2014年12月01日

能を知る会(鎌倉能舞台)

先月の28日、鎌倉能舞台主催の「能を知る会」(横浜能楽堂)に行って参りました。狂言が「福の神」で野村萬斎師、能が「大社」で中森貫太師でした。お二人は芸大の後輩先輩にあたるようです。しかも、今回は式年遷宮を迎えた出雲大社へのお祝いということで、「大社」は萬斎師もお勤めになられました。「大社」はそもそも希曲だそうですが、その上、中森師と萬斎師のご共演ということで、私にとりましては、とても贅沢な思いで鑑賞をさせていただいたことです。

お能に触れるたびに思うのですが、お能は本当に宗教性豊かな芸術です。神仏を間近に見ることができるわけですから、これはもう異世界なわけです。しばしば「幽玄」という言葉で表現されますが、これは私どもが通常に感ずる「五感の世界」とは異なり、意識やさらにその奥深い心を垣間見るということです。五感にばかり頼っていますと、実は真実は遠ざかってしまう。中世人はそのことを知っていたのでしょう。現代人にとっては、忘れてしまった意識であると言ってもいいかもしれませんね。

鎌倉能舞台
http://www.nohbutai.com/perform/yokohama.htm

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2014年11月30日

意外と分からない?自分の思い

実は本ブログ以外にも、別のジャンルで匿名のブログを開設しておりました。数年続きまして、それなりに読んで下さる方も増えてきたのですが、それが少々負担になりました。本ブログとは異なり、コメントは投稿可能な状態にしておりまして、私も返答を欠かさずしておりました。内容は教育についてのことだったのですが、本当に色々なご意見を賜りまして、私自身、とても勉強させていただきました。

ただ、コメントも匿名ですので、返答に困ってしまうような内容のご意見もあり、「匿名」ということから、人間のあり様を垣間見ることもありました。匿名ということなので、あまり投稿に責任を持っている方はいないのかもしれません。本当に思ったことを、相手構わず書き込んでしまうのでしょう。これは一般の匿名掲示板でも同じことで、こうしたものを読む場合、まともに読むと大変疲れます。人間の心のなかというのは、こうした匿名投稿のような状態なのかもしれません。

上記は匿名ブログでしたので、私も本名を明かさず記事を書いていたわけですが、いい加減な文章になってしまいがちでした。匿名なのでそれでも良いとする意見もあるかと思いますが、ブログの主宰者ですので、一応、読みやすい文章になるよう心掛けたつもりです。しかし、その匿名性が難しく、最終的にはいきなり閉鎖ということになってしまいました。私には実名のほうが性に合っていたようです。また、一般の匿名掲示板で私のブログや、私自身のことを詰る方もあり、あまり気分の良いものではありませんでした。

日本は遠慮がちな社会ですので、匿名であるということも、時には社会にとって大切かもしれません。体面だけ気にしていますと、本質を見失うことも多いでしょう。SNSには実名で参加することが原則的には条件となっているものも出てきました。今後、インターネットでの交流というものは、どのようなものになっていくのでしょう。自分で匿名ブログを主宰することは、私にとってはしんどいものだったのですが、意見表明の場としては、匿名であるということも、ある程度価値あることだと感じます。

人と対している時の言葉、インターネットで匿名状態である時の言葉。これら両方がまったく同じという方は少ないでしょう。匿名掲示板に意見表明することで、ああ、実は自分はこう思っていたんだなあと、その時になって初めて気がつくこともあるかもしれません。自分の思いというものは、自分であっても、意外と分かりにくいところがあるかもしれませんね。

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2014年11月13日

男女の制服交換

山梨県の県立高校で男女の制服交換が行われたようですね。いくつかの新聞社で報道されておりました。生徒さんが自主的に企画したそうで、その発想と実行力には敬意を表します。ただ、何を学ぶことを目的としているのか、やや私には分かりにくいことでした。おそらく、性に対して固定概念があることを学ぶということなのかなあ。もしそうであれば、制服の交換とどのように関係するのか、もう少し情報が欲しいと思いました。話題性は感じましたが、学校としての意図も知りたいところです。

服装はそもそも個人の趣味なので、自分が良いと思えば、誰からも意見されるようなことではありません。男性でもスカート履きたければ、勝手に履けばいいのです。そういう習慣の民族ありますよね。よく考えれば、袴だってスカートみたいなもんです。また、女性がズボンを履くことは普通ですし、女子が男子の制服を着ても違和感はないでしょう。時代によってスタイルは変わりますし、たまたま現代日本においては、スカートとズボンの役割がこうなっているというだけの話でしょう。そう考えますと、服装は個人の趣味でありながら、同時に極めて社会性の高いものだということに気づかされます。場をわきまえた服装なんて言いますが、それこそ社会的な問題です。

ところで、実は私、仏教を勉強するために、ある時期、かつての武蔵野女子大学(浄土真宗の宗門校)における講義に出たことがあります。今は武蔵野大学として共学化しておりますが、当時は女子大でした。つまり、女性ばかりのクラスで講義を受けたわけです。正直言いまして、あまり居心地の良いものではありませんでした。少数派の男性として見られるので、とても浮いた感じがするわけです。積極的に講義参加というわけにはいきませんでした。この時、初めて男性社会のなかで頑張る女性の感覚が、体験として理解できたような気がしました。女性の社会進出の促進を考えたとき、いかに男性社会というものが障害になっているのかということが、この時の体験によって如実に理解できるようになったわけです。

男女の制服交換も、こうした性による差別を学ぶ機会であったのかもしれませんが、制服を交換しても、実際には差別を感じることは出来ないでしょう。なぜならば、スカートは差別ではありませんし、何よりズボンは男女共通で使用します。交換によって被差別の状況を体験できるわけではありません。なので、こうした社会問題を学ぶという意義ではなく、服飾史を学ぶということであったのかもしれません。なぜ、男性と女性で服装の大枠が認められてしまうのか。もっと自由に自己表現しても良いのではないか。こうした学びであれば、とても意義深いことかと思えます。

たしかに不思議ですよね。個人的な感覚ですが、なぜスカートは可愛く見えるのでしょう。可愛いと感じる根拠はどこにあるのでしょうか。経験上、勝手に思い込んでいるだけかもしれません。

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2014年10月19日

坊さんのあるべき姿

坊さんのあるべき姿ってのは、いったいどんなものなのでしょう。お釈迦さまの時代や、親鸞聖人の時代から学ぶことも可能ですが、敢えて現代的にはどうなのか、とても気になるところです。枠にはまれということではなく、自由でありながらも、利他(→他者に利益を与えること)に生きる坊さんとして、社会からどう求められているのかということは、「あるべき姿」として重要だと思います。

中高時代からの友人とメールをしていましたら、こんなことを伝えてくれました。以下に引用します。「慈愛に満ちたやすらぎ、安心感、あとは学識でしょうか。地域のお寺さんって、言ったらかかりつけ医みたいなところがあるじゃないですか。毎週日曜に通う教会もそうだと思います。そこで求めるものは、第一にやすらぎ、安心感といったものなんじゃないかなぁ、と思います。そして、これはあくまでプラスアルファとしてですが、やはりしきたりに精通していて、学識もあり、何か質問するとスッと明快に教えてくださる、といった存在で居てほしいな」、ということです。

坊さんも色々と迷っている時代です。何をすれば良いのか分からないという方も多いでしょう。目立つことをするのもインパクトあって効果的かもしれませんが、基本は「かかりつけ医」だと思います。そもそも、本山以外の一般寺院というものは、地域のお寺として成立しています。地域活動こそ坊さんに求められてきた社会的役割なわけで、それは今も変わらないでしょう。

地域活動を通じて、どこかで仏教を伝えられれば、それこそ利他に生きることにつながると思います。坊さんにとりまして、勤行、修行(勉学)、掃除は基本ですが、そこに地域活動を入れるならば、自からお寺も活気づいてくるはずです。実際、私も地域活動を通じて知り合った方に頼まれまして、ご供養のお経をあげたこともございます。坊さんも地域に出て、顔を見せないといけません。

かつてのインドにおきましても、僧院での修行中心時代がありました。修行は大切なことですが、社会と接点のない修行というのは、単なる自己満足に陥りがちです。そうではない、仏教の本来の生き方は市井にこそあるはずだ、ということで出てきたのが大乗仏教です。お釈迦さまは修行と説法の繰り返しのご生涯でした。原点に立ち返るという意味でも、大乗仏教の出現は意義深いことだと思います。

私も大乗仏教の坊さんです。友人の言葉を忘れず、利他に生きる坊さんでありたいと思っています。

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2014年10月07日

坊さんがバラエティの異様

先日、新たにスタートするバラエティ番組から出演を打診されました。即座に断りましたが、坊さんもバラエティでタレント化するのでしょうか。世間に埋没しないためにも、ある程度は坊さんにもこういう露出は必要かと思います。ただ、テレビ番組の影響力を考えますと、坊さんも商品化していく可能性もあり不安になります。

坊さんがお寺の内幕を話したり、霊感の話をしたりすれば、そりゃ面白おかしい図が出来上がりますよね。何てったって坊さんですから。坊さんってのは不思議な存在です。あんな服装しているけど、異様に俗っぽい人も多い。一体全体、何なんだろうと思われる方も多いことでしょう。だから面白がられるわけです。

一瞬、ちょっと出てみようかななあとも思いましたが、一時的にテレビ出演の恩恵があっても、長い目で見れば、テレビ用に奇抜な坊さんを演じなければならないかもしれんわけで、悪影響のほうが多そうです。バラエティに坊さん・・・。坊さんが世間からどう見られているのか、今一度、振り返る必要がありそうです。坊さんとしての本道、ちゃんと考えないと。

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2014年10月05日

離檀ということ

離檀というのは、お寺の檀家をやめることです。お墓を引き払ってしまうわけです。最近、石材屋さんがしきりに「お墓のお引っ越し」を宣伝されていますね。新規ではお客さんが取れないのでしょう。これも時代の流れと言うべきことでしょうか。

お墓の区画が空いてしまいますと、これは結構困ります。墓地区画の中古販売は難しいですし、活用方法が思いつきません。墓地が虫食い状態になってしまうわけです。もちろん、収入も減少しますので、離檀が増えれば増えるほど、お寺の経営は圧迫されていきます。

離檀がまったくないお寺はないとは思いますが、出来るだけないようにしたいものです。そのためには、魅力あるお寺であり続ける必要がありましょう。檀家としての負担も問題ですし、改革をしなければならないことは、山のようにあると感じます。

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2014年09月22日

諦めない?諦める?

最後まで諦めるなぁぁ!!

最近、子どもが頑張っていることがあるので、頻繁に口にするようになりました。諦めてしまえば、もうそこでおしまいです。粘り強く取り組むことは、スポーツや勉強のみならず、社会人になってからも大切な心掛けでしょう。

ところで、仏教では「真理」を体得することが目指されます。「真理」とはこの世の真実のあり様であり、無常という言葉でも表現されます。また、これを4つの側面から表すこともあり、その場合、「苦」、「集」、「滅」、「道」という説明がなされます。「苦」とは人生が苦しみの連続であるということ、「集」とは苦しみには何かしら原因があるということ、「滅」とは苦しみは消滅させることができるということ、「道」とは消滅の方法があるということです。この4つを「四諦」とも呼びます。

「諦」とは「真理」のことであり、「諦めるな!」と言う場合の「諦」と同じ字を使います。でも、何だか変ですよね。一般的に諦めることはあまり良いことではないのですが、仏教ではこれを体得することが目指されるわけです。逆じゃないのか、と思いません?

「諦める」ということは、実は物事を明らかにするということなのです。私どもは「途中で投げ出す」という意味を含めて使ってしまっていますが、本来は現況をしっかり把握し、どう対処するのか決めるというような意味であったはずです。まあ、たしかに途中で投げ出す場合も、「ああ、自分にはもう無理」と明らかにするからこそ、そこで投げ出すことができるので、あながち間違えた用法ではないかもしれません。

「最後まで諦めるな!」と叫ぶよりも、実は最初に諦めたほうが、物事はうまくいくこともありそうです。「諦」という字、なかなか示唆に富んでいますね。

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2014年09月07日

木村清孝『さとりへの道 華厳経に学ぶ』

かつて、武蔵野大学での講座で教えをいただきました、木村清孝先生のご近著です。

木村清孝『さとりへの道 華厳経に学ぶ』
NHK出版、2014年4月1日 
本体905円+税

目 次   
はじめに
第一回 教えとともに
第二回 『華厳経』が語るもの
第三回 輝く叡智
第四回 真実を求めて
第五回 教えを慕う人々
第六回 今、ここに出会う

経典は仏教の教えをまとめたものであり、日本では『般若心経』がポピュラーであろう。しかし、経典はキリスト教の聖書とは異なり、本棚には入りきらないほど膨大な巻数がある。本書で扱う『華厳経』も、もちろん、そのなかの一部である。ただ、それほどポピュラーであるとは言い難い。栃木県日光市にある「華厳の滝」は聞いたことがあっても、それが『華厳経』という経典に基づいて命名されたことは、あまり知られていないだろう。
本書の著者は中国仏教の大家であり、『華厳経』や華厳教学を研究の中軸に据えている。『華厳経』は西暦400年前後に、西域の天山南路に位置するオアシス都市コータン(現在の中華人民共和新疆ウイグル自治区)周辺で成立したと推測されている。インド文化圏も中国文化圏もともに視野に入る地域である。『華厳経』の原典はサンスクリット語で著されていたと思われるが、完全なものは残されていない。今は漢訳のものが3つ、チベット訳のものが1つ残されるのみである。漢訳には六十巻、八十巻、四十巻のものがあるが、六十巻本のものが、最もよく当初の形を反映していると考えられている。本書においても、この六十巻本を中心にしている。
『華厳経』では盧舎那仏が教主となるが、この盧舎那仏は「さとられた釈尊」(98頁)を意味している。盧舎那仏は東大寺の大仏としても有名である。仏教ではさとりの世界を目指して修行をするのであり、『華厳経』は人々をさとりへ誘うと同時に、そこへ至る道のりをていねいに説き明かしていく。さとりの世界のイメージは蓮華蔵世界として語られ、それは無数の因縁によって形づくられている。蓮華蔵世界は空間的にも時間的にも、すべての存在が互いにかかわり合っているのである。
著者は最後に「共成」(194頁)という言葉をもって本書を締め括る。「共成」とは「共に真実の人間と成る」(194頁)というありようであり、互いに手を取り合い、平安な世界の実現に向けて「共に成す」(194頁)ことに努める道である。

レビューは伊東昌彦

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2014年08月16日

天台思想の学び

今、角川ソフィア文庫の田村芳朗・梅原猛『絶対の真理〈天台〉』を読んでいます。難しく、なかなか進んでいません。天台思想について、少し勉強してみたいと思っています。実は善福寺の開基上人であります了源上人は、もとは天台宗の坊さんだったのです。親鸞聖人に出会って浄土真宗に転向したのでした。ただ、当時は浄土真宗という一派があったわけではないので、天台宗のなかにおける、浄土門親鸞流とでも言うような位置づけだったのでしょう。善福寺を創建したのも、そういう立場であったと思います。したがいまして、善福寺はもとは天台宗としてのスタートであったと、私はそう考えています。

浄土門や禅門は現代日本仏教の中心になっていますが、いずれも実践色の強い教えです。独自の学問がないわけではありませんが、その教えを学問的に理解するためには、その展開のもととなった他宗の学問を学ぶ必要もあります。浄土真宗でしたら、やはり親鸞聖人も学んだ天台思想が重要でしょう。そこからの展開として見たとき、浄土真宗の理解は格段に深まっていくと思います。

そもそも、天台思想にかぎらず、大乗仏教を学び実践するためには、体系的に整備された学問を習得する必要があります。他には華厳思想、唯識思想、密教思想など、大乗仏教全体をそれぞれの立場でまとめ上げた学問です。大学院時代、指導教官をして下さった竹村牧男先生は、どの教えでも構わないので、体系的に大乗仏教を学ぶことが大切だと仰っていました。私はどれもかじった程度ですが、天台思想だけは学んだことがなかったので、ようやく一念発起をしてみようかと思ったわけです。

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2014年08月08日

できれば家族は一緒に

家族が一緒にいられるならば、出来るだけ一緒にと私は考えます。なので、近くの居酒屋も家族で行きます。居酒屋だと批判もあるかもしれませんが、あまり問題は感じません。都会だとまた違うのかもしれません。近所の居酒屋には仕事帰りの方はあまりおらず、家族連れがとても多いのです。外食産業が少ないということも関係しているでしょう。私は家で飲まないので、飲みたいときは、家族も一緒に行ってしまうわけです。

先日、働くお母さんについての特集をニュースで見ました。ある会社では、託児所を設けるのではなく、仕事場にお子さんも一緒にいられるよう、配慮をしているとのことでした。4歳未満とおぼしき子たちが、仕事場で遊んでいました。実施のハードルは高いかもしれませんが、施設に丸投げよりも、よほど子どもにとって良さそうです。

親としての責任とは何なのか。

昨今の痛ましい事件を見ていますと、無責任な親の多いことが残念でなりません。

子どもが育つということは、自分も一緒に育つということです。

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2014年08月01日

命は後で何とかならない

最近、多くの事柄において、「後で何とかなる」ことが増えているように思います。たとえば、良く言われるところで、人との待ち合わせ。かつて、人と待ち合わせをすると言えば、何日の何時にどこで、という具合に、間違えのないように約束をしました。ここで間違えれば、待ち合わせすることが出来ないなるからです。携帯電話はもちろんなし。公衆電話はありましても、相手はもう出かけている。連絡の取り様がないからです。でも、今は携帯電話がありますし、上記のように待ち合わせの約束をすることがなくなりました。何日の何時ごろ、着いたら携帯電話に電話してね、という具合がほとんどでしょう。携帯電話によりまして、「何とかなる」からです。

他にも色々とあるでしょう。便利になりまして、何か失敗しましても、取り返しがついてしまうことが多くなりました。チャンスが多いことは良いことですが、敗者復活戦が多過ぎましても、緊張感に欠けるというものです。「これっきりなんだ」という意識を持つことは、チャンスをものにするということにおいても、とても大事なことだと思います。人との約束も、「行けたら適当に携帯電話で連絡するよ」と言うように、軽々しいものになってしまった気もします。

ところで、後で何とかならず、もちろん敗者復活戦もないものがあります。いつの時代でも変わりません。それは命です。命は一度きりです。だから尊い。同じ命を何度も繰り返せるならば、まったく尊くありません。一度きりだから尊いのです。そんなの誰でも分かっているよ、と思われるかもしれませんが、子どもたちに、ちゃんと伝えることが出来ているでしょうか。誰にとっても、どんな存在であっても、命は等しく尊い。自分が自分自身を尊く思っているように、誰でも、どんな存在でも、同じように尊く思っているのです。そして、一つの命は、また別の命とつながっています。家族や友人、大切な方々、皆がつながっているからこそ、命はこの世に存在することが出来ているのです。一つの命を奪うことは、つながる命も奪うことになりかねません。

親や大人がちゃんと教えないと、今の子どもは分からないかもしれません。後で何となることが多く、たった一つの命についても、「後で何とかなる」と思っちゃうことがあるかもしれないからです。

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2014年07月28日

子ども会は中止となりました

今年も善福寺子ども会(戦没者追悼法要)を開催する予定でしたが、参加者が極端に少ないため、今年は見送ることとなりました。今年で6回目となりましたが、お盆休み最終日という日程が良くなかったかもしれません。8月は地域のお祭りも多く、日程調整が難しいのですが、読みが甘かったようです。大変申し訳ございません。

ただ、内容自体も考え直す時期に来ているかと思えます。単純に夏休みに子どもたちに来てもらい、本堂でお経をあげて、境内でバーベキューということでは、継続性において無理があるとも感じます。子どもを集めることは大変なことなので、毎年、色々なご縁をたどって来ていただいておりました。しかし、毎年来て下さる方は多くありません。私どもも、子どもを集めることが目的となってしまい、そこに焦点を合わせた内容ばかり考えていました。お寺でやることの意義が、かなり薄まってきてしまっていたのも事実です。

伝道布教において、子どもたちにお寺を身近に感じてもらうことは必要なことです。こうした打ち上げ花火的なイベントでも子どもたちはお寺に来てくれますが、親近感が根付くことはないかもしれません。もっと地道な、たとえば毎週末の土曜学校や日曜学校というものが、本当の意味で効果的だということを、改めて感じたことです。

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2014年07月25日

イライラ解消のため

暑いですね。そのせいか、ちょっと最近、ややイライラが多くなっています。些細なことでイライラしてしまい、ムカッとくることが多いのです。たしかに、お寺のことはもちろん、色々な仕事のことですとか、子どもの教育のこと、両親についてのこと、やたらと脳を使うことが多いかもしれません。メモリ不足なのでしょう。もう41年ものですので、古くなってきたようです。ファミコン世代なんですよ。

さて、こういう場合、どうすれば良いのでしょう。生ビールでも飲めば、多少は気分もよくなるかもしれませんが、飲み過ぎますと逆効果です。お酒はイライラ解消には効果がないでしょう。私はこんなとき、パソコンのワープロソフトを使いまして、問題をまとめるようにしています。お寺のことでしたら、問題を書き連ねまして、さて、それをどう解決していくのか、思いつくだけ解決法を併記しておきます。文章にしますと、結構落ち着いてくる性格なので、なかなか効果的です。もちろん、ノートに書いても同じ効果だと思います。

その文章ファイルはどうなるかと言いますと、イライラ状態を過ぎれば、そのままパソコンのゴミ箱へ直行です。役割が終わったのです。脳がパンクしそうなとき、ある程度、それを整理していくことは必要でしょう。パソコンでもそんな作業があったような気がします。いらない部分は捨ててしまうわけです。捨てるということも、案外、大事なことかもしれません。全部捨てれば、そりゃ仏さまなのですが、凡人は全部を捨てることができません。なので、ちょこっと捨てておくわです。

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2014年07月20日

オロナミンCに大雄山

オロナミンCのCM、大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)が出ていますね。坊さんがバレーボールしています。学生時代はバレー部だったのでしょうか。かなり気合い入った表情です。
 動画↓
http://www.otsuka.co.jp/adv/orc/

大雄山最乗寺、是非、お参り下さい!!


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2014年07月17日

インチキ多いなあ

人は理性もありますが、同時に迷い多く、煩悩を抱える存在です。有史以来、インチキがなくならないことは、それを裏づけることでしょう。人は辛いとき、インチキして逃げたくなるものです。実は私も、大学時代の定期テストでカンニングをしたことがあります。恥ずかしいことですが、心の持ちようが弱かったのだと思います。インチキをしていない仲間への配慮はなく、とても自己中心的でした。

最近、インチキ多いと思います。敢えて事例を挙げるまでもなく、それなりの立場の人が、思い切りインチキをしています。代役を立てたり、コピペをしたり、架空請求したり、色々とまあ、考えるもんだなあと思います。自分に自信がなく、不安なのでしょう。日本社会が成熟期に入り、以前のような明るい成長が予想できにくくなっていることも原因でしょうか。

カンニングはそれ以来、1度もしていません。後味悪いんですよね。この後味ってのは大事で、これがなくなると、自分のことしか考えられなくなる。とても良くないことです。迷い多いなかでも、他者を思う気持ちは忘れてはいけない。相手を蹴落として、それで満足していくのは、仏教ではもちろん、日本的感覚としても、あってはならないことです。やはり、「和をもって貴しとなす」ことが大切です。

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2014年07月15日

迷いだらけが人だから

現代日本において、完全出家の伝統仏教教団はほぼないと思いますが、本来、出家というものは、俗世間を断って修行に励むことです。俗世間の迷いから離れまして、修行一筋に生活を送るわけです。ただ、いきなりハイレベルになれるわけもなく、やはり修行生活のためのルールが規定されています。戒律の律がこれに相当し、戒が自律的であるのに対し、律は罰則のある他律的なものとなっています。出家修行者とはいえ、やはりルールがないと上手くやっていけないわけで、人である所以ですね。

昨今、飲酒やいわゆる脱法ハーブ摂取によりまして、命を奪う、許し難い事故が頻発しております。携帯電話を使用しながらの運転も多く、こちらも同じような事故につながっています。正常でない状態の運転は禁止されていますし、携帯電話を使用しながらの運転も禁止です。法律で禁止しなければならないということは、つまり、こういうことが起こり得ると予想されるからです。身体があり人である以上、さまざまな迷いのなかで生きていくことになります。皆が安穏に暮らすためには、皆が自律的であることのほか、やはり他律的なルールが必要です。ルールを守らなければ、社会自体が破綻してしまいます。

居酒屋にいますと、多分、この人は飲酒運転なんじゃないかなあと思うことがあります。車で来ているのに、全員が飲んでいるとかね。代行業者も来なかったし、車を置いていく気配もない、押して帰るのかと皮肉りたくもなります。携帯電話も多いですよね。若いお母さん、携帯しながら片手運転で、しかも子どもは後部座席で野放し・・・。皆で支え合って生きている社会なんだということ、もっと認識してもらいたいものです。出家修行者だってルールがあるんですから。

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2014年07月03日

お能の幽霊はしゃべる

お能には幽霊がつきものです。幽霊と坊さん、ほとんどセットです。だってそれ、物語だからでしょ?、こう思われる方も多いかもしれません。しかし、そうではありましても、日本人が感じてきた幽霊なんです。日本人は昔から、とりわけ仏教が輸入されてきてから、それはもう幽霊が大好きなんです。

実は仏教では幽霊ってのは有り得ません。現世の命が尽きたならば、すぐさま自らの業が発動しまして、一気に輪廻転生の準備が始まるからです。四十九日の間は中有と言いまして、幽霊のようなフワフワした存在になる場合もあるそうですが、姿はまったく現世のものを踏襲しません。映画『未知との遭遇』の宇宙人みたいな感じでしょう。

ただ、来世が確実にあると仏教は説くので、こうした中有の考え方と合わさりまして、幽霊が誕生していったのでしょう。御霊信仰というものも、命尽きても何らか存在し得るという考えによっているわけで、それはもう、どんどん幽霊が生まれてきたわけです。今でもそうでしょう。幽霊なんていないと思いながらも、何となく存在を否定し切れない。幽霊とはそういう存在です。

お能は日本人の感覚を良く伝えていると思います。本気でそう思って、本気でそう感じていたのです。私たち現代人はやや忘れてしまいましたが、おそらく、心身のどこかで覚えているはずです。幽霊はいるんじゃないかということを。

お能での幽霊はとにかくしゃべります。個人的事情を教えてくれることも多く、とても親切です。私ももし、どこかで幽霊に遭遇しましたら、会話をしてみたいと思っています。

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2014年06月21日

昭和40年代生まれ

最近の小学校では、「学校へ行こうDay」という行事がありまして、保護者や地域住民が自由に小学校を訪れ、児童の様子を見ることができるようになっています。数年前の学校側の見解では、これはかつての授業参観と同じだそうです。

ただ、かなり雰囲気は異なっています。私どもの時代、つまり昭和末期においては、まだ授業参観と言えば、ほとんどの保護者が装いを正して来校し、先生も緊張されるなか、授業が厳かに進行していく、という雰囲気でした。私のクラスでは、質問には全員が手を上げるよう指導がなされ、本当に答えられるのかは、手の上げ方により、先生だけが分かるというシステムのときもありました。これはやや過剰な例かもしれませんが、授業参観と言えば、普段の授業の様子と言うよりも、特別な授業発表会のような位置づけだったのかもしれません。

一方、「学校へ行こうDay」においては、朝から放課後まで、完全に学校を解放している状態なので、入口で記帳さえすれば、誰でも自由に入り、自由に授業を見学することができます。先生方もかつてのように緊張される様子はなく、リラックスして授業を進められています。昭和末期の授業参観よりも、児童の様子を知る、授業の雰囲気を知る、という視点において優れていると思われます。

しかし、問題も多々あると感じます。リラックス状態なので、保護者もリラックスし過ぎまして、とにかく廊下でのおしゃべりがうるさい。まるで街角状態なのです。これはいただけません。教育について情報交換したい気持ちは分かりますが、それは帰りの際、校外ですれば良いことでしょう。ちょっと残念です。

今、私どもの世代が親世代になってきております。昭和40年代生まれです。第2次ベビーブームとも呼ばれ、とにかく人数が多い世代でした。小さい頃から競争過多な側面もあり、そういうハードな生活に疲れ、なかば白けてしまい、また、人数の多さから勝手を押し通すことも常であるかもしれません。受け身の教育世代とも言え、白けた状態で温室的に育ってきたせいか、比較的意志が弱いとも言えそうです。

勝手を押し通すという側面は、廊下でのおしゃべりにも反映しているかと思います。公共マナーにうとく、「別にいいんじゃない、そんなこと」という他人事視点で生きており、周囲を気遣う心に欠けています。私自身についても、そういう事がないとは言えないようです。車の運転をしますと、理性で隠れていた部分が出てきます。とても勝手な運転をしてしまうこと、しばしばです。

給食費を払えるのに払わないとか、家庭教育まで学校に丸投げするとか、何かあれば即学校にクレーム電話をかけてくるとか、私どもの親世代では考えられないことを、私どもの世代は平気でしてしまっています。大人数のなか、一生懸命に自分を守り、生きてきた世代でもあるのですが、親から独立し、家庭を持つほどになり、勝手さに歯止めが利かなくなっているのかもしれません。

世代論で言えば、やはり「団塊の世代」が有名です。しかし、自分たちの世代のことなんて、あまり考えたこともありませんでした。同世代というのは、育った社会環境を共有する者たちの集まりなので、たしかに思考傾向は重なる部分が多いかもしれません。もう少したちますと、私どもの世代論も一般に広まるかもしれませんね。

いずれにしましても、子を育てるということは、子の手本にならないといけないわけで、立ち居振る舞いには気をつけていきたいと思います。

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2014年06月11日

生と死と

生死一如、仏教にはこうした言葉があります。生と死を正反対の概念で捉えてしまうことも多い私たちですが、良く考えてみましたら、生きることとは、まさに死へ向かうことでもあります。そもそも、死という機会がなければ、生きるということも無意味になりましょう。今を生きることしか出来ない私たちにとりまして、限りがあるということは、今というこの時に意味を与えてくれるものです。

もし無限であるならば、時という概念自体、まったく無意味なことになってしまいます。人生のなかで、私たちが何らかの生きがいを感じることができるのも、実は死があってのことだと言えるでしょう。

死はいつ訪れるのか分かりません。その意味において、私たちの人生はいつでも断崖絶壁を歩くようなものです。しかし、断崖絶壁だからこそ、平らかであることの有り難さは身にしみてくるものでもあります。死に対して鈍感であることよりも、敏感であることのほうが、より人生の醍醐味を満喫できるのではないでしょうか。

あたり前と思えた一日が、有り難さに満ちた特別な一日になってくるとき、目覚めある暮らしが始まることでしょう。

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2014年06月04日

『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』

やや古い本ですが、紹介をさせていただきます。神田千里先生の『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年5月20日、2000円+税)です。

【 目 次 】
・一向一揆は解体したか
・一揆蜂起の背景
・門徒の蜂起
・大坂籠城
・王法と仏法
・あとがき
・石山合戦年表
・参考文献
・『信長と石山合戦』を語る

著者は東洋大学文学部教授(日本中世史)。本書は、1995年に吉川弘文館より刊行された初版に「『信長と石山合戦』を語る」という項目を新たに加え、復刊したものとなります。
一向一揆は、本願寺を母体とした反体制的な宗教一揆であり、織田信長と対決して滅亡したとされるのが通説です。しかし著者は、その後の本願寺と信長の良好な関係を伝える史料をもとに、この見方は「壮大な神話なのではないか」(250頁)と推測します。本書はこうした著者の視点により、従来の一向一揆像への全面的な見直しを提起したものとなっています。
著者は、本当に一向一揆は解体したのかという問題を提示することから始めています。そして、大坂で籠城した本願寺は信長と和睦して退去するものの、いまだ各地には一揆を発動できる門徒集団が存在していたことを指摘します。また、和睦によって本願寺は仏法の領域を担当する一員としての評価を得たと述べ、最後に「本願寺教団が最大の宗派となる、という近世の事態はここから始まるように思われる」(231頁)と結んでいます。

善福寺門徒からも、背中に旗指物をして出陣した方がいたそうです。

浄土真宗本願寺派総合研究所
仏教書レビュー
http://j-soken.jp/category/read/review

posted by 伊東昌彦 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge