2022年12月02日

「鑑みる」という表現について

日常生活ではそれほど重要ではないことなのですが、最近よく「鑑(かんが)みる」という表現を目にします。結構堅苦しい言い回しかと思っていましたが、使われることが多くなっている印象です。

ただ、たいてい「〜を鑑みる」という表現なので、やかましいかもしれませんが、

これは「〜に鑑みる」という表現のほうが正解に近いかと思います。


「鑑」を「かんがみる」と読む場合、「Aということを、Bということに(照らして)考える」という意味になるとのことなので、たとえばサッカーを例に挙げれば、「スペイン戦の行方を、ドイツ戦勝利に鑑みたところ、勝利する可能性もある」となります。

中間部分を省略すれば、たしかに「スペイン戦の行方を鑑みる」としても間違いではないかもしれません。鑑みる対象には、「ドイツ戦勝利」のみならず、「スペイン戦の行方」も含まれるからです。

しかし、これだと内容として不十分になってしまうので、個人的には省略しすぎかなと感じます。こうしたいのであれば、単に「スペイン戦の行方を考える」で良いわけで、「鑑」という字を使用する意味がなくなるからです。

なお、恥ずかしながら、かく言う私もかつて「〜を鑑みて」と思い切り用いていました。ふとしたことから違和感を覚えまして、ちょいと調べてみたわけです。

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2022年11月29日

東名渋滞で思った

最近の東名高速は毎日渋滞しています。上り午後は伊勢原から大和トンネル、下り午前は町田付近。よく通るんですが、もう慣れました。若いころは渋滞してると少しでも動く車線へ移動移動。無理な割り込みです。

今思えば非常に迷惑で危険。すみませんでした。

若かったからなあと思いながらも、今見ると結構おじさんが割り込んでくるんだよね。渋滞に不慣れなのかもしれんけど、ちょこちょこ動いてもあんま所要時間に差はないんだなあ、これがまた。とくに休みの日の午後上りはひどいもので。

ワルっぽい輩かなと思って見てみると、見た目は普通のおじさん。見た目は関係ないなあと思います。

傍から見ているとちょろちょろと滑稽なんだけど、自分の姿にはなかなか気づかないものです。あと急な割り込みは単純に危ないのでやめて〜。入ってきそうな雰囲気は分かるんだけど、入り方もいまいちで、、、

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2022年11月28日

黄葉が奇妙だなあ

今年は暖かい(今日は寒いですが)せいもあるのか、銀杏の黄葉が奇妙です。部分的にしか黄葉していません。全体的に遅い木で、ときには黄葉しないで落葉してしまう年もあったのですが、こういうのは初めて。

銀杏の様子、ライブ配信中です↓
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ



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2022年10月12日

銀河衝突と弥勒菩薩

最近ツイッター見ていると皆さん政治的発言増えたような気がします。ツイッターだからかもしれませんが、皆さん色々と政治に不満があるんでしょう。私もありますが、生来押しつけがましい性格なのであまり人には話しません。飲み屋で女房にご高説を垂れるぐらい。政治は仏教教理のように方向が1つじゃないので難しいですね。

ところでツイッターで見たのですが、われわれの銀河は45億年後にお隣のアンドロメダ銀河と衝突し、70億年後に1つになるそうです。もうその名前もついていて、「ミルコメダ銀河」になるそうです。誰が命名したのかは分かりません。たぶんNASAでしょう。違ったらすみません。

なお仏教では、弥勒菩薩が仏としてこの世に降りて来て下さるのが56億7千万年後だそうです。と言うことは、すでに銀河は衝突済みの状態ですね。なんだか地球上も混沌とした状況のような気がしますが、そもそも救いの対象である生命がいなかったりしたら・・・。

ただし経典によれば、その時を狙ってこの世に再度生まれることを願う人々もいるらしいので、いらぬ心配かもしれません。気温とかどうなっているのか、これも余計な心配でしょう。なぜならば、環境とはその生命の業によって形成されるので、生命があるかぎり環境もそれ用になっています。

以上は弥勒菩薩によって救われたいという願いの表れなわけですが、ちょっと56億云々というのは長すぎだと感じます。5億でも大丈夫なような気もします。しかし仏教では時間に客観性はないようなので、あまり長さは関係ないのかもしれません。 合掌

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2022年10月08日

いつか帰る場所

昔、幼少のころですが、夕方5時のチャイムで外から家に帰ると、母が夕食の支度をしていた。今となっては漠然とした記憶なんですが、すごく懐かしくたまにその時に戻ってみたくもなります。これは私にとって、いつか帰る場所なのかもしれません。帰り道の夕日は今でも脳裏に浮かびます。

極楽浄土は別名、西方浄土とも説かれます。夕日の沈む西の彼方にあるそうです。懐かしい夕日の向こうには、おそらく母が夕食を準備してくれているのでしょう。私にとってはそれでいい。大変幸せな思い出ではありますが、浄土というのはそれぞれいつか帰りたい場所なのだと思います。

夕日はいつ見ても懐かしい。不思議だなあ。とくに秋の夕日は好きです。

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2022年10月01日

声明は曹操の息子、曹植による

勤行(ごんぎょう)の際、経典(偈文以外)は棒読みが多いと思いますが、経典に含まれる偈文(句数など決まりのある讃嘆文)ですとか、その他の仏典は抑揚ある読み方になる場合があります。これを声明(しょうみょう)と言いまして、中国山東省にある魚山が発祥地であると言われます。三国志で有名な曹操の息子、曹植が作り上げ、それを経典翻訳者である支謙(『無量寿経』の異訳『大阿弥陀経』の訳者)が受け取ったと伝わります。曹操は文武両道であったと思いますが、曹植はむしろ文学に長けていたようです。

戦乱の世であっても、いえ、戦乱の世であるからこそ「武」のみならず「文」が重んじられたのかもしれません。現代日本ではどうでしょう。古典文学は叡智に溢れていますが、軽んぜられている気がしてなりません。偉大な先人に学ぶことはいつの世でも大切です。

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2022年09月17日

最近はまっていること

最近中古レコードをメルカリで購入しています。DJ用ではなく、自己満足用です。CD持っているのですが、どうしてもレコードで欲しい。大きなジャケットで欲しい。そういう自己満足なのです。しかし結構プレミアムついていて、定価の2倍〜3倍することが多いです。だいたい90年代以降のものです。高いから悩むんです。

高いもの買うときって、それなりに悩みます。悩んでいるうちに商品なくなることもあるんですが、本当に必要なのか一所懸命考えるわけです。そうしますと、意外と本当に欲しかったレコードが見えてきます。好きな曲だと思っていても、わざわざレコードではいらんなあとか、悩んだ結果判明することもあります。

今日はパーソンズのレコードをゲットしました。中学生のころ、はじめてバンドでコピーした曲(ラッキースター)が収録されているファーストアルバムです。まあ思い出の曲なんですな。しかし数枚買いまして、もうキリがないのでやめようと思います。スマホで買いますので、お財布よりも気軽になってしまい危険です。

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2022年08月20日

50歳という響き

先月49歳になりました。父親が50歳と聞いた中学生の私は、もうおじいちゃんじゃんって感じたものです。そんな私も来年50歳。定年が55歳から60歳になりまして、波平さんの年齢もたしか53歳?ぐらいだったと思います。そんな時代と今では50歳の持つ意味合いも異なりますが、半世紀と思うと感慨深いような気もします。

ある程度は自分自身において精進してきましたが、さて、これから何しようかなと。やや疲れ気味ではありますが、もうちょっとやれることありそうで、なさそうで、やっぱりあるかなという曖昧さ。

定年という概念自体が意味をなさない時代になりそうで、亀仙人のじいちゃんのように暮らせる日は来ないかもしれません。まあ、亀仙人のじいちゃんも、最近ではステージに駆り出されているようで、悠々自適とは言えないかもしれません。時代なんだろうなあ。

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2022年08月12日

金太郎まつり

南足柄市の金太郎まつりは花火だけの開催となりました。

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本堂の裏手からも上がります。

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2022年07月16日

日本という国のこと

日本という国を考えたとき、保守的な人もいれば、革新的な人もいるのは当然です。何事においても良い部分は残し、良くないところは変革するものだからです。どちらかにあまりにも拘泥しすぎるのは良くない。仏教では中道と言いまして、極端に走ることは苦しみを増す原因になると説きます。たしかに極端ですと周囲の話を聞かなくなり、落とし穴にはまる可能性は高いでしょう。

私はつねに中道でありたいと思っていますが、性格的には古いものが好きなたちです。古いものの仕組みというか、かつての人々がどう考えてそのように至ったのか、そういう過程を知るのが好きです。たとえば何で神社があるのかとか。何かに対して、おそらくいわゆる自然だとは思うのですが、そこに恐れを懐き、その対策として祀った。為政者はそうした庶民感情を巧みに利用して支配を広げた。そういう過程です。

これは『古事記』や『日本書紀』の誕生においても同じです。為政者のいらんところは切り捨てる。都合のいいところは増幅したり、さらに創作して追加する。こうした過程で誕生したのでしょう。古いものは好きなのですが、それらの存在を絶対視して、その背景を知ろうとしない態度は好きではありません。仏教も同じです。祈祷や現世利益はインド仏教の本流ではありませんが、日本では最初それがうけた。当時の富裕層にとっては、諸行無常とかそういう現状否定的な教えよりも、逆に現状維持のほうが大事だったからです。

日本の伝統を知りたければ、こうした物事の背景まで理解しないといけない。理解した上でああだこうだ言うのは大いに結構なことですが、それを経由しないのは閉鎖的な思考を生む危険があります。実のところ、歴史を振り返れば庶民はこうして支配されてきました。庶民を意味わからんという状態にしたほうが、為政者にとっては都合がいいのは間違いありません。しかし、現代の民主主義ではあり得ない話です。

何が日本の伝統なのかと言えば、とても難しいのです。だいたいよくある伝統というものは、どこかで誰かが都合よくこしらえたものだからです。私は古いものが好きですが、誰かの都合を好きなわけではありません。その都合がどんな内容なのかを知ることは好きですが、その意のままにはなりたくない。歴史を客観的に振り返るという営みがあってこそ、保守と革新はしっかり作用していくのではないかと思えます。そもそもいつから日本になったのか、こういうところから知りたいのです。

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2022年06月29日

暑い、境内掃除は朝

もう6月も終わりますね。しかし梅雨明けとは、正直驚きです。40度なんていう報道でも驚きなのに、もう梅雨明けとは。なんとも時代の変遷を痛感します。これが地球温暖化の影響なのかは分かりませんが、40年前、私が小学生だった頃と比べ気候が変わったことは確かなようです。こんな暑くなかったなあ。

地球の歴史を振り返りますと、何事も変化に対応できたものが生き残るそうです。しかし人は変化に対応するのが苦手でしょう。昔がよかったとか、前例にないからとか、そういうのとくに日本人好きそう。とくに私。選挙ポスターの掲示板を見ても、う〜む、なにかのタレントショーの案内かなと思ってしまいます。マジックショーとか。でも、これが今なんですよね。

仏教では諸行無常と説きまして、世の中は常に変化していると洞察します。あたり前と受け取れるかもしれませんが、敢えてあたり前を説くには理由があります。それは人が変化に鈍感で対応するのが苦手だからです。戒律も同じ理屈で説かれます。なかには守れそうにないものもある。嘘つくなとか。口だけじゃないですよ。心で嘘ついてもダメ。私には無理です。しかし、守れないから敢えて説くのです。これには抑止の意味合いもあるわけです。

今日も暑いので朝に境内掃除をしました。日中は厳しい。植木屋さんが入ってくれていますが、とても大変そうです。小田原の安藤造園さんです。いつも有難うございます。

境内の木々を見ていますと、本当に諸行無常を感じます。もうしょっちゅう落葉。いろいろな植物が育ってますので、種類によって落葉季節がバラバラなのです。真夏と真冬のほんの少しだけは何も落ちません。今は竹が終わりまして、銀杏の新しい葉の弱いところが落ちます。銀杏の葉っぱはやっかいで、泰山木と並んで集めるのが面倒な葉です。たいていのお寺には両方あります。

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2022年06月10日

お参り用の車

会社法人ですと、社用車としてメルセデスベンツやレクサスを購入することが出来るそうです。社長さんが得意先を接待することもあるでしょうし、ごくあたり前のことかと思います。社長さんがある程度豪華な車に乗っているということも、会社の信用に関係することでしょう。

宗教法人でも業者接待の必要性がないわけではありませんが、頻繁にはありません。そもそも商売をしているわけではないので、宗教法人にも商売という側面があるとはいえ、業者接待は宗教法人設立の本旨からは外れてくると言えます。宗教法人の本旨はその宗教を信奉する人々を教化育成し、さらに伝道布教に努めることにあるからです。

と言うことで、宗教法人ではお参り用の車を購入することは可能です。軽自動車の住職も多いですが、私は剛性の面で軽自動車にやや不安を感じるので、高速も乗ることを考えて小型車にしています。門信徒の皆さんを送迎する必要があれば、中型や大型の車でも購入が可能かと思います。ただし、メルセデスベンツやレクサスですと、必要以上に豪華と当局から指摘されることもあるでしょう。

私の場合、近所は山で急坂も多いのである程度のパワーがあり、なおかつマニュアル車であることが望ましいのです。四輪駆動であればなお良し。そして小型でないと狭い道に入れませんので、軽自動車並みのボディサイズが求められます。以前はヴィッツに乗っていましたが、やや大きかったです。門信徒の皆さんの送迎をすることはないので、乗車人数は2人でも4人でも問題ありません。

ちなみに車好きなので、外見にもちょっとこだわりがあったりします。まあ、二の次ですが。

こうした条件を完全に満たす車はなかなかありません。今、ある車を検討中ですが、四輪駆動の用意がされていません。お寺はそもそも急坂なので、雪が降ると二輪駆動だと完全にアウトです。う〜む、非常に悩んでいます。しかし、車は何を買おうか悩んでいる時が一番楽しい。ワクワクします。

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2022年05月31日

古いままで新しく

古くて権威的で威張っているお寺なんて嫌ですが、だからと言って柔らかすぎてもお寺っぽくないような気もします。住職がいつもTシャツ普段着ってのも、そりゃ親しみやすいかもしれないけど、それ以上ではないと思います。

アナログなお寺も今の時代遅れているように感じますが、だからと言って何でもデジタルってのも、う〜む、良いようで違和感あるかもしれません。心の安穏、さらに言えば魂の安穏というのは、果たしてデジタル空間で満たされるものなのでしょうか。

人がデジタル空間と直接接続される時代が来れば、それもあるかもしれません。しかし、その時代はまだ来ていません。いつか来ると思いますが、まだでしょう。

お寺であっても時代や社会に取り残されてはいけませんが、迎合するだけではお寺の持つ社会的意義は失われることでしょう。

古さっていうのは、ときに心の安穏、魂の安穏を満たしてくれるようにも思えます。古いままで新しくなっていくことがお寺には必要なのかもしれません。

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2022年05月20日

ブログは長文で読みにくい性分

最近ブログを書く間隔が長くなってきてしまいました。自分でブログ開設をしておきながら、普段あまり他の方のブログを読むことも少なくなっています。ブログは一方的に情報発信することに長けていますが、読者との交流という面では扱いづらさがあります。今はいろいろな方の意見がネット上で見られる時代です。ブログ開設者が提供する話題を読者同士で忌憚なく議論出来れば良いのですが、そういう役目はツイッターや掲示板に強さがあります。ブログをやる場合でも、ツイッターなどのSNSと連携したほうが良いとも言われます。

とまあ、よく言われることを書いてみましたが、このように長文になるのがブログの強い面でありながら、一方、時代的には長文は敬遠される傾向にあります。私も実際、あまり長い文章をネット上で読もうとは思いません。自分で長文書いておきながら変な話ですが、ブログは自己満足に陥りやすいということでしょう。

性格的に交流下手なので、こうした一方的かつ自己満足系の情報発信が好きと言えば好きです。今後も本ブログは続けます。しかし、本ブログが利用している「さくらのブログ」はどうやらブログには後ろ向きのようで、新規開設はもう出来なくなっています。あまり利用する人もいないのでしょう。仕方ないです。

私もスマホを見ている時間が長くなりましたが、スマホだと画面も小さいせいか長文は読みません。動画も3分以上のものは見ないと思います。元よりせっかちな性分なのですが、必要なところだけかいつまんで見ておしまいなのです。カップラーメンも3分が限界で、5分の赤いきつねであってもカタ麺状態で食べてしまいます。ウルトラマンも3分だし、なんだか小さい頃から3分というのに慣れ親しんでいるかのようです。

ツイッターは短文投稿なので、読み手としては私の性格にピッタリです。ただし短文を書くのが苦手で、どうもこう冗長になってしまいます。困ったもんだなあと、最近、思っています。

考えてみますと、実は経典も同じかもしれません。百巻とか五十巻といった大部の経典はたしかに専門家には必要ですが、人気のある経典は『阿弥陀経』一巻や『般若心経』一巻とか短いものです。声を出して読むのに適しているというのもありますが、あまり長いのも読みづらいですよね。途中で飽きますし。ははは

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2022年04月16日

オンライン併用にしてよ〜

コロナ禍において完全もしくは一部オンラインという状態が一般化しました。複数人が集う会議、そして机上で成立する授業はオンラインと親和性が高いと思います。もちろん人は相手を認識する際、平面的というより立体的に認識し、周囲の雰囲気も含めてコミュニケーションを図ります。ですから平面的なオンラインだけでは完全なコミュニケーションにはならず、上記のような会議や授業であってもオンラインだけで終始してしまっては成果は不完全です。直接リアルに対面して相互確認することを任意のタイミングで入れこむことは必須だと感じます。

しかしオンラインを導入して、対面しなくとも解決できる場面をいくつも発見できました。移動がないので時間をより有効に使うこともできました。大勢が時間と場所を揃えるのって、よく考えたらとても難しいことだったわけです。ただ、なぜか完全リアル対面にこだわる人もいます。私にはとても不思議でなりません。せっかく便利になったのになあ。オンライン併用が理想的なスタイルだと思うのですが、ダメな人もいるのでしょう。リアルで参加したい人だけ行けばいいじゃん、って思ってしまうのです。出不精なので。

ところでわが宗派はとても古い体質ですが、会議でのオンライン併用には対応が早くとても有難かったです。そして今後もオンライン併用でいくとのことで、おお、いつものパターンとは違う。どこか進化したのかと思っていたのですが、どうやら会議での交通費支給をしなくて済むからという理由らしく、ああ、それもそうだなと。たしかに費用面での効率は良いです。そこもオンライン併用の利点ですよね。わが家はたいてい中心地から遠いので、実際に交通費は比較的かかるのです。

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2022年04月14日

注射はいつも苦手です

4月14日付けのNHKの報道によりますと、「ワクチン接種でも得られるタイプの抗体については、いずれの都府県でも96%以上の人が持っていましたが、厚生労働省によりますと今回の結果からは発症や重症化などの予防に十分な免疫があるかどうかは分からないということです」とのことです。え?そうなの?

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220414/k10013581281000.html

先日3回目の接種を受けました。3回すべてファイザーです。1回目と2回目は副反応ほぼなし。3回目は12時間後に発熱が24時間ほど、ひどい倦怠感が48時間ほど続きました。似たような報道は以前にもあったかもしれませんが、もっと早く明確に報道して欲しかった。予防にならないんじゃ、素人的には意味ないかと思ってしいますねえ。

もうなんか手段と目的がひっくり返ってて、大丈夫かな厚労省。

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2022年04月08日

地元小学校の入学式に参列しまして

小中学校では要支援の児童生徒が増えていると聞きます。先日、役目で地元小学校の入学式に参加しました。校長先生からは、式における要支援の新入生への対応の説明がありました。要支援の新入生は数名でしたが、人員配置などかなりご苦労をされている様子が窺えました。この対応は6年間継続して行われます。この学校では最大で600名以上の児童がいた時期もあったそうですが、今はその半分の人数であるとのことでした。少子化ではありますが、要支援の児童生徒は増えているようです。

しかし、私には何故増えているのかが謎でした。私は団塊ジュニアですので多くの児童生徒がいる時代でしたが、私が小学生のときからまだ40年ほどしかたっていません。40年でそんなに生活や家庭環境に変化ありましたでしょうか。たしかに昔に比べれば、今は両親がともに就労することが多い時代ではあります。また、核家族化がより進んだというのも確かです。しかしこうしたことは後天的な影響にはなるかもしれませんが、先天的な要因にはなり得ません。要支援であることは先天的なものかと思います。

ただ1つ言えそうなことは、昔も要支援の児童生徒は多かったけれども、とくに支援されていなかったということです。私の通った小学校にも、今なら要支援だろうなあというクラスメイトが学年に1人いました。授業中に外出するのは日常茶飯事でした。しかし、特別な支援はされていませんでした。担任の先生はご苦労されていたかと思いますが、クラスメイトもそういうつもりで、一緒に何とかうまくやっていたように記憶しています。もしかしたら他にも今で言う要支援に該当するクラスメイトもいたかもしれませんが、あまり問題視されていなかったと思います。

昔に比べて今は支援が厚くなったというのが、もしかしたら要支援の児童生徒が見た目には増えたと言える要因なのかもしれません。支援があるということは有難いことです。ただ、その支援が本当に正しい方向性を持っているのかというと、それは少し考えるべき部分もあるかもしれません。そもそも皆で学校に行って、皆で同じ授業を受けて、ある一定の時間それに従って行動するというのは、よく考えれば誰しも出来るということではないでしょう。私も授業に集中するのは苦手なほうで、よくよそ見をしていて叱られました。もたないんですよね。時間が長くて飽きるのです。

学校というシステムは大人数を教育する上で極めて効率的ではありますが、人はそれぞれ性格も何もかも違うので工場生産のようにはなりません。どうすべきかは今の私には分かりませんが、何でも同じように当てはめていく方法には根本的な欠陥があるように感じます。このコロナ禍において、問題はありながらもリモート授業ということが試行錯誤のなか行われました。こうしたあり方は決して緊急避難的なものではないと思います。教育にはリアル対面でないと難しいところもありますが、部分的にはリモートも有益です。児童生徒の教育がもっと良い環境になっていくことを切に願っています。

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2022年04月01日

築地アカデミー

今年度は築地本願寺での築地アカデミーに出講します。総合研究所東京支所の委託研究員としてのお役目ですが、ここのところ研究離れなので楽しみです。お題は『無量寿経』と『正信偈』になりまして、学術的な側面から向き合ってみようかと思います。とりわけ『無量寿経』については、藤田宏達先生の『原始浄土思想の研究』(岩波書店)を久しぶりに読み直してみました。『無量寿経』の翻訳について詳しいのはもちろんですが、私は個人的に翻訳の背景に興味がありロマンを感じてしまうので、準備そっちのけで読み入ってしまいました。同時に船山徹先生の『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店)を読みますと、さらに翻訳作業の背景がイメージされてきます。藤田先生の本は古いので入手が難しいかもしれませんが、船山先生の本は最近のご出版なので手に入ると思います。経典翻訳にご興味のある方は是非、私のおすすめです。

船山徹著『仏典はどいう漢訳されたのか ‐スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年)

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2022年03月09日

民族問題と宗教問題は解決が難しい

ソ連が崩壊したのは高校3年から大学1年のあたりだったかと思います。小論文試験でソ連問題が出るとの噂があり、付け焼き刃で勉強したのを覚えています。結局出題されたのは物質主義関連であり、まったく当てが外れました。しかし大学時代も旧ソ連や東欧関連の話題は豊富で、国際法関連の授業(何だか忘れました)でのレポートでは東欧の未来についてレポートしたような気がします。もちろん平凡な出来でしたが、ソ連という頸木が外れた今、民族の坩堝であるこの地域がどうなるのか憂慮する本を読んだことが妙に記憶に残っています。そして実際、争いは耐えず現在に至っています。

ウクライナによるEU加盟申請にはEU内で慎重論があるそうですね。ウクライナはヨーロッパとは言えないとか。そんな理由があると報道されていました。いわゆるヨーロッパ人からしますと、スラブ人の国々は「違う」となるのでしょうか。そもそもスラブ人(Slav)と英語のslave(奴隷)が関係あるというのを最近知りまして、非常に驚きました。なるほど、そういうことかと。西方教会と東方教会というように宗教も異なりますし、西欧中心のEUからしますと、なかなか難しいということになるのかもしれません。

そして日本ですが、今に始まったことではありませんが、自国をどう守っていくのかは本当に喫緊の課題です。日本は欧米、とりわけアメリカと強固なつながりがありますが、もちろん欧米とは民族も宗教も異なります。日本人は民族や宗教という概念に疎いところがありますが、世界を見ればそれだけで戦争になるほど、これらは大きなファクターなのです。東アジアでは宗教は多重構造なので、東アジア内ではあまり宗教間対立は見られませんが、キリスト教やイスラム教の方々からすれば、間違いなく日本人は異教徒ということになります。

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2022年02月18日

境内の木々を小さくしています

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ここ数年、境内の木々を小さくしています。大きく育ちすぎまして、枝の落下が危ない状況になっているからです。今は本堂裏です。檀家様にいただきました伐採費用をもとに、数本を中井町のグリーンパームさんにお願いしています。

それにしてもすごい技術です。本堂より数メートル高いので、おそらく20メートルはあろうかと思うところまで登られています。下はお墓ですので、枝を落とすことができません。1本1本ロープで落下防止をしながら枝を切り落とします。素晴らしい。なお、高所恐怖症の私には絶対に無理です。

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