2023年05月30日

指導死という言葉に触れて

インターネットでニュースを見て、「指導死」という言葉を知らなかったので調べてみたところ、多くの事例があることが記されていました。今に始まったことではなく、かつ、どの学校にもということではありませんが、学校の先生のなかには指導不適格な人物がいることは頷けます。

敢えて言いますと、学校の先生は児童生徒にとって、学校、とりわけクラスではまさに「天下」です。

以前、PTA活動を通じて知り合った校長先生が語っておられましたが、「教師は良くも悪くも学校しか知りません。多くの教師が大学を卒業して、そのまま学校へ就職しています。他業種を知る機会のないまま、ずっと学校にいるわけです。若い先生方には他業種の方の話を聞いたり、体験する機会をもっと持って欲しい」という趣旨であったかと記憶しています。

世間知らずになるなってことです。情報を得るためのアンテナはいつも立てていましょうと。閉じたなかにおいては、熱意もいつしか傲慢になるかもしれません。

行き過ぎた指導というものは、往々にして傲慢です。そうならないことを願います。

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2023年05月09日

境内一部車両通行止めのお知らせ

≪お知らせ≫
本日5/9(火)〜5/12(金)まで、山門参道向かって左側からの駐車場は道路工事のため通行止めになっております。お車でお参りの際は右側の駐車場をご利用下さい。なお付近に工事車両が停車しておりますので、十分お気をつけてのお参りをお願い申し上げます。ご不便をおかけしまして申し訳ございません。合掌

善福寺住職 伊東昌彦

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2023年04月14日

山梨は隣なのですが幾重もの峠越え

長男が4月から山梨県で生活を始めました。はじめて子を独り暮らしさせますので、女房はとても寂しがっています。しかし、すぐ慣れるとは思います。

家族など縁近い人とは命のつながりが大きいと思います。たがいに増上縁となって影響し合っているからです。とくに母親は大きそう。天親菩薩の『倶舎論』によれば、子は母親を選んで生まれ出るそうです。

ともあれ、長男に幸あれと思うばかりです。合掌

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2023年03月18日

良い学校たくさんあります

受験の季節も終わりを迎えていますが、「第一志望」にはあまりこだわるべきではないと個人的には思います。大学受験は浪人も普通にあり得ますが、浪人が考えられないのであればどこかに進学しないといけません。たとえば中学受験において、実際に受験するのは小学生です。小学生に対して、多く親の希望とも言える「第一志望」を背負わせるのは、まだ精神的に未成熟な段階では酷すぎます。

〇〇中学絶対合格! こんなの小学生に背負わせても意味ありません。

別に第二でも第三でも第四でも第五でもいいんですよ。そもそも本意ではない学校を受験させる親がおかしいわけで、受験させるのであれば、子の成績を参照しながら良いと思える学校を数校見つけ出し、1校でも合格もらえるよう計画するのが親の役目です。緊張する子は普通に力を発揮できません。よく考えればそれが普通じゃないですか。私自身で言えば、もう40年近く前ですが3校受けて、難易度が高い2校は不合格でした。しかし、1校合格したことに対して、親は普通に祝福してくれました。

わが家の子たちの場合においても、受験校のなかで最高難度の学校には全員不合格でした。無理に受験したわけではなく、偏差値においても50%以上は合格する可能性があった学校ばかりです。なかには80%以上の合格可能性の子もいましたが、普通に不合格でした。そういうものです。行ける学校は1校ですから、1校から合格いただければ大成功なのです。

子は親自身の不甲斐なさを穴埋めする代役ではありません。

よくある錯覚で、付属校ではなく進学校の場合、いわゆる難関中高は難関大学への進学実績も素晴らしいものですが、そうした学校にわが子が進学したからと言って、難関大学へわが子が進学できるわけではありません。何のために受験させるのか、よくよく考えるべきです。親の人生のリベンジでないのは言うまでもなく、難関大学へ進学させるためと言うのであっても、実際には大学受験のための塾の役割が大きいのは明らかです。なお、難関大学を卒業したからと言って、人生が楽になるわけでもありません。

中学受験で思うような結果とならなかった子が起こした悲しいニュースに触れるたび、私自身も含めた大人たちの身勝手さに、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

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2023年03月09日

今年は花粉すごい

花粉すごいですね。フェイスブックに写真を掲載しましたが、ほんと大量です。なにか有効活用できればとか思いますが、何かあるんでしょうか。南足柄は花粉の有力産地になれることでしょう。

花粉を集めました→ https://www.facebook.com/zempukuji

なお私はいわゆる花粉症の症状(鼻水や目がかゆくなる)はほぼないのですが、顔面や首がかゆくなります。それから喉も痛くなる傾向にあり、本堂境内清掃のあとは洗顔とうがいが欠かせません。


善福寺永代供養墓
https://www.zempukuji.or.jp/eidaikuyoubochi

DJ ihigashishowgen YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCo1GQ_3hnDuGT9bqeyh6IxA

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2023年02月03日

節分で鬼はどこにいるのかな

今日は節分ですが、受験真っ盛りでもありますね。中高大とまさに本番だと思います。経験上、絶対に第一志望校にって思い過ぎないで、第二でも第三でもいいんだっていう気持ちが大切かと。

少子化でどこの学校法人も受験者集めが大変そうです。でも学校法人はあくまでも教育が目的ですから、営利に走るような真似は厳禁です。これは宗教法人にも言えます。営利以外が目的だからこそ、会社法人と比べて優遇されている側面があるからです。

鬼は外と言いますが、だいたい悪いのは自分の心なわけです。鬼も毎年大変です。節分も単なるパフォーマンスではなく、こういうことちゃんと説かないと宗教じゃなくなっちゃうよ。

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2023年01月30日

自然とは人為の届いていないこと

この時期になりますと、スキーやスノーボードのバックカントリーでの遭難が毎年相次ぎます。バックカントリーとは管理運営されたスキー場外のことで、簡単に言えば大自然の真っ只中のことです。私もスキーやスノーボードが好きなので、バックカントリーを滑走したいなあと思うこともあります。

しかし、そこは正真正銘の冬山なのです。スキーやスノーボードをするというよりは、冬山に行くと言ったほうが正しいんじゃないかなあ。冬山に対する十分な知識と経験がない私は、バックカントリーに入ることには躊躇してしまいます。

自然とは自からそうなっていることで、人為的ではないことを指します。人為的であれば、問題に直面しても何かしら解決策を見出すことは可能でしょう。人為的なのですから。しかし、そうではない自然においては、人為が届いていないわけなので、驕りは禁物かと思えます。とは言え、遭難された方であっても、十分な知識と経験があったかもしれません。とても残念です。これ以上、遭難者が出ないことを念じます。 合掌

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2023年01月10日

成人の日に思うNHK

昨日は成人の日でした。私も昔、成人しました。しかし大学のテスト前だったせいか、何をしたかあまり記憶にありません。面倒だったので家族で写真撮影もしませんでした。当時は「めんどくさい病」だったのです。今となれば両親には申し訳なかったかもしれません。

ところで昨日の朝、7時からNHKのニュース番組を見ていましたが、NHKも変わったんだなあと思う場面がありました。

まだ7時10分くらいだったと思います。成人の日に関するニュースになりまして、振り袖についてキャスターが盛り上がっていました。いやまあ、別にいいんですが、随分早い時間に盛り上がるもんだなあと。このあとにウクライナ情勢だったので、余計にそう感じてしまいました。

「成人の日=振り袖」っていう認識も、う〜む、そりゃかなり一般的かと思うけど、成人の日は別に振り袖だけじゃないでしょう。女性キャスターに自身の振り袖事情を喋らせるのも、台本としてチープでした。

いつからNHKの朝7時はニュースショーになったのか、毎日見ているわけではないので、その変化に鈍感であったのかもしれませんが、ここ数年うすうす感じていたことを昨日、再認識しました。論理性に欠くキャスターの感想も多く、そして番組宣伝も多い。

NHKも民放と競合する時代なんでしょうか。これも時代なのかなあ。NHKは受信料収入あるんだから、それほど視聴者ウケを狙う必要はないと思うんだけど、昨今いろいろと指摘されているからか。落ち着いて見ていられなくなってしまったかな。

NHKは昔から好きなんです。シルクロードとか、野生の王国とか、よかった。ああいう番組も、少なくなったのかな。

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2022年12月23日

銀杏が大急ぎで落葉中

今年は本当に銀杏の黄葉そして落葉が遅く、お正月には間に合わないかなあと思っていました。

しかし昨晩から猛烈な風で、お正月に向けて銀杏も大急ぎかのように落葉しています。フェイスブックに落葉の様子をアップしました↓。
https://www.facebook.com/zempukuji

こちらはYouTubeライブ配信です↓。
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ


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2022年12月22日

学校の先生にも勉強時間確保を

神奈川県教員採用試験の倍率が下がってきているそうです。倍率低下は全国的に言えることのようですが、数年前は5倍台であったところ現在は3倍台とのことです。いわゆるブラック職場だと報道されてしますし、敬遠する学生が増えているのは確かだと言えそうです。

能力低下も懸念されるところです。

学校の先生ですから、一定程度の学的水準を超えていないと問題です。倍率低下が即座に能力低下に影響するわけではないと思いますが、この状況が長引きますと、優秀な先生が減っていくのは容易に想像ができます。個人的な印象ですが、自分が大人になったせいもあるとはいえ、自分の小学校のころの先生に比べ、今の先生はどうかなあ、やや心配になるときもあります。

こうした背景によると思いますが、都市部を中心に私学教育の人気が高まっていると聞きます。少子化においてなお、塾産業は盛況とも言われます。公立教育への不安が大きくなっているからでしょう。子を少しでも良い教育環境へ入れたいと思うのは、親であれば多くあり得ることです。

先生という存在は、人生において大きな存在です。小学校であれば、多くは担任の先生と1日のなか長い時間を共にします。先生が使命感をもってクラス運営にあたられているのは当然と思いますが、能力を高めていけるような時間を確保してもらいたいなあと思います。先生が忙しすぎれば、こうした時間も取れません。採用されてからも能力を高めることは可能ですし、昨今、社会人の再勉強には注目が集まっています。国には先生方の能力アップに資する行動を期待したいものです。

なお蛇足ですが、公教育には学校法人である私学も含まれます。公教育に対するものは私教育になりまして、これは家庭内や地域、そして塾による教育を指します。私学であっても公的な制度に従っているわけですし、助成金を国から受け取っているので、当然、公教育に当てはまるのでしょう。

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2022年12月02日

「鑑みる」という表現について

日常生活ではそれほど重要ではないことなのですが、最近よく「鑑(かんが)みる」という表現を目にします。結構堅苦しい言い回しかと思っていましたが、使われることが多くなっている印象です。

ただ、たいてい「〜を鑑みる」という表現なので、やかましいかもしれませんが、

これは「〜に鑑みる」という表現のほうが正解に近いかと思います。


「鑑」を「かんがみる」と読む場合、「Aということを、Bということに(照らして)考える」という意味になるとのことなので、たとえばサッカーを例に挙げれば、「スペイン戦の行方を、ドイツ戦勝利に鑑みたところ、勝利する可能性もある」となります。

中間部分を省略すれば、たしかに「スペイン戦の行方を鑑みる」としても間違いではないかもしれません。鑑みる対象には、「ドイツ戦勝利」のみならず、「スペイン戦の行方」も含まれるからです。

しかし、これだと内容として不十分になってしまうので、個人的には省略しすぎかなと感じます。こうしたいのであれば、単に「スペイン戦の行方を考える」で良いわけで、「鑑」という字を使用する意味がなくなるからです。

なお、恥ずかしながら、かく言う私もかつて「〜を鑑みて」と思い切り用いていました。ふとしたことから違和感を覚えまして、ちょいと調べてみたわけです。

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2022年11月29日

東名渋滞で思った

最近の東名高速は毎日渋滞しています。上り午後は伊勢原から大和トンネル、下り午前は町田付近。よく通るんですが、もう慣れました。若いころは渋滞してると少しでも動く車線へ移動移動。無理な割り込みです。

今思えば非常に迷惑で危険。すみませんでした。

若かったからなあと思いながらも、今見ると結構おじさんが割り込んでくるんだよね。渋滞に不慣れなのかもしれんけど、ちょこちょこ動いてもあんま所要時間に差はないんだなあ、これがまた。とくに休みの日の午後上りはひどいもので。

ワルっぽい輩かなと思って見てみると、見た目は普通のおじさん。見た目は関係ないなあと思います。

傍から見ているとちょろちょろと滑稽なんだけど、自分の姿にはなかなか気づかないものです。あと急な割り込みは単純に危ないのでやめて〜。入ってきそうな雰囲気は分かるんだけど、入り方もいまいちで、、、

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2022年11月28日

黄葉が奇妙だなあ

今年は暖かい(今日は寒いですが)せいもあるのか、銀杏の黄葉が奇妙です。部分的にしか黄葉していません。全体的に遅い木で、ときには黄葉しないで落葉してしまう年もあったのですが、こういうのは初めて。

銀杏の様子、ライブ配信中です↓
https://www.youtube.com/watch?v=2YYGp8aV5rQ



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2022年10月12日

銀河衝突と弥勒菩薩

最近ツイッター見ていると皆さん政治的発言増えたような気がします。ツイッターだからかもしれませんが、皆さん色々と政治に不満があるんでしょう。私もありますが、生来押しつけがましい性格なのであまり人には話しません。飲み屋で女房にご高説を垂れるぐらい。政治は仏教教理のように方向が1つじゃないので難しいですね。

ところでツイッターで見たのですが、われわれの銀河は45億年後にお隣のアンドロメダ銀河と衝突し、70億年後に1つになるそうです。もうその名前もついていて、「ミルコメダ銀河」になるそうです。誰が命名したのかは分かりません。たぶんNASAでしょう。違ったらすみません。

なお仏教では、弥勒菩薩が仏としてこの世に降りて来て下さるのが56億7千万年後だそうです。と言うことは、すでに銀河は衝突済みの状態ですね。なんだか地球上も混沌とした状況のような気がしますが、そもそも救いの対象である生命がいなかったりしたら・・・。

ただし経典によれば、その時を狙ってこの世に再度生まれることを願う人々もいるらしいので、いらぬ心配かもしれません。気温とかどうなっているのか、これも余計な心配でしょう。なぜならば、環境とはその生命の業によって形成されるので、生命があるかぎり環境もそれ用になっています。

以上は弥勒菩薩によって救われたいという願いの表れなわけですが、ちょっと56億云々というのは長すぎだと感じます。5億でも大丈夫なような気もします。しかし仏教では時間に客観性はないようなので、あまり長さは関係ないのかもしれません。 合掌

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2022年10月08日

いつか帰る場所

昔、幼少のころですが、夕方5時のチャイムで外から家に帰ると、母が夕食の支度をしていた。今となっては漠然とした記憶なんですが、すごく懐かしくたまにその時に戻ってみたくもなります。これは私にとって、いつか帰る場所なのかもしれません。帰り道の夕日は今でも脳裏に浮かびます。

極楽浄土は別名、西方浄土とも説かれます。夕日の沈む西の彼方にあるそうです。懐かしい夕日の向こうには、おそらく母が夕食を準備してくれているのでしょう。私にとってはそれでいい。大変幸せな思い出ではありますが、浄土というのはそれぞれいつか帰りたい場所なのだと思います。

夕日はいつ見ても懐かしい。不思議だなあ。とくに秋の夕日は好きです。

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2022年10月01日

声明は曹操の息子、曹植による

勤行(ごんぎょう)の際、経典(偈文以外)は棒読みが多いと思いますが、経典に含まれる偈文(句数など決まりのある讃嘆文)ですとか、その他の仏典は抑揚ある読み方になる場合があります。これを声明(しょうみょう)と言いまして、中国山東省にある魚山が発祥地であると言われます。三国志で有名な曹操の息子、曹植が作り上げ、それを経典翻訳者である支謙(『無量寿経』の異訳『大阿弥陀経』の訳者)が受け取ったと伝わります。曹操は文武両道であったと思いますが、曹植はむしろ文学に長けていたようです。

戦乱の世であっても、いえ、戦乱の世であるからこそ「武」のみならず「文」が重んじられたのかもしれません。現代日本ではどうでしょう。古典文学は叡智に溢れていますが、軽んぜられている気がしてなりません。偉大な先人に学ぶことはいつの世でも大切です。

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2022年09月17日

最近はまっていること

最近中古レコードをメルカリで購入しています。DJ用ではなく、自己満足用です。CD持っているのですが、どうしてもレコードで欲しい。大きなジャケットで欲しい。そういう自己満足なのです。しかし結構プレミアムついていて、定価の2倍〜3倍することが多いです。だいたい90年代以降のものです。高いから悩むんです。

高いもの買うときって、それなりに悩みます。悩んでいるうちに商品なくなることもあるんですが、本当に必要なのか一所懸命考えるわけです。そうしますと、意外と本当に欲しかったレコードが見えてきます。好きな曲だと思っていても、わざわざレコードではいらんなあとか、悩んだ結果判明することもあります。

今日はパーソンズのレコードをゲットしました。中学生のころ、はじめてバンドでコピーした曲(ラッキースター)が収録されているファーストアルバムです。まあ思い出の曲なんですな。しかし数枚買いまして、もうキリがないのでやめようと思います。スマホで買いますので、お財布よりも気軽になってしまい危険です。

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2022年08月20日

50歳という響き

先月49歳になりました。父親が50歳と聞いた中学生の私は、もうおじいちゃんじゃんって感じたものです。そんな私も来年50歳。定年が55歳から60歳になりまして、波平さんの年齢もたしか53歳?ぐらいだったと思います。そんな時代と今では50歳の持つ意味合いも異なりますが、半世紀と思うと感慨深いような気もします。

ある程度は自分自身において精進してきましたが、さて、これから何しようかなと。やや疲れ気味ではありますが、もうちょっとやれることありそうで、なさそうで、やっぱりあるかなという曖昧さ。

定年という概念自体が意味をなさない時代になりそうで、亀仙人のじいちゃんのように暮らせる日は来ないかもしれません。まあ、亀仙人のじいちゃんも、最近ではステージに駆り出されているようで、悠々自適とは言えないかもしれません。時代なんだろうなあ。

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2022年08月12日

金太郎まつり

南足柄市の金太郎まつりは花火だけの開催となりました。

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本堂の裏手からも上がります。

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2022年07月16日

日本という国のこと

日本という国を考えたとき、保守的な人もいれば、革新的な人もいるのは当然です。何事においても良い部分は残し、良くないところは変革するものだからです。どちらかにあまりにも拘泥しすぎるのは良くない。仏教では中道と言いまして、極端に走ることは苦しみを増す原因になると説きます。たしかに極端ですと周囲の話を聞かなくなり、落とし穴にはまる可能性は高いでしょう。

私はつねに中道でありたいと思っていますが、性格的には古いものが好きなたちです。古いものの仕組みというか、かつての人々がどう考えてそのように至ったのか、そういう過程を知るのが好きです。たとえば何で神社があるのかとか。何かに対して、おそらくいわゆる自然だとは思うのですが、そこに恐れを懐き、その対策として祀った。為政者はそうした庶民感情を巧みに利用して支配を広げた。そういう過程です。

これは『古事記』や『日本書紀』の誕生においても同じです。為政者のいらんところは切り捨てる。都合のいいところは増幅したり、さらに創作して追加する。こうした過程で誕生したのでしょう。古いものは好きなのですが、それらの存在を絶対視して、その背景を知ろうとしない態度は好きではありません。仏教も同じです。祈祷や現世利益はインド仏教の本流ではありませんが、日本では最初それがうけた。当時の富裕層にとっては、諸行無常とかそういう現状否定的な教えよりも、逆に現状維持のほうが大事だったからです。

日本の伝統を知りたければ、こうした物事の背景まで理解しないといけない。理解した上でああだこうだ言うのは大いに結構なことですが、それを経由しないのは閉鎖的な思考を生む危険があります。実のところ、歴史を振り返れば庶民はこうして支配されてきました。庶民を意味わからんという状態にしたほうが、為政者にとっては都合がいいのは間違いありません。しかし、現代の民主主義ではあり得ない話です。

何が日本の伝統なのかと言えば、とても難しいのです。だいたいよくある伝統というものは、どこかで誰かが都合よくこしらえたものだからです。私は古いものが好きですが、誰かの都合を好きなわけではありません。その都合がどんな内容なのかを知ることは好きですが、その意のままにはなりたくない。歴史を客観的に振り返るという営みがあってこそ、保守と革新はしっかり作用していくのではないかと思えます。そもそもいつから日本になったのか、こういうところから知りたいのです。

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