「悪意のない悪」と、「悪意のある悪」、どちらがより問題かと言いますと、仏教では「悪意のない悪」となります。理由は明快で、悪意がないということは、その「悪」に気づいていないからです。「悪」という行為はどちらも問題なのですが、さらにその行為者へ着目した場合、悪い事をしたという自覚がないのは「最悪」です。
車の運転を例にとってみれば、違反をすれば警察に捕まります。免停になることもあるでしょう。違反という行為は道路交通法において「悪」です。道路交通法を遵守することを条件に運転免許を交付されていますから、それを守らない行為は「悪」になります。違反は多いから「悪」であるとか、回数は問題ではありません。違反はすべて「悪」です。
免停の回数が少ないからいいとか、違反しながら道路交通法を学ぶとか、そういう発想や思考には違反という「悪」への認識がありません。認識がないということは、これはつまり「悪意のない悪」なのです。悪いと思っていない。だから最終的に無免許運転という愚行へ至るのです。そういう元議員がいるようですね。
私も違反をしたことがあります。駐禁を切られたり、スピード違反や車線変更違反です。20代の頃ですが免停になったこともあります。恥ずかしいですね。今はゴールド免許になりました。ただし、スピード違反はしていないわけではないので、本当はゴールドとは言えないかもしれません。気をつけています。
悪意がなくなるとはどういうことなのでしょう。その人の立場がそうさせるのか、私には分かりません。しかし悪を認識する自覚がなければ、いつまでたっても悪を繰り返します。自らの愚かさに気づかないからです。どこかで心を翻さないと、その泥沼からは決して脱することができません。廻心して欲しいものです。
2022年01月26日
2021年12月01日
親鸞聖人御消息第十八
「詮なきこと、論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。」
今回のご讃題には、「意味のない議論ばかりをしておられるようですが、それはくれぐれも気をつけなければならないことです。」とございます。屁理屈好きの私としましては、まことに身にしみる親鸞聖人のお示しです。近ごろは「論破する」という言葉も普通に見られるようになり、相手を言い負かすことに重きが置かれるような風潮さえ感じます。議論することは価値あることですが、議論のための議論になってしまっては意味がありません。たとえば野球ということにおいて、ピッチャーが大事なのか、はたまたバッターが大事なのか、それを議論しているようなものです。
あたり前ですが野球はゲームであり、ピッチャーとバッターのどちらか一方だけでは成り立ちません。この議論には何の意味もなく、相手を言い負かすことが議論の目的となってしまいます。屁理屈好きの私からしますと、ピッチャーが投げなければゲームが始まらないのだから、当然ピッチャーが大事だと言い出しそうです。ルールブックにもそう書いてあるとも言いそうですが、それはゲームの流れでしかありません。どちらが大事かということへの結論になっていないので、単なる屁理屈だと言えるわけです。そして、野球が本当に好きなのであれば、そもそもこんな馬鹿げた論争はしないものです。大事なことはゲームが成り立つことであり、ポジションの優劣論争は問題外です。
さて、本御消息はお念仏の一念と多念とにおける議論について、親鸞聖人のお考えがはっきりと示されたものです。往生浄土のためには、お念仏は一回で良いというのが一念、そうではなくより多く回数を必要とするのが多念です。お念仏申すとき、誰しも何回申せば良いのか考えたことがあるでしょう。一回じゃ少ないような気もするし、かと言って多ければ良いとは聞いていない。世間での評価や習慣からしますと、回数が成果に関係しそうな気はしてくるのですが、どうもはっきりしません。しかし実のところ、私たちの往生浄土は阿弥陀如来の本願力によって成就されているので、回数が問題というわけではないのです。
自分の修行の成果として往生浄土が得られるのであれば、多いほうが良さそうです。しかし、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているので、私自身の成果は何も反映されていません。つまり、一念・多念の論争が起きてしまうこと自体、野球のピッチャー・バッター論争と同じように本質から大きくそれてしまっているのです。まさに「詮なきこと」、深く詮索しても意味のないことなのです。往生浄土を自分の成果とする誤った考えがあるから、成果につながる回数を問題にし、無意味な争いに終始してしまうのでしょう。繰り返しになりますが、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているということ、しっかりと心しておきたいものです。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
今回のご讃題には、「意味のない議論ばかりをしておられるようですが、それはくれぐれも気をつけなければならないことです。」とございます。屁理屈好きの私としましては、まことに身にしみる親鸞聖人のお示しです。近ごろは「論破する」という言葉も普通に見られるようになり、相手を言い負かすことに重きが置かれるような風潮さえ感じます。議論することは価値あることですが、議論のための議論になってしまっては意味がありません。たとえば野球ということにおいて、ピッチャーが大事なのか、はたまたバッターが大事なのか、それを議論しているようなものです。
あたり前ですが野球はゲームであり、ピッチャーとバッターのどちらか一方だけでは成り立ちません。この議論には何の意味もなく、相手を言い負かすことが議論の目的となってしまいます。屁理屈好きの私からしますと、ピッチャーが投げなければゲームが始まらないのだから、当然ピッチャーが大事だと言い出しそうです。ルールブックにもそう書いてあるとも言いそうですが、それはゲームの流れでしかありません。どちらが大事かということへの結論になっていないので、単なる屁理屈だと言えるわけです。そして、野球が本当に好きなのであれば、そもそもこんな馬鹿げた論争はしないものです。大事なことはゲームが成り立つことであり、ポジションの優劣論争は問題外です。
さて、本御消息はお念仏の一念と多念とにおける議論について、親鸞聖人のお考えがはっきりと示されたものです。往生浄土のためには、お念仏は一回で良いというのが一念、そうではなくより多く回数を必要とするのが多念です。お念仏申すとき、誰しも何回申せば良いのか考えたことがあるでしょう。一回じゃ少ないような気もするし、かと言って多ければ良いとは聞いていない。世間での評価や習慣からしますと、回数が成果に関係しそうな気はしてくるのですが、どうもはっきりしません。しかし実のところ、私たちの往生浄土は阿弥陀如来の本願力によって成就されているので、回数が問題というわけではないのです。
自分の修行の成果として往生浄土が得られるのであれば、多いほうが良さそうです。しかし、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているので、私自身の成果は何も反映されていません。つまり、一念・多念の論争が起きてしまうこと自体、野球のピッチャー・バッター論争と同じように本質から大きくそれてしまっているのです。まさに「詮なきこと」、深く詮索しても意味のないことなのです。往生浄土を自分の成果とする誤った考えがあるから、成果につながる回数を問題にし、無意味な争いに終始してしまうのでしょう。繰り返しになりますが、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているということ、しっかりと心しておきたいものです。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
2021年11月10日
地球を救え?
温暖化防止は人類規模での課題ですが、「地球を救え」という掛け声には違和感を覚えます。私はもちろん門外漢ですが、多少温暖化しても地球自体が壊れることはないでしょう。おそらく何ともない。地球の歴史を振り返れば分かります。この掛け声は「天体」としての意味ではなく、「生命にとっての地球環境」を指しているのでしょう。
私も温暖化は進まないほうが良いと思っていますが、この課題は地球ではなく、人類の課題なんだという点には注意を払っていきたいと考えます。あくまでも人類中心の視点です。他の生命にとっても重要ですが、人類が存続できれば他の生命も現状存続できます。
人類の行動で他の生命の存続を脅かしていることは問題ですが、もし仮にこうした行動も地球規模での淘汰であるとするならば、私たち人類には防ぎようのないことかもしれません。人類は進化して欲望を増大させています。欲望が温暖化を招いており、これは言い換えれば進化による温暖化促進です。
人類に知恵があるならば、自分たちの進化の方向性を変えなければ淘汰されることでしょう。そのためにはまず「少欲知足」です。仏教で「欲少なくして足るを知る」という意味で、多少不便でもいいじゃないかという心掛けから始まります。
人類を救うヒントは人類自身が見出しています。宗教・哲学・歴史から学ぶことはまだまだ多くあり、むしろこれから必要です。先人が遺した叡智を大人たちが学び直し、それを次世代へ伝えていくべきかと思います。
私も温暖化は進まないほうが良いと思っていますが、この課題は地球ではなく、人類の課題なんだという点には注意を払っていきたいと考えます。あくまでも人類中心の視点です。他の生命にとっても重要ですが、人類が存続できれば他の生命も現状存続できます。
人類の行動で他の生命の存続を脅かしていることは問題ですが、もし仮にこうした行動も地球規模での淘汰であるとするならば、私たち人類には防ぎようのないことかもしれません。人類は進化して欲望を増大させています。欲望が温暖化を招いており、これは言い換えれば進化による温暖化促進です。
人類に知恵があるならば、自分たちの進化の方向性を変えなければ淘汰されることでしょう。そのためにはまず「少欲知足」です。仏教で「欲少なくして足るを知る」という意味で、多少不便でもいいじゃないかという心掛けから始まります。
人類を救うヒントは人類自身が見出しています。宗教・哲学・歴史から学ぶことはまだまだ多くあり、むしろこれから必要です。先人が遺した叡智を大人たちが学び直し、それを次世代へ伝えていくべきかと思います。
2021年10月26日
親鸞聖人御消息第十五通
「かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ」
本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。
往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。
これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。
自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。
(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)
本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。
往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。
これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。
自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。
(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)
2021年10月04日
永代供養墓のご案内
善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
2021年09月21日
もしかして、祈祷をしたら罰が・・・
浄土真宗では祈祷をしたら罰が下ることがあるのでしょうか?という主旨のご質問をただきました。簡潔に答えるならば、もちろん罰は下りません。実は他でもない、私もこっそり祈祷をしたことはあります。気づいていないだけかもしれませんが、とくに罰は下っていないと思います。ご質問には次のようにお答えしました。
質問≪祈祷をしたら罰が下りますか?≫
回答≪下りません≫
浄土真宗はたしかに現世祈祷を頼りとしない宗旨でございます。理由を申しますと、浄土真宗の目的はまず私たちが来世に浄土へ往生させていただき、そこで自ら仏となった上で自由に人々を救うことにあります。往生は阿弥陀如来のはたらきに由っており、私たちの行為に由ってはいません。祈祷をするということは、私たちが神仏へ祈り、その行為に由って神仏が応えるという事態を指しています。阿弥陀如来のはたらきはこれとは異なり、祈る前から私たちにはたらいて下さっています。したがいまして、祈る必要がまるでないわけです。
このように、祈祷は浄土真宗の目的には当てはまらない行為となっていますが、そもそも祈祷は現世においての幸せを祈ることが目的です。しかし、現世での辛苦というものは早々なくなるものではなく、私たちは常に迷い続けています。間違えをおかしてしまったり、人に迷惑をかけてしまったり、こうしたことの連続が現世であると言えます。そして、それこそが私たちの真実の姿であり、それを誤魔化すことは出来ません。人生をよりよく歩むためには、誤魔化さず、しっかりと自分自身を直視することがむしろ必要です。失敗しても良いのです。阿弥陀如来は失敗しても見守って下さり、しっかりと浄土へ参らせていただけます。
とは言いましても、神仏に祈りたくなるのも私たちの姿です。苦しいときは神仏を頼みにしたくもなります。それで良いのです。こうした私たちの迷いを含めて阿弥陀如来は救って下さいます。祈祷をしたからと言って、決して罰が下るということはございません。それでもなお、阿弥陀如来は温かく見守って下さっています。ご安心下さいませ。現世は思い通りならぬものではございますが、阿弥陀如来のはたらきをいただき、ともに励んで生きて参りましょう。
質問≪祈祷をしたら罰が下りますか?≫
回答≪下りません≫
浄土真宗はたしかに現世祈祷を頼りとしない宗旨でございます。理由を申しますと、浄土真宗の目的はまず私たちが来世に浄土へ往生させていただき、そこで自ら仏となった上で自由に人々を救うことにあります。往生は阿弥陀如来のはたらきに由っており、私たちの行為に由ってはいません。祈祷をするということは、私たちが神仏へ祈り、その行為に由って神仏が応えるという事態を指しています。阿弥陀如来のはたらきはこれとは異なり、祈る前から私たちにはたらいて下さっています。したがいまして、祈る必要がまるでないわけです。
このように、祈祷は浄土真宗の目的には当てはまらない行為となっていますが、そもそも祈祷は現世においての幸せを祈ることが目的です。しかし、現世での辛苦というものは早々なくなるものではなく、私たちは常に迷い続けています。間違えをおかしてしまったり、人に迷惑をかけてしまったり、こうしたことの連続が現世であると言えます。そして、それこそが私たちの真実の姿であり、それを誤魔化すことは出来ません。人生をよりよく歩むためには、誤魔化さず、しっかりと自分自身を直視することがむしろ必要です。失敗しても良いのです。阿弥陀如来は失敗しても見守って下さり、しっかりと浄土へ参らせていただけます。
とは言いましても、神仏に祈りたくなるのも私たちの姿です。苦しいときは神仏を頼みにしたくもなります。それで良いのです。こうした私たちの迷いを含めて阿弥陀如来は救って下さいます。祈祷をしたからと言って、決して罰が下るということはございません。それでもなお、阿弥陀如来は温かく見守って下さっています。ご安心下さいませ。現世は思い通りならぬものではございますが、阿弥陀如来のはたらきをいただき、ともに励んで生きて参りましょう。
2021年08月05日
嘘も方便?いえいえ方便は仏様だけの手段です
皆さん、「方便」という言葉を聞いたことあるでしょうか。ことわざにも「嘘も方便」とあります。嘘をつくことは悪しきことですが、それを肯定するかのように響きます。ただ、「方便」だと嘘ついてもいいのかというと、もちろんそれは違います。「方便」とはサンスクリット語でウパーヤと言いまして、仏教用語で「手段」を意味します。悟りに近づけるため、仏様が我々を導くためにあれやこれやと使う手段のことです。我々は基本的に言うこと聞きませんから、色々と仏様もうまいよう仕向けてくれるわけです。
たとえば有名なたとえ話ですが、子(=我々)が遊んでいる家が火事(=迷いの世界)となっているも、子はそれに気づかず夢中で家のなかで遊び続けています(=迷いのなかにいることに気づかない)。親(=仏様)は子を外に出すため、外には子が欲しがっていたおもちゃ(=身近な仮の教え)があるでー!、と呼びかけます。すると、子はそれに釣られて火事の家から出てくるわけです。しかし、外には欲しがっていたおもちゃがあるわけではなく、親はもっと素晴らしいもの(=本当の教え)を子に与えましたとさ、というお話です。
子が欲しがっていたおもちゃは「ない」のですから、「ある」と言えば嘘になります。しかし、これこそ「方便」であり、本当の教えに気づかない我々を救う手段として、敢えて造作されたのが「方便」なのです。仏様は嘘をつきません。「方便」とはあくまでも真実に導くための手段として存在します。なので、我々には「方便」を使うことは出来ません。迷っている我々が「方便」と称して何らか手段を講じても、それは迷っているままなのですから嘘になってしまいます。
オリンピックは「安心・安全」とのことでしたが、これはもちろん「方便」とは言えません。
仏様は悟りに至る道程をすべて完璧に理解されているので、上記のような「方便」を用いることが可能なのです。道程が理解できていなければ、当然不可能ということになります。分かってないのに導くことは出来ないですよね。あたり前です。
新型コロナウイルスはまだまだ分からないことが多いはずです。分かってないのにいい加減なこと言ってはいけません。オリンピックやるならば、「安心・安全」とかの妄言でななく、分からないこと、分かっていること、ちゃんと明白に正直に国民に語りかけるべきだと思います。国民は不安なんですから。大きなことやるなら、正直に行くべきかと率直に感じます。単なる嘘はいかんですよ。
しかしまあ、もうちょっとうまい言い方あると思うんですけどねえ。政治家は言葉が命だと思いますが、もっと言葉を選んで大事にして欲しいなあ。
たとえば有名なたとえ話ですが、子(=我々)が遊んでいる家が火事(=迷いの世界)となっているも、子はそれに気づかず夢中で家のなかで遊び続けています(=迷いのなかにいることに気づかない)。親(=仏様)は子を外に出すため、外には子が欲しがっていたおもちゃ(=身近な仮の教え)があるでー!、と呼びかけます。すると、子はそれに釣られて火事の家から出てくるわけです。しかし、外には欲しがっていたおもちゃがあるわけではなく、親はもっと素晴らしいもの(=本当の教え)を子に与えましたとさ、というお話です。
子が欲しがっていたおもちゃは「ない」のですから、「ある」と言えば嘘になります。しかし、これこそ「方便」であり、本当の教えに気づかない我々を救う手段として、敢えて造作されたのが「方便」なのです。仏様は嘘をつきません。「方便」とはあくまでも真実に導くための手段として存在します。なので、我々には「方便」を使うことは出来ません。迷っている我々が「方便」と称して何らか手段を講じても、それは迷っているままなのですから嘘になってしまいます。
オリンピックは「安心・安全」とのことでしたが、これはもちろん「方便」とは言えません。
仏様は悟りに至る道程をすべて完璧に理解されているので、上記のような「方便」を用いることが可能なのです。道程が理解できていなければ、当然不可能ということになります。分かってないのに導くことは出来ないですよね。あたり前です。
新型コロナウイルスはまだまだ分からないことが多いはずです。分かってないのにいい加減なこと言ってはいけません。オリンピックやるならば、「安心・安全」とかの妄言でななく、分からないこと、分かっていること、ちゃんと明白に正直に国民に語りかけるべきだと思います。国民は不安なんですから。大きなことやるなら、正直に行くべきかと率直に感じます。単なる嘘はいかんですよ。
しかしまあ、もうちょっとうまい言い方あると思うんですけどねえ。政治家は言葉が命だと思いますが、もっと言葉を選んで大事にして欲しいなあ。
2021年07月19日
アート思考と唯心
美術の先生であり、アーティストでもある末永幸歩先生が「アート思考」という概念を紹介されていました。「自分の答えを創出する=アート思考」ということで、今は存在しない自分の答えを生み出す思考とのことです。
自分の思考というものは蓄積されていて、答えはすでにその中に存在していると私は考えています。ただそれに気がつかないだけで、表層的な自分から深層的な自分に至る思考によって、答えは自から出てくるものと信じています。先生は「創出」という言葉を使われていますので、この点で私の考えとは表現のうえで違うわけですが、なるほどなあと興味を惹かれました。
仏教は「唯心」と言いまして、心こそ世界そのものと観ますので、意識を内面へ内面へ向けさせる傾向にあります。いたずらに外に向けても、それは自分の心を出るものではないとするからです。世界とは自分が蓄積してきた行為やその影響によって成り立っており、自分を出るものではないとします。人生とはまさに心の探求なのです。
こうした蓄積から芽が出て世界そして自分自身にもなっていくのですが、これは見方を変えれば「創出」ということにもなるかもしれません。断片的な思いをつなぎ合わせていくことにより答えを「創出」する、これはまさに心の深層への探求とも言えるでしょう。
実は私も話をしているなかで答えを見出すことが多々あります。自分の気づかぬ点が見えてくるのだと思っていましたが、これこそ「創出」です。上述のように、心の内面というものは世界をも含むものである以上、感覚で得られるすべての要素も捨て置いてよいとうことではありません。議論することによって自分自身にある答えを知る、答えを「創出」していく、そのためには色々な物事を受け入れていく柔軟性も必要なことでしょう。私は自問自答で終始してしまう傾向にあるのですが、これでは深層への探求にはなりません。外部こそ自分自身の内面だからです。それこそ「唯心」なのです。
アーティストの方は感性を磨くことに注力されるとは思うので、思考であっても感性的、即応的なものを大切にされるのでしょう。やりっぱなしというか、放り出すことができれば、それこそ深層を掘り出していることと同じだと思います。
自分の思考というものは蓄積されていて、答えはすでにその中に存在していると私は考えています。ただそれに気がつかないだけで、表層的な自分から深層的な自分に至る思考によって、答えは自から出てくるものと信じています。先生は「創出」という言葉を使われていますので、この点で私の考えとは表現のうえで違うわけですが、なるほどなあと興味を惹かれました。
仏教は「唯心」と言いまして、心こそ世界そのものと観ますので、意識を内面へ内面へ向けさせる傾向にあります。いたずらに外に向けても、それは自分の心を出るものではないとするからです。世界とは自分が蓄積してきた行為やその影響によって成り立っており、自分を出るものではないとします。人生とはまさに心の探求なのです。
こうした蓄積から芽が出て世界そして自分自身にもなっていくのですが、これは見方を変えれば「創出」ということにもなるかもしれません。断片的な思いをつなぎ合わせていくことにより答えを「創出」する、これはまさに心の深層への探求とも言えるでしょう。
実は私も話をしているなかで答えを見出すことが多々あります。自分の気づかぬ点が見えてくるのだと思っていましたが、これこそ「創出」です。上述のように、心の内面というものは世界をも含むものである以上、感覚で得られるすべての要素も捨て置いてよいとうことではありません。議論することによって自分自身にある答えを知る、答えを「創出」していく、そのためには色々な物事を受け入れていく柔軟性も必要なことでしょう。私は自問自答で終始してしまう傾向にあるのですが、これでは深層への探求にはなりません。外部こそ自分自身の内面だからです。それこそ「唯心」なのです。
アーティストの方は感性を磨くことに注力されるとは思うので、思考であっても感性的、即応的なものを大切にされるのでしょう。やりっぱなしというか、放り出すことができれば、それこそ深層を掘り出していることと同じだと思います。
2021年07月12日
永代供養墓のご案内
善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
2021年06月22日
善福寺仏典会のお知らせ
経典から学ぶ「善福寺仏典会」は、今まで第三日曜日の開催でございましたが、その翌日、月曜日の開催にさせていただきます。14時から1時間ほど、今は曇鸞大師の『往生論註』を学んでおります。皆様、よろしくお願いいたします。
≪善福寺仏典会≫
毎月第三日曜日の翌日、月曜日の14時から
善福寺会館において開催
住職 伊東昌彦
≪善福寺仏典会≫
毎月第三日曜日の翌日、月曜日の14時から
善福寺会館において開催
住職 伊東昌彦
2021年06月04日
親鸞聖人御消息第十二通
「「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり」
私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。
ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。
なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。
さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。
(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)
私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。
ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。
なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。
さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。
(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)
2021年03月21日
浄土は「あの世」とは言わない
あの世といえば、一般的に死後の世界となります。この世とあの世。あっちの世界ってことです。ただ、浄土は「あの世」とは言いません。「世」とは迷いによって輪廻する世界のことで、浄土は「出世間」だからです。出世間とは、世間・世界から出た状態のことで、すなわち迷いのない覚りに至ったことを意味します。浄土は仏の覚りによって現ぜられた国土となります。
実は私、「あの世」を使用しないのは俗的な言い回しだからだとばかり思っていたのですが、よく考えてみますと、学術的にも「あの世」=「浄土」は間違いだということに最近気づきました。となりますと、浄土を「仏の世界」と言うことも間違いになります。法話の際、思わず言ってしまいそうですが、気をつけたいと思います。
実は私、「あの世」を使用しないのは俗的な言い回しだからだとばかり思っていたのですが、よく考えてみますと、学術的にも「あの世」=「浄土」は間違いだということに最近気づきました。となりますと、浄土を「仏の世界」と言うことも間違いになります。法話の際、思わず言ってしまいそうですが、気をつけたいと思います。
2021年01月23日
親鸞聖人御消息第九通
「五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり」
本御消息は「慈信房義絶状」とも言われ、親鸞聖人が異説を唱える慈信房善鸞を義絶されたものです。善鸞は親鸞聖人の御子息です。親鸞聖人は、善鸞が浄土のみ教えの要となる第十八願を蔑ろにした布教を行っていたことから、義絶という苦渋の決断に至られました。破門ということだけではなく、親子の縁をも切ったことになりましょう。親鸞聖人にとりまして、阿弥陀如来のご本願を誤って人々に伝えることは、わが子であっても許されないことであったのです。なぜかと言えば、善鸞の行いは五逆そのものであったからです。
仏教には五逆という五つの重たい罪のあることが説かれ、これを犯した者は地獄の深みに落ちていくとされます。また、第十八願には「五逆と誹謗正法とをば除く」とありまして、ご本願からも五逆が漏れてしまうことが説かれています。この五逆について、中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)によりますと、@母を殺すこと、A父を殺すこと、B聖者(阿羅漢)を殺すこと、C仏の身体を傷つけて出血させること、D教団の和合一致を破壊し分裂させること、とあります。善鸞は異説を広めていたわけですから、Dに該当するのだと思われます。阿弥陀如来のご本願の救いは、たしかにすべての命に向けられています。しかし、だからと言って何をしても許されるというわけではありません。
この世のあり様を見るならば、新聞やニュース番組には毎日のように五逆があふれかえっています。家族同士のいざこざ、尊大な態度、裏切り行為、本当に切れ間なく報道されています。いえ、報道ばかりではありません。私たちの身近なところで、さらに言えば自分自身においてさえ、こうした五逆はあり得ることとして認め得るはずです。仏教でいくら五逆は地獄行きだ、ご本願からも漏れてしまう、と警告を発したところで、実際にはこのあり様です。私たち凡夫は、いつでも五逆と隣り合わせなのです。むしろ五逆こそが私たちの姿であると言えましょう。では、救われない私たちにとりまして、ご本願はどのようにはたらいてくるのでしょうか。
親鸞聖人は義絶というショッキングな方法で、わが子である善鸞を導かれたのだと思います。善鸞はおそらく、自らの罪の重さに気づいていなかったのでしょう。わが子が五逆の大罪を犯しているなんて、こんなに悲しいことはありません。表題のお言葉からは、聖人の親としての悲しみが伝わってきます。第十八願で敢えて除かれる五逆ですが、五逆こそが私たち凡夫なのであり、善鸞なのです。そこに気づかされてこそ、はじめてご本願のはたらきを素直に喜べることでしょう。もとより阿弥陀如来の救いに条件はありません。ご本願には、私たちのなかの五逆を知らしめるはたらきもあることを、本御消息から学ばせていただきたいものです。
(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)
本御消息は「慈信房義絶状」とも言われ、親鸞聖人が異説を唱える慈信房善鸞を義絶されたものです。善鸞は親鸞聖人の御子息です。親鸞聖人は、善鸞が浄土のみ教えの要となる第十八願を蔑ろにした布教を行っていたことから、義絶という苦渋の決断に至られました。破門ということだけではなく、親子の縁をも切ったことになりましょう。親鸞聖人にとりまして、阿弥陀如来のご本願を誤って人々に伝えることは、わが子であっても許されないことであったのです。なぜかと言えば、善鸞の行いは五逆そのものであったからです。
仏教には五逆という五つの重たい罪のあることが説かれ、これを犯した者は地獄の深みに落ちていくとされます。また、第十八願には「五逆と誹謗正法とをば除く」とありまして、ご本願からも五逆が漏れてしまうことが説かれています。この五逆について、中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)によりますと、@母を殺すこと、A父を殺すこと、B聖者(阿羅漢)を殺すこと、C仏の身体を傷つけて出血させること、D教団の和合一致を破壊し分裂させること、とあります。善鸞は異説を広めていたわけですから、Dに該当するのだと思われます。阿弥陀如来のご本願の救いは、たしかにすべての命に向けられています。しかし、だからと言って何をしても許されるというわけではありません。
この世のあり様を見るならば、新聞やニュース番組には毎日のように五逆があふれかえっています。家族同士のいざこざ、尊大な態度、裏切り行為、本当に切れ間なく報道されています。いえ、報道ばかりではありません。私たちの身近なところで、さらに言えば自分自身においてさえ、こうした五逆はあり得ることとして認め得るはずです。仏教でいくら五逆は地獄行きだ、ご本願からも漏れてしまう、と警告を発したところで、実際にはこのあり様です。私たち凡夫は、いつでも五逆と隣り合わせなのです。むしろ五逆こそが私たちの姿であると言えましょう。では、救われない私たちにとりまして、ご本願はどのようにはたらいてくるのでしょうか。
親鸞聖人は義絶というショッキングな方法で、わが子である善鸞を導かれたのだと思います。善鸞はおそらく、自らの罪の重さに気づいていなかったのでしょう。わが子が五逆の大罪を犯しているなんて、こんなに悲しいことはありません。表題のお言葉からは、聖人の親としての悲しみが伝わってきます。第十八願で敢えて除かれる五逆ですが、五逆こそが私たち凡夫なのであり、善鸞なのです。そこに気づかされてこそ、はじめてご本願のはたらきを素直に喜べることでしょう。もとより阿弥陀如来の救いに条件はありません。ご本願には、私たちのなかの五逆を知らしめるはたらきもあることを、本御消息から学ばせていただきたいものです。
(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)
2020年11月20日
聞くことの大切さ
仏教では「聞く」という行いを重視します。教えを聞いて、自分で思考して、そして修行に励むわけです。第一段階は「聞く」ことなわけですね。しかしこれ、意外と難しいと思いません?私みたいに自分が自分がの人ですと、どうも人の話の途中で「と言うかさあ」とか、「そうじゃなくて」というように割り込みたくなってしまいます。しかも相手を否定するという、これまたどうしようもなく悪い癖があるのです。50歳も近いので、そろそろいい加減やめたいなあと思っています。
なぜ途中で相手に割り込みたくなるのかと言えば、これは簡単です。相手を負かしたいから。相手が間違っているから正したい、というかもしれませんが、根っこは相手を負かして自分が優位に立ちたいということです。よく考えれば、別に相手がどう考えていようが、あまり自分には関係のない場合もあります。家族であればある程度は同じ方向を向いていたほうが良いかもしれませんが、同じ思考でなければならない決まりはありません。それぞれ違うのが当然と言えば当然です。
ましてや友人であればなおさらで、考えが合わなければつき合いをやめればいいだけです。何も自分の思うように正す必要はありません。何か言ってきたら、ああ、そうなんだ、というように聞いていれば良いのです。聞くなかにおいて、自分にとって大切なことがあれば、それを自分に活かしていけばいい。ただそれだけのことなのですが、人にはどうしても相手より優れていたいという欲求があるようです。驕り高ぶる心はなかなか捨てることができません。50歳に向けて、自分自身の戒めにしたいと思います。
なぜ途中で相手に割り込みたくなるのかと言えば、これは簡単です。相手を負かしたいから。相手が間違っているから正したい、というかもしれませんが、根っこは相手を負かして自分が優位に立ちたいということです。よく考えれば、別に相手がどう考えていようが、あまり自分には関係のない場合もあります。家族であればある程度は同じ方向を向いていたほうが良いかもしれませんが、同じ思考でなければならない決まりはありません。それぞれ違うのが当然と言えば当然です。
ましてや友人であればなおさらで、考えが合わなければつき合いをやめればいいだけです。何も自分の思うように正す必要はありません。何か言ってきたら、ああ、そうなんだ、というように聞いていれば良いのです。聞くなかにおいて、自分にとって大切なことがあれば、それを自分に活かしていけばいい。ただそれだけのことなのですが、人にはどうしても相手より優れていたいという欲求があるようです。驕り高ぶる心はなかなか捨てることができません。50歳に向けて、自分自身の戒めにしたいと思います。
2020年10月31日
11月1日法話会
明日、11月1日(日)の法話会につきまして、お知らせいたします。急遽、お葬儀のお勤めとなりまして、住職の帰寺が15時を回ってしまいそうです。14時からは松田師が読経導師をいたしまして、その後、松田師が短めの法話をいたします。どうか宜しくお願い申し上げます。合掌
善福寺住職 伊東昌彦
善福寺住職 伊東昌彦
2020年10月17日
親鸞聖人御消息第六通
「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」
今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。
仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。
仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
2020年09月27日
テクノは忍耐だ(ロックは諦めだ)
先日のことですが、RCでお世話になっているK氏の会社に所用でうかがいましたら、待ち合いに「テクノは忍耐だ」という書が掲げられていました。K氏はテクノミュージックに長年携わっておられます。なぜ忍耐なのかと言いますと、私が解釈するようなことではないのですが、テクノは音色の調整やプログラミングなど、とにかく地道にひたすら耐え忍んで下ごしらえをしないといけません。私もロックバンドをしていまして、かつてロックとテクノを合わせた変テコな音楽に傾倒したときがあります。その時、ほんの少しこうしたテクノのことを学びまして、自分でも少しトライしてみました。もの凄く大変です。夢中になりますと、もう寝ている場合じゃないというほどです。結果、私には無理だなとなりまして、単純なロックに戻っていきました。
この「テクノは忍耐だ」という書を見まして、じゃあロックは何だろう、と考えたわけですが、ずばり「ロックは諦め」だと思います。曲をバンド仲間で作っていても、「まあ、こんなもんじゃない?」というところで適当に切り上げます。あまり作り込むと重たくてダサロックになるので、私は好きではありません。作り込むのは好きなほうなのですが、ロック特有のノリが消えてしまうような気がしまして、途中で諦めるわけです。「ああ、めんどくせ〜」というのもロック特有な発想なので、こういう感覚も大切です。それなりに大変なのではありますが、座右の銘は「めんどくさい」でもいいくらいなのです。
「忍耐」と「諦め」、これ実は仏教の実践行に含まれております。「忍耐」はそのまま、いろいろな苦しい厳しい状況においても、ひたすら耐え忍ぶということ、修行には不可欠です。世間には理不尽なこと、理解不能なことも多くありますが、それを含めて自分自身なわけであり、逃げていては始まりません。「忍耐」は仏教的人間形成において必須事項であるのです。一方、「諦め」は何なのかと言いますと、「諦める」という言葉は、実のところ「あきらかにする」という意味から来ているのです。物事のあり様をあきらかに観察するわけです。闇雲に突き進むわけではなく、状況をあきらかにして次のステップへ行くということです。人生は忍耐強く、そして状況をあきらかにすることが大事だと言うのでしょう。ただ、私はテクノもロックも好きなのですが、これを実践するのはなかなか難しいなあと、昨今、実感しております。
この「テクノは忍耐だ」という書を見まして、じゃあロックは何だろう、と考えたわけですが、ずばり「ロックは諦め」だと思います。曲をバンド仲間で作っていても、「まあ、こんなもんじゃない?」というところで適当に切り上げます。あまり作り込むと重たくてダサロックになるので、私は好きではありません。作り込むのは好きなほうなのですが、ロック特有のノリが消えてしまうような気がしまして、途中で諦めるわけです。「ああ、めんどくせ〜」というのもロック特有な発想なので、こういう感覚も大切です。それなりに大変なのではありますが、座右の銘は「めんどくさい」でもいいくらいなのです。
「忍耐」と「諦め」、これ実は仏教の実践行に含まれております。「忍耐」はそのまま、いろいろな苦しい厳しい状況においても、ひたすら耐え忍ぶということ、修行には不可欠です。世間には理不尽なこと、理解不能なことも多くありますが、それを含めて自分自身なわけであり、逃げていては始まりません。「忍耐」は仏教的人間形成において必須事項であるのです。一方、「諦め」は何なのかと言いますと、「諦める」という言葉は、実のところ「あきらかにする」という意味から来ているのです。物事のあり様をあきらかに観察するわけです。闇雲に突き進むわけではなく、状況をあきらかにして次のステップへ行くということです。人生は忍耐強く、そして状況をあきらかにすることが大事だと言うのでしょう。ただ、私はテクノもロックも好きなのですが、これを実践するのはなかなか難しいなあと、昨今、実感しております。
2020年09月05日
明日は久しぶりの法話会
明日は久しぶりの法話会です。勤行も含めて1時間以内に終わるよう短縮しました。10月末には報恩講がありますが、こちらもお逮夜のみの短縮開催とします。短縮でも良いので、何かしら始めていかないと忘れてしまいそうです。4月からの新入社員がコロナ禍のため自宅待機となり、それでもお給料がある程度出るので働くのがめんどくさくなってしまった、という記事を見ました。これはまずいですね、人は低いほう低いほうへ転がっていく性質があります。怠惰です。自分を律しなければ煩悩はどんどん増幅しますので、これは困ったものです。
2020年08月21日
法話会再開のご案内
コロナ禍のなかではございますが、法話会を再開することとなりました。勤行と法話の時間を短縮しまして、あまり長時間にならぬよう配慮いたします。本堂内ではマスクをしていただき、手の消毒、余裕をもった着席をお願いしまして、感染リスク軽減にご協力いただければと思います。
善福寺法話会
9月6日(日)14時から 15時頃には終了予定
勤行:『讃仏偈』(『正信偈』は中止いたします)
法話:当山住職(短めな法話となります)
皆様、お参り下さい。なお、この時期、本堂内は大変暑くなっておりますので、その点もお気をつけていただければと思います。よろしくお願いいたします。
住職 伊東昌彦
善福寺法話会
9月6日(日)14時から 15時頃には終了予定
勤行:『讃仏偈』(『正信偈』は中止いたします)
法話:当山住職(短めな法話となります)
皆様、お参り下さい。なお、この時期、本堂内は大変暑くなっておりますので、その点もお気をつけていただければと思います。よろしくお願いいたします。
住職 伊東昌彦
2020年08月14日
坊さんとして思う言葉「英霊」
明日は終戦の日ですね。「英霊」という言葉があります。仏教では本来的には使用しません。もとは中国古典に見られるようですが、私は門外漢なので手近なところでウィキペディアで調べてみました。「英華霊秀」という言葉に原意を求められるようです。道教の「気」も関与する言葉のようですが、四字すべてが「すぐれている」という意味に通じていますので、これを人にあてはめれば「すぐれた人物」という意味合いになることでしょう。道教的に言えば仙人とまでは言わずも、すぐれた「気」を持っている人ってことでしょうか。
それで「英霊」というように二字のみ抽出すれば、とりわけ「霊」には「すぐれている」という意味のほか、「死者の魂」という第一義的意味がありますので、「英(すぐ)れた霊魂」という意味合いが強調されることになると思います。仏教、とくにインド仏教には「霊魂」という考えは本来的には存在せず、むしろ否定的です。日本仏教では、宗派によっては霊魂という言葉の使用も見られるようですが、これは中国思想との習合によるものです。ちなみに浄土真宗では使用しませんので、私にとっても霊魂という言葉は身近ではありません。
霊魂が何なのかというのは、上記のような事情もあるので私にはよく分かりません。イメージとしては、亡き方の死後精神というようなことになるのかなあ(ちなみに、唯識で言う阿頼耶識とはまったく違います)。おそらく、根源的なものとの合一には至っていない状態で、まだ生前の個性が保たれており、場合によってはある程度意思があるのかと思います。幽霊なんて意思丸出しですよね。怨んで出てくるわけですし。とまあ、かなりいい加減な規定にはなってしまいますが、おそらく、多くの方も厳密には霊魂が何なのか分かっていないと思うので、この程度のイメージで良いかと思います。
そして、「英(すぐ)れた霊魂」ということになりますと、どの点が英(すぐ)れているのかと言えば、それはもちろん生前の行いということになるのでしょう。死後の行いは不明ですし、当然、生前だと思うのです。日本で「英霊」という言葉を使用する場合、これはとりわけ日露戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦で戦死された方の霊魂を敬ってのこととなります。戦争で国家に殉じたと方と言っても良いので、この点において「英(すぐ)れている」と言えるのだと思われます。
今の平和、現代日本の平和というものは、こうした方々の犠牲の上に成り立っていることは言うまでもありません。戦死された方、戦病死された方、戦争による攻撃で亡くなられた方、戦争の関連で亡くなられた方、たくさんの方々が戦争で命を落とされました。おそらく、日本や家族を思って亡くなられたことでしょう。たくさんの方々の犠牲によって、私たちの今日一日があるのです。原爆の日をへて終戦の日が近づくにつれまして、毎年厳粛な気持ちになってまいります。今日という日を「あたり前の一日」だなんて思っては、本当に申し訳ないことです。
私は坊さんとして、「英霊」という言葉からは距離のある立場であり、いわゆる「霊魂」の存在を全面的に肯定しているわけではないのですが、戦争で犠牲になられた方々を敬う心はしっかりと持ち合わせています。もし仮に、そうした方々すべてを指して「英霊」と言うのであれば、それはそれで問題ないと思います。ただし、実際には戦死された方々に限定して使用されていることがほとんどだと思われますので、そこには聖戦的に戦争を賛美する志向を孕んでいるような気がしてなりません。国家に殉じることは尊いことではありますが、亡くなられた方々の思いをあわせ考えてみますと、安易な使用かなとも思えてきます。
そもそもの原意を訪ねてみましても、生前にすぐれた行いのあった方を指して「英霊」と言うことになるので、この言葉をとりわけ戦争に関係づけて用いること自体、果たして相応しいのか問題ではあります。原意とは独立して規定されている言葉であれば、容認できなくもないのですが、一般的な使用に耐え得るほど人口に膾炙していると言えるのでしょうか。もちろん、「英霊」という言葉を使われる方々の気持ちも理解できるのですが、聖戦的に戦争を賛美しているかのような場面で使われてしまっていることもあり、難しさを感じます。
戦争で亡くなられた方々を悼むことは、今を生きる日本人すべてにとって必要なことです。しかし、それはどんな戦争であっても、その戦争という行為自体を容認することであっては決してなりません。言葉を選ぶことは難儀なことなのですが、「英霊」という言葉に対しても、どういう方々を対象として使うのか、どんな場面で使うべきなのか、もっと議論があっても良さそうなものです。昨今、そういう気配はあまり感じられませんが、安易な戦争賛美が深まっていかぬよう、慎重にあってもらいたいものです。
それで「英霊」というように二字のみ抽出すれば、とりわけ「霊」には「すぐれている」という意味のほか、「死者の魂」という第一義的意味がありますので、「英(すぐ)れた霊魂」という意味合いが強調されることになると思います。仏教、とくにインド仏教には「霊魂」という考えは本来的には存在せず、むしろ否定的です。日本仏教では、宗派によっては霊魂という言葉の使用も見られるようですが、これは中国思想との習合によるものです。ちなみに浄土真宗では使用しませんので、私にとっても霊魂という言葉は身近ではありません。
霊魂が何なのかというのは、上記のような事情もあるので私にはよく分かりません。イメージとしては、亡き方の死後精神というようなことになるのかなあ(ちなみに、唯識で言う阿頼耶識とはまったく違います)。おそらく、根源的なものとの合一には至っていない状態で、まだ生前の個性が保たれており、場合によってはある程度意思があるのかと思います。幽霊なんて意思丸出しですよね。怨んで出てくるわけですし。とまあ、かなりいい加減な規定にはなってしまいますが、おそらく、多くの方も厳密には霊魂が何なのか分かっていないと思うので、この程度のイメージで良いかと思います。
そして、「英(すぐ)れた霊魂」ということになりますと、どの点が英(すぐ)れているのかと言えば、それはもちろん生前の行いということになるのでしょう。死後の行いは不明ですし、当然、生前だと思うのです。日本で「英霊」という言葉を使用する場合、これはとりわけ日露戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦で戦死された方の霊魂を敬ってのこととなります。戦争で国家に殉じたと方と言っても良いので、この点において「英(すぐ)れている」と言えるのだと思われます。
今の平和、現代日本の平和というものは、こうした方々の犠牲の上に成り立っていることは言うまでもありません。戦死された方、戦病死された方、戦争による攻撃で亡くなられた方、戦争の関連で亡くなられた方、たくさんの方々が戦争で命を落とされました。おそらく、日本や家族を思って亡くなられたことでしょう。たくさんの方々の犠牲によって、私たちの今日一日があるのです。原爆の日をへて終戦の日が近づくにつれまして、毎年厳粛な気持ちになってまいります。今日という日を「あたり前の一日」だなんて思っては、本当に申し訳ないことです。
私は坊さんとして、「英霊」という言葉からは距離のある立場であり、いわゆる「霊魂」の存在を全面的に肯定しているわけではないのですが、戦争で犠牲になられた方々を敬う心はしっかりと持ち合わせています。もし仮に、そうした方々すべてを指して「英霊」と言うのであれば、それはそれで問題ないと思います。ただし、実際には戦死された方々に限定して使用されていることがほとんどだと思われますので、そこには聖戦的に戦争を賛美する志向を孕んでいるような気がしてなりません。国家に殉じることは尊いことではありますが、亡くなられた方々の思いをあわせ考えてみますと、安易な使用かなとも思えてきます。
そもそもの原意を訪ねてみましても、生前にすぐれた行いのあった方を指して「英霊」と言うことになるので、この言葉をとりわけ戦争に関係づけて用いること自体、果たして相応しいのか問題ではあります。原意とは独立して規定されている言葉であれば、容認できなくもないのですが、一般的な使用に耐え得るほど人口に膾炙していると言えるのでしょうか。もちろん、「英霊」という言葉を使われる方々の気持ちも理解できるのですが、聖戦的に戦争を賛美しているかのような場面で使われてしまっていることもあり、難しさを感じます。
戦争で亡くなられた方々を悼むことは、今を生きる日本人すべてにとって必要なことです。しかし、それはどんな戦争であっても、その戦争という行為自体を容認することであっては決してなりません。言葉を選ぶことは難儀なことなのですが、「英霊」という言葉に対しても、どういう方々を対象として使うのか、どんな場面で使うべきなのか、もっと議論があっても良さそうなものです。昨今、そういう気配はあまり感じられませんが、安易な戦争賛美が深まっていかぬよう、慎重にあってもらいたいものです。