2020年10月17日

親鸞聖人御消息第六通

「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」

今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
 
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
 
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。

仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。

(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)

posted by 伊東昌彦 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年09月27日

テクノは忍耐だ(ロックは諦めだ)

先日のことですが、RCでお世話になっているK氏の会社に所用でうかがいましたら、待ち合いに「テクノは忍耐だ」という書が掲げられていました。K氏はテクノミュージックに長年携わっておられます。なぜ忍耐なのかと言いますと、私が解釈するようなことではないのですが、テクノは音色の調整やプログラミングなど、とにかく地道にひたすら耐え忍んで下ごしらえをしないといけません。私もロックバンドをしていまして、かつてロックとテクノを合わせた変テコな音楽に傾倒したときがあります。その時、ほんの少しこうしたテクノのことを学びまして、自分でも少しトライしてみました。もの凄く大変です。夢中になりますと、もう寝ている場合じゃないというほどです。結果、私には無理だなとなりまして、単純なロックに戻っていきました。

この「テクノは忍耐だ」という書を見まして、じゃあロックは何だろう、と考えたわけですが、ずばり「ロックは諦め」だと思います。曲をバンド仲間で作っていても、「まあ、こんなもんじゃない?」というところで適当に切り上げます。あまり作り込むと重たくてダサロックになるので、私は好きではありません。作り込むのは好きなほうなのですが、ロック特有のノリが消えてしまうような気がしまして、途中で諦めるわけです。「ああ、めんどくせ〜」というのもロック特有な発想なので、こういう感覚も大切です。それなりに大変なのではありますが、座右の銘は「めんどくさい」でもいいくらいなのです。

「忍耐」と「諦め」、これ実は仏教の実践行に含まれております。「忍耐」はそのまま、いろいろな苦しい厳しい状況においても、ひたすら耐え忍ぶということ、修行には不可欠です。世間には理不尽なこと、理解不能なことも多くありますが、それを含めて自分自身なわけであり、逃げていては始まりません。「忍耐」は仏教的人間形成において必須事項であるのです。一方、「諦め」は何なのかと言いますと、「諦める」という言葉は、実のところ「あきらかにする」という意味から来ているのです。物事のあり様をあきらかに観察するわけです。闇雲に突き進むわけではなく、状況をあきらかにして次のステップへ行くということです。人生は忍耐強く、そして状況をあきらかにすることが大事だと言うのでしょう。ただ、私はテクノもロックも好きなのですが、これを実践するのはなかなか難しいなあと、昨今、実感しております。

posted by 伊東昌彦 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年09月05日

明日は久しぶりの法話会

明日は久しぶりの法話会です。勤行も含めて1時間以内に終わるよう短縮しました。10月末には報恩講がありますが、こちらもお逮夜のみの短縮開催とします。短縮でも良いので、何かしら始めていかないと忘れてしまいそうです。4月からの新入社員がコロナ禍のため自宅待機となり、それでもお給料がある程度出るので働くのがめんどくさくなってしまった、という記事を見ました。これはまずいですね、人は低いほう低いほうへ転がっていく性質があります。怠惰です。自分を律しなければ煩悩はどんどん増幅しますので、これは困ったものです。

posted by 伊東昌彦 at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年08月21日

法話会再開のご案内

コロナ禍のなかではございますが、法話会を再開することとなりました。勤行と法話の時間を短縮しまして、あまり長時間にならぬよう配慮いたします。本堂内ではマスクをしていただき、手の消毒、余裕をもった着席をお願いしまして、感染リスク軽減にご協力いただければと思います。

善福寺法話会

9月6日(日)14時から 15時頃には終了予定
勤行:『讃仏偈』(『正信偈』は中止いたします)
法話:当山住職(短めな法話となります)

皆様、お参り下さい。なお、この時期、本堂内は大変暑くなっておりますので、その点もお気をつけていただければと思います。よろしくお願いいたします。

住職 伊東昌彦

posted by 伊東昌彦 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年08月14日

坊さんとして思う言葉「英霊」

明日は終戦の日ですね。「英霊」という言葉があります。仏教では本来的には使用しません。もとは中国古典に見られるようですが、私は門外漢なので手近なところでウィキペディアで調べてみました。「英華霊秀」という言葉に原意を求められるようです。道教の「気」も関与する言葉のようですが、四字すべてが「すぐれている」という意味に通じていますので、これを人にあてはめれば「すぐれた人物」という意味合いになることでしょう。道教的に言えば仙人とまでは言わずも、すぐれた「気」を持っている人ってことでしょうか。

それで「英霊」というように二字のみ抽出すれば、とりわけ「霊」には「すぐれている」という意味のほか、「死者の魂」という第一義的意味がありますので、「英(すぐ)れた霊魂」という意味合いが強調されることになると思います。仏教、とくにインド仏教には「霊魂」という考えは本来的には存在せず、むしろ否定的です。日本仏教では、宗派によっては霊魂という言葉の使用も見られるようですが、これは中国思想との習合によるものです。ちなみに浄土真宗では使用しませんので、私にとっても霊魂という言葉は身近ではありません。

霊魂が何なのかというのは、上記のような事情もあるので私にはよく分かりません。イメージとしては、亡き方の死後精神というようなことになるのかなあ(ちなみに、唯識で言う阿頼耶識とはまったく違います)。おそらく、根源的なものとの合一には至っていない状態で、まだ生前の個性が保たれており、場合によってはある程度意思があるのかと思います。幽霊なんて意思丸出しですよね。怨んで出てくるわけですし。とまあ、かなりいい加減な規定にはなってしまいますが、おそらく、多くの方も厳密には霊魂が何なのか分かっていないと思うので、この程度のイメージで良いかと思います。

そして、「英(すぐ)れた霊魂」ということになりますと、どの点が英(すぐ)れているのかと言えば、それはもちろん生前の行いということになるのでしょう。死後の行いは不明ですし、当然、生前だと思うのです。日本で「英霊」という言葉を使用する場合、これはとりわけ日露戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦で戦死された方の霊魂を敬ってのこととなります。戦争で国家に殉じたと方と言っても良いので、この点において「英(すぐ)れている」と言えるのだと思われます。

今の平和、現代日本の平和というものは、こうした方々の犠牲の上に成り立っていることは言うまでもありません。戦死された方、戦病死された方、戦争による攻撃で亡くなられた方、戦争の関連で亡くなられた方、たくさんの方々が戦争で命を落とされました。おそらく、日本や家族を思って亡くなられたことでしょう。たくさんの方々の犠牲によって、私たちの今日一日があるのです。原爆の日をへて終戦の日が近づくにつれまして、毎年厳粛な気持ちになってまいります。今日という日を「あたり前の一日」だなんて思っては、本当に申し訳ないことです。

私は坊さんとして、「英霊」という言葉からは距離のある立場であり、いわゆる「霊魂」の存在を全面的に肯定しているわけではないのですが、戦争で犠牲になられた方々を敬う心はしっかりと持ち合わせています。もし仮に、そうした方々すべてを指して「英霊」と言うのであれば、それはそれで問題ないと思います。ただし、実際には戦死された方々に限定して使用されていることがほとんどだと思われますので、そこには聖戦的に戦争を賛美する志向を孕んでいるような気がしてなりません。国家に殉じることは尊いことではありますが、亡くなられた方々の思いをあわせ考えてみますと、安易な使用かなとも思えてきます。

そもそもの原意を訪ねてみましても、生前にすぐれた行いのあった方を指して「英霊」と言うことになるので、この言葉をとりわけ戦争に関係づけて用いること自体、果たして相応しいのか問題ではあります。原意とは独立して規定されている言葉であれば、容認できなくもないのですが、一般的な使用に耐え得るほど人口に膾炙していると言えるのでしょうか。もちろん、「英霊」という言葉を使われる方々の気持ちも理解できるのですが、聖戦的に戦争を賛美しているかのような場面で使われてしまっていることもあり、難しさを感じます。

戦争で亡くなられた方々を悼むことは、今を生きる日本人すべてにとって必要なことです。しかし、それはどんな戦争であっても、その戦争という行為自体を容認することであっては決してなりません。言葉を選ぶことは難儀なことなのですが、「英霊」という言葉に対しても、どういう方々を対象として使うのか、どんな場面で使うべきなのか、もっと議論があっても良さそうなものです。昨今、そういう気配はあまり感じられませんが、安易な戦争賛美が深まっていかぬよう、慎重にあってもらいたいものです。

posted by 伊東昌彦 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年07月16日

感覚の違いを尊重できるよう

9月から法話会など、お寺での会を再開しようかと思っています。法話会やスイーツ教室については、何度かお問い合わせをいただきました。大変有難いことだと思います。しかし最近、東京を中心にコロナ禍が再拡大しはじめています。行政から何らか制限が出されれば、9月再開も延期になるかもしれません。第二波とならぬ程度で収まれば良いのですが、経済活動との両立は難しい舵取りが要求されそうです。

こうしたなか、肝腎なことはひとりひとりの行動にあると思います。マスク着用や消毒はもちろんですが、会合や外食は細心の注意が必要です。とくに外食は経済活動にも直接関与することなので、単純に自粛をすればそれで良いということにもいきません。個人的には、行動範囲が不明瞭な方との会食は避けるべきだと思います。家族や親しい知人で行動範囲が掴めている間柄であれば、コロナ対策の取れているお店での飲食はあり得るでしょう。

と、私の考えを書きましたが、もちろんそう思わない方もいます。難しいのは、人それぞれで考えが異なることです。小田原近辺におきましても、以前のように普通に飲み会をしている方もいます。東京ではないですし、小田原付近なら大丈夫とお考えなのでしょう。ちなみに東京でも飲み会をされている方は当然います。私の場合は、家族で対策の取れているお店で外食はしますが、飲み会は出来れば参加したくありません。

いわゆる温度差は本当にバラバラで、これからコロナのなかで生活するということを想像したとき、感覚の違いは結構な社会問題になるんじゃないかなと思えます。問題化を防ぐためには、それぞれの考えを尊重する気持ちが何より大切です。コロナウイルスをばら撒くなんて言うのは論外ですが、多少、自分自身よりも感覚の緩い方、厳しい方がいても、それはそれで仕方ないと思えるよう準備をしておきたいものです。

人というのは、生活や仕事の背景をそれぞれ持っていますので、社会への考え方は本当に千差万別です。相互に尊重する心を、基本的なところで持ち合わせていきたいと思っています。

posted by 伊東昌彦 at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年06月18日

人種差別は極めて愚かな行いです

人種差別の根底にある心って何でしょう。私は自己への執著心だと思います。自己と異なった外見や、異なった文化・生活に違和感を覚えるのは、自己を保全したいという執著心の裏返しです。自己なんて言うものは、よくよく観察すれば本当にいい加減です。変化しない自己はありません。考えてることなんて、毎日コロコロ変わっていますし、外見だって日に日に変化しています。人は変化に弱い。変化が恐ろしい。だからそれに抗う。でもそれは不可能なので、仕方ないから別の方法で一時の安心を得る。それが差別です。自己と異なった外見や、異なった文化・生活を排除すれば、何となく自己を守っているように感じるからです。

人種差別は極めて愚かな行いです。

もとより愚かな自分自身に気づけば、こんなこと出来ないはずなんだけどなあ。

posted by 伊東昌彦 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年06月06日

自粛警察する前に

自粛警察って言葉、ここんとこ何度か耳にしました。正義を振りかざすって言うのでしょうか、ネット上でもよくありますよね。すごく正しそうに思える主張。一見すると間違ってないように思えてしまいます。でもよく考えると、何だか違和感あるなんですよね。一面的だからでしょうか。一面的には正しいとも言えるのですが、他方面からすると正しいとも言い切れない。正義って難しそうです。

ところで「正義」というのは、言うまでもなく「正しい義」という意味です。「義」は何かと言いますと、結構曖昧な言葉だと思うのですが、「道理にかなっている」ということでしょう。だとするならば、その「道理」っていうのが根本となり、それに違うことがない思考や行為が「正義」となります。「道理」って何ですかね。分解すれば物事の筋「道」となる「理」となりますので、つまりは「理」ですね。

この「理」というのは倫理・道徳の根本になるでしょうし、宗教においても宗教の根本として「理」という概念は用いられます。おそらく相対的ではなく、絶対的に捉えられていると思います。とは言いましても、宗教も含めて人が考えているわけですから、意外といい加減なのかもしれません。都合によって変化してしまうことがあっては、もちろん絶対的ではありません。

仏教で「理」と言いますと、通常は「真理」という言葉が用いられます。「真理」は「理」をさらに深めた言い回しです。では仏教の言う「理」は何かと言えば、人為的な物事をすべて離れたという意味になります。なるほどそうなると、ちょっとは絶対的な方向に近そうですね。でも、人が語ったりすると、一気に相対的になってしまうからこれまた不思議です。経典なんていらん、という考えもあるのです。

正義は道理に基づいているのですが、道理は振りかざした途端に恣意的なものに成り下がる危険性を常に含んでいます。正義を語る際、もっとも気をつけねばならぬことでしょう。歴史をひもといてみても、正義はしょっちゅう変化しています。いい加減なもんですよね。皆が勝手に都合で使っているからです。レストランの営業の可否についても、いい加減な正義に基づいていると言えるんじゃないかなあ。

posted by 伊東昌彦 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年04月29日

オンラインと肌感覚

日常生活での「オンライン」の役割が大きくなっています。人と人との接触を出来るだけ少なくしなければならないとなれば、オンラインはうってつけです。仕事も学校もオンラインで続けることにより、接触の機会を少なくすることができます。ただ、もちろんテクノロジーは万能ではありませんので、うまくいかない場合もありそうです。たとえば小学校低学年ですと、双方向のオンライン授業を開始したとしても集中力が何分もつか分かりません。保護者が画面の前から子が離れないよう監視していれば別ですが、教室に比べれば先生の影響力は限定的になりますので難しいこともあるでしょう。

今、私は「先生の影響力」と書きましたが、まさにこの点に大きな問題点があると感じます。

と言いますのは、人のコミュニケーションは口と耳と目だけで行っているわけではありません。人には五感というものがあるでしょう。実は普段あまり気づきませんが、五感で会話しているのだと思います。実際、舌(=味)はあまり関係ないとは思いますが、肌で感じるところってあるでしょう。その場の雰囲気です。息遣いとか。相手が目の前にいるっていう雰囲気です。肌感覚というのは、私はもの凄く大きいものだと思っています。コミュニケーションの場面において、メール<電話<直接会う、と考える人もいるでしょう。しかし、私は電話<メール<<<直接会う、という具合です。電話は私にとってあまりうまくなく、耳だけで判断しないといけないのは苦痛です。メールのほうが目で判断できて、なおかつ読み返せるので楽なのです。

そして、いずれにも大差をつけて直接会うことを大事にしています。ではオンラインで画面を通して顔を見ながらの会話だとどうでしょう。私も何度か試しまして、実際、会合もオンラインで参加しています。まだ慣れていないというのもあるかもしれませんし、テクノロジーが進化すればもっと現実的になるのかもしれませんが、肌感覚がないため不安です。うまくコミュニケーションできているか不安なのです。もしかしたら、電話が発明された当時も、同じような不安感を持っている人がいたかもしれません。でも、今はあまりいませんよね。私も不安というよりは、電話では不満なだけです。一応、コミュニケーションは出来ていると思います。オンラインもいずれ慣れることでしょう。しかし、やはり肌感覚はありません。

全身全霊という言葉があります。人を身体と精神に分けて考察する見方は仏教にもあり、「色(=身体)、受、想、行、識(=以上、すべて精神)」と見ます。全身全霊というのは、さまざまな精神作用、つまり自分自身の意識のみならず、無意識の部分も含めての精神(=霊)と身体をもってという意味になります。人のコミュニケーションも実は全身全霊で行っているもので、だからこそ深く分かり合えるのだと思います。身体すべてで感じ取った情報は、すべて精神に伝えられます。身体は五感です。五感が欠けている状態ですと、当然のことながら伝達情報も欠けたものになります。電話は耳と口だけですから、それ以外は欠けています。メールはもちろん目だけです。言葉と文章ですよね。人は長年、言葉と文章だけでコミュニケーションを取れるよう、創意工夫をして技術を身につけたのだと思います。だから欠けている部分が補えている。

低学年の子にとっては、まだまだこうした技術を身につける途上にあるわけですから、肌感覚というものが重要になってきます。小さい子と電話で話をしても何だか良く分からないのは、こうした技術が未習得だからです。そうなりますと、双方向のオンライン授業をいきなり行っても先生の思いはなかなか児童には伝わらず、ひっちゃかめっちゃかなカオス状態になることでしょう。先生の影響力が限定的だからです。もちろん、子は柔軟ですのですぐ技術を習得して慣れていくとは思いますが、オンラインというものが即効性あり万能であるかのような喧伝は不誠実です。肌感覚のないコミュニケーションというのは、感覚を一部欠いているという認識が必要です。これは電話でもメールでも同じです。人と人とが直接会わなくてもいいという日常が到来するとすれば、それは全身全霊で生きている人をやめるということにもなることでしょう。

ただし、それが「進化」なのだという考えもあるかもしれません。人は宇宙の真理、それは一神教的に言えば神の意志であり、仏教的に言えば変化を繰り返す宇宙のあり方ということになりますが、それをを超えて行動できているわけではないので、テクノロジーも宇宙の摂理です。人の進化を今、目の当たりにしているとすれば、ああ、たしかに私も不安になるはずだ。

posted by 伊東昌彦 at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年04月26日

法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会

新型コロナウイルスによって亡くなられた方々に対しまして、心より哀悼の意を表します。また、罹患されてしまわれた方々のご快復を、心よりお念じ申し上げます。私は今のところ罹患していないようですが、諸行無常のなか生きている私たちにとりまして、すべては自分事として受け止めねばならぬことと存じます。明日、どのようになるのか、本当に分からない世の中になってきました。この現状を把握し、自覚を持って生活を続けていきたいものです。自分自身がウイルスを運ぶ縁にならぬよう、細心の注意を払いたいと思います。

善福寺におきましては、法話会、仏典会、スウィーツ教室、楽友会を現在、休止しておりますが、当面はこのまま休止とさせていただきます。葬儀と法事は今まで通り行っておりますが、本堂・会館においては間隔を空けてお座りいただき、必ず手の消毒をお願いしています。近隣の葬儀会館におきましても、同じように皆様のご協力をいただいているようにございます。

新型コロナウイルスの一日でも早い収束を願ってやみません。個人的なことではございますが、家飲み用に購入した大ジョッキが活躍してくれています。なかなか気分出ますね。

posted by 伊東昌彦 at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年04月14日

大ジョッキを手に入れました

のんきな内容ですみません。かつて坊さんの先輩に月に1度は行事を作ったほうがいい、中高の友人からは忙しくしていたほうがいい、とアドバイスを受けました。そもそも善福寺は兼業寺院(父はサラリーマン兼業)であったこともあり、専業で入寺した30代は何をして良いのか分からず、少々暇で困ったこともあったのです。法務(お寺の場合は読経など)も忙しくしたいと思いまして、月忌参りを始めたりもしました。それから法話会、仏典会、楽友会、スウィーツ教室のような集いを始めました。また、地域のお役も積極的に受けるようにしまして、それなりに忙しい毎日を過ごしていたものです。が、法務以外はすべて休止となっている今、とても暇になってしまいました。前向きな方ですと、こうした境遇をチャンスに変えて英会話を習うとか、未来につなげるような行動を起こすことでしょう。私は後向き人間なのでしょう、とくに何もやろうと思ってはいません。ははは

家族団欒の時間は増えました。お寺の場合、専業だとだいたいお父ちゃん(住職)は家にいるんですよ。だからそれほど違和感なく、団欒時間は増えて嬉しいなぐらいなんですが、お勤めの方ですと違和感大ありかもしれませんよね。とくにお母ちゃん。毎日3食きっちり用意しないといけないとなりますと、これは大変でしょう。家庭によって状況様々だと思いますが、こうした普段から逸脱した家庭状況によって、アルコール依存症や家庭内暴力、児童虐待の件数が増えているとの報道もありました。多くの方が不安のなか過ごしていると思いますし、ああ、もう酒飲むしかねえ、と思う気持ちも分からんではありません。私もビール好きなので良く分かります。お酒は脳を麻痺させるのでしょう。疲れているときは疲れが吹き飛びますし、不安なときは大きな気持ちになったりするものです。しかし問題解決にはならない場合が多く、まやかしと言える作用ばかり続きます。それが分かってないと、いわゆる「お酒に飲まれた」ことになり、問題行動が発生するんじゃないかなあと思うのです。

とは言え私はビール好きなので、在宅用に大ジョッキを購入しました。1000mlにしようかと思いましたが、ひるんで800mlにしました。家ならば少なめなほうがいいかもしれません。昨日はそれで飲みましたが、まあ、あんま面白くはないです。私は完全に外飲み派で家ではほとんど飲みません。家にいることが多い仕事なので、家で飲んでいても区切りというか、気持ちの切り替えが出来ないからです。ただ、こうした今の状況が長引くとなれば、少々お酒との付き合い方を変えたほうが良いかもしれませんね。気持ちの切り替えができない家飲みでは、おそらくストレスが溜まってくるんじゃないかと思うからです。ストレスというのは困ったもので、簡単に言えば自分の欲望を抑え込んでいると溜まります。じゃあ欲望のまま生きればいいのかと言えば、そんなことしたら社会生活は送れません。仏教でも欲望をなくすほうがいいと説きますが、抑え込むことはむしろ良くなく、その根源を退治することが奨励されます。ただまあ、根源って簡単に言ってもねえ、まあ普通に生活しているぶんにはほぼ無理ですよ。自分の心にある根源的問題ってのは、早々簡単に解消できません。心は本当に厄介なもので、実は「私」という意識の管理下にはない部分も多いのです。そしてストレスの原因というのは、その管理下ではない部分に存在します。難しいわけですよね。

いずれにしましても、悶々としたものが溜まってきそうな気配ですが、他者にあたらないようにしたいものです。すべては自業自得、自分のことはすべて自分でなんとかするというのが仏教です。他者に支えられつつも、自分ひとりがこの世を生きていることを心に留め置いておきたいものです。

亡くなられた方や罹患されている方に心をよせながら、この状況が早く収束することを念じます。 合掌
posted by 伊東昌彦 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年03月12日

ウイルス感染予防と中道

先日、地元近所の焼肉屋さんに行きました。ガラガラでした。普段からガラガラではなく、通常ならば繁昌しているお店です。新型コロナウイルスの感染拡大で外食産業はかなりの痛手を被っているようです。不特定多数の人々が集まって密着する場所、そして換気の悪い場所は感染の可能性が高まると言います。焼肉屋さんは目の前に排気口があるから大丈夫なのではないか、という私の独断でしたが、隣席どころか入店時は誰もいませんでした。

外食産業は地元経済の一端を担っています。そして街の賑やかさということを考えた場合、小売店や食事処はさらに貢献度が高いと感じます。しかし、多くのお店は小規模経営なので資金力は大きくなく、一度閉店になってしまえば復活は難しいでしょう。街が寂しくなってしまえば、人口は増えるどころか減少に拍車がかかってしまうことは明白です。そうかと言いましても、地元で感染拡大すれば営業どころではなくなることでしょう。

ところでこんな話を聞きました。地元市内では今、中学生のインフルエンザ罹患がゼロだそうです。休校ということもありますが、おそらく、コロナ対策で例年以上に皆が気をつけて除菌に取り組んでいるからでしょう。しっかり対策をしておけば、たとえば外食であれば、ちゃんと除菌をして、あまり長時間にならず、わが家であれば家族以外の方との接近を出来るだけ避けるのであれば多少は大丈夫でしょうし、経済活動への影響を最小限に留めることも可能かもしれません。

仏教では中道ということを説きます。偏らない道です。

修行しすぎても修行自体への執着心が増すますし、だかと言ってまったく修行しないということであれば、どんどん堕落していくことでしょう。偏らずにバランスを取って行動することは、仏教の修行論のみならず、私たちが普段生活していくなかでも大切なことだと思えます。バランスのとり方は状況によって異なりますが、こうしたウイルス蔓延が心配される状況下であれば、感染予防に努めつつ活動を続けることが望ましいと言えそうです。

posted by 伊東昌彦 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年03月02日

トイレットペーパーと自灯明法灯明

トイレットペーパー、一気になくなりましたね。すごいデマでした。そして、それに多くの人が乗ってしまった。まさに我先に、ウォシュレットの時代ですが紙は大事ということでしょう。しかし急がなくとも、普通に生産はされているとのことで無駄足だったわけです。私はと言いますと、そういうデマが飛んでいるということにすら気づいていませんでした。今回の件は乗り遅れて良かった。

仏教には「自灯明、法灯明」という教えがあります。お釈迦様が亡くなる際、お弟子さんに「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と諭したそうです。お弟子さんは先生が亡くなってしまうので、この先がとても不安です。しかしお釈迦様は、すべて教えてあるので、その教え(=法)によって自分自身(=自)で思考・判断せよと説かれたのです。言うなれば、変なデマに惑わされずちゃんと考えて行動せよ、ということでしょう。

多くの人が正しい情報にもとづいて、自分自身で思考判断すればトイレットペーパー売り切れはなかったかもしれません。ただし情報が氾濫する今の時代、何が正しい情報なのか、それを見分ける世間的な知恵というものを私たちが持たないとならないようです。本来は一応、正しい情報は政府からの発表ということになるはずですが、何だかあまり期待できないかなあ。

posted by 伊東昌彦 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年02月29日

法話会 短縮開催のお知らせ

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、3月1日(日)14時からの法話会は短縮開催といたします。正信偈のお勤めは省略いたします。法話も30分程度のものとしまして、14時30分には終了といたします。何卒、ご理解のほど宜しくお願い申し上げます。

善福寺住職 伊東昌彦
posted by 伊東昌彦 at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年02月28日

卒業式の中止もしくは短縮

新型コロナウイルスの影響により、卒業式を中止・短縮する学校が出始めています。感染拡大を防ぐためには、致し方のない判断でしょう。大学のように規模の大きい学校は短縮でも難しいかもしれません。地元小中学校でも検討がされているようです。在校生や来賓の出席を取りやめるという方法がまず思い浮かびます。しかし在校生、とりわけ小学5年生や中学2年生の出席については、送るという意味合いに加えまして、来年は自分たちが送られる立場になることへの自覚醸成という意味合いもあります。教育の観点からは、簡単に出席取りやめという判断は出来ないかもしれません。とても難しいと思います。ちなみに来賓ですが、私の個人的経験によりますと、地元議員さんは私語が多いのでそもそも出席取りやめでいいんじゃないかなあって、そんな気もします。ははは

こうした儀式というものは、宗教的な意義をもって成り立ってきたものが多いでしょう。お葬式や法事はその最たるもので、七五三や成人式などの通過儀礼的なものも、原始的には精霊や先祖霊に対して行う場合もあったかと思います。私は坊さんですので儀式を施行する立場であり、普段から儀式の意味を考えることもしばしばです。たとえばお葬式も簡略化が進んでいますが、仮にお葬式という儀式をしないとなりますと、心のなかにモヤモヤを抱えてしまう方もいるように見受けられます。すべての人がというわけではありませんが、儀式をへていないことを不安に思う方は少なからずいらっしゃるようです。

人の心は大変複雑な構造だと思います。まさにカオスであり、私たちは自分の心であってもうまく整理整頓することが出来ないこともあります。思いや考えが出しっぱなしになったり、あるいは行方不明で出て来ないということになりますと、何らかの心の病を抱えてしまうことにもなります。ある程度、人によってそれぞれ異なりますが、心は表面的にでも整理整頓出来ていないと苦しいわけです。生活の節目というものは、これはリセット機能であり、ゴチャゴチャになった部分を処理することが出来ます。大晦日・お正月を思い起こしてもらえれば、これはよく分かります。色々あった1年ですが、それを除夜の鐘とともにある程度忘れ、新たな気持ちで次の1年を過ごすということです。リセットなのです。

卒業式も儀式であり節目でありますから、やはり何らかのリセット機能を持っています。学校生活では嫌なこともあったことでしょう。それをいつまでも引き摺っていては前へ進めません。忘れていいのです。そして新たなステージに向っていくことこそ、児童・生徒には大切なことだと思います。学校は基本的には6・3・3となっているでしょう。これも途中途中で節目となる卒業があるから、児童・生徒の健康的な成長に役立っているのです。これをまとめてしまっては、うまくないかもしれません。

と言うことで、新型コロナウイルスの影響によって卒業式をまったく中止にしてしまうというのは、大学のような大規模ではないかぎり、何とか回避してもらいたいなあと思うのです。もちろん、感染につながらないよう努力をして、という限りにおいてですが。

posted by 伊東昌彦 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年01月21日

TSUKIJIアカデミー 浄土真宗を学ぶ

来月、2月3日(月)に築地本願寺で中国浄土教の話をすることになりました。テーマは道綽禅師と善導大師なのですが、私の専門とするところは、両師と同時代の先輩にあたる嘉祥大師吉蔵の浄土教なので、そのあたりの違いをお伝えできればと思っています。しかし講師が私というマイナーな人なので、どなたか来ていただけるのか心配です。ともに勉強いたしましょう。

講座サイト↓
https://tsukijihongwanji.jp/lecture/tsukijiacademy/?fbclid=IwAR2r0rf9FibsxdMZAKNF9wWc6UEEVKOVKzKuX4vcVvDJ7CXe5UjVfnDAC0c
posted by 伊東昌彦 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2020年01月01日

令和二年となりまして

皆様、本年もよろしくお願いいたします。令和元年から、あっという間に令和二年となりました。今年は東京オリンピックも開催されますね。昨年の天皇陛下ご即位から、「日本」ということを意識する機会が多く続きそうです。私たちは「日本人」なんだなあと、そんなのあたり前かもしれませんが、そんなあたり前なことを改めて考えてみたくなる講義を年末、研究所の業務として受けてきました。国際日本文化研究センターの磯前順一先生です。講義のなかで先生は、神武天皇の足跡に関連した「日本のはじまり」という観光イベントのチラシを見て、そもそも「日本」って何なのか、という素朴な疑問を重視されていました。ご自身は茨城県のご出身とのことで、昔であれば「蝦夷」の人であったと言われます。「蝦夷」・・・、日本史で出てきましたね。あと九州の「熊襲」とか、大和政権に打倒されるわけですが、そういうのも含めて私たちは何となく「日本」をイメージしています。

大和政権は天皇家ということなのですが、もちろん現代日本でも継続中です。政治体制に何度か変化はありましたが、やはり同じく天皇家なのです。ということは、私たちが学んでいる「日本史」っていうのは、天皇家から見た「日本史」になりますね。打倒された蝦夷から見た「日本史」であるわけもなく、歴史の見方としてはどうしても天皇家よりになっています。学問は客観性が必須ではありますが、「日本史」という教科書的なまとまりになりますと、誌面の関係もあり、いろいろな作用もあり、どうしても限定的に表現せざるを得ず偏り感が出てしまいます。書き手の主観がモロに出るわけですが、学者であっても100%客観視できるわけもなく、やっぱりいわゆる「日本史」になってしまうんでしょう。でもおかしな話ですよね、蝦夷や熊襲って、「日本」を自称したことなんてないと思うのですが、あるんでしょうか?よく分かりませんが、つまりは降伏して大和政権に服従したのでしょう。それで日本化(大和化)したから蝦夷も熊襲も今では「日本」の範囲に入っている。何だか奇妙なんですが、もともと「日本」っていう国土の範囲が存在し、その中の異分子が蝦夷であり熊襲であるかのような表現になっていません?それって非常に学問的じゃないと思うのですが、いいんでしょうか?

とまあ、磯前先生のご講義に影響を即座に受けまして、私もこうした疑問を持つことができました。天皇家が続いていることは結構なことで、象徴天皇であるということは、私も現代日本に相応しいと思っています。ただ、天皇という存在が日本国民の象徴であるのであれば、ちゃんと「日本」のことを客観的に知りたいなあと思うのです。政治的プロパガンダで創作されたストーリーではなく、学問的に知り得ることができたら素晴らしいことだと思います。でもまあ、色々と問題あって難しいんだろうなあ。少なくとも自分自身の意識においては、「日本」という国が昔っから漫然と存在してきたかのような錯覚に陥ることだけは避けるようにしたいと思います。日本人であるならば、自国である「日本」のことをちゃんと知りたいというのは自然な感覚ですし、海外に行く場合にも、外国人との触れ合いには必要な知識ではなかろうか。

posted by 伊東昌彦 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年12月04日

喪中はありません

突然ですが、浄土真宗には喪中がありません。したがいまして、喪中葉書というものは存在しないのです。一般的な慣例にしたがっても構わないとは思いますが、厳密には存在しないことになります。喪に服すということの起源は、おそらく中国大陸にあると思います。簡単に言えば死者が迷わないよう、遺族が何かしら制限のある生活をするということになるでしょうか。浄土真宗では死者は迷わないので、とくに遺族が何かする必要もないのです。だから喪に服すことはしない。しかしそもそも、今は喪中葉書と言いつつも、多くの方が喪に服してはいないでしょう。たしか喪中であれば外出も控えなくてはならず、ひたすら位牌に向って供養しないといけないはずです。形式だけが残っているということでしょう。ただ、いかに浄土真宗でありましても、大切な方が亡くなったあとはその方を偲ぶことを優先し、できるだけ慎み深く生活したいものです。なぜならば、その方の死を縁として、自分自身の死についても思いを馳せる時間を大切にすべきだからです。

母が亡くなりましたので、さて年賀状はどうしたものかと思っていました。私はそもそも年賀状において、「おめでとうございます」の決まり文句は使いません。たしかに1年間を過ごすことが出来たということについて、心のなかにめでたいという思いはあります。人は節目がないと居心地が悪いこともありましょう。しかし仏教思想に照らしてみるならば、とりわけお正月がめでたいということにはなりません。毎日めでたい、有難い。そういう発想になるからです。諸行無常のなか生きている私にとって、明日があるかもわかりません。それがこうして、今日という1日が訪れたわけですから、とてもめでたく有難いことです。だから私は毎日、朝が一番機嫌がいいのです。起きた瞬間から回路全開になるような感じです。ブログもたいてい朝書いています。

posted by 伊東昌彦 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年11月12日

前回のおまけ

前回の記事で触れたダウンタウンさんの「日本の匠を訪ねて」ですが、実は「…それがよーわからんのだよね…」では終わりません。そのセリフでカメラは天井から覗いたアングルに変わるのですが、松本さんは再び「ひねりっこちゃん」とひと言。それでコントは終わります。「ひねりっこちゃん」とは制作段階の1つの名称です。つまり、よーわからんのだけれども、再び作業に入っていくという無意味な連続が表現されているのです。

よーわからんのだけれど、それでも私たちは生きているわけなんです。ややもすれば、このコントのように無意味に陥りがちなのですが、そこを何とか目的や目標を見つけて生き抜いている。でも、もしかしたら宇宙なんてすべて繰り返しで、何の意味なんてないのかもしれません。少なくとも、私たちには理解や体得のできそうにない事柄でありそうです。

仏教やインドの宗教ではそれを業(行為とその影響)によって説明しようとするのですが、繰り返していくことの意味までは説明できていません。どういう仕組みで繰り返すのかは、業によって次のステージが始まるから繰り返すのだとなるのですが、それは仕組みであって「意味」ではないでしょう。そもそも、意味なんてないというのがインド的な発想なのかもしれません。

posted by 伊東昌彦 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge

2019年11月10日

それがよーわからんのだよね…

週末に友人たちと3人で東京の大井町で会いました。獨協中高大時代の友人(大井町の人)と、あとは友人と言ったら本人には失礼かもしれないけど、学生時代の彼女です。別にどうでもいい話なんですが、いわゆる「元カノ」を友人と言うのもしっくりこないんですよね、個人的に。だからと言って「元カノ」なんてねえ、さらに失礼な雰囲気漂うしなあ。しかしまあ、私も彼女にとっては「元カレ」なので、そう言われても別にいいかなあ。なんだか学生時代は妙に気が合って、学年も一緒でやたらと印象深いやつだったので、とくにそう思うのかもしれません。私の人生において、家族のほか親友なみに重要なやつではあります。

それでどういう話をするのかと言いますと、それがビール飲み過ぎてよー覚えてないんですよ。私はいつも終電があるから遅くなれず、東京で飲むときは夕方の待ち合わせにしてもらっています。私に合わせてもらっているので迷惑な話だと思いますが、友人たちには感謝しています。それで4時半から飲んだので、結局たくさん飲んでしまうわけです。大井町の友人と元カノはファッション好きなので、なんだかファッションの話で盛り上がっていたように思います。私はあまり興味ないのですが、2人が楽しそうに語り合っているのを眺めていると嬉しい気持ちになったことです。

2人とも平日はとても忙しい。私とはまったく生活リズムが異なるので、よく分かりませんが、むしろ一般的なのでしょう。私はやはり住職ということもあり、特異なリズムであると言えるでしょう。2人は仕事の悩みも多そうですが、そんな話は一切せずに好きな分野の話をして過ごせたことがとても贅沢に思えたわけです。普段、私たちは結構自分を欺いて生きています。私は公私の区分が曖昧なのでそうでもないんですが、そうせざるを得ない時もたまにあるので、会社で仕事をしている方々は言うまでもないと思えます。でも、なんでそんな生き方をしないといけないのでしょう。

それはもちろん、生きていくためでしょう。どうやら生きるということは、とてもストレスがたまることのようです。じゃあなんで生きているのでしょう。これはとても素朴な疑問で、生死を自分で決めることが難しい私たちにとっては、なおかつ解決が難しい疑問でもあります。だから哲学者や僧侶は一所懸命思考したのだと思います。でも簡単に言えば、よーわからん、ってことになるんじゃないかなあ。昔、お笑いのダウンタウンさんのコントで、「日本の匠を訪ねて」というものがありました。私、大好きなんですけど、内容としてはレポーター役の浜田さんが、伝統工芸作家役の松本さんの工房を訪ねる、というもので、頑固でありながらどこか滑稽な制作過程を題材にしています。「しごみざる」とか、「ひねりっこちゃん」とか。

それで松本さんが制作している工芸品は、何かしら楽器のようなものなのですが、同時に神聖な存在にもなっており、先代制作のものは神棚に祀られています。先代から、おそらくもっと昔から伝承された技を披露する松本さんの姿からは、凄みすら感じられます。おそらく工房に入るときには、自分自身を清めてから作業に取り掛かるのだと思われます。お弟子さん(今田さん)もとられていて、その彼の朴訥さがまたいい雰囲気なんです。下積みをしているのでしょう。1つ制作するのに2ヶ月半もかかるようで、プロ用は40万円もするということです。制作過程も佳境に入りまして、入魂のような作業段階をへて完成します。

完成品は独特な風貌であり、お寺の本堂に置いてあってもおかしくないと思います。それでレポーター役の浜田さんが最後、しめの言葉を松本さんに聞くわけです、「これは何に使うものなんですか?」と。そして、それに対する松本さんの返答は、「…それがよーわからんのだよね…」。先代制作のものが神棚にあるような神聖なものを制作して、それを次世代に伝えるために弟子もとっている。それなのに、よーわからんと。あまりにも面白過ぎて頭から離れません。しかし本当に秀逸なのは、何のために一所懸命やっているのか、引いて言えば何のために生きているのか「よーわからん」のに生きている私たち人の姿そのものが、とても滑稽だと言うことにつながっていくと思えるところです。

しかしながら、私たちは何かしら目的がないとうまく生きていくことができません。目的を敢えて探すならば、大乗仏教的には「利他」ということになるでしょう。もう、それしかない。でも、利他行しなくても本当は問題なんてないんです。悪いことしてもいいってことじゃないですよ。自分のためだけに生きていても、他人に迷惑かけなければ問題ないと言えば問題ないですよね。大乗仏教的に言いましても、それを覆すだけの教理なんてないと思います。ただ、そうは言いましても、それだけでは無味乾燥な人生になりそうです。私たちは1人で生きているわけではないので、支え合いつながりのある命をいただいています。人のために何かしたくなるのはむしろ必然的であり、そうあるべき存在なのかもしれません。

利他とは「自利利他」と表現されることが多く、自分自身の利と他者を利することが同列に語られます。自利が先に来ているのは、私たちはいまだ自分中心のものの見方から脱することが出来ていないからでしょう。大乗仏教的には本来、利他のほうが先になります。そして最終的には自他平等となり、分け隔てがなくなるというわけです。私たちはこの自利と利他のはざまで思い悩むことも多いでしょう。自分を捨てるということは、なかなか出来ることではないからです。自分を欺くことはとても辛い。自利と利他がうまく融合することができれば、とても理想的な人としての生き方になるような気もします。私は会社勤めをしたことがありませんので、あまり勝手なことは言えない立場でもありますが、「自利利他円満」という言葉もあります。円は完全を意味しています。

posted by 伊東昌彦 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge