2020年04月29日

オンラインと肌感覚

日常生活での「オンライン」の役割が大きくなっています。人と人との接触を出来るだけ少なくしなければならないとなれば、オンラインはうってつけです。仕事も学校もオンラインで続けることにより、接触の機会を少なくすることができます。ただ、もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、うまくいかない場合もありそうです。たとえば小学校低学年ですと、双方向のオンライン授業を開始したとしても集中力が何分もつか分かりません。保護者が画面の前から子が離れないよう監視していれば別ですが、教室に比べれば先生の影響力は限定的になりますので難しいこともあるでしょう。

今、私は「先生の影響力」と書きましたが、まさにこの点に大きな問題点があると感じます。

と言いますのは、人のコミュニケーションは口と耳と目だけで行っているわけではありません。人には五感というものがあるでしょう。実は普段あまり気づきませんが、五感で会話しているのだと思います。実際、舌(=味)はあまり関係ないとは思いますが、肌で感じるところってあるでしょう。その場の雰囲気です。息遣いとか。相手が目の前にいるっていう雰囲気です。肌感覚というのは、私はもの凄く大きいものだと思っています。コミュニケーションの場面において、メール<電話<直接会う、と考える人もいるでしょう。しかし、私は電話<メール<<<直接会う、という具合です。電話は私にとってあまりうまくなく、耳だけで判断しないといけないのは苦痛です。メールのほうが目で判断できて、なおかつ読み返せるので楽なのです。

そして、いずれにも大差をつけて直接会うことを大事にしています。ではオンラインで画面を通して顔を見ながらの会話だとどうでしょう。私も何度か試しまして、実際、会合もオンラインで参加しています。まだ慣れていないというのもあるかもしれませんし、テクノロジーが進化すればもっと現実的になるのかもしれませんが、肌感覚がないため不安です。うまくコミュニケーションできているか不安なのです。もしかしたら、電話が発明された当時も、同じような不安感を持っている人がいたかもしれません。でも、今はあまりいませんよね。私も不安というよりは、電話では不満なだけです。一応、コミュニケーションは出来ていると思います。オンラインもいずれ慣れることでしょう。しかし、やはり肌感覚はありません。

全身全霊という言葉があります。人を身体と精神に分けて考察する見方は仏教にもあり、「色(=身体)、受、想、行、識(=以上、すべて精神)」と見ます。全身全霊というのは、さまざまな精神作用、つまり自分自身の意識のみならず、無意識の部分も含めての精神(=霊)と身体をもってという意味になります。人のコミュニケーションも実は全身全霊で行っているもので、だからこそ深く分かり合えるのだと思います。身体すべてで感じ取った情報は、すべて精神に伝えられます。身体は五感です。五感が欠けている状態ですと、当然のことながら伝達情報も欠けたものになります。電話は耳と口だけですから、それ以外は欠けています。メールはもちろん目だけです。言葉と文章ですよね。人は長年、言葉と文章だけでコミュニケーションを取れるよう、創意工夫をして技術を身につけたのだと思います。だから欠けている部分が補えている。

低学年の子にとっては、まだまだこうした技術を身につける途上にあるわけですから、肌感覚というものが重要になってきます。小さい子と電話で話をしても何だか良く分からないのは、こうした技術が未習得だからです。そうなりますと、双方向のオンライン授業をいきなり行っても先生の思いはなかなか児童には伝わらず、ひっちゃかめっちゃかなカオス状態になることでしょう。先生の影響力が限定的だからです。もちろん、子は柔軟ですのですぐ技術を習得して慣れていくとは思いますが、オンラインというものが即効性あり万能であるかのような喧伝は不誠実です。肌感覚のないコミュニケーションというのは、感覚を一部欠いているという認識が必要です。これは電話でもメールでも同じです。人と人とが直接会わなくてもいいという日常が到来するとすれば、それは全身全霊で生きている人をやめるということにもなることでしょう。

ただし、それが「進化」なのだという考えもあるかもしれません。人は宇宙の真理、それは一神教的に言えば神の意志であり、仏教的に言えば変化を繰り返す宇宙のあり方ということになりますが、それをを超えて行動できているわけではないので、テクノロジーも宇宙の摂理です。人の進化を今、目の当たりにしているとすれば、ああ、たしかに私も不安になるはずだ。

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2020年04月26日

法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会

新型コロナウイルスによって亡くなられた方々に対しまして、心より哀悼の意を表します。また、罹患されてしまわれた方々のご快復を、心よりお念じ申し上げます。私は今のところ罹患していないようですが、諸行無常のなか生きている私たちにとりまして、すべては自分事として受け止めねばならぬことと存じます。明日、どのようになるのか、本当に分からない世の中になってきました。この現状を把握し、自覚を持って生活を続けていきたいものです。自分自身がウイルスを運ぶ縁にならぬよう、細心の注意を払いたいと思います。

善福寺におきましては、法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会を現在、休止しておりますが、当面はこのまま休止とさせていただきます。葬儀と法事は今まで通り行っておりますが、本堂・会館においては間隔を空けてお座りいただき、必ず手の消毒をお願いしています。近隣の葬儀会館におきましても、同じように皆様のご協力をいただいているようにございます。

新型コロナウイルスの一日でも早い収束を願ってやみません。個人的なことではございますが、家飲み用に購入した大ジョッキが活躍してくれています。なかなか気分出ますね。

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2020年04月14日

大ジョッキを手に入れました

のんきな内容ですみません。かつて坊さんの先輩に月に1度は行事を作ったほうがいい、中高の友人からは忙しくしていたほうがいい、とアドバイスを受けました。そもそも善福寺は兼業寺院(父はサラリーマン兼業)であったこともあり、専業で入寺した30代は何をして良いのか分からず、少々暇で困ったこともあったのです。法務(お寺の場合は読経など)も忙しくしたいと思いまして、月忌参りを始めたりもしました。それから法話会、仏典会、楽友会、スウィーツ教室のような集いを始めました。また、地域のお役も積極的に受けるようにしまして、それなりに忙しい毎日を過ごしていたものです。が、法務以外はすべて休止となっている今、とても暇になってしまいました。前向きな方ですと、こうした境遇をチャンスに変えて英会話を習うとか、未来につなげるような行動を起こすことでしょう。私は後向き人間なのでしょう、とくに何もやろうと思ってはいません。ははは

家族団欒の時間は増えました。お寺の場合、専業だとだいたいお父ちゃん(住職)は家にいるんですよ。だからそれほど違和感なく、団欒時間は増えて嬉しいなぐらいなんですが、お勤めの方ですと違和感大ありかもしれませんよね。とくにお母ちゃん。毎日3食きっちり用意しないといけないとなりますと、これは大変でしょう。家庭によって状況様々だと思いますが、こうした普段から逸脱した家庭状況によって、アルコール依存症や家庭内暴力、児童虐待の件数が増えているとの報道もありました。多くの方が不安のなか過ごしていると思いますし、ああ、もう酒飲むしかねえ、と思う気持ちも分からんではありません。私もビール好きなので良く分かります。お酒は脳を麻痺させるのでしょう。疲れているときは疲れが吹き飛びますし、不安なときは大きな気持ちになったりするものです。しかし問題解決にはならない場合が多く、まやかしと言える作用ばかり続きます。それが分かってないと、いわゆる「お酒に飲まれた」ことになり、問題行動が発生するんじゃないかなあと思うのです。

とは言え私はビール好きなので、在宅用に大ジョッキを購入しました。1000mlにしようかと思いましたが、ひるんで800mlにしました。家ならば少なめなほうがいいかもしれません。昨日はそれで飲みましたが、まあ、あんま面白くはないです。私は完全に外飲み派で家ではほとんど飲みません。家にいることが多い仕事なので、家で飲んでいても区切りというか、気持ちの切り替えが出来ないからです。ただ、こうした今の状況が長引くとなれば、少々お酒との付き合い方を変えたほうが良いかもしれませんね。気持ちの切り替えができない家飲みでは、おそらくストレスが溜まってくるんじゃないかと思うからです。ストレスというのは困ったもので、簡単に言えば自分の欲望を抑え込んでいると溜まります。じゃあ欲望のまま生きればいいのかと言えば、そんなことしたら社会生活は送れません。仏教でも欲望をなくすほうがいいと説きますが、抑え込むことはむしろ良くなく、その根源を退治することが奨励されます。ただまあ、根源って簡単に言ってもねえ、まあ普通に生活しているぶんにはほぼ無理ですよ。自分の心にある根源的問題ってのは、早々簡単に解消できません。心は本当に厄介なもので、実は「私」という意識の管理下にはない部分も多いのです。そしてストレスの原因というのは、その管理下ではない部分に存在します。難しいわけですよね。

いずれにしましても、悶々としたものが溜まってきそうな気配ですが、他者にあたらないようにしたいものです。すべては自業自得、自分のことはすべて自分でなんとかするというのが仏教です。他者に支えられつつも、自分ひとりがこの世を生きていることを心に留め置いておきたいものです。

亡くなられた方や罹患されている方に心をよせながら、この状況が早く収束することを念じます。 合掌
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2020年03月12日

ウイルス感染予防と中道

先日、地元近所の焼肉屋さんに行きました。ガラガラでした。普段からガラガラではなく、通常ならば繁昌しているお店です。新型コロナウイルスの感染拡大で外食産業はかなりの痛手を被っているようです。不特定多数の人々が集まって密着する場所、そして換気の悪い場所は感染の可能性が高まると言います。焼肉屋さんは目の前に排気口があるから大丈夫なのではないか、という私の独断でしたが、隣席どころか入店時は誰もいませんでした。

外食産業は地元経済の一端を担っています。そして街の賑やかさということを考えた場合、小売店や食事処はさらに貢献度が高いと感じます。しかし、多くのお店は小規模経営なので資金力は大きくなく、一度閉店になってしまえば復活は難しいでしょう。街が寂しくなってしまえば、人口は増えるどころか減少に拍車がかかってしまうことは明白です。そうかと言いましても、地元で感染拡大すれば営業どころではなくなることでしょう。

ところでこんな話を聞きました。地元市内では今、中学生のインフルエンザ罹患がゼロだそうです。休校ということもありますが、おそらく、コロナ対策で例年以上に皆が気をつけて除菌に取り組んでいるからでしょう。しっかり対策をしておけば、たとえば外食であれば、ちゃんと除菌をして、あまり長時間にならず、わが家であれば家族以外の方との接近を出来るだけ避けるのであれば多少は大丈夫でしょうし、経済活動への影響を最小限に留めることも可能かもしれません。

仏教では中道ということを説きます。偏らない道です。

修行しすぎても修行自体への執着心が増すますし、だかと言ってまったく修行しないということであれば、どんどん堕落していくことでしょう。偏らずにバランスを取って行動することは、仏教の修行論のみならず、私たちが普段生活していくなかでも大切なことだと思えます。バランスのとり方は状況によって異なりますが、こうしたウイルス蔓延が心配される状況下であれば、感染予防に努めつつ活動を続けることが望ましいと言えそうです。

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2020年03月02日

トイレットペーパーと自灯明法灯明

トイレットペーパー、一気になくなりましたね。すごいデマでした。そして、それに多くの人が乗ってしまった。まさに我先に、ウォシュレットの時代ですが紙は大事ということでしょう。しかし急がなくとも、普通に生産はされているとのことで無駄足だったわけです。私はと言いますと、そういうデマが飛んでいるということにすら気づいていませんでした。今回の件は乗り遅れて良かった。

仏教には「自灯明、法灯明」という教えがあります。お釈迦様が亡くなる際、お弟子さんに「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と諭したそうです。お弟子さんは先生が亡くなってしまうので、この先がとても不安です。しかしお釈迦様は、すべて教えてあるので、その教え(=法)によって自分自身(=自)で思考・判断せよと説かれたのです。言うなれば、変なデマに惑わされずちゃんと考えて行動せよ、ということでしょう。

多くの人が正しい情報にもとづいて、自分自身で思考判断すればトイレットペーパー売り切れはなかったかもしれません。ただし情報が氾濫する今の時代、何が正しい情報なのか、それを見分ける世間的な知恵というものを私たちが持たないとならないようです。本来は一応、正しい情報は政府からの発表ということになるはずですが、何だかあまり期待できないかなあ。

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2020年02月29日

法話会 短縮開催のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、3月1日(日)14時からの法話会は短縮開催といたします。正信偈のお勤めは省略いたします。法話も30分程度のものとしまして、14時30分には終了といたします。何卒、ご理解のほど宜しくお願い申し上げます。

善福寺住職 伊東昌彦
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2020年02月28日

卒業式の中止もしくは短縮

新型コロナウイルスの影響により、卒業式を中止・短縮する学校が出始めています。感染拡大を防ぐためには、致し方のない判断でしょう。大学のように規模の大きい学校は短縮でも難しいかもしれません。地元小中学校でも検討がされているようです。在校生や来賓の出席を取りやめるという方法がまず思い浮かびます。しかし在校生、とりわけ小学5年生や中学2年生の出席については、送るという意味合いに加えまして、来年は自分たちが送られる立場になることへの自覚醸成という意味合いもあります。教育の観点からは、簡単に出席取りやめという判断は出来ないかもしれません。とても難しいと思います。ちなみに来賓ですが、私の個人的経験によりますと、地元議員さんは私語が多いのでそもそも出席取りやめでいいんじゃないかなあって、そんな気もします。ははは

こうした儀式というものは、宗教的な意義をもって成り立ってきたものが多いでしょう。お葬式や法事はその最たるもので、七五三や成人式などの通過儀礼的なものも、原始的には精霊や先祖霊に対して行う場合もあったかと思います。私は坊さんですので儀式を施行する立場であり、普段から儀式の意味を考えることもしばしばです。たとえばお葬式も簡略化が進んでいますが、仮にお葬式という儀式をしないとなりますと、心のなかにモヤモヤを抱えてしまう方もいるように見受けられます。すべての人がというわけではありませんが、儀式をへていないことを不安に思う方は少なからずいらっしゃるようです。

人の心は大変複雑な構造だと思います。まさにカオスであり、私たちは自分の心であってもうまく整理整頓することが出来ないこともあります。思いや考えが出しっぱなしになったり、あるいは行方不明で出て来ないということになりますと、何らかの心の病を抱えてしまうことにもなります。ある程度、人によってそれぞれ異なりますが、心は表面的にでも整理整頓出来ていないと苦しいわけです。生活の節目というものは、これはリセット機能であり、ゴチャゴチャになった部分を処理することが出来ます。大晦日・お正月を思い起こしてもらえれば、これはよく分かります。色々あった1年ですが、それを除夜の鐘とともにある程度忘れ、新たな気持ちで次の1年を過ごすということです。リセットなのです。

卒業式も儀式であり節目でありますから、やはり何らかのリセット機能を持っています。学校生活では嫌なこともあったことでしょう。それをいつまでも引き摺っていては前へ進めません。忘れていいのです。そして新たなステージに向っていくことこそ、児童・生徒には大切なことだと思います。学校は基本的には6・3・3となっているでしょう。これも途中途中で節目となる卒業があるから、児童・生徒の健康的な成長に役立っているのです。これをまとめてしまっては、うまくないかもしれません。

と言うことで、新型コロナウイルスの影響によって卒業式をまったく中止にしてしまうというのは、大学のような大規模ではないかぎり、何とか回避してもらいたいなあと思うのです。もちろん、感染につながらないよう努力をして、という限りにおいてですが。

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2020年01月21日

TSUKIJIアカデミー 浄土真宗を学ぶ

来月、2月3日(月)に築地本願寺で中国浄土教の話をすることになりました。テーマは道綽禅師と善導大師なのですが、私の専門とするところは、両師と同時代の先輩にあたる嘉祥大師吉蔵の浄土教なので、そのあたりの違いをお伝えできればと思っています。しかし講師が私というマイナーな人なので、どなたか来ていただけるのか心配です。ともに勉強いたしましょう。

講座サイト↓
https://tsukijihongwanji.jp/lecture/tsukijiacademy/?fbclid=IwAR2r0rf9FibsxdMZAKNF9wWc6UEEVKOVKzKuX4vcVvDJ7CXe5UjVfnDAC0c
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2020年01月01日

令和二年となりまして

皆様、本年もよろしくお願いいたします。令和元年から、あっという間に令和二年となりました。今年は東京オリンピックも開催されますね。昨年の天皇陛下ご即位から、「日本」ということを意識する機会が多く続きそうです。私たちは「日本人」なんだなあと、そんなのあたり前かもしれませんが、そんなあたり前なことを改めて考えてみたくなる講義を年末、研究所の業務として受けてきました。国際日本文化研究センターの磯前順一先生です。講義のなかで先生は、神武天皇の足跡に関連した「日本のはじまり」という観光イベントのチラシを見て、そもそも「日本」って何なのか、という素朴な疑問を重視されていました。ご自身は茨城県のご出身とのことで、昔であれば「蝦夷」の人であったと言われます。「蝦夷」・・・、日本史で出てきましたね。あと九州の「熊襲」とか、大和政権に打倒されるわけですが、そういうのも含めて私たちは何となく「日本」をイメージしています。

大和政権は天皇家ということなのですが、もちろん現代日本でも継続中です。政治体制に何度か変化はありましたが、やはり同じく天皇家なのです。ということは、私たちが学んでいる「日本史」っていうのは、天皇家から見た「日本史」になりますね。打倒された蝦夷から見た「日本史」であるわけもなく、歴史の見方としてはどうしても天皇家よりになっています。学問は客観性が必須ではありますが、「日本史」という教科書的なまとまりになりますと、誌面の関係もあり、いろいろな作用もあり、どうしても限定的に表現せざるを得ず偏り感が出てしまいます。書き手の主観がモロに出るわけですが、学者であっても100%客観視できるわけもなく、やっぱりいわゆる「日本史」になってしまうんでしょう。でもおかしな話ですよね、蝦夷や熊襲って、「日本」を自称したことなんてないと思うのですが、あるんでしょうか?よく分かりませんが、つまりは降伏して大和政権に服従したのでしょう。それで日本化(大和化)したから蝦夷も熊襲も今では「日本」の範囲に入っている。何だか奇妙なんですが、もともと「日本」っていう国土の範囲が存在し、その中の異分子が蝦夷であり熊襲であるかのような表現になっていません?それって非常に学問的じゃないと思うのですが、いいんでしょうか?

とまあ、磯前先生のご講義に影響を即座に受けまして、私もこうした疑問を持つことができました。天皇家が続いていることは結構なことで、象徴天皇であるということは、私も現代日本に相応しいと思っています。ただ、天皇という存在が日本国民の象徴であるのであれば、ちゃんと「日本」のことを客観的に知りたいなあと思うのです。政治的プロパガンダで創作されたストーリーではなく、学問的に知り得ることができたら素晴らしいことだと思います。でもまあ、色々と問題あって難しいんだろうなあ。少なくとも自分自身の意識においては、「日本」という国が昔っから漫然と存在してきたかのような錯覚に陥ることだけは避けるようにしたいと思います。日本人であるならば、自国である「日本」のことをちゃんと知りたいというのは自然な感覚ですし、海外に行く場合にも、外国人との触れ合いには必要な知識ではなかろうか。

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2019年12月04日

喪中はありません

突然ですが、浄土真宗には喪中がありません。したがいまして、喪中葉書というものは存在しないのです。一般的な慣例にしたがっても構わないとは思いますが、厳密には存在しないことになります。喪に服すということの起源は、おそらく中国大陸にあると思います。簡単に言えば死者が迷わないよう、遺族が何かしら制限のある生活をするということになるでしょうか。浄土真宗では死者は迷わないので、とくに遺族が何かする必要もないのです。だから喪に服すことはしない。しかしそもそも、今は喪中葉書と言いつつも、多くの方が喪に服してはいないでしょう。たしか喪中であれば外出も控えなくてはならず、ひたすら位牌に向って供養しないといけないはずです。形式だけが残っているということでしょう。ただ、いかに浄土真宗でありましても、大切な方が亡くなったあとはその方を偲ぶことを優先し、できるだけ慎み深く生活したいものです。なぜならば、その方の死を縁として、自分自身の死についても思いを馳せる時間を大切にすべきだからです。

母が亡くなりましたので、さて年賀状はどうしたものかと思っていました。私はそもそも年賀状において、「おめでとうございます」の決まり文句は使いません。たしかに1年間を過ごすことが出来たということについて、心のなかにめでたいという思いはあります。人は節目がないと居心地が悪いこともありましょう。しかし仏教思想に照らしてみるならば、とりわけお正月がめでたいということにはなりません。毎日めでたい、有難い。そういう発想になるからです。諸行無常のなか生きている私にとって、明日があるかもわかりません。それがこうして、今日という1日が訪れたわけですから、とてもめでたく有難いことです。だから私は毎日、朝が一番機嫌がいいのです。起きた瞬間から回路全開になるような感じです。ブログもたいてい朝書いています。

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2019年11月12日

前回のおまけ

前回の記事で触れたダウンタウンさんの「日本の匠を訪ねて」ですが、実は「…それがよーわからんのだよね…」では終わりません。そのセリフでカメラは天井から覗いたアングルに変わるのですが、松本さんは再び「ひねりっこちゃん」とひと言。それでコントは終わります。「ひねりっこちゃん」とは制作段階の1つの名称です。つまり、よーわからんのだけれども、再び作業に入っていくという無意味な連続が表現されているのです。

よーわからんのだけれど、それでも私たちは生きているわけなんです。ややもすれば、このコントのように無意味に陥りがちなのですが、そこを何とか目的や目標を見つけて生き抜いている。でも、もしかしたら宇宙なんてすべて繰り返しで、何の意味なんてないのかもしれません。少なくとも、私たちには理解や体得のできそうにない事柄でありそうです。

仏教やインドの宗教ではそれを業(行為とその影響)によって説明しようとするのですが、繰り返していくことの意味までは説明できていません。どういう仕組みで繰り返すのかは、業によって次のステージが始まるから繰り返すのだとなるのですが、それは仕組みであって「意味」ではないでしょう。そもそも、意味なんてないというのがインド的な発想なのかもしれません。

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2019年11月10日

それがよーわからんのだよね…

週末に友人たちと3人で東京の大井町で会いました。獨協中高大時代の友人(大井町の人)と、あとは友人と言ったら本人には失礼かもしれないけど、学生時代の彼女です。別にどうでもいい話なんですが、いわゆる「元カノ」を友人と言うのもしっくりこないんですよね、個人的に。だからと言って「元カノ」なんてねえ、さらに失礼な雰囲気漂うしなあ。しかしまあ、私も彼女にとっては「元カレ」なので、そう言われても別にいいかなあ。なんだか学生時代は妙に気が合って、学年も一緒でやたらと印象深いやつだったので、とくにそう思うのかもしれません。私の人生において、家族のほか親友なみに重要なやつではあります。

それでどういう話をするのかと言いますと、それがビール飲み過ぎてよー覚えてないんですよ。私はいつも終電があるから遅くなれず、東京で飲むときは夕方の待ち合わせにしてもらっています。私に合わせてもらっているので迷惑な話だと思いますが、友人たちには感謝しています。それで4時半から飲んだので、結局たくさん飲んでしまうわけです。大井町の友人と元カノはファッション好きなので、なんだかファッションの話で盛り上がっていたように思います。私はあまり興味ないのですが、2人が楽しそうに語り合っているのを眺めていると嬉しい気持ちになったことです。

2人とも平日はとても忙しい。私とはまったく生活リズムが異なるので、よく分かりませんが、むしろ一般的なのでしょう。私はやはり住職ということもあり、特異なリズムであると言えるでしょう。2人は仕事の悩みも多そうですが、そんな話は一切せずに好きな分野の話をして過ごせたことがとても贅沢に思えたわけです。普段、私たちは結構自分を欺いて生きています。私は公私の区分が曖昧なのでそうでもないんですが、そうせざるを得ない時もたまにあるので、会社で仕事をしている方々は言うまでもないと思えます。でも、なんでそんな生き方をしないといけないのでしょう。

それはもちろん、生きていくためでしょう。どうやら生きるということは、とてもストレスがたまることのようです。じゃあなんで生きているのでしょう。これはとても素朴な疑問で、生死を自分で決めることが難しい私たちにとっては、なおかつ解決が難しい疑問でもあります。だから哲学者や僧侶は一所懸命思考したのだと思います。でも簡単に言えば、よーわからん、ってことになるんじゃないかなあ。昔、お笑いのダウンタウンさんのコントで、「日本の匠を訪ねて」というものがありました。私、大好きなんですけど、内容としてはレポーター役の浜田さんが、伝統工芸作家役の松本さんの工房を訪ねる、というもので、頑固でありながらどこか滑稽な制作過程を題材にしています。「しごみざる」とか、「ひねりっこちゃん」とか。

それで松本さんが制作している工芸品は、何かしら楽器のようなものなのですが、同時に神聖な存在にもなっており、先代制作のものは神棚に祀られています。先代から、おそらくもっと昔から伝承された技を披露する松本さんの姿からは、凄みすら感じられます。おそらく工房に入るときには、自分自身を清めてから作業に取り掛かるのだと思われます。お弟子さん(今田さん)もとられていて、その彼の朴訥さがまたいい雰囲気なんです。下積みをしているのでしょう。1つ制作するのに2ヶ月半もかかるようで、プロ用は40万円もするということです。制作過程も佳境に入りまして、入魂のような作業段階をへて完成します。

完成品は独特な風貌であり、お寺の本堂に置いてあってもおかしくないと思います。それでレポーター役の浜田さんが最後、しめの言葉を松本さんに聞くわけです、「これは何に使うものなんですか?」と。そして、それに対する松本さんの返答は、「…それがよーわからんのだよね…」。先代制作のものが神棚にあるような神聖なものを制作して、それを次世代に伝えるために弟子もとっている。それなのに、よーわからんと。あまりにも面白過ぎて頭から離れません。しかし本当に秀逸なのは、何のために一所懸命やっているのか、引いて言えば何のために生きているのか「よーわからん」のに生きている私たち人の姿そのものが、とても滑稽だと言うことにつながっていくと思えるところです。

しかしながら、私たちは何かしら目的がないとうまく生きていくことができません。目的を敢えて探すならば、大乗仏教的には「利他」ということになるでしょう。もう、それしかない。でも、利他行しなくても本当は問題なんてないんです。悪いことしてもいいってことじゃないですよ。自分のためだけに生きていても、他人に迷惑かけなければ問題ないと言えば問題ないですよね。大乗仏教的に言いましても、それを覆すだけの教理なんてないと思います。ただ、そうは言いましても、それだけでは無味乾燥な人生になりそうです。私たちは1人で生きているわけではないので、支え合いつながりのある命をいただいています。人のために何かしたくなるのはむしろ必然的であり、そうあるべき存在なのかもしれません。

利他とは「自利利他」と表現されることが多く、自分自身の利と他者を利することが同列に語られます。自利が先に来ているのは、私たちはいまだ自分中心のものの見方から脱することが出来ていないからでしょう。大乗仏教的には本来、利他のほうが先になります。そして最終的には自他平等となり、分け隔てがなくなるというわけです。私たちはこの自利と利他のはざまで思い悩むことも多いでしょう。自分を捨てるということは、なかなか出来ることではないからです。自分を欺くことはとても辛い。自利と利他がうまく融合することができれば、とても理想的な人としての生き方になるような気もします。私は会社勤めをしたことがありませんので、あまり勝手なことは言えない立場でもありますが、「自利利他円満」という言葉もあります。円は完全を意味しています。

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2019年09月03日

宗教と本能、その相反する側面から

宗教というのは、たいていは他者、そして人以外の命との関わりを説くと思います。一般的に言えば慈愛の心によって、可能なかぎり共存していこうという方向が見られることでしょう。しかし一方、人の本能的な側面を観察してみますと、生きることへの強い渇望が見られます。人という「種」を保存し、そしてなお「人」のなかにあっても、さらに自らに連なる子孫を残し、自己保全の存在性というものが明らかです。敢えて言えば、自己は他者よりも優先し、他者を押しのけても生き残ることが本能だと言えそうです。

不思議ですよね。こう考えますと、宗教というのは本能に背いている。本能というものが、大袈裟に言えば宇宙誕生からの原則であるとすれば、なんでその宇宙のなかにある人は、こうした宗教、つまり宗教心を持つように進化したのでしょうか。だからこそ人は偉大なんだなどと言うつもりは毛頭ありませんが、なんだかエラーしているかのようにも思えます。なぜならば、場合によっては宗教心というものが、人の覇権を制御するブレーキにもなるからです。なんでブレーキを持つことになったのでしょう。

私なりに考えてみますと、宗教心というものはリミッターのようなもので、ある程度進化した生命というものを、それ以上独善的に繁栄させないための装置なのではないかと思うのです。宇宙は可能性の宝庫でしょうし、1つの方向性だけで成り立っているわけではありません。多様性がなければ宇宙たりえず、独善的な存在というものは本来的には不要です。だからこそ、宗教心が発生するようになっている。多様性に気づかせるため、そういう精神作用が働くようになる、というのはどうでしょう。

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2019年07月22日

自分自身のこととして

この時期は7月盆と8月盆のあいだでご供養もひと休みです。例年わが家ではこの時期もしくは8月盆あとに海に行くのですが、今年は都合がつかず予定がありません。梅雨が長引いていますので良かったかもしれませんが、災害も多くなっているようで自分も気をつけないといけません。

ニュースの報道では悲しい事件事故が頻発しています。ニュースの見方には色々とあるでしょうが、少しでも自分自身のこととして写し見ていくことも大切かと思います。ニュースの世界はまるで向こう側ですが、実は同じこの世の出来事です。でも、なかなかそうは見ることが出来ません。私なんてまるで映画を見るかのようにニュースを眺めているときすらあります。

仏さまの慈悲のなか「慈」とは読んで字のごとく他者を慈しむことですが、「悲」は他者を悲しむということではありません。他者の悲しみというものを、自らにあてはめて同じように悲しむということのようです。今風に言えば悲しみの共有のようなことだと思われます。なかなか私には出来ることではありませんが、少しでも仏さまのあり方に学んでいきたいものです。

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2019年06月26日

自分という「意識」はどうなるのか

以前、たしか本ブログで死後を予想して書いていた際、今の自分という「意識」が、今まで輪廻転生してきた命のステージの意識になりかわり、あたかも代表するかのようにあればいいなと勝手に妄想しました。しかし、どうやらこれは大間違いであったと、最近は思っています。宇宙を感じればこそ、そんな自分に都合の良いことなんてあるわけないということに気づかされます。自分という「意識」は、本来の「命」へ還元されるはずです。

還元されるわけなので、自分という「意識」が消滅するわけではないでしょう。輪廻転生の一部に還るようなイメージでしょうか。「命」というものは際限がなく、私は宇宙と同じで繰り返しなんだと思っています。そういう意味においては命は宇宙そのものであり、これは『華厳経』の教えなのですが、相即しているというのが実際のところなのではないでしょうか。宇宙に還れば、今感じている苦悩なんていうものは苦悩ではなく、そういう苦悩もひっくるめて宇宙の営みなのです。たぶん

と言うことで、やっぱり自分という「意識」を今のように保持することは出来ないかもしれません。意識がなくなるのは怖いですよね。しかし、仏教的に考えても、そもそも成仏するということは、自分という「意識」がなくなることでもあるのです。「自他平等」ですから、他者と自分の区別のない絶対平等のあり方が仏です。これこそ宇宙に還るということであり、浄土とはそういうあり方の、この世から見たイメージなのかもしれません。阿弥陀如来とは宇宙そのものであり、その人格化なのです。

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2019年06月22日

シャアのセリフ

皆様、『逆襲のシャア』という映画をご存知でしょうか。ガンダム映画なのですが、本来は敵役であったシャアという人物がタイトルになっています。そのシャアがラストシーンに近いところで、本来の主人公であるアムロに向ってこう言います、「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と。ララァはアムロによって、アムロにとっては不本意ながら撃墜され亡くなっています。シャアはそんなララァに、自分の母親になって欲しかったようなのです。当時、やたらマザコンなやつだと思ったものです。

しかし今、ああ、こういうこともあるのかあと、30年以上たって感じています。


最近、やや参ってます。両親がともに病気になり、とくに母親は命に関わる重篤なようです。父は心の病気です。ただ私は大人になってから両親とはあまり反りが合わず、ここ数年に至ってはほとんど会話をしていません。近くに住んでいるのですが、こんなあり様だったのです。両親には感謝をしておりますが、色々とゴタゴタありましてなかば喧嘩状態、と言いますか、精神的にはもう絶縁状態に近かったのです。成人してからというもの、両親に振り回される日々でした。

両親は東京で私を生み育ててくれました。普通のサラリーマン家庭でした。中高時代は反抗期でしたが、よく理解をしてくれて誇れる両親でした。しかし大学生も半ばのころから、父は会社で左遷されたような状況になり、そのまま退職を待たずにアルコール依存症になりました。退職後はお寺に移住しまして、酒浸りのなか仏事を営んでいました。私との住職交代でもひと悶着あり、今でも父は周囲に私への不満をぶちまけているようです。依存症で住職を続けさせることは出来ず、お寺のことを考えて私が継職をしたわけです。

依存症の治療でも私は尽力したつもりですが、お酒をやめたあと、父は心の病になってしまったようです。母を罵ることも多く、最近では虐待のようなことに発展していたように見て取れます。母は不満を私にぶつけて来ましたが、いつの間にか認知症になってしまい、別の病気を発症して今に至ります。ここ数年はあまり交流もなかったことから、母が重篤であるという知らせを受けても、私自身、心の動揺はほとんどありませんでした。幼い頃は母親っ子で、学生時代も母を頼りにしていましたが、私の心もどうかしてしまったかのようです。

奇妙な感覚なのですが、私の両親はまだ東京の実家にいるような気がします。そこに帰れば普通に出迎えてくれそうな気がするのです。ただし、もう家はなくなっているので、やはり両親は東京で亡くなったんだとも思えてきます。じゃあ近所にいる今の両親は何なのかと言いますと、よく分かりません。不遜ながら偽物かとも思ってしまうほどです。なんだか相当いかれてしまったのかとも思うのですが、正直に書けばこんな感じです。堂々と発表するようなことでもないのですが、こういう状況もあるんだと言うことです。

母という存在が欠けることは辛いことです。私、母親っ子ですからね。

ここ数年は母を欠いていたような状況で、今、母が実際に重篤に陥り、それが実感できました。母がいるんだけどいないというような、気妙な感覚のなか過ごしてきたのです。私は家族に対してとても自分勝手なところがあり、こうあって欲しいという自分の思いを押しつけがちです。だからでしょうか、立派であった父がアルコール依存症になって堕ちていくのを目の当たりにするのは、とても辛い日々でした。それに伴い、慈悲深かった母も愚痴の塊のようになり、私はかなり困惑しました。

両親とはこうあって欲しいという、私の身勝手さが自分自身を苦しめています。両親だっていつも立派であるわけもなく、子だからと言ってそれを許せないというのは、あまりにも一方的すぎます。何事も自分自身に原因があります。相手が悪いのではなく、自分自身の心が相手をそう思い、勝手に苦しんでいるのが私たちの実際です。私もこうなっている両親を受け入れなければなりません。しかし、これはとても難しいことです。自分の心は自分の心であっても、うまく制御できません。仏教の修行は心の制御でもあるのです。

やはり、あまり自信が持てません。私は基本的に自信過剰なほうですが、今回ばかりは参りました。母になってくれるような存在がいないと、やはりダメなのかもしれません。とは言いましても、こんな私につき合ってくれそうな人はいないでしょう。仮にいたとしても、その人にはその人の人生があるわけですし、やはり無茶苦茶な話です。こういうところからも、自分自身の身勝手さを思い知らされます。心が弱っているときほど、人は身勝手になってしまうのかもしれません。なぜでしょう。

シャアは幼いころ両親を謀略によって亡くしており、その怨みを晴らすために生きてきた人物です。しかもエースパイロットであり、政治的にもかなりの力を持っています。自分の思い通りになることも多かったと思われます。私とは随分と尺が違うわけですが、そんなシャアでも母という存在は特別なものであったのでしょう。ガンダムではシャアの苦悩というものが描かれますが、結構勝手なところがある人物です。反対に主人公のアムロには母がいます。シャアが独善的なのは、母という存在の欠落が影響しているのでしょうか。

心の弱さとは何でしょう。逆に強さとは何なのでしょうか。最近の課題です。

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2019年04月07日

怨憎-その捨て方

仏教で説く「四苦八苦」のうち、2つは人間関係の苦しみになります。つまり「愛別離苦」と「怨憎会苦」で、愛しい大事な方との離別、そして怨み憎たらしい人と会わねばならぬことです。とても現実的です。お釈迦様もお悟りの前は悩まれたことがあるのでしょう。仏教ではこうした苦悩の解決策を自己に求め、苦悩を分解して原因を1つ1つ消去していく方法を編み出しました。原因にはすべて何らかの執着心が関与しています。大事だと思う心は清らかではあっても、過度の思い込みは苦悩につながります。憎たらしいと思う心も、都合の悪いものを排除したがる自己への執着心が見えてきます。

お葬式はまさに愛別離苦であり、ご遺族の方の苦悩ははかり知れません。これを即座に執着心として一括りにしてしまうのは暴論ですが、時間をかけて振り返って見ればそう思える時も来るのかもしれません。有限性のなかで生きているのが私たちですので、離別はやはり避けては通れない真理と言えるでしょう。

お葬式は非日常と言えますが、日常的には例えば彼女に振られたとか、そういう場面も愛別離苦であり、場合によっては非常な苦しみを伴います。純愛と狂愛は紙一重と言いますか、それを思わせるような事件が頻繁に起きていることからも苦悩の大きさを窺い知ることができます。また逆のことを言えば、怨憎会苦は日常的に嫌いな人と会わねばならないことの苦悩であり、むしろこちらのほうが日常性が高いと言えそうです。

私も怨憎会苦を持ち合わせています。仏教では怨み憎む心を捨てることこそ、怨憎に打ち勝つ唯一の方法だと説きます。これは一般的に言ってとても難しい。だから瞑想して心を落ち着かせる必要があります。日頃、掃除をしているとき、車を運転しているとき、注意力は必要なのですが思考は空いているような時間が結構ありますので、こういうときは瞑想に準ずることができます。苦悩をとらえ、苦悩の原因を探り、原因は消去可能であることを知り、それを実践することができれば、おそらく苦悩は消えていくわけです。しかし、何より難しいのが最後の実践です。四苦八苦などの知識を得た上で、瞑想によって最初の3段階までは意外と簡単に進めることが可能かと思います。

怨みや憎しみというものは、言い換えれば自己都合に不適合な部分の排除です。排除しなければ都合を押し通すことが出来ないので、自然に排除する方向に向かうのでしょう。もしかしましたら、生命の生存競争ということと関係があるのかもしれません。根が深そうです。

捨てるのが一番なのですが、捨て方ですよね。捨て方が難しいんだと思います。普通の生活をしながら、どうやって捨てれば良いのでしょう。むしろ、持ちながら捨てるということにヒントがあるかもしれません。私も悩んでいます。

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2019年02月15日

宇宙の流れに還る

あの世はあると思います?

私は多分何かしらあるんじゃないかと思っています。とか言って、坊さんとしては極楽浄土なんですが、これも敢えて言えばそう名づけているだけで、世間的な言い方に過ぎません。私は浄土真宗で言うところの、浄土へ還るって言い方がとても好きなんですが、私たちはどっかへ還るんですよ。でも、それはこの宇宙と無関係なところではなく、次元は異なるかもしれないけど宇宙のどこかに関係していると思うんです。仏教では因果応報と言いますが、因果というのは関係性であって、関係性は絶対に継続し続ける。継続すると言うけれど、それは私たちが普段感じているような直線的な時間においてではなく、円になってつながっている。過去や未来というのは直線的なイメージにすぎず、円であれば過去は未来で未来は過去になる。命はおそらく、こうした宇宙の根源的で無限な流れに還っていくのではなかろうか。

私の命は、今、私なわけですが、私じゃないときもあり、無数に宇宙のなかで生きてきている。それはこれからも無限に続いていくわけで、還っては往き、往っては還る。還るまでの過程がどうなっているのかは分からない。幽霊がよく出るらしいけど、幽霊だってもしからしたら何らかの過程であって、何かの間違いで見えてしまっただけにすぎないかもしれない。システムにエラーはつきもので、エラーと修正を繰り返している。幽霊はエラーのたぐいかもしれない。しかし、幽霊が妙に人の姿であったりするのは、どうも変だなあ。私という個性はデータとして命に残るだろうけど、それを私というステージが終わっても表示する意味はまるでない。還るわけだから。やはりそこは生きている人のイメージであって、極楽浄土などの描写と同じように、世間的なイメージなんだと思う。経典は言葉で表現されるものなので、どうしても世間を超えることは出来ない。

私は宇宙であり、宇宙は私なのではなかろうか。一即一切、一切即一、という言葉があるけど、まさにその通りで、私自身が宇宙なんだという発見が仏教にはあるのでした。そして、宇宙は成、住、壊、空を繰り返している。この無限な繰り返しに私は還るのではなかろうか。

宇宙の流れに還るのが死ぬってことなんでしょう。ただ、還るっていうのも世間的なイメージです。

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2019年02月12日

前世と来世‐解脱‐

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/

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2019年01月28日

2月法話会お休みのお知らせ

2月法話会は都合により休会といたします。申し訳ございません。次回は3月3日(日)午後2時からとなりますので、お参りをお待ちしております。 合掌

住職 伊東昌彦
posted by 伊東昌彦 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge