2019年02月15日

宇宙の流れに還る

あの世はあると思います?

私は多分何かしらあるんじゃないかと思っています。とか言って、坊さんとしては極楽浄土なんですが、これも敢えて言えばそう名づけているだけで、世間的な言い方に過ぎません。私は浄土真宗で言うところの、浄土へ還るって言い方がとても好きなんですが、私たちはどっかへ還るんですよ。でも、それはこの宇宙と無関係なところではなく、次元は異なるかもしれないけど宇宙のどこかに関係していると思うんです。仏教では因果応報と言いますが、因果というのは関係性であって、関係性は絶対に継続し続ける。継続すると言うけれど、それは私たちが普段感じているような直線的な時間においてではなく、円になってつながっている。過去や未来というのは直線的なイメージにすぎず、円であれば過去は未来で未来は過去になる。命はおそらく、こうした宇宙の根源的で無限な流れに還っていくのではなかろうか。

私の命は、今、私なわけですが、私じゃないときもあり、無数に宇宙のなかで生きてきている。それはこれからも無限に続いていくわけで、還っては往き、往っては還る。還るまでの過程がどうなっているのかは分からない。幽霊がよく出るらしいけど、幽霊だってもしからしたら何らかの過程であって、何かの間違いで見えてしまっただけにすぎないかもしれない。システムにエラーはつきもので、エラーと修正を繰り返している。幽霊はエラーのたぐいかもしれない。しかし、幽霊が妙に人の姿であったりするのは、どうも変だなあ。私という個性はデータとして命に残るだろうけど、それを私というステージが終わっても表示する意味はまるでない。還るわけだから。やはりそこは生きている人のイメージであって、極楽浄土などの描写と同じように、世間的なイメージなんだと思う。経典は言葉で表現されるものなので、どうしても世間を超えることは出来ない。

私は宇宙であり、宇宙は私なのではなかろうか。一即一切、一切即一、という言葉があるけど、まさにその通りで、私自身が宇宙なんだという発見が仏教にはあるのでした。そして、宇宙は成、住、壊、空を繰り返している。この無限な繰り返しに私は還るのではなかろうか。

宇宙の流れに還るのが死ぬってことなんでしょう。ただ、還るっていうのも世間的なイメージです。

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2019年02月12日

前世と来世‐解脱‐

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/

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2019年01月28日

2月法話会お休みのお知らせ

2月法話会は都合により休会といたします。申し訳ございません。次回は3月3日(日)午後2時からとなりますので、お参りをお待ちしております。 合掌

住職 伊東昌彦
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2019年01月02日

本年もよろしくお願いいたします

皆様、本年もよろしくお願いいたします。かつて私が坊さんなりたて20代の時分、浄土真宗では「良いお年を〜」とは言わんのだ(→年に良いも悪いもないから)、とある先生が仰っていたのを拝聴しました。ついでに「あけましておめでとう」とも言わん(→新年になってもめでたいことはないから)、とのことでした。若い私はなるほど、素晴らしいこれこそ仏教なのだと合点したものです。たしかに良し悪しというのは自分自身に帰属するものなので、良い年や良い日があるわけではないというのは実に仏教的です。

そのせいもあるのか、今でも年内はどうも挨拶に困ってしまうときがあります。年末はたいてい皆さん「良いお年をお迎えください〜」ってなるので、そうなると20代の刷り込みが効きまして、思わず「あっ、有難うございます」と適当な返答になってしまうのです。間違ってない返答ですが気が利かないですよね。浄土真宗ってのは傍から見ると髪の毛フサなので軟弱な印象を受ける方もいるかもしれないのですが、意外と教えには頑固なところありまして、妥協は許さぬという、何とも厳しい掟のようなものがあるのかないのか。

クリスマス頃にディズニーランドに行きましたら、出会うキャスト出会うキャスト(→ディズニーランドではスタッフをキャストと呼ぶのだと女房から伝授)、皆さん「ハッピーホリデー」と声を掛けてくれました。昔は違ったかと思います。数年前からなのかもしれませんが、今回はとくに印象深かった。これは長年アメリカにおられた先生から教えてもらいましたが、「メリークリスマス」だとキリスト教徒だけなので、他宗教の人々に配慮してクリスマス休暇でも使用されるようになった挨拶だそうです。ディズニーはアメリカン。

挨拶でも色々と宗教事情が関係してくるもので、やっぱり宗教は生活に深く関わっているものなんだなあと思います。そもそも「挨拶」だって仏教、とりわけ禅で使われていた言葉ですし、こういうのもっと発信していかないとわけわからなくなってしまう。「挨拶」は相手の心を見極めるという意味だったかと思うので、実は返答こそが大変重要なわけです。なので年末での上記のような私の返答では、何だか適当な返答だなあと思われることとなってしまい、修行が足りんということになるでしょう。

一般的には「良いお年を〜」と同じ言葉を返すのが穏当なわけですが、仏教的には「良し悪しなし!」とかいきなり返答すれば良いのでしょうか。多分、相手の方は焦りますよね、気に障ること言ったかなって。かつて臨済の山田無文老師がある講演会の質疑応答か何かで、「あの世はどんなところでしょうか?」と尋ねるおばあちゃんに、いきなり「ない!」と返答したとの逸話を聞いたことがあります。おばあちゃん焦ったろうなあと思いますが、禅としてはたしかに「ない」なんですよね。諸々の存在というのは、人が普段使っているところの「ある・なし」ではないからです。

とは言ってもねえ、もちろん老師もその後フォローされたと思いますが、返答ってのは大事だもんだなあというのが「挨拶」の本義から窺い知ることが出来ます。で、「良いお年を〜」に対する返答はと言いますと、浄土真宗としては相手の気持ちを有難くいただき、「有難うございます」と答えつつ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を添えるのがひとまず穏当でしょうか。うまい返答が見つかりません。浄土真宗の場合、「南無阿弥陀仏」がオールマイティ性を発揮してしまうので、言葉は悪いですが面白味に欠けるかもしれませんが、教えにも適っているとは思います。

私たちは、良し悪しとは本来、自分自身に帰属するものであるにも関わらず、それを年や日のせいにしているところがあります。今年は良くない年だからとか、そんなのまともに考えればあるわけないことです。でもなあ、どうしても責任転嫁したくなりますよね。何でも自分でしょい込むのは辛い。それが現実なんだと分かったときはもっと辛い。「一切皆苦」と仏教では説きますが、ああ、ほんと苦しいこと多いなあと40代も後半になってつらつら思います。阿弥陀仏という仏様は、もとよりこんな私たちを救うためにいらっしゃるので、だからこそ阿弥陀仏におまかせしましょう、ということで「南無阿弥陀仏」なのでした。

あなたにとって「良い年」になりますように、という意味を含んだ「良いお年を〜」という挨拶ですが、実のところ嫌いではありません。仏教的にはちょっとなという側面もありまして、このように考えてみたくなったわけですが、何とも日本人的な奥ゆかしさがあり心地よい響きだと思いません?

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2018年12月24日

年末は宗教ラッシュ

今日はクリスマスイブですね。私、クリスマス大好きなんですよ。世代なのか分かりませんが、もう無性に嬉しくなってしまう。サンタさんにプレゼントもらったからでしょうか。親には感謝しないといけません。そして不思議なことに、クリスマスが終わると一気に日本は大晦日〜お正月。この変わり身の早さは日本的だなあと感心します。キリスト教、仏教、神道、年末には色々な宗教が登場して面白いですよね。こういう催事は楽しみたけりゃ楽しめばいいし、嫌なら無視していれば過ぎていくものです。テレビなんか見なけりゃいいわけですから。まあ、街中の雰囲気は如何ともし難いですが、そこはまあ我慢しましょう。

ただ、宗教の本質はもちろんこうした催事化した部分ではないわけで、人生のいつか、それがいつかは分かりませんが、宗教が必要なときが誰しもあると私は思います。理性だけでは行き詰ってしまうときなんかも、やはり宗教は必要なんだと思います。日本の公教育には宗教が原則的にはないから、宗教は宗教施設や家庭などで教わらないといけない。宗教っぽものは溢れている日本なんだけど、どうも深入りしないのが日本人的感覚なのでしょう。畏怖の念というやつかもしれません。さらぬ神に祟りなしとも言えるでしょう。宗教は大事だけど、ある程度の距離を取っておきたいなあという心情かと思います。祟り怖い。

それもまあいいとは思いますが、宗教にはせっかく人生の歩みに役立つような思想があるのだから、ちょっとぐらい拝借したほうがいいかと思います。仏教だって除夜の鐘やるでしょう。あれは煩悩ってのを打ち消すためだと言われるけど、煩悩ってのは何なのか。どうやら皆にあるようなもので、あまりよろしいものではない。自分自身のものなんだけど、それが自分自身を苦しめているという。なんともまあ人間というものは矛盾極まりないものだということが分かります。煩悩は簡単には捨てられず、だから毎年、除夜の鐘が開催されるのでしょう。自分で自分を苦しめているのだ、というのは多くの伝統宗教で説くところかもしれませんね。

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2018年10月15日

漠然とした不安によって

40代は精神に異常を来しやすい年代のようですが、とても良く分かる話です。私自身、親に育ててもらい独立し、有難いことに子にも恵まれ頑張ってきたつもりです。しかし、漠然としたことなのですが不安を感じます。順不同で簡単に言えば、仕事の成果が若い頃より出ないこと、今までと同じように家族を養っていけるのか、そして、両親をどう介護していけば良いのか、とても不安です。おそらく多くの方が、漠然とした不安を抱えていらっしゃることでしょう。

幸い坊守の両親は心身ともに健康ですが、私の母は週2回デイサービスに通っています。調子が良いときは犬の散歩に外出しますが、悪いときは記憶も錯綜してしまうほどになります。母と話をした叔母から聞いたことなのですが、ちょうど調子が悪いとき、母は叔母に「今、お薬師さまの隣に引っ越してきたの」と言うらしいのです。「お薬師さま」とは中野の新井薬師のことで、母の実家は新井の隣にある上高田です。今は善福寺の境内に住んでいるわけですが、部屋から善福寺の山門が見えるので、それを「お薬師さま」と勘違いしているようなのです。

一方、父はアル中治療以降、精神的にとても不安定になってしまっており、私もうまくコミュニケーションが取れません。実のところ、私自身も父のアル中治療に付き合うなか、精神的にかなり参ってしまったところがあります。それから父と話をすることが苦痛になってしまい、母のことも、なかばほったらかし状態であったのです。父は母につらく当たることも多かったようで、母の状態が悪くなった要因になってしまいました。気づいたときには軽い認知症になっており、今に至るというわけです。

両親の介護について、知識としては色々と触れる機会もありました。しかし、こうして現実になってきますと、気持ちをうまく軌道に乗せることが出来ません。とくに父とはアル中のことで長年対立してきた経緯もあり、心に引っ掛かったものを取り除くことは至難の業です。心というものは、やはり積み重ねなんだなあと改めて思います。仏教では「業(=自分の行いとその影響)」は蓄積していくもので、それが原因となって次の結果をもたらすとします。自分のしてきたことや考えというものは、一朝一夕で心からなくなるものではなく、いつか何らかの結果を出すため、心にちゃんとしまい込まれてしまっているのです。

私たちが意識している「私」は、仏教的に言えば心の表面に張り付いている膜みたいなものです。対外的には「私」があたかも心の統括者のように顔を出しているのですが、それは心の核から派生した一部に過ぎません。膜である「私」は心をちゃんとコントロールすることなんて出来ないわけです。出来ることと言えば、可能なかぎり心を良い状態と接するようにし、心の自浄作業を促すことぐらいでしょうか。「私」は能動的にいらないものを取り除くことは出来ないので、そう仕向けることに努めることになります。それが仏道修行です。自力だろうが他力だろうが、やってることはどちらも同じです。

家族のことをブログに書くことには批判もあるかもしれません。両親には申し訳ないと思いつつ、坊さんだってこうした不安や悩みを抱えているということ、自責の念を持ちながら書きました。これからどうすれば良いのか、まったくもって不安です。この不安っていう気持ちは、多くの問題行動を引き起こす原因にもなります。不安は恐れを生みますし、恐れによって人は意固地になりがちです。意固地になりますと他者とのコミュニケーションがうまく取れなくなることもあるでしょう。不安とは安心ではないということで、とても居心地の悪い感覚ですよね。

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2018年10月05日

善福寺能のお知らせ

今年も善福寺能の季節となりました。10月27日(土)午後5時30分より、善福寺本堂におきまして開催いたします。一般の方はお一人様3000円となりますので、お電話でご予約のうえ、当日お納め下さい。

≪ 経 正 ≫
平家の公達経正は一の谷の合戦で、弟の敦盛を庇って逃げ遅れ、自刃して果てる。経正が幼時を過ごした仁和寺ではこれを悼んで、嘗て経正に預け賜って置かれた名器青山の琵琶を仏前に手向け、管弦講(音楽葬)で供養する。深夜、経正の幽霊が幻のように現れ、弔いを喜んで手向けの琵琶を弾き、しばしの夜遊を楽しむが、戦死者の宿命として修羅の苦患を受ける姿を恥じて灯火に飛び入って消え失せる。

開催要項
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2018年08月20日

自我を抑え込むのは苦しい

お盆も無事終了しまして、少々気が抜けたような感じです。それにしましても、本当にお盆が終わると秋ですよね。空気が変わるというか、朝もとても涼しく気持ちの良い日が続いています。私は夏生まれなので基本的に夏好きなのですが、おじさんになってからは秋好きになってきました。冬が近づき、やや鼻から吸う空気にも冷気が漂っているような状態が好きです。しかし多くの子供たちにとっては、あまり早く秋になってしまうと残念は思いが募るばかりかもしれませんね。これから親御さんが夏休みというご家庭もあるでしょうし、せめて夏休み中は夏らしく。そんな思いも同時に沸き起こってきました。

ところでわが家は、小学生・中学生・高校生と3人の子供に恵まれました。高校生は大学受験も近いので、今夏から少しづつ勉強を始めています。学校の成績は超低迷ですので、あまり上位は狙えそうにはありませんが、自分で進路を決めて欲しいと思っています。小学生は上の二人と同じように宗教系の学校に入れるのか、まだ進路は検討中ではありますが、一応、勉強はしているようです。カリキュラムを間引きながらですので、上の二人に比べれば緩いかもしれません。そして、一番ヒマなのは中学生です。部活動も文化部なので、かなりヒマなようで、終日ゴロゴロしていることもあります。数日前は2日間で『あしたのジョー』を全巻読破していました。読み終えていきなりシャドーボクシング。インドアな性格なので、まあこれはこれで良いのかもしれませんが、私以上のもやしっ子になっていると思います。

わが家はお寺ということもあり、おそらく一般ではないところもあろうかと思います。私は先代がサラリーマンでしたので、お寺では育たず、ごく一般的なサラリーマンの息子として生まれ育ちました。だから分かるのですが、やはりお寺で生まれ育つと、当たり前ですが「お寺の子」になりました。浄土真宗の場合は誰かにお寺を継いでもらわないと困るので、結構お子さんを育てることに神経を使うこともあるでしょう。私はとくに一般人なので、むしろ力が入り過ぎてしまったところがあるかもしれませんが、それぞれの子にどういう学校が合うのか、かなり考えて進学をさせたりしました。奏功しているかは分かりませんが、親から見て上の二人は進学先の友人とうまくやっているように見えるので、ひとまず安心しています。ただし結果的に見まして、親の思惑通りというよりは、ラッキーであったところもあったかもしれません。

子供にとりまして、学校というのは家庭と同じぐらい重要な社会です。ここが合わないと厳しい。大人はある程度、自分で居場所を見つけることが出来るわけですが、子供はそうはいかず、決められた場所にちゃんといないとダメってことになりがちです。多くの場合、多少問題があっても何とかなるんでしょうが、何とかならない場合、子供は困ってしまうことでしょう。勝手に転校するわけにはいきませんし、基本的には我慢を強いられるということになります。

「我慢」ってのは元々は仏教用語で「慢心」のような意味合いです。現代的にはむしろ逆に「忍耐」という意味で使われていますので、正反対になってしまったようです。しかし、この現代的な我慢というものには限度があるわけで、それを超えれば爆発してしまう可能性を孕みます。それは自我を抑え込んでいるからでしょう。仏教的には抑え込むのではなく、消していかねばなりませんが、それは厳しい修行によってようやく達成されるほど難しいものです。「慢心」と聞きますと悪いイメージですが、これこそ自分自身だとも言えるわけで、自分自身を抑えることほど苦しいものはないでしょう。苦しんでいる子供は大勢いるのです。

大人になれば苦しい状況でも奮起せねばならないことがありますので、学校での苦しみもそのトレーニングなのだという考えもあるでしょう。半分ぐらいは私も同調しますが、しかし上記のように、子供は大人に比べて自分自身で苦しみから逃れることが難しい状況にあります。トレーニングなんだという考えだけで子供に我慢を強いるのは、はっきり言って無茶苦茶だと私は思います。つまり、こうした状況に子供を置くことになる現代的な教育環境そのもの自体に、大きな欠陥があるのではないかと思えてきます。なんだか箱のなかに適当に子供を入れて、蓋をしておしまい、というような大雑把さを感じてしまいます。そんな大雑把でいいのか!?

私は今、「適当」という言葉を使いました。「いい加減」という意味での使用です。しかし字義からするならば、本来は「ふさわしい」という意味合いが強いはずです。「適して」、「当たって」いるわけですから、当然だと思います。子供の教育においては、この本来的な意味で「適当」な環境が与えられるべきではないでしょうか。とくに10歳ぐらいを超えたあたりから、子供には随分と自我や個性が育ってきます。中学にもなって皆で同じようにっていうのは、そもそも無理がある発想なんじゃないかと。多くの中学生が夏休みも運動部で汗を流すなか、『あしたのジョー』をかなり真剣に読んでいるわが家の中学生、そして、今朝のニュースでは同学年の子が自ら命を絶ったかというニュース。どのような背景があったかは分かりませんが、夏休みが終わる前ということを考えますと、学校の事柄が無関係ではなさそうです。学校であっても家庭であっても、教育は常に個々を伸ばすものであってもらいたいと切に願います。

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2018年08月08日

人とマシーン

8月もそろそろ本格的にお盆の季節になってきました。8月はとりわけ日本人にとりまして追悼の意味合いが深い季節とも言えます。6日には役所からの通達で原爆投下時刻に梵鐘を突きました。その数日前でしょうか、投下した飛行機の乗務員の手記が発見され、原爆が炸裂して安堵したというような内容であったかと思います。とても複雑な思いがいたしました。軍人としては重い任務であったかもしれず、命令に従うのは当然と言えるのでしょう。しかし、その命令も含めてその任務によって、一瞬にして老若男女、多くの生命が奪われてしまったことには思いを馳せることがなかったのかもしれません。退役後には悩まれたこともあったことでしょう。こう考えますと、人が人に命令をするという行為自体、人の存在という観点からしますと大きな問題を孕んでいるということに気づかされます。

お釈迦様は天上界からこの世にお生まれになられた際、「天上天下唯我独尊」と説かれたそうです。この世に命を与えられるということは、その命が何よりも尊いことを示しており、それは誰であっても独尊性が認められるものでなければなりません。他者に蹂躙されて良いわけはなく、皆がそのことを認識していなければ、この世は無茶苦茶になるだろうという説示だと思います。

他者を思い通りに動かせることに魅力を感じる人もいるでしょう。歴史を振り返れば、暴君はいくらでも存在していました。権力にしがみつく輩というものは、こうした麻薬のような快楽に溺れているとしか思えません。いつの時代も、そしてこれからも人間の本性が変わることはないでしょう。私にも、おそらく誰にでもこうした欲望はあるかと思います。しかし、蹂躙されて良い命なんてないんだ、という思考を持つことが出来れば、ちょっとはマシになるかもしれません。人は思考を捨ててしまえば、ただのマシーンになってしまいます。

やや飛躍しますが、映画『ターミネーター』シリーズにおいても、人とマシーンの違いという事柄がテーマの1つになっていました。他者に思いを馳せるということ、主体的に思考するという行為が人であり、それは肉体か機械かという構造的な問題ではない。裏を返せば、人であってもマシーンになってしまう可能性が大いにあるということのようでした。

今年はとくに暑いようですので、皆様お気をつけてお過ごし下さいませ。今日もお盆参りに出かけて参ります。

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2018年07月26日

四論の講説さしおきて

(本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものです)

 『高僧和讃』第二十二首

浄土真宗本願寺派総合研究所東京支所 委託研究員 伊東 昌彦 

「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし」

 ご讃題は七高僧のお一人であります、曇鸞大師についてのものです。曇鸞大師は現代の中国・山西省のお生まれで、南北朝時代(五世紀から六世紀)にご活躍をされました。他力と自力とを明確に分けられたことで知られ、中国浄土教の礎を築かれました。非常に博識な方であり、仏教のみならず道教にも精通していたと言われます。仏教の学問では「四論」と呼ばれる『中論』・『百論』・『十二門論』・『大智度論』を極められ、その上で浄土教の実践をされました。孤高の学僧というよりは、巷間で浄土教を広め、大師のもとには大勢の信者さんが集まってきたということです。

 四論は大乗仏教の空思想を論じたもので、同じく七高僧の龍樹菩薩が深く関わっている論書です。空思想はすべての存在には固定的な実体というものがなく(=空)、刻一刻と変化をしていると考えます。私たちはさまざまな物事に執着してしまいますが、空思想によるならば、もとより執着をするような実体はないということになります。執着をすることは自分を苦しめるので、それを諌めるために空思想は展開していきました。空であることを体得することにより、本当の涅槃に至ることができると大乗仏教では説いたのです。

 しかしながら、曇鸞大師はこの空思想についての講義を、集まった信者さんへただ聞かせていたわけではないようです。大師の考える空思想とは、浄土教の実践に組み込まれているものであり、あくまでも阿弥陀如来のご本願をいただくことにあったからです。私たち凡夫の執着するところは、私たちの生死についてのことが最も大きいでしょう。身体は滅びゆくものであり、刻一刻と死へ向かっているのが私たちです。空思想によるならば、身体へ執着することは意味のないことです。すなわち、この世を去ったのち、必ずお浄土へ参らせていただくからには、もはや身体への執着は無用となりましょう。
 
 四論の学問は難解ですが、ご本願にはその真髄がすべて含まれています。大師は難解な講義をされるよりも、より実践しやすい方法、つまり本願他力を明らかにして下さったのです。四論の文言に向いますと、思わず退いてしまいそうなほどではありますが、阿弥陀如来の浄土教において導いて下さったことは、大きなご恩であるとしか言いようがありません。また、中国の南北朝時代より千五百年の時を超えまして、曇鸞大師の教えが今ここに、私どもの手元に届いているということ、『高僧和讃』をお作りになられた親鸞聖人へのご恩も忘れてはなりません。浄土真宗の日々の生活は報恩感謝です。少しでもご恩に報いることができるよう、有難くお念仏申したいものです。

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2018年07月07日

永代供養墓のご案内

善福寺・永代供養墓「アーユス廟」のご案内

一般的に「お墓」というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。かつては土葬でしたが、戦後は今のように遺骨を納めるタイプが主流となりました。時代とともにお墓も変わっていきます。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺では、しっかりご供養をしたいのだが、諸事情により一般的なお墓を持つことが難しいという方に向けまして、比較的費用のかからない永代供養墓「アーユス廟」をご用意しております。アーユス廟は合葬タイプの永代供養墓で、多くの方々とご一緒にご供養させていただく方式です。合葬対応のため、費用を抑えることができているのが特徴です。また、年会費もかかりませんので、維持のご負担もごぜいません。

供養費用・・・お一人様 15万円

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

宗教法人善福寺
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2018年06月16日

四論の講説さしおきて

(本稿は「やさしい法話」へ寄稿したものです)

「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし」

ご讃題は七高僧のお一人であります、曇鸞大師についてのものです。曇鸞大師は現代の中国・山西省のお生まれで、南北朝時代(五世紀から六世紀)にご活躍をされました。他力と自力とを明確に分けられたことで知られ、中国浄土教の礎を築かれました。非常に博識な方であり、仏教のみならず道教にも精通していたと言われます。仏教の学問では「四論」と呼ばれる『中論』・『百論』・『十二門論』・『大智度論』を極められ、その上で浄土教の実践をされました。孤高の学僧というよりは、巷間で浄土教を広め、大師のもとには大勢の信者さんが集まってきたということです。

四論は大乗仏教の空思想を論じたもので、同じく七高僧の龍樹菩薩が深く関わっている論書です。空思想はすべての存在には固定的な実体というものがなく(=空)、刻一刻と変化をしていると考えます。私たちはさまざまな物事に執着してしまいますが、空思想によるならば、もとより執着をするような実体はないということになります。執着をすることは自分を苦しめるので、それを諌めるために空思想は展開していきました。空であることを体得することにより、本当の涅槃に至ることができると大乗仏教では説いたのです。

しかしながら、曇鸞大師はこの空思想についての講義を、集まった信者さんへただ聞かせていたわけではないようです。大師の考える空思想とは、浄土教の実践に組み込まれているものであり、あくまでも阿弥陀如来のご本願をいただくことにあったからです。私たち凡夫の執着するところは、私たちの生死についてのことが最も大きいでしょう。身体は滅びゆくものであり、刻一刻と死へ向かっているのが私たちです。空思想によるならば、身体へ執着することは意味のないことです。すなわち、この世を去ったのち、必ずお浄土へ参らせていただくからには、もはや身体への執着は無用となりましょう。

四論の学問は難解ですが、ご本願にはその真髄がすべて含まれています。大師は難解な講義をされるよりも、より実践しやすい方法、つまり本願他力を明らかにして下さったのです。四論の文言に向いますと、思わず退いてしまいそうなほどではありますが、阿弥陀如来の浄土教において導いて下さったことは、大きなご恩であるとしか言いようがありません。また、中国の南北朝時代より千五百年の時を超えまして、曇鸞大師の教えが今ここに、私どもの手元に届いているということ、『高僧和讃』をお作りになられた親鸞聖人へのご恩も忘れてはなりません。浄土真宗の日々の生活は報恩感謝です。少しでもご恩に報いることができるよう、有難くお念仏申したいものです。

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2018年06月13日

新幹線の事件の報に触れて

新幹線の事件で亡くなられた方は、長男が通う学校の先輩でした。Men for others,with othersを校訓にする、キリスト教カトリックの教えによった学校です。とは言いましても、信仰が強要されることはまったくなく、キリスト教に基づいた倫理教育をしている学校というほうが正確かもしれません。長男は寺の息子なわけですが、宗教は強制されるものではなく、自覚的に身につけていくものだと思いますので、学校選びの際にはとくに気にしませんでした。奇異に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、今のところ優れた倫理教育を行っている学校であると感じており、大変満足しています。

仏教では利他行が重んぜられまして、自己よりもまず他者を優先的に悟りへ至らせることの重要性が繰り返し説かれます。これは多くの宗教で説かれることでしょうが、やはりキリスト教でも大切にしている事柄のようです。しかし今回の事件の報に触れまして、利他行の重みを再確認させられると同時に、今一度その意義について考えさせられました。他者を思う気持ちがなければ、この社会は滅茶苦茶になってしまいます。その点で利他は社会的に必須な精神ではありますが、自己存在と直接対比したとき、本能的になかなか越えることの出来ない一線があるのも事実です。簡単に言えば、この事件のような状況において、自己が犠牲になる可能性のある行動は誰にでも出来ることではありません。また、個人としては可能でも、家族を思えば難しいというのは誰でも感じることでありましょう。

仏教では捨身供養と言いまして、お釈迦様の前世を語る際、自らの肉体を犠牲にして他者を救われたお姿の描写が多くあります。教えとして、これはどういった意義があるのでしょう。単に極端なレアケースを示して印象を深めようとしているだけなのか、それとも皆がこのように生きねばならないという啓示なのか。とても難しいテーマではありますが、1つ言えることは、とてもじゃないけど自分には出来ない、と思うと同時に、そんな自分であっても、どうやって利他の精神で生きていくことが出来るであろうか、と思考を重ねていくことは誰にでも出来そうだということです。教えというものは、何事も自分自身に引き寄せて思考してみるということにこそ、本来的な意義があるからです。

長男にお風呂のなかで事件についてどう思うか聞きましたが、まずは「あんなことしないほうがいい」と返してきました。しかし、彼の行動で他の乗客の方々へ被害が広がらなかったとしたらどうか、と再度尋ねたところ、何やら湯舟で考え込んでいました。Men for others,with othersの後輩として、長男にも自分自身の問題として思考してもらいたいと思います。先輩から後輩へ、Men for others,with othersが伝わってくれれば、子を学校に通わせている親として嬉しいかぎりです。

毎日、たくさんの事件が起きます。倫理観が薄くなっている昨今、日本の社会はどのような方向へ向かっていくのでしょうか。公立の小学校中学校でも道徳が教科になるようですし、倫理・道徳が軽んぜられない社会であることを願ってやみません。

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2018年05月17日

ロータリークラブ

小田原北ロータリークラブという団体に入会しておりまして、今期は執行部になっております。たまたま会長がお休みでしたので、私が例会の挨拶を行いました。はじめてでしたが、なんとか役を果たすことが出来たかと思います。以下、こんな話をしました。

本日は会長に代わりまして挨拶をさせていただきます。南足柄市で教育委員を昨年11月から拝命しております。保護者枠ということで、PTA会長をしていたからだと思いますが、今までも住職が就任することはあったようです。まだ就任してから日が浅いのですが、多少気になることも出てきましたので、お話したいと思います。昨今、勉強の出来る子とあまり振るわない子の差が開いているようで、教育委員会でも学力の引き上げに意識を注いでいるようです。たしかに、私がPTA会長をしているときも、そう感じることはありました。これは何故かと言いますと、地域によって事情は異なるとは思いますが、日本経済が振るわないということも一因ではなかろうかと思います。ある校長先生が仰っていましたが、地域の工場が撤退すると、一気に学校が荒れだすことがあるそうです。保護者が職を失いますと、家庭環境に直接影響を及ぼします。勉強どころではないという状況に陥ることは容易に想像が出来るでしょう。ロータリアンは職業奉仕が大切です。会社経営というものが、実は地域の教育にも関与しているということ、教育委員を通じて知り得ることが出来ました。これからも頑張っていきたいと思います。

以上です。ちなみに、ロータリークラブというものは、自分の職業を通じて社会奉仕をしていくという理念があります。仕事がそのまま奉仕活動なんだという発想だと思います。古来、西欧では神父や牧師はもちろん、医師、教師、弁護士などの職業も、神からの使命によって果たされるべき職種だと考えられていたそうです。その精神をすべての職種に広げようということで、使命感をもって仕事に臨むことが求められているわけです。

日本はキリスト教文化圏ではありませんので、宗教的な使命ということになりますとイメージが湧きにくいことではありますが、これを日本的な共生の精神に置きかえることも出来るかと思っています。つまり、日本では神仏もふくめ、すべての命が共存しているのだと考えることが多いでしょう。共につながりのあるなかで生きているわけで、自分の行いが他者にも関係してくるということであれば、よりイメージははっきりとするのではないでしょうか。これこそが日本的な「使命」とも言えるかもしれません。

ロータリークラブは宗教団体ではありませんので、それぞれの信ずるところで解釈して良いでしょう。私はこのように考えています。

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2018年03月10日

ずいぶんと頭のかたい幽霊話

以前もアップした原稿ですが、関連するもの3本をくっつけてみました。今月25日(日)に築地本願寺でちょっとだけ話をする機会があるので、その叩き台にしようかと思っています。


「幽霊と出会ったら ‐びっくりしない心構え‐」


前世と来世 ‐輪廻‐

今日は仏教から見た幽霊の話をしたいと思います。オカルト的なものではなく、仏教の経典や論書にその根源を訪ねてみます。はじめに、輪廻の話を少しいたしましょう。

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。サラッと言いましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。

前世と来世 ‐他力‐

仏教の歴史は2500年もあります。解脱の方法も様々に考案されました。日本にも宗派がたくさんありますが、違いはその方法に基づいているとも言えます。お釈迦様は瞑想によって解脱されましたので、瞑想するということが基本的な方法になります。しかし、瞑想というものは短時間ではあまり成果がなく、ある程度の長さと繰り返しが必要です。人にとりまして、同じことの繰り返しというのは面白いとは言い難いでしょう。スポーツ選手は練習を繰り返すわけですが、かなりの忍耐が必要なことは言うまでもありません。仏教でも忍耐は瞑想とともに修行の重要事項になっています。

念仏でありましても、たとえば何万回もとなえるという話もあります。たしかに念仏は短時間でどこでも出来るものですが、何万となると大変です。なぜ何万回という数字になるのかと言えば、これもやはり忍耐というものが課せられているからでしょう。それだけ頑張ったということなのだと思います。しかし、頑張れない場合はどうなるのでしょうか?

皆が等しく頑張れるのであれば、そもそも宗教なんて必要ありません。宗教の本質というものは、「頑張れない場合はどうしましょう?」というところ、つまり、人の本来持つ弱さを包み隠さぬところに由来します。勉強と同じことで、クラスの皆が等しく優秀であるならば先生は必要ありません。小中高の先生にとって大事なことは、クラスのなかの落ちこぼれを引き上げていくことでしょう。先生は多様な方法を示して生徒を導く存在です。仏教で言えばお釈迦様。お釈迦様は私たちの弱さを見抜かれ、たくさんの経典(説法)を残されました。出来の悪い生徒でも歩んでいけるような方法も含まれています。

その経典の1つに『無量寿経』というものがあります。簡単に言いますと、阿弥陀如来が上記のようなあまり頑張れない人々を救いとるという内容です。阿弥陀如来はお釈迦様のような先生という立場ではなく、むしろ母親のような存在です。こちらの出来具合の良し悪しに関わらず、むしろ出来の悪い私たちこそ救いの目当てとされるのです。このはたらきを他力と言います。

私たちは大海原で溺れかけているような存在です。実はそのまま力を抜けば浮かぶのですが、どうしても自分だけの力で何とかしようとするところがあります。阿弥陀如来はそんな私に対しまして、私が何をしようとも大海原のように大きく包んで下さいます。修行もままならず、死に向って恐れおののく私であっても、そのまま極楽浄土へ参らせていただけるのです。皆、母なる国土へ還っていくわけです。

宗教には救いが必要です。仏教は自分自身を厳しく観察することを要求すると同時に、こうした救いをテーマにもします。他力は解脱の方法の1つとして考えて良いものです。阿弥陀如来にすべてを任せるような思いに包まれるということは、言い換えるならば、真に自分自身の出来の悪さに気づかされたということでもありましょう。それでもなお、この世にいる限りは迷い続ける私たちですが、命尽きると同時に迷いも霧散し、解脱の境地に至ることが出来るというわけです。業の蓄積と発動は停止され、これ以上輪廻することもなくなります。この世での私という「意識」がどうなるのかは分かりませんが、おそらく大雑把に言えば、迷いの私ではない本来の私に還っていくのでしょう。それがどういうものなのかは、私には分かりません。いずれにしましても、他力によって生かされているのが私という存在であるようです。

幽霊はいるのでしょうか?

ここまで前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬み、そして何らかの心配事が中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。心配事であっても、これは何らかへの執着が原因となっているので、やはり煩悩に属していると言えます。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方、または何らかへの執着心というものが、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

なお、幽霊話というものには、必ずと言っていいほど尾ひれがついていると思います。ゾッとするように増幅されている。たとえば、いわゆる「成仏できない状態」にある幽霊が、「お〜い、お経でもあげて成仏させてくれ〜」と言わんばかりに出てくる。たいてい夕方から夜でしょう。あまり爽やかな午前中はない。まったく先入観なく、その場所に行って何かを感じるというのは、やはりどうも、都合の良い発想なんじゃないかと思います。先入観があるから見えるわけで、事件や事故があったとか、そう聞かされると感じるものあるでしょう。この感じというものは、仏教的に言えば外部的なものではなく、つまるところ内部的、すなわち自分自身の心の動揺である恐怖です。それが何かしら現出し、目の前に現象をもたらすのが幽霊であり、この現出・現象が明確な人はしばしば幽霊を見ることになるでしょう。

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心、執着心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

最後に、幽霊という存在は、仏教的に言えば自分自身への学びです。いきなり現れればビックリするものですが、認識できるものはすべて、私の心から出てきた存在なのです。
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2018年02月23日

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

本稿は教区関連の仕事で用意しているものです(末尾を少し改訂しました)。

仏教と貧困問題 〜ジョン・ヒックの言葉から

<ジョン・ヒック>
宗教多元主義を提唱した宗教哲学者ジョン・ヒックは、仏教をキリスト教と比較して、「仏教のほうははるかに平和的であり、宗教戦争をひきおこすようなことはなかったが、貧困や社会的不正との戦いにはしばしば失敗してきた」と言う。

ヒックは宗教について、真理へいたる信仰というものは、それぞれの土地や文化に基づいた相対的なものであると見る。つまり、たとえばキリスト教であれば、その他の宗教がキリスト教に包括されるということはなく、人や地域によって多元的に併存するとする。簡単に言えば、それぞれの宗教には良い側面もあれば、悪い側面も必ず存在する。絶対的に正しい宗教というものは、あり得ないとするのである。

<民主主義>
冒頭に掲げた言葉は、「キリスト教は富とその富が可能にする財の創造を刺激促進することに貢献したが、不断の暴力と迫害の記録によってひどく汚されてもいる」という言葉に対応している。キリスト教は資本主義の蓄財には貢献したのだが、それは数々の差別の上に成り立っている。一方、仏教はこうした差別を生み出すことはなかったが、現実的な社会問題に向き合ったとき、教理的に極めて無力であった、ということだ。

また、ヒックは仏教やヒンドゥ教について、その「彼岸性」が社会的・経済的・技術的進歩を遅らせていると指摘する。たしかに、日本が近代化して西欧なみの富を手に入れたのは仏教の貢献ではなく、むしろ西欧的な民主主義を模倣した上に成り立っている。そして、これはキリスト教と密接なつながりがあるのだから、日本はヒックの指摘するような、キリスト教の功罪を受け入れたことになるかもしれない。

<インド仏教>
彼岸である涅槃に対して、此岸は迷いの真っ只中である。貧困など社会的問題は、すべて迷いの果ということになる。しかし、仏教では自業自得に基づいた還元主義的観察によって、より根源的な個人の煩悩根絶に目が向けられてきた。仏教は自己変革には積極的であるが、社会変革には無関心に近い。仏教のテーマは個人的問題に終始する。これは場合によっては、社会という果への諦め、厭世主義へと陥る因子を孕んでいる。

<浄土教>
大乗仏教において浄仏国土という考えが出てくるが、これは唯心思想によっている。自らの心が浄ければ、自から国土も浄くなるという考え方であるので、此岸の浄化に着目しているわけではない。この世界で心を浄めることができなければ、やはり極楽浄土など、別次元の彼岸に望みをかけることとなる。浄土教は原意的に見て、こうした彼岸性の典型であると言えるだろう。

<社会への関与>
仏教が貧困や社会的不正との戦いで失敗してきたということについて、ヒックが具体的に何を指しているのかは分からない。しかし、仏教に「彼岸性」はたしかに存在し、上述のような論理によるならば、貧困や社会的不正に対して、なかなか行動原理を導き出せないのも事実である。

日本仏教には先祖供養という「生業」があるが、それは本来、仏教の本道とは言い難い。先祖供養を抜きにしてもなお、社会に働きかけるだけの根拠を持ち得るのか、今、日本仏教は大いに試されていると言えよう。

<浄土真宗>
本願寺教団は、専如ご門主の「仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです」というご親教をいただき、ヒックの言うような「彼岸性」を乗り越えていく可能性を得た。凡夫ではあっても、自他平等に生きようとすることは可能であり、その結果として、貧困等の社会的問題にも関わっていくことができるだろう。

おそらく「仏さまのお心」というお言葉には、阿弥陀如来の慈悲心が含まれていると考えられる。慈悲とは他者を慈しみ、また、同じ立場となり悲しみを共有していくことである。『歎異抄』には「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々」とある。ご門主の仰せは、お念仏を申した先のあり方、つまり、私たち凡夫の歩み方をお示し下さっている。浄土真宗の慈悲は阿弥陀如来のご本願であり、それこそ「彼岸」からの妙用である。お念仏申しご本願をいただくことにおいて、「少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指」すことが出来るのではあるまいか。

(註略)


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2018年01月26日

今年も捨てられそうにありません

私は結構ネチネチしていまして、後ろ向きなことの多い性格です。過ぎ去ったことの記憶は無意識のうちに取捨選択されるものですが、どうも捨てられないようなのです。う〜む、たしかに昔のおもちゃとか、とにかく執著心があって捨てられません。何か勿体ないなあとか、何か得なことあるかもとか、また、そもそも思い出に縛られて捨てることが出来ないのです。そしてまた、こう書いていても、なお決して捨てようとは思っていません。重症です。

小学校や中学校での出来事を大人になってから頻繁に思い出します。自分の失敗とか、恥ずかしい出来事とか、何故か後ろ向きなものばかり思い出すんですよ。困ったもんです。楽しいことや嬉しいことも、そりゃ思い出しますが、嫌なことを思い出すことのほうが多いように感じます。なんでかな〜と考えてみましたところ、これは恐らく私の性格に原因があるようです。私、敢えて言えば「こうあるべき論者」なところがあるので、多分それでしょう。

たとえば勉強。結局、勉強はあまり得意にはなりませんでしたが、小学校4年生頃までは優秀なほうだったと思います。もちろん、その後に猛烈に抜かされるのですが、脳だけは早熟だったのかもしれません。また、勉強以外でも小学校では絵や作文はやたらと得意で、よく区の展覧会などに出展されていました。つまり、大人からよく褒められる子だったわけですね。性格も荒っぽくはないので、まあ、いい子ちゃんだったわけです。

しかし、10歳を過ぎたあたりから伸びていかない。周囲の期待は分かるんだけど、どうも才能がなさそうで、しかもそれほど努力家でもない。自分のなかで「こうあるべき」なのに〜、という思いだけが増幅していたのかもしれません。どうしようもないです。高校で諦めました。ま、こんなもんかなって。しかし、それでマイペースに生きることが出来るほど器用ではなく、やっぱりどこか人より秀でていたいという欲求と、それが達成されないことからのジレンマは尽きることなく、今に至るわけです。

性格、つまり心というものは、とにかく厄介です。劇的に変化することはない。仏教的に言えば、すべての行為やその影響の蓄積が心であるからです。蓄積されたものは、自分の意思で捨てることは難しい。自分の心の奥底まで、普段の意思で触れることは出来ません。生まれながらの性格もあることでしょう。しかし、仏教的に言えば、それも前世からの蓄積によって成り立っている性格となります。捨てるということは、とにかく難儀なことなのです。

自分の失敗や恥ずかしい出来事を思い出すというのは、「こうあるべき」自分とかけ離れた現実であったからでしょう。納得できないので捨てられない。いつまでも蒸し返すわけです。こりゃ死ぬまで、いえ、行為やその影響の蓄積は来世に持ち越されるので、一気に解脱できないかぎり、来世でも同じことの繰り返しでしょう。治るもんじゃありません。

(ああ、一気に解脱できる浄土真宗で良かった。)

裏庭に納屋がありますが、そこはもう、私や兄が幼い頃に使ったもの、まだ段ボールに入ったままなんですよね。今年こそ、きれいに片づけようと思っています。ただ、片づけていますと、つい懐かしくなり、古い漫画を読みだしてしまったりするので、まあ、無理でしょう。

ダメなものなダメでいいので、当分このままですね。
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2017年12月30日

明日は除夜会です

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ようやく除夜会の記念品が出来そうです。今年は少しデザインを変えました。

除夜会は明日12月31日、午後11時30分からお勤めとなります。
お参り下さい。合掌


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2017年11月22日

経論の教えから『維摩詰所説経』(のこす記憶.com)

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

経論の教えから その5 『維摩詰所説経』巻上

煩悩を断ぜずして涅槃に入る

仏教では基本的には煩悩を消し去ると言いまして、あまりよろしくない欲望はなくしていくことを目標にします。これは簡単に言えば貪りの心であったり、怒りの心であったり、また、物事を自己中心的に見てしまう心のことです。あれも欲しいこれも欲しいでは、いつになっても落ち着きません。怒ってばかりいては、楽しいこともつまらなくなってしまいます。自分勝手に振る舞っていては、気づけば周りには誰もいなくなってしまいます。こんな簡単なこと、誰でも分かっていますね。

誰でも分かっていること、これを何とかするのは本当に難しいことです。裏を返せば、難しいからこそ、誰でもそりゃそうだと頷けるのでしょう。こうした心がなくなれば、たしかに平穏な生活を営むことが出来そうです。煩悩はよく火に譬えられまして、それがすべて消えた寂静な境地を涅槃と言うのです。涅槃とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。本来的には火が吹き消された状態を指す言葉です。

ニルヴァーナと言えば、40代ぐらいの方ですとロックバンド「NIRVANA(ニルヴァーナ)」を連想されるかもしれません。バンド名はサンスクリット語から取ったのでしょう。なかなか良いセンスをしています。曲もかなりカッコよかった。しかし、中心人物のカート・コバーンという方は悩みが多かったようで、歌詞は内面的で分かりづらいところもあるように思えます。苦悩を多く感じる方であったからこそ、仏教に言うニルヴァーナ=涅槃という境地に惹かれたのかもしれません。敢えて言えば、消え去りたいという願望であったとも考えられるでしょうか。

ただ、ロックは煩悩そのものです。煩悩の発露こそロックという表現であると言えるでしょう。煩悩を直接ぶつけるから良い曲が出来るわけです。そして、そもそも表現はすべて煩悩であるとも言えるので、いかに芸術性が高いものでもやはり煩悩を消し去ることは出来ないでしょう。表現という過程において、自己中心性がまったく消えることは考えにくいことです。なぜならば、表現とは取りも直さず自己発現であり、自意識を完全に捨てた表現というのはあり得ないからです。涅槃とは究極的には仏の境地であり、それは自他平等であるとも言われます。自と他との区別はもはや存在しません。愚かな自己中心性こそ、煩悩の根源であると言えるのです。

とまあ、いきなり堅苦しい話になってしまいましたが、煩悩とはかなり手強いものだということが分かるかと思います。それで今回の法語ですが、「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」とあります。なんだ、言っていること全然違うじゃないかとなりますが、涅槃は決してどこか遠いところにあるわけではありません。煩悩と涅槃とは裏表みたいなものです。涅槃を探し求めて旅をしたところで、どこか遠くにあるというイメージではありません。煩悩まみれの今、そのままこそが涅槃であるのです。これは意外と簡単な話で、他でもない私自身の心が煩悩で曇っているため、今ここにある真理に気づくことが出来ないというわけなのです。そもそも煩悩を消すことことに拘ること、これもまた煩悩であるので、実はあるがまま、そのままであることこそ、真理であると言えるのです(これこそが難しいのですが)。

ロックというものは頭で聴くのではありません。聴こえるまま、そのままでないと自己中心性が入りこんでしまいます。煩悩を煩悩のまま、そのまま受け入れるのです。これは表現者にも言えることで、心をそのままストレートに表現できれば、自己中心性を消し去ることが出来ることでしょう。こうした意味において、やはりロックは生、すなわちライブで聴くことこそ、表現者と聴聞者との一体感のなかで自己中心性は消えていくのだと思えます。ロックは表現である以上、涅槃とは異質のものではありますが、敢えてこう考えることも出来るかもしれません。

NIRVANAのカート・コバーンは涅槃の境地に到達できたでしょうか。私はきっとできたと思います。彼が亡くなったのは、94年の4月5日だそうです。

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2017年11月03日

お逮夜に「水無月祓」

明日は善福寺報恩講のお逮夜です。鎌倉能舞台の中森貫太先生に舞っていただきます。5時頃から法要を修行しまして、お能は午後5時半始まりとなります。「水無月祓」です。

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今日は本堂をお能仕様にしました。出来れば薪能が良いのですが、セットも大掛かりとなりますので本堂能です。スペースの関係上、ご本尊を背にしてしまうのが残念なのですが、それなりに格好をつけてみました。

皆様、明日は是非お参り下さい。
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