2017年08月01日

経論の教えから 『般若心経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その1 『般若心経』

色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。

「色」というのは物として捉えられるすべての現象のことです。そして、現象に過ぎないということは、何かが実体としては存在しない、すなわち「空」であるということです。固いと思われる物であっても、いつかは崩れ去っていく。私たちは感じ取れる物にこだわりを持ちます。そこにずっとあると思い込み、絶え間ない変化のなかに自分がいることに、なかなか気づくことが出来ないでいます。

これは心についても同じことです。心もまた変化をしています。つまり、心と体で成り立つ自分という存在もまた現象なのであり、刻一刻と変化をしているのです。健康であったとしても、老病死は避けられることではありません。私たちはいつまでも変わらないことを願いますが、叶うはずもないことを知っているはずです。しかし、叶わないことは苦しい。

こうした理に反した執着心が自分自身を苦しめているのですが、理に沿った生活というものは難しいものです。僧は本来、そのために普段の生活を捨て出家をしてきました。理を追及してきたわけです。日本では厳密な意味での出家は根づきませんでしたが、その反面、生活のなかで理を洞察していくような実践がなされました。日本仏教は生活とともにあると言えるでしょう。

変化する現象ではあっても、そこに何も存在しないというわけではありません。変化があるからこそ、現象は無限に広がっていきます。文字通り、可能性は無限大なのです。「空」とは虚無ではなく、何でも受け入れるような柔軟性を示してもいます。日々の生活のなかで息苦しさを感じるのであれば、それは自分自身に起因するものです。どこかに執着してしまい、柔軟性から遠ざかっているのでしょう。

理を学び理解しつつも、どうしても理に反してしまうこともあるのが私たちです。それはそれでまったく問題ありません。この世に完全なものなど存在しません。不具合があれば補正する。この繰り返しが宇宙の営みなのです。仏教的思考は原因究明から始まります。この苦しみの原因は何なのか。それを知ることが出来れば、補正の道が開けてくるかもしれません。ただし、他者のせいにすることは間違いです。すべては自分自身の問題として受け止める。これも仏教的思考の大事な点です。

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2017年07月22日

三十三回忌法要を若手僧侶が行う

日航機墜落事故から満32年を迎えるということで、三十三回忌法要を若手僧侶が行ったようです。40代以下ということでしたので、年齢的には私も同じぐらいです。おそらく小学生のとき、この事故の報道に触れたことでしょう。ご遺族の方々がどのようなご心境でおられるのか、私には思いはかることが出来ません。大変な事故であったという記憶とともに、もう三十三回忌なのかという、どこか他人事のように感じてしまう自分に恥じ入るばかりです。坊さんはお経読んで、人の話を聞いておくぐらいしか出来ないわけですが、それでもなお、こうして袈裟をつけて行動することは、多少なりとも人々の心を潤すことになるかもしれません。

ちなみに、写真を見る限りにおいて、どうやら浄土真宗系の坊さんはいなかったかな。参加されていたら申し訳ないです。浄土真宗でも三十三回忌法要をしますが、鎮魂や慰霊はしませんので、その意義が前面に出ている時は足並みを揃えづらい。今回はどうだったのでしょう。しかしまあ、教義的に認められないのは分かりますが、そんなこと一般社会ではどうでもいいことなんじゃないかな。坊さんは坊さんなんだから、自分たちだけ不参加というのは、もういい加減やめたほうがいいと思う。仏教教団は危機的状況なんだし、今だからこそ、もう一度、鎮魂や慰霊について再考すべきでしょう。

もちろん、たしかに浄土真宗は即成仏なので、即成仏じゃない宗派の方々と話をしていると、個人的に擦り合わせるのは結構難しい。違和感があるのは間違いないんだけど、そこは「慣れ」だと思います。しっかり勉強をしていれば、おそらく慣れることが出来る。私もようやく、本当にようやく慣れつつあるような気がしています。浄土真宗は組織が大きく、色々と自分たちだけで出来てしまうことがあります。だからでしょうか、他宗派との連携には消極的なところがある。大組織に属することの弊害の1つだと思いますが、視野が狭くなり、自己都合での判断に満足してしまうのは良くないことです。
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2017年07月13日

時間の経過は早いもので

昨日、44歳になりました。もちろん、家族は誰も気づかず。さ〜と1日が過ぎ去っていきました。諸行無常です。学生時代はついこの間のように思えますが、もう20年も経過してしまったようです。時間の経過というものは不思議なものです。時間という前提に人はいるのか、それとも時間なんて気のせいなのか。仏教は後者の立場です。諸行無常だから時間があるように思えるだけと観ます。諸行は心によっているので、心に変化がなければ時間なんて存在しません。

さて、時間はどう考えるべきなのでしょう。入不二基義先生の『時間は実在するのか』(2002年、講談社現代新書)を読んでみようと思います。

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2017年07月03日

六福寺めぐり 2017

6月29日(木)に「南足柄 六福寺めぐり お坊さんとQ&A」が開催されました。26名のご参加をいただきまして、六福寺をめぐったあと、南足柄市女性センターでQ&Aをいたしました。ご参加の皆様方、有難うございました。心より御礼申し上げます。

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写真は弘済寺での護摩祈願の風景です。手前の太鼓、私が打たせていただきました。護摩に参加するのは、もちろん初めてです。皆様の願いはちゃんと仏様に届いたでしょうか。リズムがいまいちでしたので、ちょっと心配です。

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2017年06月26日

宗教心を身につけること

宗教には様々な効能があると思います。たとえば、仏教では四苦八苦と言いまして、生・老・病・死という4つの苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦というさらに4つの苦をもって人生を捉えます。詳細は省きますが、前者は生死についての苦悩で、後者は人間関係や所有欲、そしてそもそも身体を持っていることについての苦悩です。こうした苦悩を乗り越えていく道が仏道であり、その教えが仏教となります。

この他、私が重視していることは、宗教がもたらしてくれる謙虚さです。宗教は人知を超えた存在を想定しまして、それとの対立において人の弱さをあらわにしていきます。人は不完全なのだという認識は多くの宗教で共通項となっていることでしょう。人は決して万能ではなく、理性的論理的に思考したつもりでも、それを実行することは困難を伴います。困難を克服するため、また思考に思考を重ねても、皆がそれについて来られるわけではないでしょう。

驕りを消し去ることは困難です。自信と驕りは紙一重ですが、このバランスを取ってくれるのが宗教ではないかと思っています。常に謙虚に、ひざまずくほど謙虚に思考することがなければ、自信はすぐに驕りへと変貌していくことでしょう。驕りは理性や論理を機能不全に陥らせるものです。神仏に導かれている自分なんだと思えればこそ、利他の心が芽生え、よりよい社会を構築するための知恵が思考によってもたらされるのではないでしょうか。

こうした意味において、宗教はどの場面でも必要であり、こうした宗教心を身につけることを大切にすべきです。とくに子を教育することにおいて、手を合わせたり、神仏をイメージさせることは効果的でしょう。自分たちは大きな存在から恵みをいただき、もたらされたはたらきの上に生かされていると感じられれば、自から感謝の思いも深まっていくと思えます。有難いと思える心を育むことは、われわれ大人の責務です。

ところで、キリスト教のミッション校はいくつも有名な学校がありますが、伝統仏教においても、ミッション校に相当する宗門校という学校はいくつもあります。神奈川県の中高では臨済宗の鎌倉学園や時宗の藤嶺藤沢、そして東京都では天台宗の駒込、浄土宗の芝、曹洞宗の世田谷学園と駒沢女子、浄土真宗の千代田女学園と武蔵野女子学院などがあります。一般的にはあまり目立った存在ではありませんが、それぞれ宗教教育を大事にしている学校です。

こうした宗門校に入学したからと言って、いきなり宗教どっぷりになるわけではありません。この点はおそらく伝統的なキリスト教ミッション校でも同じだと思います。礼拝に参加したり、それぞれの宗旨に則った宗教や倫理の授業がある程度でしょう。礼拝が強制参加ではない学校もあるかと思います。学校によってまちまちなので、詳細は学校サイトをのぞいていただければと思います。

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2017年06月09日

恥とは何でしょう?

通勤通学のラッシュは辛い。高校時代、西武線の扉に足はさまれたまま出発進行になってしまいました。痛いというより恥ずかしく、平静を保つふりをするので大変。なんせ長髪兄ちゃんでしたから、かなり可笑しな状況だったかと。日本は「恥の文化」とも言われますが、これでは笑いをとるだけ。恥とは本来、体面を気にするということではなく、非道に対して確固たる道理を持ち続けることであるようです。

臨済宗建長寺派の宗門校に鎌倉学園(鎌倉市)があります。鎌倉学園の校訓は「礼義廉恥(れいぎれんち)」ということです。不勉強ですが「菅子」に出てくる言葉だそうです。読んだことがありませんので、鎌倉学園のサイトによれば、「「礼」とは「節度を守ること」。「義」とは「自分を実際以上に見せびらかさないこと」。 「廉」とは「自分の過ちを隠さないこと」。 「恥」とは「他人の悪事に引きずられないこと」」とのことです。

「恥の文化」とは、アメリカ人の学者が日本文化をキリスト教文化と比較した際に名づけたもののようで、どうやら体面ばかり気にする気質を指すことのようです。上記の「菅子」は中国古典ですが、日本人は一生懸命に中国古典を学びました。日本人の恥とは、決して体面ばかりを気にするようなことではないでしょう。しかし、現代人の私たちもまた、こうした本来の意味を知らないことが往々にしてあります。グローバル化も結構なことですが、まずは自分たちの文化をしっかり知ることから始めたいものです。

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2017年06月08日

社会にとって必要なものとは?

多くの人が求めているもの=社会にとって必要なもの、と言えるでしょうか。需要に応じていくことは商売としては正解です。商売繁盛であれば、日本社会も良い方向にいくことは誰にでも理解できます。需要も満たされるわけなので、まさに一挙両得!

≪金魚を飼いました。ある日死んでしまった。あ〜あ、残念。さて、トイレに流すか≫

多くの人がこう思うようなことであれば、日本という国は滅んでいくことでしょう。似ているものは存在するでしょうが、神祇信仰や仏教の教えのなかで形成された日本的感覚や生命観は失われます。金魚トイレの件は合理的な側面もありますが、心は合理性とはまったく逆さま。合理的に生きようとしている人は大勢いますが、そんなの表面だけのことでしょう。

≪多くの人が家族の遺骨をトイレに流すようになったので、ご要望にお応えしまして、遺骨専用トイレが出来ました!≫

こんなもの社会にとっては不必要。求められるもののなかには、人々の勝手も多分に含まれいます。勝手がまかり通ることもあるし、自分たちだって勝手なところは多分にある。しかし、勝手で社会が成り立っているなんて、どう考えても受け入れがたい発想です。求められているものがすべて正しいなんてこと、商売に精進されている方に思ってほしくないなあ。

「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」 

近江商人の真髄です。浄土真宗門徒も多いそうです。まさに最後、「世間良し」だと思います。

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2017年06月04日

六福寺ツアー「お坊さんとQ&A」

六福寺ツアー「お坊さんとQ&A」のご案内

6月29日(木)開催を予定しております「六福寺ツアー」のご案内です。

今回はテーマを「お坊さんとQ&A」と題し、六福寺をバスでめぐりながら
弘済寺(廃寺善福寺)では護摩祈願をします。

昼食は大雄山駅近くの「和み料理きんとき」を予定、コースの最後に、女性
センター会議室にて、住職たちとの「お坊さんとQ&A」を開催します。


<日時・参加お申し込み方法など>
6月29日(木)午前9時 大雄山駅前集合
        午後3時30分頃 大雄山駅解散

参加費用:お一人様3,000円(昼食付き)
※当日はマイクロバスでの移動となります。

先着30名様までとなります。
参加ご希望の方は、お電話で善福寺(0465-74-0371)までお気軽に
ご連絡ください。

皆さまからのお申し込みをお待ちいたしております。
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2017年04月17日

逢坂の関(のこす記憶.com)

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逢坂の関

百人一首を暗誦されている方も多いでしょう。最近は映画の題材にもなっているようで、その人口に膾炙した存在は稀有なものです。私はもっぱら「坊主めくり」で腕を振るいましたが、情深い内容のものが多いなか、お坊さんの和歌はちょっと仏教色を出してピリッときます。

たとえば有名な蝉丸。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」と詠みます。私訳しますと、「これがまあ、行く人も帰る人もここで別れ、知っていようがいまいが別れていくという逢坂の関なのだ」(私訳)というような具合でしょうか。なんとも当たり前のことです。だから何だと思いたくもなるかもしれません。

しかし、どうでしょうか。人は好きな方とはずっと一緒にいたいと思うものです。いつか別れがあるとは分かっていても、情においては認めがたい。人は本来、諸行無常という移り変わりの世界を生きているものです。出会っては別れ、出会っては別れの連続なのですが、それに抗って生きているから生きづらい。

蝉丸が逢坂の関で何を思ったのかは具体的には分かりません。「別れ」から何を見たのでしょう。諸行無常を思うならば、移り変わりという点の連続こそ人生です。それを「逢坂の関」という有名な場所に置き換え、当たり前のようにサラリと詠んでみたのでしょうか。知らない人ともすれ違っていくのが私たちです。出会いとはまさに不可思議なものですね。


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2017年03月17日

春のお彼岸です

今日はお彼岸の入りの日となります。西の彼方に沈む太陽に思いを馳せ、亡き方を偲ぶ日本的な仏教行事です。春のお彼岸はまだまだ空気が冷たいのですが、神奈川県西部は早咲きの桜が多いので、かなり華やかな雰囲気になっています。やや曇り空ですが、善福寺の桜もきれいに咲きました。

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2017年03月06日

花粉が飛んできています

花粉の季節になりました。神奈川県西部は大量に花粉を生産(?)しています。私も少々花粉症ぎみですが、まだ悪化はしておりません。本堂の大屋根は黄色くなり、廊下は花粉でぼやけた色になります。箒で掃きますと山になるぐらいたまるのです。

この花粉、風にのったものは遠くまで行くことでしょう。おそらく、横浜ぐらいまで飛んでいくこともあるんじゃないかなあ。県西部の花粉が横浜市民の方の花粉症を悪化させ、そしてマスクが売れていく・・・。マスク会社の景気がよくなれば、社員さんの懐も温かくなり、給料日には家族で外食しようかとなれば外食産業も潤う。

仏教では色々な事柄に関係性を持たせて理解します。無関係なものは存在しないのです。何事もめぐりめぐって、今ここにこうして私がいるわけです。命というものは、かくも複雑な関係性の上に成り立っているもので、だからこそ尊いのだと言えるのでしょう。

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2017年02月01日

受動態と日本人の宗教的感性(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より


受動態と日本人の宗教的感性

I was surprised.(驚いた)。中学生はもちろん、私でも翻訳できる英語です。しかし日本人としては奇妙ですなあ。なんで受動態なんだろ。形容詞的用法とかありますが、単純にそう思います。たしかに「驚く」という行為は何か対象が必須です。驚くに限らず、感情は何であれそういうものでしょう。I was pleased.(喜んだ)やI was disappointed.(失望した)も同じです。何かに驚き、喜び、失望しているわけです。なるほど、確かに「驚かされて」、「喜ばされて」、「失望させられて」いますね。でも日本人としては、対象の存在をことさら説明する意図や、能動性を打ち消したい意図がないかぎり、受動態は使いません。

ところで、西行法師は「いつの間に 長き眠りの夢さめて 驚くことの あらんとすらむ」(私訳:いつになれば長い迷いからさめて、動じないでいられるのか。)と詠みますが、驚くことは自らの煩悩に由来していると見ているようです。この世は諸行無常であり、何があっても別段驚くようなことはないのだが、煩悩のあるままに眠りこけている私は、いつになったら真理に通暁することやら。

大乗仏教の多くが唯心論を展開していくことは以前述べましたが、西行もまた唯心的世界観を持っているのでしょう。心のあり方と外的世界に関係性を持たせていることが窺えます。また、仏教では一般に自業自得とも言いまして、自らの行為やその影響による結果は、最終的にはすべて自らが得ることになるとも説きます。一見外的な要因に見えることであっても、それは自らに由来すると捉えているわけです。

こうした思考が日本人一般に見られるかと言いますと、現代的には全くそんなことはないでしょう。しかし、現代日本語であっても、こうした仏教的世界観を通じて積み重なってきた用法を受け継いでいますし、そもそも、西行法師が詠んでいることであっても、何となく理解できる人は多いのではないかと思います。

また、日本人は一神教の宗教観を伝統的には持ちませんし、それも影響しているかもしれません。唯一神のような、超越的かつ外部的な何かの下に人があるとは思いにくいでしょうし、これは一般的とは言い難い。日本人一般において、何らかの導きによって「〜されている」という感覚は、乏しいのではないでしょうか。もう一歩踏み込んで言いますと、日本人にはあまり受動的感性はなく、基本的にはすべて自己に由来するものとして受け止めている。主語を明確にしなくても意味が通じるのは、こうした感性に由るのかもしれません。

英語の受動態が一神教に関係するのかは分かりませんが、日本人が受動態を多用しないということには、以上のような宗教的事情も関係していそうです。普段、あまり自らを宗教的だと感じることのない日本人ですが、日本人の宗教的感性というものは、意識的に明確化されると言うよりも、無意識的でありながら、思考や生活に溶け込んでいるものなのでしょう。ただし、例外もありますので、それはまた次回お話させていただきます。


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2017年01月23日

稀勢の里が優勝!!

稀勢の里が優勝しました。たぐい稀なる勢いを期待されていましたが、やや時間がかかりましたね。しかし、立派に相撲道に邁進していると思います。優勝インタビューの受け答えも良かった。「道」とは「仏道」に由来する使い方であり、自己を見つめる教えであると言って良いでしょう。相撲は「道」だと思います。柔道・剣道・空手道はもちろん、書道・茶道・華道といったものも同じなのです。ジャンルは同じです。

スポーツとして観戦することも楽しいのですが、同時に「道」なのだという認識があれば、力士をより好きになれるのではないでしょうか。

これからも稀勢の里の「道」を応援していきたいと思います。

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2016年12月20日

幽霊はいるのでしょうか?(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで3回にわたって前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬みが中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方が、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

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2016年12月15日

他阿真円『生かされて生きる「捨ててこそ」の実践』

時宗法主、遊行七十四代であり、総本山遊行寺(清浄光寺)の五十七世である他阿真円(戸籍名:加藤円住)師の近著『生かされて生きる「捨ててこそ」の実践』(神奈川新聞社、2016年)を知人からいただきました。法主は97歳におなりでありまして、運転免許所を返納されたことでも最近報道がありました。遊行寺は藤沢にありまして、箱根駅伝で有名な「遊行寺坂」の遊行寺です。藤沢は遊行寺の門前町として栄えました。

本書を読了いたしまして、もちろん師の長いご人生の足跡とご苦労から学ばせていただくことが多かったのですが、それにもまして「諦めてあきらめない」というお言葉に感銘を受けました。

諦めると言いますと、もうや〜めた、という雰囲気が現代的には漂います。しかし本来、この諦めるの「諦」という文字は「あきらかにする」という意味であり、仏教の用法としては「真理」という意味が与えられています。物事の道理をあきらかにする、という意味になるわけです。私たちは普通に誤用してしまっていると言えるでしょう。

師は「困難に直面したら「諦め」て受け入れ、人事を尽くし、そこからは「あきらめない」で阿弥陀様に委ねる。そうすれば道は必ず開けます」(171頁)と説かれています。本来の意味と現代的な意味合いを巧みに使われ、阿弥陀様におまかせする生き方、つまり他力の仏道を示されていると言えましょう。困難に漠然と向き合うのではなく、自分なりに分析をして立ち向かう。もちろん、人にはどうしようもないこともあります。人事を尽くしたならば、あとは阿弥陀様にすべておまかせしておけばいい。そこは現代的な「あきらめない」なのです。平仮名にされているのは、そういうご配慮なのだと思います。

師は龍谷大学に在籍されていたそうですが、戦争のさなか、8年間の在籍でとうとう1単位も取ることができなかったそうです。本書ではそのことに数回触れられまして、無念な思いを吐露されていました。龍谷大学は私ども浄土真宗本願寺派の宗門校です。同じ浄土教学徒として、その無念のお気持ちはいかほどであるのか、私にも感じるところがございます。

97年間のご苦労を私が語ることはできませんが、「諦めてあきらめない」生き方、私も少しでも真似てみたいと思いました。なお、ご寄贈下さった方は近隣の時宗・龍福寺の檀家総代の方です。ある会合で毎週顔を会わせる間柄ですが、改めて御礼申し上げます。本書とのご縁をいただき有難うございました。

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2016年11月24日

雪が降る

今日は雪ですね。雪が降ると条件反射的にアダモの『雪が降る』を思い出します。アダモ氏は諸言語で歌われたそうですが、私はまったくの言語音痴です。翻訳すると微妙に意味が変わってしまうかもしれないのですが、日本語で歌ってくれると嬉しいです。たとえば英語が分からん人にとりましては、洋楽と邦楽は聴いている脳の部位が異なるのではないかとさえ思います。英詞を文章で読んで理解していますと、洋楽も邦楽のように聴けるような気もします。ただまあ、私が読んだ英語なので間違ってそうですが。

お経も同じです。日本ではお経、つまり経典は漢文で読みますので古い中国語読みです。音(おん)は経典輸入当時の中国語ですが、イントネーションはなく音だけです。ちなみに、現代中国語で読むと全く違う響きになります。経典は外国語文献なのです。さらに言えば漢文経典も翻訳されたもので、原典はサンスクリット語であったりします。原典と漢文経典を比べますと、かなり意味が異なっていたりして興味深いことがあります。ただし、違う意味で受け取ってしまった場合、インドでの仏教理解と異なる理解をしてしまっていることとなり、言葉の壁があることを感ぜずにはいられないこともあります。

たとえば極楽浄土。この浄土は日本では覚りの世界と同じように受け取られますが、原典では「スカーヴァティ」と言いまして、「幸あるところ」という程度の意味になるようです。私たちの住む世界に比べれば覚りに近い環境ではありますが、そのものズバリというわけではありません。翻訳をされて、様々に解釈されるうちに受け取り方に変化が生じたのでしょう。

しかし、だからこそ出てきた教えもありまして、単なる誤訳や誤った解釈だとするのは早計です。翻訳経典であっても、真摯に経典に向き合うことにより、原典の意味を日本的に再構築することは可能です。大切なことは経典の心を読み取ることではないかと思います。

洋楽でありましても、何が言いたいのか理解することができれば、細かいことは問題ではないかも、知れませんね。

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2016年11月12日

前世と来世‐輪廻‐(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐輪廻‐

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。

ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 (次回へつづく)

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2016年11月04日

報恩講が終了

報恩講の修行を無事に勤めることができました。今、心の底から安堵しております。年間で最も大切な行事ですので、毎年色々と神経を使うわけです。元より小心者の神経質なので、大丈夫かと心配になってしまうのでした。

◎お逮夜は鎌倉能舞台による献能「花月」でした。

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動きが多い能でしたので、間近で鑑賞できたことは幸いです。仏教説話のなかには、幼少の頃にさらわれてという話は多くありまして、かつての社会を偲ぶことが多少できたかと思います。

◎お日中は茅場町いとう医院の伊東佳子先生による健康講座でした。

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骨粗しょう症についてお話をいただきまして、普段の食事の大切さを改めて知ることができました。野菜をあまり食べない私にとりまして、身にしみる思いでありました。菜っ葉を食べよう!!

たくさんのお参りをいただきまして、誠に有難うございました。
お聖人様のご縁によりまして、貴重な時間を過ごすことが出来ました。

合掌
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2016年10月13日

若者の「不飲酒」と昭和の哀愁

20代でお酒を飲まない人が増えているようです。これまたmixiのニュースで知りました。なんでmixiかと言いますと、誰かと交流しているわけではなくニュースだけ見ているのです。まあ、それはいいとしまして、お酒は飲まなければ飲まないほうがいいかと思います。私は飲みますが。

お酒を飲んだほうが交流が深まるとは言いますが、それは程度の問題です。飲み過ぎると喧嘩にもなります。殴り合い。喧嘩して交流深まるかもしれませんが、敢えて喧嘩する必要もないとも言えそうです。かつて『ボルテスV』という合体ロボアニメのOPで、主人公(赤)とクール役(青)の二人が唐突に殴り合い、数コマ後には腕を組んで相互に絆を確認するという場面がありました。もちろんお酒は飲んでないと思いますが、現代的にはこういう場面は受け付けられないことが多いでしょう。お酒を飲んで、ときには喧嘩もして交流が深まるという思考は、昭和そのものかもしれません。私はしっくりきますが。

しかし、お釈迦様もお酒は飲まんほうがいいと説かれます。お酒飲むと修行や勉強ができなくなるからです。場合によっては暴力を振るったりもするでしょう。「不飲酒戒」(ふおんじゅかい)と言いまして、「戒」として制定されています。出家修行者には「律」として罰則がありますが、そうでない人に罰則はありません。罰則がないからセーフではなく、やっぱりダメなものはダメなのです。般若湯だろうが何だろうが、教理的にはダメなものはダメです。

今、お酒は家では飲まない、1週間に10杯と決めています。ちょっと多いか。外で飲むと費用もかさむので、少なくしたい少なくしたいと考えています。飲まなければ飲まないほうがいいですし。煙草は一瞬でやめられました。お酒は難しい。依存です。

20代の人々はお酒のデメリットをしっかり見ているのでしょう。お酒はトラブルのもとでもありますし、とにかく費用がかかります。飲んで消えていくだけ。日本人はシャイだからお酒に頼りがちなのかもしれませんが、20代はネットはネイティブなので、別の方法でシャイを克服しているのかもしれません。常態的に他者とネットでつながっているわけですし、昭和の感覚ではありません。

こう考えますと、昭和ってのは泥臭いもんですね。とても懐かしく思えてしまうということは、久しぶりに会った方から「貫禄が出てきたねえ」(体格的)と言われることもあわせ考えますと、私がもう全く若者ではなくなったということなのでしょう。自分に哀愁を感じてしまいます。

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2016年09月15日

本質こそ大事にしたい

仏教では宇宙そのものを「生住異滅(しょう・じゅう・い・めつ)」の四相で捉えることがあります。「生じて」、「持続して(住)」、「変化して(異)」、「滅して」いくわけで、これを繰り返しているのが宇宙だと言うのです。仏教では宇宙の始まりを明確にはしませんので、この繰り返しこそが宇宙になります。「過程の連続」ということなのでしょう。

私ども人間は、いつの時代も人間中心のものの見方から脱することが出来ません。自分の思考を冷静に見つめてみましても、やはりどこかで人間中心です。成長してきた生活環境自体がそうであるので、もちろんこれが直ちに悪いということにはならないのですが、それが故、本質を見誤ることもあるのでしょう。

では本質とは何でしょう?

仏教で説くところによりますと、それはまず人間中心ではないということです。たとえば地球環境問題を取り上げましても、「地球環境に悪い」という思考は、実際には「人間にとって悪い」ということになります。もちろん、他の生物にとっても「悪い」ことにつながるのですが、人間が消滅しましても、おそらく地球自体は存在していることでしょう。そして、長い年月をかけて自浄作用を施していくと思います。

また、人間は決して「万物の霊長」ではなく、「生住異滅」の考え方によるならば、人間という存在も「過程」に過ぎないことになります。今、AIと言われる人工知能についての報道が見られますが、人間に取って代わりまして、AIが地球上で人間のような存在になるかもしれません。AIは人間が生み出したものですし、人間から「進化」したとも言えそうです。そしてAIもいつかは滅ぶでしょう。それも宇宙の「生住異滅」の過程です。

地球環境について言うならば、直接的に「人間の存在にとって悪い」と言ったほうが本質的です。しかし、それだと人間中心だという批判を受けるため、わざわざ「地球環境に悪い」という表現をするのでしょう。自分たちの思考をしっかりと知るならば、環境問題に地球は「無関係」だと言ってしまっても良いかもしれません。もちろん地球を大事にすることは尊いことですが、環境問題の視点は別のところにあるでしょう。

こうしたスケールの大きなことのみならず、普段の生活の中でも本質を見えないようにしていることは多々あります。たとえば、私たちは毎日食事をいただきます。食事には多くの命が含まれています。動物だけではありません、植物だって生きているのです。種だけいただいているわけではないでしょう。お肉はパックになって突如出現するわけではありません。ちゃんと生きていたのです。それをいただいている。命というものは、他者の命があって初めて存在し得るものなのです。これが本質です。

人間中心に思考していますと、何でも都合よくなってしまいますよね。私だってそうです。自己中なのです。

posted by 伊東昌彦 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge