2017年11月27日

人口減という原因において

南足柄市の人口は4.2万人ぐらいです。そして、これはウィキペディア情報なので正確性は不明ですが、全国には814の市がありまして、人口の多い順で言えば599位だそうです。まあ、少ないほうですよね。543位以下は5万人以下となるようです。「市」の定義としては、よく5万人以上と言われますので、これに満たなくなってしまっている市は全国的に結構ありますね。同じぐらいの規模で言えば、県内では三浦市、千葉県では館山市、茨城県では下妻市、山梨県では富士吉田市が目につきました。

多くの市区町村は財政難と言われますが、少子化は目に見えていますし、そろそろ現実的な舵取りが必要な時期ではないかと思えます。南足柄市のみならず、神奈川県西部の人口はどんどん減るでしょう。同じような状況の街は多々ありますし、この地域だけ例外的に人口維持が出来るということは考えにくい。元も子もない言い方ですが、いくら町おこしを頑張ったところで域外からの転入者が増えるわけもなく、ましてや子が増えることはまずないでしょう。定年後ゆっくり過ごすという時代でもないので、高齢の方が余生を過ごす場というのも時代錯誤と言えるかもしれません。

全国的に有名な箱根町も小田原市も、そして今は人口増にある開成町であっても、同じように日本の人口減という状況のなかに飲み込まれていくことでしょう。私は東京都中野区の出身ですが、私の卒業した小学校が統廃合で消滅することになりました。中野区の人口は現在、32.2万人です。中野区は県西部で言えば大井町と同じぐらいの広さですが、人口は県西部2市8町の合計34万と同程度となります。これだけ人口過密であるにも関わらず、小学校は統廃合になる、つまり、子がいないという状況に陥っているわけです。

であるならば、人口減なので相互補完しましょうという市町村合併は急場をしのぐ策であるとはいえ、根本的な解決にはなっていないことは明白です。人口減ったから合併ということを繰り返していれば、そのうち横浜市と合併になることでしょう。当面の財政を考慮するならば、近隣市町村の合併は間違いではないと思いますが、今、せっかく南足柄市と小田原市で合併検討が話題になっていることなので、もっともっと先を見た議論にならないものかと感じます。小さい議論に終始しているような気がしまして、ちょっともったいないなあ。

経営学者のドラッカーではありませんが、未来は予測するものではないでしょう。仏教においても、因果応報と言いまして、直接であろうが間接であろうが、原因があるからその結果がもたらされるのだと言い切ります。原因を知ることこそ大事なのであり、仏教は原因追及の宗教であるとも言えるでしょう。人口は確実に減るという原因が明確なのですから、県西部の将来像はそれだけでもある程度は分かってきます。もちろん、より詳細な未来像を知るためには、さらなる現状認識が必要であることは言うまでもありません。

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2017年10月28日

浄土真宗や仏教を知るためには

わが家は3人の子に恵まれました。子が生まれ来るということは、とてつもなく不可思議なことです。不可思議とは仏教用語で、私たちの思いはからいを超えているという意味です。こうした状況にあることを、大変有難いことだと感じています。有難いとは「有ること難し」ということで、そうであることが、本来はとても難しいこと、すなわち、多くの因縁が重なり合って、ようやくそうなっているということを意味します。まさに命というのは有難いことだと言えるでしょう。

さて、わが家の教育方針(と言うほどのものではありませんが)は「宗教」です。そりゃまあ、お寺なので当然と言えば当然ですが、「仏教」ではなく「宗教」ということにしています。仏教については、私のしゃべっていることを聞いていれば、何となく分かるかなあと思いまして、あまり重視していません。仏教だけになってしまっても、視野が狭くなってしまうかという思いもあります。浄土真宗を知るためには他宗派の教えを、仏教を知るためには他宗教の教えを、宗教を知るためには社会を、と私は考えています。また、これは逆のことも言えるわけで、社会を知るためには宗教を知る必要があります。日本人社会を知るためには日本の宗教を、欧米人社会を知るためには欧米人の宗教を知ることが大事でしょう。

かつて論文指導をいただいた竹村牧男先生は、ご自身は大学院で華厳学を専攻されたかったそうですが、指導教官の平川彰先生から、「では唯識を勉強しなさい」と指導を受けられたそうで、それで長年唯識の研究を続けられてきたそうです。華厳経は大変奥深い教えが詰まっているので、その理解のためには唯識が絶対必要だということのようです。先生は華厳経の授業のとき、今、華厳経を勉強できて凄く嬉しいというようなことを仰っていました。

浄土真宗を正しく知るためには、まず宗教を学ぶことが必要だと思います。浄土真宗の坊さんが、他宗のことなんて全然知らない、キリスト教やイスラム教のことなんて興味ないというのでは、おそらく浄土真宗をうまく伝えることは出来ないでしょう。3人の子のうち、誰が住職を継いでくれるのか分かりませんが、こうしたことを念頭に子育てをしているつもりです。

さて住職、とりわけ浄土真宗は世襲が伝統的になっていますので、浄土真宗の住職の場合、後継者育成というのは結構な課題です。一般家庭に比べて異質なところがあるのが寺院家庭です。私は寺から離れた場所で「会社員の息子」として育ちましたので、それが良く分かります。詳細は省きますが、とにかく変なところがあるわけなのです。上記のような教育方針も、やはり一般的には変わっていることでしょう。お寺で育ちますと、たしかに家はお寺の一部ですので広めであったり、嬉しいこともありはしますが、同時にお経を読ませられるとか、いきなり境内掃除しろだとか、課せられるものがあったりしますので、子にとっては面倒なことも多いでしょう。

と言うことで、長女も長男も宗教系の学校に進学しています。宗教系の学校は高校からだと入学できないことも多いので、中学から入学ということになりました。中学受験は大変でしたが、高校受験のように学校での成績が関与してくることはあまりないので、むしろ分かりやすいものでした。しかし、本人たちには無理をさせまして、親としても貴重な時間を受験勉強に割かせてしまったことに後悔がないわけではありません。私自身も中学受験をしましたが、小学校6年生の記憶は他学年のときに比べあまり残っていません。頭が悪く、悲惨だったからでしょう。10歳前後に脳を鍛えることは価値あることだと思いますが、それは受験勉強ではなくてもできることですし、難しさを感じました。

2人の学校では礼拝がありますが、長女のほうが出席必須で、長男のほうは自由参加です。倫理等の授業もそれなりにあるようなので、住職としても親としても満足しています。礼拝には私も参加してみたいほどです。仏教の礼拝(→らいはい)は毎日してますが、他宗教のものにちゃんと参加したことはありません。宗教家とはいえ、意外と知らないことも多いわけです。2人にとっては良い学びになると思います。将来、仏教とは無関係な方面に進んでいくかもしれませんが、それはそれで、親としては良いことだと思っています。しかし住職としては・・・、3人のうち誰か1人は頼んまっせ、というのが本音になるわけです。

それぞれの寺院家庭によって教育方針は異なります。学校はとくに気にしないという住職も多いでしょうし、全部仏教系で進ませるという住職もおられることでしょう。正解はもちろんないわけですが、私は宗教心を身近に感じることのできる社会人になってほしいと考えています。自分のなかに宗教心を持ってもらいたいと思っているわけです。宗教心というのは何か特別なものではなく、周囲への感謝の心(→仏教では縁起を知ること)、そして自分よりも大きな存在を感じられる謙虚な心(→仏を感じ、自分のいたらなさに気づくこと)のことでしょう。

宗教心はいつの時代でも大事です。次世代につなげていきたいものだと思っています。

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2017年10月26日

後継者がいなくても大丈夫、永代夫婦墓

お墓というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。今のように遺骨を納めるタイプになったのはそう古くなく、火葬が一般化した戦後のことです。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺は後継者がいなくても心配のない夫婦墓がございます。ご夫婦お二人で入っていただく個別タイプの永代供養墓です。永代供養墓には合葬タイプと個別タイプがありますが、こちらは個別でありますので、従来のお墓と同じようにお参りしていただくことが可能です。

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
(画面を下にスクロールしていただきますと、夫婦墓が出てきます)

費用は墓石代と永代供養懇志も含めまして、ご夫婦お二人で100万円となっております。年会費はかかりませんので、これ以外には費用のご心配はございません。なお、ご夫婦お二人が原則ですが、4名様まで納めていただくことが可能です。三人目からはお一人様15万円の追加懇志をいただいております。

是非、ご検討下さい。

宗教法人善福寺
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2017年10月25日

ああ、プロ野球

仏教とは関係ない話題ですが、最近のプロ野球はどうも面白くないなあ。横浜がCS突破したから思うわけではないのですが、やはり日本シリーズはペナントレース1位同士、もしくはそれに準じた成績を残したチームが出るべきじゃなかろうか。今回は広島と横浜は10ゲーム以上離れているし、こういう現象が起きるたびにプロ野球のつまらなさを感じちゃうなあ。

CSはかつての消化試合のような緊張感に欠ける試合をなくすため、また、集客といった興業の面からも期待されて創設されたと思います。当初は劇的な逆転劇もあり盛り上がりましたが、ペナントレース1位のチームは2位と3位の試合を待っていなければならず、どうしても試合勘が鈍って不利だということが、一般のファンにも分かってきました。ちょっと可哀相なんですよね。

また、セパ交流戦も同じく当初は盛り上がりましたが、これにも弊害があって、たとえばパ・リーグのチームが交流戦で勝ちまくりますと、セ・リーグのチームはどこも負けばかりになり、最終的にペナントレースで異様に勝率の悪い1位チームが出てきてしまいます。なんだか珍現象に思えるような数字になるわけです。交流戦は普段試合をしないチーム同士がぶつかり合いますので、たしかに最初は嬉しかった。でも、それももう飽き飽きというか、日本シリーズだけで十分だよって気分なんですよね。個人的には。

消化試合は消化試合でのんびりしていて楽しい側面もあったし、不採算であれば、採算とれるよう経費削減すればいいじゃないかと思うけどなあ。選手の年俸もあまり高すぎるのも、果たして正しいことなのか。何でもアメリカ的になるのはねえ、日本は自由競争だけで成り立ってきた社会じゃないし、格差広がっても良いことないと思うけど。ただまあ、プロ野球も英才教育の時代のようだし、昔とは親も費用のかけかたが違うのであれば、見返りを期待するのも分からんでもないとすべきなのか。

こうした運営にも問題はあるようだけど、そもそも、スター選手がみんな大リーグに行っちゃうから、ってことも重大だ。となると、プロ野球もレベルや選手環境の向上を図って流出に歯止めをかけることになるとは思うけど、そうなると年俸高騰で球団経営も厳しくなる。だからCSや交流戦やろうと。なるほど、難しそうだ。簡単じゃなさそうだよね。

来年の巨人はどうかなあ。高橋監督とは同世代なので、頑張ってほしい。
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2017年10月11日

中村元東方学術賞

昨日はインド大使館で中村元東方学術賞の授賞式でした。武蔵野大学でお世話になりましたケネス田中先生が受賞されましたので、私も後方に参列させていただきました。

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先生のご経歴はもの凄いものがあるのですが、私はそのなかでも浄土教についてのご指導をいただきまして、そして、さらに日本的ユーモアのご研究についても、多様性という視点における重要性を教えていただきました。

先生、おめでとうございました!!


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2017年09月24日

金太郎ウォーク

昨日は第6回金太郎ウォーク(南足柄市・伊豆箱根鉄道共同開催)でした。400名以上の方がご参加されたとのことで、善福寺にもたくさんの方が来られました。晴天で良かったです。

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しかし、すみません。御朱印を求められる方がこうした企画にはいらっしゃるのですが、浄土真宗には御朱印そのものがありません。申し訳ないと思いつつ、六福寺用のスタンプで我慢していただいております。
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2017年09月14日

神仏のなかで生かされる

あまり政治には詳しくない私ですが、最近よく日本の伝統ということと政治が絡めて用いられることを目にする機会が増えたような気がします。もちろん政治的に保守系の方々が使われることが多いのですが、果たして日本の伝統とは何なのか、私自身、まだまだよく分かっていません。宗教的には神仏習合が1つのヒントになることは確かだと思いますが、それだけで全てが説明できるわけではありません。仏のほうはまだ体系的だと言えますが、神のほうは単純に神道とは言えない側面もあり、極めて複雑なのではないでしょうか。そして、そもそも何をもって日本を捉えるのかも問題です。雰囲気としては感じられても、具体性に欠けるのが日本の伝統であるような気もします。普遍的なものがあることは確かなんですけど、少なくとも私にはそう思えます。そして、日本の伝統ということが、とても大事な概念であるがゆえ、安易に国民を扇動するための道具に使われることに、やや違和感を覚えつつあります。

何を保守すべきなのかもよく分からないのに、ただ昔に立ち返ろうとか、何でも現状維持がいいとか、こういうのは保守でも何でもなく、思考停止なだけなのではないでしょうか。進歩していくことは思考し続けることですが、実は結構な労力がいることです。今のままが何でもいいというのは、日本の伝統はおろか、現状にさえ目が向いていないのでしょう。問題点に目を向けないからこそ、それに蓋をして現状維持とする。自分は保守だと言う方には、意外とこういう輩が多いように感じます。私はどちらかと言えば保守的な立場で物事を考えるたちですが、ちゃんと思考は続けていきたい。そして宗教的に言えば、ちゃんと神仏と自分自身を対比させ、自らの至らぬ点を知るような努力も何とか続けていきたい。日本の伝統ということを考えたとき、神仏に対して謙虚であること、人間中心の思考から抜け出すということ、こうした点は押さえてもらいないなあと、1人の宗教家として思います。人間の力が万能だと思うことは、とても愚かな発想です。

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2017年09月11日

おめでとう、桐生選手!

東洋大の桐生祥秀選手、ついに9秒台ですね。何回も動画を見てしまいました。記者会見も良かった。記録はもちろん嬉しいのですが、彼の口から出た周囲への感謝の気持ちに触れまして、同じ東洋大で学んだものとして、とても誇らしく思いました。大学のユニフォームを着るのが最後であったとのことで、これも彼の人情をよく表しているような気がします。土江コーチとも色々とあったようですが、記録で恩返しという言葉にすべての思いが込められていたように思います。超一流選手というものは、自然に人格も超一流に形成されていく場合が多いのでしょう。おめでとう!桐生選手!!

ライバルの山縣選手からの祝福についても、桐生選手はとても感動したと。悔しいなかにあっても、ああして祝辞を送れる先輩の心に感動したのでしょう。自分では出来るかどうか分からないと言っていましたが、きっと桐生選手も山縣選手と同じようにライバルを祝福できるはずです。

仏教では自分も含めてこの世界をすべて「縁起」で捉えます。縁起というのは、他があって自分があり、自分があって他がある、ということです。他との交流なく勝手に存在しているものはなく、だからこそ、自分という存在も他を含んだ存在で、自分固有のものではないと考えます。桐生選手にしてみれば、家族やコーチ、そしてライバルや仲間がいて、そして、はじめて自分があるということになるのでしょう。
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2017年09月04日

夏休みが普通に終わり

8月盆のあと、ちょっと休みをいただき、ディズニーランドへ行ってきました。大変暑く、もうお父さんはヘトヘトで・・・、ベンチに座っている時間も多かった。出来れば乗り物には乗らず、涼しいところでボケっと座っていたいなあと。一般的に言いまして、お寺の場合、夏はやる事が多く、子供がいれば軟禁状態になりやすいのが現状です。わが家も例外ではなく、上は部活と遊びで忙しかったようですが、真ん中と下はヒマ。そういう時は自由研究でもすべきですが、私も忙しく指導する気力もなく、なんとなく休みが終わっていきました。ディズニーランドは楽しかったのですが、あれはまあ思考力のいらないものなので、実りがあったのかないのか。毎年消化不良の夏休みなのです。

9月に入って教区の集まりに参加しました。真っ黒に日焼けした住職。ありゃ国産ではないなあと思いつつ、お葬式あったらどうすんのかなあと、心の中でいらぬ心配。ご当人は堂々とされており、こちらの小心者ぶりが改めて実感されました。きっとハワイ別院にご参拝されたのであろうと、うらやましいような、何とも言い難いというか、はっきりしない気持ちで眺めていました。( ̄∇ ̄;)ハハハ

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2017年06月12日

後継者がいなくても大丈夫、永代夫婦墓

お墓というものは、伝統的には「家」のものであり、その「家」の方々が代々入るようなシステムになっています。今のように遺骨を納めるタイプになったのはそう古くなく、火葬が一般化した戦後のことです。少子化の現代、「家」を代々守ることはとても大変なことになっていますが、お墓にも色々な種類のものが出てきました。

善福寺は後継者がいなくても心配のない夫婦墓がございます。ご夫婦お二人で入っていただく個別タイプの永代供養墓です。永代供養墓には合葬タイプと個別タイプがありますが、こちらは個別でありますので、従来のお墓と同じようにお参りしていただくことが可能です。

詳しくは善福寺ホームページをご覧ください。
http://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi
(画面を下にスクロールしていただきますと、夫婦墓が出てきます)

費用は墓石代と永代供養懇志も含めまして、ご夫婦お二人で100万円となっております。年会費はかかりませんので、これ以外には費用のご心配はございません。なお、ご夫婦お二人が原則ですが、4名様まで納めていただくことが可能です。三人目からはお一人様15万円の追加懇志をいただいております。

是非、ご検討下さい。

宗教法人善福寺
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2017年05月23日

さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト

市原悦子さん主演の『さよなら!おばさんデカ 桜乙女の事件帖 ザ・ラスト』(主演:市原悦子、編成企画:太田大・橋口愛、プロデューサー:赤司学文)』が5月12日(金)にフジテレビ系で放送されました。本シリーズのファンである方も多いと思いますが、本作でシリーズ終了とのことです。ちょっと残念です。本作のロケ地には南足柄市も使われておりまして、善福寺もお葬式のシーンに登場しました。

撮影のとき、私は遠くから見学させてもらったのですが、まったく関係ないにもかかわらず緊張してしまいました。しかも私がボケっとしておりますと、共演の佐藤B作さんがこちらに来られまして、「宜しくお願い致します」と深々と頭を下げて行かれました。もちろん私は恐縮してしまっていたのですが、ほんの数十秒のシーンとはいえ、ロケ地にしっかり礼を尽くされる姿に接し、視聴者としてとても嬉しい気分になりました。

ちなみに撮影の様子です。
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2017年05月20日

南足柄市関本について

関本一考 〜寺院存在の視点から〜

善福寺住職 伊東昌彦

足柄峠を鎌倉方面へ下って竜福寺交差点に差し掛かると、その一帯が関本地区である。街道沿いにはかつて旅籠が散在し、宿場町であったことを窺わせる。寺院も数ヶ寺残されており、その創建年代から類推すると、鎌倉期から室町期にかけて人の往来が増えていったと考えられる。それ以前も関本は海老名に次ぐ規模の宿場町であったようだが、鎌倉幕府が開かれると関本の重要性も増したことであろう。京から東国へ向かうためには足柄峠を通らねばならず、しかも峠には魔物が潜むとも考えられていたことから、関本が安息の地であったことは想像に難くない。

竜福寺交差点には時宗龍福寺があり、まさに関本の中心に立地している。龍福寺の檀家は関野家をはじめ旧家が多いことから、名実ともに龍福寺が関本の中心であったとしても的外れなことではないだろう。宿場町には様々な人々がおり、武士階級から芸能民や遊女が混在していたと思われる。龍福寺は時宗開祖の一遍上人の直弟子、他阿真教の創建にかかるが、時宗の名は「時衆」、すなわち「その時代を生きる様々な人々」に由来すると言われ、芸能民や遊女と言った封建制の外にある人々と関連が深い。関本に龍福寺が創建されたということは、当時の関本がいかに多様性に富んでいたかということを物語っていよう。

さて関本近辺を俯瞰してみるならば、西には酒匂川支流の狩川が流れ、さらに西には箱根外輪山の明神ヶ岳がそびえている。「明神」ヶ岳とは読んで字のごとく「神が明らかになった」山であり、信仰の対象であったことを偲ばせる。神祇信仰では本来、社を建てることはなく、自然にあるそのもの自体が信仰の対象となる。狩川を渡った先は神の世界であり、人の世界である宿場町関本とは対照的である。また、その麓には極楽寺があり、まさに「あの世」への入口としてもイメージされていた可能性もあろう。極楽とは西方極楽浄土、西の彼方にあるとされる阿弥陀如来の浄土である。極楽寺は狩野にあるが、近隣には塚原という地名が残されており、この「塚」が墳墓から来ているならば、狩川を渡った先は神や先祖の世界との境界であったとも考えられよう。「三途の川」からも分かるように、川というものは界を分かつ重要なポイントである。

明神ヶ岳の中腹には大雄山最乗寺が15世紀初頭に創建され、極楽寺がそのベースキャンプのような役割を果たしたと言う。なぜこの地が選ばれたのか、もちろん天狗伝説などの伝承はあるが、実際には山からあふれ出す神の「霊力」を、大陸伝来の仏の力で鎮める意味合いもあったのではなかろうか。異界への入口として考えられてきた場所であるが、そうではあっても、人の管理下に置いておきたいという願望が最乗寺創建につながったのかもしれない。人の世界である狩川の東岸から、西岸の神の世界にまで人が入り込んでいく様子を窺い知ることができるであろう。

関本は人の往来からも分かるように、「生」の象徴として繁栄していったと考えられる。人は死を意識しながら生きるものであるが、死は恐怖であると同時に、願望として超克したい対象でもある。狩川西岸を人の管理下に置くということは、「死」の象徴とも言える土地を神から手に入れるということであり、それは死を超克していくことでもあった。現在、明神ヶ岳への信仰が残されていないことは、こうした事柄と無関係ではあるまい。神は時として人に災いをもたらす存在であり、災いを避けるために神を接待して「祭る」必要があった。関本近隣には古代からの神社が現存していない。人は神をも手に入れてしまったのであろうか。

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2017年05月19日

ドムドムが売却

mixiニュースによりますと、「ダイエー子会社のオレンジフードコートが7月、国内初のハンバーガーチェーン「ドムドムハンバーガー」を、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングスに売却することが分かりました」とのことです。さて皆さん、ドムドム知ってます?

実は私、幼稚園の頃からドムドム愛好家だったのです。とは言いましても、もちろんここ何十年も足を踏み入れていませんが、あの二番煎じ感が最高でした。しかし、なんと国内初だったとは知りませんでした。ってことは、国内では二番煎じではなかったわけで、大きな間違いをしていたわけです。申し訳ございません。

中野の新井薬師前にドムドムはありました。しかも幼稚園の友だちの親戚の方が経営しており、そんなことで頻繁に行ったのです。彼女元気にしてるかなあ、背が高くて、よくいじめられたような気が・・・。いえ、結構面白い子だったのですが、なんせ上から見下ろされるような具合でしたので、いじめられていたわけではありません。

彼女との思い出は1つ鮮明に憶えているものがあります。幼稚園のバザーか何かの打ち合わせで、母親が幼稚園に来ていたので、私もそのまま残りました。彼女のお母さんも一緒で、その流れで私と彼女は二人で段ボールを使ってF1カーもどきを作成したのです。それがやたら楽しくて、何が楽しかったか良く分からないのですが、とにかく楽しかった記憶として残っています。

衝撃的だったり特別なことではないのですが、無性に楽しかったことの記憶ってありません?私はネガティブ思考で嫌なこと覚えているたちなので、こういう思い出は大事にしたいなあ。

しかしまあ、そのドムドムも売却されてどうなることやら。

ところでもう1つ、これまた中野の話なんですが、小学生の頃、中野駅南口線路沿いにあった「ぶQ」というスパルタ進学塾に通っていまして、その近所にファーストAという、これまた二番煎じ感たっぷりの店がありました。あれはどうなったんだろうかと、まだ健在なのか・・・。健在なわけないと思うけど、懐かしい。

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2017年05月15日

小田原市と南足柄市の合併問題について、勝手に一言

〜活気がないことが最大の問題〜


小田原市と南足柄市では「中心市のあり方」についての議論が進んでいます。両市合併を想定しての試算などもされているようで、市民にとって市政を考える機会になっていると思えます。一般論として人口減少が確定的であるなか、従来の市民サービスを維持するために合併するというのはあり得ることでしょう。

ただし、こうした合併話は感情論で支配されることも多く、地元がなくなるのではないかという不安はつきものです。冷静に将来をイメージすることが大事だと思います。近視眼的に判断することなく、若い世代にとって何が必要なのかということを長期的視野で議論できれば、合併ごときで地元が消滅するなんてあり得ません。歴史を振り返るならば、合併は今までも繰り返して来ているわけですし。


たしか南足柄市は人口が4万人ちょっと、そして小田原市は19万人ぐらいです。手間や費用などの効率からすれば、南足柄市が編入するという形態になりましょう。実際、そのような方向で議論が進んでいるようです。もちろん、編入する側の南足柄市民としましては、やや面白くないところもあるでしょう。まるで地元が消滅してしまうかのような危機感を覚えるでしょうし、旧小田原市から下に見られるのも面白いことではありません。ただし、小田原市へ買い物に行くことが多い南足柄市民ですから、そのようになってしまえば、いつの間にかこうした感情もなくなっていくのではないかと私は思います。


<よそ者視点で見てみると>
政治や経済の問題や、昔からの市民の方々がどう思われるかということは分かりませんが、10数年前に引っ越してきた身としまして、以下のようなことを漠然と感じています。

・南足柄市は市として小さすぎるし、病院など生活に最低限必要な部分を市外に頼っている。
・規模の割りに市域が大きすぎて、管理が行き届いていない場所が目立つ。
・産業や工場の誘致が上手くいっておらず、働く場が少ない。
・そもそも市に活気や魅力がないので、若い世代は引っ越してしまうことが多い。

・JR線と小田急線ともに直結していないので、南足柄市という名が都心に届くことはあまりない。
・歴史的には宿場町、そして大雄山最乗寺の門前町であったが、あまりアピールがない。
・金太郎伝説と関連がある土地柄だが、具体性に欠けるので観光客も困る。
・大雄山駅の駅舎は素晴らしいが、その雰囲気を保つ意識が周囲からは感じられない。

もちろん主観で偏ってはいますが、こういったことはすぐに頭に浮かびます。歴史深く自然も豊か、そして都心からも比較的近い距離にありながら、随分ともったいないことしているなあとも思います。観光資源なんて山ほどあるように思うのですが、住んでいると気がつかないものなのかもしれません。

ちなみに、語弊があるかもしれませんが敢えて言いますと、東京からこちらを見れば「箱根」しか目に入らないことが多いでしょう。神奈川県だと認識してもらえるのか微妙なところでもあります。南足柄市はほとんど箱根外輪山である明神ヶ岳なのですが、南足柄も「箱根」なんだという認識は市民には皆無かも。これは観光面ではとても残念なことで、もう少し上手くやれないのかと前から思っています。


<地名は消滅しない>
また、よく地名が消滅してしまうことを懸念される方がいますが、地名と市名は本来異質なものです。地名が消えるということはありません。市名はあくまでも行政区画ですので、番号でもいいぐらいだと私は思っています。味気ないかもしれませんが、歴史的に小田原藩であった場所であっても、現在の行政区画で小田原市ではない場所もあります。そもそも小田原市は小田原という地名が代表になっているだけであり、その程度のことになります。他にも横浜市は分かりやすい一例となりましょう。一方、地名というものは、その土地の形状や環境や様子、そして生活者たちの風俗習慣から、自然発生的に名づけられるものであり、本来は行政とは無関係なものでしょう。足柄という名は古い古い地名ですが、決してなくなることはありません。そもそも、足柄という地名からするならば、「南」足柄という命名の仕方にも疑問点があります。個人的には小田原市になるよりも、南足柄市という名であることのほうが歴史を捉えておらず、人工的かつ滑稽だと思います。なんで関本なのか、なんで塚原なのか、ちゃんと歴史的背景を捉えていると思います。

いずれにしましても、小田原市と合併することによりまして、上に箇条書きした事項はある程度解消されるとは思いますが、効果はあまり大きくないかもしれません。一時的には良くなるでしょうが、合併により少子化が解消されたり、人口がより増えていくということには簡単にはならないでしょう。単純に大所帯になって、市民サービスが低下することだってあり得ます。問題がないわけでは決してありません。


<活気がない>
暮らしやすくするため、まず何より必要なのは活気ではないでしょうか。たとえば観光であれば県西部の新たな拠点として、まったく新しく盛り上げていくことが大事だと思われます。そのためには小田原市との合併だけではなく、箱根町との連携も模索しないといけません。箱根山を中心に周遊できるような長い観光コースがあってもいいと思います。欧米のように長期滞在できる新しい観光に活路を見出すことだって可能でしょう。誇れる地元にしていくことは、この地域の人口減に歯止めをかける大きな力になるはずです。ただし今の南足柄市だけでは、箱根町にとって連携するメリットはないでしょう。どうすべきかは、すでに答えが出ているように思います。


県西部には小さな自治体が割拠していますが、とても閉鎖的で内向き姿勢が表れているかのような印象です。それぞれが自治体としての機能を保持しており、おそらく無駄も多いんじゃないかなあ。なんでバラバラなのか、とても不思議です。こういうのは郷土愛でもなんでもなくて、感情的に変化を嫌っているだけのような気もします。変化することは勇気のいることですが、継承できる芯があれば変化は怖くないことは自明です。

物事は変化です。仏教でも諸行無常と言いまして、この世界は変化し続けています。大切なことは変化を認めていくことと、次世代に継承できる活気を残していくことではないでしょうか。

善福寺住職 伊東昌彦
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2017年04月20日

住職なら自分で何とかしよう!

今は弁護士事務所であっても宣伝や営業しないと厳しいようです。東京で地下鉄乗りますと、弁護士事務所の広告が目につきます。しかしベテランの弁護士さんのなかには、こうした展開を良しとしない方もおられるようです。西洋的に見れば司法は神と関係深いもののようですし、その神聖な側面を大事にされているのでしょうか。同じことがお医者さんや歯医者さん、そして学校の先生にも言えるかもしれません。宗教家がこれに含まれることは言うまでもないでしょう。

善福寺も小田急線小田原駅に駅看板を出しています。先代が広告業界にいたので、こうした宣伝活動は以前から積極的ではあるのですが、存在をアピールしないと経営が厳しいというのが現実です。お寺が営利目的でバンバン宣伝するなんて可笑しな話ですが、境内伽藍を維持して住職が生活していくためには仕方のないことだと思います。もちろん顔をしかめる住職もいるでしょう。私も葛藤がないわけではありません。坊さんの金儲けなんて筋違いもいいところですし、教義的には背信行為とも言えるかもしれません。

では、どうすれば良いのでしょうか。境内伽藍はほったらかしで良いのか。朽ち果てていくのをただ眺めているだけでは住職と言えるわけありません。伝道布教をしつつ、檀家がいれば檀家の先祖供養をし、教えと供養のシンボルとも言える伽藍を守っていかねばなりません。

そもそも多くの場合、住職家族だけで支えているお寺であれば、支出の多くは住職家族の生活費でしょう。これを何とかしないといけないわけです。生活費の支出がなければ、多くのお寺は問題なく維持されていくことでしょう。ただし、維持することになる主体は住職となります。霞を食って生きているわけではありませんし、後継者も何とかせねばならない。であるならば、檀家に何とかしてもらおうとか、そんな甘ったれたこと言っていないで、自分で何とかすれば良いだけのことです。

そこで冒頭のようなことになるわけですが、何とかするということにおいて、宗教家としての理念が欠落していることは問題です。収益事業をしても、兼業をしても、何でも良いとは思うのですが、自分が坊さんでありなおかつ住職でもあり、教えに生きているのであれば宗教家としての理念がなければ問題です。住職は職業と言えますが、坊さんであることは職業ではありません。この前提をもって生きていくべきかと思います。

ダラダラと書きましたが、これは私自身へ言い聞かせるためのことでもあります。日本仏教は出家仏教とは言えません。完全に出家されている方もいますが、ほとんど多くの坊さんが在家状態です。本来あるべき出家スタイルは根付かなかったのです。これを堕落と捉えることは簡単ですが、歴史の必然性を考えるならば、日本仏教の真髄はもしかしたら在家仏教であるということかもしれません。生活のなか、職業のなかに仏教を活かしていくのが日本仏教の存在意義と言えるのかも。

ややご都合主義になりましたが、住職であっても別に職業を持つことは問題ありません。むしろ、お寺を経営していくためのヒントが別の職業には隠れているかもしれませんし、生活が楽になれば、檀家に無理強いをすることもなくなるでしょう。お布施の金額が社会問題になるのは、生活が苦しい住職がたくさんいるからなわけで、それは私たち住職が何とかしなければならない問題です。私も兼業しています。

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2017年04月01日

教育勅語から思うこと

最近「教育勅語」についての言論がやや盛んなようです。政治的なことはさて置き、天皇が直接治める国として、「教育勅語」は別段奇異なことを語っているわけではないでしょう。問題があるとすれば、それが現代日本に当てはまるのかということだと思います。現代を語ることは歴史を語るより難しい。普段の生活に関係してくるようなことも含まれますし、言葉が独り歩きするのは怖いことです。だからでしょうか、「天皇論」というテーマもあまり見なくなりまして、そもそも日本は何なのかという本質的な議論が少なくなったような気もします。

私は一人の国民として、日本という国の成り立ちにはとても興味があります。もちろん神話的な側面からは明確ですが、私が知りたいのはその土台となった史実です。研究からは遠ざかるばかりの学徒ですが、物事を整理して理解したいという想いはあります。聖徳太子が教科書から消えるのかと話題になりましたが、「聖徳太子」は厩戸皇子ではあるものの、古来からの伝説や幾人かの人格が合わさった存在とも言われています。では神武天皇はどのような方であったのか、とても興味深いものがあります。伝説上の人物として片づけてしまうことは簡単ですが、何事にも原初はあります。

個人的には「継体天皇」という諡号に大変興味があります。「継体」とおくられているわけで、何やら意味深ですよね。何を継いだのか、誰から継いだのか、「体」とは何を示しているのか。そもそも「体を継ぐ」とは読まないのかもしれませんが、中国思想からすると「体」とは「身体」というよりも「本体」なので、その影響を受けていれば、国としての本体を受け継いだ人物という意味にも取れそうです。しかし、神武天皇以降であれば「体」を継ぐのは当然なことですし、敢えて「継体」とおくった意図は何なのか。かつてもこうした継体天皇についての議論があったようですが、継体天皇の周辺が日本を語る上で重要なような気がします。

卑弥呼は多くの日本人が知っていると思いますが、現代日本とどう関係するのか、ある程度の予測はつくものの、確定的なことは分かっていないようです。謎なんですね。

天皇と日本は切り離せない関係ですし、こうしたことも含めて考えないと「教育勅語」の有用性なんて議論にもならないんじゃないかと思うなあ。

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2017年03月26日

理想と厳格から妥協と緩和へ

結構ネチネチした性格なのか、自分の過去の失敗をいきなり思い出すことがあります。そこでまあ、アホらしいことですが嫌な気分になるんですよね。「こんなはずじゃなかった・・・」というように、自分なりの理想像を追い求めてしまっているからかもしれません。ネチネチ系と自己満系ですね。しかし最近、そろそろ脱皮したいものだと考えています。

過去の行動を恥じたところで、もちろんどうにもなりません。これは誰でも理解できることです。それを反省してこれからに活かすとかであれば、まあ意味あることでしょうが、それも数回ぐらいが限度でしょう。私なんてもう数えきれないほど思い出してまして、どうしようもない事です。自分の行為だからこそ納得できないのか、それとも実は心の底では他人の責任にしようとしているのか・・・。

業という仏教用語がありまして、これは自分の行為とその影響のことです。自業自得という言葉にも発展していきます。つまり、自分の行為とその影響によって、自分は今の境遇を得ていると考えるわけです。平たく言えば、人のせいにしないということです。昔の嫌の思い出というものも、全部自分の行為の結果であり、誰のせいでもありません。私はどこか人のせいにしようと考えているのかもしれません。昔から理想像を追い求めるところがある人なので、それもやめたほうがいいでしょう。

理想と厳格ではなく、妥協と緩和です。

大いに妥協して生きていきたいものです。境内清掃も6割で完成。落第しない程度が丁度いいと決めました。

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2017年02月14日

きれいに撮れました

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先日はそれなりに雪が降りましたが、2日で溶けてしまいました。寺社建築は雪に映えますが、実は雪が降ると境内が荒れます。小枝がかなり落ちるからです。

雪が降ると子は喜ぶも私は憂鬱です。

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2017年02月10日

茅場町いとう医院のブログ

茅場町いとう医院のブログです。
http://kayabacho-itoiin.blog.jp/

更新頻度は高くありませんが、副院長と鍼灸師さん、そして事務室も執筆をしています。
来年度は新たに鍼灸室を独立させる予定にもあります。
体の調子を少しずつ良くしていく鍼灸。興味のある方は是非!

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2017年01月09日

お寺のお正月とは

うちのような関東の一般的なお寺ですと、だいたい年末から年初にかけてお墓参りがあります。ご先祖さまにご挨拶をするわけです。先祖崇拝はインド仏教には見られませんが、東アジアでは広く見られる宗教的習慣です。先祖から連なるものとして自分の命を感じることは、仏教的な縁起を理解する一助になり得るでしょう。

お正月は元旦のお参りが最も多く、2日や3日は少なくなります。そして8日前後のこの時期が、お寺の住人にとっての「お正月やすみ」と言えるかもしれません。ただまあ、どこに行くというわけもなく、こうして玄関番をしながらブログを書いているのです。

今年の目標はと言いますと、まずは善福寺の経営安定化のための具体的方策を粛々と実行に移す、ということもありますが、最近遠ざかっているベースを弾く機会を増やしたいなあと思っています。今、居間のオブジェとして活躍してくれているマイベースですが、きっと心地よい響きを醸し出してくれることでしょう。
posted by 伊東昌彦 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii