2018年01月26日

今年も捨てられそうにありません

私は結構ネチネチしていまして、後ろ向きなことの多い性格です。過ぎ去ったことの記憶は無意識のうちに取捨選択されるものですが、どうも捨てられないようなのです。う〜む、たしかに昔のおもちゃとか、とにかく執著心があって捨てられません。何か勿体ないなあとか、何か得なことあるかもとか、また、そもそも思い出に縛られて捨てることが出来ないのです。そしてまた、こう書いていても、なお決して捨てようとは思っていません。重症です。

小学校や中学校での出来事を大人になってから頻繁に思い出します。自分の失敗とか、恥ずかしい出来事とか、何故か後ろ向きなものばかり思い出すんですよ。困ったもんです。楽しいことや嬉しいことも、そりゃ思い出しますが、嫌なことを思い出すことのほうが多いように感じます。なんでかな〜と考えてみましたところ、これは恐らく私の性格に原因があるようです。私、敢えて言えば「こうあるべき論者」なところがあるので、多分それでしょう。

たとえば勉強。結局、勉強はあまり得意にはなりませんでしたが、小学校4年生頃までは優秀なほうだったと思います。もちろん、その後に猛烈に抜かされるのですが、脳だけは早熟だったのかもしれません。また、勉強以外でも小学校では絵や作文はやたらと得意で、よく区の展覧会などに出展されていました。つまり、大人からよく褒められる子だったわけですね。性格も荒っぽくはないので、まあ、いい子ちゃんだったわけです。

しかし、10歳を過ぎたあたりから伸びていかない。周囲の期待は分かるんだけど、どうも才能がなさそうで、しかもそれほど努力家でもない。自分のなかで「こうあるべき」なのに〜、という思いだけが増幅していたのかもしれません。どうしようもないです。高校で諦めました。ま、こんなもんかなって。しかし、それでマイペースに生きることが出来るほど器用ではなく、やっぱりどこか人より秀でていたいという欲求と、それが達成されないことからのジレンマは尽きることなく、今に至るわけです。

性格、つまり心というものは、とにかく厄介です。劇的に変化することはない。仏教的に言えば、すべての行為やその影響の蓄積が心であるからです。蓄積されたものは、自分の意思で捨てることは難しい。自分の心の奥底まで、普段の意思で触れることは出来ません。生まれながらの性格もあることでしょう。しかし、仏教的に言えば、それも前世からの蓄積によって成り立っている性格となります。捨てるということは、とにかく難儀なことなのです。

自分の失敗や恥ずかしい出来事を思い出すというのは、「こうあるべき」自分とかけ離れた現実であったからでしょう。納得できないので捨てられない。いつまでも蒸し返すわけです。こりゃ死ぬまで、いえ、行為やその影響の蓄積は来世に持ち越されるので、一気に解脱できないかぎり、来世でも同じことの繰り返しでしょう。治るもんじゃありません。

(ああ、一気に解脱できる浄土真宗で良かった。)

裏庭に納屋がありますが、そこはもう、私や兄が幼い頃に使ったもの、まだ段ボールに入ったままなんですよね。今年こそ、きれいに片づけようと思っています。ただ、片づけていますと、つい懐かしくなり、古い漫画を読みだしてしまったりするので、まあ、無理でしょう。

ダメなものなダメでいいので、当分このままですね。
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2017年12月30日

明日は除夜会です

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ようやく除夜会の記念品が出来そうです。今年は少しデザインを変えました。

除夜会は明日12月31日、午後11時30分からお勤めとなります。
お参り下さい。合掌


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2017年11月22日

経論の教えから『維摩詰所説経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その5 『維摩詰所説経』巻上

煩悩を断ぜずして涅槃に入る

仏教では基本的には煩悩を消し去ると言いまして、あまりよろしくない欲望はなくしていくことを目標にします。これは簡単に言えば貪りの心であったり、怒りの心であったり、また、物事を自己中心的に見てしまう心のことです。あれも欲しいこれも欲しいでは、いつになっても落ち着きません。怒ってばかりいては、楽しいこともつまらなくなってしまいます。自分勝手に振る舞っていては、気づけば周りには誰もいなくなってしまいます。こんな簡単なこと、誰でも分かっていますね。

誰でも分かっていること、これを何とかするのは本当に難しいことです。裏を返せば、難しいからこそ、誰でもそりゃそうだと頷けるのでしょう。こうした心がなくなれば、たしかに平穏な生活を営むことが出来そうです。煩悩はよく火に譬えられまして、それがすべて消えた寂静な境地を涅槃と言うのです。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。本来的には火が吹き消された状態を指す言葉です。

ニルヴァーナと言えば、40代ぐらいの方ですとロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」を連想されるかもしれません。バンド名はサンスクリット語から取ったのでしょう。なかなか良いセンスをしています。曲もかなりカッコよかった。しかし、中心人物のカート・コバーンという方は悩みが多かったようで、歌詞は内面的で分かりづらいところもあるように思えます。苦悩を多く感じる方であったからこそ、仏教に言うニルヴァーナ=涅槃という境地に惹かれたのかもしれません。敢えて言えば、消え去りたいという願望であったとも考えられるでしょうか。

ただ、ロックは煩悩そのものです。煩悩の発露こそロックという表現であると言えるでしょう。煩悩を直接ぶつけるから良い曲が出来るわけです。そして、そもそも表現はすべて煩悩であるとも言えるので、いかに芸術性が高いものでもやはり煩悩を消し去ることは出来ないでしょう。表現という過程において、自己中心性がまったく消えることは考えにくいことです。なぜならば、表現とは取りも直さず自己発現であり、自意識を完全に捨てた表現というのはあり得ないからです。涅槃とは究極的には仏の境地であり、それは自他平等であるとも言われます。自と他との区別はもはや存在しません。愚かな自己中心性こそ、煩悩の根源であると言えるのです。

とまあ、いきなり堅苦しい話になってしまいましたが、煩悩とはかなり手強いものだということが分かるかと思います。それで今回の法語ですが、「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」とあります。なんだ、言っていること全然違うじゃないかとなりますが、涅槃は決してどこか遠いところにあるわけではありません。煩悩と涅槃とは裏表みたいなものです。涅槃を探し求めて旅をしたところで、どこか遠くにあるというイメージではありません。煩悩まみれの今、そのままこそが涅槃であるのです。これは意外と簡単な話で、他でもない私自身の心が煩悩で曇っているため、今ここにある真理に気づくことが出来ないというわけなのです。そもそも煩悩を消すことことに拘ること、これもまた煩悩であるので、実はあるがまま、そのままであることこそ、真理であると言えるのです(これこそが難しいのですが)。

ロックというものは頭で聴くのではありません。聴こえるまま、そのままでないと自己中心性が入りこんでしまいます。煩悩を煩悩のまま、そのまま受け入れるのです。これは表現者にも言えることで、心をそのままストレートに表現できれば、自己中心性を消し去ることが出来ることでしょう。こうした意味において、やはりロックは生、すなわちライブで聴くことこそ、表現者と聴聞者との一体感のなかで自己中心性は消えていくのだと思えます。ロックは表現である以上、涅槃とは異質のものではありますが、敢えてこう考えることも出来るかもしれません。

NIRVANAのカート・コバーンは涅槃の境地に到達できたでしょうか。私はきっとできたと思います。彼が亡くなったのは、94年の4月5日だそうです。

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2017年11月03日

お逮夜に「水無月祓」

明日は善福寺報恩講のお逮夜です。鎌倉能舞台の中森貫太先生に舞っていただきます。5時頃から法要を修行しまして、お能は午後5時半始まりとなります。「水無月祓」です。

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今日は本堂をお能仕様にしました。出来れば薪能が良いのですが、セットも大掛かりとなりますので本堂能です。スペースの関係上、ご本尊を背にしてしまうのが残念なのですが、それなりに格好をつけてみました。

皆様、明日は是非お参り下さい。
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2017年10月20日

情報の多さに疲れてしまう

最近はとにかくネットで多くの情報を得ることができます。中学生の頃だったか、父親から「情報化社会」という言葉を教えてもらいました。父親は広告代理店勤務でしたので、情報には敏感だったでしょう。様々な状況をあらかじめ知ることが出来れば、その対応も上手くいきそうな気がしますよね。

ただ最近、なるほどねと思える意見をしばしば目にするようになりました。知らなくてもいいことを知ってしまう危険性、言い換えれば、目にしなくていい、目にしないほうがいい情報もあるのだということです。SNSの流行によって、その恩恵に与ることも多いわけですが、SNS疲れという言葉も聞くようになりました。SNSから情報を得るということは、知人の意見や行動を知ることになります。面白いこともあれば、同時に面白くないこともあるでしょう。

かつて富野由悠季さんの『機動戦士ガンダム』において、「ニュータイプ」という概念が登場しました。これは恐らく、スターウォーズの「ジェダイ」というある種の超能力者に触発されたものだと思うのですが、独創的なことは、ニュータイプはテレパシーのようなものによって、人と人とが本当に「分かり合える」ことが出来る能力を身につける、というところにあろうかと思います。

ガンダムはニュータイプを中心とした戦争アニメなのですが、ニュータイプは相手の行動を先読み出来るがため、どんどん戦争の道具にされてしまいます。戦闘において有利だからです。富野アニメというものは、人の愚かさをまざまざと、しかも小学生相手に見せてしまうところに醍醐味があります。主人公はニュータイプとして覚醒し、その真の意味を悟るわけですが、自らは戦闘に埋没していってしまいます。

劇中、物語も佳境に入っていくとき、主人公に近い登場人物が「人がそんなに便利になれるわけ・・・ない」という台詞を語ります。大人になって、そして仏教の勉強をしている今、私はこの台詞がガンダムにおいて最重要なものだと感じます。相手の気持ちを情報として知ることができても、果たして私たちはその情報をうまく使いこなし、相手と分かり合えるような行動を取ることが出来るでしょうか。

これは大変難しいことでしょう。おそらく無理です。情報過多になるからです。

人は物事を忘れます。忘れなければいいのになあと思うかもしれませんが、忘れないと情報がありすぎて脳が処理できないのでしょう。忘れることも大切なのです。いらんことは全て忘れてしまいましょう。そのほうがきっと楽になれるはずです。つまり、知って記憶しておかなくてもよいことはたくさんあり、物事を知るということは、逆に私たち人にとって苦痛を生み出す原因にもなるわけです。相手の真の姿を知ったところで、困るのは私のほうなのかもしれません。

仏教においては、常に私という意識は自分中心で物事を思考していると説きます。親が子を守る行動のように例外的なものもありますが、ほとんどが自己中心的です。相手の情報を十分に知り得たとしても、余計に腹が立つということは、往々にしてありそうなことです。立派なところばかりに目がいってしまい、嫉妬の心で苦しむことになるでしょう。嫉妬というものは、自分がより優れていないと気が済まないという、自己中心的な思考の典型例です。また、相手が苦しんでいるところを見れば、思わず上から目線でお世話したくなってしまうのも、実は同じ思考だと言えなくもないでしょう。自分が優位であるという前提あっての行動という側面もあるからです。

仏教が余計なことは知らなくていいと説いているわけではありませんが、その対応力が人にあるのかと言えば、どうにも上手くいかないことが多いのが人だと説いています。知らなくてもいいことは沢山あるようですし、あまり無理するのはやめておこうと、最近よく思います。

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2017年09月29日

浄土和讃から

大経讃 六十九首 

「善知識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

皆さん、馬が合わない方はいますでしょうか?正直に申し上げまして、私は数人います。嫌いというわけではないのですが、とにかく苦手なのです。たとえば、こちらが言うことに何かと批判的な人。否定された言葉が返ってきますと、どうも下に見られているような気がして落ち着かない。相手の顔を見ると悪気はなさそうですが、こちらは勝手に面白くなくなるわけです。馬が合わないんだなあと、ひとまず自分を納得させています。なんとも情けない話です。

自分に手厳しい人というのは、まるで親のように感じるからでしょうか。子供扱いされるのはあまり心地よいことではありません。もっとも、最近の親は厳しいと言うよりは、友達感覚の親子が多いとも聞きます。仲の良い親子は結構なことですが、子供の躾がいい加減ですと、逆に子供にとっては不利益になることもあるでしょう。少し前の話ですが、子供の悪戯に困り果てた喫茶店が、悪戯を放置する親の入店を断る措置をしたそうで、インターネットでも話題になっておりました。子供は悪戯をしながら成長するものです。しかし、同時に親から叱られることがないと、子供は自分自身を省みる機会を得ることが出来ません。

仏教では自分を教え導いてくれる存在を「善知識(ぜんちしき)」と呼びます。善知識は居心地のよい相手とは限りません。居心地がよいだけの相手は、裏を返せば都合通りということです。心地よい言葉だけが返ってくるので、頭に来ることもありません。とても都合が良いわけです。しかし、自分の都合というものは、自分勝手という側面も必ずついて回るものです。冒頭での私の話も同じこと。批判的であるということは、私の意見にどこか問題があるということに他なりません。間違いを指摘されるのは気分のよいことではありませんが、気づかなければ間違えたままです。

人の意見をよく聞くということは、簡単なようで難しい。仏教は耳の痛いことばかり言うところがあります。「諸行無常」と説くならば、物事移り変わりのなかにあり、私もいつかは死に行きます。「一切皆苦」と説くならば、人生山あり谷あれど、すべては苦悩の連続です。こんな調子ですので、あまりハッピーな気分になるものではありません。しかし、どうでしょうか。いずれも間違いではなく、それを受け入れようとしない私のほうこそ、冷静に考えれば間違えているわけです。

真実を見つめることが出来ないのは、私どもが自己都合の煩悩まみれだからでしょう。迷いの世界に生まれることを輪廻転生(りんねてんしょう)と言いますが、まさに行き場もなく、ぐるぐると回っているだけなのです。耳を傾けることすら出来ないのですから、善知識に出会うことも難しく、すでに救われていることすら気づこうとしません。しかし、だからこそ阿弥陀如来は、私どもに一歩先んじてお救い下さっているのです。まずはよく聞いてみるということ、これこそ浄土真宗の仏道であると言えましょう。

※本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものの原文です。

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2017年09月23日

経論の教えから『唯識三十頌』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その2 『唯識三十頌』

仮に由りて我法ありと説く。種々の相転ずることあり。彼は識の所変による。

我法(がほう)とは我と法に分けられます。我は自分自身だと思って良いでしょう。自分としての主体です。法とはこの宇宙のすべての存在です。名前をつけられるものすべて。我と法について、私たちはちゃんと存在していると思っています。そりゃそうですよね。自分は今ここにいますし、周囲の事物の存在を認めることも容易です。あたり前です。しかし、そのあたり前に落とし穴があることに、私たちはあまり気がつきません。こうした我法は真実在ではなく、仮(け=かり)に存在するのだと言います。仮という言葉は仏教ではとても重要なので、憶えておいていただけると良いかもしれません。

仏教では事物の存在に気づいたとしても、それは仮にそうあるだけであり、個別性を即座に認めるということをしません。言い換えれば、机を見たならば、私たちは「机」だと普通に思うことでしょう。しかし、机というものは、そもそも木材の集合体であり、バラバラにしてしまうことが可能です。「机」という名をもって仮に存在を認めているものが机なのであり、本性は別のところにあることになります。

なぜこのような見方をするのかと言いますと、事物への執着心が私たちの苦悩の根源にあると考えるからです。執着する対象、たとえば大事な机など、大事で仕方がないという思いが、時には自分を苦しめることにもなります。よく考えてみますと、私たちの苦悩というものは、何かを大事に思いすぎているというところに発すると言えます。ただ、その対象というのは、執着するような個別性があるわけではなく、自分が勝手に真実在のように思いこんでいるだけなのです。

事物の相(=すがた)は私たちの見方によって変化(=転)します。机と見るのか、それとも木材と見るのか。私たち一般の使用者と、机を製造している方とでは見方は異なることでしょう。事物というものは、私たち一人一人の心のあり様(=識)によって、まったく異なるように見えてくる可能性があるのです。そうであるにも関わらず、仮に名をつけて、便宜上、そう用いているものに対して執着心を持ってしまう。まったく見当はずれな苦悩を、他でもない、自分自身が作り上げてしまっているわけです。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/
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2017年08月11日

生まれでバラモンになるのではない

陸上のサニブラウン選手、凄かったようですね。まだまだ若いですし、これから大いに期待できそうです。私は東洋大学で仏教を学びましたので、桐生選手を応援していましたが、最近はちょっと調子落としているのかなあ。リレーに期待です。頑張ってほしいと思います。

ところで、当たり前ですがサニブラウン選手は日本人なので、日本代表になっています。彼の名前や風貌からでしょうか、色々と不満を持っている方もいるようですね。誹謗中傷はやめるべきですが、しかし、日本人とは何なのか、という疑問を持つことはとても大事なことです。

よく「日本人の血」がというような言葉を聞くこともあるかと思いますが、遺伝子のなかに「日本人」がインプットされていることは、おそらく、というか確実にないでしょう。なぜならば、「日本人」という概念は後天的な思考上のものであり、文化そのものだからです。

お釈迦様は説かれました、「生まれでバラモンになるのではない、行いによってバラモンになるのだ」と。バラモンとはヒンドゥー教の宗教者のことです。バラモンになるためにはバラモン階級に生まれないとダメだったようですが、お釈迦様はそうした「生まれ」よりも、その後の「行い」を重視されました。

サニブラウン選手はいわゆる「ハーフ」なので、法律的にもまったく「日本人」として問題にならないわけですし、彼は生まれも育ちも日本なので、おそらく普通に「日本人」でしょう。どこに問題があるかと言えば、それは我々第三者が勝手に思い描いている「日本人」というイメージが、意外といい加減なものだってことかと思います。

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2017年08月01日

経論の教えから 『般若心経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その1 『般若心経』

色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。

「色」というのは物として捉えられるすべての現象のことです。そして、現象に過ぎないということは、何かが実体としては存在しない、すなわち「空」であるということです。固いと思われる物であっても、いつかは崩れ去っていく。私たちは感じ取れる物にこだわりを持ちます。そこにずっとあると思い込み、絶え間ない変化のなかに自分がいることに、なかなか気づくことが出来ないでいます。

これは心についても同じことです。心もまた変化をしています。つまり、心と体で成り立つ自分という存在もまた現象なのであり、刻一刻と変化をしているのです。健康であったとしても、老病死は避けられることではありません。私たちはいつまでも変わらないことを願いますが、叶うはずもないことを知っているはずです。しかし、叶わないことは苦しい。

こうした理に反した執着心が自分自身を苦しめているのですが、理に沿った生活というものは難しいものです。僧は本来、そのために普段の生活を捨て出家をしてきました。理を追及してきたわけです。日本では厳密な意味での出家は根づきませんでしたが、その反面、生活のなかで理を洞察していくような実践がなされました。日本仏教は生活とともにあると言えるでしょう。

変化する現象ではあっても、そこに何も存在しないというわけではありません。変化があるからこそ、現象は無限に広がっていきます。文字通り、可能性は無限大なのです。「空」とは虚無ではなく、何でも受け入れるような柔軟性を示してもいます。日々の生活のなかで息苦しさを感じるのであれば、それは自分自身に起因するものです。どこかに執着してしまい、柔軟性から遠ざかっているのでしょう。

理を学び理解しつつも、どうしても理に反してしまうこともあるのが私たちです。それはそれでまったく問題ありません。この世に完全なものなど存在しません。不具合があれば補正する。この繰り返しが宇宙の営みなのです。仏教的思考は原因究明から始まります。この苦しみの原因は何なのか。それを知ることが出来れば、補正の道が開けてくるかもしれません。ただし、他者のせいにすることは間違いです。すべては自分自身の問題として受け止める。これも仏教的思考の大事な点です。

のこす記憶.com
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2017年07月22日

三十三回忌法要を若手僧侶が行う

日航機墜落事故から満32年を迎えるということで、三十三回忌法要を若手僧侶が行ったようです。40代以下ということでしたので、年齢的には私も同じぐらいです。おそらく小学生のとき、この事故の報道に触れたことでしょう。ご遺族の方々がどのようなご心境でおられるのか、私には思いはかることが出来ません。大変な事故であったという記憶とともに、もう三十三回忌なのかという、どこか他人事のように感じてしまう自分に恥じ入るばかりです。坊さんはお経読んで、人の話を聞いておくぐらいしか出来ないわけですが、それでもなお、こうして袈裟をつけて行動することは、多少なりとも人々の心を潤すことになるかもしれません。

ちなみに、写真を見る限りにおいて、どうやら浄土真宗系の坊さんはいなかったかな。参加されていたら申し訳ないです。浄土真宗でも三十三回忌法要をしますが、鎮魂や慰霊はしませんので、その意義が前面に出ている時は足並みを揃えづらい。今回はどうだったのでしょう。しかしまあ、教義的に認められないのは分かりますが、そんなこと一般社会ではどうでもいいことなんじゃないかな。坊さんは坊さんなんだから、自分たちだけ不参加というのは、もういい加減やめたほうがいいと思う。仏教教団は危機的状況なんだし、今だからこそ、もう一度、鎮魂や慰霊について再考すべきでしょう。

もちろん、たしかに浄土真宗は即成仏なので、即成仏じゃない宗派の方々と話をしていると、個人的に擦り合わせるのは結構難しい。違和感があるのは間違いないんだけど、そこは「慣れ」だと思います。しっかり勉強をしていれば、おそらく慣れることが出来る。私もようやく、本当にようやく慣れつつあるような気がしています。浄土真宗は組織が大きく、色々と自分たちだけで出来てしまうことがあります。だからでしょうか、他宗派との連携には消極的なところがある。大組織に属することの弊害の1つだと思いますが、視野が狭くなり、自己都合での判断に満足してしまうのは良くないことです。
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2017年07月13日

時間の経過は早いもので

昨日、44歳になりました。もちろん、家族は誰も気づかず。さ〜と1日が過ぎ去っていきました。諸行無常です。学生時代はついこの間のように思えますが、もう20年も経過してしまったようです。時間の経過というものは不思議なものです。時間という前提に人はいるのか、それとも時間なんて気のせいなのか。仏教は後者の立場です。諸行無常だから時間があるように思えるだけと観ます。諸行は心によっているので、心に変化がなければ時間なんて存在しません。

さて、時間はどう考えるべきなのでしょう。入不二基義先生の『時間は実在するのか』(2002年、講談社現代新書)を読んでみようと思います。

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2017年07月03日

六福寺めぐり 2017

6月29日(木)に「南足柄 六福寺めぐり お坊さんとQ&A」が開催されました。26名のご参加をいただきまして、六福寺をめぐったあと、南足柄市女性センターでQ&Aをいたしました。ご参加の皆様方、有難うございました。心より御礼申し上げます。

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写真は弘済寺での護摩祈願の風景です。手前の太鼓、私が打たせていただきました。護摩に参加するのは、もちろん初めてです。皆様の願いはちゃんと仏様に届いたでしょうか。リズムがいまいちでしたので、ちょっと心配です。

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2017年06月26日

宗教心を身につけること

宗教には様々な効能があると思います。たとえば、仏教では四苦八苦と言いまして、生・老・病・死という4つの苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦というさらに4つの苦をもって人生を捉えます。詳細は省きますが、前者は生死についての苦悩で、後者は人間関係や所有欲、そしてそもそも身体を持っていることについての苦悩です。こうした苦悩を乗り越えていく道が仏道であり、その教えが仏教となります。

この他、私が重視していることは、宗教がもたらしてくれる謙虚さです。宗教は人知を超えた存在を想定しまして、それとの対立において人の弱さをあらわにしていきます。人は不完全なのだという認識は多くの宗教で共通項となっていることでしょう。人は決して万能ではなく、理性的論理的に思考したつもりでも、それを実行することは困難を伴います。困難を克服するため、また思考に思考を重ねても、皆がそれについて来られるわけではないでしょう。

驕りを消し去ることは困難です。自信と驕りは紙一重ですが、このバランスを取ってくれるのが宗教ではないかと思っています。常に謙虚に、ひざまずくほど謙虚に思考することがなければ、自信はすぐに驕りへと変貌していくことでしょう。驕りは理性や論理を機能不全に陥らせるものです。神仏に導かれている自分なんだと思えればこそ、利他の心が芽生え、よりよい社会を構築するための知恵が思考によってもたらされるのではないでしょうか。

こうした意味において、宗教はどの場面でも必要であり、こうした宗教心を身につけることを大切にすべきです。とくに子を教育することにおいて、手を合わせたり、神仏をイメージさせることは効果的でしょう。自分たちは大きな存在から恵みをいただき、もたらされたはたらきの上に生かされていると感じられれば、自から感謝の思いも深まっていくと思えます。有難いと思える心を育むことは、われわれ大人の責務です。

ところで、キリスト教のミッション校はいくつも有名な学校がありますが、伝統仏教においても、ミッション校に相当する宗門校という学校はいくつもあります。神奈川県の中高では臨済宗の鎌倉学園や時宗の藤嶺藤沢、そして東京都では天台宗の駒込、浄土宗の芝、曹洞宗の世田谷学園と駒沢女子、浄土真宗の千代田女学園と武蔵野女子学院などがあります。一般的にはあまり目立った存在ではありませんが、それぞれ宗教教育を大事にしている学校です。

こうした宗門校に入学したからと言って、いきなり宗教どっぷりになるわけではありません。この点はおそらく伝統的なキリスト教ミッション校でも同じだと思います。礼拝に参加したり、それぞれの宗旨に則った宗教や倫理の授業がある程度でしょう。礼拝が強制参加ではない学校もあるかと思います。学校によってまちまちなので、詳細は学校サイトをのぞいていただければと思います。

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2017年06月09日

恥とは何でしょう?

通勤通学のラッシュは辛い。高校時代、西武線の扉に足はさまれたまま出発進行になってしまいました。痛いというより恥ずかしく、平静を保つふりをするので大変。なんせ長髪兄ちゃんでしたから、かなり可笑しな状況だったかと。日本は「恥の文化」とも言われますが、これでは笑いをとるだけ。恥とは本来、体面を気にするということではなく、非道に対して確固たる道理を持ち続けることであるようです。

臨済宗建長寺派の宗門校に鎌倉学園(鎌倉市)があります。鎌倉学園の校訓は「礼義廉恥(れいぎれんち)」ということです。不勉強ですが「菅子」に出てくる言葉だそうです。読んだことがありませんので、鎌倉学園のサイトによれば、「「礼」とは「節度を守ること」。「義」とは「自分を実際以上に見せびらかさないこと」。 「廉」とは「自分の過ちを隠さないこと」。 「恥」とは「他人の悪事に引きずられないこと」」とのことです。

「恥の文化」とは、アメリカ人の学者が日本文化をキリスト教文化と比較した際に名づけたもののようで、どうやら体面ばかり気にする気質を指すことのようです。上記の「菅子」は中国古典ですが、日本人は一生懸命に中国古典を学びました。日本人の恥とは、決して体面ばかりを気にするようなことではないでしょう。しかし、現代人の私たちもまた、こうした本来の意味を知らないことが往々にしてあります。グローバル化も結構なことですが、まずは自分たちの文化をしっかり知ることから始めたいものです。

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2017年06月08日

社会にとって必要なものとは?

多くの人が求めているもの=社会にとって必要なもの、と言えるでしょうか。需要に応じていくことは商売としては正解です。商売繁盛であれば、日本社会も良い方向にいくことは誰にでも理解できます。需要も満たされるわけなので、まさに一挙両得!

≪金魚を飼いました。ある日死んでしまった。あ〜あ、残念。さて、トイレに流すか≫

多くの人がこう思うようなことであれば、日本という国は滅んでいくことでしょう。似ているものは存在するでしょうが、神祇信仰や仏教の教えのなかで形成された日本的感覚や生命観は失われます。金魚トイレの件は合理的な側面もありますが、心は合理性とはまったく逆さま。合理的に生きようとしている人は大勢いますが、そんなの表面だけのことでしょう。

≪多くの人が家族の遺骨をトイレに流すようになったので、ご要望にお応えしまして、遺骨専用トイレが出来ました!≫

こんなもの社会にとっては不必要。求められるもののなかには、人々の勝手も多分に含まれいます。勝手がまかり通ることもあるし、自分たちだって勝手なところは多分にある。しかし、勝手で社会が成り立っているなんて、どう考えても受け入れがたい発想です。求められているものがすべて正しいなんてこと、商売に精進されている方に思ってほしくないなあ。

「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」 

近江商人の真髄です。浄土真宗門徒も多いそうです。まさに最後、「世間良し」だと思います。

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2017年06月04日

六福寺ツアー「お坊さんとQ&A」

六福寺ツアー「お坊さんとQ&A」のご案内

6月29日(木)開催を予定しております「六福寺ツアー」のご案内です。

今回はテーマを「お坊さんとQ&A」と題し、六福寺をバスでめぐりながら
弘済寺(廃寺善福寺)では護摩祈願をします。

昼食は大雄山駅近くの「和み料理きんとき」を予定、コースの最後に、女性
センター会議室にて、住職たちとの「お坊さんとQ&A」を開催します。


<日時・参加お申し込み方法など>
6月29日(木)午前9時 大雄山駅前集合
        午後3時30分頃 大雄山駅解散

参加費用:お一人様3,000円(昼食付き)
※当日はマイクロバスでの移動となります。

先着30名様までとなります。
参加ご希望の方は、お電話で善福寺(0465-74-0371)までお気軽に
ご連絡ください。

皆さまからのお申し込みをお待ちいたしております。
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2017年04月17日

逢坂の関(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より


逢坂の関

百人一首を暗誦されている方も多いでしょう。最近は映画の題材にもなっているようで、その人口に膾炙した存在は稀有なものです。私はもっぱら「坊主めくり」で腕を振るいましたが、情深い内容のものが多いなか、お坊さんの和歌はちょっと仏教色を出してピリッときます。

たとえば有名な蝉丸。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」と詠みます。私訳しますと、「これがまあ、行く人も帰る人もここで別れ、知っていようがいまいが別れていくという逢坂の関なのだ」(私訳)というような具合でしょうか。なんとも当たり前のことです。だから何だと思いたくもなるかもしれません。

しかし、どうでしょうか。人は好きな方とはずっと一緒にいたいと思うものです。いつか別れがあるとは分かっていても、情においては認めがたい。人は本来、諸行無常という移り変わりの世界を生きているものです。出会っては別れ、出会っては別れの連続なのですが、それに抗って生きているから生きづらい。

蝉丸が逢坂の関で何を思ったのかは具体的には分かりません。「別れ」から何を見たのでしょう。諸行無常を思うならば、移り変わりという点の連続こそ人生です。それを「逢坂の関」という有名な場所に置き換え、当たり前のようにサラリと詠んでみたのでしょうか。知らない人ともすれ違っていくのが私たちです。出会いとはまさに不可思議なものですね。


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2017年03月17日

春のお彼岸です

今日はお彼岸の入りの日となります。西の彼方に沈む太陽に思いを馳せ、亡き方を偲ぶ日本的な仏教行事です。春のお彼岸はまだまだ空気が冷たいのですが、神奈川県西部は早咲きの桜が多いので、かなり華やかな雰囲気になっています。やや曇り空ですが、善福寺の桜もきれいに咲きました。

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2017年03月06日

花粉が飛んできています

花粉の季節になりました。神奈川県西部は大量に花粉を生産(?)しています。私も少々花粉症ぎみですが、まだ悪化はしておりません。本堂の大屋根は黄色くなり、廊下は花粉でぼやけた色になります。箒で掃きますと山になるぐらいたまるのです。

この花粉、風にのったものは遠くまで行くことでしょう。おそらく、横浜ぐらいまで飛んでいくこともあるんじゃないかなあ。県西部の花粉が横浜市民の方の花粉症を悪化させ、そしてマスクが売れていく・・・。マスク会社の景気がよくなれば、社員さんの懐も温かくなり、給料日には家族で外食しようかとなれば外食産業も潤う。

仏教では色々な事柄に関係性を持たせて理解します。無関係なものは存在しないのです。何事もめぐりめぐって、今ここにこうして私がいるわけです。命というものは、かくも複雑な関係性の上に成り立っているもので、だからこそ尊いのだと言えるのでしょう。

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2017年02月01日

受動態と日本人の宗教的感性(のこす記憶.com)

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受動態と日本人の宗教的感性

I was surprised.(驚いた)。中学生はもちろん、私でも翻訳できる英語です。しかし日本人としては奇妙ですなあ。なんで受動態なんだろ。形容詞的用法とかありますが、単純にそう思います。たしかに「驚く」という行為は何か対象が必須です。驚くに限らず、感情は何であれそういうものでしょう。I was pleased.(喜んだ)やI was disappointed.(失望した)も同じです。何かに驚き、喜び、失望しているわけです。なるほど、確かに「驚かされて」、「喜ばされて」、「失望させられて」いますね。でも日本人としては、対象の存在をことさら説明する意図や、能動性を打ち消したい意図がないかぎり、受動態は使いません。

ところで、西行法師は「いつの間に 長き眠りの夢さめて 驚くことの あらんとすらむ」(私訳:いつになれば長い迷いからさめて、動じないでいられるのか。)と詠みますが、驚くことは自らの煩悩に由来していると見ているようです。この世は諸行無常であり、何があっても別段驚くようなことはないのだが、煩悩のあるままに眠りこけている私は、いつになったら真理に通暁することやら。

大乗仏教の多くが唯心論を展開していくことは以前述べましたが、西行もまた唯心的世界観を持っているのでしょう。心のあり方と外的世界に関係性を持たせていることが窺えます。また、仏教では一般に自業自得とも言いまして、自らの行為やその影響による結果は、最終的にはすべて自らが得ることになるとも説きます。一見外的な要因に見えることであっても、それは自らに由来すると捉えているわけです。

こうした思考が日本人一般に見られるかと言いますと、現代的には全くそんなことはないでしょう。しかし、現代日本語であっても、こうした仏教的世界観を通じて積み重なってきた用法を受け継いでいますし、そもそも、西行法師が詠んでいることであっても、何となく理解できる人は多いのではないかと思います。

また、日本人は一神教の宗教観を伝統的には持ちませんし、それも影響しているかもしれません。唯一神のような、超越的かつ外部的な何かの下に人があるとは思いにくいでしょうし、これは一般的とは言い難い。日本人一般において、何らかの導きによって「〜されている」という感覚は、乏しいのではないでしょうか。もう一歩踏み込んで言いますと、日本人にはあまり受動的感性はなく、基本的にはすべて自己に由来するものとして受け止めている。主語を明確にしなくても意味が通じるのは、こうした感性に由るのかもしれません。

英語の受動態が一神教に関係するのかは分かりませんが、日本人が受動態を多用しないということには、以上のような宗教的事情も関係していそうです。普段、あまり自らを宗教的だと感じることのない日本人ですが、日本人の宗教的感性というものは、意識的に明確化されると言うよりも、無意識的でありながら、思考や生活に溶け込んでいるものなのでしょう。ただし、例外もありますので、それはまた次回お話させていただきます。


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