2017年01月23日

稀勢の里が優勝!!

稀勢の里が優勝しました。たぐい稀なる勢いを期待されていましたが、やや時間がかかりましたね。しかし、立派に相撲道に邁進していると思います。優勝インタビューの受け答えも良かった。「道」とは「仏道」に由来する使い方であり、自己を見つめる教えであると言って良いでしょう。相撲は「道」だと思います。柔道・剣道・空手道はもちろん、書道・茶道・華道といったものも同じなのです。ジャンルは同じです。

スポーツとして観戦することも楽しいのですが、同時に「道」なのだという認識があれば、力士をより好きになれるのではないでしょうか。

これからも稀勢の里の「道」を応援していきたいと思います。

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2016年12月20日

幽霊はいるのでしょうか?(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで3回にわたって前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬みが中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方が、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/?page_id=33

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2016年12月15日

他阿真円『生かされて生きる「捨ててこそ」の実践』

時宗法主、遊行七十四代であり、総本山遊行寺(清浄光寺)の五十七世である他阿真円(戸籍名:加藤円住)師の近著『生かされて生きる「捨ててこそ」の実践』(神奈川新聞社、2016年)を知人からいただきました。法主は97歳におなりでありまして、運転免許所を返納されたことでも最近報道がありました。遊行寺は藤沢にありまして、箱根駅伝で有名な「遊行寺坂」の遊行寺です。藤沢は遊行寺の門前町として栄えました。

本書を読了いたしまして、もちろん師の長いご人生の足跡とご苦労から学ばせていただくことが多かったのですが、それにもまして「諦めてあきらめない」というお言葉に感銘を受けました。

諦めると言いますと、もうや〜めた、という雰囲気が現代的には漂います。しかし本来、この諦めるの「諦」という文字は「あきらかにする」という意味であり、仏教の用法としては「真理」という意味が与えられています。物事の道理をあきらかにする、という意味になるわけです。私たちは普通に誤用してしまっていると言えるでしょう。

師は「困難に直面したら「諦め」て受け入れ、人事を尽くし、そこからは「あきらめない」で阿弥陀様に委ねる。そうすれば道は必ず開けます」(171頁)と説かれています。本来の意味と現代的な意味合いを巧みに使われ、阿弥陀様におまかせする生き方、つまり他力の仏道を示されていると言えましょう。困難に漠然と向き合うのではなく、自分なりに分析をして立ち向かう。もちろん、人にはどうしようもないこともあります。人事を尽くしたならば、あとは阿弥陀様にすべておまかせしておけばいい。そこは現代的な「あきらめない」なのです。平仮名にされているのは、そういうご配慮なのだと思います。

師は龍谷大学に在籍されていたそうですが、戦争のさなか、8年間の在籍でとうとう1単位も取ることができなかったそうです。本書ではそのことに数回触れられまして、無念な思いを吐露されていました。龍谷大学は私ども浄土真宗本願寺派の宗門校です。同じ浄土教学徒として、その無念のお気持ちはいかほどであるのか、私にも感じるところがございます。

97年間のご苦労を私が語ることはできませんが、「諦めてあきらめない」生き方、私も少しでも真似てみたいと思いました。なお、ご寄贈下さった方は近隣の時宗・龍福寺の檀家総代の方です。ある会合で毎週顔を会わせる間柄ですが、改めて御礼申し上げます。本書とのご縁をいただき有難うございました。

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2016年11月24日

雪が降る

今日は雪ですね。雪が降ると条件反射的にアダモの『雪が降る』を思い出します。アダモ氏は諸言語で歌われたそうですが、私はまったくの言語音痴です。翻訳すると微妙に意味が変わってしまうかもしれないのですが、日本語で歌ってくれると嬉しいです。たとえば英語が分からん人にとりましては、洋楽と邦楽は聴いている脳の部位が異なるのではないかとさえ思います。英詞を文章で読んで理解していますと、洋楽も邦楽のように聴けるような気もします。ただまあ、私が読んだ英語なので間違ってそうですが。

お経も同じです。日本ではお経、つまり経典は漢文で読みますので古い中国語読みです。音(おん)は経典輸入当時の中国語ですが、イントネーションはなく音だけです。ちなみに、現代中国語で読むと全く違う響きになります。経典は外国語文献なのです。さらに言えば漢文経典も翻訳されたもので、原典はサンスクリット語であったりします。原典と漢文経典を比べますと、かなり意味が異なっていたりして興味深いことがあります。ただし、違う意味で受け取ってしまった場合、インドでの仏教理解と異なる理解をしてしまっていることとなり、言葉の壁があることを感ぜずにはいられないこともあります。

たとえば極楽浄土。この浄土は日本では覚りの世界と同じように受け取られますが、原典では「スカーヴァティ」と言いまして、「幸あるところ」という程度の意味になるようです。私たちの住む世界に比べれば覚りに近い環境ではありますが、そのものズバリというわけではありません。翻訳をされて、様々に解釈されるうちに受け取り方に変化が生じたのでしょう。

しかし、だからこそ出てきた教えもありまして、単なる誤訳や誤った解釈だとするのは早計です。翻訳経典であっても、真摯に経典に向き合うことにより、原典の意味を日本的に再構築することは可能です。大切なことは経典の心を読み取ることではないかと思います。

洋楽でありましても、何が言いたいのか理解することができれば、細かいことは問題ではないかも、知れませんね。

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2016年11月12日

前世と来世‐輪廻‐(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐輪廻‐

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。

ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 (次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/


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2016年11月04日

報恩講が終了

報恩講の修行を無事に勤めることができました。今、心の底から安堵しております。年間で最も大切な行事ですので、毎年色々と神経を使うわけです。元より小心者の神経質なので、大丈夫かと心配になってしまうのでした。

◎お逮夜は鎌倉能舞台による献能「花月」でした。

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動きが多い能でしたので、間近で鑑賞できたことは幸いです。仏教説話のなかには、幼少の頃にさらわれてという話は多くありまして、かつての社会を偲ぶことが多少できたかと思います。

◎お日中は茅場町いとう医院の伊東佳子先生による健康講座でした。

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骨粗しょう症についてお話をいただきまして、普段の食事の大切さを改めて知ることができました。野菜をあまり食べない私にとりまして、身にしみる思いでありました。菜っ葉を食べよう!!

たくさんのお参りをいただきまして、誠に有難うございました。
お聖人様のご縁によりまして、貴重な時間を過ごすことが出来ました。

合掌
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2016年10月13日

若者の「不飲酒」と昭和の哀愁

20代でお酒を飲まない人が増えているようです。これまたmixiのニュースで知りました。なんでmixiかと言いますと、誰かと交流しているわけではなくニュースだけ見ているのです。まあ、それはいいとしまして、お酒は飲まなければ飲まないほうがいいかと思います。私は飲みますが。

お酒を飲んだほうが交流が深まるとは言いますが、それは程度の問題です。飲み過ぎると喧嘩にもなります。殴り合い。喧嘩して交流深まるかもしれませんが、敢えて喧嘩する必要もないとも言えそうです。かつて『ボルテスV』という合体ロボアニメのOPで、主人公(赤)とクール役(青)の二人が唐突に殴り合い、数コマ後には腕を組んで相互に絆を確認するという場面がありました。もちろんお酒は飲んでないと思いますが、現代的にはこういう場面は受け付けられないことが多いでしょう。お酒を飲んで、ときには喧嘩もして交流が深まるという思考は、昭和そのものかもしれません。私はしっくりきますが。

しかし、お釈迦様もお酒は飲まんほうがいいと説かれます。お酒飲むと修行や勉強ができなくなるからです。場合によっては暴力を振るったりもするでしょう。「不飲酒戒」(ふおんじゅかい)と言いまして、「戒」として制定されています。出家修行者には「律」として罰則がありますが、そうでない人に罰則はありません。罰則がないからセーフではなく、やっぱりダメなものはダメなのです。般若湯だろうが何だろうが、教理的にはダメなものはダメです。

今、お酒は家では飲まない、1週間に10杯と決めています。ちょっと多いか。外で飲むと費用もかさむので、少なくしたい少なくしたいと考えています。飲まなければ飲まないほうがいいですし。煙草は一瞬でやめられました。お酒は難しい。依存です。

20代の人々はお酒のデメリットをしっかり見ているのでしょう。お酒はトラブルのもとでもありますし、とにかく費用がかかります。飲んで消えていくだけ。日本人はシャイだからお酒に頼りがちなのかもしれませんが、20代はネットはネイティブなので、別の方法でシャイを克服しているのかもしれません。常態的に他者とネットでつながっているわけですし、昭和の感覚ではありません。

こう考えますと、昭和ってのは泥臭いもんですね。とても懐かしく思えてしまうということは、久しぶりに会った方から「貫禄が出てきたねえ」(体格的)と言われることもあわせ考えますと、私がもう全く若者ではなくなったということなのでしょう。自分に哀愁を感じてしまいます。

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2016年09月15日

本質こそ大事にしたい

仏教では宇宙そのものを「生住異滅(しょう・じゅう・い・めつ)」の四相で捉えることがあります。「生じて」、「持続して(住)」、「変化して(異)」、「滅して」いくわけで、これを繰り返しているのが宇宙だと言うのです。仏教では宇宙の始まりを明確にはしませんので、この繰り返しこそが宇宙になります。「過程の連続」ということなのでしょう。

私ども人間は、いつの時代も人間中心のものの見方から脱することが出来ません。自分の思考を冷静に見つめてみましても、やはりどこかで人間中心です。成長してきた生活環境自体がそうであるので、もちろんこれが直ちに悪いということにはならないのですが、それが故、本質を見誤ることもあるのでしょう。

では本質とは何でしょう?

仏教で説くところによりますと、それはまず人間中心ではないということです。たとえば地球環境問題を取り上げましても、「地球環境に悪い」という思考は、実際には「人間にとって悪い」ということになります。もちろん、他の生物にとっても「悪い」ことにつながるのですが、人間が消滅しましても、おそらく地球自体は存在していることでしょう。そして、長い年月をかけて自浄作用を施していくと思います。

また、人間は決して「万物の霊長」ではなく、「生住異滅」の考え方によるならば、人間という存在も「過程」に過ぎないことになります。今、AIと言われる人工知能についての報道が見られますが、人間に取って代わりまして、AIが地球上で人間のような存在になるかもしれません。AIは人間が生み出したものですし、人間から「進化」したとも言えそうです。そしてAIもいつかは滅ぶでしょう。それも宇宙の「生住異滅」の過程です。

地球環境について言うならば、直接的に「人間の存在にとって悪い」と言ったほうが本質的です。しかし、それだと人間中心だという批判を受けるため、わざわざ「地球環境に悪い」という表現をするのでしょう。自分たちの思考をしっかりと知るならば、環境問題に地球は「無関係」だと言ってしまっても良いかもしれません。もちろん地球を大事にすることは尊いことですが、環境問題の視点は別のところにあるでしょう。

こうしたスケールの大きなことのみならず、普段の生活の中でも本質を見えないようにしていることは多々あります。たとえば、私たちは毎日食事をいただきます。食事には多くの命が含まれています。動物だけではありません、植物だって生きているのです。種だけいただいているわけではないでしょう。お肉はパックになって突如出現するわけではありません。ちゃんと生きていたのです。それをいただいている。命というものは、他者の命があって初めて存在し得るものなのです。これが本質です。

人間中心に思考していますと、何でも都合よくなってしまいますよね。私だってそうです。自己中なのです。

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2016年07月24日

十二光

正信偈のお勤めをしていますと、「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言に行きあたります。正信偈は七言絶句の規則のなか、巧みに浄土の教えがまとめられています。だからでしょうか、声を出してお勤めするときには調子がいいのですが、内容をいただく際には難しさを感じることもあります。言葉が省略されていることもありますし、羅列だけということも多いからです。ここはそれほど難しい内容ではないのですが、阿弥陀如来の十二光についての知識がないと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。

阿弥陀如来の十二光というのは、『無量寿経』巻上に説かれます無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことです。なるほど、こうして見ると冒頭の正信偈の文言に十二光が含まれていますね。阿弥陀如来は別名無量光如来とも言い表されることがありまして、凡夫を救いとるそのはたらきは、世界の隅々まで行き渡る光に譬えられることがあります。十二光のそれぞれを味わうことが出来れば良いのですが、ここでは最後の超日月光にスポットをあててみましょう。

光といえば太陽です。この宇宙で光り輝く存在と言えば恒星であり太陽系では太陽です。光の譬えが太陽によっていることは間違いないのですが、ここでは超日月、すなわち太陽や月を超えた光だとされているのです。私たちが普段触れているまばゆい太陽は、朝方に地平線から上り夕方には再び地平線に沈みます。一方、月は太陽の光を受けています。昼間はあまり目立つ存在ではなく、夜になると輝きを増していきます。いずれも太陽光であることに変わりはないのですが、地球上にいる私たちからしてみますと、公転や自転といった条件によって見え方は限定的になってしまいます。もとより太陽は常に光り輝いているのですが、私たちはこれが当たり前だと感じてしまっているのです。

日月を超えるということは、私たちの思い込んでいる普段のあり方を超えて、本来の太陽、いえそれ以上の存在だということを示していると思います。古来、太陽は世界のいたるところで強大な存在の象徴でした。しかし、その力強い太陽とはいえ、昼夜があることを考えれば無限のはたらきがあるとは言えません。地球上では光が届かない所も出てきてしまうわけです。しかも、この宇宙はどこまで行っても限定的です。私たちからすれば無限の広がりを持つように思える宇宙空間でさえ、果てがあると言われます。太陽も例外ではなく寿命の限られた存在です。燦然として力強い太陽でさえ無量の光を持つとは言えず、阿弥陀如来の存在はそれを超えているのです。

十二光のなかに難思光という名もありますように、阿弥陀如来のはたらきは人の思惟では理解し難いと言われます。人がいくら考えをめぐらせても、如来から見ればそれは凡夫の限定的な営みにすぎないと言えましょう。十二光の譬えをいただくとき、改めて私どもの有限性、凡夫性に気づかされる思いがいたします。

※本原稿は「やさしい法話」へ投稿したものです。
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2016年07月19日

時代としての三十三回忌

あるニュースによりますと、いわゆる「霊」の存在を信じている人は32%、信じがたいとしている人は68%だそうです。この場合の「霊」はオカルト的なイメージなのですが、70%もの人が信じがたいと断言していることはちょっと意外でした。「わからない」という解答がなかったかもしれませんが、どうも信じられないなあと思う人が多いようです。

昭和末期のことですが、流行りましたねえ心霊写真。小学生の私は本気でした。心霊スポットとか。今じゃパワースポットのうほうが人気です。オカルト的な「霊」の持つネガティブなイメージが、ジメジメしたものから爽やかに、自分に力を与えてくれるような神的存在に昇化されたのでしょうか。

浄土真宗では言いませんが、巷では三十三回忌をもって死者の霊は祖霊の仲間入りを果たすそうです。う〜む、たしかに私は今43歳なので、何となく辻褄が合うような合わないような。。。つまり、33年もたてば、ネガティブなイメージも転換されてくるということなのでしょうか。私個人としてではなく、時代として三十三回忌をすぎたとか。

昨今、通夜葬儀に坊さん呼ばれません。もしかしたら、これも時代的三十三回忌をすぎたから、とするのは言い過ぎでしょうか。死後の世界に対して、冷静に考えることの出来る方向性を示してくれる科学、そして個々人の教養の深まりというものが、「霊」を消し去ったと言えるのかもしれません。あの頃から33年もたったのかと思いますと、時代の変化も分かるような気がします。

仏教でありましても、実はこうしたオカルト的とも言える恐怖心と無縁ではなく、むしろそれを抑える役割を果たしてきたのも事実です。そして、敢えて言えば、それが仏教の経済的基盤であった。浄土真宗は霊を言いませんが、そうではあっても、巷で騒がれる霊に対して無関心であるはずもなく、そうした心情に対応してきたからこそ、今の教団があることも一面の事実でしょう。

とは言いましても、死後の悩みが解決されるわけもなく、むしろ冷静に考えられるような土壌が育成されたならば、本来あるべき仏教の教えが本領を発揮する時代になったとも言えましょう。そこにはオカルト的な恐怖心はなく、自分自身の様々な悩み、苦しみを直視する真摯な視界があります。人はなぜ悩み苦しむのか、その根源的な原因は何なのか。それを解明するのが仏教です。

そして解決する方法は2つあります。1つは難行道、もう1つは易行道です。難行道は瞑想によって自己自身の煩悩を消し去る方法、易行道は仏の慈悲によってあるがまま救われていく方法です。どちらの道でも良いでしょう。浄土真宗は易行道です。

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2016年05月23日

六福寺ツアー2016

今年も六福寺ツアーを開催いたします!!

6月14日(火)六福寺ツアー「写経と茶席」
〜大雄山駅午前9時集合〜
弘済寺で写経、長福寺で茶席を体験いたします。
昼食は関本の「和み料理きんとき」で精進弁当!

費用は昼食代込みで2000円です。

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2016年04月28日

永代供養墓「アーユス廟」

<善福寺からのお知らせ>永代供養墓「アーユス廟」

永代供養墓は、後継者のいらっしゃらない方や、お一人の方にご利用いただくことが多くなっております。もちろん、それ以外の方にも問題なくご利用いただけますよう、広く門戸の開かれたものとなっています。

足柄平野を見渡すことのできる立地は、南足柄市や開成町、小田原市にお住まいの方々にとりまして、安心の出来る場所になっています。是非一度、ご見学にいらして下さい。境内はいつでも自由に散策ができます。また、お電話をいただければ、住職がご案内をさせていただきます。

永代供養墓「アーユス廟」
お一人様 15万円〜
詳細は以下のページをご覧下さい。永代供養墓のページになっております。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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宗教法人善福寺(0465-74-0371)
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2016年04月02日

葬儀の黒字化!?

昨今、葬儀は縮小傾向にあります。いわゆる家族葬は文字通り家族近親者のみで行う葬儀です。友人は呼ばないというのが基本スタンスでしょう。近所への告知もしません。敢えて言いますと、人知れず送られていくわけです。本人の気持ちとして、共感できる部分がないわけではありません。自分の葬儀であるならば、別にそれでもいいかなあと漠然と思います。

しかし例えば両親が亡くなった場合、とくに父親は幸せなことに生まれ育った場所で生活していますので、近隣には幼なじみの方も大勢いらっしゃいます。送る立場であるならば、やはり皆さんに声をかけたいと思います。送る立場と送られる立場では、当然のことながら思考は変わりますよね。

葬儀について色々と考えることが多いのですが、葬儀社の方から「葬儀の黒字化」という言葉を聞きました。なるほど、葬儀に出費はつきものですが、実は入ってくるものも結構あるわけです。「御霊前」(浄土真宗では御仏前)ですね。家族葬だとほとんど御霊前がないので、出て行くばかりになります。しかしある程度の人数に来ていただきますと、黒字化することもあるそうです。不謹慎かと思われるかもしれませんが、実は重要な事柄を含んでいるのです。

と言いますのは、葬儀には葬儀社のみならず、花屋さん、果物屋さん、引き物屋さん、料理屋さん、タクシーやバス会社さん等々、私たちの目に入りやすい業者さんが大勢関係してきます。細かく言うならば、御棺屋さんは絶対必要ですし、蝋燭、そして仏式ならばお線香だって必要です。葬儀をすることによりまして、様々な業者さんが成り立っていけるわけです。地域の業者さんを使えば、地域は活性化していきますし、自分たちの生活にも関係することが多くありそうです。「故人の社会貢献」と言えるかもしれません。しかし家族葬においては、こうしたことは望むべくもないことです。

一般的に見て従来形式の葬儀は費用がかかりますが、そのためにも御霊前があるのでしょう。これは地域の知恵であり、地域活性化の一助として機能していると思えます。そして、これだけのことをして、最後に少し余りました。御霊前が余れば黒字です。どの程度で黒字化するのか私には分かりませんが、別に不謹慎なことでもなんでもなく、余れば有難くとっておけばいいでしょう。儲けるためにやるのは問題ですが、余っちゃたものは貰えばいいんです。両親の葬儀であれば、両親からの最後の「お小遣い」ですね。嬉しいじゃあないですか。私ならそう勝手に思います。

今の世の中、不景気のなか経費削減が叫ばれますが、経費削減だけでは世の中は回っていきません。家庭のお財布は日本経済とは異なる性格ではありますが、こうした考えもあってもいいかもしれませんね。

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2016年03月28日

「早生まれ」について

たいへん無知なことで、4月1日生まれの方が「早生まれ」になることを知りませんでした。横浜の社労士の先生に教えていただき、初めて知って驚いたばかりです。その時、理由を説明していただきましたが、どうも半分しか理解できず、もう1度調べてみました。すると・・・

年齢についての法律では、生まれた日を1日目とカウントするそうです。なるほど、これは仏教で言う「年回法要」の数え方と同じですね。年回法要も亡くなられた年を1年目にカウントします。なので、3回忌は一般的な感覚では「満2年」を経過して「3年目」を迎える年になります。つまり2周年。ちなみに1周忌だけは一般的な「満1年」で計算しています。こんがらがりますよね。

と言うことなので、4月1日に生まれますと、3月31日において、法律上は生まれてから365日が経過していると見なされるわけです。ですから、「早生まれ」に入ることになるのですね。

ところで、何故、このように数えるのでしょうか。数え方というものは世界で色々とあると思うので、仏教由来と言うよりは、単純に0(ゼロ)を用いないからかもしれません。ただ、年齢については、仏教では胎内にいてもカウントすることになっているので、たしかに生まれて1歳は説明がつきます。しかし、年回法要については、それでは説明がつきません。仏教由来ということではなさそうです。

そもそもインドでは0年があるらしいですし、0を発見したと言われるのはインド人のようです。ならば、こうした数え方はインド仏教由来と言うよりは、むしろ中国の数え方に由来していると考えたほうが良さそうです。平成などの元号には0年ありませんし、これは中国の元号に由来していると思います。

日本仏教は中国を経由してきていますので、むしろ、あり得る話かもしれません。

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2016年03月25日

善福寺の集い

善福寺では法話会のほか、仏典会、楽友会(歌の会)、スウィーツ教室を開催しています。お寺は普段、空いている部屋もあるので、地域の方々に活用していただければと思っています。

善福寺の集い
http://www.zempukuji.or.jp/houwakai

上記、善福寺サイトにページを設けました。
まだ情報が少ないのですが、開催の様子などもお伝え出来ればと思っています。

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2016年03月12日

17日から春のお彼岸

今月17日は春のお彼岸の入りの日です。

「彼岸」とは「此岸」、つまり「こちら側」に対して「あちら側」という意味合いになります。「こちら側」は迷いの世界、「あちら側」は覚りの世界です。仏教では極楽浄土が最も近い覚りの世界とされまして、それは西の彼方にあると言われます。

春分の日や秋分の日は太陽が真西に沈みます。ですから、本意としては「到彼岸」ということで、「覚りに到る」ということが象徴的である両日に、極楽浄土への往生を願ったり、すでに往生された人々を偲んだりするようになったのでしょう。

【2016年、春のお彼岸】
17日(木)入り〜20日(日)お中日〜23日(水)明けとなります。
お参りをお待ちしております!

善福寺ではお彼岸のお中日(春分の日)に彼岸会を修行します。
皆さんで正信偈を読誦しましょう。

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2016年03月08日

マイルール(酒)

春になりますとお酒の席が多くなります。歓送迎会の季節ですね。私はお正月にはあまり飲む機会がないのですが、この季節は意外と多くなります。プライベートでも普通に飲みますので、益々酒量が増えてしまうわけです。

お酒はクセになりますので、ある程度セーブしていかないと病気にもなってしまうでしょう。私の父は存命ですが、アルコール依存症で死にかけたことがあります。20年間ぐらい依存症だったと思います。結局倒れて専門病院で断酒をすることになりました。会社勤めをしたながらの住職だったので、自から酒量も増えていったのでしょう。朝からウイスキーなんて良くある光景でした。

お酒には自分なりのルールが必要だと私は思っています。私は家では飲まないことになっています。飲むなら外に行く。費用はかかりますが、家では飲まないので多少はマシかと思っています。費用を考えると大量に飲むことが出来ません。これは坊さんの先輩を真似たもので、その先輩のお父上もお酒で良くなかったそうです。お陰で自動的に休肝日も出来まして、マイルールは大事だと実感しています。

人は何事でも低いほうへ流れてしまう傾向にあります。自分を律するということは、他人を批判するように簡単なことではありません。私も自分を棚に上げておくことは得意なんですが、本来はちゃんと棚から下ろして、いるものは分類してしまう、いらないものは捨てる、というようにすべきでしょう。マイルールがありますと、面倒なことでも出来る場合があります。お酒を家で飲むというカードは捨ててしまったわけです。

しかしながら、実は土曜日も仕事で飲みまして、日曜も法話会が終わって、ああ一息ということで家族で食事に行ってしまいました。もちろん飲みました。さすがに月曜は休肝日になったのですが、今日は仏教会の総会です。

家で飲まなくでもお酒が多くなる季節なので、気をつけたいと思います。

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2016年03月05日

正信偈「十二光」

正信偈のお勤めをしていますと、「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言に行きあたります。正信偈は七言絶句の規則のなか、巧みに浄土の教えがまとめられています。だからでしょうか、声を出してお勤めするときには調子がいいのですが、内容をいただく際には難しさを感じることもあります。言葉が省略されていることもありますし、羅列だけということも多いからです。ここはそれほど難しい内容ではないのですが、阿弥陀如来の十二光についての知識がないと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。

阿弥陀如来の十二光というのは、『無量寿経』巻上に説かれます無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことです。なるほど、こうして見ると冒頭の正信偈の文言に十二光が含まれていますね。阿弥陀如来は別名無量光如来とも言い表されることがありまして、凡夫を救いとるそのはたらきは、世界の隅々まで行き渡る光に譬えられることがあります。十二光のそれぞれを味わうことが出来れば良いのですが、ここでは最後の超日月光にスポットをあててみましょう。

光といえば太陽です。この宇宙で光り輝く存在と言えば恒星であり太陽系では太陽です。光の譬えが太陽によっていることは間違いないのですが、ここでは超日月、すなわち太陽や月を超えた光だとされているのです。私たちが普段触れているまばゆい太陽は、朝方に地平線から上り夕方には再び地平線に沈みます。一方、月は太陽の光を受けています。昼間はあまり目立つ存在ではなく、夜になると輝きを増していきます。いずれも太陽光であることに変わりはないのですが、地球上にいる私たちからしてみますと、公転や自転といった条件によって見え方は限定的になってしまいます。もとより太陽は常に光り輝いているのですが、私たちはこれが当たり前だと感じてしまっているのです。

日月を超えるということは、私たちの思い込んでいる普段のあり方を超えて、本来の太陽、いえそれ以上の存在だということを示していると思います。古来、太陽は世界のいたるところで強大な存在の象徴でした。しかし、その力強い太陽とはいえ、昼夜があることを考えれば無限のはたらきがあるとは言えません。地球上では光が届かない所も出てきてしまうわけです。しかも、この宇宙はどこまで行っても限定的です。私たちからすれば無限の広がりを持つように思える宇宙空間でさえ、果てがあると言われます。太陽も例外ではなく寿命の限られた存在です。燦然として力強い太陽でさえ無量の光を持つとは言えず、阿弥陀如来の存在はそれを超えているのです。

十二光のなかに難思光という名もありますように、阿弥陀如来のはたらきは人の思惟では理解し難いと言われます。人がいくら考えをめぐらせても、如来から見ればそれは凡夫の限定的な営みにすぎないと言えましょう。十二光の譬えをいただくとき、改めて私どもの有限性、凡夫性に気づかされる思いがいたします。

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2016年01月26日

上川通夫著『平安京と中世仏教』

研究所の仏教書レビューで上川通夫先生の『平安京と中世仏教 王朝権力と都市民衆』(吉川弘文館、2015年10月1日)を取り上げました。

 レビュー    
鴨長明の『方丈記』と言えば多くの人が知っていることだろう。「ゆく河の流れは絶えずして…」、である。随筆として仏教的無常観に触れることができるとともに、平安時代末期の平安京の様子を知ることもできる。天災についての記録もあり、災害記録としての史料価値も高い。『方丈記』は本書のオープニングの一端を飾る。そしてラストにも再び登場するわけだが、本書執筆の目線はまったく異なるところにある。鴨長明は出家をしており仏教に造詣が深い。故に『方丈記』は仏教書とも言える。しかし平安京での出来事は仏教にちなんだことばかりではなく、一見仏教的であっても極めて政治的な側面を持つ出来事も多い。たとえば『方丈記』に出る隆暁法印の阿字供養。これは養和の飢饉において平安京に餓死者が大量に出た際、仁和寺の隆暁が死体の額に阿字を書き入れ、仏縁を結ばせたという故事である。鴨長明は純粋に供養として受け取るわけだが、本書はさらにそれが政治的な権力事業につながっていく背景にまで考察を深める。事実、この供養は政治性に満ちあふれており、当時の平安京における仏教のあり方をよく示していよう。著者は「平安京で展開されてきた仏教は、後白河院が権力事業で推進したような支配思想を正統としている」と言い切る。しかしそうした中で、慢性的な飢饉状況を生きる平安京の庶民は、個別的でありながらも仏教を媒介として新しい思想を獲得し始めていたと言う。本書の着眼点は「王朝権力」にあるが、それを知らずして日本仏教は語れないとも言えるだろう。

浄土真宗本願寺派総合研究所
仏教書レビュー
http://j-soken.jp/category/read/review

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2016年01月01日

新年明けまして

本年も宜しくお願いいたします。

新年というのはリセットみたいなものですが、人はこうしてリセットしないと心の整理がつきにくいものなのもかもしれません。心機一転という言葉もあります。何かのきっかけが必要とのことで、除夜の鐘もこうした意味があるとも言えます。良くも悪くも「水に流す」ということでもありますが、しっかり責任は持っていきたいものです。
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