2017年01月01日

本年もよろしくお願い申し上げます!

2017年になりました。本年もよろしくお願い申し上げます!

お正月と言えば、「も〜ぅ、い〜くつ寝〜る〜と♪」なわけですが、今も昔と変わらない楽しみであり続けているのでしょうか。年末、若者のクリスマス離れが話題となりましたが、お正月はまだまだ健在であってほしいものです。しかし、そもそも冒頭の歌を知らないとか・・・。あり得ます。

新年になって何かが劇的に変化するわけではありませんが、人には節目というものが必要です。生死だって節目です。不老不死であったら、きっとダラダラすることでしょう。目的もなく彷徨うのは辛い。節目は人生の活力になってくれるという意味において、新年を迎えることは喜ばしいことだと言えるかもしれません。

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2016年12月31日

早いもので大晦日です

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本年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします!
今年も除夜会を本日午後11時30分頃から修行いたします。
甘酒と記念品(限定30)をご用意しております。お参り下さい。

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2016年12月18日

もうすぐクリスマス

学生時代、クリスマスといえば彼女がいるのかいないのか、切実な問題でありました。ひとまず一所懸命であったと思います。今の子たちはクリスマスよりハロウィンだそうです。恋人より仲間でいるほうが楽だからと。また、クリスマスをお一人様用で過ごすことも話題になっていましたが、何事もお一人様というのが話題です。そりゃまあクリスマスの場合、仕方なくお一人様もいらっしゃることですが、そうではない模様。覇気がないと思うのは私が年を取ったからに違いありません。時代に合ってない。

時代や流行はひとまず置いておいて、あまりお一人様で満足するようだと心配です。リアルだろうがネットだろうが、人づきあいは存在します。仏教でも人づきあいの苦しみを「愛別離苦」や「怨憎会苦」として「四苦」のうちに挙げますが、面倒くさいこともあるのは確かです。しかし、面倒くさいとか、気を遣わなくていいとか、楽な方向に流れ過ぎるのは社会人としての成長を阻むものでしょう。人生、時には投げ出せない場面もあるからです。

こうした傾向が商売になってしまっているのも問題ではあります。お一人様同士でチームスポーツを楽しむシステムもあるようですが、あまり自分勝手ではゲームにならないのは明白です。頭から否定する気はありませんが、人づきあいも大事にしてほしいなあ。

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2016年12月01日

丑三つ時でした

正午とは1日を十二支に当てていた手法のなか、午の正刻である昼12時のことです。とまあ、今さら言うようなことでもないのですが、では「丑みつどき」とは何時頃でしょう。子丑寅・・・、と並ぶので、まあ夜中の1時から3時なんだろうなあとは分かります。私はこんな適当なイメージで「丑満つ時」だと思っていました。丑が深まった時間ということで、おそらく2時〜3時なのではなかろうかと。

「丑三つ時」でした。え〜、丑は二番目だし何でだ。

と思いましたら、1時〜3時の2時間を四分割したうちの三番目、という意味だそうです。というわけで、今の2時〜2時30分ということになります。

子供に適当なこと言ってたなあ。こっそり訂正しておこう。

今じゃ寝ている時間ですが、学生時代は遅くまで起きていたので、この時間ちょっとコンビニでも行こうかと外に出ますと、ものの怪がいそうな雰囲気ですよね。20年以上前のことです。

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2016年11月17日

東国真宗研究所

東国真宗研究所のサイトにおきまして、筑波大学名誉教授の今井雅晴先生に善福寺を取り上げていただきました。先生は関東におけます親鸞門弟の研究もされていらっしゃいます。善福寺開基上人は平塚入道了源と言いまして、親鸞聖人の直弟子とされております。謎の多い人ですが、いつか了源上人についての単行本を出せればと思っています。

http://shinrankyun.com/?news=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E3%81%A8%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E5%89%8D%E7%B7%A845%E5%9B%9E

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2016年10月21日

善福寺報恩講のご案内

今年も善福寺報恩講の季節となりました。例年と同じく、鎌倉能舞台の中森貫太先生にお能をお願いしております。また、かつて開催していた医療講座を再開することになりまして、こちらは私の義姉が出講予定です。

逮夜 10月29日(土)午後5時  善福寺能は「花月」です。舞台は京都の清水寺。

旅の僧(ワキ)が、在俗のときに子を失い、それを縁に出家した旨をのべ、清水寺へ赴き、寺近くの男(アイ)に案内をたのむと、花月という喝食が面白く狂う旨を教え、花月を呼び出す。花月(シテ)は、左手に弓、右手に矢を持って登場し、花月の名の由来を語り、アイとともに恋の小歌を謡う」(戸井田通三(監)・小林保治(編)『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂、2000年)

詳細はhttp://www.zempukuji.or.jp/nenkan

日中 10月30日(日)午前11時  雅楽法要のあと、医療講座となります。

仏教と医療は異質なものではなく、生死を通して密接に関連しています。この度、善福寺では医療との協働を目指すため、医療講座を再び開催することにいたしました。報恩講のお日中に、茅場町いとう医院副院長・伊東佳子先生をお迎えしまして、健康についてのお話をいただきます。皆様お誘い合わせの上、是非、お越し下さい。どなたでもご参加いただけます。

講題:骨粗しょう症のお話 〜とくに女性の方へ〜

ご参拝をお待ちしております!!
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2016年10月18日

ノーベル文学賞と音楽

ボブ・ディランにノーベル文学賞ですね。世代でしょうか、あまりボブ・ディランな人ではないのですが、一応、バンドマンなので気になるニュースでした。しかし、当の本人と連絡が取れないとのこと。何ともまあ、分かるような気もしますが、可笑しなことになりそうな予感です。

すでに欧米では議論になっているようですが、文学とは?ということにもなると思います。たしかにフォークやロックでも文学的な歌詞の曲はあります。何だか良く分からない哲学的なものもあります。ただ歌詞だけ眺めていたら憂鬱になりそう。曲があるからいいのかなあ。音楽は頭→心より体→心なのではないかと。体感です。脳だって使用している部分が違うのでは。

仏教は両方ありますね。文学と音楽。学問と修行かなあ。決して文学や学問を否定的に言っているわけではなく、両方あったほうがいいね。私は文学も音楽も好きです。ただ、音楽の歌詞だけ取り上げるというのは、ちょっと違和感あるかなあ。あまり真剣に考えたことないけど、ボブ・ディランの曲ってのは、曲を知らずに歌詞だけ眺めていても感動するものなのか。

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2016年10月11日

精神的不器用な私

今朝、mixiのニュースで見たのですが、「共生婚」というのがあるようですね。一般に認知されてはいない言葉でしょうが、つまりは同居人と結婚をしているわけです。ただし、相互に好きなのでしょう。しかし、食事も何もかも別にすることが多いようです。もちろん、夫婦の営みもなし。好きなんでしょうが、別々なんですね。別々に勝手にやるというのは、気は楽かもしれません。

勝手に出来ないときはどうするのかなあ。素朴な疑問ですが、そこはまあ結婚しているわけですし、助け合うことになるのでしょう。元気なときはいいけど、ピンチのときは大変そうだ。冒頭のような状態で二人の絆は深まっていくのか、謎です。

二人で一緒に生活するというのは、お互いに便利なところだけ享受すれば良いものなのか、どうなのでしょう。私は結婚生活まだ15年ぐらいなもんですが、むしろ他人には見せられないような弱みを見せてきたからこそ、お互いに絆が深まったと言えます。これはやはり、一緒に暮らして、一緒に行動してきたことによる影響が大きいと感じます。

人はそれぞれ、なかなか人には言えないような悩みを抱えています。それを自己処理できる人は問題ないのでしょうが、私なんてどうもダメ。食事をしながら話をするとか、聞いてもらうということがないと解決に至りません。精神的不器用なんでしょう。そうでない二人であれば、「共生婚」も成立しそうですね。

便利なところだけ享受するという「共生婚」。人の精神が独立性を高めて進化しているのであれば、むしろ新しい時代なのかもしれません。ただ、そうそう進化するものじゃないなあ。仏教の歴史は2500年近いけど、人の精神的側面を説いたお釈迦様の教えは今でも通用してしまう。また、「人がそんなに便利になれるわけない」という台詞もどこかで聞きましたが、私も同感です。分かり合うということは難しいことです。

人の関係というものは、ピンチのときこそ肝腎なのではないでしょうか。そういう関係を築くということも結婚の意義だと思いますが、一朝一夕では無理でしょう。はじめは「共生婚」であっても、二人の絆が深まっていくことを願います。

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2016年09月24日

箱根ジオパーク編入決定!

南足柄市の箱根ジオパークへの編入が決定されました。
http://www.hakone-geopark.jp/

箱根仙石原への道も開通するようですし、箱根の玄関口になれるかもしれません。そもそも南足柄市は、その市域のほとんどが箱根外輪山の明神ヶ岳です。もう少し箱根を意識しても良いかと思います。

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2016年08月28日

繰り返し聞かされること

少年事件が後を絶ちません。もちろん昔もありました。私が高校生の頃もあったなあ。事件は大きく報道され、週刊誌にも掲載されていました。渋谷などの繁華街に集まる少年同士の喧嘩でした。亡くなった子は隣の学校の生徒。女子をめぐる言い争いから喧嘩になり、制止が効かなくなったとの報道でした。若い頃は様々な経験もなく、理性が働きづらいということもあるのでしょう。同世代でしたので、私にとってもショックでした。

しかしこの度の東松山の事件には、それ以上に驚かされショックを受けました。暴行の様子を動画撮影し、それをネット上にアップしていたというのですから、「制止が効かなくなった」だけではなさそうです。軽いんですよね。軽いノリで人を殺してしまう。笑い声さえ聞こえてきそうな印象です。怖いから笑うということはあるかもしれませんが、動画をアップするという行為からは、あまり恐怖は感じられません。

事件に関与した子たちは、いったいどういう環境で育ってきたのか。家庭は厳しい環境であったのかもしれないが、小学校の先生たちから教わってきたことは何だったのか。命の重さを感じるようなことが今までなかったとしたら、これは一大事です。

かつて小学校の道徳の時間では、教育テレビのドラマを観ていました。ボケっと観ていました。毎回の内容なんて憶えていません。しかし、ほぼ毎週観ていたせいか、主題歌やドラマの印象は憶えています。何となくの印象というのは、実は意外と心のなかで倫理観となって残っているものなのかもしれません。内容は思い出せなくとも、そのドラマの伝えんとするところはちゃんと伝播しているという。不思議なもんです。

幼児から児童の期間に教わることは極めて重要だと思います。私は父親から「命への優しい思い遣りを持て」と毎日のように繰り返し、本当に呪文のように聞かされてきました。うるせえ親父だと思っていましたが、繰り返し聞かされたので、すっかり身についているような気がします。虫の命を簡単に奪ってしまうこともあり、また、そもそも毎日、あらゆる命を食事としていただいている私ですが、その都度、「申し訳ない」という気持ちが出てきます。

命の重さとは即ち自分自身のことです。他者の命から自分自身の存在に気づいてくることもありましょう。軽くはなく、とても重たいもののはずです。

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2016年08月24日

エンディング産業展

昨日、東京ビッグサイトで開催されております、エンディング産業展に行ってきました。これはいわゆる終活関連の業者さんが集まる展示会で、葬儀社や石材店はもちろん、その周辺産業の方々が一同に会します。私は前回に引き続いて2回目の参加ですが、こうした展示会とは縁がなかったので、賑やかな雰囲気だけで圧倒されてしまいそうです。当然ではありますが、お葬式の雰囲気とはまったく異質です。

終活という言葉も生まれまして、人生の終末期をどのように過ごすのかということが注目され始めています。そこにたくさんのビジネスチャンスが生まれているのも確かなことなのでしょう。もちろん、仏教は2000年以上も前から、同じように人生の終末期をテーマに議論を重ね、それに向って生きるための実践をしてきました。終活ということも、やはり新しい事象ではありません。昔から人は死んできたわけです。

しかしながら、それをどう捉えていくのか、今、かなり自由な考えが出てきています。皆が終末期を真剣に考えることは、これこそ仏教が求めてきたものでしょう。ビジネスチャンスとして参画している方も多いでしょうが、是非、人は必ず死んでいくということ、これは決して他人事ではなく、自分自身の事なんだという見方を大切にしていただければと感じました。

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2016年08月10日

お坊さん便に思う

本記事は『仏教神奈川』第71号に寄稿したものです。あまり一般の方の目にする会報ではないと思いますので、こちらに転載させていただきます。


ここのところ、いわゆる「お坊さん便」が盛況のようです。怪訝に思われた住職さんもいらっしゃることでしょう。私もインターネットのクリック1つでお坊さんを呼ぶことを想像しまして、驚きと同時に少々嫌悪感を抱いてしまいました。しかし、供養のための僧侶手配というものは、今に始まったことではありません。

鎌倉時代頃からは、葬儀等の供養を取り仕切る半僧半俗の人々もいたようです。寺院住職とは別に、こうした供養を生業にしていた人々もいたのでしょう。葬儀社や石材店から供養依頼を受けることがありますが、それも鎌倉時代からの流れのなかで捉えることが可能かもしれません。そう考えますと、仲介の場がインターネット上になったというだけで、何か新しいことが起きたということでもなさそうです。

とは言いましても、「お坊さん便」の問題点はむしろ別のところにあると言えます。手軽であるがゆえ、供養ということを軽く考えがちにもなりましょうか。供養の意味が忘れられてしまうかもしれません。「お坊さん便」のお坊さんも、お寺の住職さんと言うよりは、配達されてきたお坊さんと思われてしまうかもしれません。手軽さというものは、じっくり向き合う機会を失わせるものです。だからこそ手軽なのでしょう。供養は決して手軽に済んでしまうことではありません。別離の苦悩というものは、少々のことで忘れ去られるということではないからです。

これは個人的な思いですが、供養を手軽に済ますということが、命を軽んじるということにつながっていかないか心配です。別離は苦悩でありますが、同時に残された私たちにとりましては、命についての学びの場を与えてくれる仏縁でもあります。とくに子供たちにとりまして、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていくということは、本当に大きな人生の学びになることでしょう。別れを経験することもまた大事なことです。じっくり向き合う機会を奪うべきではないでしょう。

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2016年08月07日

トップニュース

やや偏屈な話になるかもしれません。昨日はリオデジャネイロでオリンピックが開会されたとのことで、テレビではトップニュースになっていました。しかし、言うまでもないことですが、昨日は広島に原子爆弾が投下された「原爆の日」でもあります。アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことは記憶に新しいことです。訪問から初めての「原爆の日」でもありますし、個人的にはこちらがトップだと感じました。

意見として頭のなかで整理されていませんが、子供にはそう伝えました。

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2016年07月26日

生活感ある殺人シーン満載

私は寺で生まれ育っていない寺の子なんですが、父親からはかなり命の重さについて教え込まれました。父親は私から見れば変な人で、今でも気が合わず、ちょっと理解できない側面があります。学生時代は漫画家を志し、CMディレクターをしていた人なので、家庭内でやたらとキャッチコピーを連呼していました。「命へのやさしい思いやりを持とう」とか、「報恩生活してますか」とか、今でも心に残っています。壁に貼ってあったりするんですよ、台所とかトイレとかの。命の捉え方について、私とはかなり違いがありそうなんですが、それでも幼少の頃からの親の言葉というものは、今でも大きな影響力を持ち続けています。

昭和48年生まれの私は、戦争をまったく知らない世代です。祖父母から少しは聞きましたが、実際に戦地に赴いた母方の祖父はあまり話をしませんでした。お寺の祖父は病気であったようです。父親は昭和13年の早生まれですので、終戦の記憶があるそうです。よく戦闘機に追いかけられたと言っていました。それで実際に撃たれてしまった人もいるとか。機銃で人を撃ったのかと思うと、拳銃なら良いということではありませんが、ものすごい嫌悪感に包まれます。

ところで、私の小学生時代だったかなあ、ゾンビ映画がとても流行っていました。新宿のミラノ座とか、あの辺りを歩くのが怖かった記憶があります。昔の映画の看板って、何とも凄いインパクトでしょう。ゾンビ後もどんどんエスカレートして、かなりグロい映画が流行ったような気がします。漫画もそんな流れにあったのかなあ、たとえば『北斗の拳』なんて、「ひでぶ」ですよ。あれ白黒だからいいけど、カラーだと結構厳しい。アニメ化されたときは、視覚的な配慮が見られました。

こうした描写のみならず、殺人シーンを盛り込んだ映画、漫画、アニメを多々見てきた世代です。しかし、今言えることは、私たちが見たものの多くは、いわゆるファンタジーの世界だと思えるものばかりです。ゾンビだって、常識的に考えれば出現しません。『北斗の拳』のように、秘孔ついて「ひでぶ」もない。私のトラウマ映画の1つに『エイリアン』、あれ今でも胸からエイリアン出てきそうになりますが、やはりファンタジーです。生活感なんてまるでない。

本屋さんで立ち読みしますと、かつてよりハードな内容なものが増えたと思う。しかもファンタジー性を感じられないような、まさに近所や学校で起きそうなリアル性に満ちたものが多い。とても刺激的なので、たしかに面白いなあと感じる漫画もあります。そして、社会的な警鐘になっている意義深いものもある。実際にあるような事件の裏側を描くことによって、ああいう世界に踏み入れてはいけないんだと思わせることは、ある程度評価できることでしょう。多分…、上から目線ですが。しかし、それ以上に生活感あふれていまして、ファンタジー世代の私からしますと、恐怖を感じることもあります。生活感ある殺人シーン満載なんですよね。

10代や20代の若い世代が、こうした漫画等に触れて何をどう感じているのかは分かりません。簡単に殺人してもいいんだと短絡的に感じてしまうのか、そこは違うよとファンタジーを感じてくれるのか、全然分かりません。私たちの10代20代の頃とも思考が異なる部分もあるでしょうし、容易に想像できないのです。ただ、人の命を奪うということは、その人の人生はもちろん、周囲の皆の人生も奪うことになります。簡単だと思ってはいけない。誰にとっても、命はかけがえのない大切な存在です。自分で大切だと思えるものを、他者から奪ってはいけない。

子供たちにちゃんと伝えられているのか、終戦の日を来月に控えまして、襟を正していきたいものです。

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2016年07月15日

後継者の心配のいらない永代夫婦墓

お墓というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。今のように遺骨を納めるタイプになったのはそう古くなく、火葬が一般化した戦後のことです。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺は後継者がいなくても心配のない夫婦墓がございます。ご夫婦お二人で入っていただく個別タイプの永代供養墓です。永代供養墓には合葬タイプと個別タイプがありますが、こちらは個別でありますので、従来のお墓と同じようにお参りしていただくことが可能です。

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
(画面を下にスクロールしていただきますと、夫婦墓が出てきます)

費用は墓石代と永代供養懇志も含めまして、ご夫婦お二人で100万円となっております。年会費はかかりませんので、これ以外には費用のご心配はございません。

是非、ご検討下さい!!

宗教法人善福寺

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2016年07月05日

地域一体は必要

大雄山駅前にあった食品や衣料、雑貨などを扱う大型店舗がなくなりました。お客さんでいっぱいだったとは言えないので、仕方のないところでしょうか。しかし、普段の生活ではやはり不便です。とりあえず生活必需品が揃うお店でしたので、急ぎのときなど困ることもあります。

今、南足柄市と小田原市では、未来に向けた新しい関係を模索しているようです。南足柄市が置いてけぼりにならないようでしたら、両市合併だって大賛成です。大雄山は信仰の山ですが、観光資源として、もっと活かすことのできる余地があると思います。お参りの方が増えれば、何かと地域活性にはつながることでしょう。

小田原駅には観光客がたくさんですが、大雄山線には乗っていないんですよね。地域一体となって盛り上げる必要が、観光のみならず信仰の形態も変わってきた今日、本当に必要だと痛感します。放っておいても人が集まる時代ではないですし、県西部も生き残りをかける時かと思います。

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2016年06月26日

のこす記憶ドットコム

善福寺では「終活」の一助として、オンラインエンディングノートをご使用いただいております。大変好評をいただきまして、この度、さらなる内容充実を図るため「のこす記憶ドットコム」として生まれ変わることになりました。埋葬ということだけでも、今は色々な考え方がございます。しかし、もちろん何でもいいというわけではなく、埋葬を通じて何を遺し、何を伝えていくのかという点を大切にせねばなりません。私どもはこうした考えに基づきまして、今後も供養の意味を探究していきたいと思っております。

2016年6月29日(水)から「のこす記憶ドットコム」がスタートいたします。すでにオンラインエンディングノートをご使用いただいております皆様方には、個別にご案内をさせていただきます。なお、運営は善福寺の委託によりまして、「のこす記憶ドットコム事務局」が行います。


今後とも宜しくお願い申し上げます。

宗教法人善福寺 代表役員住職 伊東昌彦

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2016年06月24日

坊さん不要なら呼ばないほうがいい

最近、テレビに出てる坊さん除いて、坊さん一般の存在感薄くなってきているような気がします。地域で頑張っている坊さん多いと思いますが、坊さんいらん、という風潮のほうが勝っているかなあ。たしかに坊さん、とりわけ住職には傲慢な人もいます。仏教を勉強して修行したんだろうけど、それを活かすことは難儀なことでもあります。また、核家族化や少子化が進んでいる現状において、檀家という考えも時代には合っていない側面もあります。傲慢住職がいるようなお寺だと、檀家になっているのもアホらしくなりますよね。

だからもう、いっそのことダメならダメで、お葬式のときも坊さん呼ばなくていいんじゃないかなあ。傲慢住職はもちろんノーサンキューだけど、だからと言って、大会社のビジネスに乗っかるような坊さんを呼ぶのもねえ。結果的に坊さんのレベルアップにはならないだろうし、大会社に組み込まれる坊さんを大量生産するだけではなかろうか。

日本仏教ではお経を読むのが坊さんの仕事、みたいなところあるけど、お経は誰が読んでも内容変わらないし、読む効果なんてそもそもない。なかには宣伝文句として読経の効能が書いてあるお経もあるけど、そんなのお経の本質とは無関係。お経とはそもそもお釈迦様の説法を書き留めたものという前提なので、形式的な読経よりも、本来はその教えの実践にこそ本質がある。誰が読んでも同じだから誰でもいい、ということではなく、形式的な読経だけを求めることは無意味なことなので、だったら呼ばないほうが余程いい。

坊さんが教えのない読経係しかできないようだと、いよいよ日本仏教も危ないでしょう。

出来得る限り、伝えるということを大事にしていきたいと思います。

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2016年06月11日

焼き場

火葬場ではなく「焼き場」と言いますと、どんなイメージでしょう。人それぞれでしょうが、映画『おくりびと』に出てくるような感じでしょうか。神奈川県西部でありましても、たまにご高齢の方から聞かれる程度の言葉になっています。しかし、神奈川県内では小田原と秦野の火葬場が古く、横浜などの火葬場に比べますと、「焼き場」というイメージに合うかもしれません。

都会にある火葬場は立派な施設が多く、雰囲気も「焼き場」と言うよりはホテルや美術館のようです。厳粛であるよう設計されているところも多く、ガヤガヤしている様子はあまりしません。職員の方も振る舞いにはかなり気を遣われているようですし、行き届いている感がいたします。先日お参りしました川崎の火葬場では、「焼き場のおっちゃん」ではなく、女性の職員さんがご遺体を荼毘に付して下さいました。ご収骨の際にも同じ方のご担当です。

これは一般的な追悼の場として相応しいと思いますし、ふと「ああ、坊さんいなくても安心だなあ」と思ってしまいました。小田原や秦野ですと坊さんの存在感があります。上記のような火葬場はとても静謐であるのですが、こちらでは炉の音がゴーと響きます。初めて見ると怖い。まさに焼かれるという感覚が伝わってくるからです。語弊があるかもしれませんが、敢えて言いますと、炉の扉を開けますと地獄へ直行するかのようです。坊さんの読経がありませんと、ご遺族はとても不安に思われるかもしれません。

川崎では地獄を感じることはもちろんありませんでした。坊さんが不要になってくる感覚が少し分かったような気がします。死を感じることが少なくなっているのです。皆が等しく死んでいくわけですが、不思議なもんです。

小田原の火葬場も新しくなると聞いています。


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2016年06月06日

躾(しつけ)

躾という言葉、最近よく見聞きしますね。「躾」は漢字ではなく国字(日本製)です。「身」と「美」の組み合わせに日本的な感覚があるように思えます。出来上がった感覚の上に造られたという具合でしょうか。漢字のような変遷を感じることは出来ませんが、イメージは直接的で現代でも分かりやすいですよね。美しい立ち居振る舞いを体得させるということでしょう。

しかし、自分で自分を躾けるなら問題ないのでしょうが、他者を躾けるとなると難しい。程度によっては懲罰的になったり虐待的になったりもしかねません。懲罰は罰を与えて制裁することです。虐待は心身による暴力を一方的に加えることです。これらは躾とはまるで異なるものです。安易に混同することは厳禁です。躾は懲罰や虐待ではありません。

躾は堂々と行うことが出来ます。第三者が見ていても躾という行為は即座に否定されるものではありません。懲罰は法的なものを除いて、そして虐待は全面的に否定されるべきものです。子供を躾ける際には、自分がしている行為を第三者の前で行えるのかどうか、堂々としていることが出来るのか、ちゃんとチェックしたいものです。私もかつて感情に任せて子供を叩いたことがありますが、今から思えば単なる私的な懲罰行為でした。家庭内というのは密室になりがちで危険な側面もありますね。

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