに思える主張。一見すると間違ってないように思えてしまいます。でもよく考えると、何だか違和感あるなんですよね。一面的だからでしょうか。一面的には正しいとも言えるのですが、他方面からすると正しいとも言い切れない。正義って難しそうです。

ところで「正義」というのは、言うまでもなく「正しい義」という意味です。「義」は何かと言いますと、結構曖昧な言葉だと思うのですが、「道理にかなっている」ということでしょう。だとするならば、その「道理」っていうのが根本となり、それに違うことがない思考や行為が「正義」となります。「道理」って何ですかね。分解すれば物事の筋「道」となる「理」となりますので、つまりは「理」ですね。

この「理」というのは倫理・道徳の根本になるでしょうし、宗教においても宗教の根本として「理」という概念は用いられます。おそらく相対的ではなく、絶対的に捉えられていると思います。とは言いましても、宗教も含めて人が考えているわけですから、意外といい加減なのかもしれません。都合によって変化してしまうことがあっては、もちろん絶対的ではありません。

仏教で「理」と言いますと、通常は「真理」という言葉が用いられます。「真理」は「理」をさらに深めた言い回しです。では仏教の言う「理」は何かと言えば、人為的な物事をすべて離れたという意味になります。なるほどそうなると、ちょっとは絶対的な方向に近そうですね。でも、人が語ったりすると、一気に相対的になってしまうからこれまた不思議です。経典なんていらん、という考えもあるのです。

正義は道理に基づいているのですが、道理は振りかざした途端に恣意的なものに成り下がる危険性を常に含んでいます。正義を語る際、もっとも気をつけねばならぬことでしょう。歴史をひもといてみても、正義はしょっちゅう変化しています。いい加減なもんですよね。皆が勝手に都合で使っているからです。レストランの営業の可否についても、いい加減な正義に基づいていると言えるんじゃないかなあ。

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2020年04月29日

オンラインと肌感覚

日常生活での「オンライン」の役割が大きくなっています。人と人との接触を出来るだけ少なくしなければならないとなれば、オンラインはうってつけです。仕事も学校もオンラインで続けることにより、接触の機会を少なくすることができます。ただ、もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、うまくいかない場合もありそうです。たとえば小学校低学年ですと、双方向のオンライン授業を開始したとしても集中力が何分もつか分かりません。保護者が画面の前から子が離れないよう監視していれば別ですが、教室に比べれば先生の影響力は限定的になりますので難しいこともあるでしょう。

今、私は「先生の影響力」と書きましたが、まさにこの点に大きな問題点があると感じます。

と言いますのは、人のコミュニケーションは口と耳と目だけで行っているわけではありません。人には五感というものがあるでしょう。実は普段あまり気づきませんが、五感で会話しているのだと思います。実際、舌(=味)はあまり関係ないとは思いますが、肌で感じるところってあるでしょう。その場の雰囲気です。息遣いとか。相手が目の前にいるっていう雰囲気です。肌感覚というのは、私はもの凄く大きいものだと思っています。コミュニケーションの場面において、メール<電話<直接会う、と考える人もいるでしょう。しかし、私は電話<メール<<<直接会う、という具合です。電話は私にとってあまりうまくなく、耳だけで判断しないといけないのは苦痛です。メールのほうが目で判断できて、なおかつ読み返せるので楽なのです。

そして、いずれにも大差をつけて直接会うことを大事にしています。ではオンラインで画面を通して顔を見ながらの会話だとどうでしょう。私も何度か試しまして、実際、会合もオンラインで参加しています。まだ慣れていないというのもあるかもしれませんし、テクノロジーが進化すればもっと現実的になるのかもしれませんが、肌感覚がないため不安です。うまくコミュニケーションできているか不安なのです。もしかしたら、電話が発明された当時も、同じような不安感を持っている人がいたかもしれません。でも、今はあまりいませんよね。私も不安というよりは、電話では不満なだけです。一応、コミュニケーションは出来ていると思います。オンラインもいずれ慣れることでしょう。しかし、やはり肌感覚はありません。

全身全霊という言葉があります。人を身体と精神に分けて考察する見方は仏教にもあり、「色(=身体)、受、想、行、識(=以上、すべて精神)」と見ます。全身全霊というのは、さまざまな精神作用、つまり自分自身の意識のみならず、無意識の部分も含めての精神(=霊)と身体をもってという意味になります。人のコミュニケーションも実は全身全霊で行っているもので、だからこそ深く分かり合えるのだと思います。身体すべてで感じ取った情報は、すべて精神に伝えられます。身体は五感です。五感が欠けている状態ですと、当然のことながら伝達情報も欠けたものになります。電話は耳と口だけですから、それ以外は欠けています。メールはもちろん目だけです。言葉と文章ですよね。人は長年、言葉と文章だけでコミュニケーションを取れるよう、創意工夫をして技術を身につけたのだと思います。だから欠けている部分が補えている。

低学年の子にとっては、まだまだこうした技術を身につける途上にあるわけですから、肌感覚というものが重要になってきます。小さい子と電話で話をしても何だか良く分からないのは、こうした技術が未習得だからです。そうなりますと、双方向のオンライン授業をいきなり行っても先生の思いはなかなか児童には伝わらず、ひっちゃかめっちゃかなカオス状態になることでしょう。先生の影響力が限定的だからです。もちろん、子は柔軟ですのですぐ技術を習得して慣れていくとは思いますが、オンラインというものが即効性あり万能であるかのような喧伝は不誠実です。肌感覚のないコミュニケーションというのは、感覚を一部欠いているという認識が必要です。これは電話でもメールでも同じです。人と人とが直接会わなくてもいいという日常が到来するとすれば、それは全身全霊で生きている人をやめるということにもなることでしょう。

ただし、それが「進化」なのだという考えもあるかもしれません。人は宇宙の真理、それは一神教的に言えば神の意志であり、仏教的に言えば変化を繰り返す宇宙のあり方ということになりますが、それをを超えて行動できているわけではないので、テクノロジーも宇宙の摂理です。人の進化を今、目の当たりにしているとすれば、ああ、たしかに私も不安になるはずだ。

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2020年04月26日

法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会

新型コロナウイルスによって亡くなられた方々に対しまして、心より哀悼の意を表します。また、罹患されてしまわれた方々のご快復を、心よりお念じ申し上げます。私は今のところ罹患していないようですが、諸行無常のなか生きている私たちにとりまして、すべては自分事として受け止めねばならぬことと存じます。明日、どのようになるのか、本当に分からない世の中になってきました。この現状を把握し、自覚を持って生活を続けていきたいものです。自分自身がウイルスを運ぶ縁にならぬよう、細心の注意を払いたいと思います。

善福寺におきましては、法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会を現在、休止しておりますが、当面はこのまま休止とさせていただきます。葬儀と法事は今まで通り行っておりますが、本堂・会館においては間隔を空けてお座りいただき、必ず手の消毒をお願いしています。近隣の葬儀会館におきましても、同じように皆様のご協力をいただいているようにございます。

新型コロナウイルスの一日でも早い収束を願ってやみません。個人的なことではございますが、家飲み用に購入した大ジョッキが活躍してくれています。なかなか気分出ますね。

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2020年04月14日

大ジョッキを手に入れました

のんきな内容ですみません。かつて坊さんの先輩に月に1度は行事を作ったほうがいい、中高の友人からは忙しくしていたほうがいい、とアドバイスを受けました。そもそも善福寺は兼業寺院(父はサラリーマン兼業)であったこともあり、専業で入寺した30代は何をして良いのか分からず、少々暇で困ったこともあったのです。法務(お寺の場合は読経など)も忙しくしたいと思いまして、月忌参りを始めたりもしました。それから法話会、仏典会、楽友会、スウィーツ教室のような集いを始めました。また、地域のお役も積極的に受けるようにしまして、それなりに忙しい毎日を過ごしていたものです。が、法務以外はすべて休止となっている今、とても暇になってしまいました。前向きな方ですと、こうした境遇をチャンスに変えて英会話を習うとか、未来につなげるような行動を起こすことでしょう。私は後向き人間なのでしょう、とくに何もやろうと思ってはいません。ははは

家族団欒の時間は増えました。お寺の場合、専業だとだいたいお父ちゃん(住職)は家にいるんですよ。だからそれほど違和感なく、団欒時間は増えて嬉しいなぐらいなんですが、お勤めの方ですと違和感大ありかもしれませんよね。とくにお母ちゃん。毎日3食きっちり用意しないといけないとなりますと、これは大変でしょう。家庭によって状況様々だと思いますが、こうした普段から逸脱した家庭状況によって、アルコール依存症や家庭内暴力、児童虐待の件数が増えているとの報道もありました。多くの方が不安のなか過ごしていると思いますし、ああ、もう酒飲むしかねえ、と思う気持ちも分からんではありません。私もビール好きなので良く分かります。お酒は脳を麻痺させるのでしょう。疲れているときは疲れが吹き飛びますし、不安なときは大きな気持ちになったりするものです。しかし問題解決にはならない場合が多く、まやかしと言える作用ばかり続きます。それが分かってないと、いわゆる「お酒に飲まれた」ことになり、問題行動が発生するんじゃないかなあと思うのです。

とは言え私はビール好きなので、在宅用に大ジョッキを購入しました。1000mlにしようかと思いましたが、ひるんで800mlにしました。家ならば少なめなほうがいいかもしれません。昨日はそれで飲みましたが、まあ、あんま面白くはないです。私は完全に外飲み派で家ではほとんど飲みません。家にいることが多い仕事なので、家で飲んでいても区切りというか、気持ちの切り替えが出来ないからです。ただ、こうした今の状況が長引くとなれば、少々お酒との付き合い方を変えたほうが良いかもしれませんね。気持ちの切り替えができない家飲みでは、おそらくストレスが溜まってくるんじゃないかと思うからです。ストレスというのは困ったもので、簡単に言えば自分の欲望を抑え込んでいると溜まります。じゃあ欲望のまま生きればいいのかと言えば、そんなことしたら社会生活は送れません。仏教でも欲望をなくすほうがいいと説きますが、抑え込むことはむしろ良くなく、その根源を退治することが奨励されます。ただまあ、根源って簡単に言ってもねえ、まあ普通に生活しているぶんにはほぼ無理ですよ。自分の心にある根源的問題ってのは、早々簡単に解消できません。心は本当に厄介なもので、実は「私」という意識の管理下にはない部分も多いのです。そしてストレスの原因というのは、その管理下ではない部分に存在します。難しいわけですよね。

いずれにしましても、悶々としたものが溜まってきそうな気配ですが、他者にあたらないようにしたいものです。すべては自業自得、自分のことはすべて自分でなんとかするというのが仏教です。他者に支えられつつも、自分ひとりがこの世を生きていることを心に留め置いておきたいものです。

亡くなられた方や罹患されている方に心をよせながら、この状況が早く収束することを念じます。 合掌
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2020年03月12日

ウイルス感染予防と中道

先日、地元近所の焼肉屋さんに行きました。ガラガラでした。普段からガラガラではなく、通常ならば繁昌しているお店です。新型コロナウイルスの感染拡大で外食産業はかなりの痛手を被っているようです。不特定多数の人々が集まって密着する場所、そして換気の悪い場所は感染の可能性が高まると言います。焼肉屋さんは目の前に排気口があるから大丈夫なのではないか、という私の独断でしたが、隣席どころか入店時は誰もいませんでした。

外食産業は地元経済の一端を担っています。そして街の賑やかさということを考えた場合、小売店や食事処はさらに貢献度が高いと感じます。しかし、多くのお店は小規模経営なので資金力は大きくなく、一度閉店になってしまえば復活は難しいでしょう。街が寂しくなってしまえば、人口は増えるどころか減少に拍車がかかってしまうことは明白です。そうかと言いましても、地元で感染拡大すれば営業どころではなくなることでしょう。

ところでこんな話を聞きました。地元市内では今、中学生のインフルエンザ罹患がゼロだそうです。休校ということもありますが、おそらく、コロナ対策で例年以上に皆が気をつけて除菌に取り組んでいるからでしょう。しっかり対策をしておけば、たとえば外食であれば、ちゃんと除菌をして、あまり長時間にならず、わが家であれば家族以外の方との接近を出来るだけ避けるのであれば多少は大丈夫でしょうし、経済活動への影響を最小限に留めることも可能かもしれません。

仏教では中道ということを説きます。偏らない道です。

修行しすぎても修行自体への執着心が増すますし、だかと言ってまったく修行しないということであれば、どんどん堕落していくことでしょう。偏らずにバランスを取って行動することは、仏教の修行論のみならず、私たちが普段生活していくなかでも大切なことだと思えます。バランスのとり方は状況によって異なりますが、こうしたウイルス蔓延が心配される状況下であれば、感染予防に努めつつ活動を続けることが望ましいと言えそうです。

posted by 伊東昌彦 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年03月02日

トイレットペーパーと自灯明法灯明

トイレットペーパー、一気になくなりましたね。すごいデマでした。そして、それに多くの人が乗ってしまった。まさに我先に、ウォシュレットの時代ですが紙は大事ということでしょう。しかし急がなくとも、普通に生産はされているとのことで無駄足だったわけです。私はと言いますと、そういうデマが飛んでいるということにすら気づいていませんでした。今回の件は乗り遅れて良かった。

仏教には「自灯明、法灯明」という教えがあります。お釈迦様が亡くなる際、お弟子さんに「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と諭したそうです。お弟子さんは先生が亡くなってしまうので、この先がとても不安です。しかしお釈迦様は、すべて教えてあるので、その教え(=法)によって自分自身(=自)で思考・判断せよと説かれたのです。言うなれば、変なデマに惑わされずちゃんと考えて行動せよ、ということでしょう。

多くの人が正しい情報にもとづいて、自分自身で思考判断すればトイレットペーパー売り切れはなかったかもしれません。ただし情報が氾濫する今の時代、何が正しい情報なのか、それを見分ける世間的な知恵というものを私たちが持たないとならないようです。本来は一応、正しい情報は政府からの発表ということになるはずですが、何だかあまり期待できないかなあ。

posted by 伊東昌彦 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge