2020年02月28日

卒業式の中止もしくは短縮

新型コロナウイルスの影響により、卒業式を中止・短縮する学校が出始めています。感染拡大を防ぐためには、致し方のない判断でしょう。大学のように規模の大きい学校は短縮でも難しいかもしれません。地元小中学校でも検討がされているようです。在校生や来賓の出席を取りやめるという方法がまず思い浮かびます。しかし在校生、とりわけ小学5年生や中学2年生の出席については、送るという意味合いに加えまして、来年は自分たちが送られる立場になることへの自覚醸成という意味合いもあります。教育の観点からは、簡単に出席取りやめという判断は出来ないかもしれません。とても難しいと思います。ちなみに来賓ですが、私の個人的経験によりますと、地元議員さんは私語が多いのでそもそも出席取りやめでいいんじゃないかなあって、そんな気もします。ははは

こうした儀式というものは、宗教的な意義をもって成り立ってきたものが多いでしょう。お葬式や法事はその最たるもので、七五三や成人式などの通過儀礼的なものも、原始的には精霊や先祖霊に対して行う場合もあったかと思います。私は坊さんですので儀式を施行する立場であり、普段から儀式の意味を考えることもしばしばです。たとえばお葬式も簡略化が進んでいますが、仮にお葬式という儀式をしないとなりますと、心のなかにモヤモヤを抱えてしまう方もいるように見受けられます。すべての人がというわけではありませんが、儀式をへていないことを不安に思う方は少なからずいらっしゃるようです。

人の心は大変複雑な構造だと思います。まさにカオスであり、私たちは自分の心であってもうまく整理整頓することが出来ないこともあります。思いや考えが出しっぱなしになったり、あるいは行方不明で出て来ないということになりますと、何らかの心の病を抱えてしまうことにもなります。ある程度、人によってそれぞれ異なりますが、心は表面的にでも整理整頓出来ていないと苦しいわけです。生活の節目というものは、これはリセット機能であり、ゴチャゴチャになった部分を処理することが出来ます。大晦日・お正月を思い起こしてもらえれば、これはよく分かります。色々あった1年ですが、それを除夜の鐘とともにある程度忘れ、新たな気持ちで次の1年を過ごすということです。リセットなのです。

卒業式も儀式であり節目でありますから、やはり何らかのリセット機能を持っています。学校生活では嫌なこともあったことでしょう。それをいつまでも引き摺っていては前へ進めません。忘れていいのです。そして新たなステージに向っていくことこそ、児童・生徒には大切なことだと思います。学校は基本的には6・3・3となっているでしょう。これも途中途中で節目となる卒業があるから、児童・生徒の健康的な成長に役立っているのです。これをまとめてしまっては、うまくないかもしれません。

と言うことで、新型コロナウイルスの影響によって卒業式をまったく中止にしてしまうというのは、大学のような大規模ではないかぎり、何とか回避してもらいたいなあと思うのです。もちろん、感染につながらないよう努力をして、という限りにおいてですが。

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2020年01月21日

TSUKIJIアカデミー 浄土真宗を学ぶ

来月、2月3日(月)に築地本願寺で中国浄土教の話をすることになりました。テーマは道綽禅師と善導大師なのですが、私の専門とするところは、両師と同時代の先輩にあたる嘉祥大師吉蔵の浄土教なので、そのあたりの違いをお伝えできればと思っています。しかし講師が私というマイナーな人なので、どなたか来ていただけるのか心配です。ともに勉強いたしましょう。

講座サイト↓
https://tsukijihongwanji.jp/lecture/tsukijiacademy/?fbclid=IwAR2r0rf9FibsxdMZAKNF9wWc6UEEVKOVKzKuX4vcVvDJ7CXe5UjVfnDAC0c
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2020年01月01日

令和二年となりまして

皆様、本年もよろしくお願いいたします。令和元年から、あっという間に令和二年となりました。今年は東京オリンピックも開催されますね。昨年の天皇陛下ご即位から、「日本」ということを意識する機会が多く続きそうです。私たちは「日本人」なんだなあと、そんなのあたり前かもしれませんが、そんなあたり前なことを改めて考えてみたくなる講義を年末、研究所の業務として受けてきました。国際日本文化研究センターの磯前順一先生です。講義のなかで先生は、神武天皇の足跡に関連した「日本のはじまり」という観光イベントのチラシを見て、そもそも「日本」って何なのか、という素朴な疑問を重視されていました。ご自身は茨城県のご出身とのことで、昔であれば「蝦夷」の人であったと言われます。「蝦夷」・・・、日本史で出てきましたね。あと九州の「熊襲」とか、大和政権に打倒されるわけですが、そういうのも含めて私たちは何となく「日本」をイメージしています。

大和政権は天皇家ということなのですが、もちろん現代日本でも継続中です。政治体制に何度か変化はありましたが、やはり同じく天皇家なのです。ということは、私たちが学んでいる「日本史」っていうのは、天皇家から見た「日本史」になりますね。打倒された蝦夷から見た「日本史」であるわけもなく、歴史の見方としてはどうしても天皇家よりになっています。学問は客観性が必須ではありますが、「日本史」という教科書的なまとまりになりますと、誌面の関係もあり、いろいろな作用もあり、どうしても限定的に表現せざるを得ず偏り感が出てしまいます。書き手の主観がモロに出るわけですが、学者であっても100%客観視できるわけもなく、やっぱりいわゆる「日本史」になってしまうんでしょう。でもおかしな話ですよね、蝦夷や熊襲って、「日本」を自称したことなんてないと思うのですが、あるんでしょうか?よく分かりませんが、つまりは降伏して大和政権に服従したのでしょう。それで日本化(大和化)したから蝦夷も熊襲も今では「日本」の範囲に入っている。何だか奇妙なんですが、もともと「日本」っていう国土の範囲が存在し、その中の異分子が蝦夷であり熊襲であるかのような表現になっていません?それって非常に学問的じゃないと思うのですが、いいんでしょうか?

とまあ、磯前先生のご講義に影響を即座に受けまして、私もこうした疑問を持つことができました。天皇家が続いていることは結構なことで、象徴天皇であるということは、私も現代日本に相応しいと思っています。ただ、天皇という存在が日本国民の象徴であるのであれば、ちゃんと「日本」のことを客観的に知りたいなあと思うのです。政治的プロパガンダで創作されたストーリーではなく、学問的に知り得ることができたら素晴らしいことだと思います。でもまあ、色々と問題あって難しいんだろうなあ。少なくとも自分自身の意識においては、「日本」という国が昔っから漫然と存在してきたかのような錯覚に陥ることだけは避けるようにしたいと思います。日本人であるならば、自国である「日本」のことをちゃんと知りたいというのは自然な感覚ですし、海外に行く場合にも、外国人との触れ合いには必要な知識ではなかろうか。

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2019年12月04日

喪中はありません

突然ですが、浄土真宗には喪中がありません。したがいまして、喪中葉書というものは存在しないのです。一般的な慣例にしたがっても構わないとは思いますが、厳密には存在しないことになります。喪に服すということの起源は、おそらく中国大陸にあると思います。簡単に言えば死者が迷わないよう、遺族が何かしら制限のある生活をするということになるでしょうか。浄土真宗では死者は迷わないので、とくに遺族が何かする必要もないのです。だから喪に服すことはしない。しかしそもそも、今は喪中葉書と言いつつも、多くの方が喪に服してはいないでしょう。たしか喪中であれば外出も控えなくてはならず、ひたすら位牌に向って供養しないといけないはずです。形式だけが残っているということでしょう。ただ、いかに浄土真宗でありましても、大切な方が亡くなったあとはその方を偲ぶことを優先し、できるだけ慎み深く生活したいものです。なぜならば、その方の死を縁として、自分自身の死についても思いを馳せる時間を大切にすべきだからです。

母が亡くなりましたので、さて年賀状はどうしたものかと思っていました。私はそもそも年賀状において、「おめでとうございます」の決まり文句は使いません。たしかに1年間を過ごすことが出来たということについて、心のなかにめでたいという思いはあります。人は節目がないと居心地が悪いこともありましょう。しかし仏教思想に照らしてみるならば、とりわけお正月がめでたいということにはなりません。毎日めでたい、有難い。そういう発想になるからです。諸行無常のなか生きている私にとって、明日があるかもわかりません。それがこうして、今日という1日が訪れたわけですから、とてもめでたく有難いことです。だから私は毎日、朝が一番機嫌がいいのです。起きた瞬間から回路全開になるような感じです。ブログもたいてい朝書いています。

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2019年11月12日

前回のおまけ

前回の記事で触れたダウンタウンさんの「日本の匠を訪ねて」ですが、実は「…それがよーわからんのだよね…」では終わりません。そのセリフでカメラは天井から覗いたアングルに変わるのですが、松本さんは再び「ひねりっこちゃん」とひと言。それでコントは終わります。「ひねりっこちゃん」とは制作段階の1つの名称です。つまり、よーわからんのだけれども、再び作業に入っていくという無意味な連続が表現されているのです。

よーわからんのだけれど、それでも私たちは生きているわけなんです。ややもすれば、このコントのように無意味に陥りがちなのですが、そこを何とか目的や目標を見つけて生き抜いている。でも、もしかしたら宇宙なんてすべて繰り返しで、何の意味なんてないのかもしれません。少なくとも、私たちには理解や体得のできそうにない事柄でありそうです。

仏教やインドの宗教ではそれを業(行為とその影響)によって説明しようとするのですが、繰り返していくことの意味までは説明できていません。どういう仕組みで繰り返すのかは、業によって次のステージが始まるから繰り返すのだとなるのですが、それは仕組みであって「意味」ではないでしょう。そもそも、意味なんてないというのがインド的な発想なのかもしれません。

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2019年11月10日

それがよーわからんのだよね…

週末に友人たちと3人で東京の大井町で会いました。獨協中高大時代の友人(大井町の人)と、あとは友人と言ったら本人には失礼かもしれないけど、学生時代の彼女です。別にどうでもいい話なんですが、いわゆる「元カノ」を友人と言うのもしっくりこないんですよね、個人的に。だからと言って「元カノ」なんてねえ、さらに失礼な雰囲気漂うしなあ。しかしまあ、私も彼女にとっては「元カレ」なので、そう言われても別にいいかなあ。なんだか学生時代は妙に気が合って、学年も一緒でやたらと印象深いやつだったので、とくにそう思うのかもしれません。私の人生において、家族のほか親友なみに重要なやつではあります。

それでどういう話をするのかと言いますと、それがビール飲み過ぎてよー覚えてないんですよ。私はいつも終電があるから遅くなれず、東京で飲むときは夕方の待ち合わせにしてもらっています。私に合わせてもらっているので迷惑な話だと思いますが、友人たちには感謝しています。それで4時半から飲んだので、結局たくさん飲んでしまうわけです。大井町の友人と元カノはファッション好きなので、なんだかファッションの話で盛り上がっていたように思います。私はあまり興味ないのですが、2人が楽しそうに語り合っているのを眺めていると嬉しい気持ちになったことです。

2人とも平日はとても忙しい。私とはまったく生活リズムが異なるので、よく分かりませんが、むしろ一般的なのでしょう。私はやはり住職ということもあり、特異なリズムであると言えるでしょう。2人は仕事の悩みも多そうですが、そんな話は一切せずに好きな分野の話をして過ごせたことがとても贅沢に思えたわけです。普段、私たちは結構自分を欺いて生きています。私は公私の区分が曖昧なのでそうでもないんですが、そうせざるを得ない時もたまにあるので、会社で仕事をしている方々は言うまでもないと思えます。でも、なんでそんな生き方をしないといけないのでしょう。

それはもちろん、生きていくためでしょう。どうやら生きるということは、とてもストレスがたまることのようです。じゃあなんで生きているのでしょう。これはとても素朴な疑問で、生死を自分で決めることが難しい私たちにとっては、なおかつ解決が難しい疑問でもあります。だから哲学者や僧侶は一所懸命思考したのだと思います。でも簡単に言えば、よーわからん、ってことになるんじゃないかなあ。昔、お笑いのダウンタウンさんのコントで、「日本の匠を訪ねて」というものがありました。私、大好きなんですけど、内容としてはレポーター役の浜田さんが、伝統工芸作家役の松本さんの工房を訪ねる、というもので、頑固でありながらどこか滑稽な制作過程を題材にしています。「しごみざる」とか、「ひねりっこちゃん」とか。

それで松本さんが制作している工芸品は、何かしら楽器のようなものなのですが、同時に神聖な存在にもなっており、先代制作のものは神棚に祀られています。先代から、おそらくもっと昔から伝承された技を披露する松本さんの姿からは、凄みすら感じられます。おそらく工房に入るときには、自分自身を清めてから作業に取り掛かるのだと思われます。お弟子さん(今田さん)もとられていて、その彼の朴訥さがまたいい雰囲気なんです。下積みをしているのでしょう。1つ制作するのに2ヶ月半もかかるようで、プロ用は40万円もするということです。制作過程も佳境に入りまして、入魂のような作業段階をへて完成します。

完成品は独特な風貌であり、お寺の本堂に置いてあってもおかしくないと思います。それでレポーター役の浜田さんが最後、しめの言葉を松本さんに聞くわけです、「これは何に使うものなんですか?」と。そして、それに対する松本さんの返答は、「…それがよーわからんのだよね…」。先代制作のものが神棚にあるような神聖なものを制作して、それを次世代に伝えるために弟子もとっている。それなのに、よーわからんと。あまりにも面白過ぎて頭から離れません。しかし本当に秀逸なのは、何のために一所懸命やっているのか、引いて言えば何のために生きているのか「よーわからん」のに生きている私たち人の姿そのものが、とても滑稽だと言うことにつながっていくと思えるところです。

しかしながら、私たちは何かしら目的がないとうまく生きていくことができません。目的を敢えて探すならば、大乗仏教的には「利他」ということになるでしょう。もう、それしかない。でも、利他行しなくても本当は問題なんてないんです。悪いことしてもいいってことじゃないですよ。自分のためだけに生きていても、他人に迷惑かけなければ問題ないと言えば問題ないですよね。大乗仏教的に言いましても、それを覆すだけの教理なんてないと思います。ただ、そうは言いましても、それだけでは無味乾燥な人生になりそうです。私たちは1人で生きているわけではないので、支え合いつながりのある命をいただいています。人のために何かしたくなるのはむしろ必然的であり、そうあるべき存在なのかもしれません。

利他とは「自利利他」と表現されることが多く、自分自身の利と他者を利することが同列に語られます。自利が先に来ているのは、私たちはいまだ自分中心のものの見方から脱することが出来ていないからでしょう。大乗仏教的には本来、利他のほうが先になります。そして最終的には自他平等となり、分け隔てがなくなるというわけです。私たちはこの自利と利他のはざまで思い悩むことも多いでしょう。自分を捨てるということは、なかなか出来ることではないからです。自分を欺くことはとても辛い。自利と利他がうまく融合することができれば、とても理想的な人としての生き方になるような気もします。私は会社勤めをしたことがありませんので、あまり勝手なことは言えない立場でもありますが、「自利利他円満」という言葉もあります。円は完全を意味しています。

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2019年09月03日

宗教と本能、その相反する側面から

宗教というのは、たいていは他者、そして人以外の命との関わりを説くと思います。一般的に言えば慈愛の心によって、可能なかぎり共存していこうという方向が見られることでしょう。しかし一方、人の本能的な側面を観察してみますと、生きることへの強い渇望が見られます。人という「種」を保存し、そしてなお「人」のなかにあっても、さらに自らに連なる子孫を残し、自己保全の存在性というものが明らかです。敢えて言えば、自己は他者よりも優先し、他者を押しのけても生き残ることが本能だと言えそうです。

不思議ですよね。こう考えますと、宗教というのは本能に背いている。本能というものが、大袈裟に言えば宇宙誕生からの原則であるとすれば、なんでその宇宙のなかにある人は、こうした宗教、つまり宗教心を持つように進化したのでしょうか。だからこそ人は偉大なんだなどと言うつもりは毛頭ありませんが、なんだかエラーしているかのようにも思えます。なぜならば、場合によっては宗教心というものが、人の覇権を制御するブレーキにもなるからです。なんでブレーキを持つことになったのでしょう。

私なりに考えてみますと、宗教心というものはリミッターのようなもので、ある程度進化した生命というものを、それ以上独善的に繁栄させないための装置なのではないかと思うのです。宇宙は可能性の宝庫でしょうし、1つの方向性だけで成り立っているわけではありません。多様性がなければ宇宙たりえず、独善的な存在というものは本来的には不要です。だからこそ、宗教心が発生するようになっている。多様性に気づかせるため、そういう精神作用が働くようになる、というのはどうでしょう。

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2019年07月22日

自分自身のこととして

この時期は7月盆と8月盆のあいだでご供養もひと休みです。例年わが家ではこの時期もしくは8月盆あとに海に行くのですが、今年は都合がつかず予定がありません。梅雨が長引いていますので良かったかもしれませんが、災害も多くなっているようで自分も気をつけないといけません。

ニュースの報道では悲しい事件事故が頻発しています。ニュースの見方には色々とあるでしょうが、少しでも自分自身のこととして写し見ていくことも大切かと思います。ニュースの世界はまるで向こう側ですが、実は同じこの世の出来事です。でも、なかなかそうは見ることが出来ません。私なんてまるで映画を見るかのようにニュースを眺めているときすらあります。

仏さまの慈悲のなか「慈」とは読んで字のごとく他者を慈しむことですが、「悲」は他者を悲しむということではありません。他者の悲しみというものを、自らにあてはめて同じように悲しむということのようです。今風に言えば悲しみの共有のようなことだと思われます。なかなか私には出来ることではありませんが、少しでも仏さまのあり方に学んでいきたいものです。

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2019年06月26日

自分という「意識」はどうなるのか

以前、たしか本ブログで死後を予想して書いていた際、今の自分という「意識」が、今まで輪廻転生してきた命のステージの意識になりかわり、あたかも代表するかのようにあればいいなと勝手に妄想しました。しかし、どうやらこれは大間違いであったと、最近は思っています。宇宙を感じればこそ、そんな自分に都合の良いことなんてあるわけないということに気づかされます。自分という「意識」は、本来の「命」へ還元されるはずです。

還元されるわけなので、自分という「意識」が消滅するわけではないでしょう。輪廻転生の一部に還るようなイメージでしょうか。「命」というものは際限がなく、私は宇宙と同じで繰り返しなんだと思っています。そういう意味においては命は宇宙そのものであり、これは『華厳経』の教えなのですが、相即しているというのが実際のところなのではないでしょうか。宇宙に還れば、今感じている苦悩なんていうものは苦悩ではなく、そういう苦悩もひっくるめて宇宙の営みなのです。たぶん

と言うことで、やっぱり自分という「意識」を今のように保持することは出来ないかもしれません。意識がなくなるのは怖いですよね。しかし、仏教的に考えても、そもそも成仏するということは、自分という「意識」がなくなることでもあるのです。「自他平等」ですから、他者と自分の区別のない絶対平等のあり方が仏です。これこそ宇宙に還るということであり、浄土とはそういうあり方の、この世から見たイメージなのかもしれません。阿弥陀如来とは宇宙そのものであり、その人格化なのです。

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2019年06月22日

シャアのセリフ

皆様、『逆襲のシャア』という映画をご存知でしょうか。ガンダム映画なのですが、本来は敵役であったシャアという人物がタイトルになっています。そのシャアがラストシーンに近いところで、本来の主人公であるアムロに向ってこう言います、「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」と。ララァはアムロによって、アムロにとっては不本意ながら撃墜され亡くなっています。シャアはそんなララァに、自分の母親になって欲しかったようなのです。当時、やたらマザコンなやつだと思ったものです。

しかし今、ああ、こういうこともあるのかあと、30年以上たって感じています。


最近、やや参ってます。両親がともに病気になり、とくに母親は命に関わる重篤なようです。父は心の病気です。ただ私は大人になってから両親とはあまり反りが合わず、ここ数年に至ってはほとんど会話をしていません。近くに住んでいるのですが、こんなあり様だったのです。両親には感謝をしておりますが、色々とゴタゴタありましてなかば喧嘩状態、と言いますか、精神的にはもう絶縁状態に近かったのです。成人してからというもの、両親に振り回される日々でした。

両親は東京で私を生み育ててくれました。普通のサラリーマン家庭でした。中高時代は反抗期でしたが、よく理解をしてくれて誇れる両親でした。しかし大学生も半ばのころから、父は会社で左遷されたような状況になり、そのまま退職を待たずにアルコール依存症になりました。退職後はお寺に移住しまして、酒浸りのなか仏事を営んでいました。私との住職交代でもひと悶着あり、今でも父は周囲に私への不満をぶちまけているようです。依存症で住職を続けさせることは出来ず、お寺のことを考えて私が継職をしたわけです。

依存症の治療でも私は尽力したつもりですが、お酒をやめたあと、父は心の病になってしまったようです。母を罵ることも多く、最近では虐待のようなことに発展していたように見て取れます。母は不満を私にぶつけて来ましたが、いつの間にか認知症になってしまい、別の病気を発症して今に至ります。ここ数年はあまり交流もなかったことから、母が重篤であるという知らせを受けても、私自身、心の動揺はほとんどありませんでした。幼い頃は母親っ子で、学生時代も母を頼りにしていましたが、私の心もどうかしてしまったかのようです。

奇妙な感覚なのですが、私の両親はまだ東京の実家にいるような気がします。そこに帰れば普通に出迎えてくれそうな気がするのです。ただし、もう家はなくなっているので、やはり両親は東京で亡くなったんだとも思えてきます。じゃあ近所にいる今の両親は何なのかと言いますと、よく分かりません。不遜ながら偽物かとも思ってしまうほどです。なんだか相当いかれてしまったのかとも思うのですが、正直に書けばこんな感じです。堂々と発表するようなことでもないのですが、こういう状況もあるんだと言うことです。

母という存在が欠けることは辛いことです。私、母親っ子ですからね。

ここ数年は母を欠いていたような状況で、今、母が実際に重篤に陥り、それが実感できました。母がいるんだけどいないというような、気妙な感覚のなか過ごしてきたのです。私は家族に対してとても自分勝手なところがあり、こうあって欲しいという自分の思いを押しつけがちです。だからでしょうか、立派であった父がアルコール依存症になって堕ちていくのを目の当たりにするのは、とても辛い日々でした。それに伴い、慈悲深かった母も愚痴の塊のようになり、私はかなり困惑しました。

両親とはこうあって欲しいという、私の身勝手さが自分自身を苦しめています。両親だっていつも立派であるわけもなく、子だからと言ってそれを許せないというのは、あまりにも一方的すぎます。何事も自分自身に原因があります。相手が悪いのではなく、自分自身の心が相手をそう思い、勝手に苦しんでいるのが私たちの実際です。私もこうなっている両親を受け入れなければなりません。しかし、これはとても難しいことです。自分の心は自分の心であっても、うまく制御できません。仏教の修行は心の制御でもあるのです。

やはり、あまり自信が持てません。私は基本的に自信過剰なほうですが、今回ばかりは参りました。母になってくれるような存在がいないと、やはりダメなのかもしれません。とは言いましても、こんな私につき合ってくれそうな人はいないでしょう。仮にいたとしても、その人にはその人の人生があるわけですし、やはり無茶苦茶な話です。こういうところからも、自分自身の身勝手さを思い知らされます。心が弱っているときほど、人は身勝手になってしまうのかもしれません。なぜでしょう。

シャアは幼いころ両親を謀略によって亡くしており、その怨みを晴らすために生きてきた人物です。しかもエースパイロットであり、政治的にもかなりの力を持っています。自分の思い通りになることも多かったと思われます。私とは随分と尺が違うわけですが、そんなシャアでも母という存在は特別なものであったのでしょう。ガンダムではシャアの苦悩というものが描かれますが、結構勝手なところがある人物です。反対に主人公のアムロには母がいます。シャアが独善的なのは、母という存在の欠落が影響しているのでしょうか。

心の弱さとは何でしょう。逆に強さとは何なのでしょうか。最近の課題です。

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2019年04月07日

怨憎-その捨て方

仏教で説く「四苦八苦」のうち、2つは人間関係の苦しみになります。つまり「愛別離苦」と「怨憎会苦」で、愛しい大事な方との離別、そして怨み憎たらしい人と会わねばならぬことです。とても現実的です。お釈迦様もお悟りの前は悩まれたことがあるのでしょう。仏教ではこうした苦悩の解決策を自己に求め、苦悩を分解して原因を1つ1つ消去していく方法を編み出しました。原因にはすべて何らかの執着心が関与しています。大事だと思う心は清らかではあっても、過度の思い込みは苦悩につながります。憎たらしいと思う心も、都合の悪いものを排除したがる自己への執着心が見えてきます。

お葬式はまさに愛別離苦であり、ご遺族の方の苦悩ははかり知れません。これを即座に執着心として一括りにしてしまうのは暴論ですが、時間をかけて振り返って見ればそう思える時も来るのかもしれません。有限性のなかで生きているのが私たちですので、離別はやはり避けては通れない真理と言えるでしょう。

お葬式は非日常と言えますが、日常的には例えば彼女に振られたとか、そういう場面も愛別離苦であり、場合によっては非常な苦しみを伴います。純愛と狂愛は紙一重と言いますか、それを思わせるような事件が頻繁に起きていることからも苦悩の大きさを窺い知ることができます。また逆のことを言えば、怨憎会苦は日常的に嫌いな人と会わねばならないことの苦悩であり、むしろこちらのほうが日常性が高いと言えそうです。

私も怨憎会苦を持ち合わせています。仏教では怨み憎む心を捨てることこそ、怨憎に打ち勝つ唯一の方法だと説きます。これは一般的に言ってとても難しい。だから瞑想して心を落ち着かせる必要があります。日頃、掃除をしているとき、車を運転しているとき、注意力は必要なのですが思考は空いているような時間が結構ありますので、こういうときは瞑想に準ずることができます。苦悩をとらえ、苦悩の原因を探り、原因は消去可能であることを知り、それを実践することができれば、おそらく苦悩は消えていくわけです。しかし、何より難しいのが最後の実践です。四苦八苦などの知識を得た上で、瞑想によって最初の3段階までは意外と簡単に進めることが可能かと思います。

怨みや憎しみというものは、言い換えれば自己都合に不適合な部分の排除です。排除しなければ都合を押し通すことが出来ないので、自然に排除する方向に向かうのでしょう。もしかしましたら、生命の生存競争ということと関係があるのかもしれません。根が深そうです。

捨てるのが一番なのですが、捨て方ですよね。捨て方が難しいんだと思います。普通の生活をしながら、どうやって捨てれば良いのでしょう。むしろ、持ちながら捨てるということにヒントがあるかもしれません。私も悩んでいます。

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2019年02月15日

宇宙の流れに還る

あの世はあると思います?

私は多分何かしらあるんじゃないかと思っています。とか言って、坊さんとしては極楽浄土なんですが、これも敢えて言えばそう名づけているだけで、世間的な言い方に過ぎません。私は浄土真宗で言うところの、浄土へ還るって言い方がとても好きなんですが、私たちはどっかへ還るんですよ。でも、それはこの宇宙と無関係なところではなく、次元は異なるかもしれないけど宇宙のどこかに関係していると思うんです。仏教では因果応報と言いますが、因果というのは関係性であって、関係性は絶対に継続し続ける。継続すると言うけれど、それは私たちが普段感じているような直線的な時間においてではなく、円になってつながっている。過去や未来というのは直線的なイメージにすぎず、円であれば過去は未来で未来は過去になる。命はおそらく、こうした宇宙の根源的で無限な流れに還っていくのではなかろうか。

私の命は、今、私なわけですが、私じゃないときもあり、無数に宇宙のなかで生きてきている。それはこれからも無限に続いていくわけで、還っては往き、往っては還る。還るまでの過程がどうなっているのかは分からない。幽霊がよく出るらしいけど、幽霊だってもしからしたら何らかの過程であって、何かの間違いで見えてしまっただけにすぎないかもしれない。システムにエラーはつきもので、エラーと修正を繰り返している。幽霊はエラーのたぐいかもしれない。しかし、幽霊が妙に人の姿であったりするのは、どうも変だなあ。私という個性はデータとして命に残るだろうけど、それを私というステージが終わっても表示する意味はまるでない。還るわけだから。やはりそこは生きている人のイメージであって、極楽浄土などの描写と同じように、世間的なイメージなんだと思う。経典は言葉で表現されるものなので、どうしても世間を超えることは出来ない。

私は宇宙であり、宇宙は私なのではなかろうか。一即一切、一切即一、という言葉があるけど、まさにその通りで、私自身が宇宙なんだという発見が仏教にはあるのでした。そして、宇宙は成、住、壊、空を繰り返している。この無限な繰り返しに私は還るのではなかろうか。

宇宙の流れに還るのが死ぬってことなんでしょう。ただ、還るっていうのも世間的なイメージです。

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2019年02月12日

前世と来世‐解脱‐

のこす記憶.com 「生死をたずねるコラム」より

前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積と発動を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/

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2019年01月28日

2月法話会お休みのお知らせ

2月法話会は都合により休会といたします。申し訳ございません。次回は3月3日(日)午後2時からとなりますので、お参りをお待ちしております。 合掌

住職 伊東昌彦
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2019年01月02日

本年もよろしくお願いいたします

皆様、本年もよろしくお願いいたします。かつて私が坊さんなりたて20代の時分、浄土真宗では「良いお年を〜」とは言わんのだ(→年に良いも悪いもないから)、とある先生が仰っていたのを拝聴しました。ついでに「あけましておめでとう」とも言わん(→新年になってもめでたいことはないから)、とのことでした。若い私はなるほど、素晴らしいこれこそ仏教なのだと合点したものです。たしかに良し悪しというのは自分自身に帰属するものなので、良い年や良い日があるわけではないというのは実に仏教的です。

そのせいもあるのか、今でも年内はどうも挨拶に困ってしまうときがあります。年末はたいてい皆さん「良いお年をお迎えください〜」ってなるので、そうなると20代の刷り込みが効きまして、思わず「あっ、有難うございます」と適当な返答になってしまうのです。間違ってない返答ですが気が利かないですよね。浄土真宗ってのは傍から見ると髪の毛フサなので軟弱な印象を受ける方もいるかもしれないのですが、意外と教えには頑固なところありまして、妥協は許さぬという、何とも厳しい掟のようなものがあるのかないのか。

クリスマス頃にディズニーランドに行きましたら、出会うキャスト出会うキャスト(→ディズニーランドではスタッフをキャストと呼ぶのだと女房から伝授)、皆さん「ハッピーホリデー」と声を掛けてくれました。昔は違ったかと思います。数年前からなのかもしれませんが、今回はとくに印象深かった。これは長年アメリカにおられた先生から教えてもらいましたが、「メリークリスマス」だとキリスト教徒だけなので、他宗教の人々に配慮してクリスマス休暇でも使用されるようになった挨拶だそうです。ディズニーはアメリカン。

挨拶でも色々と宗教事情が関係してくるもので、やっぱり宗教は生活に深く関わっているものなんだなあと思います。そもそも「挨拶」だって仏教、とりわけ禅で使われていた言葉ですし、こういうのもっと発信していかないとわけわからなくなってしまう。「挨拶」は相手の心を見極めるという意味だったかと思うので、実は返答こそが大変重要なわけです。なので年末での上記のような私の返答では、何だか適当な返答だなあと思われることとなってしまい、修行が足りんということになるでしょう。

一般的には「良いお年を〜」と同じ言葉を返すのが穏当なわけですが、仏教的には「良し悪しなし!」とかいきなり返答すれば良いのでしょうか。多分、相手の方は焦りますよね、気に障ること言ったかなって。かつて臨済の山田無文老師がある講演会の質疑応答か何かで、「あの世はどんなところでしょうか?」と尋ねるおばあちゃんに、いきなり「ない!」と返答したとの逸話を聞いたことがあります。おばあちゃん焦ったろうなあと思いますが、禅としてはたしかに「ない」なんですよね。諸々の存在というのは、人が普段使っているところの「ある・なし」ではないからです。

とは言ってもねえ、もちろん老師もその後フォローされたと思いますが、返答ってのは大事だもんだなあというのが「挨拶」の本義から窺い知ることが出来ます。で、「良いお年を〜」に対する返答はと言いますと、浄土真宗としては相手の気持ちを有難くいただき、「有難うございます」と答えつつ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を添えるのがひとまず穏当でしょうか。うまい返答が見つかりません。浄土真宗の場合、「南無阿弥陀仏」がオールマイティ性を発揮してしまうので、言葉は悪いですが面白味に欠けるかもしれませんが、教えにも適っているとは思います。

私たちは、良し悪しとは本来、自分自身に帰属するものであるにも関わらず、それを年や日のせいにしているところがあります。今年は良くない年だからとか、そんなのまともに考えればあるわけないことです。でもなあ、どうしても責任転嫁したくなりますよね。何でも自分でしょい込むのは辛い。それが現実なんだと分かったときはもっと辛い。「一切皆苦」と仏教では説きますが、ああ、ほんと苦しいこと多いなあと40代も後半になってつらつら思います。阿弥陀仏という仏様は、もとよりこんな私たちを救うためにいらっしゃるので、だからこそ阿弥陀仏におまかせしましょう、ということで「南無阿弥陀仏」なのでした。

あなたにとって「良い年」になりますように、という意味を含んだ「良いお年を〜」という挨拶ですが、実のところ嫌いではありません。仏教的にはちょっとなという側面もありまして、このように考えてみたくなったわけですが、何とも日本人的な奥ゆかしさがあり心地よい響きだと思いません?

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2018年12月24日

年末は宗教ラッシュ

今日はクリスマスイブですね。私、クリスマス大好きなんですよ。世代なのか分かりませんが、もう無性に嬉しくなってしまう。サンタさんにプレゼントもらったからでしょうか。親には感謝しないといけません。そして不思議なことに、クリスマスが終わると一気に日本は大晦日〜お正月。この変わり身の早さは日本的だなあと感心します。キリスト教、仏教、神道、年末には色々な宗教が登場して面白いですよね。こういう催事は楽しみたけりゃ楽しめばいいし、嫌なら無視していれば過ぎていくものです。テレビなんか見なけりゃいいわけですから。まあ、街中の雰囲気は如何ともし難いですが、そこはまあ我慢しましょう。

ただ、宗教の本質はもちろんこうした催事化した部分ではないわけで、人生のいつか、それがいつかは分かりませんが、宗教が必要なときが誰しもあると私は思います。理性だけでは行き詰ってしまうときなんかも、やはり宗教は必要なんだと思います。日本の公教育には宗教が原則的にはないから、宗教は宗教施設や家庭などで教わらないといけない。宗教っぽものは溢れている日本なんだけど、どうも深入りしないのが日本人的感覚なのでしょう。畏怖の念というやつかもしれません。さらぬ神に祟りなしとも言えるでしょう。宗教は大事だけど、ある程度の距離を取っておきたいなあという心情かと思います。祟り怖い。

それもまあいいとは思いますが、宗教にはせっかく人生の歩みに役立つような思想があるのだから、ちょっとぐらい拝借したほうがいいかと思います。仏教だって除夜の鐘やるでしょう。あれは煩悩ってのを打ち消すためだと言われるけど、煩悩ってのは何なのか。どうやら皆にあるようなもので、あまりよろしいものではない。自分自身のものなんだけど、それが自分自身を苦しめているという。なんともまあ人間というものは矛盾極まりないものだということが分かります。煩悩は簡単には捨てられず、だから毎年、除夜の鐘が開催されるのでしょう。自分で自分を苦しめているのだ、というのは多くの伝統宗教で説くところかもしれませんね。

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2018年10月15日

漠然とした不安によって

40代は精神に異常を来しやすい年代のようですが、とても良く分かる話です。私自身、親に育ててもらい独立し、有難いことに子にも恵まれ頑張ってきたつもりです。しかし、漠然としたことなのですが不安を感じます。順不同で簡単に言えば、仕事の成果が若い頃より出ないこと、今までと同じように家族を養っていけるのか、そして、両親をどう介護していけば良いのか、とても不安です。おそらく多くの方が、漠然とした不安を抱えていらっしゃることでしょう。

幸い坊守の両親は心身ともに健康ですが、私の母は週2回デイサービスに通っています。調子が良いときは犬の散歩に外出しますが、悪いときは記憶も錯綜してしまうほどになります。母と話をした叔母から聞いたことなのですが、ちょうど調子が悪いとき、母は叔母に「今、お薬師さまの隣に引っ越してきたの」と言うらしいのです。「お薬師さま」とは中野の新井薬師のことで、母の実家は新井の隣にある上高田です。今は善福寺の境内に住んでいるわけですが、部屋から善福寺の山門が見えるので、それを「お薬師さま」と勘違いしているようなのです。

一方、父はアル中治療以降、精神的にとても不安定になってしまっており、私もうまくコミュニケーションが取れません。実のところ、私自身も父のアル中治療に付き合うなか、精神的にかなり参ってしまったところがあります。それから父と話をすることが苦痛になってしまい、母のことも、なかばほったらかし状態であったのです。父は母につらく当たることも多かったようで、母の状態が悪くなった要因になってしまいました。気づいたときには軽い認知症になっており、今に至るというわけです。

両親の介護について、知識としては色々と触れる機会もありました。しかし、こうして現実になってきますと、気持ちをうまく軌道に乗せることが出来ません。とくに父とはアル中のことで長年対立してきた経緯もあり、心に引っ掛かったものを取り除くことは至難の業です。心というものは、やはり積み重ねなんだなあと改めて思います。仏教では「業(=自分の行いとその影響)」は蓄積していくもので、それが原因となって次の結果をもたらすとします。自分のしてきたことや考えというものは、一朝一夕で心からなくなるものではなく、いつか何らかの結果を出すため、心にちゃんとしまい込まれてしまっているのです。

私たちが意識している「私」は、仏教的に言えば心の表面に張り付いている膜みたいなものです。対外的には「私」があたかも心の統括者のように顔を出しているのですが、それは心の核から派生した一部に過ぎません。膜である「私」は心をちゃんとコントロールすることなんて出来ないわけです。出来ることと言えば、可能なかぎり心を良い状態と接するようにし、心の自浄作業を促すことぐらいでしょうか。「私」は能動的にいらないものを取り除くことは出来ないので、そう仕向けることに努めることになります。それが仏道修行です。自力だろうが他力だろうが、やってることはどちらも同じです。

家族のことをブログに書くことには批判もあるかもしれません。両親には申し訳ないと思いつつ、坊さんだってこうした不安や悩みを抱えているということ、自責の念を持ちながら書きました。これからどうすれば良いのか、まったくもって不安です。この不安っていう気持ちは、多くの問題行動を引き起こす原因にもなります。不安は恐れを生みますし、恐れによって人は意固地になりがちです。意固地になりますと他者とのコミュニケーションがうまく取れなくなることもあるでしょう。不安とは安心ではないということで、とても居心地の悪い感覚ですよね。

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2018年10月05日

善福寺能のお知らせ

今年も善福寺能の季節となりました。10月27日(土)午後5時30分より、善福寺本堂におきまして開催いたします。一般の方はお一人様3000円となりますので、お電話でご予約のうえ、当日お納め下さい。

≪ 経 正 ≫
平家の公達経正は一の谷の合戦で、弟の敦盛を庇って逃げ遅れ、自刃して果てる。経正が幼時を過ごした仁和寺ではこれを悼んで、嘗て経正に預け賜って置かれた名器青山の琵琶を仏前に手向け、管弦講(音楽葬)で供養する。深夜、経正の幽霊が幻のように現れ、弔いを喜んで手向けの琵琶を弾き、しばしの夜遊を楽しむが、戦死者の宿命として修羅の苦患を受ける姿を恥じて灯火に飛び入って消え失せる。

開催要項
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2018年08月20日

自我を抑え込むのは苦しい

お盆も無事終了しまして、少々気が抜けたような感じです。それにしましても、本当にお盆が終わると秋ですよね。空気が変わるというか、朝もとても涼しく気持ちの良い日が続いています。私は夏生まれなので基本的に夏好きなのですが、おじさんになってからは秋好きになってきました。冬が近づき、やや鼻から吸う空気にも冷気が漂っているような状態が好きです。しかし多くの子供たちにとっては、あまり早く秋になってしまうと残念は思いが募るばかりかもしれませんね。これから親御さんが夏休みというご家庭もあるでしょうし、せめて夏休み中は夏らしく。そんな思いも同時に沸き起こってきました。

ところでわが家は、小学生・中学生・高校生と3人の子供に恵まれました。高校生は大学受験も近いので、今夏から少しづつ勉強を始めています。学校の成績は超低迷ですので、あまり上位は狙えそうにはありませんが、自分で進路を決めて欲しいと思っています。小学生は上の二人と同じように宗教系の学校に入れるのか、まだ進路は検討中ではありますが、一応、勉強はしているようです。カリキュラムを間引きながらですので、上の二人に比べれば緩いかもしれません。そして、一番ヒマなのは中学生です。部活動も文化部なので、かなりヒマなようで、終日ゴロゴロしていることもあります。数日前は2日間で『あしたのジョー』を全巻読破していました。読み終えていきなりシャドーボクシング。インドアな性格なので、まあこれはこれで良いのかもしれませんが、私以上のもやしっ子になっていると思います。

わが家はお寺ということもあり、おそらく一般ではないところもあろうかと思います。私は先代がサラリーマンでしたので、お寺では育たず、ごく一般的なサラリーマンの息子として生まれ育ちました。だから分かるのですが、やはりお寺で生まれ育つと、当たり前ですが「お寺の子」になりました。浄土真宗の場合は誰かにお寺を継いでもらわないと困るので、結構お子さんを育てることに神経を使うこともあるでしょう。私はとくに一般人なので、むしろ力が入り過ぎてしまったところがあるかもしれませんが、それぞれの子にどういう学校が合うのか、かなり考えて進学をさせたりしました。奏功しているかは分かりませんが、親から見て上の二人は進学先の友人とうまくやっているように見えるので、ひとまず安心しています。ただし結果的に見まして、親の思惑通りというよりは、ラッキーであったところもあったかもしれません。

子供にとりまして、学校というのは家庭と同じぐらい重要な社会です。ここが合わないと厳しい。大人はある程度、自分で居場所を見つけることが出来るわけですが、子供はそうはいかず、決められた場所にちゃんといないとダメってことになりがちです。多くの場合、多少問題があっても何とかなるんでしょうが、何とかならない場合、子供は困ってしまうことでしょう。勝手に転校するわけにはいきませんし、基本的には我慢を強いられるということになります。

「我慢」ってのは元々は仏教用語で「慢心」のような意味合いです。現代的にはむしろ逆に「忍耐」という意味で使われていますので、正反対になってしまったようです。しかし、この現代的な我慢というものには限度があるわけで、それを超えれば爆発してしまう可能性を孕みます。それは自我を抑え込んでいるからでしょう。仏教的には抑え込むのではなく、消していかねばなりませんが、それは厳しい修行によってようやく達成されるほど難しいものです。「慢心」と聞きますと悪いイメージですが、これこそ自分自身だとも言えるわけで、自分自身を抑えることほど苦しいものはないでしょう。苦しんでいる子供は大勢いるのです。

大人になれば苦しい状況でも奮起せねばならないことがありますので、学校での苦しみもそのトレーニングなのだという考えもあるでしょう。半分ぐらいは私も同調しますが、しかし上記のように、子供は大人に比べて自分自身で苦しみから逃れることが難しい状況にあります。トレーニングなんだという考えだけで子供に我慢を強いるのは、はっきり言って無茶苦茶だと私は思います。つまり、こうした状況に子供を置くことになる現代的な教育環境そのもの自体に、大きな欠陥があるのではないかと思えてきます。なんだか箱のなかに適当に子供を入れて、蓋をしておしまい、というような大雑把さを感じてしまいます。そんな大雑把でいいのか!?

私は今、「適当」という言葉を使いました。「いい加減」という意味での使用です。しかし字義からするならば、本来は「ふさわしい」という意味合いが強いはずです。「適して」、「当たって」いるわけですから、当然だと思います。子供の教育においては、この本来的な意味で「適当」な環境が与えられるべきではないでしょうか。とくに10歳ぐらいを超えたあたりから、子供には随分と自我や個性が育ってきます。中学にもなって皆で同じようにっていうのは、そもそも無理がある発想なんじゃないかと。多くの中学生が夏休みも運動部で汗を流すなか、『あしたのジョー』をかなり真剣に読んでいるわが家の中学生、そして、今朝のニュースでは同学年の子が自ら命を絶ったかというニュース。どのような背景があったかは分かりませんが、夏休みが終わる前ということを考えますと、学校の事柄が無関係ではなさそうです。学校であっても家庭であっても、教育は常に個々を伸ばすものであってもらいたいと切に願います。

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2018年08月08日

人とマシーン

8月もそろそろ本格的にお盆の季節になってきました。8月はとりわけ日本人にとりまして追悼の意味合いが深い季節とも言えます。6日には役所からの通達で原爆投下時刻に梵鐘を突きました。その数日前でしょうか、投下した飛行機の乗務員の手記が発見され、原爆が炸裂して安堵したというような内容であったかと思います。とても複雑な思いがいたしました。軍人としては重い任務であったかもしれず、命令に従うのは当然と言えるのでしょう。しかし、その命令も含めてその任務によって、一瞬にして老若男女、多くの生命が奪われてしまったことには思いを馳せることがなかったのかもしれません。退役後には悩まれたこともあったことでしょう。こう考えますと、人が人に命令をするという行為自体、人の存在という観点からしますと大きな問題を孕んでいるということに気づかされます。

お釈迦様は天上界からこの世にお生まれになられた際、「天上天下唯我独尊」と説かれたそうです。この世に命を与えられるということは、その命が何よりも尊いことを示しており、それは誰であっても独尊性が認められるものでなければなりません。他者に蹂躙されて良いわけはなく、皆がそのことを認識していなければ、この世は無茶苦茶になるだろうという説示だと思います。

他者を思い通りに動かせることに魅力を感じる人もいるでしょう。歴史を振り返れば、暴君はいくらでも存在していました。権力にしがみつく輩というものは、こうした麻薬のような快楽に溺れているとしか思えません。いつの時代も、そしてこれからも人間の本性が変わることはないでしょう。私にも、おそらく誰にでもこうした欲望はあるかと思います。しかし、蹂躙されて良い命なんてないんだ、という思考を持つことが出来れば、ちょっとはマシになるかもしれません。人は思考を捨ててしまえば、ただのマシーンになってしまいます。

やや飛躍しますが、映画『ターミネーター』シリーズにおいても、人とマシーンの違いという事柄がテーマの1つになっていました。他者に思いを馳せるということ、主体的に思考するという行為が人であり、それは肉体か機械かという構造的な問題ではない。裏を返せば、人であってもマシーンになってしまう可能性が大いにあるということのようでした。

今年はとくに暑いようですので、皆様お気をつけてお過ごし下さいませ。今日もお盆参りに出かけて参ります。

posted by 伊東昌彦 at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge