2016年05月25日

六福寺ありがとうございました

六福寺ツアー2016は、ご好評をいただきまして定員に達することが出来ました。締め切り後にお電話をいただきまして、お断りさせていただきました方々にはお詫び申し上げます。来年も継続して企画していきますので、どうぞ宜しくお願いいたします!!

なお6月11日(日)にも、伊豆箱根鉄道主催のツアーにおきまして六福寺に寄っていただくこととなりました。6月は六福寺ということで、今後もお寺を身近に感じていただけますよう、頑張っていきたいと思います。

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2016年04月21日

坊さんこそ法事の意義を

法事をするというのは、ちょっと煩わしいところもありますよね。家族だけならまだしも、親戚に声をかけるとなると、日程調整なども大変です。しかし、法事をしないというのも、どうも落ち着かない。故人にも悪いような気もするし、とりあえずやっておくかなあ。

おじいちゃんおばあちゃんの17回忌ぐらいになりますと、こんな具合に感じる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。

一括りに法事と言いましても、故人が高齢であったのか若年であったのかで、遺族の感じる思いの重さは異なります。しかし、前者の場合を一般的に見てみるならば、上記のような感覚がないとは言えないと思います。なぜでしょうか。高齢で亡くなるほうが「自然」だと思えるからかもしれません。

年回法事の成り立ちを歴史的に振り返りますと、どうしても「祟り」という言葉に行きあたります。非常に生者中心の手前勝手な考え方なのですが、「死」への恐怖心から、故人はこの世に未練があるに決まっていると思うわけです。祟りを鎮めるためには「祀り」が必要です。まあ、言うなれば声かけをしまして、私たちは決して忘れてはいませんよ、とおだてるのです。門外漢なので詳細は飛ばしますが、「廻向」(善行を他者、つまり法事の場合は故人に振り向ける)という考え方に基づいた年回法事は、こうした祟り対策として効果絶大だったのでしょう。宗派の教義としてあれこれ後づけされてはいますが、根本はこれです。

日本人は祟りが好きなんですが(漫画や映画でもよくある題材でしょう)、科学的思考の浸透によって、祟りへの恐怖心はかなり薄らいでいると思えます。敢えて言えば、だから法事をしなくても大丈夫になってきているのです。法事をしないのは不信心でも何でもありません。そもそも法事は仏教とは無関係なところから発しているので、信心は関係ないわけですね。

こうして書きますと、私が年回法事を否定しているかのように思えるかもしれませんが、実は祟り云々以外にも法事の効能はあるのです。もちろん教義なんて無関係です。年回法事の間隔というのは、年が経つほど長くなっていきます。1周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・、という具合です。別れの苦しさというのは理性的に解決できるものではありません。時間が必要なのです。感情というものは理性で何とかなるほど単純ではない。忘れようとして忘れられるものでもありません。忘れる必要はむしろない。時間をかけて、少しずつ受け入れていくしかないのだと思います。

また、これは良く言われることですが、やはり家族や親戚が会する場としての機能は大事です。故人の縁で皆が再会することになるのです。仲が悪くても、久しぶりに会えば好転のきっかけを掴めるかもしれません。ネット時代ではありますが、やはりちゃんと会って、お互いに顔を見て話をすることは意義深いことです。法事でもないかぎり、なかなかこうした機会を作り得ないとも言えるでしょう。有難いことです。

法事において、何言っているのか分からん教義的な話なんて不要です。むしろ、坊さんこそ法事の意義を理解していないので、あんな話をして適当にごまかしているとも言えるでしょう。私もそんな事がありました。難しい話をしますと、何となくその場を切り抜けることが出来るので、それでおしまいにしてしまうのです。参拝の方にとっては、仏教の話を聞きに来たというよりは、故人の話をしに来たんだと言えます。もちろん仏教の話をしても良いのですが、見当違いな話は控えるべきでしょう。

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2016年04月14日

「勝負」という言葉の響き

ある世界レベルのスポーツ選手の件に触れまして、「勝負」という言葉の発する響きを少し考えてしまいました。たしかに「勝負」には色々な側面があります。単純に考えれば勝ちと負けですが、「試合に勝って勝負に負けた」という複雑なニュアンスの使われ方もします。後者には倫理的側面が影響していることでしょう。

私はスポーツをほぼしません。中高時代は生物部とバンド。大学時代はバンドだけしていました。運動部にあるような「勝負」とは縁遠い存在でした。しかし、バンドであっても「勝負」はあるのです。もちろん同じ出演者とのことではなく、かと言って観客の方とのことでもありません。敢えて言えば前回の自分でしょうか。…やや無理があるかもしれません。

いずれにしましても「勝負」には相手が必要です。相手をどのように捉えるかということが、「勝負」という言葉の響きにも変化を与えている気がします。スポーツにおける「勝負」、賭博における「勝負」。同じ響きであるとはどうも思えません。

もちろん賭博と言いましても、媒介となるもの、たとえば競馬等の競技はスポーツです。ラスベガス等でのカードゲームにおいても、それに準じる「勝負」となることでしょう。競馬=賭博、カードゲーム=賭博、という図式が常に成り立つわけではありません。違法ですが「野球賭博」というものだって成り立つわけですから、競馬やカードゲームはあくまでも媒介です。

賭博の「勝負」に相手への尊敬はあるのでしょうか。「勝負」によって得られるものは何でしょう。お金以外に得るものは何でしょうか。私は賭博をしませんのでイメージでしかないのですが、少なくとも、上記のことからスポーツにおける「勝負」と、賭博における「勝負」とでは、言葉の持つ響きが異なっているのではないかと思えるのです。

スポーツ観戦は楽しい。私も野球観戦が好きです。実際にプレーしなくても感動するからです。スポーツの「勝負」に感動するからでしょう。

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2016年04月05日

タクシーに乗る幽霊

新聞の電子版で、宮城県にある大学の学生さんが「タクシーに乗る幽霊」をテーマに卒論を書いたという記事を見ました。地道な現地調査の結果、タクシーの運転手さん数人に業務中の幽霊体験のようなものがあったことが判明したそうです。春ですがちょっと背筋が冷たくなる内容です。大勢の方が亡くなりましたので、そんなこともあるのかなあと思いながら記事を読みました。学部生ですし、色々なテーマに取り組んで問題ないと思います。

記事の締め括りは、「乗せたのはいずれも比較的若い男女。もし犠牲者の霊魂だとしたら――。「若い人は、大切な誰かに対する無念の思いが強い。やりきれない気持ちを伝えたくて、個室空間のタクシーを媒体に選んだのでは」と、工藤さんは考える。」とありました。本論を読んでみたい気持ちになりました。

なぜならば、この記事を読む限りにおいては、上記が結論であれば論文ではありません。まず、無念の思いは年齢には無関係ですし、そもそも、それを幽霊とされる立場から論じるのは学問ではなく、空想に過ぎません。指導教官の先生もついていらっしゃるでしょうし、おそらく、そんなことはないと思います。記事はどうしても「切り取り」になってしまうので、これはご本人の語ったことの一部なんだと思います。

本論はもちろん、詳しい情報を知っているわけではありませんが、タクシーの運転手さんが体験したという「幽霊体験」について、やはり運転手さんの心情や背景を踏まえて、むしろ運転手さんの側から論じることになったと思います。幽霊という存在を媒介にするのは問題ありませんが、その根拠はあくまでも「見た」側に求めないと、論理的に成り立たないものになってしまうからです。宗教ではありませんので。

この記事を書いた記者の方は、もしかしたら、「幽霊を題材にした論文」という話題性に少々気持ちが向き過ぎているのかもしれませんね。

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2016年02月26日

今年、専門用語を見直して

最近坊さん一部で人気だけど、実際は不人気なんだよね。お葬式に坊さん呼ばれないこともある。なぜ不人気かと言えば、そりゃ不要だと思われているから。なんで不要と思われるのか、この点はとても重要だと思います。私も含めて多くの坊さんが分かってないことなのでしょう。

坊さんは仏教信者だから何でも仏教的に考える。もう仏教にどっぷりだ。当然だけど、実はここに落とし穴があるのかも。噛み合ってないんだと思います。昔、と言っても戦前でいいと思うけど、仏教は偉かった。生活での色々なシーンに仏教が登場していた。権威があったんだね。いわゆる供養だけではなく、余暇だって仏教だ。旅と言えば参拝だったろうし、非現実的な世界を仏教寺院は提供していた。

戦後、西洋的な文物が本格的に入ってきて、仏教の権威は失墜してしまった。偉いもんだと思われていたんだけど、あれ?別に仏教なくてもオッケーじゃない?という風潮になってきたのだろう。定期的に仏教再考とか言われたりしたが、あくまでも知識や教養としてであり、生活から仏教はどんどん遠ざかっていった。

しかし供養だけは仏教の専売特許だったので、坊さんはその現実に気づかずに来てしまった。そしてとうとう、供養からも坊さんが消えかけている。供養について、押しつけがましいんじゃなかろうか。昔はああだこうだとご託を並べても大丈夫だった。皆が有難いと感じたから。坊さんは経典に書いてあるようなことを一方的に喋っていれば済んだ。

もうこうした態度は通用しない。噛み合わないとダメでしょう。経典などの権威に頼りすぎていたのかもしれない。経典に説かれることを、本当に生活に即して見直したことがあったであろうか。私も多少は経典や論書を勉強した身であるけど、法話の際、専門用語の羅列で済ませていたときもあった。実は専門用語を使うと体裁は整うので楽なのだ。でも聞いているほうは???でしょう。一方的だよね。

そもそも「供養」という言葉だって専門用語です。

供養とは本来、仏など尊い存在に仕えることを意味するそうですが、「慰霊」なんかと同意義に用いている坊さんも多いんじゃないかなあ。「慰霊」だって意味不明なところあるよね。「慰める」って言っても、本当に慰めてほしいのかどうか、真剣に考えたことってあるかなあ。まあ、浄土真宗では「慰霊」という言葉は使わないんだけど、日本社会では一般的に使われているし。

身近なところから、もう一度、坊さん連中は自分なりに答えを出していく必要ありそうだね。今年はそんなことをテーマに、私も頑張ってみようかと思っています。

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2016年02月19日

和み料理きんとき

大雄山駅から徒歩2分ほどのところに和み料理きんときがあります。六福寺御用達。

フェイスブックページが出来たようです。
https://www.facebook.com/%E5%92%8C%E3%81%BF%E6%96%99%E7%90%86%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%8D-186464158368229/

料理おいしい。マスター男前。是非どうぞ!
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2016年02月13日

ラッピングだけじゃ困る

年末、小学生の息子がクリスマスプレゼントをくれました。本物ではなく、自分の机にあったものをラッピングして、プレゼントもどきを作ったわけです。サンタさんからのプレゼントだそうです。たまにカワイイことをするのです。うまくラッピングされていましたが、中身は自分がいらなくなったおもちゃです。ラッピングをしたかったようで、本人は満足げでした。私もとても嬉しかった。

こうしたプレゼントのみならず、いたるところでラッピングを見かけます。たとえばホームページだってその一種だと思えます。すごく綺麗で巧みなホームページを見ましたら、きっと中身も素晴らしいんだろうなあと感じるからです。ただ、中身がせこいとガッカリですよね。善福寺もホームページは立派だねと褒められますが、肝腎の中身については・・・。ガッカリさせないようにしないといけません。

また一人、国会議員の方が辞職されます。国の要職ですよね。結構あっさり辞職してしまったようです。育児休暇を取得されるとのことで注目を浴びていましたが、辞職の原因が女性問題とはねえ。驚きました。若いということ、育児休暇取得を叫んだこと、どれもラッピングだけだったようです。うちの息子のプレゼントじゃないんだから、これじゃあ困ります。何でも外見は良く見える時代ですね。
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2016年02月07日

毎年の繰り返し

最近、自分の頭の悪さにガッカリすることが多くなりました。頭が回らなくなってきたというか、もとよりイマイチな回転なんですが更に動きません。しかも腹も出てきてアゴも気になるお年頃。運動しようかと思って縄跳びすれば二重跳び3回目で後ろに転倒。子供に爆笑されてしまいました。昔は縄跳びうまくてねえ。昔と言っても幼稚園のときですが。頭が回らないのも運動不足が原因かもしれません。おまけに酒も飲み過ぎなので要注意です。少し控えようかと思います。

とまあ、いきなりネガティブ発言を繰り返してしまいましたが、40歳を過ぎると健康に留意しないといけないと実感しています。出来れば寝たきりにならず、本を読んでも理解できるよう頭もスッキリした状態で老後を過ごしたいものですが、こんな状態では望めないかもしれません。

毎年新年明けると思うんですよね。運動しよう。英語を勉強しよう。繰り返しです。ま、あまり気にせず、おそらく来年も同じことを思うでしょう。ハッハッハ

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2016年01月23日

関本の大黒一

先週、六福寺の新年会で関本の大黒一さんに行きました。お好み焼き屋さんです。カウンター席では何回かお邪魔しましたが、お座敷は初めてでした。お好み焼きも美味しかった。しかもメニューはお好み焼きのみならず豊富です。家族でも行こう行こうと思っていたのですが、何故かなかなか機会がなく、まだ行っていません。近日中に行きます!お近くの方は是非どうぞ!!

ぐるなびですが
http://r.gnavi.co.jp/5e5akn950000/

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2016年01月16日

虐待とネグレクト

私は一般社団法人「日本子ども虐待防止学会」という学会に入会しています。とは言いましても専門は仏教学なのでまったくの門外漢ですが、虐待防止のための研究が少しでも進めばという思いで、幽霊会員ですが入会させていただいています。『子どもの虐待とネグレクト』という雑誌が送られてくるのですが、非常に厳しい事態を研究する内容なので、読み進めていくのも素人の私には大変です。しかし、ここで学ばせていただいたことは、虐待やネグレクトは突然行われるわけではない、ということです。つまり、親の問題点はさらにその上の親の問題点でもあり、虐待やネグレクトを起こす問題点というものは、親子間で伝播されていってしまうようなのです。消そうにも簡単には消えない問題点であると言えるでしょう。

近所に時宗のお寺があります。ここの住職とは居酒屋でよくご一緒するのですが、かつてお寺で勉強を教えていらしたそうです。そもそも学校の先生もされていたのですが、地域のちょっと問題のある子を集めて勉強を教えていたとのことです。今でもたまにも挨拶に来るとか、結婚をしたとかそんな報告もあるそうです。親以外の大人が近くにいるっていうのは、家庭に問題のある子にとっては重要なことだと思います。もう70歳も超えていらっしゃいますが、今でも歯に衣着せぬ言動の住職なので、お若い頃は武闘派だったんじゃないかと思われます。しかし、子供たちのことを本当によくよく見ていらっしゃいます。

子供の頃に大人に言われたこと、親でも爺ちゃん婆ちゃんでも、近所のおっちゃんおばちゃんでも、誰でもいいから印象に残っていることって大事だと思うのです。私は父親によく「物にも命がある」と教えられました。だからでしょうか、大人になっても物を捨てられません。しかし、命は色々なところにあるということを今でも感じます。事件になるようなことを起こしてしまいそうなとき、そんな印象に残っている言葉があれば、もしかしたらブレーキになるかもしれません。善福寺では夏の子供会を数年開催しておりましたが、うまく人数が集まらず休会中です。毎回私が仏教紙芝居を読んでいたのですが、これも意味のあることかもしれません。何とかうまい方法を考えたいと思っています。

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2016年01月14日

田舎に暮らすためには

最近「田舎暮らし」という言葉を良く見るようになりました。昔からある言葉だけど巷では再流行しているのでしょうか。都会から田舎に来てくれれば、そりゃ地元としては嬉しいことですよね。でも結構大変だと思うなあ。遊びに来るのと生活するのとでは次元が違うしね。

田舎には「地縁」というものがあります。その土地でのつながりということで何百年も続いていたりする。これは都会とくに東京にはあまりないと思う。この地縁というものは住むにつれて見えてくる。振り返れば東京にも地縁はあったが埋もれていて良く分からない。出入りも激しいので地縁を感じることは稀なのです。昔から住んでいると言っても明治以降であったり古くても江戸時代でしょう。全国的に見るとそうでもない。善福寺の周りだって鎌倉時代から続く家がゴロゴロしている。

地縁は良いこともあります。地域を皆で守っていこうという意識が高い。防犯防災への意識は高いと言えるでしょう。都会にくれべてワイルドな部分が多いのも一因であろうか。自分たちで何とかするという考えがあると思う。また、子供たちを育てるのも地域の役割の1つとなっているところもあろう。運動会はお祭りのようなもの。顔見知りが多くなる。

しかし、これが良くない方向にいくこともあるのです。裏を返せば排他的なわけで、仲間にならないと奇異な目で見られることもあるかなあ。都会は近隣を気にしない人も多いので気楽な部分があるけど、田舎は近隣丸見えなので嫌でも互いに干渉することになってしまうことも多い。私がお寺に入ってから良く聞く言葉で、「あの人、どこの人よ?」ってのがある。見かけない顔だとやはり不安なんだと思う。田舎では車運転していても知り合いとすれ違ったりします。

でも自治会やPTAのこととか、地域のことに関わっていれば何の問題もないでしょう。地縁のなかに自然に溶け込むことができると思います。これを避けるようだと「田舎暮らし」は厳しい。自然環境抜群で都会にいたら絶対に見ることの出来ない風景に囲まれた田舎。インターネットも普及しているから日常生活に不便さを感じることは少なくなっているけど、こうした「地縁」というものの存在を無視してはいけないと思います。

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2015年12月21日

銀杏が黄葉

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今年ようやく銀杏が黄葉しました。と言いますのは、数年前に剪定してから黄葉しないで落葉してしまっていたのです。夏に太陽光を受ける量が少ないと黄葉しないそうですが、剪定によって葉が減ったのが原因かもしれません。枯れてしまったのかと心配したのですが、元気に持ち直してくれました。

それにしても、人間にとっては長い数年間でしたが、樹齢300年の銀杏にとっては、それほど長いことではなかったのかもしれません。スケールが違います。

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2015年12月07日

カンボジアがビジネスチャンスだそうで

カンボジアと聞いて思い出すのはアンコールワットです。ヒンドゥー教寺院として建立されましたが、仏教寺院であった時期もあるようです。歴史を感じさせる荘厳な雰囲気で、一度は参拝してみたいと思っています。そんなカンボジアですが、近代は植民地時代から内戦時代にかけて苦難の道を歩んできました。国民に多くの犠牲者が出てしまい、現在でも経済的に裕福だとは言えない国家事情です。しかし、近年は開発も進んでおり、外国資本によって豊かになりつつあるようです。

今朝のニュースでも、こうした状況を伝える特集がありました。カンボジアに日本の農業技術を伝え、ビジネス化しようとするものでした。世界で最後に残されたビジネスチャンスだそうです。それは大変結構なことですが、失敗したらどうなるんでしょう。私はビジネスマンではないので分かりませんが、撤退となったら現地の農地等は放棄されるのかなあ。ビジネスとして苦労されているようでしたが、現地を育てていこう、日本の技術でカンボジアの農業を活性化させよう、という視点は見られませんでした。

他にも様々な分野のビジネスが東南アジアで活発化しているようですね。まるで植民地の奪い合いのように見えなくもないですが、少しでもカンボジアの方々が独力で国を支えていけるようになればと思います。そのニュースで取り上げられた会社も、おそらくこうした気持ちを持っているのでしょうが、特集で報道された視点はビジネス、つまり金儲けの視点だけでした。カンボジアはカンボジア国民のためにあるべきでしょう。報道する際には、こうした視点も含めて伝えて欲しいなあ。
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2015年11月27日

ライオンを野生に帰す

CS放送のアニマルプラネットにおきまして、ライオンを野生に帰すという海外プログラムが紹介されていました。ライオンは百獣の王とも言われますが、開発によって生息地が狭められたり、密猟によって絶滅も危惧されているようです。ライオンを繁殖させて野生に帰してあげることが目的だと言うことです。日本でもトキが絶滅してしまいました。人という存在ももちろん自然の一部ではありますが、私たち人の行いで他種が絶滅してしまうことには、やはり人の身勝手さを感ぜざるを得ません。こうしたプログラムを通じて、人であっても自然の一部であり、命は互いに依存し合っているのだということが伝わればと思いました。

ただし、おそらく番組に出ていた方々の考えは微妙に異なるでしょう。今ここで私が書いたことは、古くから仏教や神道に親しんだ日本人的感覚からの感想です。番組の出演者、すなわち欧米人の方々のコメントは、翻訳ではありますが日本人の感覚ではありませんでした。これは私の推測ですが、彼らにはキリスト教文化のなかで育ってきたという土壌があります。神のもと、人として自然を維持管理する義務を感じているのでしょう。情熱的な活動ではあるのですが、ライオンへの畏敬の念は感じられませんし、むしろその逆のような印象さえ受けました。私の個人的感想なのでおかしな部分もあるかもしれませんが、これが正直なところです。

日本では動物は神の使いであることが多いように思います。欧米にもキリスト教以外の土着文化では同じような感覚があったかもしれません。動物崇拝ですよね。精霊信仰の一種だと思いますが、そういう感覚が日本ではまだまだ残っている。キリスト教は制度的な面が強い宗教なので、こうした土着的なものは排除してしまう傾向にあるのかもしれません。良い悪いではなく、動物保護ということには大いなる賛同心を覚えながら、その根本にある感覚は意外と違うものなんだなあと思ったわけです。

日本では仏教や神道が盛んですが、多くの人々が篤信というわけではありません。何となくお寺や神社がゴロゴロしている、という具合でしょうか。風景化している側面もあるでしょう。しかし生活の節々には、命はすべてつながっているという仏教的感覚や、自然そのものが神なんだとする神道的感覚があります。また、幼少から親しんだ児童文学のなかには、こうした感覚から描かれている情景も多いことでしょう。国語の教科書にも多く取り入れられています。特別な宗教教育なんてなくても、日本で生まれ育ちますと、いつの間にか日本人的感覚が身についていくわけです。

馬頭観音って田舎に行くと残されていることが多いと思います。あれは馬の墓みたいなもんですよね。路傍で使っていた馬が死んでしまったら、供養のために観音像を立てるのです。人も馬も同じなんですよ。草履だって供養するでしょう。有難いと思うからです。道具だって有難い。何にでも命が見えてくるんだと思います。

ここ数年で馬頭観音像が2つも境内にやってきました。区画整理で場所がなくなったということです。仕方ないので境内で供養していますが、路傍の観音像の場合、場所移動すると本来の意味が薄れるんですよね。持ってきて下さった自治会の方のなかには、そういう事をちゃんと知っている人もいました。でも、観音像建立から時間もたって時代も変わりました。これからはお寺で伝えていかねばならないでしょう。

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2015年11月14日

南足柄市が箱根ジオパーク加入

善福寺のある南足柄市は、市域のほとんどが箱根外輪山です。市名には「足柄」とついていますが、この「足柄」の示す地域は結構広い。「南足柄」や「北足柄」という名を普段聞きますが、「足柄」のどこを中心に「南」で「北」なのか、明確には分かりません。足柄峠という比較的有名な場所があります。現在の南足柄市と静岡県小山町の境界に位置しますが、南足柄市の市域からすると足柄峠は西部になります。そして、足柄峠のほぼ真東が市中心部となります。ぜんぜん南ではない。旧南足柄町の町域を考えても、やはり似たようなことが言えるのです。そもそも、「足柄」と現在も名が残っている場所は足柄下郡である湯河原町や真鶴町にも及びますし、南足柄市は湯河原町から見れば北に位置します。何だか良く分かりません。

と言うことで、「足柄」とはおそらく、とても古い名なのでしょう。古すぎてどこだかもう分からない。昔から何となく使っている。そんな具合なんだと思います。芦を刈るとか、足が軽いとか、そんな由来をどこかで聞いたこともあります。芦ノ湖も関係ありそうですよね。箱根町も足柄下郡です。

前置きが長くなりましたが、箱根ジオパークをご存知でしょうか。
http://www.hakone-geopark.jp/

以下、HPから引用します。

ジオパークは、地球活動の遺産を主な見どころとする自然の中の公園です。
2004年にユネスコの支援により設立された世界ジオパークネットワークにより、世界各国で推進されています。ジオパークは、以下のように定められています。

1、地域の地史や地質現象がよくわかる地質遺産を多数含むだけでなく、考古学的・生態学的もしくは文化的な価値のあるサイトも含む、明瞭に境界を定められた地域である。公的機関・地域社会ならびに民間団体によるしっかりした運営組織と運営・財政計画を持つ。

2、ジオツーリズムなどを通じて、地域の持続可能な社会・経済発展を育成する。

3、博物館、自然観察路、ガイド付きツアーなどにより、地球科学や環境問題に関する教育・普及活動を行う。

4、それぞれの地域の伝統と法に基づき地質遺産を確実に保護する。

5、 世界的ネットワークの一員として、相互に情報交換を行い、会議に参加し、ネットワークを積極的に活性化させる。

以上です。現在は小田原市、箱根町、真鶴町、湯河原町で構成されていますが、平成28年より南足柄市も加入することになったようです。ご近所なのに小田原市などとの連携が少ない南足柄市ですが、観光という視点も含めまして、ようやく明確に連携できる土壌が出来上がったと言えそうです。私にはどなたが推進されたのか分からないのですが、南足柄市の未来にとって、とても評価できることだと思いました。

南足柄市に住んでいましても、あまり箱根山を意識することがありません。しかし、箱根は日本を代表する観光地の1つと言えますし、小田原駅には外国人の観光客も大勢います。でも、南足柄市にはぜんぜんいない。多くの観光客が南足柄市のことを知らないのでしょう。これは残念なことです。東京に近いわりに古風で魅力ある街なのになあ。

今後が楽しみになってきました。地域の子供たちも箱根山のことをもっと知ってもらいたいと思います。
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2015年11月01日

体力がない

最近体力なくて困っています。もとより体力ないのですが、法事を数件やったらもうグタグタ。境内掃除も手を抜いてしまっています。今日は法事のあと法話会なので憂鬱です。法話じゃないですよ。法話は結構楽しいものなんです。何が憂鬱かって、本堂に机を並べることなんですよね。折り畳み式の机です。古いから異様に重い。まさに鉄って感じがするわけです。片付けは皆さんに手伝っていただいているので、実はそんなに大変でもないのですが、あの重みを想像するだけで・・・、グタッとなるわけです。ああ、こんなんじゃダメだと奮起したいところなんですが、全体的におじさん化しているようです。娘にも指摘されてしまいました。

何だか意味のない文章になってしまいましたが、娘を早朝に駅まで送るとき、意外とジョギングしている方に出会います。私は車でガーって行くんですが、私よりも年上の方が頑張って走っていらっしゃる。皆さん凄い。私も何か行動しなければ、と頭のなかだけで考えてしまっている今日この頃です。

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2015年10月17日

そういうときは温泉だ

今年で42歳となりました。つい最近まで大学生かと錯覚しますが、もう成人から倍以上です。頭も随分と固くなりまして、新しいものを受け付けなくなってきました。テレビは新しいものをどんどん放送するでしょう。出てくるタレントさんも新しい方でいっぱいです。もう誰が誰だかまったく分かりません。テレビをほとんど見なくなりました。映画も古いものばかりで、子どもたちも古いものばかり観ています。新しいものが観たければ、そのうち自分で探すでしょうが、おじさん風の青年になったらどうしようかと、変な心配をしてしまっています。人生を達観できているわけもなく、なぜか新鮮味を感じることができなくなっています。しかし、同じ日なんて一日たりともないわけで、本来は毎日が新しいはずですよね。

以上は『ぜんらく』という善福寺報に掲載したコラムですが、今読むとやたらネガティブです。何か悩みでもあったのかと自分事ながら心配になってしまいます。

こういう時は温泉にかぎります。来月、温泉に行くことにしました。ストレスは温泉に流すことにしています。ああ、楽しみだ。

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2015年10月12日

サイト写真を更新しました

善福寺サイトのホーム写真を更新しました。今回は5枚用意しまして、それが連続で見られるような仕組みとなります。写真はすべて新規なものを用意いたしました。

http://www.zempukuji.or.jp/

プロのカメラマンではなく、広告代理店勤務の友人に撮影してもらいました。なかなかセンスが良く感心してしまいました。同じく広告代理店に勤めていた父が「写真そのものは芸術ではない」と言っておりましたが、構図の取り方には芸術性があると思います。

父は絵描きになりたかったようで、写真にはあまり興味がないようでした。たしかに写真は切り取りなので感性そのものではないのですが、撮り方によって随分と違うものなんだということを、今更ながら学びました。

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2015年09月22日

私たちはどう親を弔っていくのか

私は昭和48年生まれで、いわゆる第2次ベビーブーム世代に含まれます。今は42歳。両親は健在ですが、父親は77歳になりました。いずれ介護が必要になるとは思いますが、今はまだ健康でいてくれています。人はいつどのようになるのかは分かりませんが、両親が先に亡くなるようなことがあれば、私や兄が弔うということになるでしょう。お寺なので葬儀をするとは思いますが、もしお寺ではなかったら、いったいどのように考えたことでしょう・・・。

何度も触れてしまっていますが、私はお寺の息子でありながらお寺育ちではなく、堂々たるサラリーマン家庭育ちです。生まれも育ちもお寺ではないので、意外とサラリーマン家庭目線に立ち戻ることが出来るわけです。もし仮にあのままお寺とは無関係であったなら、そして自分もサラリーマンになっていたら、親の葬儀やお墓のことは大きな問題になっていたかもしれません。

私は坊さんとしての経験上、現代葬儀というものは、介護問題と密接に関係してきていると思っています。たとえば介護期間が長く費用もかさんでしまった場合、葬儀をするための資金が残っていないということもあります。また、寝たきり状態が長期間になってしまった場合、友人や親戚とのつながりも薄らいでしまい、その結果、葬儀の通知が行われないということもあります。

わが家の両親は健康なので、介護問題も同時に考えるということはまだ難しいのですが、敢えて葬儀やお墓のことだけを切り取って考えるならば、坊さんとしての自分の考えとは違った考えが出てきそうです。父親が亡くなれば、やはり親戚と友人の方には声をかけたいと思いますが、母親が亡くなったのであれば、実は親戚関係や友人関係が良く分かりません。そうなると必然的に兄家族と私の家族、そして、叔母や叔父だけに声をかけて終わりそうです。

お墓がなければ寺院墓地も思い浮かぶでしょうが、費用を考えれば霊園になるかもしれません。住職さんと気が合えば、もしかしたら頑張って寺院墓地にすることも、ないとは言えないかなあ。誰かが紹介してくれれば、ぐっと敷居が下がりますよね。あとはやはり近所がいいですね。近所であれば、寺院の永代供養墓というのも候補に上がりそうです。

しかし、もし経済的に苦しい状況であったのであれば、こうした思いも虚しいものになるでしょう。家族があればなおさら、両親のことであっても二の次になってしまうかもしれません。弔いとは「思い」の具現化の1つなのですが、「思い」を形にできないことはとても苦しいことだと思います。「思い」があるならば、早めに検討を重ねたほうが良さそうです。弔いは形式を伴いますが形式が本質ではありません。形式にとらわれず、家族としての弔いがあっても良いでしょう。

私どもの世代が亡くなるとき、葬儀やお墓についての考え方は大きな議論になることでしょう。私どもの親世代が亡くなり、私どもが弔いについて思いを馳せ、そして自分たちが亡くなる立場になったとき、日本古来の弔いの形式、つまり通夜葬儀や年回法事や墓地埋葬といった一連の供養法が大きな転換期を迎えるような気がします。第3次ベビーブームは来なかったようですし、私どもの子供世代にとっては、私ども以上に深刻な問題かもしれません。

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2015年09月13日

後継住職の養成にむけて

今年も報恩講で善福寺能を修行いたします。演能は鎌倉能舞台の中森貫太先生です。中森先生は4歳で初舞台ということですが、幼少から我慢を重ねられ勉強を続けられたことを思いますと、これは凄いことだなあと感服いたします。お寺でも浄土真宗は昔から世襲が伝統ですので、お寺の子は早くからお経の勉強をします。私はお寺で育ちませんでしたが、お経だけは幼稚園の頃から読んでいたように思います。わが家の子供たちも、同じようにお経だけは何とか読めるようにはなっています。中森先生のように初舞台というわけでにはいきませんが、ちょっとだけ体得できているという具合でしょうか。

ところで、後継住職になるためには、やはりそれなりの勉強と資格取得が必要になってきます。浄土真宗本願寺派ですと、京都の龍谷大学が宗門校(宗派関係の学校)として有名です。たとえばこの龍谷大学の文学部真宗学科というところに入学しますと、比較的スムーズに住職資格まで取得できることになっています。卒業後も勉強を続けてさらに資格取得をすることも可能ですが、ひとまず住職になることは可能になるわけです。

私は一般大学を出てから仏教を勉強しました。資格取得は遅れましたが、法学部でしたので法律についての考え方を学べたことは有意義であったと思います。一般大学を出ましても、その後から京都の中央仏教学院ですとか、いわゆる専門学校に行って仏教を学ぶことも可能です。経営学を少しでも学んでから仏教を学ぶということも、これからの寺院経営には必要なこととなるかもしれません。

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