2018年10月18日

住職になるには「覚悟」か?慣れか?

医学部医学科で入試に関しての問題が噴出しています。卒業生の子を優先していることもあったという報道でした。この件につきまして、ある著名なお医者さんの先生が持論を展開されているようです。勝手に要約しますと、「医師家庭の子は医師になるための心構えが出来ている。学科試験に合格したのであれば、面接試験において医師家庭の子を優先しても問題はない」、ということだったかと思います。ここまででしたら、ふ〜ん、なるほどねえという感想程度だったのですが、その先生は何とご出家をされているようなのです。わが宗派と近い宗派とのことで、さらに驚きました。

僧侶資格試験のときに一度不合格となった際、若い子たちが合格するのに、なぜ自分は不合格なのかと担当者へ詰問したところ、寺の子たちは僧侶となる「覚悟」が出来ているから、というような返答であったそうなのです。なるほど、「覚悟」というと大袈裟ですが、たしかに寺院子弟は幼少の頃からお経に慣れ親しんでいる場合も多く、また、住職としての親を見ていれば、僧侶とは何なのか、何を考えて行動しているのか、ということを知る機会も多いことでしょう。そもそも住んでいる場所が寺なので、これはかなり特殊な環境下に置かれてはいますが、特殊な故、それが自然体となって身についていくことは貴重です。

浄土真宗は伝統的に世襲ですが、世襲ではなかった宗派であっても、やはり幼少の頃から小僧さんとして住職の元で寝起きを共にすることが多かったわけで、成長とともに僧侶になっていくのでしょう。これは神道においても同じでしょうし、また、伝統芸能においても同じことが言えるかと思います。親を間近に見て、親を真似て一人前になっていくという側面もあるはずです。ただし、もちろんそうではない場合もあるわけで、これに限ったことではありません。今は世襲の良い面を上げましたが、世襲への甘えからどうしもない奴が育つってことも大いにあり得ます。

世襲だと人材として小粒になりがちなので、要領よくこなすことだけが得意な人材が増殖するかもしれません。知った顔で融通を利かすようなことも増えるでしょうし、進歩せず停滞した仲良しグループになってしまいます。たとえば仏教界でいえば、仏教界が社会から置いてけぼりになりそうであるにも関わらず、それにまったく気づかない閉鎖性を生み出す原因にもなることでしょう。世襲というものは、マニュアル化の難しい特殊性(例:檀家さんとの良好なお付き合い方法)を面授・体得・継承するという点で優れていますが、わがままな甘えん坊を生む土壌にもなっていると思えます。

お医者さんの場合はどうなんでしょう。開業されている先生だと、お寺に近いようなこともあるのかもしれません。また、お医者さんは命を預かることもある仕事ですし、冒頭の先生が仰るように心構えが必要であることは間違いないでしょう。幼い頃から揺るぎない志があるならば、ちょっとのことで挫折することもないでしょうし、とくにお医者さんは一人前になるのに多大な費用がかかると聞きます。心構えは大切なことだと私も思います。ところで急に思い出しましたが、私の中高時代には周囲にお医者さんの息子が多くいました。なんちゃって進学校だったからでしょうか、結構どうしようもない奴もいたような…。すごいお金持ちなんですが、今何してんのかなあ。

坊さんの場合、「覚悟」はどうなんでしょう。そもそも「覚悟」とは「さとり」を意味するので、今はなくて良いのだ、という屁理屈が聞こえてきそうですが、やっぱり住職であるならば、「覚悟」がないと続けていくのは大変だと思います。私なんて、いまだに寺で暮らすということに慣れてません。「覚悟」がないんでしょう。自分でもそう思います。幼稚園ぐらいからお経は習っていましたが、家はお寺ではなかったので、お寺の特殊環境に慣れないのです。おそらく、これはおそらくですが、三人のわが子にとっては、お寺が普通に自然なこととなっていることでしょう。羨ましいなあと思うと同時に、それが故、休日に遠出が出来ないことを申し訳なく思います。ちょっと悲惨。

いずれにしましても、先生の仰ることは理に適っている側面もあろうかと思います。なお、これと入試の問題は別問題ですので、それが正しいのか正しくないのかは私には良く分かりません。

posted by 伊東昌彦 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年09月29日

再読!『仏典はどう漢訳されたのか』

坊さんもトレーニングが必要です。少なくとも私は最近そう思います。なぜかと言いますと、とにかく憶えたことを忘れてしまうのです。私の場合は学問になりますが、大人になってから憶えたことの持続力がありません。あの言葉どこの出典だったかなあ、あの坊さん、いつの時代で名前どんな字だったかなあと。結構見事に忘れるのです。お経の読み方は幼少の頃から体得したので忘れないとは思うのですが、大人になってからの知識はダメです。

それからこれは実生活のことですが、知り合いの名前が出てこないのです。ああ、ほれ、あの人だよ、あの人っ!!、という具合に坊守に話すことしばしばです。ちょっとマズいんじゃないかと思うほど、記憶力が減退しています。まあ、知識なんてのは忘れてしまってちょうどいいとも言えるのですが、まだ憶えていたい。法話会でも困るんですよ。私の法話は知識ネタが多いので、忘れてしまうとカッコ悪いんですな、これがまた。ああ、何だったっけ、あの人、忘れちゃったけど、そういう坊さんがいたんですよ、とかそんな風になってしまう。

今は中国の坊さんの名前を忘れてしまっており、再度、船山徹先生の『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店、2013年)を読み直しています。経典翻訳の事情って面白いんですよ。経典は本来は漢文じゃなかったわけで、インドのサンスクリット語とか色々混じった言語とか、そんなのが使われていました。それをインド人の坊さんと、中国人の坊さん、なかには坊さんじゃない人も参加して、一生懸命翻訳して下さったのです。現代よりも言語間の情報ないですし、もの凄く大変な作業だったと思います。ちょっと専門的で難しい言葉も出てきますが、宗派の教学ではあまり出てこないような裏話的な内容もありますので、とてもお勧めな一書です。

posted by 伊東昌彦 at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年09月21日

戦闘指揮における倫理?

AIの軍事利用について国際的な議論が始まっているようです。その報道に触れまして気になったコメントがありました。戦闘指揮をAIにさせるのは倫理的に良くないとの内容でしたが、単純に人ならいいのかと思ってしまいました。敢えて言いますが、戦闘指揮はAIのほうが優れているのではないかと思います。しかし、もちろんそんなことを議論しているのではなく、AIには戦闘中において倫理面における攻撃の要・不要の判断が出来ないだろ、ということなんだと思います。

戦争映画を見ていますと、人対人なので当たり前ですが、倫理面での描写が戦争の残酷さを和らげ、観るものに感動を与えるヒューマンドラマとして仕立てられていることが多いと感じます。実際、戦場には映画になりそうな話がないわけではないでしょう。しかし、本質はあくまでも相手への攻撃、つまり、大義としては個人攻撃ではなく国家への攻撃ではあっても、現場では殺人の正当化に他ならないわけです。そもそも、倫理なんてそこにあるのでしょうか。

戦争に倫理がないというのは言い過ぎで、多くの軍属が「早く家に帰りたい」と思っているのであれば、やはりそこには人々がともに生きるための規範たる倫理が存在すると言っても良いでしょう。ただ坊さんとしては、倫理という言葉を使うのであれば戦争をしないのが最も倫理的と言えるんじゃなかろうかと、そう思うわけです。どうも戦争を肯定するために、もしくは肯定と同時に倫理という言葉を白々しく使っているように見えて、非常に居心地の悪い感触でした。

posted by 伊東昌彦 at 08:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年09月10日

事実を伝えること難しい

最近どうもネタ切れで、なかなか文章書けません。仏教も最近は思想系よりも歴史系にはまってまして、頭をこねくりまわすようなこととは距離があります。歴史もすごい好きで、「事実」を知りたいって衝動にかられるときがあります。しかし、この「事実」ってのが厄介で、だいたい物事が起きたその現場にいたとしても、人間ってのは「主観」でしか脳に記録できないわけですから、それをまた何か文章なんかに写すなんていうと、もうねえ、かなり「事実」からずれるんじゃないかと思うのです。

見たこと感じたことをそのままズバリ!、と記録できれば良いのですが、よく考えたらそりゃ無理な相談なんですよね。たとえば風景を写真に撮りましても、あれ?、撮ったらどうも見た感じと違うなあってことあるでしょう。そりゃ写真のほうが正しいんですが、自分にとっては違うと思えてしまう。人間の思う「事実」ってのは、その時の主観も含まれているから。だから、写真と自分の記憶は違って思えて当然なんだと思うんです。「歴史」は「事実」というよりは人間の「営為」なので、その主観が生きていればいるほど、いわゆる「歴史問題」を解決するのは困難になりますね。

思想系やってても思うんですが、たとえば私の勉強した吉蔵っていう中国の坊さんだと、もう本当に大量に文章を残してくれているんです。でも、ふと思うときがあるんですよ、これ読んでも本人にちゃんと意味聞かないと、実は違うってこともあるんだろうなあって。私はなんて無駄なことをしているのかと。吉蔵師が考えていたことも、それが「事実」として文章にうまく表現されているかと言えば、やはり限界はあるでしょう。吉蔵師はそれを分かって書いているから、現代的には異様に冗長だったりするのです。だから仏教では対面することが大事だと言うんですけど、本人が書いた文章であっても「事実」とは限らないとすれば、こりゃもう大変なことですよね。


だったら理系にすりゃよかったね。


乱雑さより整然さに美しさを感じるほうなので、もしかしたら理系だったのかも。父や兄にくらべて芸術性もないなあと思いますし、芸術や文学に対する素養は少ないほうだと思います。しかし、中3の代数でこけたのがすべての始まりだったのか・・・。今でも覚えてるけど、クラスでビリで、先生もあまりにも悲惨だと思ったのか、呼び出しのとき×を△にしてくれた獨協の本木先生、有難うございます!

ほんと、数学はダメでした。幾何はまだマシだったけど、数列で撃沈して微積は意味が分からなかった。おまけに化学物理も不可で、まあまあなのでは現国と地歴、あとは生物。なんだほとんど記憶系じゃないかという、何とも思考の出来ない十代だったわけです。ちなみに今は古典やってるけど、当時は古典もまったく出来なかった。古典の世界のイメージができず、記憶するのも苦痛でありました。よく歴史苦手な人がイメージできないとか言うけど、たしかにそうですよね。イメージないと覚えられないんですよ。それほど「主観」ってのは人間の営みにおいて大事なんだろうなあと、うまく本題に戻ることが出来ました。

posted by 伊東昌彦 at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年09月01日

最近こういうの多く、残念

永代供養墓の前にあるアルミ製の結界です。車に踏まれてペチャンコ。悲惨のひと言。

DSC_0792.JPG



posted by 伊東昌彦 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年08月21日

住職のフェイズブック

こちら住職のフェイスブックページです。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609

今まであまり長続きしなかったのですが、今回はちゃんと更新しています。友達が少ないので友達になってやってください。100人ぐらいは結構早くいきましたが、それからまったく、全然ダメ。友達いないんですよね。しくしく

内容は趣味ばかりです。
posted by 伊東昌彦 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年06月23日

六福寺めぐり

≪南足柄 六福寺めぐり≫ 開催のお知らせ

今年も6月29日が近づきまして、六福寺めぐりの季節になってまいりました。例年バスツアーでの開催でしたが、今年はウォーキングにしまして、関本にある三福寺をめぐりたいと思います。

6月29日(金) 午前9時30分 大雄山駅集合
歩き→龍福寺(法話)→歩き→廃寺善福寺(法話)→長福寺(坐禅・食事・トーク)
午後2時 大雄山駅解散

トークでは日頃聞けないようなご質問を、何でも聞いてみて下さい。

費用は昼食ふくめて2000円となります。
皆様、是非ご参加ください!

posted by 伊東昌彦 at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年06月21日

一念発起して論文

ここ数年、学問から少々遠ざかっておりまして、まったく論文発表をしておりません。博士論文には今後の課題とか何とか、立派なことを書いておいたのですが、何もしていないという体たらく。研究してきた内容も忘れがちになってしまい、これではいかんと一念発起しました。

これまで三論宗系統の浄土教を研究してきましたが、私はやはり浄土真宗の坊さんです。今までの研究成果を親鸞聖人まで結び付けまして、研究を終えたいと思っています。やたらと終わりが早いですが、あとは成果発表というよりは、自分自身の学びとして勉強を続けていきたいと思っています。

と、これまた立派なこと書きましたが、要は体力と能力の限界を感じまして、住職やりながらの研究は私には無理だな、と言うことです。住職でありながら研究者でもある先生は大勢いらっしゃいますが、本当に凄いバイタリティだと思います。

なお、今回の論文テーマは親鸞聖人の仏身仏土論につきまして、奈良時代の智光さんの仏身仏土論との近似性という側面から論じるものになりそうです。智光さんはかなりの碩学なのですが、中央からは遠ざけられてしまったりと不遇な人であり、なおかつ人物像も有名な行基さんとの対比のなか、あまり良い印象で語られてはいません。

伝承とは往々にして一方的なものの見方に終始するものですが、私は結構その裏側というか、本当のところを知りたがる傾向にあるので、智光さんの生涯にはとても興味があると同時に、そのように扱われてしまった智光さんを応援したくなる気持ちにもなります。

おそらく1年ぐらいかかると思いますが、来年にはどこかで発表したいなあと密かに思います。

posted by 伊東昌彦 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年05月06日

ゴールデンウイーク

皆様、連休をいかがお過ごしでしょうか?

私は毎年、ゴールデンウイークには意外と骨休めが出来るわけです。坊さんはあまりちゃんとした休日はないのですが、この時は法事もほぼなく、また、ご参拝の方もかなり少なめになるので、1泊で箱根付近に行くことが多いのです。最近、結構ストレスたまっているなあと感じていたので、少しはリラックス出来たかと思っています。

ところで、こうした連休ではなく、日頃のちょっとしたストレス発散の方法をお持ちでしょうか?スポーツをしたり、様々な趣味の時間を持ったり、それぞれでしょう。ゲームをするという方もいるでしょうし、ストレス発散になれば大人でもいいんじゃないかと思います。私もたまに昔やったゲームをします。やり方を新たに憶えなくて良いので、昔のゲームのほうが楽なのです。

また、夏が近づくと日が長くなるので、夕方から一杯やるのが最近のお気に入りです。まあ、2杯ぐらいで帰宅するのですが、ほろ酔いで気分がいいので楽しみになっています。かつて、中野の新井薬師門前の交差点に間口の広い焼き鳥屋さんがありまして、幼い頃、遠目で眺めていた記憶があります。たしか昼間からやっていたような…。母親からは近づかないよう言われていたかと思うのですが、今、行ってみたいなあ。

ちなみに、中野ブロードウェイの地下には、「デイリーチコ」という名であったか、巨大ソフトクリームの店がありまして、多分まだあるのと思うので、家族を連れて行きたいと思っています。昔は左右で違う店だったと思うのですが、いつの間にか、と言いましても40年近く前の話ですが、2軒が一緒になったような記憶です。違ったかなあ。

その頃、向かって右手におでん屋さんがありまして、その奥に讃岐うどんの店があって、よく母親に連れていってもらいました。ソフトクリーム、おでん、うどん、この3点セットを良く覚えています。しかし、おでん屋さんから讃岐うどんに行く手前にサーティーワンが出来まして、私はサーティーワン派になってしまったわけです。ダイキュリアイスが好きでしたが、今はもう存在しないようです。無念です。

新井薬師には15年ぐらい行っていないので、そろそろ郷愁を感じてきました。母親の実家がまだありまして、叔父がいるのですが、元気にしているかなあ。昔は従兄弟もよく新井薬師に来たものですが、それぞれ家庭があるので集まることも今はありません。ちょっと寂しいですね。法事がこうした縁を結んでくれるものなのですが、法事自体、皆を呼んで営むということが難しいこともあり、小規模になりがちです。前回は私たち家族だけで営みましたが、次回は皆に積極的に声掛けをしてみようかと思います。
posted by 伊東昌彦 at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年04月23日

善福寺と武家勢力

お寺の歴史をひも解いたとき、何らかのかたちで公家や武家勢力が関係していることが多いでしょう。鎮護国家のための祈祷寺院や、先祖を祀る菩提寺はもちろんのこと、民衆の信仰によって創建された寺院であっても、本堂建立の資金は武家に頼っている場合があると思います。時の有力者の外護がなければ、寺院護持はなかなか難しいことであったかと思います。

善福寺は浄土真宗の一末寺ではありますが、武家勢力とそれなりに関係している歴史があります。開基の了源上人(伊東祐光)は伊東祐親の孫にあたりますので、そもそも武家であったわけですが、祐親系統の伊東氏は平清盛の後ろ盾を得ていたようです。また、戦国時代に善福寺は小田原北条氏の一向宗禁制に遭遇しますが、解除後には一向宗本寺としての朱印免状を得たようでもあります。

伊豆伊東氏と小田原北条氏との関係によって、あるいは寺院としての格を保ってきた側面も考えられることでしょう。進納などの直接的支援があったかどうかは分かりませんが、お寺の「看板」にはなっていたのではなかろうかと推測します。伊東氏との関係は今までも調査をしてきましたが、北条氏との関係はよく分からないこともあり、これから何らか調査してみたいと思っています。
posted by 伊東昌彦 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年04月09日

無思考な思想は危険だ

3月〜4月は毎年慌ただしく、何となくダーっと日々経過していきます。そんな中で気になった報道と言えば、大相撲巡業での出来事です。女性は土俵から降りてくださいの件です。私は日本古来の思想には疎いのですが、これは元をたどれば「穢れ思想」に行きつくかと思います。穢れの原因と言えば、まずは「死」ということでしょうか。それから血ということで月経も対象でしょう。月経は女性の生理現象ですので、つまり「=女性」につながっていくのかと思います。

坊さんには無関係のように思う人もいるかもしれませんが、かつては坊さんは葬儀をしていませんでした。正しく言いますと、神事に出勤する立場にある官僧(→公務員の坊さん)です。平安時代までは基本的には官僧がほとんどで、私度僧(→民間の坊さん)が増えたのは鎌倉時代になってからかと思います。神事は「死」などの穢れを避ける伝統なので、官僧は神事に備えて穢れの原因になる物事には近づかないようにしていたわけです。葬儀をするようになったのは、はじめは半僧半俗のような私度僧であったり、または既存の枠組みから外れた律宗や念仏宗や禅宗の坊さんであったようです。

穢れ思想は日本固有のものではなく、多分、大陸経由からもたらされたものかと思います。その辺の事情はちょっと分かりませんが、インド仏教にも穢れ思想のようなものはあります。たとえば、女性が成仏するためには、まず男性にならなければならないとか、何だか意味が分かりませんが、とにかく経典にはそういう表記が存在します。今でも世界のほとんどは男性中心のあり方ですし、それが2000年ほど前のことと言えば、まあ、なおさらのことなんじゃないかと思います。男性のほうが女性よりも一般的に体力で勝りますし、単純にそういう状況から男性優位になったのは容易に想像が出来ます。そして、人は「死」を恐れるわけで、それとは逆の「生」についても恐れを抱いていたことでしょう。赤ちゃんが生まれてくることなんて、普通に考えてとても不思議なことです。男性からはもちろん、女性であっても命の誕生は不思議に思われることでしょう。男性による生に直接関与する女性への恐れというものが、女性蔑視につながっていったのかもしれません。男性は基本的に女性より小心なので。

いずれにしましても、女性を穢れの原因とみる考え方は日本古来より存在し、それがどうやら公益財団法人日本相撲協会にも受け継がれているようなのです。思想というものは、その時代の人の営みを反映しているものなので、歴史的文化的にも極めて貴重なものです。また、思想は浸透性と継続性を持っているので、昔の思想であっても現代まで影響が及んでいることもあり、現代社会を見つめる上で看過できません。しかし、思想はあくまでも人の営みであるので、人なくして存在意義はまるでありません。人を超えて存在する思想なんてないと私は個人的に思います。これは当然のことながら仏教思想もそうで、人がいなければ仏教なんてどうでもいいことなのです。引いて言えば、人の命に勝る存在意義がある思想なんてあるわけない。もしあるなんて言うならば、それは個人的に勝手に思っていれば良いわけで、他人に押しつけてはいけないことです。

昔からある伝統思想というものは、無思考で継続させられてきたものもあるでしょう。仏教も伝統思想の1つではありますが、少なくとも日本仏教は無思考ではないと私は思います。今、上記のような女性が男性になってから成仏するとか、そんな意味不明なことを言う日本の坊さんはいないでしょう。いて欲しくありません。こうした考えは仏教思想の根幹でも何でもないので、今、必要なければ取り上げる必要はまったくありません。ただし、経典編纂者が土着的な思想を取り上げたから存在するのでしょうが、仏教的にはまったくの間違いであったと認識する必要はあります。無視して良いということではありません。

相撲協会も伝統とか言うのであれば、ちゃんと自分たちで思考しないといけないなあ。無思考の思想というものは非常に危険だということ、私たちは歴史において知っているはずです。

posted by 伊東昌彦 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年03月23日

タミヤの電動ラジコン

かつて小学校5年〜6年ぐらいのころ、ラジコンにはまった時期がありました。タミヤのフォックス、京商のギャロップMK2、そして、ほぼ誰も知らないニチモのペガサスエクシード。中1の夏頃から、不思議と波が引くようにマイブームは去っていきました。ペガサスは同級生に売ってしまった。箱だけまだ存在。10代の頃のブームってのは不思議なもんですよね。異様にはまったのに、何だったんだというのが多い。

最近、タミヤから復刻版が出ていることを知り、息子のためと言って購入してしまいました。ホットショットは長男で、フォックス(ノバフォックス)は次男です。長男には最初ホーネットを買いましたが、ちょっと物足りないようだったのでホットショット。

なお、制作はほとんど長男で次男はちょっと、塗装のみ私でした。

DSC_0171.JPG
posted by 伊東昌彦 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年03月18日

自戒の念を込めまして

昨今、お葬式についての考え方や、そもそものあり方について、随分と変化があると言われています。私も実際、そう感じることがあります。お葬式というものは、もともとは商業的なものではなく、地域で互助的に成り立ち、そこに宗教者である坊さんが主として関わってきました。今はその互助的であった部分が機能しなくなり、多くを葬儀社が担っています。たとえば、善福寺の周辺では「墓掘り」と呼ばれる役回りがありまして、これはかつて土葬の時代、実際に穴を掘っていた役の方々です。私の知るかぎり火葬の現代におきましても、お墓のカロートを開けて納骨をする役を担ってこられました。しかし、徐々にその役は葬儀社の社員さんに代わっていきまして、今では役名だけが残されています。

会社勤めの方が多くなり、さらに分業が進んだことによりまして、葬儀社の存在はお葬式において欠かせないものとなっています。私もお葬式においては、一緒にご供養をしているという感覚です。葬儀全般に精通されているのはもちろんのこと、ご遺族と直接接する時間も多く、何かと頼りになる存在です。ただ、お葬式の窓口が葬儀社だけになってしまい、失礼ながら会社の都合でお葬式の内容が左右されることもあり、ご供養が置いてけぼりになってしまうケースも見受けられます。葬儀社は会社法人ですので、宗教法人のように税制面で優遇されているわけではありません。利益を出して納税し、安定的に経営をしていかねばなりません。時には自己都合に走ってしまうこともあるということ、経営者として理解できないことではありません。住職も実は法人経営者だからです。

ただし、葬儀社はあくまでもお葬式をサポートしているだけなので、ご供養の主体はご遺族であり宗教者でなければ意味がありません。とりわけ宗教者である坊さんは、お葬式という宗教行為を司っているわけなので、葬儀社とともに取り組んではいても、宗教行為は自分たちが主導するという強い自負心を持っていなければ困ります。もし葬儀社に暴走気味なところがあれば、それに歯止めをかけることができるのは、お葬式が宗教行為である以上、寺院や坊さんしかいないからです。

これは学校と受験対策の進学塾の関係に似ているところがあります。学校は寺院で、塾は葬儀社だと考えることができるでしょう。入試のある学校に入学したいのであっても、必ず塾が必要というわけではありません。自分で勉強できれば、それで事足りるからです。かつてのお葬式も、地域の互助で成り立っていましたので、葬儀社は不要でした。ただ、時代とともに必要になってきた。塾も同じです。さらに学校側から見ましても、塾は今、不要だとは言い切れない存在でしょう。難しい入試問題を出す学校は、そのレベルに受験生を引き上げてくれる塾がなければ、欲しいと思う学生や生徒が集まりません。また、中高では在校生に対しても、学校の勉強だけで大学入試に対応できるかと言えば、あまり自信がないというのが本音ではないでしょうか。寺院でありましても、葬儀社がいなければ、お葬式をしっかり取り仕切れるのかどうか、はっきり言って私にはまったく自信がありません。

塾と学校は同じく教育に関係していますが、その目的は大いに異なります。葬儀社と寺院も同じくお葬式に関係していますが、当然のことながら、目的はまったく異なっています。だからこそ相互に必要な存在なのであり、学校であっても寺院であっても、ちゃんとここら辺のことを理解していないと問題です。一番問題なのは、塾と特定の学校とが業務提携をし、塾がその学校の内容よりも、提携を優先して塾生を大量に送り込むような誘導をしたり、また、葬儀社と同じく特定の寺院や坊さんとが業務提携し、葬儀社が自社の都合でお葬式を取り仕切ることがまかり通ってしまうことです。業務提携をしてはいけないということではなく、互いに自分たちの都合や利益を最優先させていることが問題なのです。学生や生徒や保護者、そして門信徒をないがしろにしている実態があることが問題で、自分たちの責務を忘れてしまっているのでしょう。

寺院、坊さんという存在は、商業的な側面もあって成り立っているものですが、本来の目的は商業ではありません。商業化している寺院や坊さんに対して、世間は冷笑しているということ、早めに気づいていかないとならないはずです。自戒の念を込めまして、お葬式には毎回気を引き締めて臨みたいと思います。
posted by 伊東昌彦 at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年02月19日

少し瘦せました

塩分控えめ食事、そして節酒によりまして、3キロほど痩せました。嬉しい。しかし、あまり外食しなくなったので、ストレスたまりそうです。普段からお寺にいることが多いので、実は外食が結構なストレス発散だったのです。

何事もバランスだと思いますが、体と心のバランスは難しいなあと思っています。


posted by 伊東昌彦 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年02月10日

神奈川県立足柄ふれあいの村

南足柄市には「神奈川県立足柄ふれあいの村」という施設があります。市内や近隣市町の小学生は学校で1泊することもあり、地元ではお馴染みです。しかし、おそらく県内でも、かなり知られてはいないでしょう。なかなか楽しそうな施設なので、もし何か機会がありましたら、是非どうぞ。

http://ashigara-fureai.com/

なお長男の学校でも中1はここで1泊でした。しかも、部活合宿もここだそうです。東京や横浜から来ている友だちにとっては、「どこだそれ〜」ですが、長男にとってはあまりにも馴染みで、歩いても行けてしまうわけです。

南足柄、大雄山、都心からも近くでありながら、なかなかの秘境です。
posted by 伊東昌彦 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年01月15日

朝のお経は7時から

狭心症は寒さによって引き起こされる場合もあり、今回も朝のお経のあとでした。朝の本堂はとにかく寒いのです。毎朝6時からのお経にしていますが、実はほんの15分前ぐらいに起床しまして、急いでお経をあげるという状況でした。狭心症の発作は朝方に起きやすく、とくに寒い冬場は危険性が高まります。私の場合、起きてからすぐといことが多かった。

心臓のウォーミングアップを兼ねて、5時に起きて準備をすれば良いわけですが、あまり自信がありません。なので、今までお経のあと、子を駅まで送りまして、それから朝食、というパターンで来ましたが、朝食のあとにお経をあげることにしました。だいたい7時頃になるので、これからは7時からお経ということにしたいと思います。

坊さんなら早起きすべきところですが、どうもダメだということが判明しています。まあ、もう中年だから良いということにしまして、ゆっくりお経をあげたいと思います。ちなみに、善福寺の場合、坊守であるカミさんが、子のお弁当を作るため、月曜から土曜毎日、朝4時50分に起床しています。長女は土曜休みですが、長男の学校は土曜もお弁当があるのです。ああ、大変だ。すごい!有難う!


合掌

posted by 伊東昌彦 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年01月13日

心臓カテーテル検査を受けました

狭心症の発作があり救急車で運ばれました。即検査と即入院3日間。毎朝6時前後にお経をあげるわけですが、お経のあとの胸痛でした。寒いからかなあ。でも、年末から忘年会続きでしたので、お酒もかなり多かったし暴飲暴食だったと思います。5年前にも搬送されまして、その時は「疑い」という診断でしたが、今回はもう「狭心症」との診断、そして、おまけに動脈硬化が見られますとのことでした。

ストレスと悪玉コレステロールが大問題のようで、塩分もかなり抑えるように指導を受けました。ストレスは溜まっているんだろうなあと思います。住職は皆そうだと思いますが、とにかくお寺を空けることが出来ないので、敢えて言えば「軟禁状態」のようになります。常に頭からお寺のことは離れません。まあ、これは社長さんも同じかと思いますが、私の場合、もう入寺して10年以上になりますが、結構な負担だったのかも。すごい神経質なほうで、しかも、どうでも良さそうなことを真面目に考えたりする性格です。

食生活は外食が多いのが問題です。父親のこともあり、家ではお酒は飲まないことにしているので、お酒を飲むなら外食となります。これ良くなかったですねえ。お酒はいきなりやめられそうにないので、少し減らそうと思います。お味噌汁大好き、ラーメンスープ完飲、揚げ物大好き・・・、挙げたらきりないですが、食生活も大幅改善しようと思います。

さて、少々病院でのことを書いてみたいと思います。朝方救急搬送されまして、先生の診断の結果、即心臓カテーテル検査をしました。即座に受けられたのは幸運だったと思います。実は私、入院はもちろん、こうした簡単な検査手術も初めてで、心のなかではかなり動揺していました。しかし、看護師さんの迅速な動きに身を任せていますと、不思議に動揺もなくなり、なんとも安心した境地へ突入。あっという間に、股間の毛を剃られてしまい、そして尿道カテーテルを先生に入れてもらいました。これがちょっと、と言うか、私は初めてでしたので、実はすごい痛かった。

検査は右足の付け根から細い管のようなものを血管に入れまして、心臓の冠動脈にあると思われる血管の収縮を確認し、ある程度治療するというものでした。足の付け根に麻酔をしたわけですが、血管に挿入している最中、これまた結構な痛みでした。麻酔を追加してもらい多少は和らぎましたが、なんとも言えない違和感のなか、検査は進んでいったのです。

検査は冠動脈の写真を撮ると同時に、わざと狭心症を発症させて、それをニトロで抑えて症状を確認するというものもあり、これまた苦しいものでした。ニトロを入れてもらえば即緩和されるので大丈夫なのですが、あの痛みが再来するというのは気分の良いものではありません。ただ、先生がいて下さるので、安心して身を任せることができ、あまり不安はありませんでした。

検査後の4時間は絶対安静とのことで、ベッドで横になり、左足と両腕以外は動かすことができませんでした。私は腰痛持ちなので、腰や背中が痛くなり、これを我慢するのが大変でした。また、尿道カテーテルがうまく合わないのか、痛みが続いておりまして、これは4時間経過後、抜いてもらいました。しかし、その後がもう大変。トイレには翌日朝まで行けないので、ベッドの上で用を足すわけですが、これまた出ない。神経質な私にとって、カーテンがあるとはいえ、大部屋でするというのは難儀なことでした。結局、我慢も限界に達したので、看護師さんい無理を言いまして、一人でいられる処置室へ移動。そこでようやく用を足すことが出来ました。もの凄く幸せな気分でした。

2日目はとても暇で、読書とスマホとゲームで何とか時間経過を早めました。ゲームは意外と続かず、読書が一番良かったです。スマホは充電が切れました。絶対安静時以降は体の痛みはほぼなく、安穏に過ごすことが出来ました。

3日目は退院前に先生から診断を受け、今後の指導もいただきました。先生の説明は非常に分かりやすく、狭心症の危険性もちゃんと認識出来ました。看護師さんにも親切にしていただき、感謝の思いでいっぱいです。

なお、入院中にお葬式がありまして、ご葬家には申し訳なかったのですが、後輩のお坊さんに助けてもらいました。用事があったようなのですが、快く引き受けてくれました。感謝です。有難う!

posted by 伊東昌彦 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年01月01日

旧年中はお世話になりました

皆様、本年もよろしくお願いいたします。本日は6時からお経のはずが、寝坊しまして7時になってしまいました。除夜会のあと、なぜかなかなか寝付けず、やや寝不足気味です。と言いますか、最近、どうも寝つきが悪く、悲惨なときは朝方まで寝られないなんてこともあります。自律神経が失調しているのかもしれません。

除夜会にご参拝の皆様、お寒いところ有難うございました。東京では130年ぶりに大晦日に初雪とのことでしたが、こちらはそうでもなかったのかもしれませんね。

posted by 伊東昌彦 at 09:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2017年12月18日

例年より忙しく

DSC_0635.JPG

今年もまだまだ銀杏は落ちません。10年ぐらい前に比べますと、本当に暖かくなったのだと思います。それにしても、今年は忙しい年末になってきました。でも、直接お寺のことじゃないんです。今年から数年間、色々なところで、色々な役についてしまっています。役が回ってくる年代なんでしょう。

除夜の鐘も近いわけですが、まだ何も準備をしておらず、少々焦ってきました。

posted by 伊東昌彦 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2017年12月01日

最近、頭固くて固くて

私は44歳なので、一般的には中年と言ったところです。しかし、どうも最近、頭が固くて固くて、自分の価値観から外れることを見聞きしますと、やたらと違和感を覚えてしまいます。若い頃から結構固いほうなんですが、さらに磨きがかかって堅固なものになってしまいました。この先、どんな頑固者になってしまうのか、自分でも不安です。

たとえばプロ野球。私が小学生のころは鉄道会社や新聞社や食品会社が親会社になっている場合が多く、固めのイメージがありました。時代も変わったわけですが、今は何だか落ち着かない。了見が狭いんですよね。言い換えれば、これも自分自身に固執しているわけで、執着心の現れとも言えます。物事は変化していくわけですが、煩悩がかなり強いのでしょう。でも、親会社の商売の仕方ってのは、プロ野球全体のイメージにもつながるわけだから、大事だと思うんだよねえ。

相撲も昔から好きなので、お相撲さんの所作についても、イメージが固まってしまっているところがあります。こないだの優勝インタビューはきつかったなあ。

優勝インタビューだから、わきまえてほしいと思ってしまった。横綱には処分についての権限はもちろんないだろうけど、そもそも言及してしまうところに違和感を覚えた。万歳三唱にいたっては、もう常軌を逸脱しているかの印象。何が起きたのか!? 問題は未解決だし、万歳をする場面ではないでしょう。品格品格言うけど、品格は誰かに言われて、はいそうですかって身につくものではないし、もう品格が育つ土壌がないんじゃなかろうか。しかしまあ、品格ある横綱ってのも、パッと思いつくような方は・・・。武蔵丸ぐらい?

稀勢の里には大いに期待しているんですが、とても心配です。

posted by 伊東昌彦 at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii