2015年03月26日

松丸壽雄先生の『直接知の探究』

今、松丸壽雄先生(獨協大学国際教養学部教授)の『直接知の探究‐西田・西谷・ハイデッガー・大拙』(春風社、2013年)を読んでいます。とても難しいので、鈴木大拙のところから読んでいます。大拙は浄土教についても書いており、関連書も含めて何冊か読んだので、多少は理解しやすいところがありました。大拙が言うところは、やはり大乗仏教での空思想、とりわけ、中国的に再解釈されたものに近似性があるように感じます。そりゃまあ禅宗の人なので、中国仏教を下地にしていることは当然なのですが、三論学、天台学、華厳学というところから見ますと、結構分かりやすい。そんな風に思いました。

ところで、私は獨協大学時代に松丸先生の一般教養「哲学」を履修していたわけですが、大学生になりたてで舞い上がっていたせいか、最初と最後の授業しか出なかったような気がします。人気講座で席がなかったというのもありますが、いかんせん頭が悪く、哲学を理解できるだけの素養がなかったようです。もう20年以上も昔の話ですが、今なら受講していられるかもしれません。

先生、すみませんでした!!  合掌

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2015年03月15日

『妖怪ウオッチ』に学ぶ

子どもたちの間で、『妖怪ウオッチ』というゲームやアニメが人気です。ビックリマンチョコとポケモンを足して2で割ったようなもんだと思っていましたが、おそらく、私と同世代の方々が制作に関わっていらっしゃるのでしょう。結構、面白いんですよ。パロディも多いので、その意味が分かるからでしょうか。意外と見ていられます。もう頭が固いので、なかなか新しいものを受け入れられなくなっているのですが、久しぶりに楽しめています。

その『妖怪ウオッチ』のアニメ、冒頭でたしか、この世の不思議なことは全て妖怪の仕業・・・、とかいうナレーションが入ります。はじめ、そんなことないでしょう、とインテリぶって思っていましたが、最近、それはその通りのほうが良いと思い始めました。

そもそも、人間にとって世界は不思議だらけです。不思議というのは、もとは仏教用語で不可思議という言葉だと思いますが、人では思いはかることのできないこと、という意味になります。現代人は何でも思いはかろうとしますが、不思議は不思議のままでいっこうに構わないと思いません?それが妖怪の仕業だったとしたら、それもまた面白いじゃありませんか。

妖怪は常識を逸脱していると思うところに出現するわけなので、そういう意味においては、常識にとらわれ過ぎた排他的な人の様相を映し出していると言えます。臭い物に蓋をするという感覚が働いているかもしれません。しかし、一方においては、不思議と思える現象や事態に直面した際、そこには何か人知を超えた力がはたらいていると感じる。だからこそ、それはそのまま、ちょうど良い距離を保ってつき合っていこうという考えが出てきたのだと思います。共生ですね。

この宇宙において、距離は大切なバランスです。何であっても、つながりを保ちながらも、上手く距離を保って存在している。存在というのは区別ですので、互いを認め合うことが不可欠だということ、こうした側面からも理解できますね。

ところで、私は「ロボニャン」という妖怪が好きです。
テレビ東京のサイト。↓
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/youkai-watch/chara/

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2015年03月02日

自然の一部としての私たち

最近、公私ともに忙しく、あまり勉強をする時間が取れていません。坊さんの心得としまして、勤行、掃除、勉学修行の三項目は必須です。勤行は毎日ありますが、掃除も体力低下で停滞中、勉学修行も時間が取れず、やや自責の念にかられております。昨日は法話会でしたが、勉強不足であまり新鮮な内容とはなりませんでした。

法話会では宗教心について話をいたしました。最近、とくに大事だと思っていることなので、寺報にも同じような内容の記事を掲載しました。宗教心は特別な心ではなく、普段、私たちが生活をしている際、周辺環境からのはたらきかけで感じることが出来るものです。人間関係においては支えられる有難さ、自然からは大いなる存在を感じることが出来ることでしょう。

ところで、「自然に優しい」とか、「自然を守ろう」とか、そういう標語を聞く機会はよくあります。とても大事なことだと思います。ただ、私はそれと同時に、この標語のなかに、私ども人間の傲慢さが隠れていないか気になります。おそらく、地球規模において、仮に人間が自らを絶滅させるような行為をしたところで、地球が割れるとか、そんなことはないでしょう。人間に惑星を消滅できるほどの力はありません。人間の責任で地球上の生命に生存の危機が訪れることはあるでしょうが、そうであっても、地球はより長い年月、億単位の期間をかけて再生するでしょう。

人間という存在は、あくまでも地球という自然環境の一部であり、それを超えるなんていうことはない。そういう意味においては、人間が自滅的な行為をすることも、自然環境のなかで消化可能なことなのであり、自然のサイクルの一部だとも言えます。もちろん、そうした行為を肯定はしませんが、そもそも、人間の行為なんて言うものは、ちっぽけなものです。「自然に優しい」とか、「自然を守ろう」という標語の意味は、「人間が住める自然に優しい」であり、「人間が住める自然を守ろう」という、人間存在が前提となった標語であること、私たちは理解しないといけません。「共生」という言葉がありますように、人間も含めて、すべては共に生きている、いえ、生かされている存在なはずです。

自然環境を支配することは出来ません。これを可能だとすることは、傲慢の極みとも言えるでしょう。私も出来るだけそう思わないよう、気をつけたいと思います。

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2015年02月08日

『日本思想全史』の紹介

清水正之『日本思想全史』 ちくま新書、平成26年11月10日 本体価格1100円+税

平成21年7月に臓器移植法が改正され、再び「脳死」が議論の俎上に載せられたことは記憶に新しい。脳機能の消失が人の死と言えるのかどうか、これは医療的な観点のみならず、文化的・心情的な観点からも議論されるべき問題である。日本人が率直にどう思うのかということは、きわめて重要なテーマであると言えよう。

本書は日本思想を照覧するものであるが、その締め括りは生命倫理であり、脳死問題についての言及である。著者によれば、近年、古典哲学の研究者であっても、現代的問題に積極的に発言することが多いと言う。脳死問題は決して日常生活と無関係ではなく、誰にでも起こり得る問題である。科学・医療の進歩は著しく、また、様々な社会制度が立ち並ぶなか、私たちの生活環境は複雑化する一方にある。生命倫理や環境倫理であっても、皆が関心を持たねばならない時代に来ているだろう。だからこそ、こうした倫理的問題を考察する上での一助として、現代日本人の文化や心情が、どのような思想の変遷を経て成り立っているものなのかを知ることは有益である。教養としてのみならず、社会の諸問題を解決する糸口を本書は与えてくれることであろう。

日本人は古来より異文化を選択・受容し、それらを深化させてきた。古代中世における仏教、近世における儒教、近代における西洋思想は、今でも日本人の感性に影響を及ぼしている。哲学的思索のみならず、短歌や俳句においても、その姿をしっかりと見ることができる。本書をひも解くことによって、私たちは今自らの思うことが、どのような思想的流れのなかに裏づけられるものなのか、知ることができるであろう。

以上は、浄土真宗本願寺派総合研究所HPの「仏教書レビュー」に寄稿したものです。
http://j-soken.jp/category/read

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2015年01月15日

私はSNSが苦手です

突然ですが、私、結構マメなほうなんですよ。性格的に細かいところもあります。だから、SNSは得意そうに思っていたのですが・・・、やはりダメでした。二度トライしまして、二度とも挫折。何だか居心地悪くてねえ。難しいもんです。好きな方も大勢いるんでしょうが、私はとうとうギブ。アカウント消滅させました。

何がダメなのかと色々考えましたが、そんなもん考えていること自体、ダメなんでしょう。考えて使うものじゃないかもしれません。そのSNSはそもそも実名なので、ネット空間でありながら、とても現実的な雰囲気漂うものなです。私が感じるネットの良さじゃなかったかなあ。うまく表現できませんが。

現実はやはり対面しているほうがいい。ネットも経験の1つですが、相手と対面はしていません。対面しているのは画面。現実っぽくて、現実じゃないような。この場合、経験しているのは画面との対面です。図鑑見ているようなもんでしょうか。

まあ、ひがみ根性な私ですので、どうも「いいね!」と思わないのが、根本的な問題かもしれません。正直にやると辛い。自分が見えすぎて辛いわけです。そういう意味において、SNSはとても仏教的修行が出来る場なのかもしれません。

合掌

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2014年12月14日

一人飲みなんですよね

新聞の電子版で、最近、一人で行動することを好む人々が増えているという記事を読みました。なるほど、何となく分かるなあ。実は最近、よく一人で飲みにいきます。次男坊も連れていくこともあるのですが、カウンターで店のマスターと話をしているので、ほぼ一人状態です。楽なんですよね。

昔は大勢で飲むのが好きでしたが、年齢が増すにつれまして、少人数を好むようになりました。なんででしょう。不思議ですね。もとより、かなり人に気を使ってしまうたちなので、それが面倒くさくなったという側面もありそうです。面倒くさがりは治っていません。

結局のところ、若い時分は大勢のなかに参加していないと、どこか不安であったのかもしれません。今はまあ、どうでもいいかなあ。

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2014年12月01日

能を知る会(鎌倉能舞台)

先月の28日、鎌倉能舞台主催の「能を知る会」(横浜能楽堂)に行って参りました。狂言が「福の神」で野村萬斎師、能が「大社」で中森貫太師でした。お二人は芸大の後輩先輩にあたるようです。しかも、今回は式年遷宮を迎えた出雲大社へのお祝いということで、「大社」は萬斎師もお勤めになられました。「大社」はそもそも希曲だそうですが、その上、中森師と萬斎師のご共演ということで、私にとりましては、とても贅沢な思いで鑑賞をさせていただいたことです。

お能に触れるたびに思うのですが、お能は本当に宗教性豊かな芸術です。神仏を間近に見ることができるわけですから、これはもう異世界なわけです。しばしば「幽玄」という言葉で表現されますが、これは私どもが通常に感ずる「五感の世界」とは異なり、意識やさらにその奥深い心を垣間見るということです。五感にばかり頼っていますと、実は真実は遠ざかってしまう。中世人はそのことを知っていたのでしょう。現代人にとっては、忘れてしまった意識であると言ってもいいかもしれませんね。

鎌倉能舞台
http://www.nohbutai.com/perform/yokohama.htm

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2014年11月30日

意外と分からない?自分の思い

実は本ブログ以外にも、別のジャンルで匿名のブログを開設しておりました。数年続きまして、それなりに読んで下さる方も増えてきたのですが、それが少々負担になりました。本ブログとは異なり、コメントは投稿可能な状態にしておりまして、私も返答を欠かさずしておりました。内容は教育についてのことだったのですが、本当に色々なご意見を賜りまして、私自身、とても勉強させていただきました。

ただ、コメントも匿名ですので、返答に困ってしまうような内容のご意見もあり、「匿名」ということから、人間のあり様を垣間見ることもありました。匿名ということなので、あまり投稿に責任を持っている方はいないのかもしれません。本当に思ったことを、相手構わず書き込んでしまうのでしょう。これは一般の匿名掲示板でも同じことで、こうしたものを読む場合、まともに読むと大変疲れます。人間の心のなかというのは、こうした匿名投稿のような状態なのかもしれません。

上記は匿名ブログでしたので、私も本名を明かさず記事を書いていたわけですが、いい加減な文章になってしまいがちでした。匿名なのでそれでも良いとする意見もあるかと思いますが、ブログの主宰者ですので、一応、読みやすい文章になるよう心掛けたつもりです。しかし、その匿名性が難しく、最終的にはいきなり閉鎖ということになってしまいました。私には実名のほうが性に合っていたようです。また、一般の匿名掲示板で私のブログや、私自身のことを詰る方もあり、あまり気分の良いものではありませんでした。

日本は遠慮がちな社会ですので、匿名であるということも、時には社会にとって大切かもしれません。体面だけ気にしていますと、本質を見失うことも多いでしょう。SNSには実名で参加することが原則的には条件となっているものも出てきました。今後、インターネットでの交流というものは、どのようなものになっていくのでしょう。自分で匿名ブログを主宰することは、私にとってはしんどいものだったのですが、意見表明の場としては、匿名であるということも、ある程度価値あることだと感じます。

人と対している時の言葉、インターネットで匿名状態である時の言葉。これら両方がまったく同じという方は少ないでしょう。匿名掲示板に意見表明することで、ああ、実は自分はこう思っていたんだなあと、その時になって初めて気がつくこともあるかもしれません。自分の思いというものは、自分であっても、意外と分かりにくいところがあるかもしれませんね。

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2014年11月13日

男女の制服交換

山梨県の県立高校で男女の制服交換が行われたようですね。いくつかの新聞社で報道されておりました。生徒さんが自主的に企画したそうで、その発想と実行力には敬意を表します。ただ、何を学ぶことを目的としているのか、やや私には分かりにくいことでした。おそらく、性に対して固定概念があることを学ぶということなのかなあ。もしそうであれば、制服の交換とどのように関係するのか、もう少し情報が欲しいと思いました。話題性は感じましたが、学校としての意図も知りたいところです。

服装はそもそも個人の趣味なので、自分が良いと思えば、誰からも意見されるようなことではありません。男性でもスカート履きたければ、勝手に履けばいいのです。そういう習慣の民族ありますよね。よく考えれば、袴だってスカートみたいなもんです。また、女性がズボンを履くことは普通ですし、女子が男子の制服を着ても違和感はないでしょう。時代によってスタイルは変わりますし、たまたま現代日本においては、スカートとズボンの役割がこうなっているというだけの話でしょう。そう考えますと、服装は個人の趣味でありながら、同時に極めて社会性の高いものだということに気づかされます。場をわきまえた服装なんて言いますが、それこそ社会的な問題です。

ところで、実は私、仏教を勉強するために、ある時期、かつての武蔵野女子大学(浄土真宗の宗門校)における講義に出たことがあります。今は武蔵野大学として共学化しておりますが、当時は女子大でした。つまり、女性ばかりのクラスで講義を受けたわけです。正直言いまして、あまり居心地の良いものではありませんでした。少数派の男性として見られるので、とても浮いた感じがするわけです。積極的に講義参加というわけにはいきませんでした。この時、初めて男性社会のなかで頑張る女性の感覚が、体験として理解できたような気がしました。女性の社会進出の促進を考えたとき、いかに男性社会というものが障害になっているのかということが、この時の体験によって如実に理解できるようになったわけです。

男女の制服交換も、こうした性による差別を学ぶ機会であったのかもしれませんが、制服を交換しても、実際には差別を感じることは出来ないでしょう。なぜならば、スカートは差別ではありませんし、何よりズボンは男女共通で使用します。交換によって被差別の状況を体験できるわけではありません。なので、こうした社会問題を学ぶという意義ではなく、服飾史を学ぶということであったのかもしれません。なぜ、男性と女性で服装の大枠が認められてしまうのか。もっと自由に自己表現しても良いのではないか。こうした学びであれば、とても意義深いことかと思えます。

たしかに不思議ですよね。個人的な感覚ですが、なぜスカートは可愛く見えるのでしょう。可愛いと感じる根拠はどこにあるのでしょうか。経験上、勝手に思い込んでいるだけかもしれません。

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2014年10月19日

坊さんのあるべき姿

坊さんのあるべき姿ってのは、いったいどんなものなのでしょう。お釈迦さまの時代や、親鸞聖人の時代から学ぶことも可能ですが、敢えて現代的にはどうなのか、とても気になるところです。枠にはまれということではなく、自由でありながらも、利他(→他者に利益を与えること)に生きる坊さんとして、社会からどう求められているのかということは、「あるべき姿」として重要だと思います。

中高時代からの友人とメールをしていましたら、こんなことを伝えてくれました。以下に引用します。「慈愛に満ちたやすらぎ、安心感、あとは学識でしょうか。地域のお寺さんって、言ったらかかりつけ医みたいなところがあるじゃないですか。毎週日曜に通う教会もそうだと思います。そこで求めるものは、第一にやすらぎ、安心感といったものなんじゃないかなぁ、と思います。そして、これはあくまでプラスアルファとしてですが、やはりしきたりに精通していて、学識もあり、何か質問するとスッと明快に教えてくださる、といった存在で居てほしいな」、ということです。

坊さんも色々と迷っている時代です。何をすれば良いのか分からないという方も多いでしょう。目立つことをするのもインパクトあって効果的かもしれませんが、基本は「かかりつけ医」だと思います。そもそも、本山以外の一般寺院というものは、地域のお寺として成立しています。地域活動こそ坊さんに求められてきた社会的役割なわけで、それは今も変わらないでしょう。

地域活動を通じて、どこかで仏教を伝えられれば、それこそ利他に生きることにつながると思います。坊さんにとりまして、勤行、修行(勉学)、掃除は基本ですが、そこに地域活動を入れるならば、自からお寺も活気づいてくるはずです。実際、私も地域活動を通じて知り合った方に頼まれまして、ご供養のお経をあげたこともございます。坊さんも地域に出て、顔を見せないといけません。

かつてのインドにおきましても、僧院での修行中心時代がありました。修行は大切なことですが、社会と接点のない修行というのは、単なる自己満足に陥りがちです。そうではない、仏教の本来の生き方は市井にこそあるはずだ、ということで出てきたのが大乗仏教です。お釈迦さまは修行と説法の繰り返しのご生涯でした。原点に立ち返るという意味でも、大乗仏教の出現は意義深いことだと思います。

私も大乗仏教の坊さんです。友人の言葉を忘れず、利他に生きる坊さんでありたいと思っています。

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2014年10月07日

坊さんがバラエティの異様

先日、新たにスタートするバラエティ番組から出演を打診されました。即座に断りましたが、坊さんもバラエティでタレント化するのでしょうか。世間に埋没しないためにも、ある程度は坊さんにもこういう露出は必要かと思います。ただ、テレビ番組の影響力を考えますと、坊さんも商品化していく可能性もあり不安になります。

坊さんがお寺の内幕を話したり、霊感の話をしたりすれば、そりゃ面白おかしい図が出来上がりますよね。何てったって坊さんですから。坊さんってのは不思議な存在です。あんな服装しているけど、異様に俗っぽい人も多い。一体全体、何なんだろうと思われる方も多いことでしょう。だから面白がられるわけです。

一瞬、ちょっと出てみようかななあとも思いましたが、一時的にテレビ出演の恩恵があっても、長い目で見れば、テレビ用に奇抜な坊さんを演じなければならないかもしれんわけで、悪影響のほうが多そうです。バラエティに坊さん・・・。坊さんが世間からどう見られているのか、今一度、振り返る必要がありそうです。坊さんとしての本道、ちゃんと考えないと。

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2014年10月05日

離檀ということ

離檀というのは、お寺の檀家をやめることです。お墓を引き払ってしまうわけです。最近、石材屋さんがしきりに「お墓のお引っ越し」を宣伝されていますね。新規ではお客さんが取れないのでしょう。これも時代の流れと言うべきことでしょうか。

お墓の区画が空いてしまいますと、これは結構困ります。墓地区画の中古販売は難しいですし、活用方法が思いつきません。墓地が虫食い状態になってしまうわけです。もちろん、収入も減少しますので、離檀が増えれば増えるほど、お寺の経営は圧迫されていきます。

離檀がまったくないお寺はないとは思いますが、出来るだけないようにしたいものです。そのためには、魅力あるお寺であり続ける必要がありましょう。檀家としての負担も問題ですし、改革をしなければならないことは、山のようにあると感じます。

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2014年09月22日

諦めない?諦める?

最後まで諦めるなぁぁ!!

最近、子どもが頑張っていることがあるので、頻繁に口にするようになりました。諦めてしまえば、もうそこでおしまいです。粘り強く取り組むことは、スポーツや勉強のみならず、社会人になってからも大切な心掛けでしょう。

ところで、仏教では「真理」を体得することが目指されます。「真理」とはこの世の真実のあり様であり、無常という言葉でも表現されます。また、これを4つの側面から表すこともあり、その場合、「苦」、「集」、「滅」、「道」という説明がなされます。「苦」とは人生が苦しみの連続であるということ、「集」とは苦しみには何かしら原因があるということ、「滅」とは苦しみは消滅させることができるということ、「道」とは消滅の方法があるということです。この4つを「四諦」とも呼びます。

「諦」とは「真理」のことであり、「諦めるな!」と言う場合の「諦」と同じ字を使います。でも、何だか変ですよね。一般的に諦めることはあまり良いことではないのですが、仏教ではこれを体得することが目指されるわけです。逆じゃないのか、と思いません?

「諦める」ということは、実は物事を明らかにするということなのです。私どもは「途中で投げ出す」という意味を含めて使ってしまっていますが、本来は現況をしっかり把握し、どう対処するのか決めるというような意味であったはずです。まあ、たしかに途中で投げ出す場合も、「ああ、自分にはもう無理」と明らかにするからこそ、そこで投げ出すことができるので、あながち間違えた用法ではないかもしれません。

「最後まで諦めるな!」と叫ぶよりも、実は最初に諦めたほうが、物事はうまくいくこともありそうです。「諦」という字、なかなか示唆に富んでいますね。

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2014年09月07日

木村清孝『さとりへの道 華厳経に学ぶ』

かつて、武蔵野大学での講座で教えをいただきました、木村清孝先生のご近著です。

木村清孝『さとりへの道 華厳経に学ぶ』
NHK出版、2014年4月1日 
本体905円+税

目 次   
はじめに
第一回 教えとともに
第二回 『華厳経』が語るもの
第三回 輝く叡智
第四回 真実を求めて
第五回 教えを慕う人々
第六回 今、ここに出会う

経典は仏教の教えをまとめたものであり、日本では『般若心経』がポピュラーであろう。しかし、経典はキリスト教の聖書とは異なり、本棚には入りきらないほど膨大な巻数がある。本書で扱う『華厳経』も、もちろん、そのなかの一部である。ただ、それほどポピュラーであるとは言い難い。栃木県日光市にある「華厳の滝」は聞いたことがあっても、それが『華厳経』という経典に基づいて命名されたことは、あまり知られていないだろう。
本書の著者は中国仏教の大家であり、『華厳経』や華厳教学を研究の中軸に据えている。『華厳経』は西暦400年前後に、西域の天山南路に位置するオアシス都市コータン(現在の中華人民共和新疆ウイグル自治区)周辺で成立したと推測されている。インド文化圏も中国文化圏もともに視野に入る地域である。『華厳経』の原典はサンスクリット語で著されていたと思われるが、完全なものは残されていない。今は漢訳のものが3つ、チベット訳のものが1つ残されるのみである。漢訳には六十巻、八十巻、四十巻のものがあるが、六十巻本のものが、最もよく当初の形を反映していると考えられている。本書においても、この六十巻本を中心にしている。
『華厳経』では盧舎那仏が教主となるが、この盧舎那仏は「さとられた釈尊」(98頁)を意味している。盧舎那仏は東大寺の大仏としても有名である。仏教ではさとりの世界を目指して修行をするのであり、『華厳経』は人々をさとりへ誘うと同時に、そこへ至る道のりをていねいに説き明かしていく。さとりの世界のイメージは蓮華蔵世界として語られ、それは無数の因縁によって形づくられている。蓮華蔵世界は空間的にも時間的にも、すべての存在が互いにかかわり合っているのである。
著者は最後に「共成」(194頁)という言葉をもって本書を締め括る。「共成」とは「共に真実の人間と成る」(194頁)というありようであり、互いに手を取り合い、平安な世界の実現に向けて「共に成す」(194頁)ことに努める道である。

レビューは伊東昌彦

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2014年08月16日

天台思想の学び

今、角川ソフィア文庫の田村芳朗・梅原猛『絶対の真理〈天台〉』を読んでいます。難しく、なかなか進んでいません。天台思想について、少し勉強してみたいと思っています。実は善福寺の開基上人であります了源上人は、もとは天台宗の坊さんだったのです。親鸞聖人に出会って浄土真宗に転向したのでした。ただ、当時は浄土真宗という一派があったわけではないので、天台宗のなかにおける、浄土門親鸞流とでも言うような位置づけだったのでしょう。善福寺を創建したのも、そういう立場であったと思います。したがいまして、善福寺はもとは天台宗としてのスタートであったと、私はそう考えています。

浄土門や禅門は現代日本仏教の中心になっていますが、いずれも実践色の強い教えです。独自の学問がないわけではありませんが、その教えを学問的に理解するためには、その展開のもととなった他宗の学問を学ぶ必要もあります。浄土真宗でしたら、やはり親鸞聖人も学んだ天台思想が重要でしょう。そこからの展開として見たとき、浄土真宗の理解は格段に深まっていくと思います。

そもそも、天台思想にかぎらず、大乗仏教を学び実践するためには、体系的に整備された学問を習得する必要があります。他には華厳思想、唯識思想、密教思想など、大乗仏教全体をそれぞれの立場でまとめ上げた学問です。大学院時代、指導教官をして下さった竹村牧男先生は、どの教えでも構わないので、体系的に大乗仏教を学ぶことが大切だと仰っていました。私はどれもかじった程度ですが、天台思想だけは学んだことがなかったので、ようやく一念発起をしてみようかと思ったわけです。

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2014年08月08日

できれば家族は一緒に

家族が一緒にいられるならば、出来るだけ一緒にと私は考えます。なので、近くの居酒屋も家族で行きます。居酒屋だと批判もあるかもしれませんが、あまり問題は感じません。都会だとまた違うのかもしれません。近所の居酒屋には仕事帰りの方はあまりおらず、家族連れがとても多いのです。外食産業が少ないということも関係しているでしょう。私は家で飲まないので、飲みたいときは、家族も一緒に行ってしまうわけです。

先日、働くお母さんについての特集をニュースで見ました。ある会社では、託児所を設けるのではなく、仕事場にお子さんも一緒にいられるよう、配慮をしているとのことでした。4歳未満とおぼしき子たちが、仕事場で遊んでいました。実施のハードルは高いかもしれませんが、施設に丸投げよりも、よほど子どもにとって良さそうです。

親としての責任とは何なのか。

昨今の痛ましい事件を見ていますと、無責任な親の多いことが残念でなりません。

子どもが育つということは、自分も一緒に育つということです。

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2014年08月01日

命は後で何とかならない

最近、多くの事柄において、「後で何とかなる」ことが増えているように思います。たとえば、良く言われるところで、人との待ち合わせ。かつて、人と待ち合わせをすると言えば、何日の何時にどこで、という具合に、間違えのないように約束をしました。ここで間違えれば、待ち合わせすることが出来ないなるからです。携帯電話はもちろんなし。公衆電話はありましても、相手はもう出かけている。連絡の取り様がないからです。でも、今は携帯電話がありますし、上記のように待ち合わせの約束をすることがなくなりました。何日の何時ごろ、着いたら携帯電話に電話してね、という具合がほとんどでしょう。携帯電話によりまして、「何とかなる」からです。

他にも色々とあるでしょう。便利になりまして、何か失敗しましても、取り返しがついてしまうことが多くなりました。チャンスが多いことは良いことですが、敗者復活戦が多過ぎましても、緊張感に欠けるというものです。「これっきりなんだ」という意識を持つことは、チャンスをものにするということにおいても、とても大事なことだと思います。人との約束も、「行けたら適当に携帯電話で連絡するよ」と言うように、軽々しいものになってしまった気もします。

ところで、後で何とかならず、もちろん敗者復活戦もないものがあります。いつの時代でも変わりません。それは命です。命は一度きりです。だから尊い。同じ命を何度も繰り返せるならば、まったく尊くありません。一度きりだから尊いのです。そんなの誰でも分かっているよ、と思われるかもしれませんが、子どもたちに、ちゃんと伝えることが出来ているでしょうか。誰にとっても、どんな存在であっても、命は等しく尊い。自分が自分自身を尊く思っているように、誰でも、どんな存在でも、同じように尊く思っているのです。そして、一つの命は、また別の命とつながっています。家族や友人、大切な方々、皆がつながっているからこそ、命はこの世に存在することが出来ているのです。一つの命を奪うことは、つながる命も奪うことになりかねません。

親や大人がちゃんと教えないと、今の子どもは分からないかもしれません。後で何となることが多く、たった一つの命についても、「後で何とかなる」と思っちゃうことがあるかもしれないからです。

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2014年07月28日

子ども会は中止となりました

今年も善福寺子ども会(戦没者追悼法要)を開催する予定でしたが、参加者が極端に少ないため、今年は見送ることとなりました。今年で6回目となりましたが、お盆休み最終日という日程が良くなかったかもしれません。8月は地域のお祭りも多く、日程調整が難しいのですが、読みが甘かったようです。大変申し訳ございません。

ただ、内容自体も考え直す時期に来ているかと思えます。単純に夏休みに子どもたちに来てもらい、本堂でお経をあげて、境内でバーベキューということでは、継続性において無理があるとも感じます。子どもを集めることは大変なことなので、毎年、色々なご縁をたどって来ていただいておりました。しかし、毎年来て下さる方は多くありません。私どもも、子どもを集めることが目的となってしまい、そこに焦点を合わせた内容ばかり考えていました。お寺でやることの意義が、かなり薄まってきてしまっていたのも事実です。

伝道布教において、子どもたちにお寺を身近に感じてもらうことは必要なことです。こうした打ち上げ花火的なイベントでも子どもたちはお寺に来てくれますが、親近感が根付くことはないかもしれません。もっと地道な、たとえば毎週末の土曜学校や日曜学校というものが、本当の意味で効果的だということを、改めて感じたことです。

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2014年07月25日

イライラ解消のため

暑いですね。そのせいか、ちょっと最近、ややイライラが多くなっています。些細なことでイライラしてしまい、ムカッとくることが多いのです。たしかに、お寺のことはもちろん、色々な仕事のことですとか、子どもの教育のこと、両親についてのこと、やたらと脳を使うことが多いかもしれません。メモリ不足なのでしょう。もう41年ものですので、古くなってきたようです。ファミコン世代なんですよ。

さて、こういう場合、どうすれば良いのでしょう。生ビールでも飲めば、多少は気分もよくなるかもしれませんが、飲み過ぎますと逆効果です。お酒はイライラ解消には効果がないでしょう。私はこんなとき、パソコンのワープロソフトを使いまして、問題をまとめるようにしています。お寺のことでしたら、問題を書き連ねまして、さて、それをどう解決していくのか、思いつくだけ解決法を併記しておきます。文章にしますと、結構落ち着いてくる性格なので、なかなか効果的です。もちろん、ノートに書いても同じ効果だと思います。

その文章ファイルはどうなるかと言いますと、イライラ状態を過ぎれば、そのままパソコンのゴミ箱へ直行です。役割が終わったのです。脳がパンクしそうなとき、ある程度、それを整理していくことは必要でしょう。パソコンでもそんな作業があったような気がします。いらない部分は捨ててしまうわけです。捨てるということも、案外、大事なことかもしれません。全部捨てれば、そりゃ仏さまなのですが、凡人は全部を捨てることができません。なので、ちょこっと捨てておくわです。

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2014年07月20日

オロナミンCに大雄山

オロナミンCのCM、大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)が出ていますね。坊さんがバレーボールしています。学生時代はバレー部だったのでしょうか。かなり気合い入った表情です。
 動画↓
http://www.otsuka.co.jp/adv/orc/

大雄山最乗寺、是非、お参り下さい!!


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