2018年07月07日

永代供養墓のご案内

善福寺・永代供養墓「アーユス廟」のご案内

一般的に「お墓」というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。かつては土葬でしたが、戦後は今のように遺骨を納めるタイプが主流となりました。時代とともにお墓も変わっていきます。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺では、しっかりご供養をしたいのだが、諸事情により一般的なお墓を持つことが難しいという方に向けまして、比較的費用のかからない永代供養墓「アーユス廟」をご用意しております。アーユス廟は合葬タイプの永代供養墓で、多くの方々とご一緒にご供養させていただく方式です。合葬対応のため、費用を抑えることができているのが特徴です。また、年会費もかかりませんので、維持のご負担もごぜいません。

供養費用・・・お一人様 15万円

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

宗教法人善福寺
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2018年06月16日

四論の講説さしおきて

(本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものです)

「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし」

ご讃題は七高僧のお一人であります、曇鸞大師についてのものです。曇鸞大師は現代の中国・山西省のお生まれで、南北朝時代(五世紀から六世紀)にご活躍をされました。他力と自力とを明確に分けられたことで知られ、中国浄土教の礎を築かれました。非常に博識な方であり、仏教のみならず道教にも精通していたと言われます。仏教の学問では「四論」と呼ばれる『中論』・『百論』・『十二門論』・『大智度論』を極められ、その上で浄土教の実践をされました。孤高の学僧というよりは、巷間で浄土教を広め、大師のもとには大勢の信者さんが集まってきたということです。

四論は大乗仏教の空思想を論じたもので、同じく七高僧の龍樹菩薩が深く関わっている論書です。空思想はすべての存在には固定的な実体というものがなく(=空)、刻一刻と変化をしていると考えます。私たちはさまざまな物事に執着してしまいますが、空思想によるならば、もとより執着をするような実体はないということになります。執着をすることは自分を苦しめるので、それを諌めるために空思想は展開していきました。空であることを体得することにより、本当の涅槃に至ることができると大乗仏教では説いたのです。

しかしながら、曇鸞大師はこの空思想についての講義を、集まった信者さんへただ聞かせていたわけではないようです。大師の考える空思想とは、浄土教の実践に組み込まれているものであり、あくまでも阿弥陀如来のご本願をいただくことにあったからです。私たち凡夫の執着するところは、私たちの生死についてのことが最も大きいでしょう。身体は滅びゆくものであり、刻一刻と死へ向かっているのが私たちです。空思想によるならば、身体へ執着することは意味のないことです。すなわち、この世を去ったのち、必ずお浄土へ参らせていただくからには、もはや身体への執着は無用となりましょう。

四論の学問は難解ですが、ご本願にはその真髄がすべて含まれています。大師は難解な講義をされるよりも、より実践しやすい方法、つまり本願他力を明らかにして下さったのです。四論の文言に向いますと、思わず退いてしまいそうなほどではありますが、阿弥陀如来の浄土教において導いて下さったことは、大きなご恩であるとしか言いようがありません。また、中国の南北朝時代より千五百年の時を超えまして、曇鸞大師の教えが今ここに、私どもの手元に届いているということ、『高僧和讃』をお作りになられた親鸞聖人へのご恩も忘れてはなりません。浄土真宗の日々の生活は報恩感謝です。少しでもご恩に報いることができるよう、有難くお念仏申したいものです。

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2018年06月13日

新幹線の事件の報に触れて

新幹線の事件で亡くなられた方は、長男が通う学校の先輩でした。Men for others,with othersを校訓にする、キリスト教カトリックの教えによった学校です。とは言いましても、信仰が強要されることはまったくなく、キリスト教に基づいた倫理教育をしている学校というほうが正確かもしれません。長男は寺の息子なわけですが、宗教は強制されるものではなく、自覚的に身につけていくものだと思いますので、学校選びの際にはとくに気にしませんでした。奇異に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、今のところ優れた倫理教育を行っている学校であると感じており、大変満足しています。

仏教では利他行が重んぜられまして、自己よりもまず他者を優先的に悟りへ至らせることの重要性が繰り返し説かれます。これは多くの宗教で説かれることでしょうが、やはりキリスト教でも大切にしている事柄のようです。しかし今回の事件の報に触れまして、利他行の重みを再確認させられると同時に、今一度その意義について考えさせられました。他者を思う気持ちがなければ、この社会は滅茶苦茶になってしまいます。その点で利他は社会的に必須な精神ではありますが、自己存在と直接対比したとき、本能的になかなか越えることの出来ない一線があるのも事実です。簡単に言えば、この事件のような状況において、自己が犠牲になる可能性のある行動は誰にでも出来ることではありません。また、個人としては可能でも、家族を思えば難しいというのは誰でも感じることでありましょう。

仏教では捨身供養と言いまして、お釈迦様の前世を語る際、自らの肉体を犠牲にして他者を救われたお姿の描写が多くあります。教えとして、これはどういった意義があるのでしょう。単に極端なレアケースを示して印象を深めようとしているだけなのか、それとも皆がこのように生きねばならないという啓示なのか。とても難しいテーマではありますが、1つ言えることは、とてもじゃないけど自分には出来ない、と思うと同時に、そんな自分であっても、どうやって利他の精神で生きていくことが出来るであろうか、と思考を重ねていくことは誰にでも出来そうだということです。教えというものは、何事も自分自身に引き寄せて思考してみるということにこそ、本来的な意義があるからです。

長男にお風呂のなかで事件についてどう思うか聞きましたが、まずは「あんなことしないほうがいい」と返してきました。しかし、彼の行動で他の乗客の方々へ被害が広がらなかったとしたらどうか、と再度尋ねたところ、何やら湯舟で考え込んでいました。Men for others,with othersの後輩として、長男にも自分自身の問題として思考してもらいたいと思います。先輩から後輩へ、Men for others,with othersが伝わってくれれば、子を学校に通わせている親として嬉しいかぎりです。

毎日、たくさんの事件が起きます。倫理観が薄くなっている昨今、日本の社会はどのような方向へ向かっていくのでしょうか。公立の小学校中学校でも道徳が教科になるようですし、倫理・道徳が軽んぜられない社会であることを願ってやみません。

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2018年05月17日

ロータリークラブ

小田原北ロータリークラブという団体に入会しておりまして、今期は執行部になっております。たまたま会長がお休みでしたので、私が例会の挨拶を行いました。はじめてでしたが、なんとか役を果たすことが出来たかと思います。以下、こんな話をしました。

本日は会長に代わりまして挨拶をさせていただきます。南足柄市で教育委員を昨年11月から拝命しております。保護者枠ということで、PTA会長をしていたからだと思いますが、今までも住職が就任することはあったようです。まだ就任してから日が浅いのですが、多少気になることも出てきましたので、お話したいと思います。昨今、勉強の出来る子とあまり振るわない子の差が開いているようで、教育委員会でも学力の引き上げに意識を注いでいるようです。たしかに、私がPTA会長をしているときも、そう感じることはありました。これは何故かと言いますと、地域によって事情は異なるとは思いますが、日本経済が振るわないということも一因ではなかろうかと思います。ある校長先生が仰っていましたが、地域の工場が撤退すると、一気に学校が荒れだすことがあるそうです。保護者が職を失いますと、家庭環境に直接影響を及ぼします。勉強どころではないという状況に陥ることは容易に想像が出来るでしょう。ロータリアンは職業奉仕が大切です。会社経営というものが、実は地域の教育にも関与しているということ、教育委員を通じて知り得ることが出来ました。これからも頑張っていきたいと思います。

以上です。ちなみに、ロータリークラブというものは、自分の職業を通じて社会奉仕をしていくという理念があります。仕事がそのまま奉仕活動なんだという発想だと思います。古来、西欧では神父や牧師はもちろん、医師、教師、弁護士などの職業も、神からの使命によって果たされるべき職種だと考えられていたそうです。その精神をすべての職種に広げようということで、使命感をもって仕事に臨むことが求められているわけです。

日本はキリスト教文化圏ではありませんので、宗教的な使命ということになりますとイメージが湧きにくいことではありますが、これを日本的な共生の精神に置きかえることも出来るかと思っています。つまり、日本では神仏もふくめ、すべての命が共存しているのだと考えることが多いでしょう。共につながりのあるなかで生きているわけで、自分の行いが他者にも関係してくるということであれば、よりイメージははっきりとするのではないでしょうか。これこそが日本的な「使命」とも言えるかもしれません。

ロータリークラブは宗教団体ではありませんので、それぞれの信ずるところで解釈して良いでしょう。私はこのように考えています。

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2018年03月10日

ずいぶんと頭のかたい幽霊話

以前もアップした原稿ですが、関連するもの3本をくっつけてみました。今月25日(日)に築地本願寺でちょっとだけ話をする機会があるので、その叩き台にしようかと思っています。


「幽霊と出会ったら ‐びっくりしない心構え‐」


前世と来世 ‐輪廻‐

今日は仏教から見た幽霊の話をしたいと思います。オカルト的なものではなく、仏教の経典や論書にその根源を訪ねてみます。はじめに、輪廻の話を少しいたしましょう。

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。サラッと言いましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。

前世と来世 ‐他力‐

仏教の歴史は2500年もあります。解脱の方法も様々に考案されました。日本にも宗派がたくさんありますが、違いはその方法に基づいているとも言えます。お釈迦様は瞑想によって解脱されましたので、瞑想するということが基本的な方法になります。しかし、瞑想というものは短時間ではあまり成果がなく、ある程度の長さと繰り返しが必要です。人にとりまして、同じことの繰り返しというのは面白いとは言い難いでしょう。スポーツ選手は練習を繰り返すわけですが、かなりの忍耐が必要なことは言うまでもありません。仏教でも忍耐は瞑想とともに修行の重要事項になっています。

念仏でありましても、たとえば何万回もとなえるという話もあります。たしかに念仏は短時間でどこでも出来るものですが、何万となると大変です。なぜ何万回という数字になるのかと言えば、これもやはり忍耐というものが課せられているからでしょう。それだけ頑張ったということなのだと思います。しかし、頑張れない場合はどうなるのでしょうか?

皆が等しく頑張れるのであれば、そもそも宗教なんて必要ありません。宗教の本質というものは、「頑張れない場合はどうしましょう?」というところ、つまり、人の本来持つ弱さを包み隠さぬところに由来します。勉強と同じことで、クラスの皆が等しく優秀であるならば先生は必要ありません。小中高の先生にとって大事なことは、クラスのなかの落ちこぼれを引き上げていくことでしょう。先生は多様な方法を示して生徒を導く存在です。仏教で言えばお釈迦様。お釈迦様は私たちの弱さを見抜かれ、たくさんの経典(説法)を残されました。出来の悪い生徒でも歩んでいけるような方法も含まれています。

その経典の1つに『無量寿経』というものがあります。簡単に言いますと、阿弥陀如来が上記のようなあまり頑張れない人々を救いとるという内容です。阿弥陀如来はお釈迦様のような先生という立場ではなく、むしろ母親のような存在です。こちらの出来具合の良し悪しに関わらず、むしろ出来の悪い私たちこそ救いの目当てとされるのです。このはたらきを他力と言います。

私たちは大海原で溺れかけているような存在です。実はそのまま力を抜けば浮かぶのですが、どうしても自分だけの力で何とかしようとするところがあります。阿弥陀如来はそんな私に対しまして、私が何をしようとも大海原のように大きく包んで下さいます。修行もままならず、死に向って恐れおののく私であっても、そのまま極楽浄土へ参らせていただけるのです。皆、母なる国土へ還っていくわけです。

宗教には救いが必要です。仏教は自分自身を厳しく観察することを要求すると同時に、こうした救いをテーマにもします。他力は解脱の方法の1つとして考えて良いものです。阿弥陀如来にすべてを任せるような思いに包まれるということは、言い換えるならば、真に自分自身の出来の悪さに気づかされたということでもありましょう。それでもなお、この世にいる限りは迷い続ける私たちですが、命尽きると同時に迷いも霧散し、解脱の境地に至ることが出来るというわけです。業の蓄積と発動は停止され、これ以上輪廻することもなくなります。この世での私という「意識」がどうなるのかは分かりませんが、おそらく大雑把に言えば、迷いの私ではない本来の私に還っていくのでしょう。それがどういうものなのかは、私には分かりません。いずれにしましても、他力によって生かされているのが私という存在であるようです。

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬み、そして何らかの心配事が中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。心配事であっても、これは何らかへの執着が原因となっているので、やはり煩悩に属していると言えます。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方、または何らかへの執着心というものが、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

なお、幽霊話というものには、必ずと言っていいほど尾ひれがついていると思います。ゾッとするように増幅されている。たとえば、いわゆる「成仏できない状態」にある幽霊が、「お〜い、お経でもあげて成仏させてくれ〜」と言わんばかりに出てくる。たいてい夕方から夜でしょう。あまり爽やかな午前中はない。まったく先入観なく、その場所に行って何かを感じるというのは、やはりどうも、都合の良い発想なんじゃないかと思います。先入観があるから見えるわけで、事件や事故があったとか、そう聞かされると感じるものあるでしょう。この感じというものは、仏教的に言えば外部的なものではなく、つまるところ内部的、すなわち自分自身の心の動揺である恐怖です。それが何かしら現出し、目の前に現象をもたらすのが幽霊であり、この現出・現象が明確な人はしばしば幽霊を見ることになるでしょう。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心、執着心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

最後に、幽霊という存在は、仏教的に言えば自分自身への学びです。いきなり現れればビックリするものですが、認識できるものはすべて、私の心から出てきた存在なのです。
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2018年02月23日

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

本稿は教区関連の仕事で用意しているものです(末尾を少し改訂しました)。

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

<ジョン・ヒック>
宗教多元主義を提唱した宗教哲学者ジョン・ヒックは、仏教をキリスト教と比較して、「仏教のほうははるかに平和的であり、宗教戦争をひきおこすようなことはなかったが、貧困や社会的不正との戦いにはしばしば失敗してきた」と言う。

ヒックは宗教について、真理へいたる信仰というものは、それぞれの土地や文化に基づいた相対的なものであると見る。つまり、たとえばキリスト教であれば、その他の宗教がキリスト教に包括されるということはなく、人や地域によって多元的に併存するとする。簡単に言えば、それぞれの宗教には良い側面もあれば、悪い側面も必ず存在する。絶対的に正しい宗教というものは、あり得ないとするのである。

<民主主義>
冒頭に掲げた言葉は、「キリスト教は富とその富が可能にする財の創造を刺激促進することに貢献したが、不断の暴力と迫害の記録によってひどく汚されてもいる」という言葉に対応している。キリスト教は資本主義の蓄財には貢献したのだが、それは数々の差別の上に成り立っている。一方、仏教はこうした差別を生み出すことはなかったが、現実的な社会問題に向き合ったとき、教理的に極めて無力であった、ということだ。

また、ヒックは仏教やヒンドゥ教について、その「彼岸性」が社会的・経済的・技術的進歩を遅らせていると指摘する。たしかに、日本が近代化して西欧なみの富を手に入れたのは仏教の貢献ではなく、むしろ西欧的な民主主義を模倣した上に成り立っている。そして、これはキリスト教と密接なつながりがあるのだから、日本はヒックの指摘するような、キリスト教の功罪を受け入れたことになるかもしれない。

<インド仏教>
彼岸である涅槃に対して、此岸は迷いの真っ只中である。貧困など社会的問題は、すべて迷いの果ということになる。しかし、仏教では自業自得に基づいた還元主義的観察によって、より根源的な個人の煩悩根絶に目が向けられてきた。仏教は自己変革には積極的であるが、社会変革には無関心に近い。仏教のテーマは個人的問題に終始する。これは場合によっては、社会という果への諦め、厭世主義へと陥る因子を孕んでいる。

<浄土教>
大乗仏教において浄仏国土という考えが出てくるが、これは唯心思想によっている。自らの心が浄ければ、自から国土も浄くなるという考え方であるので、此岸の浄化に着目しているわけではない。この世界で心を浄めることができなければ、やはり極楽浄土など、別次元の彼岸に望みをかけることとなる。浄土教は原意的に見て、こうした彼岸性の典型であると言えるだろう。

<社会への関与>
仏教が貧困や社会的不正との戦いで失敗してきたということについて、ヒックが具体的に何を指しているのかは分からない。しかし、仏教に「彼岸性」はたしかに存在し、上述のような論理によるならば、貧困や社会的不正に対して、なかなか行動原理を導き出せないのも事実である。

日本仏教には先祖供養という「生業」があるが、それは本来、仏教の本道とは言い難い。先祖供養を抜きにしてもなお、社会に働きかけるだけの根拠を持ち得るのか、今、日本仏教は大いに試されていると言えよう。

<浄土真宗>
本願寺教団は、専如ご門主の「仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです」というご親教をいただき、ヒックの言うような「彼岸性」を乗り越えていく可能性を得た。凡夫ではあっても、自他平等に生きようとすることは可能であり、その結果として、貧困等の社会的問題にも関わっていくことができるだろう。

おそらく「仏さまのお心」というお言葉には、阿弥陀如来の慈悲心が含まれていると考えられる。慈悲とは他者を慈しみ、また、同じ立場となり悲しみを共有していくことである。『歎異抄』には「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々」とある。ご門主の仰せは、お念仏を申した先のあり方、つまり、私たち凡夫の歩み方をお示し下さっている。浄土真宗の慈悲は阿弥陀如来のご本願であり、それこそ「彼岸」からの妙用である。お念仏申しご本願をいただくことにおいて、「少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指」すことが出来るのではあるまいか。

(註略)


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2018年01月26日

今年も捨てられそうにありません

私は結構ネチネチしていまして、後ろ向きなことの多い性格です。過ぎ去ったことの記憶は無意識のうちに取捨選択されるものですが、どうも捨てられないようなのです。う〜む、たしかに昔のおもちゃとか、とにかく執著心があって捨てられません。何か勿体ないなあとか、何か得なことあるかもとか、また、そもそも思い出に縛られて捨てることが出来ないのです。そしてまた、こう書いていても、なお決して捨てようとは思っていません。重症です。

小学校や中学校での出来事を大人になってから頻繁に思い出します。自分の失敗とか、恥ずかしい出来事とか、何故か後ろ向きなものばかり思い出すんですよ。困ったもんです。楽しいことや嬉しいことも、そりゃ思い出しますが、嫌なことを思い出すことのほうが多いように感じます。なんでかな〜と考えてみましたところ、これは恐らく私の性格に原因があるようです。私、敢えて言えば「こうあるべき論者」なところがあるので、多分それでしょう。

たとえば勉強。結局、勉強はあまり得意にはなりませんでしたが、小学校4年生頃までは優秀なほうだったと思います。もちろん、その後に猛烈に抜かされるのですが、脳だけは早熟だったのかもしれません。また、勉強以外でも小学校では絵や作文はやたらと得意で、よく区の展覧会などに出展されていました。つまり、大人からよく褒められる子だったわけですね。性格も荒っぽくはないので、まあ、いい子ちゃんだったわけです。

しかし、10歳を過ぎたあたりから伸びていかない。周囲の期待は分かるんだけど、どうも才能がなさそうで、しかもそれほど努力家でもない。自分のなかで「こうあるべき」なのに〜、という思いだけが増幅していたのかもしれません。どうしようもないです。高校で諦めました。ま、こんなもんかなって。しかし、それでマイペースに生きることが出来るほど器用ではなく、やっぱりどこか人より秀でていたいという欲求と、それが達成されないことからのジレンマは尽きることなく、今に至るわけです。

性格、つまり心というものは、とにかく厄介です。劇的に変化することはない。仏教的に言えば、すべての行為やその影響の蓄積が心であるからです。蓄積されたものは、自分の意思で捨てることは難しい。自分の心の奥底まで、普段の意思で触れることは出来ません。生まれながらの性格もあることでしょう。しかし、仏教的に言えば、それも前世からの蓄積によって成り立っている性格となります。捨てるということは、とにかく難儀なことなのです。

自分の失敗や恥ずかしい出来事を思い出すというのは、「こうあるべき」自分とかけ離れた現実であったからでしょう。納得できないので捨てられない。いつまでも蒸し返すわけです。こりゃ死ぬまで、いえ、行為やその影響の蓄積は来世に持ち越されるので、一気に解脱できないかぎり、来世でも同じことの繰り返しでしょう。治るもんじゃありません。

(ああ、一気に解脱できる浄土真宗で良かった。)

裏庭に納屋がありますが、そこはもう、私や兄が幼い頃に使ったもの、まだ段ボールに入ったままなんですよね。今年こそ、きれいに片づけようと思っています。ただ、片づけていますと、つい懐かしくなり、古い漫画を読みだしてしまったりするので、まあ、無理でしょう。

ダメなものなダメでいいので、当分このままですね。
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2017年12月30日

明日は除夜会です

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ようやく除夜会の記念品が出来そうです。今年は少しデザインを変えました。

除夜会は明日12月31日、午後11時30分からお勤めとなります。
お参り下さい。合掌


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2017年11月22日

経論の教えから『維摩詰所説経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その5 『維摩詰所説経』巻上

煩悩を断ぜずして涅槃に入る

仏教では基本的には煩悩を消し去ると言いまして、あまりよろしくない欲望はなくしていくことを目標にします。これは簡単に言えば貪りの心であったり、怒りの心であったり、また、物事を自己中心的に見てしまう心のことです。あれも欲しいこれも欲しいでは、いつになっても落ち着きません。怒ってばかりいては、楽しいこともつまらなくなってしまいます。自分勝手に振る舞っていては、気づけば周りには誰もいなくなってしまいます。こんな簡単なこと、誰でも分かっていますね。

誰でも分かっていること、これを何とかするのは本当に難しいことです。裏を返せば、難しいからこそ、誰でもそりゃそうだと頷けるのでしょう。こうした心がなくなれば、たしかに平穏な生活を営むことが出来そうです。煩悩はよく火に譬えられまして、それがすべて消えた寂静な境地を涅槃と言うのです。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。本来的には火が吹き消された状態を指す言葉です。

ニルヴァーナと言えば、40代ぐらいの方ですとロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」を連想されるかもしれません。バンド名はサンスクリット語から取ったのでしょう。なかなか良いセンスをしています。曲もかなりカッコよかった。しかし、中心人物のカート・コバーンという方は悩みが多かったようで、歌詞は内面的で分かりづらいところもあるように思えます。苦悩を多く感じる方であったからこそ、仏教に言うニルヴァーナ=涅槃という境地に惹かれたのかもしれません。敢えて言えば、消え去りたいという願望であったとも考えられるでしょうか。

ただ、ロックは煩悩そのものです。煩悩の発露こそロックという表現であると言えるでしょう。煩悩を直接ぶつけるから良い曲が出来るわけです。そして、そもそも表現はすべて煩悩であるとも言えるので、いかに芸術性が高いものでもやはり煩悩を消し去ることは出来ないでしょう。表現という過程において、自己中心性がまったく消えることは考えにくいことです。なぜならば、表現とは取りも直さず自己発現であり、自意識を完全に捨てた表現というのはあり得ないからです。涅槃とは究極的には仏の境地であり、それは自他平等であるとも言われます。自と他との区別はもはや存在しません。愚かな自己中心性こそ、煩悩の根源であると言えるのです。

とまあ、いきなり堅苦しい話になってしまいましたが、煩悩とはかなり手強いものだということが分かるかと思います。それで今回の法語ですが、「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」とあります。なんだ、言っていること全然違うじゃないかとなりますが、涅槃は決してどこか遠いところにあるわけではありません。煩悩と涅槃とは裏表みたいなものです。涅槃を探し求めて旅をしたところで、どこか遠くにあるというイメージではありません。煩悩まみれの今、そのままこそが涅槃であるのです。これは意外と簡単な話で、他でもない私自身の心が煩悩で曇っているため、今ここにある真理に気づくことが出来ないというわけなのです。そもそも煩悩を消すことことに拘ること、これもまた煩悩であるので、実はあるがまま、そのままであることこそ、真理であると言えるのです(これこそが難しいのですが)。

ロックというものは頭で聴くのではありません。聴こえるまま、そのままでないと自己中心性が入りこんでしまいます。煩悩を煩悩のまま、そのまま受け入れるのです。これは表現者にも言えることで、心をそのままストレートに表現できれば、自己中心性を消し去ることが出来ることでしょう。こうした意味において、やはりロックは生、すなわちライブで聴くことこそ、表現者と聴聞者との一体感のなかで自己中心性は消えていくのだと思えます。ロックは表現である以上、涅槃とは異質のものではありますが、敢えてこう考えることも出来るかもしれません。

NIRVANAのカート・コバーンは涅槃の境地に到達できたでしょうか。私はきっとできたと思います。彼が亡くなったのは、94年の4月5日だそうです。

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2017年11月03日

お逮夜に「水無月祓」

明日は善福寺報恩講のお逮夜です。鎌倉能舞台の中森貫太先生に舞っていただきます。5時頃から法要を修行しまして、お能は午後5時半始まりとなります。「水無月祓」です。

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今日は本堂をお能仕様にしました。出来れば薪能が良いのですが、セットも大掛かりとなりますので本堂能です。スペースの関係上、ご本尊を背にしてしまうのが残念なのですが、それなりに格好をつけてみました。

皆様、明日は是非お参り下さい。
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2017年10月20日

情報の多さに疲れてしまう

最近はとにかくネットで多くの情報を得ることができます。中学生の頃だったか、父親から「情報化社会」という言葉を教えてもらいました。父親は広告代理店勤務でしたので、情報には敏感だったでしょう。様々な状況をあらかじめ知ることが出来れば、その対応も上手くいきそうな気がしますよね。

ただ最近、なるほどねと思える意見をしばしば目にするようになりました。知らなくてもいいことを知ってしまう危険性、言い換えれば、目にしなくていい、目にしないほうがいい情報もあるのだということです。SNSの流行によって、その恩恵に与ることも多いわけですが、SNS疲れという言葉も聞くようになりました。SNSから情報を得るということは、知人の意見や行動を知ることになります。面白いこともあれば、同時に面白くないこともあるでしょう。

かつて富野由悠季さんの『機動戦士ガンダム』において、「ニュータイプ」という概念が登場しました。これは恐らく、スターウォーズの「ジェダイ」というある種の超能力者に触発されたものだと思うのですが、独創的なことは、ニュータイプはテレパシーのようなものによって、人と人とが本当に「分かり合える」ことが出来る能力を身につける、というところにあろうかと思います。

ガンダムはニュータイプを中心とした戦争アニメなのですが、ニュータイプは相手の行動を先読み出来るがため、どんどん戦争の道具にされてしまいます。戦闘において有利だからです。富野アニメというものは、人の愚かさをまざまざと、しかも小学生相手に見せてしまうところに醍醐味があります。主人公はニュータイプとして覚醒し、その真の意味を悟るわけですが、自らは戦闘に埋没していってしまいます。

劇中、物語も佳境に入っていくとき、主人公に近い登場人物が「人がそんなに便利になれるわけ・・・ない」という台詞を語ります。大人になって、そして仏教の勉強をしている今、私はこの台詞がガンダムにおいて最重要なものだと感じます。相手の気持ちを情報として知ることができても、果たして私たちはその情報をうまく使いこなし、相手と分かり合えるような行動を取ることが出来るでしょうか。

これは大変難しいことでしょう。おそらく無理です。情報過多になるからです。

人は物事を忘れます。忘れなければいいのになあと思うかもしれませんが、忘れないと情報がありすぎて脳が処理できないのでしょう。忘れることも大切なのです。いらんことは全て忘れてしまいましょう。そのほうがきっと楽になれるはずです。つまり、知って記憶しておかなくてもよいことはたくさんあり、物事を知るということは、逆に私たち人にとって苦痛を生み出す原因にもなるわけです。相手の真の姿を知ったところで、困るのは私のほうなのかもしれません。

仏教においては、常に私という意識は自分中心で物事を思考していると説きます。親が子を守る行動のように例外的なものもありますが、ほとんどが自己中心的です。相手の情報を十分に知り得たとしても、余計に腹が立つということは、往々にしてありそうなことです。立派なところばかりに目がいってしまい、嫉妬の心で苦しむことになるでしょう。嫉妬というものは、自分がより優れていないと気が済まないという、自己中心的な思考の典型例です。また、相手が苦しんでいるところを見れば、思わず上から目線でお世話したくなってしまうのも、実は同じ思考だと言えなくもないでしょう。自分が優位であるという前提あっての行動という側面もあるからです。

仏教が余計なことは知らなくていいと説いているわけではありませんが、その対応力が人にあるのかと言えば、どうにも上手くいかないことが多いのが人だと説いています。知らなくてもいいことは沢山あるようですし、あまり無理するのはやめておこうと、最近よく思います。

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2017年09月29日

浄土和讃から

大経讃 六十九首 

「善知識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

皆さん、馬が合わない方はいますでしょうか?正直に申し上げまして、私は数人います。嫌いというわけではないのですが、とにかく苦手なのです。たとえば、こちらが言うことに何かと批判的な人。否定された言葉が返ってきますと、どうも下に見られているような気がして落ち着かない。相手の顔を見ると悪気はなさそうですが、こちらは勝手に面白くなくなるわけです。馬が合わないんだなあと、ひとまず自分を納得させています。なんとも情けない話です。

自分に手厳しい人というのは、まるで親のように感じるからでしょうか。子供扱いされるのはあまり心地よいことではありません。もっとも、最近の親は厳しいと言うよりは、友達感覚の親子が多いとも聞きます。仲の良い親子は結構なことですが、子供の躾がいい加減ですと、逆に子供にとっては不利益になることもあるでしょう。少し前の話ですが、子供の悪戯に困り果てた喫茶店が、悪戯を放置する親の入店を断る措置をしたそうで、インターネットでも話題になっておりました。子供は悪戯をしながら成長するものです。しかし、同時に親から叱られることがないと、子供は自分自身を省みる機会を得ることが出来ません。

仏教では自分を教え導いてくれる存在を「善知識(ぜんちしき)」と呼びます。善知識は居心地のよい相手とは限りません。居心地がよいだけの相手は、裏を返せば都合通りということです。心地よい言葉だけが返ってくるので、頭に来ることもありません。とても都合が良いわけです。しかし、自分の都合というものは、自分勝手という側面も必ずついて回るものです。冒頭での私の話も同じこと。批判的であるということは、私の意見にどこか問題があるということに他なりません。間違いを指摘されるのは気分のよいことではありませんが、気づかなければ間違えたままです。

人の意見をよく聞くということは、簡単なようで難しい。仏教は耳の痛いことばかり言うところがあります。「諸行無常」と説くならば、物事移り変わりのなかにあり、私もいつかは死に行きます。「一切皆苦」と説くならば、人生山あり谷あれど、すべては苦悩の連続です。こんな調子ですので、あまりハッピーな気分になるものではありません。しかし、どうでしょうか。いずれも間違いではなく、それを受け入れようとしない私のほうこそ、冷静に考えれば間違えているわけです。

真実を見つめることが出来ないのは、私どもが自己都合の煩悩まみれだからでしょう。迷いの世界に生まれることを輪廻転生(りんねてんしょう)と言いますが、まさに行き場もなく、ぐるぐると回っているだけなのです。耳を傾けることすら出来ないのですから、善知識に出会うことも難しく、すでに救われていることすら気づこうとしません。しかし、だからこそ阿弥陀如来は、私どもに一歩先んじてお救い下さっているのです。まずはよく聞いてみるということ、これこそ浄土真宗の仏道であると言えましょう。

※本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものの原文です。

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2017年09月23日

経論の教えから『唯識三十頌』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その2 『唯識三十頌』

仮に由りて我法ありと説く。種々の相転ずることあり。彼は識の所変による。

我法(がほう)とは我と法に分けられます。我は自分自身だと思って良いでしょう。自分としての主体です。法とはこの宇宙のすべての存在です。名前をつけられるものすべて。我と法について、私たちはちゃんと存在していると思っています。そりゃそうですよね。自分は今ここにいますし、周囲の事物の存在を認めることも容易です。あたり前です。しかし、そのあたり前に落とし穴があることに、私たちはあまり気がつきません。こうした我法は真実在ではなく、仮(け=かり)に存在するのだと言います。仮という言葉は仏教ではとても重要なので、憶えておいていただけると良いかもしれません。

仏教では事物の存在に気づいたとしても、それは仮にそうあるだけであり、個別性を即座に認めるということをしません。言い換えれば、机を見たならば、私たちは「机」だと普通に思うことでしょう。しかし、机というものは、そもそも木材の集合体であり、バラバラにしてしまうことが可能です。「机」という名をもって仮に存在を認めているものが机なのであり、本性は別のところにあることになります。

なぜこのような見方をするのかと言いますと、事物への執着心が私たちの苦悩の根源にあると考えるからです。執着する対象、たとえば大事な机など、大事で仕方がないという思いが、時には自分を苦しめることにもなります。よく考えてみますと、私たちの苦悩というものは、何かを大事に思いすぎているというところに発すると言えます。ただ、その対象というのは、執着するような個別性があるわけではなく、自分が勝手に真実在のように思いこんでいるだけなのです。

事物の相(=すがた)は私たちの見方によって変化(=転)します。机と見るのか、それとも木材と見るのか。私たち一般の使用者と、机を製造している方とでは見方は異なることでしょう。事物というものは、私たち一人一人の心のあり様(=識)によって、まったく異なるように見えてくる可能性があるのです。そうであるにも関わらず、仮に名をつけて、便宜上、そう用いているものに対して執着心を持ってしまう。まったく見当はずれな苦悩を、他でもない、自分自身が作り上げてしまっているわけです。

のこす記憶.com
https://nokosukioku.com/note/
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2017年08月11日

生まれでバラモンになるのではない

陸上のサニブラウン選手、凄かったようですね。まだまだ若いですし、これから大いに期待できそうです。私は東洋大学で仏教を学びましたので、桐生選手を応援していましたが、最近はちょっと調子落としているのかなあ。リレーに期待です。頑張ってほしいと思います。

ところで、当たり前ですがサニブラウン選手は日本人なので、日本代表になっています。彼の名前や風貌からでしょうか、色々と不満を持っている方もいるようですね。誹謗中傷はやめるべきですが、しかし、日本人とは何なのか、という疑問を持つことはとても大事なことです。

よく「日本人の血」がというような言葉を聞くこともあるかと思いますが、遺伝子のなかに「日本人」がインプットされていることは、おそらく、というか確実にないでしょう。なぜならば、「日本人」という概念は後天的な思考上のものであり、文化そのものだからです。

お釈迦様は説かれました、「生まれでバラモンになるのではない、行いによってバラモンになるのだ」と。バラモンとはヒンドゥー教の宗教者のことです。バラモンになるためにはバラモン階級に生まれないとダメだったようですが、お釈迦様はそうした「生まれ」よりも、その後の「行い」を重視されました。

サニブラウン選手はいわゆる「ハーフ」なので、法律的にもまったく「日本人」として問題にならないわけですし、彼は生まれも育ちも日本なので、おそらく普通に「日本人」でしょう。どこに問題があるかと言えば、それは我々第三者が勝手に思い描いている「日本人」というイメージが、意外といい加減なものだってことかと思います。

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2017年08月01日

経論の教えから 『般若心経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その1 『般若心経』

色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。

「色」というのは物として捉えられるすべての現象のことです。そして、現象に過ぎないということは、何かが実体としては存在しない、すなわち「空」であるということです。固いと思われる物であっても、いつかは崩れ去っていく。私たちは感じ取れる物にこだわりを持ちます。そこにずっとあると思い込み、絶え間ない変化のなかに自分がいることに、なかなか気づくことが出来ないでいます。

これは心についても同じことです。心もまた変化をしています。つまり、心と体で成り立つ自分という存在もまた現象なのであり、刻一刻と変化をしているのです。健康であったとしても、老病死は避けられることではありません。私たちはいつまでも変わらないことを願いますが、叶うはずもないことを知っているはずです。しかし、叶わないことは苦しい。

こうした理に反した執着心が自分自身を苦しめているのですが、理に沿った生活というものは難しいものです。僧は本来、そのために普段の生活を捨て出家をしてきました。理を追及してきたわけです。日本では厳密な意味での出家は根づきませんでしたが、その反面、生活のなかで理を洞察していくような実践がなされました。日本仏教は生活とともにあると言えるでしょう。

変化する現象ではあっても、そこに何も存在しないというわけではありません。変化があるからこそ、現象は無限に広がっていきます。文字通り、可能性は無限大なのです。「空」とは虚無ではなく、何でも受け入れるような柔軟性を示してもいます。日々の生活のなかで息苦しさを感じるのであれば、それは自分自身に起因するものです。どこかに執着してしまい、柔軟性から遠ざかっているのでしょう。

理を学び理解しつつも、どうしても理に反してしまうこともあるのが私たちです。それはそれでまったく問題ありません。この世に完全なものなど存在しません。不具合があれば補正する。この繰り返しが宇宙の営みなのです。仏教的思考は原因究明から始まります。この苦しみの原因は何なのか。それを知ることが出来れば、補正の道が開けてくるかもしれません。ただし、他者のせいにすることは間違いです。すべては自分自身の問題として受け止める。これも仏教的思考の大事な点です。

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2017年07月22日

三十三回忌法要を若手僧侶が行う

日航機墜落事故から満32年を迎えるということで、三十三回忌法要を若手僧侶が行ったようです。40代以下ということでしたので、年齢的には私も同じぐらいです。おそらく小学生のとき、この事故の報道に触れたことでしょう。ご遺族の方々がどのようなご心境でおられるのか、私には思いはかることが出来ません。大変な事故であったという記憶とともに、もう三十三回忌なのかという、どこか他人事のように感じてしまう自分に恥じ入るばかりです。坊さんはお経読んで、人の話を聞いておくぐらいしか出来ないわけですが、それでもなお、こうして袈裟をつけて行動することは、多少なりとも人々の心を潤すことになるかもしれません。

ちなみに、写真を見る限りにおいて、どうやら浄土真宗系の坊さんはいなかったかな。参加されていたら申し訳ないです。浄土真宗でも三十三回忌法要をしますが、鎮魂や慰霊はしませんので、その意義が前面に出ている時は足並みを揃えづらい。今回はどうだったのでしょう。しかしまあ、教義的に認められないのは分かりますが、そんなこと一般社会ではどうでもいいことなんじゃないかな。坊さんは坊さんなんだから、自分たちだけ不参加というのは、もういい加減やめたほうがいいと思う。仏教教団は危機的状況なんだし、今だからこそ、もう一度、鎮魂や慰霊について再考すべきでしょう。

もちろん、たしかに浄土真宗は即成仏なので、即成仏じゃない宗派の方々と話をしていると、個人的に擦り合わせるのは結構難しい。違和感があるのは間違いないんだけど、そこは「慣れ」だと思います。しっかり勉強をしていれば、おそらく慣れることが出来る。私もようやく、本当にようやく慣れつつあるような気がしています。浄土真宗は組織が大きく、色々と自分たちだけで出来てしまうことがあります。だからでしょうか、他宗派との連携には消極的なところがある。大組織に属することの弊害の1つだと思いますが、視野が狭くなり、自己都合での判断に満足してしまうのは良くないことです。
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2017年07月13日

時間の経過は早いもので

昨日、44歳になりました。もちろん、家族は誰も気づかず。さ〜と1日が過ぎ去っていきました。諸行無常です。学生時代はついこの間のように思えますが、もう20年も経過してしまったようです。時間の経過というものは不思議なものです。時間という前提に人はいるのか、それとも時間なんて気のせいなのか。仏教は後者の立場です。諸行無常だから時間があるように思えるだけと観ます。諸行は心によっているので、心に変化がなければ時間なんて存在しません。

さて、時間はどう考えるべきなのでしょう。入不二基義先生の『時間は実在するのか』(2002年、講談社現代新書)を読んでみようと思います。

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2017年07月03日

六福寺めぐり 2017

6月29日(木)に「南足柄 六福寺めぐり お坊さんとQ&A」が開催されました。26名のご参加をいただきまして、六福寺をめぐったあと、南足柄市女性センターでQ&Aをいたしました。ご参加の皆様方、有難うございました。心より御礼申し上げます。

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写真は弘済寺での護摩祈願の風景です。手前の太鼓、私が打たせていただきました。護摩に参加するのは、もちろん初めてです。皆様の願いはちゃんと仏様に届いたでしょうか。リズムがいまいちでしたので、ちょっと心配です。

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2017年06月26日

宗教心を身につけること

宗教には様々な効能があると思います。たとえば、仏教では四苦八苦と言いまして、生・老・病・死という4つの苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦というさらに4つの苦をもって人生を捉えます。詳細は省きますが、前者は生死についての苦悩で、後者は人間関係や所有欲、そしてそもそも身体を持っていることについての苦悩です。こうした苦悩を乗り越えていく道が仏道であり、その教えが仏教となります。

この他、私が重視していることは、宗教がもたらしてくれる謙虚さです。宗教は人知を超えた存在を想定しまして、それとの対立において人の弱さをあらわにしていきます。人は不完全なのだという認識は多くの宗教で共通項となっていることでしょう。人は決して万能ではなく、理性的論理的に思考したつもりでも、それを実行することは困難を伴います。困難を克服するため、また思考に思考を重ねても、皆がそれについて来られるわけではないでしょう。

驕りを消し去ることは困難です。自信と驕りは紙一重ですが、このバランスを取ってくれるのが宗教ではないかと思っています。常に謙虚に、ひざまずくほど謙虚に思考することがなければ、自信はすぐに驕りへと変貌していくことでしょう。驕りは理性や論理を機能不全に陥らせるものです。神仏に導かれている自分なんだと思えればこそ、利他の心が芽生え、よりよい社会を構築するための知恵が思考によってもたらされるのではないでしょうか。

こうした意味において、宗教はどの場面でも必要であり、こうした宗教心を身につけることを大切にすべきです。とくに子を教育することにおいて、手を合わせたり、神仏をイメージさせることは効果的でしょう。自分たちは大きな存在から恵みをいただき、もたらされたはたらきの上に生かされていると感じられれば、自から感謝の思いも深まっていくと思えます。有難いと思える心を育むことは、われわれ大人の責務です。

ところで、キリスト教のミッション校はいくつも有名な学校がありますが、伝統仏教においても、ミッション校に相当する宗門校という学校はいくつもあります。神奈川県の中高では臨済宗の鎌倉学園や時宗の藤嶺藤沢、そして東京都では天台宗の駒込、浄土宗の芝、曹洞宗の世田谷学園と駒沢女子、浄土真宗の千代田女学園と武蔵野女子学院などがあります。一般的にはあまり目立った存在ではありませんが、それぞれ宗教教育を大事にしている学校です。

こうした宗門校に入学したからと言って、いきなり宗教どっぷりになるわけではありません。この点はおそらく伝統的なキリスト教ミッション校でも同じだと思います。礼拝に参加したり、それぞれの宗旨に則った宗教や倫理の授業がある程度でしょう。礼拝が強制参加ではない学校もあるかと思います。学校によってまちまちなので、詳細は学校サイトをのぞいていただければと思います。

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2017年06月09日

恥とは何でしょう?

通勤通学のラッシュは辛い。高校時代、西武線の扉に足はさまれたまま出発進行になってしまいました。痛いというより恥ずかしく、平静を保つふりをするので大変。なんせ長髪兄ちゃんでしたから、かなり可笑しな状況だったかと。日本は「恥の文化」とも言われますが、これでは笑いをとるだけ。恥とは本来、体面を気にするということではなく、非道に対して確固たる道理を持ち続けることであるようです。

臨済宗建長寺派の宗門校に鎌倉学園(鎌倉市)があります。鎌倉学園の校訓は「礼義廉恥(れいぎれんち)」ということです。不勉強ですが「菅子」に出てくる言葉だそうです。読んだことがありませんので、鎌倉学園のサイトによれば、「「礼」とは「節度を守ること」。「義」とは「自分を実際以上に見せびらかさないこと」。 「廉」とは「自分の過ちを隠さないこと」。 「恥」とは「他人の悪事に引きずられないこと」」とのことです。

「恥の文化」とは、アメリカ人の学者が日本文化をキリスト教文化と比較した際に名づけたもののようで、どうやら体面ばかり気にする気質を指すことのようです。上記の「菅子」は中国古典ですが、日本人は一生懸命に中国古典を学びました。日本人の恥とは、決して体面ばかりを気にするようなことではないでしょう。しかし、現代人の私たちもまた、こうした本来の意味を知らないことが往々にしてあります。グローバル化も結構なことですが、まずは自分たちの文化をしっかり知ることから始めたいものです。

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