2022年11月19日

【LIVE】善福寺の大銀杏

善福寺の大銀杏をライブ配信しています。落葉から黄葉、そして芽吹きの様子が1年を通じて感じられるかと思います。毎日見ているとあまり変化ありませんが、たまに見ていただけますと変化を見て取れるかと思います。

【LIVE】善福寺の大銀杏(神奈川県南足柄市)A large ginkgo tree at Zempukuji Temple in Minamiashigara , Kanagawa , Japan
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ

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2022年11月09日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2022年11月06日

『御伝鈔』下巻第三段「弁円済度」

尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。

今回は『御伝鈔』のなかでも有名なシーンとなりまして、山伏の弁円(べんねん)が登場いたします。皆さん、山伏のイメージはどんなでしょう?頭には頭襟(ときん)をかぶり、体には六つの房のついた結袈裟(ゆいげさ)をし、手には錫杖(しゃくじょう)や法螺貝(ほらがい)を持っている。歌舞伎で演ぜられる武蔵坊弁慶が分かりやすいかもしれません。天狗の姿も山伏スタイルに似ています。ただ、実際には何をしている人なのか、お坊さんなのかそうではないのか、意外と謎が多いなあと感じられる方もいらっしゃるでしょう。そこでまず、山伏について簡単に説明をしてみます。

山伏は日本古来の山岳信仰の行者であり、仏教伝来以前から存在していました。深山に籠ることにより自身の霊力を高め、それによる衆生救済を目的としています。祟りなどを鎮める役割も担っていたことでしょう。仏教伝来によって、とりわけ密教による修行体系が取り入れられ、加持祈祷を行う理論も整備されました。こうして確立された宗旨を修験道(しゅげんどう)と言い、山伏は修験者とも呼称されます。『御伝鈔』でこの後出てくる「箱根霊告」の舞台、箱根山も修験道の霊山であり、親鸞聖人在世当時において、山伏は意外と身近な宗教者であったことがうかがえます。なお、弁円はお坊さんでありましたが、山伏は仏教以外の系統に属している場合もあります。

山伏の弁円は、親鸞聖人が滞在された稲田草庵に近い筑波山を拠点にしていたようで、おそらく周辺の方々の信望を得ていたのでしょう。そんな弁円にとりまして、京都から来たとはいえ、新参者であるにも関わらず人々の信望を得ている親鸞聖人は、目障りな存在であったかもしれません。信者を横取りされてしまうのではという疑心にかられ、弁円は親鸞聖人に道端で危害を加えようと策謀します。しかし、なかなか遂げることができず、奇異に思いながら直接草庵に押しかけたのでした。

さてさて、草庵の玄関で出て来いと尋ねた弁円ですが、親鸞聖人は構えることもなく、自然な出で立ちで迎えられました。そのお顔を見られた弁円の心からは、たちどころに害す心が消えたそうです。そのうえ後悔の涙も流したそうですので、親鸞聖人のお顔は光り輝きまさに如来のようであったのでしょう。深山に籠り修行することは難儀なことですし、弁円にも日頃の悩みが多かったと思います。親鸞聖人に悩みを打ち明けられました。これこそ回心であり、真実の教えにめぐり遇えた瞬間です。弁円は浄土真宗に帰しまして、親鸞聖人から法名を明法(みょうほう)といただき、弁円改め、ここに明法房として門弟に加わったのでした。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2022年10月21日

宗教から見える日本の人

日本では一神教(唯一の神)の宗教はあまり定着していません。多神教(たくさんの神)や汎神教(森羅万象はすべて神の現れ)のほうが日本の人には合うのでしょう。ワントップの神様に導いてもうらうというのは、どうもしっくりこない。神も仏も人も、その他の生きものや自然も共に存在する、つまり、折り合いをつけてある程度うまく日常生活を送るということのほうが重要なようです。温暖湿潤な気候に加え、豊かな農産物や水産物に恵まれ、島であることから歴史的に外敵の脅威が比較的少なかったことも影響していると思えます。唯一神による強力な救済信仰はあまり必要とされなかったとも言えそうです。

こうした事情は宗教のみならず、生き方自体にも影響を与えているかもしれません。周囲と折り合いをつけるという生き方です。日本の歴史を振り返るならば、英雄的で強力なリーダーっているかなあ。大統領制よりも内閣制のほうが合っていそうですし、皆で決めた事を皆で一丸となって一所懸命に行うというのが、個人的には日本の人という感じがします。まあ、これは私の感覚なので、バブル時代のサラリーマンを子どもながら眺めてということではあります。ただ、序列よりも和ということであれば、多くの方が漠然とではありますが理解されることでしょう。これは明らかに欧米の人とは異なる生き方かなと思えます。社長が異様とも思える高額報酬を得るというのも、なんかしっくりきません。

今、日本では働き方の変革が叫ばれています。不当な扱いは当然一掃されるべきですが、人を成果のみで計測して配置するやり方は日本で定着するでしょうか。私は懐疑的です。能力ある人を引き上げることにはもちろん賛成ですが、短期的な成果を狙う傾向が強まると周囲の和を乱します。言い換えれば、組織よりも個人が重要という価値観に陥りやすく、全体として成果を上げてきた上記のような生き方とは乖離していきます。果たしてこうした生き方を日本の人々は出来るのでしょうか。なんだか上手くいかず、余計に生産性が落ちていくような気がしてなりません。大丈夫なのだろうか。

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2022年09月05日

【LIVE】善福寺の大銀杏

善福寺の大銀杏をライブ配信しています。落葉から黄葉、そして芽吹きの様子が1年を通じて感じられるかと思います。毎日見ているとあまり変化ありませんが、たまに見ていただけますと変化を見て取れるかと思います。

【LIVE】善福寺の大銀杏(神奈川県南足柄市)A large ginkgo tree at Zempukuji Temple in Minamiashigara , Kanagawa , Japan
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ

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2022年09月03日

宗教家は謙虚でありたいものです

宗教の定義というのは宗教学者によって様々かもしれませんが、簡単に言えば生死についての信仰だと思います。生まれる前とか、死んだ後とか、人知を超えたところまで及ぶ情感です。信仰は理性的には思い込みの類かもしれません。情感ですから。しかし重要なことは、信仰は強要されるものではないということです。言い換えれば、誰でも手前勝手に信仰すべきでありで、脅された挙句、信じ込まされるようなことがあれば、それはもう信仰ではありません。

伝統的な日本仏教でありましても、時代によっては地獄のあり様を過度に説いて恐怖感を煽ったり、女性は罪深いからとか根拠のない妄言を宣布した一味もあり、宗教として大きく逸脱したこともありました。はっきり言いまして、地獄の詳細な様子なんて人に分かるはずもありませんし、性によって罪が増すとか意味不明です。これは単なる脅しです。脅して信じ込ませるというのは、現代的には強迫罪ですとか詐欺罪に当たります。宗教ではありません。

宗教家は謙虚でありたいものです。人に強いることがあれば、もう宗教家ではなくなります。人には抑止力が必要なときもあるので、地獄という存在はこの世で罪を犯さないために意味があります。でもよく考えてみれば、地獄に落ちるか落ちないかの判定は宗教家がするものではありません。それは人それぞれの行為によっています。宗教家がそんなこと分かるはずもありません。全部チェックしているわけじゃないんですから。宗教家がいい加減なこと言っちゃいけません。地獄の閻魔様は怖いから、嘘つくんじゃないぞ、っていう方向性が正しいのです。抑止ですから。

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2022年08月31日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
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2022年08月06日

神なき知恵は

私はタロウ〜レオ世代ですが、セブンが大好きです。今でもよく見ています。ベル星人が登場する回のラストシーンで、キリヤマ隊長が「神なき知恵は知恵ある悪魔をつくることなり。どんな優れた科学力を持っていても、奴は悪魔でしかないんだ」という言葉を隊員に言い聞かせます。この言葉は玉川学園創始者でもある小原國芳先生のもので、この回の金城哲夫監督は玉川学園出身とのことです。

ここ神奈川西部で生まれた二宮尊徳翁の言葉にも、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」というものがあるそうですが、倫理的に通底していると思います。神と道徳は異なりますが、それらがもたらす倫理観は共通していると私は思います。

ベル星人は宇宙を自由に行き交うかなりの高等生物なので、人の倫理とは異なるかもしれませんが、ベル星人にもベル星人なりの倫理はあったことでしょう。なので隊長の言葉は少々厳しいかと思いますが、ベル星人を抜きにしてその言葉だけに当たってみますと、むやみやたらと科学を使うべきではないという教導を得ることが出来ます。たとえば科学は原子爆弾等も生み出しました。正確に言えば人が科学を使って生み出したわけですので、使用者の倫理が大きく問われることは明白です。

経済にも同じことが言えます。経済はそもそも「経世済民」ですので、単なる拝金主義ではありません。世のため人のためになってはじめて経済であり、人の営みとして意味あることになります。科学も経済も人の営みです。そこに倫理がなければ、キリヤマ隊長の言うように悪魔を生み出すことになりますし、二宮尊徳翁の言うように犯罪を生み出すことにもなります。倫理とは、人と人との間にある真理です。真理は普遍的でなければなりません。しっかりと人のためになっているのか、人のためであっても偏った利益になっていないか、偽善的や恣意的なものになっていないか、日頃からチェックする必要があります。

今日は広島に原爆が投下された日です。今でも世界では戦争が続いていますし、戦争の火種もたくさん存在しています。権力の座にある者こそ、倫理をしっかりと保持してほしい。

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2022年08月04日

『御伝鈔』上巻 第七段「信心諍論」

「源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。」

仏教は古来、仏道と呼称されることが多かったようです。仏教という表現はむしろ新しく、明治時代以降に定着したとも言われます。他にも書道、華道、芸道、剣道、柔道など、道のつく言葉はいくつか見られます。それぞれお師匠さまから長く指導を受け、技術の伝承のみならず、その技術を通して高い精神性を獲得することを目指しています。ただ、お師匠さまに届くのはそう簡単なことではなく、同門と比べて自分の到達度はどうなのか、いろいろと気になるものでしょう。今回のご讃題も引き続き『御伝鈔』からいただきましたが、法然聖人門下においても、仏道修習の到達度について話題になったことがあったようです。

『御伝鈔』によりますと、ある時、法然聖人門下において、思いもよらない言い争いが起きました。信心について親鸞聖人が、ご自身の信心は法然聖人の信心とかわらないと言われたことに対し、ある同門が異議を唱え、親鸞聖人へ詰問したところから始まります。その同門からすれば、お師匠さまの信心とかわらぬとは何事か、なんと生意気なことを言いおって、と腹立たしく思ったことでしょう。信心が自分自身の修練によって得られるのであれば、それもうなづけます。しかし、法然聖人の仏道は本願他力の浄土門ですので、私たちが阿弥陀如来の本願をいただき、たまわりたる信心でお浄土へ参らせていただくものです。自力で信心を獲得するのではありません。

親鸞聖人は詰問に対して、「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。」と回答されました。他力信心、すなわち阿弥陀如来よりたまわりたる信心であるから、そこに「わたくし」の力量は関係ないと言うことです。だからこそ、「(法然)聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信(=親鸞聖人)が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と続けられました。法然聖人の信心も親鸞聖人の信心もたまわりたる信心です。ひとしく、かわらないのです。

ちょうどその時、同座されていた法然聖人が仰いました。とても温厚なご性格ですので、おそらくその場をうまく取り持たれたことでしょう。「信また各別なり」とのことで、信心にもいろいろあると仰せです。自力の信心もあれば、他力の信心もあるのです。他力の信心とは凡夫が阿弥陀如来からたまわる信心であるからこそ、ご讃題にあるように、お師匠さまである法然聖人(=源空)の信心も、お弟子さまである親鸞聖人(=善信房)の信心も、少しもかわることなくひとつだと教えられました。詰問した同門たちは舌を巻き、口を閉じてしまったということです。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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2022年07月23日

【LIVE】善福寺の大銀杏

毎日とても暑いですね。蓮鉢は2日で干上がります。ただ、この時期は落葉がなく、境内清掃は比較的楽であると言えます。お盆に向けての除草作業が大変ですが、落葉がないので負担は減ります。銀杏が気持ちよさそうに風になびいています。朝はほのかな風が気持ちいいですね。

善福寺の大銀杏をライブ配信しています。落葉から黄葉、そして芽吹きの様子が1年を通じて感じられるかと思います。毎日見ているとあまり変化ありませんが、たまに見ていただけますと変化を見て取れるかと思います。

【LIVE】善福寺の大銀杏(神奈川県南足柄市)A large ginkgo tree at Zempukuji Temple in Minamiashigara , Kanagawa , Japan
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ

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2022年06月22日

永代供養墓のご案内

善福寺の永代供養墓は1名様15万円(合葬)からとなります。ほかにも夫婦墓タイプ(個別墓)の永代供養墓もございます。ご供養には様々なお悩みがあろうかと思います。善福寺ではどんな些細なご要望にもお応えいたしますので、ご遠慮なくご相談いただければと思います。下記は永代供養墓の詳細となります。

善福寺永代供養墓
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

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2022年05月27日

嫌な思い出どうすれば

嫌な思い出って誰にでもあるかと思います。大失敗ですとか、人間関係のこと、心身を傷つけられたとか、様々あろうかと思います。私もあります。昔のことなので忘れたいのですが、現在進行形の別件と関係していたりしますと、事あるごとに思い出してしまいます。私は結構過去へ執着してしまう性分なので、とくに困ります。

仏教的に落ち着いて考えてみますと、嫌な思い出にかぎらず、よい思い出であっても、過去における自分自身の思考や行動は、すべて心の深層に「結果」として植え付けられています。それは未来の思考や行動を生み出す「原因」にもなり、あたかも「種」のようなものです。何らか別のはたらきかけがあると「発芽」します。急に思い出すということは、意識的であれ無意識的であれ、何らかの「きっかけ」があるから思い出してしまうのです。

では、発芽しないようにするにはどうすればよいのでしょう。

種を引っこ抜くことは出来ないので、水をやらない、日光にあてない、栄養になるものを与えないということが方法として考えられます。私は小学生時代の朝顔栽培がうまくいかず、なぜか仲間の種よりも発芽が遅かったので、こっそり家から肥料を導入したところ勢いよく発芽したという経験があります。つまり、肥料(→「きっかけ」)をやらなければ発芽はもっと遅れたか、もしかしたら、そのまま発芽しなかった可能性もあるかもしれないのです。

原理としては以上です。

ただし冒頭にも書いたように、現在進行形の別件と関係していますと、自分が思い出さないようにしていても、それが「きっかけ」となって思い出してしまうことがあります。たとえば昔ふられた彼女を忘れたくとも、なぜか仕事の取引先が彼女の居住地のご近所だったりすると、これはもう不可抗力です。勝手に思い出してしまうでしょう。悲惨です。

じゃあどうすれば良いのか。

境内清掃は住職の特務なので草むしりをよく行うのですが、草を見ていますと、やはり強い草が残っていきます。とりわけドクダミです。意外と可愛い花が咲くのですが、とにかく強靭な根っこを持っていますので、近くの弱い草を駆逐して勢力を広げていくわけです。なお名前は強烈ですが、薬草として重宝されていたこともあったようです。

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これと同じ原理で考えてみますと、彼女にふられたこと(嫌な種)を多い出したくなければ(→発芽させたくなければ)、新しい彼女、それも昔の彼女よりも自分にとって満足できる子(嬉しい種でかつ強靭)とつき合えば(→新しい植えれば)問題解決です。昔の彼女のほうが良かったなあとか、そんなんじゃダメです。

あたり前すぎてアホみたいな話に思えるかもしれませんが、心に植わった種というものは、そうそう除去することが出来ません。執着をなくす厳しい修行によって種を除去、というか植わっている部分そのものをひっくり返すことは可能ですが、普通に生きているだけでは無理でしょう。であれば発芽しないように仕向けていくしかないのです。

大失敗であれば、それ以上の成功を目指す。心身を傷つけられた相手がいるならば、自分が相手よりも人格的に大きくなるよう精進する。彼女にふられたならば、もっと可愛い彼女を見つけるようにする。とまあ、平易な言い方になりますが、前向きに生きていくしかなってことかもしれません。

これはベストな方法ではありませんが、生きている上ではベターな方法だと思われます。

それだけ過去の思考や行動の「種」は厄介なものなのです。

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2022年05月25日

築地アカデミー〜「正信偈」を読もう・学ぼう

先日、築地本願寺の築地アカデミーで、「正信偈」についての講義を受け持ってきました。最初に特別法務員の山本英哲師による読み方の実技解説があり、その後、私が依経段と言いまして前半部分の内容を解説しました。関東では「正信偈」はマイナーでしょう。メジャーは『般若心経』かな。

私もかつて地元仏教会の行事で読経する際、導師が「はい、心経一巻」と言われるなか、経文も記憶していないしそもそも読経したことないので、後方で一人ゴニョゴニョしていたのを思い出します。

正信偈は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』によく似ていますが、親鸞聖人がよりブラッシュアップされた印象で、さらに浄土の教えが明確化されています。声に出して読むのみならず、ひたすら「正信偈」の内容を勉強すれば、浄土真宗のかなり深いところまで理解できることでしょう。

皆様も是非ご参加ください!

https://tsukijihongwanji.jp/lecture/tsukijiacademy/

ちなみに次回は9月のようです。

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2022年05月12日

『御伝鈔』上巻 第三段「六角夢想」

「救世(くせ)菩薩はすなはち儲(ちょ)君(くん)の本地(ほんじ)なれば、垂迹(すいしゃく)興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。」

ご讃題は『御伝鈔』の「六角夢想」の段になります。親鸞聖人が京都の六角堂に参篭されたあと、振り返って語られた仰せとなります。六角堂で聖人は救世菩薩から夢告を得られ、世俗のなかで仏法を広める決意をされます。出家のできない凡夫がそのままで救われる道、浄土真宗のみ教えを広めるため、ご自身も結婚をして在家生活を送られたのです。救世菩薩は六角堂のご本尊であり、観音菩薩のことを指しています。六角堂は聖徳太子のご建立で、ご本尊の観音菩薩像は太子の念持仏であると伝わります。親鸞聖人は太子を日本における教主として尊崇されており、教えを乞うために参篭されたのでしょう。

この「六角夢想」では救世菩薩の夢告が肝要なのですが、今回は救世菩薩と聖徳太子、そして阿弥陀如来の関係についてお話をいたします。浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊としますが、お寺の本堂には聖徳太子のご絵像も脇に掲げられています。しかし、救世菩薩はおられません。これはどういうことなのかと言いますと、仏教の考えには、本地(=本体)としての如来や菩薩は、人々を救うため世間に仮のお姿になって垂迹(=出現)される、というものがございます。ご讃題もこの考え方に立脚しておりまして、救世菩薩は儲君、すなわち聖徳太子の本地であり、仏法を興隆させるため、聖徳太子ご建立の六角堂でその尊容を示されたというのです。

聖徳太子は救世菩薩が世に出現されたお姿であり、それはつまり観音菩薩であるということです。親鸞聖人は観音菩薩から夢告をいただくことにより、ご自身の歩みを大きく進められました。と言うことは、浄土真宗のお寺のご本尊も六角堂と同じく、観音菩薩であってもおかしくはないようにも思えます。しかし、そうではありません。

『無量寿経』には観音菩薩は阿弥陀如来のもと「最尊第一」と説かれます。言うなれば、観音菩薩は阿弥陀如来の一番弟子なのです。観音菩薩が尊容を示されたということも、それは阿弥陀如来のはたらきによっています。『御伝鈔』ではご讃題に引き続き親鸞聖人の仰せとして、「今の行者、錯(あやま)りて脇(きょう)士(じ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」ともございます。つまり、観音菩薩は聖徳太子の本地でありますが、さらに阿弥陀如来が観音菩薩の本仏であるということになるのです。観音菩薩や聖徳太子は脇において崇めるべきであり、礼拝するご本尊はあくまでも阿弥陀如来ということになります。仏教ではたくさんの如来や菩薩が説かれますが、こうした関係を知っておくと理解が深まります。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)



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2022年03月05日

家に帰って家族や友人と話そう

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境内では遅めの梅が咲きました。老木ですが毎年とても綺麗です。

仏教、とりわけ唯識仏教では人の存在とは煩悩なのだと説きます。煩悩があるから命があるのです。言い換えれば命とは煩悩そのもの、と言うことにもなり得ます。煩悩が消えれば自分も仏です。消すためには聞薫習(もんくんじゅう)と言いまして、仏教の教えを聞くことがスタートとなります。それは聞・思・修とも言いまして、聞いて、思考して、実践する、と段階を踏んでいきます。

煩悩は貪り・怒り・愚かさの3つに代表されます。なかでも愚かさは無明(むみょう)と言いまして、煩悩すべての根源となります。光明がないのです。自分自身の問題点を直視する智慧がありません。だから人のものが欲しくなったり、人の行為に怒ったりします。ものがなくなれば恐怖し、他者の存在にも恐怖し、恐怖のあまり攻撃的になります。嫉妬や傲慢も煩悩です。

一方、命は煩悩そのものですが、煩悩があるからこそ皆でこうして出会うことが出来ました。奇妙な言い方になりますが、煩悩がなかったら自分も存在しませんし、家族や友人、好きな人と出会うこともなかったわけです。煩悩は根源的にはそりゃ悪いものなのですが、あるからこそ皆と交流して話を聞くことができ、それによって自分自身の問題点に気づかされていきます。

人の話を聞かなくなると煩悩は増大していきます。恐怖は猜疑心を生みます。聞薫習によって煩悩は花にもなりますが、花を蹴散らす暴力にもなります。家に帰って家族や友人の話をよくよく聞くべきです。攻撃するのではなく、聞くのです。唯識仏教においては、他者も自分自身の一部として受け取ることが出来ます。話を聞かないということは、自分自身の声に耳を貸さないということにもなります。

独裁者はいつの時代も無明の体現者です。智慧がありません。聞かないからです。

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2022年02月08日

親鸞聖人御消息第二十一

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

先日、自坊に「わが家は一向宗(いっこうしゅう)なのですが、法事はそちらのお寺さんで大丈夫でしょうか?」というお電話があり、どこか不思議な思いのなか応対をいたしました。一向宗とは浄土真宗の古くからの呼び方で、私は歴史のなかでというイメージを持っていました。地域によっては一向宗という呼び方が残っていると知らず、失礼な物言いになってしまったかもしれません。電話のあとでこれはしまったと反省しつつ、日頃より杓子定規な言い方をしがちな性分を改めようと思ったことです。

さて、浄土真宗という宗派名をひも解いてみますと、お浄土へ参らせていただく真実の教えという意味合いが出てきます。宗派名というものは、古くはインド仏教における部派名までさかのぼります。説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)ですとか、中(ちゅう)観派(がんは)や瑜伽(ゆが)行派(ぎょうは)などです。もちろん最初はお釈迦様の教え一本なのですが、百年ほどへて教団が分裂しました。なぜ分裂したのかと言いますと、おそらくお弟子さんのなかで、それぞれ重視する側面が異なっていたからでしょう。修行中心の立場であったり、布教中心の立場であったり、教えの受け取り方はそれぞれだったのだと思われます。部派名や宗派名というものは、その重視する立場や教えにもとづいて呼称されています。

一向宗という宗派名には、今回のご讃題とさせていただきました、「念仏往生の願を一向に信じてふたごころなき」、という親鸞聖人の教えが反映されています。念仏往生の願とは『無量寿経』第十八願のことです。第十八願で阿弥陀如来は、「至心(ししん)信楽(しんぎょう)して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ」と誓われています。すべての人々がお念仏ひとつでお浄土へ救われる願い、それが第十八願であり念仏往生の願です。その願を一向に、ふたごころなく信じてお浄土へ参らせていただく教えであるがゆえ、一向宗と呼ばれるのです。浄土真宗ということと意味合いは同じになります。

私たちは今、浄土真宗本願寺派という宗派に属しておりますので、お寺は日本の法律でもそのように扱われます。しかし、この場合はあくまでも法律上、たくさんあるお寺を行政が管轄するための便宜的な分類に過ぎません。浄土真宗の法灯を伝え、本願寺をご本山としていただくのが浄土真宗本願寺派なのですが、教えにおいて浄土真宗とは一向宗のことであり、念仏往生の願を一向に信ずる道です。歴史上、かつて一向宗と呼ばれたというのは、法律上の物言いでしかありません。「わが家は一向宗なのですが」と電話口で仰る声を聴き、「今は浄土真宗と言います」と分かったような口を利いた自分を恥じ、有難くご讃題をいただきたく存じます。

(本文は『やさしい法話』12月号へ寄稿したものです)

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2022年01月26日

悪意のない悪は最悪だ

「悪意のない悪」と、「悪意のある悪」、どちらがより問題かと言いますと、仏教では「悪意のない悪」となります。理由は明快で、悪意がないということは、その「悪」に気づいていないからです。「悪」という行為はどちらも問題なのですが、さらにその行為者へ着目した場合、悪い事をしたという自覚がないのは「最悪」です。

車の運転を例にとってみれば、違反をすれば警察に捕まります。免停になることもあるでしょう。違反という行為は道路交通法において「悪」です。道路交通法を遵守することを条件に運転免許を交付されていますから、それを守らない行為は「悪」になります。違反は多いから「悪」であるとか、回数は問題ではありません。違反はすべて「悪」です。

免停の回数が少ないからいいとか、違反しながら道路交通法を学ぶとか、そういう発想や思考には違反という「悪」への認識がありません。認識がないということは、これはつまり「悪意のない悪」なのです。悪いと思っていない。だから最終的に無免許運転という愚行へ至るのです。そういう元議員がいるようですね。

私も違反をしたことがあります。駐禁を切られたり、スピード違反や車線変更違反です。20代の頃ですが免停になったこともあります。恥ずかしいですね。今はゴールド免許になりました。ただし、スピード違反はしていないわけではないので、本当はゴールドとは言えないかもしれません。気をつけています。

悪意がなくなるとはどういうことなのでしょう。その人の立場がそうさせるのか、私には分かりません。しかし悪を認識する自覚がなければ、いつまでたっても悪を繰り返します。自らの愚かさに気づかないからです。どこかで心を翻さないと、その泥沼からは決して脱することができません。廻心して欲しいものです。

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2021年12月01日

親鸞聖人御消息第十八

「詮なきこと、論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。」

今回のご讃題には、「意味のない議論ばかりをしておられるようですが、それはくれぐれも気をつけなければならないことです。」とございます。屁理屈好きの私としましては、まことに身にしみる親鸞聖人のお示しです。近ごろは「論破する」という言葉も普通に見られるようになり、相手を言い負かすことに重きが置かれるような風潮さえ感じます。議論することは価値あることですが、議論のための議論になってしまっては意味がありません。たとえば野球ということにおいて、ピッチャーが大事なのか、はたまたバッターが大事なのか、それを議論しているようなものです。

あたり前ですが野球はゲームであり、ピッチャーとバッターのどちらか一方だけでは成り立ちません。この議論には何の意味もなく、相手を言い負かすことが議論の目的となってしまいます。屁理屈好きの私からしますと、ピッチャーが投げなければゲームが始まらないのだから、当然ピッチャーが大事だと言い出しそうです。ルールブックにもそう書いてあるとも言いそうですが、それはゲームの流れでしかありません。どちらが大事かということへの結論になっていないので、単なる屁理屈だと言えるわけです。そして、野球が本当に好きなのであれば、そもそもこんな馬鹿げた論争はしないものです。大事なことはゲームが成り立つことであり、ポジションの優劣論争は問題外です。

さて、本御消息はお念仏の一念と多念とにおける議論について、親鸞聖人のお考えがはっきりと示されたものです。往生浄土のためには、お念仏は一回で良いというのが一念、そうではなくより多く回数を必要とするのが多念です。お念仏申すとき、誰しも何回申せば良いのか考えたことがあるでしょう。一回じゃ少ないような気もするし、かと言って多ければ良いとは聞いていない。世間での評価や習慣からしますと、回数が成果に関係しそうな気はしてくるのですが、どうもはっきりしません。しかし実のところ、私たちの往生浄土は阿弥陀如来の本願力によって成就されているので、回数が問題というわけではないのです。

自分の修行の成果として往生浄土が得られるのであれば、多いほうが良さそうです。しかし、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているので、私自身の成果は何も反映されていません。つまり、一念・多念の論争が起きてしまうこと自体、野球のピッチャー・バッター論争と同じように本質から大きくそれてしまっているのです。まさに「詮なきこと」、深く詮索しても意味のないことなのです。往生浄土を自分の成果とする誤った考えがあるから、成果につながる回数を問題にし、無意味な争いに終始してしまうのでしょう。繰り返しになりますが、往生浄土は阿弥陀如来のご本願によっているということ、しっかりと心しておきたいものです。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

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2021年11月10日

地球を救え?

温暖化防止は人類規模での課題ですが、「地球を救え」という掛け声には違和感を覚えます。私はもちろん門外漢ですが、多少温暖化しても地球自体が壊れることはないでしょう。おそらく何ともない。地球の歴史を振り返れば分かります。この掛け声は「天体」としての意味ではなく、「生命にとっての地球環境」を指しているのでしょう。

私も温暖化は進まないほうが良いと思っていますが、この課題は地球ではなく、人類の課題なんだという点には注意を払っていきたいと考えます。あくまでも人類中心の視点です。他の生命にとっても重要ですが、人類が存続できれば他の生命も現状存続できます。

人類の行動で他の生命の存続を脅かしていることは問題ですが、もし仮にこうした行動も地球規模での淘汰であるとするならば、私たち人類には防ぎようのないことかもしれません。人類は進化して欲望を増大させています。欲望が温暖化を招いており、これは言い換えれば進化による温暖化促進です。

人類に知恵があるならば、自分たちの進化の方向性を変えなければ淘汰されることでしょう。そのためにはまず「少欲知足」です。仏教で「欲少なくして足るを知る」という意味で、多少不便でもいいじゃないかという心掛けから始まります。

人類を救うヒントは人類自身が見出しています。宗教・哲学・歴史から学ぶことはまだまだ多くあり、むしろこれから必要です。先人が遺した叡智を大人たちが学び直し、それを次世代へ伝えていくべきかと思います。

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2021年10月26日

親鸞聖人御消息第十五通

「かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ」

本御消息は門弟の往生浄土を知らせた高田入道へのご返信で、往生についての親鸞聖人のお気持ちが率直に語られています。阿弥陀如来から信心をいただいた私たちが、誰しも浄土へ参らせていただき、必ず仏に成らせていただくのが親鸞聖人の教えです。「かならずかならずまゐりあふべく」とのお示しは、必ず私たちも参らせていただくということです。そこに疑いをはさむ余地はありません。しかし本当にそうなのかなと、幾度となく思ってしまいます。私のような行動や考えでは、まったく往生できそうにないからです。

往生浄土については、古来その様子を伝える様々な「往生伝」が作られました。たとえば七高僧のひとり、平安時代の源信和尚(かしょう)の往生は次のように伝わります(現代語訳は大阪大谷大学教授の梯信暁先生によります)。源信和尚が亡くなられたあと、同門の僧侶が夢(・)で(・)和尚に出遇った際、往生の可否を直接聞いてみたとのことです。すると和尚からは、「往生できたとも、できなかったも言える」という返答がありました。しかし「極楽の聖衆が仏を取り囲んでいる時、自分はその最も外側にいた」とも答えられたそうなので、おそらく往生されたのでしょう。明快とは言い難い表現ではあります。

これはどういうことかと言いますと、さらに源信和尚は「そもそも極楽に生まれることは極難のことなのだ」と付け加えられたそうです。平安時代において、極楽浄土への往生は容易ではないという認識のあったことを窺わせます。学術的に申し上げますと、以上は源信和尚の言葉ではなく、あくまでも周囲の方々の言葉になります。たしかに自力修行による往生浄土は極めて難儀なことですが、和尚は修行を重んじながらも、ご自身はお念仏による他力往生を目指されていました。自力に依存していれば、往生自体が難しく、ちょっとの修行では地獄へ落ちてしまうこと必定です。

自分自身の行動や考えに依存していますと、往生浄土は出来ないでしょう。源信和尚でさえ周囲からは曖昧に見られていたわけです。しかし、親鸞聖人は冒頭に引いた言葉に続けて、「申すにおよばず」とお示し下さいます。往生浄土について、何か議論したりすることは何もないと言われるのです。阿弥陀如来にまかせ切るからこそ、申すことは何もないのです。自力を頼りにしているのであれば、修行について議論すべきでしょう。申すことも多くなりそうです。そうではなく、こうした私たちをそのままお救い下さるのが阿弥陀如来です。親鸞聖人のお言葉は、まさに明快そのものであると言えましょう。

(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)

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