2017年06月12日

後継者がいなくても大丈夫、永代夫婦墓

お墓というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。今のように遺骨を納めるタイプになったのはそう古くなく、火葬が一般化した戦後のことです。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺は後継者がいなくても心配のない夫婦墓がございます。ご夫婦お二人で入っていただく個別タイプの永代供養墓です。永代供養墓には合葬タイプと個別タイプがありますが、こちらは個別でありますので、従来のお墓と同じようにお参りしていただくことが可能です。

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
(画面を下にスクロールしていただきますと、夫婦墓が出てきます)

費用は墓石代と永代供養懇志も含めまして、ご夫婦お二人で100万円となっております。年会費はかかりませんので、これ以外には費用のご心配はございません。なお、ご夫婦お二人が原則ですが、4名様まで納めていただくことが可能です。三人目からはお一人様15万円の追加懇志をいただいております。

是非、ご検討下さい。

宗教法人善福寺
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2017年05月23日

さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト

市原悦子さん主演の『さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト』(主演:市原悦子、編成企画:太田大・橋口愛、プロデューサー:赤司学文)』が5月12日(金)にフジテレビ系で放送されました。本シリーズのファンである方も多いと思いますが、本作でシリーズ終了とのことです。ちょっと残念です。本作のロケ地には南足柄市も使われておりまして、善福寺もお葬式のシーンに登場しました。

撮影のとき、私は遠くから見学させてもらったのですが、まったく関係ないにもかかわらず緊張してしまいました。しかも私がボケっとしておりますと、共演の佐藤B作さんがこちらに来られまして、「宜しくお願い致します」と深々と頭を下げて行かれました。もちろん私は恐縮してしまっていたのですが、ほんの数十秒のシーンとはいえ、ロケ地にしっかり礼を尽くされる姿に接し、視聴者としてとても嬉しい気分になりました。

ちなみに撮影の様子です。
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2017年05月20日

南足柄市関本について

関本一考 〜寺院存在の視点から〜

善福寺住職 伊東昌彦

足柄峠を鎌倉方面へ下って竜福寺交差点に差し掛かると、その一帯が関本地区である。街道沿いにはかつて旅籠が散在し、宿場町であったことを窺わせる。寺院も数ヶ寺残されており、その創建年代から類推すると、鎌倉期から室町期にかけて人の往来が増えていったと考えられる。それ以前も関本は海老名に次ぐ規模の宿場町であったようだが、鎌倉幕府が開かれると関本の重要性も増したことであろう。京から東国へ向かうためには足柄峠を通らねばならず、しかも峠には魔物が潜むとも考えられていたことから、関本が安息の地であったことは想像に難くない。

竜福寺交差点には時宗龍福寺があり、まさに関本の中心に立地している。龍福寺の檀家は関野家をはじめ旧家が多いことから、名実ともに龍福寺が関本の中心であったとしても的外れなことではないだろう。宿場町には様々な人々がおり、武士階級から芸能民や遊女が混在していたと思われる。龍福寺は時宗開祖の一遍上人の直弟子、他阿真教の創建にかかるが、時宗の名は「時衆」、すなわち「その時代を生きる様々な人々」に由来すると言われ、芸能民や遊女と言った封建制の外にある人々と関連が深い。関本に龍福寺が創建されたということは、当時の関本がいかに多様性に富んでいたかということを物語っていよう。

さて関本近辺を俯瞰してみるならば、西には酒匂川支流の狩川が流れ、さらに西には箱根外輪山の明神ヶ岳がそびえている。「明神」ヶ岳とは読んで字のごとく「神が明らかになった」山であり、信仰の対象であったことを偲ばせる。神祇信仰では本来、社を建てることはなく、自然にあるそのもの自体が信仰の対象となる。狩川を渡った先は神の世界であり、人の世界である宿場町関本とは対照的である。また、その麓には極楽寺があり、まさに「あの世」への入口としてもイメージされていた可能性もあろう。極楽とは西方極楽浄土、西の彼方にあるとされる阿弥陀如来の浄土である。極楽寺は狩野にあるが、近隣には塚原という地名が残されており、この「塚」が墳墓から来ているならば、狩川を渡った先は神や先祖の世界との境界であったとも考えられよう。「三途の川」からも分かるように、川というものは界を分かつ重要なポイントである。

明神ヶ岳の中腹には大雄山最乗寺が15世紀初頭に創建され、極楽寺がそのベースキャンプのような役割を果たしたと言う。なぜこの地が選ばれたのか、もちろん天狗伝説などの伝承はあるが、実際には山からあふれ出す神の「霊力」を、大陸伝来の仏の力で鎮める意味合いもあったのではなかろうか。異界への入口として考えられてきた場所であるが、そうではあっても、人の管理下に置いておきたいという願望が最乗寺創建につながったのかもしれない。人の世界である狩川の東岸から、西岸の神の世界にまで人が入り込んでいく様子を窺い知ることができるであろう。

関本は人の往来からも分かるように、「生」の象徴として繁栄していったと考えられる。人は死を意識しながら生きるものであるが、死は恐怖であると同時に、願望として超克したい対象でもある。狩川西岸を人の管理下に置くということは、「死」の象徴とも言える土地を神から手に入れるということであり、それは死を超克していくことでもあった。現在、明神ヶ岳への信仰が残されていないことは、こうした事柄と無関係ではあるまい。神は時として人に災いをもたらす存在であり、災いを避けるために神を接待して「祭る」必要があった。関本近隣には古代からの神社が現存していない。人は神をも手に入れてしまったのであろうか。

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2017年05月19日

ドムドムが売却

mixiニュースによりますと、「ダイエー子会社のオレンジフードコートが7月、国内初のハンバーガーチェーン「ドムドムハンバーガー」を、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングスに売却することが分かりました」とのことです。さて皆さん、ドムドム知ってます?

実は私、幼稚園の頃からドムドム愛好家だったのです。とは言いましても、もちろんここ何十年も足を踏み入れていませんが、あの二番煎じ感が最高でした。しかし、なんと国内初だったとは知りませんでした。ってことは、国内では二番煎じではなかったわけで、大きな間違いをしていたわけです。申し訳ございません。

中野の新井薬師前にドムドムはありました。しかも幼稚園の友だちの親戚の方が経営しており、そんなことで頻繁に行ったのです。彼女元気にしてるかなあ、背が高くて、よくいじめられたような気が・・・。いえ、結構面白い子だったのですが、なんせ上から見下ろされるような具合でしたので、いじめられていたわけではありません。

彼女との思い出は1つ鮮明に憶えているものがあります。幼稚園のバザーか何かの打ち合わせで、母親が幼稚園に来ていたので、私もそのまま残りました。彼女のお母さんも一緒で、その流れで私と彼女は二人で段ボールを使ってF1カーもどきを作成したのです。それがやたら楽しくて、何が楽しかったか良く分からないのですが、とにかく楽しかった記憶として残っています。

衝撃的だったり特別なことではないのですが、無性に楽しかったことの記憶ってありません?私はネガティブ思考で嫌なこと覚えているたちなので、こういう思い出は大事にしたいなあ。

しかしまあ、そのドムドムも売却されてどうなることやら。

ところでもう1つ、これまた中野の話なんですが、小学生の頃、中野駅南口線路沿いにあった「ぶQ」というスパルタ進学塾に通っていまして、その近所にファーストAという、これまた二番煎じ感たっぷりの店がありました。あれはどうなったんだろうかと、まだ健在なのか・・・。健在なわけないと思うけど、懐かしい。

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2017年05月15日

小田原市と南足柄市の合併問題について、勝手に一言

〜活気がないことが最大の問題〜


小田原市と南足柄市では「中心市のあり方」についての議論が進んでいます。両市合併を想定しての試算などもされているようで、市民にとって市政を考える機会になっていると思えます。一般論として人口減少が確定的であるなか、従来の市民サービスを維持するために合併するというのはあり得ることでしょう。

ただし、こうした合併話は感情論で支配されることも多く、地元がなくなるのではないかという不安はつきものです。冷静に将来をイメージすることが大事だと思います。近視眼的に判断することなく、若い世代にとって何が必要なのかということを長期的視野で議論できれば、合併ごときで地元が消滅するなんてあり得ません。歴史を振り返るならば、合併は今までも繰り返して来ているわけですし。


たしか南足柄市は人口が4万人ちょっと、そして小田原市は19万人ぐらいです。手間や費用などの効率からすれば、南足柄市が編入するという形態になりましょう。実際、そのような方向で議論が進んでいるようです。もちろん、編入する側の南足柄市民としましては、やや面白くないところもあるでしょう。まるで地元が消滅してしまうかのような危機感を覚えるでしょうし、旧小田原市から下に見られるのも面白いことではありません。ただし、小田原市へ買い物に行くことが多い南足柄市民ですから、そのようになってしまえば、いつの間にかこうした感情もなくなっていくのではないかと私は思います。


<よそ者視点で見てみると>
政治や経済の問題や、昔からの市民の方々がどう思われるかということは分かりませんが、10数年前に引っ越してきた身としまして、以下のようなことを漠然と感じています。

・南足柄市は市として小さすぎるし、病院など生活に最低限必要な部分を市外に頼っている。
・規模の割りに市域が大きすぎて、管理が行き届いていない場所が目立つ。
・産業や工場の誘致が上手くいっておらず、働く場が少ない。
・そもそも市に活気や魅力がないので、若い世代は引っ越してしまうことが多い。

・JR線と小田急線ともに直結していないので、南足柄市という名が都心に届くことはあまりない。
・歴史的には宿場町、そして大雄山最乗寺の門前町であったが、あまりアピールがない。
・金太郎伝説と関連がある土地柄だが、具体性に欠けるので観光客も困る。
・大雄山駅の駅舎は素晴らしいが、その雰囲気を保つ意識が周囲からは感じられない。

もちろん主観で偏ってはいますが、こういったことはすぐに頭に浮かびます。歴史深く自然も豊か、そして都心からも比較的近い距離にありながら、随分ともったいないことしているなあとも思います。観光資源なんて山ほどあるように思うのですが、住んでいると気がつかないものなのかもしれません。

ちなみに、語弊があるかもしれませんが敢えて言いますと、東京からこちらを見れば「箱根」しか目に入らないことが多いでしょう。神奈川県だと認識してもらえるのか微妙なところでもあります。南足柄市はほとんど箱根外輪山である明神ヶ岳なのですが、南足柄も「箱根」なんだという認識は市民には皆無かも。これは観光面ではとても残念なことで、もう少し上手くやれないのかと前から思っています。


<地名は消滅しない>
また、よく地名が消滅してしまうことを懸念される方がいますが、地名と市名は本来異質なものです。地名が消えるということはありません。市名はあくまでも行政区画ですので、番号でもいいぐらいだと私は思っています。味気ないかもしれませんが、歴史的に小田原藩であった場所であっても、現在の行政区画で小田原市ではない場所もあります。そもそも小田原市は小田原という地名が代表になっているだけであり、その程度のことになります。他にも横浜市は分かりやすい一例となりましょう。一方、地名というものは、その土地の形状や環境や様子、そして生活者たちの風俗習慣から、自然発生的に名づけられるものであり、本来は行政とは無関係なものでしょう。足柄という名は古い古い地名ですが、決してなくなることはありません。そもそも、足柄という地名からするならば、「南」足柄という命名の仕方にも疑問点があります。個人的には小田原市になるよりも、南足柄市という名であることのほうが歴史を捉えておらず、人工的かつ滑稽だと思います。なんで関本なのか、なんで塚原なのか、ちゃんと歴史的背景を捉えていると思います。

いずれにしましても、小田原市と合併することによりまして、上に箇条書きした事項はある程度解消されるとは思いますが、効果はあまり大きくないかもしれません。一時的には良くなるでしょうが、合併により少子化が解消されたり、人口がより増えていくということには簡単にはならないでしょう。単純に大所帯になって、市民サービスが低下することだってあり得ます。問題がないわけでは決してありません。


<活気がない>
暮らしやすくするため、まず何より必要なのは活気ではないでしょうか。たとえば観光であれば県西部の新たな拠点として、まったく新しく盛り上げていくことが大事だと思われます。そのためには小田原市との合併だけではなく、箱根町との連携も模索しないといけません。箱根山を中心に周遊できるような長い観光コースがあってもいいと思います。欧米のように長期滞在できる新しい観光に活路を見出すことだって可能でしょう。誇れる地元にしていくことは、この地域の人口減に歯止めをかける大きな力になるはずです。ただし今の南足柄市だけでは、箱根町にとって連携するメリットはないでしょう。どうすべきかは、すでに答えが出ているように思います。


県西部には小さな自治体が割拠していますが、とても閉鎖的で内向き姿勢が表れているかのような印象です。それぞれが自治体としての機能を保持しており、おそらく無駄も多いんじゃないかなあ。なんでバラバラなのか、とても不思議です。こういうのは郷土愛でもなんでもなくて、感情的に変化を嫌っているだけのような気もします。変化することは勇気のいることですが、継承できる芯があれば変化は怖くないことは自明です。

物事は変化です。仏教でも諸行無常と言いまして、この世界は変化し続けています。大切なことは変化を認めていくことと、次世代に継承できる活気を残していくことではないでしょうか。

善福寺住職 伊東昌彦
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2017年04月20日

住職なら自分で何とかしよう!

今は弁護士事務所であっても宣伝や営業しないと厳しいようです。東京で地下鉄乗りますと、弁護士事務所の広告が目につきます。しかしベテランの弁護士さんのなかには、こうした展開を良しとしない方もおられるようです。西洋的に見れば司法は神と関係深いもののようですし、その神聖な側面を大事にされているのでしょうか。同じことがお医者さんや歯医者さん、そして学校の先生にも言えるかもしれません。宗教家がこれに含まれることは言うまでもないでしょう。

善福寺も小田急線小田原駅に駅看板を出しています。先代が広告業界にいたので、こうした宣伝活動は以前から積極的ではあるのですが、存在をアピールしないと経営が厳しいというのが現実です。お寺が営利目的でバンバン宣伝するなんて可笑しな話ですが、境内伽藍を維持して住職が生活していくためには仕方のないことだと思います。もちろん顔をしかめる住職もいるでしょう。私も葛藤がないわけではありません。坊さんの金儲けなんて筋違いもいいところですし、教義的には背信行為とも言えるかもしれません。

では、どうすれば良いのでしょうか。境内伽藍はほったらかしで良いのか。朽ち果てていくのをただ眺めているだけでは住職と言えるわけありません。伝道布教をしつつ、檀家がいれば檀家の先祖供養をし、教えと供養のシンボルとも言える伽藍を守っていかねばなりません。

そもそも多くの場合、住職家族だけで支えているお寺であれば、支出の多くは住職家族の生活費でしょう。これを何とかしないといけないわけです。生活費の支出がなければ、多くのお寺は問題なく維持されていくことでしょう。ただし、維持することになる主体は住職となります。霞を食って生きているわけではありませんし、後継者も何とかせねばならない。であるならば、檀家に何とかしてもらおうとか、そんな甘ったれたこと言っていないで、自分で何とかすれば良いだけのことです。

そこで冒頭のようなことになるわけですが、何とかするということにおいて、宗教家としての理念が欠落していることは問題です。収益事業をしても、兼業をしても、何でも良いとは思うのですが、自分が坊さんでありなおかつ住職でもあり、教えに生きているのであれば宗教家としての理念がなければ問題です。住職は職業と言えますが、坊さんであることは職業ではありません。この前提をもって生きていくべきかと思います。

ダラダラと書きましたが、これは私自身へ言い聞かせるためのことでもあります。日本仏教は出家仏教とは言えません。完全に出家されている方もいますが、ほとんど多くの坊さんが在家状態です。本来あるべき出家スタイルは根付かなかったのです。これを堕落と捉えることは簡単ですが、歴史の必然性を考えるならば、日本仏教の真髄はもしかしたら在家仏教であるということかもしれません。生活のなか、職業のなかに仏教を活かしていくのが日本仏教の存在意義と言えるのかも。

ややご都合主義になりましたが、住職であっても別に職業を持つことは問題ありません。むしろ、お寺を経営していくためのヒントが別の職業には隠れているかもしれませんし、生活が楽になれば、檀家に無理強いをすることもなくなるでしょう。お布施の金額が社会問題になるのは、生活が苦しい住職がたくさんいるからなわけで、それは私たち住職が何とかしなければならない問題です。私も兼業しています。

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2017年04月01日

教育勅語から思うこと

最近「教育勅語」についての言論がやや盛んなようです。政治的なことはさて置き、天皇が直接治める国として、「教育勅語」は別段奇異なことを語っているわけではないでしょう。問題があるとすれば、それが現代日本に当てはまるのかということだと思います。現代を語ることは歴史を語るより難しい。普段の生活に関係してくるようなことも含まれますし、言葉が独り歩きするのは怖いことです。だからでしょうか、「天皇論」というテーマもあまり見なくなりまして、そもそも日本は何なのかという本質的な議論が少なくなったような気もします。

私は一人の国民として、日本という国の成り立ちにはとても興味があります。もちろん神話的な側面からは明確ですが、私が知りたいのはその土台となった史実です。研究からは遠ざかるばかりの学徒ですが、物事を整理して理解したいという想いはあります。聖徳太子が教科書から消えるのかと話題になりましたが、「聖徳太子」は厩戸皇子ではあるものの、古来からの伝説や幾人かの人格が合わさった存在とも言われています。では神武天皇はどのような方であったのか、とても興味深いものがあります。伝説上の人物として片づけてしまうことは簡単ですが、何事にも原初はあります。

個人的には「継体天皇」という諡号に大変興味があります。「継体」とおくられているわけで、何やら意味深ですよね。何を継いだのか、誰から継いだのか、「体」とは何を示しているのか。そもそも「体を継ぐ」とは読まないのかもしれませんが、中国思想からすると「体」とは「身体」というよりも「本体」なので、その影響を受けていれば、国としての本体を受け継いだ人物という意味にも取れそうです。しかし、神武天皇以降であれば「体」を継ぐのは当然なことですし、敢えて「継体」とおくった意図は何なのか。かつてもこうした継体天皇についての議論があったようですが、継体天皇の周辺が日本を語る上で重要なような気がします。

卑弥呼は多くの日本人が知っていると思いますが、現代日本とどう関係するのか、ある程度の予測はつくものの、確定的なことは分かっていないようです。謎なんですね。

天皇と日本は切り離せない関係ですし、こうしたことも含めて考えないと「教育勅語」の有用性なんて議論にもならないんじゃないかと思うなあ。

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2017年03月26日

理想と厳格から妥協と緩和へ

結構ネチネチした性格なのか、自分の過去の失敗をいきなり思い出すことがあります。そこでまあ、アホらしいことですが嫌な気分になるんですよね。「こんなはずじゃなかった・・・」というように、自分なりの理想像を追い求めてしまっているからかもしれません。ネチネチ系と自己満系ですね。しかし最近、そろそろ脱皮したいものだと考えています。

過去の行動を恥じたところで、もちろんどうにもなりません。これは誰でも理解できることです。それを反省してこれからに活かすとかであれば、まあ意味あることでしょうが、それも数回ぐらいが限度でしょう。私なんてもう数えきれないほど思い出してまして、どうしようもない事です。自分の行為だからこそ納得できないのか、それとも実は心の底では他人の責任にしようとしているのか・・・。

業という仏教用語がありまして、これは自分の行為とその影響のことです。自業自得という言葉にも発展していきます。つまり、自分の行為とその影響によって、自分は今の境遇を得ていると考えるわけです。平たく言えば、人のせいにしないということです。昔の嫌の思い出というものも、全部自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。私はどこか人のせいにしようと考えているのかもしれません。昔から理想像を追い求めるところがある人なので、それもやめたほうがいいでしょう。

理想と厳格ではなく、妥協と緩和です。

大いに妥協して生きていきたいものです。境内清掃も6割で完成。落第しない程度が丁度いいと決めました。

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2017年02月14日

きれいに撮れました

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先日はそれなりに雪が降りましたが、2日で溶けてしまいました。寺社建築は雪に映えますが、実は雪が降ると境内が荒れます。小枝がかなり落ちるからです。

雪が降ると子は喜ぶも私は憂鬱です。

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2017年02月10日

茅場町いとう医院のブログ

茅場町いとう医院のブログです。
http://kayabacho-itoiin.blog.jp/

更新頻度は高くありませんが、副院長と鍼灸師さん、そして事務室も執筆をしています。
来年度は新たに鍼灸室を独立させる予定にもあります。
体の調子を少しずつ良くしていく鍼灸。興味のある方は是非!

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2017年01月09日

お寺のお正月とは

うちのような関東の一般的なお寺ですと、だいたい年末から年初にかけてお墓参りがあります。ご先祖さまにご挨拶をするわけです。先祖崇拝はインド仏教には見られませんが、東アジアでは広く見られる宗教的習慣です。先祖から連なるものとして自分の命を感じることは、仏教的な縁起を理解する一助になり得るでしょう。

お正月は元旦のお参りが最も多く、2日や3日は少なくなります。そして8日前後のこの時期が、お寺の住人にとっての「お正月やすみ」と言えるかもしれません。ただまあ、どこに行くというわけもなく、こうして玄関番をしながらブログを書いているのです。

今年の目標はと言いますと、まずは善福寺の経営安定化のための具体的方策を粛々と実行に移す、ということもありますが、最近遠ざかっているベースを弾く機会を増やしたいなあと思っています。今、居間のオブジェとして活躍してくれているマイベースですが、きっと心地よい響きを醸し出してくれることでしょう。
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2017年01月01日

本年もよろしくお願い申し上げます!

2017年になりました。本年もよろしくお願い申し上げます!

お正月と言えば、「も〜ぅ、い〜くつ寝〜る〜と♪」なわけですが、今も昔と変わらない楽しみであり続けているのでしょうか。年末、若者のクリスマス離れが話題となりましたが、お正月はまだまだ健在であってほしいものです。しかし、そもそも冒頭の歌を知らないとか・・・。あり得ます。

新年になって何かが劇的に変化するわけではありませんが、人には節目というものが必要です。生死だって節目です。不老不死であったら、きっとダラダラすることでしょう。目的もなく彷徨うのは辛い。節目は人生の活力になってくれるという意味において、新年を迎えることは喜ばしいことだと言えるかもしれません。

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2016年12月31日

早いもので大晦日です

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本年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします!
今年も除夜会を本日午後11時30分頃から修行いたします。
甘酒と記念品(限定30)をご用意しております。お参り下さい。

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2016年12月18日

もうすぐクリスマス

学生時代、クリスマスといえば彼女がいるのかいないのか、切実な問題でありました。ひとまず一所懸命であったと思います。今の子たちはクリスマスよりハロウィンだそうです。恋人より仲間でいるほうが楽だからと。また、クリスマスをお一人様用で過ごすことも話題になっていましたが、何事もお一人様というのが話題です。そりゃまあクリスマスの場合、仕方なくお一人様もいらっしゃることですが、そうではない模様。覇気がないと思うのは私が年を取ったからに違いありません。時代に合ってない。

時代や流行はひとまず置いておいて、あまりお一人様で満足するようだと心配です。リアルだろうがネットだろうが、人づきあいは存在します。仏教でも人づきあいの苦しみを「愛別離苦」や「怨憎会苦」として「四苦」のうちに挙げますが、面倒くさいこともあるのは確かです。しかし、面倒くさいとか、気を遣わなくていいとか、楽な方向に流れ過ぎるのは社会人としての成長を阻むものでしょう。人生、時には投げ出せない場面もあるからです。

こうした傾向が商売になってしまっているのも問題ではあります。お一人様同士でチームスポーツを楽しむシステムもあるようですが、あまり自分勝手ではゲームにならないのは明白です。頭から否定する気はありませんが、人づきあいも大事にしてほしいなあ。

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2016年12月01日

丑三つ時でした

正午とは1日を十二支に当てていた手法のなか、午の正刻である昼12時のことです。とまあ、今さら言うようなことでもないのですが、では「丑みつどき」とは何時頃でしょう。子丑寅・・・、と並ぶので、まあ夜中の1時から3時なんだろうなあとは分かります。私はこんな適当なイメージで「丑満つ時」だと思っていました。丑が深まった時間ということで、おそらく2時〜3時なのではなかろうかと。

「丑三つ時」でした。え〜、丑は二番目だし何でだ。

と思いましたら、1時〜3時の2時間を四分割したうちの三番目、という意味だそうです。というわけで、今の2時〜2時30分ということになります。

子供に適当なこと言ってたなあ。こっそり訂正しておこう。

今じゃ寝ている時間ですが、学生時代は遅くまで起きていたので、この時間ちょっとコンビニでも行こうかと外に出ますと、ものの怪がいそうな雰囲気ですよね。20年以上前のことです。

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2016年11月17日

東国真宗研究所

東国真宗研究所のサイトにおきまして、筑波大学名誉教授の今井雅晴先生に善福寺を取り上げていただきました。先生は関東におけます親鸞門弟の研究もされていらっしゃいます。善福寺開基上人は平塚入道了源と言いまして、親鸞聖人の直弟子とされております。謎の多い人ですが、いつか了源上人についての単行本を出せればと思っています。

http://shinrankyun.com/?news=%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E3%81%A8%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%80%E5%89%8D%E7%B7%A845%E5%9B%9E

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2016年10月21日

善福寺報恩講のご案内

今年も善福寺報恩講の季節となりました。例年と同じく、鎌倉能舞台の中森貫太先生にお能をお願いしております。また、かつて開催していた医療講座を再開することになりまして、こちらは私の義姉が出講予定です。

逮夜 10月29日(土)午後5時  善福寺能は「花月」です。舞台は京都の清水寺。

旅の僧(ワキ)が、在俗のときに子を失い、それを縁に出家した旨をのべ、清水寺へ赴き、寺近くの男(アイ)に案内をたのむと、花月という喝食が面白く狂う旨を教え、花月を呼び出す。花月(シテ)は、左手に弓、右手に矢を持って登場し、花月の名の由来を語り、アイとともに恋の小歌を謡う」(戸井田通三(監)・小林保治(編)『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂、2000年)

詳細はhttp://www.zempukuji.or.jp/nenkan

日中 10月30日(日)午前11時  雅楽法要のあと、医療講座となります。

仏教と医療は異質なものではなく、生死を通して密接に関連しています。この度、善福寺では医療との協働を目指すため、医療講座を再び開催することにいたしました。報恩講のお日中に、茅場町いとう医院副院長・伊東佳子先生をお迎えしまして、健康についてのお話をいただきます。皆様お誘い合わせの上、是非、お越し下さい。どなたでもご参加いただけます。

講題:骨粗しょう症のお話 〜とくに女性の方へ〜

ご参拝をお待ちしております!!
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2016年10月18日

ノーベル文学賞と音楽

ボブ・ディランにノーベル文学賞ですね。世代でしょうか、あまりボブ・ディランな人ではないのですが、一応、バンドマンなので気になるニュースでした。しかし、当の本人と連絡が取れないとのこと。何ともまあ、分かるような気もしますが、可笑しなことになりそうな予感です。

すでに欧米では議論になっているようですが、文学とは?ということにもなると思います。たしかにフォークやロックでも文学的な歌詞の曲はあります。何だか良く分からない哲学的なものもあります。ただ歌詞だけ眺めていたら憂鬱になりそう。曲があるからいいのかなあ。音楽は頭→心より体→心なのではないかと。体感です。脳だって使用している部分が違うのでは。

仏教は両方ありますね。文学と音楽。学問と修行かなあ。決して文学や学問を否定的に言っているわけではなく、両方あったほうがいいね。私は文学も音楽も好きです。ただ、音楽の歌詞だけ取り上げるというのは、ちょっと違和感あるかなあ。あまり真剣に考えたことないけど、ボブ・ディランの曲ってのは、曲を知らずに歌詞だけ眺めていても感動するものなのか。

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2016年10月11日

精神的不器用な私

今朝、mixiのニュースで見たのですが、「共生婚」というのがあるようですね。一般に認知されてはいない言葉でしょうが、つまりは同居人と結婚をしているわけです。ただし、相互に好きなのでしょう。しかし、食事も何もかも別にすることが多いようです。もちろん、夫婦の営みもなし。好きなんでしょうが、別々なんですね。別々に勝手にやるというのは、気は楽かもしれません。

勝手に出来ないときはどうするのかなあ。素朴な疑問ですが、そこはまあ結婚しているわけですし、助け合うことになるのでしょう。元気なときはいいけど、ピンチのときは大変そうだ。冒頭のような状態で二人の絆は深まっていくのか、謎です。

二人で一緒に生活するというのは、お互いに便利なところだけ享受すれば良いものなのか、どうなのでしょう。私は結婚生活まだ15年ぐらいなもんですが、むしろ他人には見せられないような弱みを見せてきたからこそ、お互いに絆が深まったと言えます。これはやはり、一緒に暮らして、一緒に行動してきたことによる影響が大きいと感じます。

人はそれぞれ、なかなか人には言えないような悩みを抱えています。それを自己処理できる人は問題ないのでしょうが、私なんてどうもダメ。食事をしながら話をするとか、聞いてもらうということがないと解決に至りません。精神的不器用なんでしょう。そうでない二人であれば、「共生婚」も成立しそうですね。

便利なところだけ享受するという「共生婚」。人の精神が独立性を高めて進化しているのであれば、むしろ新しい時代なのかもしれません。ただ、そうそう進化するものじゃないなあ。仏教の歴史は2500年近いけど、人の精神的側面を説いたお釈迦様の教えは今でも通用してしまう。また、「人がそんなに便利になれるわけない」という台詞もどこかで聞きましたが、私も同感です。分かり合うということは難しいことです。

人の関係というものは、ピンチのときこそ肝腎なのではないでしょうか。そういう関係を築くということも結婚の意義だと思いますが、一朝一夕では無理でしょう。はじめは「共生婚」であっても、二人の絆が深まっていくことを願います。

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2016年09月24日

箱根ジオパーク編入決定!

南足柄市の箱根ジオパークへの編入が決定されました。
http://www.hakone-geopark.jp/

箱根仙石原への道も開通するようですし、箱根の玄関口になれるかもしれません。そもそも南足柄市は、その市域のほとんどが箱根外輪山の明神ヶ岳です。もう少し箱根を意識しても良いかと思います。

posted by 伊東昌彦 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii