2023年10月18日

日本人に人種差別あるのか

日本人に人種差別あるのかと言えば、これはもちろん主観ですが、「人種」だけでの差別は多くはないと思えます(ないとは言いませんが)。

しかし、差別はある。

いわゆる日本人、抽象的ですが一般的な日本人にとって、「違う」と思うことは「日本人的感覚」に基づいているように思えます。「日本人的常識」でもいい。これを判断基準として、違和感を覚えなければ人種が何だろうと、どこの国の人だろうと、あまり差別はないでしょう(ないとは言いませんが)。

ただし、このフワっとした「日本人的感覚」や「日本人的常識」っていうのは、とても難しい。

この島国で、その伝統を重んじ、大和政権以来、実は政治の枠組みに大きな変化のない日本。江戸時代からの滅私奉公の感覚が仕事場でも息づいている。日本古来の神祇信仰から、先祖崇拝、仏教伝来、神仏習合、キリスト教伝来、色々な宗教が混じり合って熟成された宗教観。他者との関わり方も、ここで育たなければ、なかなか真似のできるものではないでしょう。

ここから発した「感覚」や「常識」から外れると、ダメなんですよね。そこに「人種」は関係なく、同じ日本人でもダメだったりするから、これまた厄介。しかも場によって、地域や学校や会社といった場によって、それぞれ異なる側面を見せることもあるので、それに乗れるか乗れないかという難しい局面がある。フワフワなので難しい。

肌の色が何だろうが、一般的な日本人にとって大事なのはここなんだと思います。

ここから外れると、差別されます。いじめですよ。明瞭ではなく、陰湿な傾向です。

一般的な日本人にとって、個性や個人、プライベートって、やはり欧米の感覚であって、いまだに良く分かってないところもあると思えます。私もそうです。理解しようとしても、心の奥底から、どこかから湧いてくる違和感を禁じ得ない。とは言え、それが間違っているわけではないので、それが差別につながってしまうことのないよう努めることが大切だと思っています。「日本人的感覚」や「日本人的常識」が悪いのではなく、それを差別につなげてしまう短絡的な思考が悪いのです。

日本人は曖昧な感覚を好みますので、実際にはかなり寛容的です。宗教を見ても、1つを選ぶことはしないでしょう。差別を生まないような思考が出来るはずなので、気をつけていきたいと思います。

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2023年10月17日

報恩講 お能 医療講座

≪報恩講のご案内≫

◎逮夜法要11月18日(土)
 ・午後4時〜読経と法話 当山住職
 ・午後5時〜能楽奉納 鎌倉能舞台 中森貫太師 
   半能「熊坂」

◎日中法要11月19日(日)
 ・午後1時〜雅楽法要
 ・法要に引き続きリコーダー演奏 
   小田原リコーダーコンソート
 ・午後2時〜医療講座 
   茅場町いとう医院副院長 伊東佳子先生
    講座「肝臓について」

本年の能楽奉納は半能「熊坂」です。医療講座はお馴染みの伊東先生による「肝臓について」となります。リコーダー演奏もありますので、皆様どうぞお参りください。法要に参加して心を健康に、そして医療講座で体も健康に。自分にとって充実した毎日を過ごしましょう。 合掌

 お能「熊坂」
「都から東国へ下る途中、赤坂にさしかかった旅僧(ワキ)が一人の僧(前シテ)に呼びかけられ、さる者の命日の回向を乞われ、僧の庵室に導かれる。そこには仏像がなく、おびただしい武具がある。シテの僧は、それを横行する山賊に備えてのためという。ついで仏も武器によって悪魔降伏をする事を語り、寝所へ去る。中入で、赤坂の里人(アイ)が熊坂長範の事跡を語る。旅僧が弔っていると、長範の霊(後シテ)が夜風激しい中に現われ、黄金商人三条吉次信高を襲ったときの有様を再現し、当夜、眼光炯々として見張っていた十六、七の小男が牛若だと知らなかったのが運の尽きであったと語る。キリは長刀を使う熊坂が牛若丸に翻弄されるさまを見せる。長刀物で爽快な所作を見せる上、夢幻能としての詩情も溢れる名品。」(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)

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2023年10月14日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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少欲知足を心がけたい

戦争や紛争などの争いを始めるのは権力者です。そういう権力者ってのは、なんて欲深いのかと思う。あれも欲しい、これも欲しいなんだろうな。争いの原因は欲望だ。子どもの喧嘩だって、物の取り合いが多いだろう。欲があるから人は生きているわけだが、欲は少なくても実は大丈夫。

少欲知足

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2023年09月26日

クローンだって別々の命

本日9/26付けの日経新聞1面に、「テクノ新世 Technopocene「神の」領域へA」という記事がありました。亡くなった息子さんの遺体から精子を取り出し、代理母によって孫を得ようとする夫婦。亡くなったペットのクローンを飼っている夫婦。クローンが家に来たときには、「家に帰ってきた」と感じたと言います。いずれも大切な存在が亡くなってしまい、なんとかその悲しみを乗り越えようとしていることが分かります。これは誰しもが経験する可能性のあることであり、とても自然な感情と言えます。

テクノロジーのことは私には分かりませんが、宗教家として言えることは、亡くなるということも自然だということです。子のいない息子さんが亡くなったということは、それ以上でもそれ以下でもありません。ペットも亡くなれば、同じことです。非常に辛いことですが、仮にその分身とも言える存在や、クローンである存在があったとしても、決して同じ命ではありません。器である肉体が近い存在であっても、あくまでも命は別の存在として来たと言えます。

日経新聞は記事の最後に、哲学者であるスティーブン・ケイブ氏の、「これまで宗教が担ってきた(死を乗り越える)物語を科学が語り始めただけだ」という言葉を引きます。そして、日経新聞の言葉として、「科学によって死の悲しみを乗り越える。そんな時代がやってきた。」と結びますが、引用されたケイブ氏の言葉を見る限り、やや勇み足のような印象です。

科学技術はもちろん生命の領域まで触手を伸ばし、あたかも死について語り始めたように見えるでしょうが、それをもって「死の悲しみを乗り越える」「時代がやってきた」とは断定できません。宗教であっても、自分や大切な方の「死の悲しみを乗り越える」ということは主要な課題とはいえ、乗り越えることは簡単なことではありません。仏教では「生老病死」と言いまして、この世における4つの苦悩のことですが、必ず命あるものは死ぬのだと説きます。これが真理です。現代的に言い換えれば、これが自然なのです。こうした真理を受け入れることが、唯一、「死の悲しみを乗り越える」ことにつながると言えます。

私はケイブ氏のことはほとんど知りませんので、もしかしたら、記事の締め括り方に間違いはないかもしれませんが、科学技術も生命の領域まで来たということを述べているだけで、科学によって死を乗り越える、とは言ってないのではないかと思えます。もし、仮に科学万能主義のようなことを言っているのであれば、それはもはや哲学ではないでしょうし、敢えて記事にするようなことでもないかと思えます。クローンなどの存在で死の悲しみを乗り越えることが出来るのであれば、特筆すべきことはなくなるからです。そうすればいいだけですから。

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2023年08月20日

あらためて、供養とは?

供養という言葉は、原意としては「仏に仕える」というような意味合いになりますが、現代日本では亡き方を追悼する(もしくは慰霊する)という意味で用いられることが多いでしょう。追悼ということも含め、何となくぼんやりとした印象の言葉ではありますが、父(前住職)が亡くなりまして、1つ明確になったことがございます。

父が亡くなり、通夜葬儀、そして四十九日法要納骨と終えまして、同時に遺品整理をしています。遺品からは息子である私の知らなかった父の側面ですとか、「父として」ではなく、ひとりの人としての姿も拾い集めることが出来ました。言い換えれば、より伊東宗之(←父です)という人物を知ることが出来たのです。

供養とは、亡き方を生前よりも増して知っていく、より知っていくことではないかと思います。よく考えれば、祖父のことも祖母のことも、よく知っていたかと言えば、そうではない側面も多いことでしょう。断片的ですが残っている若い頃の写真からは、たしかに祖父や祖母の当時をイメージすることは可能ですが、かなり限られたものになってしまいます。写真にコメントがあるだけでも、かなりイメージ増幅には役立ちます。祖父や祖母が大切に考えていた事柄を、私ももっと知ることが出来れば、今の自分自身の生き方にも何かしら影響があるようにも思えます。

自分の大切な事柄を、少しでものこし伝えていければなあと、そんな思いでいます。

記憶をのこすことは、広く言えば次世代にとって意味あることだと思います。

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2023年08月15日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

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2023年06月22日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

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2023年06月16日

性欲と自分勝手さが一緒になると問題

性犯罪や不倫の報道多いですね。もちろん内実はそれぞれで、例外もあるかもしれませんが、多くは性欲に端を発しているという点で同軸です。理性では抑えられない性の衝動はどこから来るのでしょう。

仏教では五欲と言いまして、財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲と分類することがあります。色欲が性欲です。一方、少欲知足とも言いまして、できれば欲は少ないほうがいいと説きます。人として生きるうえで、欲をまったく無くすことは不可能です。過剰にならんようにね、という教えになります。

ではなぜ過剰になるかと言えば、性欲自体が悪いというよりも、何かしら悪しき心と一緒に性欲が疼き出すのが問題なのでしょう。たとえば周囲の人々を軽んじたり、自分への反省がなかったり、際限なく貪ってみたり、そんなところです。自分勝手な心が引き金となっていると言えますね。

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2023年05月19日

煩悩即菩提

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という仏教用語があります。煩悩とは心身を悩ます悪い精神作用のことですが、それは菩提、すなわち仏のさとりと、そのまま離れることがないと説かれるのです。煩悩については、私自身の心のあり様を観察すれば具体的に分かります。毎日毎日、繰り返し心に現れる困った存在、たとえば自身の愚かさや貪りや怒りといったもので、他にもたくさんあります。嫉妬心や傲慢心もそうです。

大乗仏教では基本的に瞑想修行によって煩悩を消滅させていくことが推奨されまして、段階的に煩悩が消滅しては転じて部分的ながら智慧となり、その智慧によって完全に煩悩を消滅させた状態をさとりと言います。智慧によって真如をさとります(真如とは、物事のあるがままのすたが、とか言われますが省略します)。智慧とは物事の善悪を正しく見定める作用です。煩悩が完全に消滅した最終段階で智慧は完成し、同時に仏に成ることができます。したがいまして、さとるということの内実は智慧であり、それが菩提に他ならないことになります。

さて、こうした流れは私がさとりへ向かう際の見方、言うなれば人目線によるものですが、この向きを変えて、仏の立場から煩悩あふれる私を見たとすれば、次のようになります。すなわち、人は煩悩があって悩み苦しんではいるものの、それが縁となるからこそ、悪に対する善の精神作用によって正しい方向へ進もうとするのであり、仏の教えを聞き、それが智慧を獲得することにつながります。言い換えれば、煩悩があるからこそ仏に成ることができるのであり、結果的に見れば煩悩と菩提とは切っても切り離せない、表裏一体と言える関係であったとも言えるのです。

これはあくまでも仏と成ってからの見方、人目線に対しての仏目線ではありますが、似たような事態は私たちの人生においてもあるでしょう。辛く悲しい経験であっても、それがあったからこそ今の自分があるのだと思えることはあります。辛く悲しいときはそんなことは分かりません。しかし、振り返って見るならば、つまり立場が変わったのであれば、別の角度から冷静に見つめることもできるわけです。煩悩即菩提とは、このような見方に立った教えとなります。ただし、教理としてこれを知っておく意味はありますが、煩悩があれば良いと安易に理解することは危険ですので、慎重な受け取りが必要なことは知っておいて下さい。

なお、大乗仏教の唯識思想においては、すべての事象について、有為法(ういほう、→私たちが普段感じているこの世界、変化をし続ける相対的なもの)と、無為法(むいほう、→真如、変化を超えた絶対的なもの)に分類します。有為法と無為法の関係はと言いますと、有為法の本性が無為法になります。本来は無為法しかないのですが、私たちの心の動きにおいて有為法が存在していることになります。悪の精神作用である煩悩は当然、有為法となるわけですが、善の精神作用、そして智慧もまた有為法とされます。完成された仏の智慧も有為法であるというのは、智慧は私たちにおいて作用するからです。煩悩であっても、智慧であっても有為法であり、その本性は無為法、すなわち真如となります。つまり、こうした唯識思想の観点からしても、煩悩即菩提ということが明らかにされるのです。ちなみに唯識思想のこうした分類は、高度な仏教教理に基づいた深い瞑想によって仏に近づいた結果、ようやく得た知見なので、煩悩あふれる私たちの目線ではないことは言うまでもありません。

そして最後に、これは重ねて気をつけねばならないことなのですが、迷いのさなかにいる私からは、煩悩即菩提とは言い得ません。煩悩即菩提は、あくまでも仏の立場からの見方であり、ここを混ぜ合わせてはいけないのです。煩悩あふれるこの身の上からは、即菩提は決して出てこない言葉です。そのつもりで受け取らなければ、自分自身を真摯に見つめることが出来なくなってしまいます。とりわけ私たち浄土真宗においては、何事も私たち人の立場から語ることを教義的前提としています。私たちの仏教理解として、私においてどうなのか、私から見て仏、浄土真宗で阿弥陀如来はどうはたらいて下さるのか、そこが教義の屋台骨を形成しています。煩悩即菩提ではあっても、私は煩悩のまなこに遮られ、その真実のあり様にまったく気づくことが出来ていないからです。

浄土真宗においては、阿弥陀如来の本願他力のはたらきにより私が救われ、煩悩ある身でそのまま往生浄土、即座に菩提を得ることが出来ると説かれます。たしかに、煩悩ある身であることに気づかされ、はじめて阿弥陀如来に出あうことが出来るのですから、煩悩が菩提を得る縁になっていることは間違いありません。しかし、これを私の目線において語ってしまいますと、煩悩が際限なく肯定されてしまう恐れがあります。この点を逸脱してしまうと浄土真宗とは言い難くなってしまいますので、どんな仏教用語に臨むときでも、私たちはよくよく肝に銘じておきたいものです。合掌

浄土真宗本願寺派 善福寺住職 伊東昌彦
東洋大学博士(文学) 仏教学専攻

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2023年05月12日

伝統って言うけど、ほんとに古いものなの?

伝統という概念は厄介な一面もあり、場合によっては強制力を発生させることもあります。伝統だから無批判に続けていることもあるでしょう。なぜそうなのか、誰も理由が分からないのに続いていることもあります。続けていることを中止するというのは、とても勇気がいることだからです。

宗教には伝統はつきものです。仏教においては僧侶が着用する袈裟も伝統的なスタイルですが、袈裟は起源も変遷も明確なので問題はありません。宗派で規定されている伝統的な物事を見ますと、多くはそうである理由が明確になっています。

厄介なのは規定のない、地域性・習俗性の高い事物です。これは宗派のような組織が管理しておらず、地域のボランティアによって継続されているだけなので、「何となく伝統的だからそうである」ということで、無批判に継続されていることもあるでしょう。誰も中止できないので仕方なく続いている。

宗教において伝統的と言えば、古くは奈良平安の頃から、やや古くて江戸の頃からというイメージが多いでしょうか。明治大正だと新しいイメージかもしれません。昭和は最近ですし。しかし、全国各地に色々と存在している、伝統的と一般に思われている地域性・習俗性の高い宗教事物というのは、意外と明治以降に形態の整った新しい事物も多いようです。その起源はたしかに古くとも、それが継続されてきたという確固たる証拠もなく、どういう形態であったのか不明であったり、ぼんやりとした言い伝えしか残っていない場合もあるでしょう。行われている理由についても、実は後付けであったりすることもあります。

伝統を守ることは、それに関連する地域や人々の生活習慣や思考を今に保存することになるので、私は出来る範囲で大切にすべきだと思います。しかし、その伝統が現代の価値観にそぐわない場合もあるでしょうし、批判が多くあるような事物については、現代の価値観に合わせて内容を可能なかぎり改訂するとか、保存技術も高度になっている現代において、それを丸ごと保存することも十分可能かと思います。

そしてまた、そもそもそれが本当に多くの人が思うような伝統的な事物なのか、今一度検討してみることも大事かと思えます。実は意外と最近のものかもしれません。それを伝統的と捉えるのかは、もちろん主観に関わることではありますが、批判があるようであれば検討しても良いはずです。

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2023年05月04日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

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2023年05月02日

親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要

ご本山(西本願寺)で「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が修行されまして、私と坊守(女房)で参拝してきました。久しぶりの京都となったわけですが、ご本山に来ると懐かしい気分になります。30年前の得度(坊さんの資格をいただく)のときを思い出すのか、はたまた阿弥陀様の本願力によるものなのか、とても不思議です。得度のときは一刻も早く家に帰りたかったものですが、今回はもう少し本山に滞在したかったなあという気分でした。

法要案内サイト↓
https://www.hongwanji.or.jp/850800houyou/

ご本山参拝のあと、親鸞聖人の先輩である信空上人ゆかりの浄土宗大本山・金戒光明寺にもお参りに行きました。威厳のある山門やご本堂の佇まいを目の前にしまして、お若いころの親鸞聖人や信空上人が浄土教について学ばれていたことに思いを馳せながら、帰宅したら勉強をしようという思いがこみ上げてきました。有難いことです。 合掌

金戒光明寺サイト↓
https://www.kurodani.jp/

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2023年03月25日

ウルトラマンの帰還

帰ってきたウルトラマンが帰って行かれました。有難うウルトラマン!

演ぜられた団時朗さんが亡くなられました。

光の国に帰ったのだと多くのおじさんおばさんが直感したことでしょう。ウルトラマンは人を導く存在でした。人の内省をうながし、善悪についての問いを投げかけてくれることもあった。

まさに仏様、如来です。経典においても、浄土は光に満ち溢れていると説かれます。光の国です。

ウルトラマンの帰還です。合掌

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2023年03月10日

性別についての議論は重要

性別について、今までの概念だけでは不都合が生じる事態が露呈してきています。こうした事態は昔から存在していたのでしょうが、ようやく議論されるようになったということなのでしょう。

仮にこうした事態に対応するのであれば、そもそも性別というものを演繹的に、つまり男女という一般概念に個別の事態を当てはめること自体問題があるわけで、そうではなく帰納的に、個別の事態から新たな一般概念を導き出さないといけないかと思えます。対応するならば。

そうなると性別は男女2つというわけにはいかず、さらに増えていくことでしょう。生物の機能としての男女のほか、そこに思考する人としての性別も加味されることになるからです。どこまで対応すべきなのかは、私には分かりません。トイレはその数だけ必要かもしれません。悪用する輩が出る可能性もあるからです。

ところで仏教ではどうかと言いますと、人の世界は男女が出てきますが、人の世界、すなわちこの宇宙とは次元を異にする仏国土たる極楽浄土ですと、もはや性別自体がないようです。皆すべて異なることがないとされています。極楽浄土は人の理想を示したとも言えるので、仏教においては性別も最終的には捨て去るものとして捉えられていることになります。余計な悩みが増えるもとだからでしょう。

とは言いましても、現実的には人は人の世界を今生きているので、仏教のこうした脱性別論がいきなり意味を持つわけではありません。あくまでも理想的には、という話になってしまいます。ちなみに浄土では身体の色も全員金色とされており、そこに一切の区別はありません。

仏教が説き示すところは、性や人種の違いというものは、結局悩みを増大させるもとになっており、そんなものないほうが良い、ということなのですが、これは言い換えれば人という存在は自分こそが正義であり、自分と異なる存在は認め難い性格を有している、ということになります。

人はどこまでも自己中心的、自己保全的であり、異なる存在との共生が不得意です。だからこそ悩みが増大し、そこに争いが生じてくる原因を作っているのです。仏教は教説において、理想論を掲げることによって、そうなれない現実の人の愚かさをあらわにする手法をとることが多くあります。あえて厳しい戒を示すのも同じことです。守れないほど厳しいからこそ、守れない人の愚かさが露呈します。嘘をつくなとか。

異なりを認めていくことは難儀なことですが、議論を重ねていくことが解決の糸口になることは間違いありません。ポール・ヴァーホーヴェン監督のSF映画『スターシップ・トゥルーパーズ』では、近未来には更衣室に性別の区別がない表現がありましたが、現実的には今のところ難しいと思います。一方的ではない、建設的な議論が進むことを願ってやみません。

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2023年02月11日

お経をあげたら話をしよう

どの世界もそうだと思いますが、坊さんの世界も色々な人がいます。ここで坊さんの批評をするつもりはありませんが、「お経だけ」の坊さんにはその存在意義に疑問符がつきます。

お経はお釈迦様のお説法をお弟子さんが後日まとめたものなので、言葉自体に意味のある呪文とは性質が異なります。もちろん真言や陀羅尼など、呪文のように言葉自体に意味のあるものが経文のなかに含まれることもありますが、お経=経典=スートラと、真言=マントラや陀羅尼=ダーラニーは、根本的に異なります。お経をあげるとき、一緒に真言や陀羅尼をお唱えすることもあるとは思いますが、お経をあげるのであれば、その内容を伝えないと聴いている方はさっぱりです。真言や陀羅尼は発声することに意味があるので、もちろんそれだけで十分なのですが、お経はその内容や関連することの話をしないと、まったく意味がありません。

昔話には悪霊退散のためにお経をあげる場面が頻出しますが、これも悪霊がお経の意味を理解しないと効果はありません。なので、坊さんは悪霊に対してお経を読み聞かせると同時に、これはこういう意味なのだと説教しないといかんはずです。お経を読むときは、漢文のお経を訓読もしないで直読することが多いと思いますが、これを聞いて即理解するためには、その悪霊もかなりの教養の持ち主でないと難しいからです。まあ、たしかに貴族が悪霊になったりもしますので、そういう場合もあったかもしれません。すごい。

なお悪霊退散の原理というものは、悪霊にお釈迦様のお説法であるお経を聞かせ、仏教に入門していないのであれば入門して信心を得てもらい、入門していても信心が薄いようなら深めてもらい、ちゃんと信心を得て成仏してもらうという仕組みなので、意味も分からないお経を読むだけでは退散してくれません。

いずれにしましても、お経をあげたらちゃんと何かしら話をしないと、やはり坊さんの存在意義は薄いのではないかと思えます。高僧が読むお経も、普通のおばちゃんが読むお経も、実は同じです。高僧が読むから効果があるのではなく、お釈迦様のお説法だから効果があるのです。高僧はお経をちゃんと理解して体得し、それをしっかり伝えられる人のことを言います。

これは年回法要であっても同じです。お経をあげたら話をちゃんとしないと伝わりません。

ちなみにお経をあげるだけというのは、坊さんにとって、少なくとも私にとっては楽です。お経に節をつける声明(しょうみょう)を専門的に行う坊さんは別ですが、そうでなければ、お経をあげるという行為に特別な技術はそれほど必要ありません。まったく技術がないわけではありませんが、声明が専門でない以上、しっかり話をしないと楽すぎてサボっているかのようです。これは個人的感想ではありますが、少なくとも門徒さんが目の前にいるのであれば、話をしないと坊さんとしての意義が薄らぐかなと思います。

合掌


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2023年02月04日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

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2023年01月13日

『御伝鈔』下段第六段「洛陽遷化」

口に世事(せいじ)をまじへず、ただ仏恩(ぶっとん)のふかきことをのぶ。

命あるものはもちろん、この世の事物は移り変わりながら存在しています。仏教では「生住異滅(しょうじゅういめつ)」と申しまして、それは生じて存在し変化して滅していくと説きます。この世とは、言い換えればこの宇宙を指して差し支えないのですが、なるほど、たしかにそのような変化をしていると思えます。銀河系のなか太陽系においても、恒星たる太陽のほか地球などの惑星もすべていつか消滅する日が来るそうです。一方、太陽よりももっと大きな恒星の消滅をきっかけとして、新しい恒星が誕生することもあるそうです。おそらく、この大きな宇宙であっても「生住異滅」のなかにあり、どの宇宙にも誕生と消滅があることでしょう。

さて、話をグッと身近に戻しまして、私たちの存在もまた同じです。草花の芽が出て成長し、花を咲かしてやがて枯れていくように、私たちもいつか死を迎えます。今回のご讃題は親鸞聖人が京都(=洛陽)でご遷化(せんげ)(=亡くなること)される際のご様子で、聖人が九十歳のときのことです。越後へ流罪(るざい)となられまして、関東をへてようやく京都へお戻りになられました。不慣れな地でのご生活はもとより、仏教の研鑽もままならぬ地方においては、ご苦労もひとしおのことであったと思われます。しかし私ども関東人にとりましては、このご縁がなければ浄土真宗のみ教えに出遇うことすらなかったかもしれず、ご恩の深さにただひたすら有難いと思うばかりです。

『御伝鈔』によれば、親鸞聖人は体調を崩されたあと、この世の諸々のこと(=世事)には言及されず、阿弥陀如来のご恩(=仏恩)深きことのみを周囲にお伝えされたそうです。私たちは死に直面したとき、どのようなことを思い浮かべるでしょう。家族や周囲の方々への感謝の気持ち、あるいは両親のこと、自分の幼いときのことを回想したりもするでしょうか。しかし、実際には死にたくないの一心かもしれません。自分自身も「生住異滅」の存在であり、いつかは死を迎えると教えられ理解してはいても、いざとなれば哀れむべきことです。

しかし、愚かであればあるほど阿弥陀如来のご恩はまた深く、私たちをかならず救い取って捨て置きません。「生住異滅」にあらがう自分の、このいかんともしがたい愚かさを感じるとき、親鸞聖人が最後にお伝え下さった仏恩の深きことは、まことに有難く、ひとえに私自身に降り注いでまいります。そして最期に、親鸞聖人はお念仏をされながら、弟様の坊舎である善法坊において、お釈迦様と同じく頭を北に、お顔はお浄土のある西に向かわれてご遷化されたとのことです。荼毘(だび)の地は京都東山の西大谷のあたり、今の大谷本廟であったと伝わります。皆様もぜひ大谷本廟へお参り下さい。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2023年01月09日

寒中お見舞い申し上げます(年間主要行事予定)

寒中お見舞い申し上げます

皆さま穏やかに迎春のことと拝察申し上げます
令和五年の主な行事予定は次のようになっております

・八日講     四月八日(土)    講師 当山住職
・眞楽寺報恩講  四月十六日(日)  講師 当山住職
・報恩講逮夜  十一月十八日(土)  献能 中森貫太師
・報恩講日中  十一月十九日(日)  講師 伊東佳子師
              ともにお勤めいたしましょう
令和五年一月九日
浄土真宗本願寺派 善福寺

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2023年01月01日

本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、昨年は新型コロナウイルスの世界的流行と、ウクライナでの戦争があり、今もなお続いている状況です。少しでも世界が平和へ向かうよう願うばかりですが、何事も無関心であることが物事の解決を遠ざけているかのように思えます。私たちもいつ同じような状況になるか分からないなか、自分事として捉えていくことの大切さを再確認いたしました。

私は今年、50歳を迎えます。

この半世紀で世界は大きく変動いたしました。これからの半世紀が命を重んじる半世紀になるよう強く念じます。私がいつ死を迎えるかは分かりませんが、一所懸命に生きていこうと思います。どんな命でも一所懸命に生きています。それは誰にも侵されることのない命の尊厳です。誰だって基本的には生きたい。それこそが宇宙における命の営みだからです。

合掌

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