2016年08月28日

繰り返し聞かされること

少年事件が後を絶ちません。もちろん昔もありました。私が高校生の頃もあったなあ。事件は大きく報道され、週刊誌にも掲載されていました。渋谷などの繁華街に集まる少年同士の喧嘩でした。亡くなった子は隣の学校の生徒。女子をめぐる言い争いから喧嘩になり、制止が効かなくなったとの報道でした。若い頃は様々な経験もなく、理性が働きづらいということもあるのでしょう。同世代でしたので、私にとってもショックでした。

しかしこの度の東松山の事件には、それ以上に驚かされショックを受けました。暴行の様子を動画撮影し、それをネット上にアップしていたというのですから、「制止が効かなくなった」だけではなさそうです。軽いんですよね。軽いノリで人を殺してしまう。笑い声さえ聞こえてきそうな印象です。怖いから笑うということはあるかもしれませんが、動画をアップするという行為からは、あまり恐怖は感じられません。

事件に関与した子たちは、いったいどういう環境で育ってきたのか。家庭は厳しい環境であったのかもしれないが、小学校の先生たちから教わってきたことは何だったのか。命の重さを感じるようなことが今までなかったとしたら、これは一大事です。

かつて小学校の道徳の時間では、教育テレビのドラマを観ていました。ボケっと観ていました。毎回の内容なんて憶えていません。しかし、ほぼ毎週観ていたせいか、主題歌やドラマの印象は憶えています。何となくの印象というのは、実は意外と心のなかで倫理観となって残っているものなのかもしれません。内容は思い出せなくとも、そのドラマの伝えんとするところはちゃんと伝播しているという。不思議なもんです。

幼児から児童の期間に教わることは極めて重要だと思います。私は父親から「命への優しい思い遣りを持て」と毎日のように繰り返し、本当に呪文のように聞かされてきました。うるせえ親父だと思っていましたが、繰り返し聞かされたので、すっかり身についているような気がします。虫の命を簡単に奪ってしまうこともあり、また、そもそも毎日、あらゆる命を食事としていただいている私ですが、その都度、「申し訳ない」という気持ちが出てきます。

命の重さとは即ち自分自身のことです。他者の命から自分自身の存在に気づいてくることもありましょう。軽くはなく、とても重たいもののはずです。

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2016年08月24日

エンディング産業展

昨日、東京ビッグサイトで開催されております、エンディング産業展に行ってきました。これはいわゆる終活関連の業者さんが集まる展示会で、葬儀社や石材店はもちろん、その周辺産業の方々が一同に会します。私は前回に引き続いて2回目の参加ですが、こうした展示会とは縁がなかったので、賑やかな雰囲気だけで圧倒されてしまいそうです。当然ではありますが、お葬式の雰囲気とはまったく異質です。

終活という言葉も生まれまして、人生の終末期をどのように過ごすのかということが注目され始めています。そこにたくさんのビジネスチャンスが生まれているのも確かなことなのでしょう。もちろん、仏教は2000年以上も前から、同じように人生の終末期をテーマに議論を重ね、それに向って生きるための実践をしてきました。終活ということも、やはり新しい事象ではありません。昔から人は死んできたわけです。

しかしながら、それをどう捉えていくのか、今、かなり自由な考えが出てきています。皆が終末期を真剣に考えることは、これこそ仏教が求めてきたものでしょう。ビジネスチャンスとして参画している方も多いでしょうが、是非、人は必ず死んでいくということ、これは決して他人事ではなく、自分自身の事なんだという見方を大切にしていただければと感じました。

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2016年08月10日

お坊さん便に思う

本記事は『仏教神奈川』第71号に寄稿したものです。あまり一般の方の目にする会報ではないと思いますので、こちらに転載させていただきます。


ここのところ、いわゆる「お坊さん便」が盛況のようです。怪訝に思われた住職さんもいらっしゃることでしょう。私もインターネットのクリック1つでお坊さんを呼ぶことを想像しまして、驚きと同時に少々嫌悪感を抱いてしまいました。しかし、供養のための僧侶手配というものは、今に始まったことではありません。

鎌倉時代頃からは、葬儀等の供養を取り仕切る半僧半俗の人々もいたようです。寺院住職とは別に、こうした供養を生業にしていた人々もいたのでしょう。葬儀社や石材店から供養依頼を受けることがありますが、それも鎌倉時代からの流れのなかで捉えることが可能かもしれません。そう考えますと、仲介の場がインターネット上になったというだけで、何か新しいことが起きたということでもなさそうです。

とは言いましても、「お坊さん便」の問題点はむしろ別のところにあると言えます。手軽であるがゆえ、供養ということを軽く考えがちにもなりましょうか。供養の意味が忘れられてしまうかもしれません。「お坊さん便」のお坊さんも、お寺の住職さんと言うよりは、配達されてきたお坊さんと思われてしまうかもしれません。手軽さというものは、じっくり向き合う機会を失わせるものです。だからこそ手軽なのでしょう。供養は決して手軽に済んでしまうことではありません。別離の苦悩というものは、少々のことで忘れ去られるということではないからです。

これは個人的な思いですが、供養を手軽に済ますということが、命を軽んじるということにつながっていかないか心配です。別離は苦悩でありますが、同時に残された私たちにとりましては、命についての学びの場を与えてくれる仏縁でもあります。とくに子供たちにとりまして、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていくということは、本当に大きな人生の学びになることでしょう。別れを経験することもまた大事なことです。じっくり向き合う機会を奪うべきではないでしょう。

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2016年08月07日

トップニュース

やや偏屈な話になるかもしれません。昨日はリオデジャネイロでオリンピックが開会されたとのことで、テレビではトップニュースになっていました。しかし、言うまでもないことですが、昨日は広島に原子爆弾が投下された「原爆の日」でもあります。アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことは記憶に新しいことです。訪問から初めての「原爆の日」でもありますし、個人的にはこちらがトップだと感じました。

意見として頭のなかで整理されていませんが、子供にはそう伝えました。

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2016年07月26日

生活感ある殺人シーン満載

私は寺で生まれ育っていない寺の子なんですが、父親からはかなり命の重さについて教え込まれました。父親は私から見れば変な人で、今でも気が合わず、ちょっと理解できない側面があります。学生時代は漫画家を志し、CMディレクターをしていた人なので、家庭内でやたらとキャッチコピーを連呼していました。「命へのやさしい思いやりを持とう」とか、「報恩生活してますか」とか、今でも心に残っています。壁に貼ってあったりするんですよ、台所とかトイレとかの。命の捉え方について、私とはかなり違いがありそうなんですが、それでも幼少の頃からの親の言葉というものは、今でも大きな影響力を持ち続けています。

昭和48年生まれの私は、戦争をまったく知らない世代です。祖父母から少しは聞きましたが、実際に戦地に赴いた母方の祖父はあまり話をしませんでした。お寺の祖父は病気であったようです。父親は昭和13年の早生まれですので、終戦の記憶があるそうです。よく戦闘機に追いかけられたと言っていました。それで実際に撃たれてしまった人もいるとか。機銃で人を撃ったのかと思うと、拳銃なら良いということではありませんが、ものすごい嫌悪感に包まれます。

ところで、私の小学生時代だったかなあ、ゾンビ映画がとても流行っていました。新宿のミラノ座とか、あの辺りを歩くのが怖かった記憶があります。昔の映画の看板って、何とも凄いインパクトでしょう。ゾンビ後もどんどんエスカレートして、かなりグロい映画が流行ったような気がします。漫画もそんな流れにあったのかなあ、たとえば『北斗の拳』なんて、「ひでぶ」ですよ。あれ白黒だからいいけど、カラーだと結構厳しい。アニメ化されたときは、視覚的な配慮が見られました。

こうした描写のみならず、殺人シーンを盛り込んだ映画、漫画、アニメを多々見てきた世代です。しかし、今言えることは、私たちが見たものの多くは、いわゆるファンタジーの世界だと思えるものばかりです。ゾンビだって、常識的に考えれば出現しません。『北斗の拳』のように、秘孔ついて「ひでぶ」もない。私のトラウマ映画の1つに『エイリアン』、あれ今でも胸からエイリアン出てきそうになりますが、やはりファンタジーです。生活感なんてまるでない。

本屋さんで立ち読みしますと、かつてよりハードな内容なものが増えたと思う。しかもファンタジー性を感じられないような、まさに近所や学校で起きそうなリアル性に満ちたものが多い。とても刺激的なので、たしかに面白いなあと感じる漫画もあります。そして、社会的な警鐘になっている意義深いものもある。実際にあるような事件の裏側を描くことによって、ああいう世界に踏み入れてはいけないんだと思わせることは、ある程度評価できることでしょう。多分…、上から目線ですが。しかし、それ以上に生活感あふれていまして、ファンタジー世代の私からしますと、恐怖を感じることもあります。生活感ある殺人シーン満載なんですよね。

10代や20代の若い世代が、こうした漫画等に触れて何をどう感じているのかは分かりません。簡単に殺人してもいいんだと短絡的に感じてしまうのか、そこは違うよとファンタジーを感じてくれるのか、全然分かりません。私たちの10代20代の頃とも思考が異なる部分もあるでしょうし、容易に想像できないのです。ただ、人の命を奪うということは、その人の人生はもちろん、周囲の皆の人生も奪うことになります。簡単だと思ってはいけない。誰にとっても、命はかけがえのない大切な存在です。自分で大切だと思えるものを、他者から奪ってはいけない。

子供たちにちゃんと伝えられているのか、終戦の日を来月に控えまして、襟を正していきたいものです。

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2016年07月15日

後継者の心配のいらない永代夫婦墓

お墓というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。今のように遺骨を納めるタイプになったのはそう古くなく、火葬が一般化した戦後のことです。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺は後継者がいなくても心配のない夫婦墓がございます。ご夫婦お二人で入っていただく個別タイプの永代供養墓です。永代供養墓には合葬タイプと個別タイプがありますが、こちらは個別でありますので、従来のお墓と同じようにお参りしていただくことが可能です。

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
(画面を下にスクロールしていただきますと、夫婦墓が出てきます)

費用は墓石代と永代供養懇志も含めまして、ご夫婦お二人で100万円となっております。年会費はかかりませんので、これ以外には費用のご心配はございません。

是非、ご検討下さい!!

宗教法人善福寺

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2016年07月05日

地域一体は必要

大雄山駅前にあった食品や衣料、雑貨などを扱う大型店舗がなくなりました。お客さんでいっぱいだったとは言えないので、仕方のないところでしょうか。しかし、普段の生活ではやはり不便です。とりあえず生活必需品が揃うお店でしたので、急ぎのときなど困ることもあります。

今、南足柄市と小田原市では、未来に向けた新しい関係を模索しているようです。南足柄市が置いてけぼりにならないようでしたら、両市合併だって大賛成です。大雄山は信仰の山ですが、観光資源として、もっと活かすことのできる余地があると思います。お参りの方が増えれば、何かと地域活性にはつながることでしょう。

小田原駅には観光客がたくさんですが、大雄山線には乗っていないんですよね。地域一体となって盛り上げる必要が、観光のみならず信仰の形態も変わってきた今日、本当に必要だと痛感します。放っておいても人が集まる時代ではないですし、県西部も生き残りをかける時かと思います。

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2016年06月26日

のこす記憶ドットコム

善福寺では「終活」の一助として、オンラインエンディングノートをご使用いただいております。大変好評をいただきまして、この度、さらなる内容充実を図るため「のこす記憶ドットコム」として生まれ変わることになりました。埋葬ということだけでも、今は色々な考え方がございます。しかし、もちろん何でもいいというわけではなく、埋葬を通じて何を遺し、何を伝えていくのかという点を大切にせねばなりません。私どもはこうした考えに基づきまして、今後も供養の意味を探究していきたいと思っております。

2016年6月29日(水)から「のこす記憶ドットコム」がスタートいたします。すでにオンラインエンディングノートをご使用いただいております皆様方には、個別にご案内をさせていただきます。なお、運営は善福寺の委託によりまして、「のこす記憶ドットコム事務局」が行います。


今後とも宜しくお願い申し上げます。

宗教法人善福寺 代表役員住職 伊東昌彦

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2016年06月24日

坊さん不要なら呼ばないほうがいい

最近、テレビに出てる坊さん除いて、坊さん一般の存在感薄くなってきているような気がします。地域で頑張っている坊さん多いと思いますが、坊さんいらん、という風潮のほうが勝っているかなあ。たしかに坊さん、とりわけ住職には傲慢な人もいます。仏教を勉強して修行したんだろうけど、それを活かすことは難儀なことでもあります。また、核家族化や少子化が進んでいる現状において、檀家という考えも時代には合っていない側面もあります。傲慢住職がいるようなお寺だと、檀家になっているのもアホらしくなりますよね。

だからもう、いっそのことダメならダメで、お葬式のときも坊さん呼ばなくていいんじゃないかなあ。傲慢住職はもちろんノーサンキューだけど、だからと言って、大会社のビジネスに乗っかるような坊さんを呼ぶのもねえ。結果的に坊さんのレベルアップにはならないだろうし、大会社に組み込まれる坊さんを大量生産するだけではなかろうか。

日本仏教ではお経を読むのが坊さんの仕事、みたいなところあるけど、お経は誰が読んでも内容変わらないし、読む効果なんてそもそもない。なかには宣伝文句として読経の効能が書いてあるお経もあるけど、そんなのお経の本質とは無関係。お経とはそもそもお釈迦様の説法を書き留めたものという前提なので、形式的な読経よりも、本来はその教えの実践にこそ本質がある。誰が読んでも同じだから誰でもいい、ということではなく、形式的な読経だけを求めることは無意味なことなので、だったら呼ばないほうが余程いい。

坊さんが教えのない読経係しかできないようだと、いよいよ日本仏教も危ないでしょう。

出来得る限り、伝えるということを大事にしていきたいと思います。

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2016年06月11日

焼き場

火葬場ではなく「焼き場」と言いますと、どんなイメージでしょう。人それぞれでしょうが、映画『おくりびと』に出てくるような感じでしょうか。神奈川県西部でありましても、たまにご高齢の方から聞かれる程度の言葉になっています。しかし、神奈川県内では小田原と秦野の火葬場が古く、横浜などの火葬場に比べますと、「焼き場」というイメージに合うかもしれません。

都会にある火葬場は立派な施設が多く、雰囲気も「焼き場」と言うよりはホテルや美術館のようです。厳粛であるよう設計されているところも多く、ガヤガヤしている様子はあまりしません。職員の方も振る舞いにはかなり気を遣われているようですし、行き届いている感がいたします。先日お参りしました川崎の火葬場では、「焼き場のおっちゃん」ではなく、女性の職員さんがご遺体を荼毘に付して下さいました。ご収骨の際にも同じ方のご担当です。

これは一般的な追悼の場として相応しいと思いますし、ふと「ああ、坊さんいなくても安心だなあ」と思ってしまいました。小田原や秦野ですと坊さんの存在感があります。上記のような火葬場はとても静謐であるのですが、こちらでは炉の音がゴーと響きます。初めて見ると怖い。まさに焼かれるという感覚が伝わってくるからです。語弊があるかもしれませんが、敢えて言いますと、炉の扉を開けますと地獄へ直行するかのようです。坊さんの読経がありませんと、ご遺族はとても不安に思われるかもしれません。

川崎では地獄を感じることはもちろんありませんでした。坊さんが不要になってくる感覚が少し分かったような気がします。死を感じることが少なくなっているのです。皆が等しく死んでいくわけですが、不思議なもんです。

小田原の火葬場も新しくなると聞いています。


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2016年06月06日

躾(しつけ)

躾という言葉、最近よく見聞きしますね。「躾」は漢字ではなく国字(日本製)です。「身」と「美」の組み合わせに日本的な感覚があるように思えます。出来上がった感覚の上に造られたという具合でしょうか。漢字のような変遷を感じることは出来ませんが、イメージは直接的で現代でも分かりやすいですよね。美しい立ち居振る舞いを体得させるということでしょう。

しかし、自分で自分を躾けるなら問題ないのでしょうが、他者を躾けるとなると難しい。程度によっては懲罰的になったり虐待的になったりもしかねません。懲罰は罰を与えて制裁することです。虐待は心身による暴力を一方的に加えることです。これらは躾とはまるで異なるものです。安易に混同することは厳禁です。躾は懲罰や虐待ではありません。

躾は堂々と行うことが出来ます。第三者が見ていても躾という行為は即座に否定されるものではありません。懲罰は法的なものを除いて、そして虐待は全面的に否定されるべきものです。子供を躾ける際には、自分がしている行為を第三者の前で行えるのかどうか、堂々としていることが出来るのか、ちゃんとチェックしたいものです。私もかつて感情に任せて子供を叩いたことがありますが、今から思えば単なる私的な懲罰行為でした。家庭内というのは密室になりがちで危険な側面もありますね。

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2016年05月25日

六福寺ありがとうございました

六福寺ツアー2016は、ご好評をいただきまして定員に達することが出来ました。締め切り後にお電話をいただきまして、お断りさせていただきました方々にはお詫び申し上げます。来年も継続して企画していきますので、どうぞ宜しくお願いいたします!!

なお6月11日(日)にも、伊豆箱根鉄道主催のツアーにおきまして六福寺に寄っていただくこととなりました。6月は六福寺ということで、今後もお寺を身近に感じていただけますよう、頑張っていきたいと思います。

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2016年04月21日

坊さんこそ法事の意義を

法事をするというのは、ちょっと煩わしいところもありますよね。家族だけならまだしも、親戚に声をかけるとなると、日程調整なども大変です。しかし、法事をしないというのも、どうも落ち着かない。故人にも悪いような気もするし、とりあえずやっておくかなあ。

おじいちゃんおばあちゃんの17回忌ぐらいになりますと、こんな具合に感じる方もいらっしゃるんじゃないかと思います。

一括りに法事と言いましても、故人が高齢であったのか若年であったのかで、遺族の感じる思いの重さは異なります。しかし、前者の場合を一般的に見てみるならば、上記のような感覚がないとは言えないと思います。なぜでしょうか。高齢で亡くなるほうが「自然」だと思えるからかもしれません。

年回法事の成り立ちを歴史的に振り返りますと、どうしても「祟り」という言葉に行きあたります。非常に生者中心の手前勝手な考え方なのですが、「死」への恐怖心から、故人はこの世に未練があるに決まっていると思うわけです。祟りを鎮めるためには「祀り」が必要です。まあ、言うなれば声かけをしまして、私たちは決して忘れてはいませんよ、とおだてるのです。門外漢なので詳細は飛ばしますが、「廻向」(善行を他者、つまり法事の場合は故人に振り向ける)という考え方に基づいた年回法事は、こうした祟り対策として効果絶大だったのでしょう。宗派の教義としてあれこれ後づけされてはいますが、根本はこれです。

日本人は祟りが好きなんですが(漫画や映画でもよくある題材でしょう)、科学的思考の浸透によって、祟りへの恐怖心はかなり薄らいでいると思えます。敢えて言えば、だから法事をしなくても大丈夫になってきているのです。法事をしないのは不信心でも何でもありません。そもそも法事は仏教とは無関係なところから発しているので、信心は関係ないわけですね。

こうして書きますと、私が年回法事を否定しているかのように思えるかもしれませんが、実は祟り云々以外にも法事の効能はあるのです。もちろん教義なんて無関係です。年回法事の間隔というのは、年が経つほど長くなっていきます。1周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・、という具合です。別れの苦しさというのは理性的に解決できるものではありません。時間が必要なのです。感情というものは理性で何とかなるほど単純ではない。忘れようとして忘れられるものでもありません。忘れる必要はむしろない。時間をかけて、少しずつ受け入れていくしかないのだと思います。

また、これは良く言われることですが、やはり家族や親戚が会する場としての機能は大事です。故人の縁で皆が再会することになるのです。仲が悪くても、久しぶりに会えば好転のきっかけを掴めるかもしれません。ネット時代ではありますが、やはりちゃんと会って、お互いに顔を見て話をすることは意義深いことです。法事でもないかぎり、なかなかこうした機会を作り得ないとも言えるでしょう。有難いことです。

法事において、何言っているのか分からん教義的な話なんて不要です。むしろ、坊さんこそ法事の意義を理解していないので、あんな話をして適当にごまかしているとも言えるでしょう。私もそんな事がありました。難しい話をしますと、何となくその場を切り抜けることが出来るので、それでおしまいにしてしまうのです。参拝の方にとっては、仏教の話を聞きに来たというよりは、故人の話をしに来たんだと言えます。もちろん仏教の話をしても良いのですが、見当違いな話は控えるべきでしょう。

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2016年04月14日

「勝負」という言葉の響き

ある世界レベルのスポーツ選手の件に触れまして、「勝負」という言葉の発する響きを少し考えてしまいました。たしかに「勝負」には色々な側面があります。単純に考えれば勝ちと負けですが、「試合に勝って勝負に負けた」という複雑なニュアンスの使われ方もします。後者には倫理的側面が影響していることでしょう。

私はスポーツをほぼしません。中高時代は生物部とバンド。大学時代はバンドだけしていました。運動部にあるような「勝負」とは縁遠い存在でした。しかし、バンドであっても「勝負」はあるのです。もちろん同じ出演者とのことではなく、かと言って観客の方とのことでもありません。敢えて言えば前回の自分でしょうか。…やや無理があるかもしれません。

いずれにしましても「勝負」には相手が必要です。相手をどのように捉えるかということが、「勝負」という言葉の響きにも変化を与えている気がします。スポーツにおける「勝負」、賭博における「勝負」。同じ響きであるとはどうも思えません。

もちろん賭博と言いましても、媒介となるもの、たとえば競馬等の競技はスポーツです。ラスベガス等でのカードゲームにおいても、それに準じる「勝負」となることでしょう。競馬=賭博、カードゲーム=賭博、という図式が常に成り立つわけではありません。違法ですが「野球賭博」というものだって成り立つわけですから、競馬やカードゲームはあくまでも媒介です。

賭博の「勝負」に相手への尊敬はあるのでしょうか。「勝負」によって得られるものは何でしょう。お金以外に得るものは何でしょうか。私は賭博をしませんのでイメージでしかないのですが、少なくとも、上記のことからスポーツにおける「勝負」と、賭博における「勝負」とでは、言葉の持つ響きが異なっているのではないかと思えるのです。

スポーツ観戦は楽しい。私も野球観戦が好きです。実際にプレーしなくても感動するからです。スポーツの「勝負」に感動するからでしょう。

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2016年04月05日

タクシーに乗る幽霊

新聞の電子版で、宮城県にある大学の学生さんが「タクシーに乗る幽霊」をテーマに卒論を書いたという記事を見ました。地道な現地調査の結果、タクシーの運転手さん数人に業務中の幽霊体験のようなものがあったことが判明したそうです。春ですがちょっと背筋が冷たくなる内容です。大勢の方が亡くなりましたので、そんなこともあるのかなあと思いながら記事を読みました。学部生ですし、色々なテーマに取り組んで問題ないと思います。

記事の締め括りは、「乗せたのはいずれも比較的若い男女。もし犠牲者の霊魂だとしたら――。「若い人は、大切な誰かに対する無念の思いが強い。やりきれない気持ちを伝えたくて、個室空間のタクシーを媒体に選んだのでは」と、工藤さんは考える。」とありました。本論を読んでみたい気持ちになりました。

なぜならば、この記事を読む限りにおいては、上記が結論であれば論文ではありません。まず、無念の思いは年齢には無関係ですし、そもそも、それを幽霊とされる立場から論じるのは学問ではなく、空想に過ぎません。指導教官の先生もついていらっしゃるでしょうし、おそらく、そんなことはないと思います。記事はどうしても「切り取り」になってしまうので、これはご本人の語ったことの一部なんだと思います。

本論はもちろん、詳しい情報を知っているわけではありませんが、タクシーの運転手さんが体験したという「幽霊体験」について、やはり運転手さんの心情や背景を踏まえて、むしろ運転手さんの側から論じることになったと思います。幽霊という存在を媒介にするのは問題ありませんが、その根拠はあくまでも「見た」側に求めないと、論理的に成り立たないものになってしまうからです。宗教ではありませんので。

この記事を書いた記者の方は、もしかしたら、「幽霊を題材にした論文」という話題性に少々気持ちが向き過ぎているのかもしれませんね。

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2016年02月26日

今年、専門用語を見直して

最近坊さん一部で人気だけど、実際は不人気なんだよね。お葬式に坊さん呼ばれないこともある。なぜ不人気かと言えば、そりゃ不要だと思われているから。なんで不要と思われるのか、この点はとても重要だと思います。私も含めて多くの坊さんが分かってないことなのでしょう。

坊さんは仏教信者だから何でも仏教的に考える。もう仏教にどっぷりだ。当然だけど、実はここに落とし穴があるのかも。噛み合ってないんだと思います。昔、と言っても戦前でいいと思うけど、仏教は偉かった。生活での色々なシーンに仏教が登場していた。権威があったんだね。いわゆる供養だけではなく、余暇だって仏教だ。旅と言えば参拝だったろうし、非現実的な世界を仏教寺院は提供していた。

戦後、西洋的な文物が本格的に入ってきて、仏教の権威は失墜してしまった。偉いもんだと思われていたんだけど、あれ?別に仏教なくてもオッケーじゃない?という風潮になってきたのだろう。定期的に仏教再考とか言われたりしたが、あくまでも知識や教養としてであり、生活から仏教はどんどん遠ざかっていった。

しかし供養だけは仏教の専売特許だったので、坊さんはその現実に気づかずに来てしまった。そしてとうとう、供養からも坊さんが消えかけている。供養について、押しつけがましいんじゃなかろうか。昔はああだこうだとご託を並べても大丈夫だった。皆が有難いと感じたから。坊さんは経典に書いてあるようなことを一方的に喋っていれば済んだ。

もうこうした態度は通用しない。噛み合わないとダメでしょう。経典などの権威に頼りすぎていたのかもしれない。経典に説かれることを、本当に生活に即して見直したことがあったであろうか。私も多少は経典や論書を勉強した身であるけど、法話の際、専門用語の羅列で済ませていたときもあった。実は専門用語を使うと体裁は整うので楽なのだ。でも聞いているほうは???でしょう。一方的だよね。

そもそも「供養」という言葉だって専門用語です。

供養とは本来、仏など尊い存在に仕えることを意味するそうですが、「慰霊」なんかと同意義に用いている坊さんも多いんじゃないかなあ。「慰霊」だって意味不明なところあるよね。「慰める」って言っても、本当に慰めてほしいのかどうか、真剣に考えたことってあるかなあ。まあ、浄土真宗では「慰霊」という言葉は使わないんだけど、日本社会では一般的に使われているし。

身近なところから、もう一度、坊さん連中は自分なりに答えを出していく必要ありそうだね。今年はそんなことをテーマに、私も頑張ってみようかと思っています。

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2016年02月19日

和み料理きんとき

大雄山駅から徒歩2分ほどのところに和み料理きんときがあります。六福寺御用達。

フェイスブックページが出来たようです。
https://www.facebook.com/%E5%92%8C%E3%81%BF%E6%96%99%E7%90%86%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%8D-186464158368229/

料理おいしい。マスター男前。是非どうぞ!
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2016年02月13日

ラッピングだけじゃ困る

年末、小学生の息子がクリスマスプレゼントをくれました。本物ではなく、自分の机にあったものをラッピングして、プレゼントもどきを作ったわけです。サンタさんからのプレゼントだそうです。たまにカワイイことをするのです。うまくラッピングされていましたが、中身は自分がいらなくなったおもちゃです。ラッピングをしたかったようで、本人は満足げでした。私もとても嬉しかった。

こうしたプレゼントのみならず、いたるところでラッピングを見かけます。たとえばホームページだってその一種だと思えます。すごく綺麗で巧みなホームページを見ましたら、きっと中身も素晴らしいんだろうなあと感じるからです。ただ、中身がせこいとガッカリですよね。善福寺もホームページは立派だねと褒められますが、肝腎の中身については・・・。ガッカリさせないようにしないといけません。

また一人、国会議員の方が辞職されます。国の要職ですよね。結構あっさり辞職してしまったようです。育児休暇を取得されるとのことで注目を浴びていましたが、辞職の原因が女性問題とはねえ。驚きました。若いということ、育児休暇取得を叫んだこと、どれもラッピングだけだったようです。うちの息子のプレゼントじゃないんだから、これじゃあ困ります。何でも外見は良く見える時代ですね。
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2016年02月07日

毎年の繰り返し

最近、自分の頭の悪さにガッカリすることが多くなりました。頭が回らなくなってきたというか、もとよりイマイチな回転なんですが更に動きません。しかも腹も出てきてアゴも気になるお年頃。運動しようかと思って縄跳びすれば二重跳び3回目で後ろに転倒。子供に爆笑されてしまいました。昔は縄跳びうまくてねえ。昔と言っても幼稚園のときですが。頭が回らないのも運動不足が原因かもしれません。おまけに酒も飲み過ぎなので要注意です。少し控えようかと思います。

とまあ、いきなりネガティブ発言を繰り返してしまいましたが、40歳を過ぎると健康に留意しないといけないと実感しています。出来れば寝たきりにならず、本を読んでも理解できるよう頭もスッキリした状態で老後を過ごしたいものですが、こんな状態では望めないかもしれません。

毎年新年明けると思うんですよね。運動しよう。英語を勉強しよう。繰り返しです。ま、あまり気にせず、おそらく来年も同じことを思うでしょう。ハッハッハ

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2016年01月23日

関本の大黒一

先週、六福寺の新年会で関本の大黒一さんに行きました。お好み焼き屋さんです。カウンター席では何回かお邪魔しましたが、お座敷は初めてでした。お好み焼きも美味しかった。しかもメニューはお好み焼きのみならず豊富です。家族でも行こう行こうと思っていたのですが、何故かなかなか機会がなく、まだ行っていません。近日中に行きます!お近くの方は是非どうぞ!!

ぐるなびですが
http://r.gnavi.co.jp/5e5akn950000/

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