2022年06月22日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2022年05月27日

嫌な思い出どうすれば

嫌な思い出って誰にでもあるかと思います。大失敗ですとか、人間関係のこと、心身を傷つけられたとか、様々あろうかと思います。私もあります。昔のことなので忘れたいのですが、現在進行形の別件と関係していたりしますと、事あるごとに思い出してしまいます。私は結構過去へ執着してしまう性分なので、とくに困ります。

仏教的に落ち着いて考えてみますと、嫌な思い出にかぎらず、よい思い出であっても、過去における自分自身の思考や行動は、すべて心の深層に「結果」として植え付けられています。それは未来の思考や行動を生み出す「原因」にもなり、あたかも「種」のようなものです。何らか別のはたらきかけがあると「発芽」します。急に思い出すということは、意識的であれ無意識的であれ、何らかの「きっかけ」があるから思い出してしまうのです。

では、発芽しないようにするにはどうすればよいのでしょう。

種を引っこ抜くことは出来ないので、水をやらない、日光にあてない、栄養になるものを与えないということが方法として考えられます。私は小学生時代の朝顔栽培がうまくいかず、なぜか仲間の種よりも発芽が遅かったので、こっそり家から肥料を導入したところ勢いよく発芽したという経験があります。つまり、肥料(→「きっかけ」)をやらなければ発芽はもっと遅れたか、もしかしたら、そのまま発芽しなかった可能性もあるかもしれないのです。

原理としては以上です。

ただし冒頭にも書いたように、現在進行形の別件と関係していますと、自分が思い出さないようにしていても、それが「きっかけ」となって思い出してしまうことがあります。たとえば昔ふられた彼女を忘れたくとも、なぜか仕事の取引先が彼女の居住地のご近所だったりすると、これはもう不可抗力です。勝手に思い出してしまうでしょう。悲惨です。

じゃあどうすれば良いのか。

境内清掃は住職の特務なので草むしりをよく行うのですが、草を見ていますと、やはり強い草が残っていきます。とりわけドクダミです。意外と可愛い花が咲くのですが、とにかく強靭な根っこを持っていますので、近くの弱い草を駆逐して勢力を広げていくわけです。なお名前は強烈ですが、薬草として重宝されていたこともあったようです。

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これと同じ原理で考えてみますと、彼女にふられたこと(嫌な種)を多い出したくなければ(→発芽させたくなければ)、新しい彼女、それも昔の彼女よりも自分にとって満足できる子(嬉しい種でかつ強靭)とつき合えば(→新しい植えれば)問題解決です。昔の彼女のほうが良かったなあとか、そんなんじゃダメです。

あたり前すぎてアホみたいな話に思えるかもしれませんが、心に植わった種というものは、そうそう除去することが出来ません。執着をなくす厳しい修行によって種を除去、というか植わっている部分そのものをひっくり返すことは可能ですが、普通に生きているだけでは無理でしょう。であれば発芽しないように仕向けていくしかないのです。

大失敗であれば、それ以上の成功を目指す。心身を傷つけられた相手がいるならば、自分が相手よりも人格的に大きくなるよう精進する。彼女にふられたならば、もっと可愛い彼女を見つけるようにする。とまあ、平易な言い方になりますが、前向きに生きていくしかなってことかもしれません。

これはベストな方法ではありませんが、生きている上ではベターな方法だと思われます。

それだけ過去の思考や行動の「種」は厄介なものなのです。

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2022年05月25日

築地アカデミー〜「正信偈」を読もう・学ぼう

先日、築地本願寺の築地アカデミーで、「正信偈」についての講義を受け持ってきました。最初に特別法務員の山本英哲師による読み方の実技解説があり、その後、私が依経段と言いまして前半部分の内容を解説しました。関東では「正信偈」はマイナーでしょう。メジャーは『般若心経』かな。

私もかつて地元仏教会の行事で読経する際、導師が「はい、心経一巻」と言われるなか、経文も記憶していないしそもそも読経したことないので、後方で一人ゴニョゴニョしていたのを思い出します。

正信偈は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』によく似ていますが、親鸞聖人がよりブラッシュアップされた印象で、さらに浄土の教えが明確化されています。声に出して読むのみならず、ひたすら「正信偈」の内容を勉強すれば、浄土真宗のかなり深いところまで理解できることでしょう。

皆様も是非ご参加ください!

https://tsukijihongwanji.jp/lecture/tsukijiacademy/

ちなみに次回は9月のようです。

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2022年05月12日

『御伝鈔』上巻 第三段「六角夢想」

「救世(くせ)菩薩はすなはち儲(ちょ)君(くん)の本地(ほんじ)なれば、垂迹(すいしゃく)興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。」

ご讃題は『御伝鈔』の「六角夢想」の段になります。親鸞聖人が京都の六角堂に参篭されたあと、振り返って語られた仰せとなります。六角堂で聖人は救世菩薩から夢告を得られ、世俗のなかで仏法を広める決意をされます。出家のできない凡夫がそのままで救われる道、浄土真宗のみ教えを広めるため、ご自身も結婚をして在家生活を送られたのです。救世菩薩は六角堂のご本尊であり、観音菩薩のことを指しています。六角堂は聖徳太子のご建立で、ご本尊の観音菩薩像は太子の念持仏であると伝わります。親鸞聖人は太子を日本における教主として尊崇されており、教えを乞うために参篭されたのでしょう。

この「六角夢想」では救世菩薩の夢告が肝要なのですが、今回は救世菩薩と聖徳太子、そして阿弥陀如来の関係についてお話をいたします。浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊としますが、お寺の本堂には聖徳太子のご絵像も脇に掲げられています。しかし、救世菩薩はおられません。これはどういうことなのかと言いますと、仏教の考えには、本地(=本体)としての如来や菩薩は、人々を救うため世間に仮のお姿になって垂迹(=出現)される、というものがございます。ご讃題もこの考え方に立脚しておりまして、救世菩薩は儲君、すなわち聖徳太子の本地であり、仏法を興隆させるため、聖徳太子ご建立の六角堂でその尊容を示されたというのです。

聖徳太子は救世菩薩が世に出現されたお姿であり、それはつまり観音菩薩であるということです。親鸞聖人は観音菩薩から夢告をいただくことにより、ご自身の歩みを大きく進められました。と言うことは、浄土真宗のお寺のご本尊も六角堂と同じく、観音菩薩であってもおかしくはないようにも思えます。しかし、そうではありません。

『無量寿経』には観音菩薩は阿弥陀如来のもと「最尊第一」と説かれます。言うなれば、観音菩薩は阿弥陀如来の一番弟子なのです。観音菩薩が尊容を示されたということも、それは阿弥陀如来のはたらきによっています。『御伝鈔』ではご讃題に引き続き親鸞聖人の仰せとして、「今の行者、錯(あやま)りて脇(きょう)士(じ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」ともございます。つまり、観音菩薩は聖徳太子の本地でありますが、さらに阿弥陀如来が観音菩薩の本仏であるということになるのです。観音菩薩や聖徳太子は脇において崇めるべきであり、礼拝するご本尊はあくまでも阿弥陀如来ということになります。仏教ではたくさんの如来や菩薩が説かれますが、こうした関係を知っておくと理解が深まります。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)



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2022年03月05日

家に帰って家族や友人と話そう

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境内では遅めの梅が咲きました。老木ですが毎年とても綺麗です。

仏教、とりわけ唯識仏教では人の存在とは煩悩なのだと説きます。煩悩があるから命があるのです。言い換えれば命とは煩悩そのもの、と言うことにもなり得ます。煩悩が消えれば自分も仏です。消すためには聞薫習(もんくんじゅう)と言いまして、仏教の教えを聞くことがスタートとなります。それは聞・思・修とも言いまして、聞いて、思考して、実践する、と段階を踏んでいきます。

煩悩は貪り・怒り・愚かさの3つに代表されます。なかでも愚かさは無明(むみょう)と言いまして、煩悩すべての根源となります。光明がないのです。自分自身の問題点を直視する智慧がありません。だから人のものが欲しくなったり、人の行為に怒ったりします。ものがなくなれば恐怖し、他者の存在にも恐怖し、恐怖のあまり攻撃的になります。嫉妬や傲慢も煩悩です。

一方、命は煩悩そのものですが、煩悩があるからこそ皆でこうして出会うことが出来ました。奇妙な言い方になりますが、煩悩がなかったら自分も存在しませんし、家族や友人、好きな人と出会うこともなかったわけです。煩悩は根源的にはそりゃ悪いものなのですが、あるからこそ皆と交流して話を聞くことができ、それによって自分自身の問題点に気づかされていきます。

人の話を聞かなくなると煩悩は増大していきます。恐怖は猜疑心を生みます。聞薫習によって煩悩は花にもなりますが、花を蹴散らす暴力にもなります。家に帰って家族や友人の話をよくよく聞くべきです。攻撃するのではなく、聞くのです。唯識仏教においては、他者も自分自身の一部として受け取ることが出来ます。話を聞かないということは、自分自身の声に耳を貸さないということにもなります。

独裁者はいつの時代も無明の体現者です。智慧がありません。聞かないからです。

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2022年02月08日

親鸞聖人御消息第二十一

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

先日、自坊に「わが家は一向宗(いっこうしゅう)なのですが、法事はそちらのお寺さんで大丈夫でしょうか?」というお電話があり、どこか不思議な思いのなか応対をいたしました。一向宗とは浄土真宗の古くからの呼び方で、私は歴史のなかでというイメージを持っていました。地域によっては一向宗という呼び方が残っていると知らず、失礼な物言いになってしまったかもしれません。電話のあとでこれはしまったと反省しつつ、日頃より杓子定規な言い方をしがちな性分を改めようと思ったことです。

さて、浄土真宗という宗派名をひも解いてみますと、お浄土へ参らせていただく真実の教えという意味合いが出てきます。宗派名というものは、古くはインド仏教における部派名までさかのぼります。説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)ですとか、中(ちゅう)観派(がんは)や瑜伽(ゆが)行派(ぎょうは)などです。もちろん最初はお釈迦様の教え一本なのですが、百年ほどへて教団が分裂しました。なぜ分裂したのかと言いますと、おそらくお弟子さんのなかで、それぞれ重視する側面が異なっていたからでしょう。修行中心の立場であったり、布教中心の立場であったり、教えの受け取り方はそれぞれだったのだと思われます。部派名や宗派名というものは、その重視する立場や教えにもとづいて呼称されています。

一向宗という宗派名には、今回のご讃題とさせていただきました、「念仏往生の願を一向に信じてふたごころなき」、という親鸞聖人の教えが反映されています。念仏往生の願とは『無量寿経』第十八願のことです。第十八願で阿弥陀如来は、「至心(ししん)信楽(しんぎょう)して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ」と誓われています。すべての人々がお念仏ひとつでお浄土へ救われる願い、それが第十八願であり念仏往生の願です。その願を一向に、ふたごころなく信じてお浄土へ参らせていただく教えであるがゆえ、一向宗と呼ばれるのです。浄土真宗ということと意味合いは同じになります。

私たちは今、浄土真宗本願寺派という宗派に属しておりますので、お寺は日本の法律でもそのように扱われます。しかし、この場合はあくまでも法律上、たくさんあるお寺を行政が管轄するための便宜的な分類に過ぎません。浄土真宗の法灯を伝え、本願寺をご本山としていただくのが浄土真宗本願寺派なのですが、教えにおいて浄土真宗とは一向宗のことであり、念仏往生の願を一向に信ずる道です。歴史上、かつて一向宗と呼ばれたというのは、法律上の物言いでしかありません。「わが家は一向宗なのですが」と電話口で仰る声を聴き、「今は浄土真宗と言います」と分かったような口を利いた自分を恥じ、有難くご讃題をいただきたく存じます。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2022年01月26日

悪意のない悪は最悪だ

「悪意のない悪」と、「悪意のある悪」、どちらがより問題かと言いますと、仏教では「悪意のない悪」となります。理由は明快で、悪意がないということは、その「悪」に気づいていないからです。「悪」という行為はどちらも問題なのですが、さらにその行為者へ着目した場合、悪い事をしたという自覚がないのは「最悪」です。

車の運転を例にとってみれば、違反をすれば警察に捕まります。免停になることもあるでしょう。違反という行為は道路交通法において「悪」です。道路交通法を遵守することを条件に運転免許を交付されていますから、それを守らない行為は「悪」になります。違反は多いから「悪」であるとか、回数は問題ではありません。違反はすべて「悪」です。

免停の回数が少ないからいいとか、違反しながら道路交通法を学ぶとか、そういう発想や思考には違反という「悪」への認識がありません。認識がないということは、これはつまり「悪意のない悪」なのです。悪いと思っていない。だから最終的に無免許運転という愚行へ至るのです。そういう元議員がいるようですね。

私も違反をしたことがあります。駐禁を切られたり、スピード違反や車線変更違反です。20代の頃ですが免停になったこともあります。恥ずかしいですね。今はゴールド免許になりました。ただし、スピード違反はしていないわけではないので、本当はゴールドとは言えないかもしれません。気をつけています。

悪意がなくなるとはどういうことなのでしょう。その人の立場がそうさせるのか、私には分かりません。しかし悪を認識する自覚がなければ、いつまでたっても悪を繰り返します。自らの愚かさに気づかないからです。どこかで心を翻さないと、その泥沼からは決して脱することができません。廻心して欲しいものです。

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2021年12月01日

親鸞聖人御消息第十八

「詮なきこと、論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。」

今回のご讃題には、「意味のない議論ばかりをしておられるようですが、それはくれぐれも気をつけなければならないことです。」とございます。屁理屈好きの私としましては、まことに身にしみる親鸞聖人のお示しです。近ごろは「論破する」という言葉も普通に見られるようになり、相手を言い負かすことに重きが置かれるような風潮さえ感じます。議論することは価値あることですが、議論のための議論になってしまっては意味がありません。たとえば野球ということにおいて、ピッチャーが大事なのか、はたまたバッターが大事なのか、それを議論しているようなものです。

あたり前ですが野球はゲームであり、ピッチャーとバッターのどちらか一方だけでは成り立ちません。この議論には何の意味もなく、相手を言い負かすことが議論の目的となってしまいます。屁理屈好きの私からしますと、ピッチャーが投げなければゲームが始まらないのだから、当然ピッチャーが大事だと言い出しそうです。ルールブックにもそう書いてあるとも言いそうですが、それはゲームの流れでしかありません。どちらが大事かということへの結論になっていないので、単なる屁理屈だと言えるわけです。そして、野球が本当に好きなのであれば、そもそもこんな馬鹿げた論争はしないものです。大事なことはゲームが成り立つことであり、ポジションの優劣論争は問題外です。

さて、本御消息はお念仏の一念と多念とにおける議論について、親鸞聖人のお考えがはっきりと示されたものです。往生浄土のためには、お念仏は一回で良いというのが一念、そうではなくより多く回数を必要とするのが多念です。お念仏申すとき、誰しも何回申せば良いのか考えたことがあるでしょう。一回じゃ少ないような気もするし、かと言って多ければ良いとは聞いていない。世間での評価や習慣からしますと、回数が成果に関係しそうな気はしてくるのですが、どうもはっきりしません。しかし実のところ、私たちの往生浄土は阿弥陀如来の本願力によって成就されているので、回数が問題というわけではないのです。

自分の修行の成果として往生浄土が得られるのであれば、多いほうが良さそうです。しかし、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているので、私自身の成果は何も反映されていません。つまり、一念・多念の論争が起きてしまうこと自体、野球のピッチャー・バッター論争と同じように本質から大きくそれてしまっているのです。まさに「詮なきこと」、深く詮索しても意味のないことなのです。往生浄土を自分の成果とする誤った考えがあるから、成果につながる回数を問題にし、無意味な争いに終始してしまうのでしょう。繰り返しになりますが、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているということ、しっかりと心しておきたいものです。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2021年11月10日

地球を救え?

温暖化防止は人類規模での課題ですが、「地球を救え」という掛け声には違和感を覚えます。私はもちろん門外漢ですが、多少温暖化しても地球自体が壊れることはないでしょう。おそらく何ともない。地球の歴史を振り返れば分かります。この掛け声は「天体」としての意味ではなく、「生命にとっての地球環境」を指しているのでしょう。

私も温暖化は進まないほうが良いと思っていますが、この課題は地球ではなく、人類の課題なんだという点には注意を払っていきたいと考えます。あくまでも人類中心の視点です。他の生命にとっても重要ですが、人類が存続できれば他の生命も現状存続できます。

人類の行動で他の生命の存続を脅かしていることは問題ですが、もし仮にこうした行動も地球規模での淘汰であるとするならば、私たち人類には防ぎようのないことかもしれません。人類は進化して欲望を増大させています。欲望が温暖化を招いており、これは言い換えれば進化による温暖化促進です。

人類に知恵があるならば、自分たちの進化の方向性を変えなければ淘汰されることでしょう。そのためにはまず「少欲知足」です。仏教で「欲少なくして足るを知る」という意味で、多少不便でもいいじゃないかという心掛けから始まります。

人類を救うヒントは人類自身が見出しています。宗教・哲学・歴史から学ぶことはまだまだ多くあり、むしろこれから必要です。先人が遺した叡智を大人たちが学び直し、それを次世代へ伝えていくべきかと思います。

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2021年10月26日

親鸞聖人御消息第十五通

「かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ」

本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。

往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。

これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。

自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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2021年10月04日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
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2021年09月21日

もしかして、祈祷をしたら罰が・・・

浄土真宗では祈祷をしたら罰が下ることがあるのでしょうか?という主旨のご質問をただきました。簡潔に答えるならば、もちろん罰は下りません。実は他でもない、私もこっそり祈祷をしたことはあります。気づいていないだけかもしれませんが、とくに罰は下っていないと思います。ご質問には次のようにお答えしました。

質問≪祈祷をしたら罰が下りますか?≫
回答≪下りません≫
浄土真宗はたしかに現世祈祷を頼りとしない宗旨でございます。理由を申しますと、浄土真宗の目的はまず私たちが来世に浄土へ往生させていただき、そこで自ら仏となった上で自由に人々を救うことにあります。往生は阿弥陀如来のはたらきに由っており、私たちの行為に由ってはいません。祈祷をするということは、私たちが神仏へ祈り、その行為に由って神仏が応えるという事態を指しています。阿弥陀如来のはたらきはこれとは異なり、祈る前から私たちにはたらいて下さっています。したがいまして、祈る必要がまるでないわけです。

このように、祈祷は浄土真宗の目的には当てはまらない行為となっていますが、そもそも祈祷は現世においての幸せを祈ることが目的です。しかし、現世での辛苦というものは早々なくなるものではなく、私たちは常に迷い続けています。間違えをおかしてしまったり、人に迷惑をかけてしまったり、こうしたことの連続が現世であると言えます。そして、それこそが私たちの真実の姿であり、それを誤魔化すことは出来ません。人生をよりよく歩むためには、誤魔化さず、しっかりと自分自身を直視することがむしろ必要です。失敗しても良いのです。阿弥陀如来は失敗しても見守って下さり、しっかりと浄土へ参らせていただけます。

とは言いましても、神仏に祈りたくなるのも私たちの姿です。苦しいときは神仏を頼みにしたくもなります。それで良いのです。こうした私たちの迷いを含めて阿弥陀如来は救って下さいます。祈祷をしたからと言って、決して罰が下るということはございません。それでもなお、阿弥陀如来は温かく見守って下さっています。ご安心下さいませ。現世は思い通りならぬものではございますが、阿弥陀如来のはたらきをいただき、ともに励んで生きて参りましょう。

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2021年08月05日

嘘も方便?いえいえ方便は仏様だけの手段です

皆さん、「方便」という言葉を聞いたことあるでしょうか。ことわざにも「嘘も方便」とあります。嘘をつくことは悪しきことですが、それを肯定するかのように響きます。ただ、「方便」だと嘘ついてもいいのかというと、もちろんそれは違います。「方便」とはサンスクリット語でウパーヤと言いまして、仏教用語で「手段」を意味します。悟りに近づけるため、仏様が我々を導くためにあれやこれやと使う手段のことです。我々は基本的に言うこと聞きませんから、色々と仏様もうまいよう仕向けてくれるわけです。

たとえば有名なたとえ話ですが、子(=我々)が遊んでいる家が火事(=迷いの世界)となっているも、子はそれに気づかず夢中で家のなかで遊び続けています(=迷いのなかにいることに気づかない)。親(=仏様)は子を外に出すため、外には子が欲しがっていたおもちゃ(=身近な仮の教え)があるでー!、と呼びかけます。すると、子はそれに釣られて火事の家から出てくるわけです。しかし、外には欲しがっていたおもちゃがあるわけではなく、親はもっと素晴らしいもの(=本当の教え)を子に与えましたとさ、というお話です。

子が欲しがっていたおもちゃは「ない」のですから、「ある」と言えば嘘になります。しかし、これこそ「方便」であり、本当の教えに気づかない我々を救う手段として、敢えて造作されたのが「方便」なのです。仏様は嘘をつきません。「方便」とはあくまでも真実に導くための手段として存在します。なので、我々には「方便」を使うことは出来ません。迷っている我々が「方便」と称して何らか手段を講じても、それは迷っているままなのですから嘘になってしまいます。


オリンピックは「安心・安全」とのことでしたが、これはもちろん「方便」とは言えません。


仏様は悟りに至る道程をすべて完璧に理解されているので、上記のような「方便」を用いることが可能なのです。道程が理解できていなければ、当然不可能ということになります。分かってないのに導くことは出来ないですよね。あたり前です。

新型コロナウイルスはまだまだ分からないことが多いはずです。分かってないのにいい加減なこと言ってはいけません。オリンピックやるならば、「安心・安全」とかの妄言でななく、分からないこと、分かっていること、ちゃんと明白に正直に国民に語りかけるべきだと思います。国民は不安なんですから。大きなことやるなら、正直に行くべきかと率直に感じます。単なる嘘はいかんですよ。


しかしまあ、もうちょっとうまい言い方あると思うんですけどねえ。政治家は言葉が命だと思いますが、もっと言葉を選んで大事にして欲しいなあ。

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2021年07月19日

アート思考と唯心

美術の先生であり、アーティストでもある末永幸歩先生が「アート思考」という概念を紹介されていました。「自分の答えを創出する=アート思考」ということで、今は存在しない自分の答えを生み出す思考とのことです。

自分の思考というものは蓄積されていて、答えはすでにその中に存在していると私は考えています。ただそれに気がつかないだけで、表層的な自分から深層的な自分に至る思考によって、答えは自から出てくるものと信じています。先生は「創出」という言葉を使われていますので、この点で私の考えとは表現のうえで違うわけですが、なるほどなあと興味を惹かれました。

仏教は「唯心」と言いまして、心こそ世界そのものと観ますので、意識を内面へ内面へ向けさせる傾向にあります。いたずらに外に向けても、それは自分の心を出るものではないとするからです。世界とは自分が蓄積してきた行為やその影響によって成り立っており、自分を出るものではないとします。人生とはまさに心の探求なのです。

こうした蓄積から芽が出て世界そして自分自身にもなっていくのですが、これは見方を変えれば「創出」ということにもなるかもしれません。断片的な思いをつなぎ合わせていくことにより答えを「創出」する、これはまさに心の深層への探求とも言えるでしょう。

実は私も話をしているなかで答えを見出すことが多々あります。自分の気づかぬ点が見えてくるのだと思っていましたが、これこそ「創出」です。上述のように、心の内面というものは世界をも含むものである以上、感覚で得られるすべての要素も捨て置いてよいとうことではありません。議論することによって自分自身にある答えを知る、答えを「創出」していく、そのためには色々な物事を受け入れていく柔軟性も必要なことでしょう。私は自問自答で終始してしまう傾向にあるのですが、これでは深層への探求にはなりません。外部こそ自分自身の内面だからです。それこそ「唯心」なのです。

アーティストの方は感性を磨くことに注力されるとは思うので、思考であっても感性的、即応的なものを大切にされるのでしょう。やりっぱなしというか、放り出すことができれば、それこそ深層を掘り出していることと同じだと思います。

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2021年07月12日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
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2021年06月22日

善福寺仏典会のお知らせ

経典から学ぶ「善福寺仏典会」は、今まで第三日曜日の開催でございましたが、その翌日、月曜日の開催にさせていただきます。14時から1時間ほど、今は曇鸞大師の『往生論註』を学んでおります。皆様、よろしくお願いいたします。

≪善福寺仏典会≫
毎月第三日曜日の翌日、月曜日の14時から
善福寺会館において開催

住職 伊東昌彦

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2021年06月04日

親鸞聖人御消息第十二通

「「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり」

私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。

ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。

なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。

さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)

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2021年03月21日

浄土は「あの世」とは言わない

あの世といえば、一般的に死後の世界となります。この世とあの世。あっちの世界ってことです。ただ、浄土は「あの世」とは言いません。「世」とは迷いによって輪廻する世界のことで、浄土は「出世間」だからです。出世間とは、世間・世界から出た状態のことで、すなわち迷いのない覚りに至ったことを意味します。浄土は仏の覚りによって現ぜられた国土となります。

実は私、「あの世」を使用しないのは俗的な言い回しだからだとばかり思っていたのですが、よく考えてみますと、学術的にも「あの世」=「浄土」は間違いだということに最近気づきました。となりますと、浄土を「仏の世界」と言うことも間違いになります。法話の際、思わず言ってしまいそうですが、気をつけたいと思います。

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2021年01月23日

親鸞聖人御消息第九通

「五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり」

本御消息は「慈信房義絶状」とも言われ、親鸞聖人が異説を唱える慈信房善鸞を義絶されたものです。善鸞は親鸞聖人の御子息です。親鸞聖人は、善鸞が浄土のみ教えの要となる第十八願を蔑ろにした布教を行っていたことから、義絶という苦渋の決断に至られました。破門ということだけではなく、親子の縁をも切ったことになりましょう。親鸞聖人にとりまして、阿弥陀如来のご本願を誤って人々に伝えることは、わが子であっても許されないことであったのです。なぜかと言えば、善鸞の行いは五逆そのものであったからです。

仏教には五逆という五つの重たい罪のあることが説かれ、これを犯した者は地獄の深みに落ちていくとされます。また、第十八願には「五逆と誹謗正法とをば除く」とありまして、ご本願からも五逆が漏れてしまうことが説かれています。この五逆について、中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)によりますと、@母を殺すこと、A父を殺すこと、B聖者(阿羅漢)を殺すこと、C仏の身体を傷つけて出血させること、D教団の和合一致を破壊し分裂させること、とあります。善鸞は異説を広めていたわけですから、Dに該当するのだと思われます。阿弥陀如来のご本願の救いは、たしかにすべての命に向けられています。しかし、だからと言って何をしても許されるというわけではありません。

この世のあり様を見るならば、新聞やニュース番組には毎日のように五逆があふれかえっています。家族同士のいざこざ、尊大な態度、裏切り行為、本当に切れ間なく報道されています。いえ、報道ばかりではありません。私たちの身近なところで、さらに言えば自分自身においてさえ、こうした五逆はあり得ることとして認め得るはずです。仏教でいくら五逆は地獄行きだ、ご本願からも漏れてしまう、と警告を発したところで、実際にはこのあり様です。私たち凡夫は、いつでも五逆と隣り合わせなのです。むしろ五逆こそが私たちの姿であると言えましょう。では、救われない私たちにとりまして、ご本願はどのようにはたらいてくるのでしょうか。

親鸞聖人は義絶というショッキングな方法で、わが子である善鸞を導かれたのだと思います。善鸞はおそらく、自らの罪の重さに気づいていなかったのでしょう。わが子が五逆の大罪を犯しているなんて、こんなに悲しいことはありません。表題のお言葉からは、聖人の親としての悲しみが伝わってきます。第十八願で敢えて除かれる五逆ですが、五逆こそが私たち凡夫なのであり、善鸞なのです。そこに気づかされてこそ、はじめてご本願のはたらきを素直に喜べることでしょう。もとより阿弥陀如来の救いに条件はありません。ご本願には、私たちのなかの五逆を知らしめるはたらきもあることを、本御消息から学ばせていただきたいものです。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2020年11月20日

聞くことの大切さ

仏教では「聞く」という行いを重視します。教えを聞いて、自分で思考して、そして修行に励むわけです。第一段階は「聞く」ことなわけですね。しかしこれ、意外と難しいと思いません?私みたいに自分が自分がの人ですと、どうも人の話の途中で「と言うかさあ」とか、「そうじゃなくて」というように割り込みたくなってしまいます。しかも相手を否定するという、これまたどうしようもなく悪い癖があるのです。50歳も近いので、そろそろいい加減やめたいなあと思っています。

なぜ途中で相手に割り込みたくなるのかと言えば、これは簡単です。相手を負かしたいから。相手が間違っているから正したい、というかもしれませんが、根っこは相手を負かして自分が優位に立ちたいということです。よく考えれば、別に相手がどう考えていようが、あまり自分には関係のない場合もあります。家族であればある程度は同じ方向を向いていたほうが良いかもしれませんが、同じ思考でなければならない決まりはありません。それぞれ違うのが当然と言えば当然です。

ましてや友人であればなおさらで、考えが合わなければつき合いをやめればいいだけです。何も自分の思うように正す必要はありません。何か言ってきたら、ああ、そうなんだ、というように聞いていれば良いのです。聞くなかにおいて、自分にとって大切なことがあれば、それを自分に活かしていけばいい。ただそれだけのことなのですが、人にはどうしても相手より優れていたいという欲求があるようです。驕り高ぶる心はなかなか捨てることができません。50歳に向けて、自分自身の戒めにしたいと思います。

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