2022年01月17日

刺傷事件、とても悲しい

東大前での刺傷事件の報に触れて思いました。ああ、そういう発想になってしまったかと。東大に行けとか医学部に行けとか、それが絶対善のように加害者が大人から言われたことも事件の一因なのは明白です。東大合格者数高校ランキングとか世に出ますし、まるでスポーツを観戦するかのように面白がる大人も多いでしょう。学校説明会で臆面もなく東大合格者数を喧伝する中学高校もあります。異常だと思います。塾なら理解できます。それが役目です。しかし中学や高校という学校は純然たる教育機関であり、東大合格者数で塾生を集めて増収を図る営利目的で存在しているわけではありません。塾だって教育の一端を担ってはいますが、学校とは目的が異なります。社会人として生きていけるよう教育するのが学校です。当たり前ですが、東大進学は手段でありゴールではありません。ゴールは社会人となり一人の人間として生きていくことです。

刺傷することは許されることではありません。まず被害者の方々の救済が先決なことは言うまでもない。そして一方、加害者はこの行為に真摯に向き合わねばなりません。加害者周囲の大人も同じです。加害者は来年東大を受けると発言していたそうですね。刺傷行為に対しては罪を償わねばなりませんが、同時にとても悲しく、加害者がとても可哀相に思えてなりませんでした。昨今の首都圏における教育熱の過剰ぶりには驚きを隠せませんが、教育を履き違えている大人どもは多そうです。

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2022年01月11日

人と人とのつながり

私が小学生のころ、今から40年ほど前の記憶をたどりますと、今よりも近所付き合いというものはあったように感じます。密閉性の低い住宅であったかもしれませんが、近隣の生活音はごく当たり前のように耳に入ってきました。繁華街からは距離のあるせまい住宅地育ちです。夏になれば扇風機しかないので窓は全開放。夫婦喧嘩や酔っ払いの声も記憶にあります。近隣の夕食の支度も分かります。物理的のみならず精神的にも近隣と距離が近かったからでしょうか、お裾分けをいただいた記憶もあります。留守にするときはお隣さんに声かけして留守を告げました。う〜む、今ではちょっと考えにくいかなあ。むしろ言わないですよね。見方によっては留守を公言しているようなものですから、防犯上問題だと考えてしまいます。しかし、その当時はそれが防犯であり、必要なことだったのだと思われます。目に見えるつながりによって助け合っていました。

人と人とのつながりというものは、現代人にはかなり薄れたと言われています。インターネットでつながることはあっても、現実世界で実際に上記のようなつながりは稀かもしれません。助け合いの精神はどんな時代であっても必要だと思います。しかし、助け合いの精神というものは、必要であるから自然発生的に人と人との間に湧き起こってくるものです。現代人に助け合いの精神がないかと言えば、それはまったく違います。そもそも社会というシステム自体が助け合いの構造になっていますし、単独で生きている人はいません。防犯のために声掛けをしていたものが、今は住宅の防犯設備の性能が向上したり、警備会社も一般家庭へ普及したことにより、助け合いの方法が変化しただけです。それは商売だからと言うかもしれませんが、商売だって助け合いの精神から出てきたものでしょう。売り手だけ満足していては商売になりません。買い手だって世間だって満足するから商売なのです。経済の語源は経世済民です。

食生活の変化もあってか、お裾分け文化は風前の灯火と言えそうですが、それはつまり生活のなかで不要になってきたからに他なりません。助け合いの精神が消えたわけではなく、かつてに比べて人の心が荒んできたわけでもなく、そもそも生活スタイルが変わったのです。たとえば夫婦二人であっても、ともに同じように仕事を持っていることが多くなりました。料理に費やす時間も多くは取れず、一方、食材を少量で買い求めることが出来るようになり、余分に作るということが非効率になった影響は大きいでしょう。それは決して否定されることではなく、むしろ社会の助け合い精神が発揮されていると私は思います。色々と生活スタイルに合うよう便利になりました。かつての真似事をして形式的に助け合ったところで、不要であれば続きません。助け合う精神、人間性というものは、実生活のなか、とりわけ経済や仕事を通じてこそ求められなければならないものです。

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2022年01月03日

2022年になりました

皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。神奈川県西部は雪とはなりませんでしたが、年末からかなり冷え込んでおります。除夜の鐘も例年より寒さを感じました。

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毎年、とくに個人的な目標は立てませんが、何となく1年たつと変化を感じます。ダラッと過ごしているからかもしれません。敢えて言いますと、老眼がひどくなりまして読書に難儀しています。自分自身で信じがたいことですが、祖父の残した昭和っぽい虫眼鏡が役立つこともあります。

あとは、願いというほどではないのですが、浪人中の娘の進学先が決まればなあとは思います。個人的にはそんなところですが、早く新型コロナウイルスが収束してくれることは常に願っています。 

皆様のご多幸をお念じ申し上げます。 合掌

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2021年12月31日

ジョウビタキがかわいい

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本年はお世話になりました。来年も精進いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

さて写真はジョウビタキです。境内にはカラス、鳩、スズメのほか、ヒヨドリやセキレイ、そしてこのジョウビタキを見かけます。問題児のヒヨドリ(夏場に本堂で大暴れする)とはちがい、とても人懐っこく近くでおとなしくしています。かなり接近しても逃げないので、こうしてスマートフォンで撮影できます。かわいいですね。

合掌

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2021年12月29日

銀杏もようやく落葉

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まだ少し残っていますが、ようやく落葉しました。ここ数日の寒波の影響もあったと思います。しかし年々遅くなっているような気もします。やはり温暖化なのでしょう。

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2021年12月12日

銀杏が黄葉しました

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境内銀杏が黄葉しました。十数年ほど前に枝を剪定しましたら、その後、黄葉しなくなってしまいました。ようやくここまで回復です。それにしても時期が遅くなりました。温暖化なのでしょう。今日も比較的暖かいですね。

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2021年11月02日

国語は総合的かつ基礎的な科目

また電車で通り魔事件が起きました。電車は密閉された公共ですのでよく考えれば危険は多い。幼少からあまり気にせず乗車していましたが、それは公共の安全が一定程度の水準で保持されていたからですね。日本人はこの公共という意味合いについて、再確認したほうが良いかもしれません。

ところで犯人ですが、こうした輩は小学校のころどんな勉強をしてきたのかなあ。不遇であったのか事情は分かりませんが、国語の教科書を読んで勉強したことはあるでしょう。その中には物語もたくさんあったはずです。小学校の国語は総合的な科目です。物語の登場人物を通して道徳を学ぶことも出来ます。

名作と言われる物語には、多く人間同士のトラブルが描かれています。教科書には名作が多く掲載されています。小学校は人間教育の基礎だと私は思います。中学も高校も人間教育の場でしょう。教科勉強だけではありません。学校の先生には、人間教育をしているんだという矜持をさらに持ってもらいたいなあ。

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2021年10月14日

伝統という言葉に潜む実態

伝統って何なんでしょう。すごく抽象的で分かりにくい。もう少し具体的に、日本の伝統とは。さらに分かりにくい。では、わが家の伝統となりますと、う〜む、教育を大事にするところ・・・、と思いつきましたが、これは単に父親の考えで、それを私が継承しただけかなあ。父方の祖父祖母も同じ考えだったかもしれませんが、直接聞いたことがないので本人たちの考えまでは分かりません。つまり、わが家の伝統だと感じつつも、ひも解いてみればせいぜい2代〜3代前のことであったわけで、年月としては案外浅そうです。

わが家のことは置いておきまして、では日本の伝統となるとどうでしょう。日本の歴史は長そうですし、そもそも国家なのでわが家よりも伝統が具体化していそうです。日本の伝統を大切に、という言葉も巷にはあふれかえっています。でも、ひと言では言い表せません。伝統芸能とか伝統工芸とか、政治とか宗教とか様々ありますが、1つ言えることは、いずれもどこかの時代で誰かが何かしら「まとめ」ている事柄を、現代人は伝統だと感じているということです。これはわが家の場合と同じです。

私たちが伝統だと感じている事柄には、由来のよく分からない自然発生的な要素も含まれますが、構成は異なります。構成は誰かがこしらえているのです。たとえば神話を伝統とするならば、神話は語り継がれた要素を含んでいるものですが、どこかで誰かがまとめているから神話となって今に伝わっています。当然、まとめた人の主観、敢えて言えば思惑が入って構成されています。いらないと感じた要素は切り捨てられています。それを後代の私たちは伝統だと思い込んでいるわけです。伝統という言葉は便利なものですが、意外と要注意だと私は思っています。

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2021年10月01日

熱帯魚屋さんに行きました

中高時代は生物部でした。熱帯魚が好きで家でも飼っていました。古代魚が好きなんです。肺魚とか。獨協中学の卒業論文は「古代魚について」というテーマでした。父に専門書を1冊買ってもらい、それと『アクアライフ』という熱帯魚雑誌で勉強をしました。論文とはいえ、結局多くは丸写しになってしまい失敗です。その後、古代魚熱もいつしか冷めて今に至ります。

昨日、生物部時代の友人に誘われまして、もの凄く久しぶりに熱帯魚屋さんに行きました。町屋です。友人はクリーニング業を営んでまして、店舗に水槽を置きたくなったそうです。昔、よく二人で水槽の水換え作業をしました。部室にある水槽は古くて重く、かなりの重労働でした。サイフォンで水を抜いてはそれを飲んでしまい(ホースで水を吸うのです)、悲惨な思いを何度したことか。

夢中になっていた時代が懐かしく、なんだか再度飼育にチャレンジしたくなってきました。しかし、大抵はそんな気がして終わります。あの時の情熱はどこに行ってしまったことやら。年を重ねると経験が多くなり、先回りして物事を予測を立てるクセがつきます。予測しているうちに面倒くさくなるわけです。物事が輝いて見えなくなる原因です。

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2021年09月13日

運転も慚愧の心で

首都高で間近に事故と遭遇しました。人気のミニバンが後方から飛ばして来まして、私の前の前に強引に入り込みカッ飛んで行きました。あ〜あ〜、随分と無茶するなあと感じながらも、何事もなくその先のカーブを曲がったらハザードでそのミニバンが右側に停車。左側前方には倒れたバイク。そして、道路の真ん中にはライダーが横たわっていました。ミニバンの運転手は電話をしながら、ライダーに声を掛けていました。警察にも電話したのでしょう。早朝の渋谷線でのことでした。

私も20代の頃、よく友人と無茶な運転をしていました。大変恥ずかしいことです。若い頃のこととはいえ、両親にも周囲にも迷惑をかけました。勘違いしていたのです。自分はレーサーではありません。所詮一般ドライバーなので、車の性能が良くても自分の運転技術は下手です。電子制御の車に乗ると勘違いしがちですが、勘違いしてはいけません。50馬力程度の車であっても、まともに自分自身の技術で制御できるかどうか分かったものではありません。それが今は280馬力なんて当たり前(昔はメーカー自主規制で280馬力が限界だったかな)、300馬力オーバーの車もざらです。

ミニバンの運転手は仕事で急いでいたのでしょうか。ミニバンは背が高いですし、車体を制御するのはスポーツカーよりも難しいことでしょう。運転手は私と同年代ぐらいかなあ。若くはなかった。最近、おじさんが飛ばしているのによく遭遇します。若い子じゃなく、いい年したおじさんが前方を煽ったり、無茶な割り込み、自分の技術以上の加速をしていることが多い印象です。そして結構、いい車だったりする。

恥ずかしいと思わんのかなあ。

慚愧の心ですよ。自分に恥じ、他者に恥じる心を持ちたいものです。

ちなみに首都高はいわゆる高速道路ではないそうですね。最近女房に教えてもらいました。名前からてっきり東名などと同じ分類の高速道路かと思っていたのですが、実は違うようです。その証拠に制限速度が全線で低い。これも女房に教えてもらい、はじめて気づきました。危険個所だけ低いのかと思っていたら、そうではありませんでした。東名などの感覚で100キロ出すと捕まります。

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2021年09月03日

法事をしてよかったなあ

先月、母の三回忌法要を勤めました。新型コロナウイルスの影響を考えまして、兄夫婦のみの参加となりました。叔母や叔父にも参列してもらいたかったのですが、年齢を考えますとコロナ禍では仕方なかったかと思います。昨年は一周忌法要でしたが、今年以上にコロナのことでゴタゴタしていまして、わが家だけでのお勤めとなり、兄家族にはお墓参りだけしてもらいました。昨年はあまり話をする時間もなく終えました。

今年は兄夫婦とも話をする時間がもてまして、とても嬉しい三回忌でした。法事はもちろん故人を偲ぶ場ではありますが、普段なかなか会えない人にも会うことができます。実は母の病気や父の介護のことなど、兄夫婦とはあまりうまく行っていない状況が続いていました。何となくギクシャクしていたわけです。しかもコロナ禍なので気軽に食事に誘うわけにもいかず、母が亡くなって以来、話をまともにする機会を逸していたのです。

三回忌法要で兄夫婦と話が出来まして、ギクシャクしていたものがなくなりました。少なくとも私のなかではなくなり、とても気分がスッキリしました。母のお陰なのかと、あらためて三回忌の仏縁に感謝です。自分の力だけではどうにも解決できないことでしたが、仏となった母が救ってくれたのかもしれません。まだまだ教えてもらうことが多いもんだなあと、しみじみ感じました。法事をしてよかった。

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2021年08月27日

次世代型のお寺とは

今のお寺のあり方は基本的には江戸時代からのものであり、それが何と今まで継続しています。葬儀や年回法事を担うということで、言うなれば死別の悲しみの受け皿になってきました。それが全国的に認知され続けてきたからこそ、社会のなかで役立つお寺であったのでしょう。しかし、どうも最近はそうでもなく、お寺に期待することは特にないという風潮が高まってきたかもしれません。言い方を変えれば、お寺は社会に役立っていないと感じる人々が増えたということです。お寺の怠慢ということもあるでしょう。高圧的な住職であったり、お布施を強要することがあったりしますと、さらによくありません。

仏教は人生を生老病死と見ます。生まれて老いて病気になり死んでいくのが私たちです。最大の悩みであるとも言えるわけですが、不老不死にはなれません。むしろ人生は生老病死なのだと知ることこそが、根本的な悩み解決に向かう糸口となります。お寺はそういうことを常に伝えていかねばなりません。葬儀や法事そして法話会などでその都度こうした話をするわけですが、これ以外にも伝える方法があっても良さそうです。言葉だけではなく、社会的行動によって伝えることだって可能でしょう。次世代型のお寺が今こそ必要なのです。

ただし、問題があります。私にはまったくその具体案が頭に浮かばないのです。ここ数年はずっとこの事ばかり考えています。医療や福祉と協働するなど、本山ではすでに動きが見られるのですが、では私はどうすれば良いのかまだ妙案が出てきません。もっと頭をひねる必要がありそうです。

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2021年08月17日

お盆を終えまして

今年もお盆参りが終わりました。コロナ禍と大雨でしたが無事勤められたことに感謝です。熱海の土石流があった日に善福寺でも土砂崩れがあり、その怖さを知った夏でもありました。今回の大雨でも亡くなられた方がいらっしゃいます。土石流や土砂崩れはその土地の形状に大きく関係してきます。形状はそうそう変わるものではありませんので、過去に被害があったのかも知っておくべきかと感じました。もちろん初めて被害が出る箇所もありますが、過去の教訓や言い伝えはとても大事です。温故知新、過去を尋ねることは日々歩む上で肝腎だと思います。

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2021年07月27日

ちゃんと本質を見るようにしたい

スポーツ選手とりわけ女性選手への視線が問題となっていますね。スポーツ選手を評価すべき本質は顔やスタイルではありません。競技です。ファッションモデルは顔やスタイルを評価すべきです。俳優は演技ですし歌手であれば歌声です。心のなかで思うだけであれば良いでしょうが、競技内容よりも顔とかスタイルで評価されると本人は困るでしょう。かわいいなあとか、かっこいいなとか、セクシーだなあとか、そう思うのはもちろん勝手なのですが、その部分をわざわざ写真に撮ったり、ましてや報道したりSNSに投稿するのは問題です。

本質を評価できるような倫理を持ち合わせていきたいものです。オリンピックはもとよりアマチュアリズムの美しさを競うものでしょう。商業化しすぎると本質が評価できなくなってしまいそうです。大事なところを見失わないように生きていきたいものです。

人生の本質と言えば、それこそ生き死にです。まさに一大事。

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2021年07月05日

雨水を大量に含んだ土はとても重たいのです

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自分のところは大丈夫だろうと思っていますと、こうなります。災害は対岸の火事とせず、常に他山の石とする心掛けが大切だと身にしみました。ただし、自然災害は対策を講じましても、それ以上の被害をもたらすことも多いでしょう。人の力を過信せず、自然と共生していくという心掛けもまた大切なことなのだと自省いたしました。

今日は善福寺清掃メンバーの方々と埋没したお墓から土を除きました。石塚石材さんも駆けつけてくれまして、とても助かりました。有難うございます!

熱海での土砂災害で亡くなられました方々に哀悼の意を表します。合掌

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2021年07月01日

7月で48歳になります

今日から7月ですね。私は7月12日が誕生日です。昔は自分の誕生日が好きでした。両親や祖父母も祝ってくれましたし、大人に近づくのが嬉しかったですね。最近はそうでもありません。単純に年取ったなあと思ってしまうのもありますが、仏教ではそんなにめでたくないからだと思います。キリスト教だと生まれることが宗教的に祝福されるかと思いますが、仏教だとそうでもないんですよね。

なぜかと言えば、キリスト教は多分、神に選ばれて人として生まれてくるのに対して、仏教は過去世からの自分の行いの結果として、善くも悪くも人としての命のステージに生まれ出るからです。非常に個人的な問題なのです。ラッキー要素もあって選ばれるということではなく、自分の成績のまま・・・、って感じなんです。いちおう「可」なので60点ぐらいとか。しかも人はまだ迷いの世界の真っ只中なので、迷ったままやって来ました、ああ、どうしようかな、と。

もちろん、生まれ出るときには自ら両親を探して、自分に相応しいと思える両親の間に生まれ出るという説もありますので、めでたい要素がまったくないわけではありません。また、迷いから覚りへ至る道程において、まず人に生まれないとそのきっかけすら掴めないとも言われます。人に生まれることが覚りへの近道になるわけですから、結構いい路線にはいるわけです。これはめでたい。ただ、やはりすごく地道なイメージであるからなのか、ハッピーな雰囲気ではないような気もしますよね。

むしろ、ここまで育ててくれた両親や周囲の人に感謝すべきかなと思います。そうでないと坊さんにはなってないわけですし、今の自分はありません。それなりに努力して生きていくことが出来るようになったのも、両親の導きがあってのことと言えそうです。

ちなみに大人になった私は、祝ってもらうのが得意なほうではありません。小恥ずかしいというのもありますし、人を祝うほうが得意なほうなのです。誕生日にはかつての両親や祖父母を思い、感謝の心を深めたいと思います。こうした環境に育つことができて、そういう意味において非常にラッキーかつハッピーであったのかもしれません。仏教としては、たしかに過去世による行いに関係しているのですが、今の私は過去世の記憶がありませんので、やはり率直にそう思えます。

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2021年06月19日

牛乳焼酎牧場の夢(人吉市「大和一酒造元」)

地元ロータリークラブのご縁によりまして、九州の方から大変嬉しいプレゼントをいただきました。

実は私、普段あまり遠出が出来なこともありまして、西日本へは中学時代に修学旅行で広島に行ったきり、それより西を訪れたことがありません。九州は浄土真宗のご縁が深い地ではあるのですが、なかなか行けず終いでした。そんな折、九州地方の豪雨支援のためロータリークラブから冷蔵庫を送ったことがあり、その御礼として、オンラインで開催の例会に、遠く九州から当地のロータリークラブの皆様が参加して下さることとなりました。

あまり九州にご縁のない私ですが、行きつけの飲み屋で愛飲している焼酎があります。製造元などあまり気にしない性分なので、ラベルをまじまじと見てはいなかったのですが、製造は熊本県人吉市の合資会社大和一酒造元とありました。ああ、そう言えば熊本の焼酎であったなあと再認識していたところ、そのオンライン例会におきまして、人吉市の方とお会いすることができました。焼酎愛飲していますとお話したところ、製造元をよくご存知とのことで、話が一気に通じて大変嬉しい思いでありました。

後日、なんとその方から私が愛飲している「牛乳焼酎牧場の夢」がお寺に届きました。牛乳焼酎なのです。とくに牛乳大好きというわけではないのですが、なんともマイルドで私の好みです。牛乳なので好き嫌いあろうかと思いますが、私は長年愛飲しています。有難うございます。ちなみにこちらです。↓

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ラベルには「人吉温泉水と良質の水、しぼりたての牛乳で造った風味豊かで体にやさしい天然のアルカリ性焼酎」とありまして、コロナ禍において免疫力が高まっていきそうな気がします。人的交流の乏しい私にとりまして、非常に嬉しい出来事でありました。

また、九州の食品で楽しみなことと言えば、ブラックモンブランというアイスがあろうかと思います。こちら関東には基本的に売っておらず、食感が似ていそうな大阪のチョコバリは流通していますが、以前から一度体験したいと思っていました。それがこの度、関東にも進出されるとのニュースがあり、個人的にとても楽しみです。

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2021年05月31日

走ってきました、はこね金太郎ライン

はこね金太郎ラインで仙石原まで往復したのですが、やはり走行注意です。県道ではありますが、かなりの山道でクネクネなのです。助手席や後部座席の方は酔うでしょう。私は酔う人なので、運転していても気持ち悪くなりそうな予感でした。そして何より道が狭いので、対向車と正面衝突しないよう細心の注意が必要です。車幅が2メートル近い車だとスムーズにすれ違いが出来ないかもしれません。煽り運転は厳禁です。中央ラインがないので即事故につながると思います。また、本当に落石、というか岩に近い物体も落ちていたりしますので、天候が悪いときはさらに注意が必要です。先日、仙石原までゴルフしに行ってきたという方とお話しましたら、実際に岩に近い石が落ちていたそうです。箱根は本当に山なので、天候も平野部とは異なります。東名降りて雨降っていなくても、箱根は大雨とか普通にありますので、天候には十分お気をつけ下さい。

ややネガティブなこと書いてしまいましたが、いずれにしましても、東名大井松田方面から箱根が近くなりました。安全に運転していけば、とても便利な道路だと思います。お店もほとんどない所を通りますので、また違った箱根の楽しみ方も出来るかもしれません。私も安全運転でドライブしたいと思います。

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2021年05月06日

懐かしい、ミスターロボット

仏教では修行の階梯は非常に明確化されています。どの程度修行すればどうなるのか、サボればどうなるのか、ゴールはどんな具合なのか。実際に進んで行くことは極めて難しい階梯なのですが、分かるようになっているわけです。分かるからこそ、やる気も出るのだと思います。高僧方は後進のため、ちゃんとまとめておいてくれたのですから、とても有難いことです。

人生は諸行無常です。まさに一寸先は闇なのですが、無計画ではあまりにも効率が悪い。人生は時間的に限られているのですから、あまりボーとしていますと終了してしまいます。人生の目的云々は置いておきまして、ある程度道筋が見えてこないと精神的に辛い思いをします。

今、地域によっては非常事態宣言が発出されているのですが、あまりにも漠然としています。今まで何回か非常事態宣言が発出されていますので、同じことでは好転しないことは私にも分かります。何度も同じことをしないで、ちゃんと新たな道筋をつけた階梯を歩んでいきたいものです。その旗振り役はもちろん政治家の方々です。リーダーとしての役目を果たしてもらいたいものです。

私が生まれ育った時代、バブル崩壊まで日本は未来ある日本でした。科学の力とか、世界一の技術とか、そういうイメージで育った感があります。バブル崩壊後のおよそ30年間はそうしたイメージが崩れていく日々でしたが、まだ日本は大丈夫だと信じていました。そう教わって育ったからでしょうか、結構根強く信じていた自分に今、気づかされる思いがします。

資源もない、科学技術もない、そんな日本になりつつあることを、このコロナ禍で実感、まさに体感した思いでいます。NECのマイコンでよく遊びました。PC-8801FH。中学時代、親にねだって高価な品を買ってもらいました(納屋でぐーぐー眠っています)。小学校時代、先進的な友人はアップルUというマイコンを所持していましたが、NECはそれにも負けていないように感じたものです。しかし、日本からはとうとう、今のいわゆるGAFAMのような企業は出てきませんでした。ああ

ガラケーという言葉があったように、日本はガラパゴス諸島なんでしょう。まさに言い得て妙です。でも内需が強かった時代が去り、ガラパゴス諸島では経済的な発展は見込めない時代になっているようですね。やたら機能的なトイレとか、個人的には凄いなあって思うのですが、世界的には不要なんでしょうか。この感覚のズレって逆に面白く、日本製が復権すればなあと、かつてのスティクスというバンドの「ミスターロボット」という歌を懐かしく感じる今朝です。

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2021年05月03日

政府はちゃんと「挨拶」してほしい

政府はオリンピックを開催する方向ですが、国民にはこのコロナ禍で開催反対の方も多いようですね。新型コロナウイルス感染の状況を数値だけで捉えますと、世界的に日本は優等生な側面もありそうです。しかし一方、私たち国民としては、だからこそ海外からたくさんの関係者の方が入国されることに不安を覚えます。日本のいわゆる水際対策は甘いとの報道もあります。オリンピック開催が国難となるのか国益となるのか、政府と国民では見方が違うのでしょう。違って良いのですが、国民目線を理解してくれない政府だと不安は増大しますよね。今の政府は究極的に説明不足なのではないかと感じます。

ところで、「挨拶」という言葉はもともとは禅宗の言葉で、互いに相手の心を開いて心のキャッチボールをするというような意味になります。人間関係は挨拶に始まるわけですし、相互理解が何よりも大切です。一方的では絶対に片方が不満になります。政府にはちゃんと挨拶してもらいたいなあと、ここのところ毎日思ってしまいます。

ちなみに私はオリンピック自体にはあまり興味はありません。スポーツはほとんどしませんし、観戦も野球だけです。オリンピックの野球は、かつては社会人野球の選手が頑張っていましたが、いつの間にかプロ化していました。私の世代ですと、まだ「オリンピックはアマチュアスポーツの祭典&共産圏の国威発揚」という印象が残っていますが、今のメインは「商売」ですね。それぞれの種目で世界大会は別にあるでしょうし、オリンピックの位置づけって、「スポーツビジネスの祭典」ってことになるのかなあ。何だか異様にお金もかかるようですし、日本はオリンピックをキャンセルできないとかなんとか、このへんの事情も国民には明確に伝えられていませんし、わけわかりませんね。

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