2016年03月25日

善福寺の集い

善福寺では法話会のほか、仏典会、楽友会(歌の会)、スウィーツ教室を開催しています。お寺は普段、空いている部屋もあるので、地域の方々に活用していただければと思っています。

善福寺の集い
http://www.zempukuji.or.jp/houwakai

上記、善福寺サイトにページを設けました。
まだ情報が少ないのですが、開催の様子などもお伝え出来ればと思っています。

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2016年03月12日

17日から春のお彼岸

今月17日は春のお彼岸の入りの日です。

「彼岸」とは「此岸」、つまり「こちら側」に対して「あちら側」という意味合いになります。「こちら側」は迷いの世界、「あちら側」は覚りの世界です。仏教では極楽浄土が最も近い覚りの世界とされまして、それは西の彼方にあると言われます。

春分の日や秋分の日は太陽が真西に沈みます。ですから、本意としては「到彼岸」ということで、「覚りに到る」ということが象徴的である両日に、極楽浄土への往生を願ったり、すでに往生された人々を偲んだりするようになったのでしょう。

【2016年、春のお彼岸】
17日(木)入り〜20日(日)お中日〜23日(水)明けとなります。
お参りをお待ちしております!

善福寺ではお彼岸のお中日(春分の日)に彼岸会を修行します。
皆さんで正信偈を読誦しましょう。

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2016年03月08日

マイルール(酒)

春になりますとお酒の席が多くなります。歓送迎会の季節ですね。私はお正月にはあまり飲む機会がないのですが、この季節は意外と多くなります。プライベートでも普通に飲みますので、益々酒量が増えてしまうわけです。

お酒はクセになりますので、ある程度セーブしていかないと病気にもなってしまうでしょう。私の父は存命ですが、アルコール依存症で死にかけたことがあります。20年間ぐらい依存症だったと思います。結局倒れて専門病院で断酒をすることになりました。会社勤めをしたながらの住職だったので、自から酒量も増えていったのでしょう。朝からウイスキーなんて良くある光景でした。

お酒には自分なりのルールが必要だと私は思っています。私は家では飲まないことになっています。飲むなら外に行く。費用はかかりますが、家では飲まないので多少はマシかと思っています。費用を考えると大量に飲むことが出来ません。これは坊さんの先輩を真似たもので、その先輩のお父上もお酒で良くなかったそうです。お陰で自動的に休肝日も出来まして、マイルールは大事だと実感しています。

人は何事でも低いほうへ流れてしまう傾向にあります。自分を律するということは、他人を批判するように簡単なことではありません。私も自分を棚に上げておくことは得意なんですが、本来はちゃんと棚から下ろして、いるものは分類してしまう、いらないものは捨てる、というようにすべきでしょう。マイルールがありますと、面倒なことでも出来る場合があります。お酒を家で飲むというカードは捨ててしまったわけです。

しかしながら、実は土曜日も仕事で飲みまして、日曜も法話会が終わって、ああ一息ということで家族で食事に行ってしまいました。もちろん飲みました。さすがに月曜は休肝日になったのですが、今日は仏教会の総会です。

家で飲まなくでもお酒が多くなる季節なので、気をつけたいと思います。

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2016年03月05日

正信偈「十二光」

正信偈のお勤めをしていますと、「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言に行きあたります。正信偈は七言絶句の規則のなか、巧みに浄土の教えがまとめられています。だからでしょうか、声を出してお勤めするときには調子がいいのですが、内容をいただく際には難しさを感じることもあります。言葉が省略されていることもありますし、羅列だけということも多いからです。ここはそれほど難しい内容ではないのですが、阿弥陀如来の十二光についての知識がないと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。

阿弥陀如来の十二光というのは、『無量寿経』巻上に説かれます無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことです。なるほど、こうして見ると冒頭の正信偈の文言に十二光が含まれていますね。阿弥陀如来は別名無量光如来とも言い表されることがありまして、凡夫を救いとるそのはたらきは、世界の隅々まで行き渡る光に譬えられることがあります。十二光のそれぞれを味わうことが出来れば良いのですが、ここでは最後の超日月光にスポットをあててみましょう。

光といえば太陽です。この宇宙で光り輝く存在と言えば恒星であり太陽系では太陽です。光の譬えが太陽によっていることは間違いないのですが、ここでは超日月、すなわち太陽や月を超えた光だとされているのです。私たちが普段触れているまばゆい太陽は、朝方に地平線から上り夕方には再び地平線に沈みます。一方、月は太陽の光を受けています。昼間はあまり目立つ存在ではなく、夜になると輝きを増していきます。いずれも太陽光であることに変わりはないのですが、地球上にいる私たちからしてみますと、公転や自転といった条件によって見え方は限定的になってしまいます。もとより太陽は常に光り輝いているのですが、私たちはこれが当たり前だと感じてしまっているのです。

日月を超えるということは、私たちの思い込んでいる普段のあり方を超えて、本来の太陽、いえそれ以上の存在だということを示していると思います。古来、太陽は世界のいたるところで強大な存在の象徴でした。しかし、その力強い太陽とはいえ、昼夜があることを考えれば無限のはたらきがあるとは言えません。地球上では光が届かない所も出てきてしまうわけです。しかも、この宇宙はどこまで行っても限定的です。私たちからすれば無限の広がりを持つように思える宇宙空間でさえ、果てがあると言われます。太陽も例外ではなく寿命の限られた存在です。燦然として力強い太陽でさえ無量の光を持つとは言えず、阿弥陀如来の存在はそれを超えているのです。

十二光のなかに難思光という名もありますように、阿弥陀如来のはたらきは人の思惟では理解し難いと言われます。人がいくら考えをめぐらせても、如来から見ればそれは凡夫の限定的な営みにすぎないと言えましょう。十二光の譬えをいただくとき、改めて私どもの有限性、凡夫性に気づかされる思いがいたします。

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2016年01月26日

上川通夫著『平安京と中世仏教』

研究所の仏教書レビューで上川通夫先生の『平安京と中世仏教 王朝権力と都市民衆』(吉川弘文館、2015年10月1日)を取り上げました。

 レビュー    
鴨長明の『方丈記』と言えば多くの人が知っていることだろう。「ゆく河の流れは絶えずして…」、である。随筆として仏教的無常観に触れることができるとともに、平安時代末期の平安京の様子を知ることもできる。天災についての記録もあり、災害記録としての史料価値も高い。『方丈記』は本書のオープニングの一端を飾る。そしてラストにも再び登場するわけだが、本書執筆の目線はまったく異なるところにある。鴨長明は出家をしており仏教に造詣が深い。故に『方丈記』は仏教書とも言える。しかし平安京での出来事は仏教にちなんだことばかりではなく、一見仏教的であっても極めて政治的な側面を持つ出来事も多い。たとえば『方丈記』に出る隆暁法印の阿字供養。これは養和の飢饉において平安京に餓死者が大量に出た際、仁和寺の隆暁が死体の額に阿字を書き入れ、仏縁を結ばせたという故事である。鴨長明は純粋に供養として受け取るわけだが、本書はさらにそれが政治的な権力事業につながっていく背景にまで考察を深める。事実、この供養は政治性に満ちあふれており、当時の平安京における仏教のあり方をよく示していよう。著者は「平安京で展開されてきた仏教は、後白河院が権力事業で推進したような支配思想を正統としている」と言い切る。しかしそうした中で、慢性的な飢饉状況を生きる平安京の庶民は、個別的でありながらも仏教を媒介として新しい思想を獲得し始めていたと言う。本書の着眼点は「王朝権力」にあるが、それを知らずして日本仏教は語れないとも言えるだろう。

浄土真宗本願寺派総合研究所
仏教書レビュー
http://j-soken.jp/category/read/review

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2016年01月01日

新年明けまして

本年も宜しくお願いいたします。

新年というのはリセットみたいなものですが、人はこうしてリセットしないと心の整理がつきにくいものなのもかもしれません。心機一転という言葉もあります。何かのきっかけが必要とのことで、除夜の鐘もこうした意味があるとも言えます。良くも悪くも「水に流す」ということでもありますが、しっかり責任は持っていきたいものです。
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2015年12月31日

大晦日を迎えて

DSC_0653.jpg

今年も大晦日を迎えることができました。あたり前に迎えることができるということは幸せなことです。あたり前と思えることに感謝をしつつ新年を迎えたいと思います。

写真は除夜会の記念品です。私の自作「名号凧」。30個を2日で作ります。

合掌
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2015年12月09日

土地と先祖

神奈川県西部、箱根山麓の南足柄市に引越しをしてきて12年ほど経過しました。帰郷したい思いは残りますが、もうすっかりこの地に慣れてしまいました。とにかく自然豊かです。小田原駅から新幹線を使えば都心から1時間ほどで到着してしまいます。だいたい80キロは離れていますが、その程度の移動で自然環境に親しく生活が出来てしまうわけです。

この地にいますと地面が良く見えます。地形も分かりやすい。建物がない場所も多いので、地面の高低が分かりやすいんですよ。東京だと建物が多く、しかも階がバラバラなので地面の高低が手に取るように分かるとは言い難い。坂があると分かるんですが、それでもイメージしずらい部分はあります。あそこが丘であそこが谷だとか、そこまでなかなか分からない。地名が手掛かりになって何とか実感できるという具合でしょうか。私の故郷は中野の上高田という場所なんですが、言われてみれば高い場所が多かったような気もします。

やや飛躍しますが、地面が実感できるとその地の先祖にも思いが至るような気がします。この地でという思いが強くなる。この地に生きてきた人々がいるんだなあと感じやすい。人の流入が少ないことも一因でしょうが、地面と先祖って心のなかでリンクしているんじゃないでしょうか。地面が見えると昔をイメージしやすいですよね。その土地に代々暮らしている家のほうが法事をすることも多いかもしれません。先祖の土地を離れてしまうと、そういう感覚が消えてしまうとも思えます。

こう考えてみると法事というのは仏事というより、根源的には神事であることに気づかされます。土地の神様を祭るのと同じ感覚ですよね。土地の神様は引越しをしないし、同じようにご先祖様も引越しはしないわけです。仕事の都合で引越しをされる方も多いでしょう。先祖供養と聞いてピンと来ないのは仕方のないことなわけです。法事は一般的に一周忌から三十三回忌や五十回忌まであります。回忌が遠くなればなるほど先祖供養の意味合いが強くなる。一周忌とか三回忌ですと故人への感謝の気持ちで集うということも多いかと思います。しかし、年月がたてば故人を知る人も減り、いつのまにか法事の意味合いも自発的なものから変化があるのかもしれません。法事には感謝と恐れが混在しています。

都市部であればあるほど法事の回数が減るというのは、自分の血を感じることのできる土地から離れてしまっている人々が多いからでしょう。日本人の心は、やはり土地と深いつながりがあるのでしょう。仏教は精霊信仰から発した自然宗教ではなく、教義が創唱されて整備された制度宗教ですが、今の神道の元になった精霊信仰的な神祇信仰とも違和感なく溶け込める柔軟性を持っていました。日本人はこうしたなかで心、とりわけ宗教心を育ててきたのです。土地と親和性のある神様仏様のなかで暮らしてきたのです。

現在、日本の宗教はピンチだと思います。ただ、いい機会なので日本の宗教、日本人の宗教心とは何のか、この点について再考してみるのも大事かと思います。

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2015年11月04日

臨終勤行(枕経)をして

僧侶の資格をいただいて20年以上です。住職になってからはもちろん、僧侶になってから初めて臨終勤行をいたしました。他宗では枕経と呼ぶこともあるかと思います。臨終勤行とは臨終に際して当人になりかわって僧侶が行う報恩行です。病院で亡くなることが一般的な今、あまり行われなくなったものだと思います。さらに善福寺は先代と先々代住職が兼職であったため、住職の時間的制約から、かなり長い間行われていなかったようです。本山で住職の資格をいただく教習で意義を教えていただいてから、一度も執行することがありませんでした。

通夜葬儀では普段、お棺に納められたご遺体を前に尊前で読経いたします。僧侶はあまり故人の死を感じることがないかもしれません。しかし、教義の問題は別にしまして、ご遺族からしてみれば僧侶が故人を送る役目を担っていると言えるわけで、私ども僧侶にとっても生から死への転換を目の当たりにすることは意義があります。語弊があるかもしれませんが、臨終もしくは亡くなった直後から僧侶も「参加」していないと、僧侶がいる意味自体が薄まってきてしまうのかもしれません。

時代の流れとともにある程度の葬儀簡略化はやむを得ないと思います。しかし、実は臨終勤行はとても大切な勤行であり、簡略化してはいけなかったものなのかもしれません。うまく言葉に出来ませんが、初めて臨終勤行を執行いたしまして、もの凄く意義深いということを体感したような気がします。ほんの10分程度のものなのですが、その場にいるということの大切さを感じることができました。

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2015年10月23日

残された記憶から得るもの

東アジアの人々は先祖供養を大切にしています。日本では法事というスタイルで浸透しているものです。しかし、面白いことにインド仏教には先祖供養の考え方はありません。仏教が東漸するにつれて変容していったのです。仏教はそもそも包容力が高いのですが、先祖供養が東アジア人にとって譲れない営みだったことが重要だと思います。東洋大学教授の菊池章太先生によれば、16世紀の日本人キリシタンにとっても、「御先祖様も救いにあずかれる」(『日本人とキリスト教の奇妙な関係』、角川新書)ことが重要であったそうです。もちろんキリスト教には先祖供養の考えはありません。現代におきましても、キリスト教であっても法事のようなことをすると聞いたこともあります。それだけ先祖、つまり亡き方々を大切にしているのが日本人なのです。

先祖供養を低級な宗教的営みと見なす学者もいるようですが、私はそうは思いません。一神教文化圏の人々からすればそう思えるのかもしれませんが、先祖一人一人の人生があって今の自分の人生があるわけで、先祖に思いを馳せることはむしろ合理的です。そして、その上で関係性を自分事として深く感じ取っていく、言い換えれば、私たちは心に直接先祖から何らかの力(→関係性によるもの)を得ていると思っています。私は宗教家として、亡き方に思いを馳せ、その人生から何か生きるヒントを得るということは、むしろ高度に宗教的営みかと考えています。

宗教とは自分がどこから来てどこへ向かうのかというテーマを、命や魂の目線で感じていく営みであるとも言えましょう。もちろん、それは一神教的に壮大なものであったも構わないですし、先祖供養のような土地に根差したものであっても同じことだと思うのです。祖父祖母がどう生きたのか、父母がどう生きたのか、残された記憶から、私たちは大きな力を得ることができるのだと思います。そしてまた、今度は私たちが残す役目も担っていくということ、とても重要なことではないでしょうか。

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2015年09月06日

柳家三三師匠の落語口演

先週の小田原北ロータリーの例会におきまして、小田原出身の柳家三三師匠の落語口演を拝聴いたしました。三三師匠は地元を大切にして下さっており、忙しいなか、たびたび小田原方面で口演をされています。同年代ということもあり、勝手に親近感を感じておりました。

当日は30分という限られた時間でしたが、落語についてのお話のほか、実際に「転失気」を演じていただきました。「転失気」は坊さんが出てくる噺ですが、住職という立場にありますと、なかなか正直になれないときもあるという、私にとっては、何となく共感できる内容でありました。

お医者にかかった住職は、診察のとき「転失気」はありますが、とお医者さんから聞かれます。しかし、「転失気」の意味が分からない。分からないというのは恥ずかしい。仕方がないので、適当に「ない」と言っておきました。どういう意味なのか気になる住職は、自分が知らないということを隠し、弟子を使ってあの手この手で意味を知ろうとします。その顛末が大変可笑しく、「転失気」というのは、実は「屁」のことなのでした。「屁」が出るのかと、お医者さんは聞いたわけですね。

ところで、「転失気」は「てんしき」と読みます。「てんしき」と言えば、「識を転ずる」ということで、「転識得智」という言葉が思い浮かびます。熟語になると「てんじきとくち」と読み慣わすわけですが、つまりは「てんしき」です。「識」というのは仏教用語で、迷いのなかにいる私の認識作用や、その認識のもとになる作用のことです。この迷いの結果とも言える「識」を転じていけば、仏としての智慧を得られるというのです。

「転失気」で大恥をかいた住職は、少しは「得智」に近づくことができたでしょうか。

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2015年08月29日

宗教の良し悪し

宗教の良し悪しほど難しいものはありません。全てが良いとも言えますし、全てが悪いとも言えます。信仰を持っている方にとっては、当然のことながら、その信仰は良いわけです。逆に信仰していない方にとっては、無関心、もしくは嫌悪感をいだく場合もあるでしょう。前世や来世はもちろん、命や魂という存在を認めない無神論者の方にとっては、すべての宗教はいい加減な物言いに映ることでしょう。優劣を比較し始めますと、はっきり言いまして際限がありません。

ただし、ある程度尺度がありませんと、何が何だかさっぱり分からないということもありましょう。私が思うに、宗教とはまず、自己のあり方、自分がどこから来て、どこに向っていくのか、こうした自己探求を、現世だけにとどまらず、よりスケールの大きい宗教世界において考えることに意義があると思います。そして、その自己というものは、他者との関わりによって存在し得ているということ、言い換えれば、他者との関係性に目覚めることも大事になってきます。さらに他者との関係において、その他者をも含めた関係性こそが自己であると認識していくこと、それはつまり、自己を大切に思うと同じく、他者をも大切にしていく心を養うことです。独善的ではなく、可能なかぎり他者へ寄り添えるような心と言えましょう。

なお、他者というものは、自分に都合の良い者ばかりではありません。そこをどう捉えていくのか、排除しようとするのか、それとも認め合う方向で関係性を持っていくのか、どちらに舵を切るかによって、その宗教としての本質が随分と変わってくると思います。私が思うポイントは、だいたいこんなところです。

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2015年08月11日

藤原為憲について

善福寺伊東家のご先祖に、藤原為憲という方がいます。工藤姓と庵木瓜を賜った方のようです。工藤姓は伊東姓につながっていきます。伊東は地名から取ったものでしょう。詳しくは分かりませんが、「伊東」というのは、「東のほう」といような意味合いかと思います。都からすれば、流刑地みたいな場所だったのでしょう。頼朝も流されていますしね。ちなみに、「伊豆(いず)」と言いますが、読み方を換えれば「いとう」とも読めます。

藤原為憲は平将門の乱の鎮圧に尽力した功績があるようです。平将門と言えば神田明神です。神田明神は平将門の霊を鎮める役割も担っていたようです。いわゆる御霊信仰ですね。菅原道真と太宰府天満宮のようなものでしょう。伊東性を名乗っていますと、何となく神田明神にお参りしにくいような気もしますが、御霊信仰という側面からすれば、むしろお参りしたほうが良いかもしれません。

神田明神の氏子地域内に住む兄は、毎年神田祭を楽しみにしているようです。私もいつか家族を連れ、お参りしたいものだと思っています。

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2015年08月03日

無くなってほしい習慣TOP10

ある雑誌の「無くなってほしい習慣TOP10」という記事に、「故人に戒名」もランクインされていたようです。浄土真宗では「法名」と言いますが、ここでは同じことに受け取られていると言って良いでしょう。また、「故人」とありますが、もちろん「生前授与なら問題ない」と思われているわけでもなさそうです。

日本において戒名とは、仏教徒としての戒を授かったときに受ける名です。インドにおきまして、仏教信者になるためには戒を守る心構えが必要なわけです。仏教的生活規範です。これは中国や日本にも伝わりました。浄土真宗は例外的に戒を受けない宗派ですが、生活規範的なものがまったく存在しないわけではありません。

しかし、問題は「名」です。たしかに僧侶となるときには、今までの生活を変えるという意味で改名することがほとんどだったと思います。生まれ変わりの意味もあるのでしょうか。お師匠さまからいただくことが多いと思います。僧侶としては大事なところでしょう。ただ、一般の仏教信者でも改名するのかと言えば、インドで改名の習慣があったのか、私には分かりません。

良く分からなくなったところで種明かしをしますと、日本仏教における葬儀というものは、基本的には僧侶向けのものであり、僧侶が僧侶を送るという形式なのです。僧侶でない人が亡くなれば、僧侶にしてから送るわけです。僧侶にするためには授戒する必要があり、僧侶になったのだから改名もするということです。元来、仏式葬儀は一般向けではなかったわけですね。と言うことで、そこから戒名問題が発生してきているのだと思います。この根源的な問題をちゃんと坊さんが解決していないので、TOP10にも入ってしまうのでしょう。

ちなみに浄土真宗においては授戒がありませんので、もちろん戒名はありません。その代わり、仏教信者は全員が「釋」の姓を名乗るべきだという考えによりまして、「釋○○」という法名を受けます。この考えは中国の釋道安という僧侶が言われたことで、親鸞聖人もこれにならって「愚禿釋親鸞」と名乗られています。インド人の僧侶には姓は見られないと思いますが、中国で活躍した僧侶には姓をつけている僧侶もいます。ただし、一般の仏教信者でも改名したのかは、やはり良く分かりません。浄土真宗の言う法名は、おそらくキリスト教における洗礼名に近いものがあるかと思いますが、一般社会では戒名と同じだと思われているようです。

いずれにしましても、現状においては、どの宗派でも戒名もしくは法名がある状態で葬儀をするということが原則になっています。しかし、俗名で葬儀ということも普通に行われています。これはどうしたことかと言いますと、私が思うに、はじめは菩提寺と遠距離にあった檀家が、葬儀の際にひとまず近所のお寺で葬儀をしてもらい、その後、菩提寺で納骨の際、戒名や法名をいただくという流れが発生したことに起因するのだと思います。これが一般化してしまい、戒名や法名のない状態での葬儀が広まったのではないでしょうか。

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2015年07月16日

仏教は非戦・非暴力の宗教です

仏教は仏(=如来)と私が1対1で向き合う宗教です。仏と向き合うことにより、自己を知ることが出来るようになります。皆で何かをしましょう、ということよりも、それぞれが自己を向き合うことで、全体的な動きを実現することにつながります。

今年は終戦70年を迎えます。仏教をよりどころとする私たちは、これからどんな行動をすべきなのでしょう。自己を見つめるならば、それはもう煩悩だらけであり、争いはなくなりそうにありません。理想的には全人類が自己と向き合い、自己の愚かさに気づかされることが望ましいのですが、都合の良い「正義」がまかり通っている以上、これは望むべくもないことです。

しかし、やはり仏教は非戦・非暴力の宗教です。武器も否定します。歴史を振り返れば、寺院や僧侶が武装して戦闘していた時代もありますが、これは教えの曲解です。時代背景を考慮するならば、即座に否定はできない部分もありますが、基本的には間違いです。であるならば、取るべき行動は1つしかないとも言えそうです。

ところで、映画『スターウォーズ』の第1作目では、惑星を一撃で破壊するほど強力な武器を持った帝国軍が登場します。帝国の圧制に苦しむ人々が反乱軍を組織して抵抗するなか、オルデランという惑星は軍隊を持たず、政治的対話での抵抗を続けます。しかし、前述の武器一撃で惑星は破壊されてしまいました。とても印象的なシーンであり、心に焼き付いています。

日本人の誰しもが世界平和を望んでいると思いますが、平和実現のためには、いくつかの道筋が考えられているようです。どの方法が本当に平和につながっていくのか私には分かりませんが、仏教によって生きる者として、やはり非戦・非暴力は貫いていかねばならぬと思っています。

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2015年07月05日

大涌谷と箱根周辺

今、箱根山(大涌谷)が噴火しそうな予兆を見せています。これは報道されている通りなのでしょう。先日、箱根湯本である会合に出ましたが、普段と同じ程度の人出か、やや少ないという印象でした。台風のような雨が降っていた影響もあるでしょう。しかし、お店の方に聞いたところ、やはり観光客の方は少ないとの話でした。たしかに、箱根湯本という名には「箱根」とありますので、そのまま箱根山だと思ってしまうことも、仕方のないことかもしれません。

ところで、善福寺のある南足柄市は箱根町の隣町です。市域のほとんどが箱根山、つまり外輪山の明神ヶ岳となっています。大雄山最乗寺から明神に登りますと、すぐ下には大涌谷や芦ノ湖が見えるわけです。地図を広げてみますと、直線距離であれば、大涌谷‐箱根湯本と、大涌谷‐最乗寺はほぼ変わりません。しかし、南足柄市の人々はもちろん、多くの人々が南足柄が噴火に巻き込まれるとは思っていないでしょう。

明神がありますので、おそらく大涌谷が噴火しましても最乗寺は大丈夫です。ただし、箱根湯本であっても、大涌谷は箱根内輪山ですので、それほど甚大な影響は受けないのではないでしょうか。いい加減なことは書けませんが、よく箱根に行く者として、地理的にはそんな印象を受けています。名前なんですよね。箱根湯本も危ないと思うのは、「箱根」とついているからで、名前による印象が大きな力を持っているのだと思います。仮に南足柄が「箱根足柄」とか、良く分かりませんが「箱根」を名乗るならば、もっと観光客は増えるでしょうが、こうした場合は一緒くたに考えられるかもしれません。名前の影響力です。

名はそのものズバリではありませんが、認識上、重要な標識になっていることは確かです。大乗仏教では空思想のもと、名は「仮名」として仮に真理を指し示している方便として捉えました。しかし、密教の時代になりますと、真理というものは、この世界のいたるところに満ち溢れているものだと強く考えられ、名であっても、いえ、名こそ真理のすがたなのだと捉えるようになりました。大乗仏教の華厳思想にも真理の遍満性は説かれましたが、密教ではさらに一歩進んだわけです。

報道において箱根湯本の商店の方が、「箱根山と箱根湯本を一緒くたにされては困る」というような内容のことを仰っていました。たしかに、一面の真理を捉えていますが、大涌谷が沈静化すれば「一緒くたに考えてもらって結構」、となることは容易に想像できます。こうした場合、名というものは、やはり人にとっては仮のものとして捉えておくべきことかもしれません。同じ「名」であっても、仏さまが見られたときと、私ども凡夫が見たときでは、真理は1つであっても、大きく異なって見えてしまうものです。

やや難しくなりましたが、単純に観光客として、私たちはどう考えるべきでしょう。まだ梅雨空ですが、夏休みはもうすぐ近くまで来ています。

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2015年06月22日

落語の中の浄土真宗

先週の金曜日、18日に浜離宮朝日ホールで「落語の中の浄土真宗」が開催されました。笑福亭三喬師匠による「花筏」と「後生鰻」の口演のあと、相愛大学教授の釈徹宗先生にご登壇いただき、私が聞き手となって対談をいたしました。「花筏」と「後生鰻」にはお念仏、つまり「ナンマンダブ、ナンマンダブ」という声が入っておりまして、今回は「鰻と相撲とナンマンダブ」というテーマを掲げました。

南無阿弥陀仏とありますと、ちょっと固い雰囲気がありますが、「ナンマンダブ」、とりわけ声として「ナンマンダブ」と聞きますと、とても日常的です。私のように仏教教義を主として学んできた者にとりましては、お念仏とは何なのか、出典は何なのか、どういう思想的背景があるのかとか、小難しいことを考えがちです。しかし、そんな思索とは別のところで、「ナンマンダブ」はどんどん日本全国に広まっていきました。

釈先生はこうした「ナンマンダブ」は世代を超えて受け継がれてきたものであり、人々をつなぐ力があると語っておられました。思わずお念仏をしてしまうような、そんな「体質」になっている日本人は多いのでしょう。体からしみ出るようなもの、宗教とは本来、そういうものなのかもしれません。

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2015年05月19日

六福寺めぐり

今年も「六福寺めぐり」を開催します!

2015 六福寺めぐり‐点心と護摩

日程:2015年6月3日(水)
集合:午前9時大雄山駅集合(午後2時頃解散)
募集:40名
参加費:1人3000円(昼食つき)
申し込み:善福寺(0465-74-0371)もしくは六福寺各寺院へ直接

9:00 大雄山駅集合
9:15 大雄山駅出発
9:30 福田寺 法話
10:00 善福寺 お経
10:30 天福寺 見学
11:00 龍福寺 法話
11:30 長福寺 点心(昼食)
13:00 弘済寺 護摩
14:00 大雄山駅解散(予定)
※移動はマイクロバス

是非、ご参拝下さい!!
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2015年04月24日

山下博司『古代インドの思想』の紹介

山下博司『古代インドの思想‐自然・文化・宗教』 ちくま新書、2014年11月10日 本体価格800円+税

目 次   
はじめに
第一章 インドの大地と自然‐思想と宗教を育んだ風土
第二章 インダス文明と原ヒンドゥー教‐半乾燥地域の先史文明
第三章 アーリヤ人の侵入とヴェーダの神々‐モンスーンとの出会いと衝撃
第四章 ウパニシャッドから仏教・ジャイナ教へ‐ガンジス平原と森林の思考
第五章 仏教と雨‐修行者の暮らしと教団の成立
あとがき
主要参考文献

レビュー  
日本とインドは2012年に日印平和条約締結60周年を迎えた。両国はグローバルパートナーとして、政治と経済の両面で交流を深めている。多くの日本人にとって、インドはそれほど遠くない国であることだろう。ただし、日本とインドは同じアジア圏に属しているとはいえ、地理的には近隣国というわけではない。それにも関わらず、こうした長年の友好関係が続いているのは、仏教を通じた文化的交流が古くからあり、それが日本人の感性の一部として根付いてきているからである。
本書の著者は東北大学大学院教授で、インド思想史・文化史、南アジア地域研究、環境思想を専門としている。インドという国が実際、どのような自然環境にあり、どのようにして国が成り立ち、どのような思想を人々が持っているのか、紀元前3000年前にさかのぼり、本書は明らかにしていく。仏教を通じてインドを身近に感じる日本人であるが、本当はインドのことをよく知っているというわけではない。しかし、本書を読み進めるならば、インドという風土において成立した思想が、なぜ日本人にとっても受け入れやすいものであったのかが分かるだろう。
カレーを食べたことのない日本人は少ない。日本流にアレンジされたもので、老若男女を問わず人気の料理である。本場インドカレーを食べてみるならば、もっとカレーが好きになることは間違いない。

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2015年04月07日

八日講 花まつり

5日の日曜日、善福寺では「八日講 花まつり」が修行されました。この行事は本来、「八日講」として春の報恩講のようなもので、主として女性が担ってきたものです。かつては「女人講」という名称でもあったようです。おそらく、毎月8日に女性が寺に集い、お説教を聞かれていたことが原型だと思います。それがいつしか、年1度の修行となり、4月上旬に定着したのでしょう。今、お釈迦さまのお誕生日である4月8日に近いので、「花まつり」を併習することにしています。

ここ数年、ソプラノ歌手の橋本京子さんにご来山いただき、正信偈のお勤めのあと、数曲歌っていただいております。今年も中島みゆきさんの「糸」を歌っていただきまして、あらためて人と人との縁、つながりというものの大切さを感じることができました。「縦の糸はあなた、横の糸は私」と歌詞にあります。布は糸と糸が交差して出来ています。つまり、お互いが支え合い、大きな力を得ているわけです。私たちも他者との縁があるからこそ、今、こうして人生を歩んでいられるのでしょう。

歌というものは、直接心に響いてくるところがあります。お説教は何度も何度も聞くことが大事ですが、歌は一足飛びの場合もあります。メロディーと歌詞があいまって、大きな力を発揮するのでしょう。ホント、歌っていいものですね。

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