2019年12月10日

小学校の登校時間

次男は小学校6年生です。今朝も7時50分の学校開門時間に合わせて家を出ました。しかしこの時間だと、通学路に他の登校児童はあまりいないそう。多くの児童が、開門より早い時間に学校に到着して門前で待っているようです。なるほど、早起きはいいことですし、早く学校に行って友達と会いたいということもあるでしょう。私自身のことを振り返りましても、8時15分開門でしたが、時間前に門前で待っている友達もいたように記憶しています。遅いよりも早いほうがいいとは思います。

ただどうも次男の学校は早すぎるように感じます。開門よりも20分早い7時30分にはかなりの児童が集まっているようです。以前、開門時間前に登校しないように、とのお達しが学校からありましたが、あまり改善されていないのでしょう。朝から門前でガヤガヤですと、近隣の方にも迷惑がかかります。あまり早い時間に到着しますと、まだ当番の先生も来ていないような状況になるかもしれません。何かトラブル、事故や事件に巻き込まれますと、これは非常に問題です。

早く登校する児童がいますと、先生もそれに合わせて早く出勤することもあるでしょう。先生にも家庭を持たれている方は大勢いるでしょうし、お子さんもいらっしゃることもあろうかと思います。先生の働き方について、今、ようやく改善の兆しが見えてきています。先生は何でも屋ではありませんし、先生にだってご自身の生活があります。それを無視するような感覚が保護者にありますと、先生たちは疲弊してしまいます。先生になりたいと思う学生が減ってしまうとことも、もしかしたらあるかもしれません。

実のところ、早い時間に登校するということの背景には保護者の都合もあるようです。保護者の出勤時間に合わせて子も家から出してしまうというわけです。出勤時間が早い会社であれば、こういうこともあるでしょう。子を置いて出勤するわけにはいかないという事情も理解できます。しかしながら、学校はそれぞれの家庭のフォローをしているわけではありません。ましてや、先生が児童の家庭の事情に合わせて出勤するということは、教育環境のあり方としておかしいと思います。

教育というものは、まず家庭があって、そこに学校や地域が関係してきます。もちろん様々なケースがありますが、基本的には家庭中心でなければ、子の教育をすることは難しくなります。だってそうでしょう、自分たちが授かった子なわけですから、家庭中心でなくどうするというのでしょうか。先生は家庭の事情も理解してくれますし、できるだけ寄り添ってくれるよう努力をされていることが多いかと思います。だからと言いまして、保護者が早く出勤をするから、校門も早く開けてくれというのは甘えを通り越して、無茶苦茶です。

私たち保護者は、学校というものをどこか勘違いしているのかもしれません。子を主に教育するのは家庭であって、学校は副次的な存在です。歴史的に見ても、寺小屋だって江戸時代になってようやく出来たものです。寺小屋がなければ、当たり前ですが家庭で子を教育してきたのです。子を育てることは大変なことです。現代的には出費もかなり多くなります。私が小学校のころは専業主婦のお母ちゃんも多かったと思いますが、今は共働き家庭が主流です。女性が働きに出ることは大いに結構なことですが、そうしないともたない事情もあります。一般論ですが、お父ちゃんの給料が上がらないのです。

先生方は家庭の事情に合わせて早く出勤する必要はありませんが、児童が早く登校してしまうことの背景は、実際には単純なことではなく、日本の社会や経済の複雑な事情がそのまま反映されてのことと言えましょう。子を育てるには出費がかさむと書きましたが、本当にお金のかかる世の中になったと感じます。ただ、わが家では子を3人恵まれまして、それなりに元気に育ってくれている現状において、振り返れば無駄な出費も多かった。たとえば水泳教室。次男だけ幼稚園から5〜6年はやったかなあ。やってない長男のほうが泳げます。あらまあ。

水泳教室が意味ないということではありません。次男にはあまり向いていなかったのです。それを無理矢理継続させていたから、出費だけかさんだということです。習い事というものは、何でもやらせればいいというわけではありませんし、よくよく子の特性をつかまないといかんなと思いました。ちなみに私自身はと言いますと、水泳教室は見学だけで拒否、英語教室は1年ちょっと、書道は祖母に習うも遊んでおしまい、公文だけなんとか数年はもったかという始末。習い事、嫌いなんですよね、実は。泳げますけどww

私はすぐ拒否するので出費はかさまなかったかもしれません。意外と親孝行。

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2019年11月05日

次世代の育成に不安

日本のお寺は今、転換期にあると言えます。伝道と経営のバランスが変わり、より経営に重きを置く必要が出てきていると感じます。こうしたなか、お寺では後継者育成を仏教の勉強・修行だけに特化するわけにもいかず、法人経営者としの勉強も必須となっていくかもしれません。しかし、仏教と経営は同じベクトルではなく、仏教思想を経営に活かすことは可能であっても、根本では異なる価値観をそれぞれ持っています。場合によっては混乱するかもしれませんし、うまく消化できないかもしれません。いずれにしても次世代は大変だと思います。

有難いことに善福寺にも後継者候補たる息子に恵まれたわけですが、住職としてどう導いていけばよいのか不安です。私自身は半ば荒廃しかけた状況を何とかしたいという思いで必死なだけで、計画なく進んで来てしまっただけです。自分と同じようにせよと言ったところで、状況が異なりますので彼も困るでしょう。そもそもやりたくないと思っているかもしれませんが、今はまだ私の言うことを聞いているだけです。来年度は中学生となりますが、どんどん色々なことを学ぶことでしょう。視野も広がります。親の言っていることに疑問も持つことでしょう。

お寺に生まれてしまったことは、たしかに住む場所には困らないのですが、自由はあまりなく制限のある生活をしなければならないことを意味します。とは言いましても、住むところはあるわけですから、坊さんにあまり魅力を感じなくとも、ひとまず僧籍をいただきまして、それから自分のやりたい事をしつつ、独自の坊さん像を作り上げていくのもいいと思います。息子にはお寺一色である必要はなく、色々なことにチャレンジするなかで住職としての素養を身につけてほしいと思っています。むしろ、そういう言い方しないと後継者になってくれないかもしれません。
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2019年10月30日

坊さんメランコリー

ようやく秋晴れが続きそうな天候になってきました。台風や大雨での被害は甚大でした。箱根登山鉄道も復旧の目途が立たないようです。強羅には函嶺白百合小中高がありますが、児童・生徒の皆さんが通学できているのか心配です。長男の学校でも通学路変更のままだそうです。今年は中部・関東・東北で被害甚大となったわけですが、毎年日本全国どこかしらで台風による大きな被害が発生しています。東京23区ではかなりのインフラ整備が行われておりますので、ひとまず今年は洪水等の大災害は避けることができました。しかし、コンクリートによる一方的なインフラ対応には限界があるのは目に見えています。そもそも、そんなものを日本全国に設置することは費用的に不可能です。経済活動中心の国づくりで果たして良いものなのかどうか、岐路にあることを感じます。

災害のこともありまして、今月はあまり気分が晴れません。先月は母の本葬、今月は報恩講というように大きな行事も続いたので、心身ともに疲れ気味で消極的な発想になっているのかもしれません。秋になりますと、たとえば金木犀の香りにふれると中高時代の学園祭を思い出します。香りのほか、音楽というものも思い出を蘇らせる効果がありますよね。あの曲を聴くとあの人を思い出すとか、それぞれあろうかと思います。秋のもの悲しさというものが、こうした気分をまた盛り上げてくれるのかもしれません。やや冷えるなか、夕方まで遊んで急いで帰路につく先には沈みゆく夕日が見えたりして、今でも夕日を見ると家で母が待っているかのように思えてきます。しかし物事は、つねに移り変わっていきます。諸行無常なのです。秋は本当に美しい日本の象徴のように思えます。

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2019年10月23日

経済は「経世済民」であってほしい

台風被害のあと、いきなり秋になりまして落ち葉も舞うようになりました。朝方冷えるので今日も落ち葉が増えそうです。県内の台風被害は甚大でした。南足柄市でも河川や土砂の被害があり、水道も一時的にですが止まりました。隣の箱根町では復旧作業にすら入れない状況だとも聞きます。毎年大きくなるような気のする台風ですが、やはり温暖化が影響を及ぼしているのでしょうか。ダムや堤防における想定を上回る降雨量をもたらすとなりますと、人工物での対応にも限界があるのかもしれません。鉄筋コンクリートの建物よりも、維持作業が必要とはいえ木造の建物のほうが長持ちをするようですし、人の手によるものであっても、出来るだけ自然の真似事をしたほうが正しいようにも思えます。

個人的な思いですが、日本は国家として成熟しつつありますし、これからは成長よりも維持することが課題かと思います。商売をしてお金儲けをすることだけを念頭にしていると、結局のところ私たちの生活基盤である衣食住の確保が疎かになることにつながるでしょう。経済活動は必須ではありますが、そもそも「経済」とは「経世済民」のことであるとの説もあります。商売することは大いに結構なことで、寺院であっても商売的側面はあります。なければ維持できません。維持するだけでも必須ではあるのです。しかし、それはやはり経済活動なのですから、「世を経て民を済(すく)う」ものでければなりません。商売をすることが人々の衣食住を支えることになっていかなければ、日本の未来は暗いものになることでしょう。

私は近隣の奉仕団体にも所属しておりますが、そこには小田原地域の社長さん方も所属されています。そこでは職業を通じての奉仕活動を学び実践していくことを目指しており、まさに「経世済民」を本旨としているかのようです。私は住職なので本来的には商売をしているわけではなく、むしろ「経世済民」に共鳴するところはあるのですが、私以上に奉仕に熱心な社長さんもたくさんおられまして、感服するところも多くあります。昭和時代には高度成長とともに成金的な者も多かったようですが、今は金ぴかな社長さんは少ないのかもしれません。創業してうまくいく業種がネット関連のもになったということもあるのかもしれませんし、昭和時代の創業であっても、世代が変わったからということもあるかもしれません。

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2019年10月19日

再起動〜なかったことにする

先月末に母の本葬・四十九日・納骨を終えました。よくあることなのだと思うのですが、気分がすぐれません。やる気が出ないのです。10月は比較的昼間に時間が空くことが多く、留守番が多かったのも関係するかもしれません。あまり暇だと困ってしまう人なのです。しかし、来週末には報恩講があります。再起動しないといけません。

私の好きな映画『ターミネーター』シリーズも、「再起動」を目指した続編がありましたがコケました。意外と難しいことなのかもしれません。来月にはそれはなかったことにして再度続編が公開されるとのことです。往年のキャラも再登場とのことで、とても楽しみです。不滅ですね。

なかったことにする。日本的伝統においても「水に流す」という思考があります。いい考え方だなあと思います。私は今までこういう思考が出来なかった人なのですが、今日からは都合の悪いことは「なかったことにする」ということにして、何事もスッキリといきたいと思います。

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2019年10月02日

皆様に感謝申し上げます

母の本葬を執行しました。門徒さんにも通知させていただき大勢の方にご参拝いただきました。皆様、本当に有難うございます。無作法なところがありましたこと深くお詫び申し上げます。生前は母が大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。受付には総代さん世話人さんにご協力をいただきました。日曜日であるにも関わらず快くお引き受けいただき、感謝の言葉もございません。ロータリークラブの仲間もお参りに来てくれました。また、中高時代の友人も遠くから駆けつけてくれました。彼らの友情に深く感謝いたします。すべてが有難い母を通しての仏縁であり、あらためて母の慈悲を感じました。自分自身が生を受けてから今まで、つねに導きをいただいていたことに改めて気づくことが出来ました。

私と両親の関係は本ブログで綴ったとおりですが、1つの区切りを迎えたことは確かなようです。過ぎたことはもうそのままにしておこうと思っています。何かが解決されたわけではないのですが、そのままで良いと思うことが出来ました。父はまだ元気でありますので、これからは父とどういう感じになるのかは分かりません。私は46年間という長い時間をほぼ両親とともにしてきました。綺麗なことなんてありません。何度も言い合いをして喧嘩をして時には涙してきました。本気であるからそうできたのでしょう。両親を縁として大きく育てられたと言えるかもしれません。どの家庭でも多少なりとも問題はあることでしょう。問題があっていいのです。こういう息子につき合ってくれた母に感謝いたします。

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2019年09月24日

南足柄市の小中学校再編

南足柄市では現在、公共施設再編についての市民懇談会が行われています。私が気になるのは小中学校の再編問題です。簡単に言えば、少子化展望にともない、校舎も老朽化して予算も不足気味なことから、学校を合併して学区再編をするというものです。計画案によりますと、どうやら善福寺を開校の場とする福沢小学校も廃校計画に上がっています。人口の多い東京におきましても、たとえば私の母校も隣の小学校と合併して新しい学校になるようですし、これは全国的に見られる計画なのかもしれません。

学校がなくなることは、地域にとって寂しいことではあります。福沢小学校も開校する際には、地域住民の強い要望と尽力があったと聞きます。こうした公立の小中学校というものは、地域住民にとって輝く存在であることでしょう。それがなくなってしまえば、地域の空気も違ったものになってくるかもしれません。いずれにしましても、大きな存在感を持っていることは確かです。それがもし、唐突にあと数年後にはなくなるということになれば、現在通学している子を持つ親御さんも多いわけですし、混乱を招くことでしょう。

少子化だから、老朽化したから、予算がないから、理由は明確に挙げることができるでしょう。それはおそらくいずれも理に適っており、決して批判的な目を向けているわけではありません。ただ、長い歴史を持つ学校ですし、そこには多くの市民の声や思いがつまっています。ここは拙速よりも巧遅でしょう。いきなり児童・生徒数が2〜3人になるというわけではありません。天災は予測できませんが、いきなり校舎が崩れ落ちるわけでもありません。いきなり予算が不足する事態になるということも、あっては困ります。歴史を振り返るような余裕を持ってほしいと思っています。

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2019年09月22日

善福寺能のご案内

報恩講で鎌倉能舞台による善福寺能を開催します。今年は「杜若」です。

東国行脚の僧が三河国の八橋の沢辺に憩い、咲き匂う杜若に見とれていると、里の女が現れ、八橋の杜若にまつわる故事を語り、杜若こそ在原業平の形見の花だとのべて、僧を自分の庵室へ案内する。女は唐織を、初冠・長絹・飾太刀に装いを改め、自分は杜若の精だと告げ、業平は極楽の歌舞の菩薩の化身であり、その詠歌は法身説法の妙文で、非情の草木も救われると説く。続いて、業平の多くの恋愛事も、結局は、彼女たちを済度するための方便としての結縁だったと明かされる。(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)

10月26日(土)午後5時 善福寺本堂 是非お参り下さい!
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2019年09月01日

遺族の心情に寄り添うよう

先日母が亡くなりまして、ひとまず近親者で密葬を済ませました。後日、本葬をする予定にあります。施主になりましたのは祖母以来2度目のことですが、母となりますと当然のことながら思うところは大きかった。両親のことでは長年非常に頭を悩ませてきましたので、親不孝な解放感と同時にそれに伴う罪悪感もあり、少々疲れました。私は皆さんの葬儀をする立場にありますが、改めて皆さんそれぞれがそれぞれ、異なる思いのなか葬儀に臨まれているということに思い至りました。悲しみでいっぱいの方、感謝の心でいっぱいという方もいらっしゃれば、私のように感謝してるのかしていないのか、何だか自分でもよく分からないという方もいらっしゃることでしょう。浄土真宗では通夜のあと必ず法話をしますが、可能なかぎり遺族の心情に寄り添うよう心掛けたいと思います。これも母からの学びの1つなのでしょう。やはり母とは有難い存在です。

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2019年08月19日

今週は巨人戦でドームに行きます

今年も無事お盆を終えることができました。この脱力感がたまりません。まるで中高時代の中間期末試験後のようです。「あれやろこれやろ」と思っていても、いざその時になると「何しようかなあ〜」となるのです。中高時代はそれで結局ゲーム、ドラクエ。昨日は久しぶりに甲子園をテレビ観戦しました。すごい良かったです。おじさんになったからなのか、子と同じ年代の選手が奮闘している姿に喜びを覚えました。あのピッチャー、うちの娘と同学年だよ・・・、とか。同学年には見えないほど心身ともに鍛えられている姿、カッコよかった。わが娘も昨日は模試でしたが、帰りは何やらセーラームーンのグッズを買いにどこかでフラフラしていたようです。セーラームーンですよ、セーラームーン、お仕置きするという。娘、高2なんですよ。プリキュア世代なんだけど、最近また流行っているのか不明です。精神年齢どうなってんのかなあ。

今週は巨人戦のチケットをいただいたのでドームに行きます。今年はロータリーの先輩に2試合もいただいてしまいすごい嬉しい。巨人好きも松井選手がヤンキース行ってから徐々に薄まってきてしまっていたのですが、ここにきてまた復活しそうです。やっぱおっさんはプロ野球観戦しながらビールがよく似合うと思うのです。ところで、チケットをいただいた先輩はご自身でご創業されたIT関連会社の社長さんなのですが、とてもダンディであり茶目っ気もあり人望もあり貫禄あり、しかも話がとてもうまく、尊敬する先輩です。坊さんやってますと、どうしても他業種の方との交流が減りがちなのですが、知り合うことができて良かったと思います。有難うございます。私が思うに、寺の住職、お医者さん、学校の先生、この3つの職業に共通して言えることは閉鎖性、あえて言えば独善性かもしれません。もちろん一般化はできないことなのですが、主観として住職は自分でやっているので常にそう感じますし、お医者さんは兄を見ていると、医者として独善的であるべき側面はあるんでしょうが、まあ医者以外の人の意見はあんま聞かないって印象です。兄だけかもしれませんけどww。それから学校の先生ですが、こちらは以前、私がPTAの会長やっていたときの校長先生がよく仰っていたことで、そうなりがちだから、積極的に異業種の方の講演を聴くように現場の先生にはご指導されているとのことでした。教育委員会の会議におきましても、先生方は問題解決に本当に真摯に向き合っておられるのですが、狭い人的交流のなかで堂々巡りをしているような印象を受けることもあります。おそらく学校での問題は先生方が何とかしないといけないという自負心のあらわれでもあるのでしょうが、少々窮屈に感じることもあります。いずれも業界的に閉じがちであるということもありますが、IT時代になり問題もかつてとは違う方向や新しい要因を持って出てくるなか、旧態依然になりがちな代表選手がこの3業界であるかもしれません。坊さんはちょっと違和感ありますが、皆さん「先生」と呼ばれてしまう職業ですし、同じ「先生」でも士業の方は異業種と関わる仕事も多そうで、この3業種は異業種と積極的に交流しなくとも本質的には成立可能なところが問題なのかもしれません。

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2019年07月26日

今昔 お寺からの眺め

善福寺サイトに新しいページが誕生しました。その名も「今昔 お寺からの眺め」。善福寺近辺から神奈川県西部まで、歴史深い風景をご紹介できればと思います。まずは今月の7月29日(しちふく)にツアーのある南足柄七福寺。他にも順次内容を充実させていきますので、ご覧ください!

http://www.zempukuji.or.jp/konjyaku

善福寺住職 伊東昌彦
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2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

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2019年06月07日

教育虐待という言葉に触れて

最近よく見かけて気になる言葉に「教育虐待」というものがあります。これは教育を受けさせない虐待ではないようです。むしろ教育の名のもと過度に子へ勉強を強制することにおいて発生する虐待であり、具体的には成績下降時の過度の叱責や制裁が当たります。成績落ちたら叱られる、成績落ちたからおもちゃ没収される。昔からよくあるシーンだと思いますが、やり過ぎなんです。

これは私の印象ですが、教育虐待というのは中学受験前後に関係することが多いように思います。今や中学受験準備は小学校に上がる直前から始まるという、何とも言葉にならないような驚きを禁じ得ません。本ブログでも数回書いたように思いますが、わが家では子そして私自身も中学受験に挑みました。その経験から申し上げますと、たしかに中学受験というものは「虐待性」を孕んでいると言えそうです。

中学受験は親が関与しながらも受験勉強の主体は親ではなく子だけになり、親がいくら立派であっても子が振るわなければうまく行きません。いわゆるお受験である小学校受験、そしてこれらとはやや性格の異なる高校受験においても虐待性は認められるとは思いますが、前者は親自身も受験対象となることもあるようですし、後者に至っては一部で中学受験化していることもあるとはいえ、一般的には親の関与は大きくありません。

このように中学受験は親の関与が高いと同時に、いかに子に勉強をさせ成績を上げるのかということが重大案件になりますので、結果的に過度の勉強をさせることにつながっていくことは容易に想像が出来るわけです。私自身もその落とし穴にはまりそうになったこともあり、今でも上の子に咎められることがあります。私自身は受験とは相性が悪いというか、努力をしないのがダメなんでしょうが、うまい結果ではありませんでした。子には自分よりも難易度が高い学校へ合格してほしいという一心、つまり自分の失敗経験の名誉回復を子に託すという無茶苦茶なことをしそうになったわけです。

幸い途中で気がついたので過干渉はやめたのですが、それでも上の子には辛い思いをさせたかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。とは言いましても、中学受験の骨格形成を担うことの多い進学塾は、塾生の成績向上による難関校合格こそが業績を左右することになるので、そんな家庭の事情なんてお構いなしに過度のカリキュラムを半ば強制的に提供してきます。

私は今、進学塾に対してやや批判的に書いてしまっていますが、実は勉強をたくさんしたからと言って難関校に合格できるわけではないという現実は、進学塾こそよく知っているはずです。努力を継続するということも含め、勉強にも先天性の要素がかなり影響します。もちろん子はまだ発達段階ですので、これから伸びていく子もたくさんいることでしょう。

小学校6年生において、今のその子にとって、学力のほか性格なども含めて適した学校に入学させることこそ、親が本来すべきことなのです。偏差値の高いより難関な学校に押し込むことではありません。一方、塾はその反対で、偏差値の高いより難関な学校へ塾生を合格させることこそ、彼らの本業です。親と塾では目的が一部重なりながらも、見るべき到達点は異なるということになるので注意が必要なわけです。塾は塾として至極当然のことをしています。

成績が親の思い通りにならなくても、それも含めて自分の子です。そしてそれと同時に、子は自分とは人格が異なる存在です。子は子の人生を歩んでいます。親とは違って当然。教育虐待が原因の1つとなって事件が起きることがあります。とても悲しいことですが、ねじ曲がった親心なんて子には不要であり、私もそうなるところであったと猛省をしています。

親子であっても、それぞれがそれぞれの命において生きています。親子は縁が深くつながりも深いわけですが、そうではあっても別々なのです。個々が独立しつつも縁によって結び支え合っているというイメージが仏教的な命の見方です。子は親の所有物でもなんでもありません。親が立派だからと言って親のように立派になならなきゃいけないわけもなく、親がいまいちだからと言って親より立派にならなきゃいけないわけでもありません。

私は基本的には中学受験には賛成です。10歳前後で脳を鍛えることはその後の発達にも好影響を与えると思っているからです。また、10歳前後になると個性がより確立され、皆が同じような学校で大丈夫ということにはならなくなってきます。真ん中の子は地元小学校ではやや浮いたろところがあり心配でありましたが、今、そういう浮いてる子がたくさんいそうな学校に通っており、自分より浮きまくっているような仲間に出会えて楽しそうです。

親子であっても自分勝手な「思い」の押しつけは迷惑な話ですよね。

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2019年05月01日

令和を迎えまして

令和元年になりましたね。今朝お経をあげまして、静かな1日の始まりでした。目の前の松田山や大磯丘陵を眺めましても、あたりまえですが何事もなかったかのよう。自然にとっては太陽が昇り沈む1日、そして季節がめぐる1年は大事であっても、元号はどうでもいい話ですよね。しかし、元号に慣れ親しんでいる日本人からしますと、なんとなく新たな気分になるような気もするかもしれません。元号の歴史については詳しく知りませんが、そもそもは暦を支配するということからはじまり、吉祥を願っての使用であったと思われます。そういう意味においては、現代では前者は機能停止していると言え、後者のみが情緒的に機能していると言えるでしょうか。

私はあまり合理的な思考の人ではないのか、情緒的ではあっても元号にはそれなりに居心地の良いものを感じます。実際のところ、西暦との併用が一般的ではありますので、元号はなくても問題ないという意見もあるかもしれません。ただ、西暦はあくまでもキリスト教の信仰を基準とした暦ですし、普遍的とは言えないものです。だからと言って、いつから人が人としてのスタートを切ったのかは分からないわけですし、人文的に決めざるを得ないのもたしかです。天皇が象徴であるのであれば、それに直接連関する元号も象徴ということになるわけですが、未来を思い描きこうありたいという国民の願いの象徴とするならば、それを漢字二文字で表現するのはなかなか文学的に趣きが深いと感じます。

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2019年04月30日

鼻毛は伸びる、耳毛も伸びる

門徒さんとお話をしておりまして、東京に出るとどうも鼻毛が伸びるとのことでした。理由を聞きましたら、田舎住まいでたまに都会にいくと排気ガスに反応するからと。半分冗談のお話でしたが、なるほどたしかにそれはあるかも。都会住まいの方々の鼻毛が伸びているということではなく、違う環境に行くと身体的防御作用が働くということでしょう。あり得る話かもしれませんね。

私も鼻毛はよく伸びるほうなのですが、最近は耳毛。耳たぶではなく、入口あたりから数本ひょいひょいと伸びてくるんですよ。ご高齢の方でもいらっしゃいますよね、かなりロングな方。若い頃は生えないものなのでしょうか。良く分かりませんが、いずれにしても最近耳毛なのです。耳毛は何で伸びるのかなあ。上記鼻毛の理論から言いますと、排気ガスのような有害物質が耳に入ってこないため?!

耳は鼻と違って空気を吸い込む機能はありませんので、入ってくるものと言えば音です。有害な音を耳毛がかき消すということなのか。ボウボウになると遮音性高まるのでしょうか。しかし、どのように有害無害を判定するのか、とても不思議です。毛にそんな人文的なことが出来るとは思えないのですが・・・。むしろ逆に遮音性が高まると危険ですよね。

耳毛が生える理由はおそらく別のところなのでしょう。年を重ねたら周囲の音や声が聞こえなくなるようでは困ります。耳自体の機能も低下するでしょうし、むしろ聞こえたほうがいい。また、年を重ねて経験を積みますと、どうも自己中心的になりがちなのも私たちです。自分のやり方が固まってくるからでしょう。頑固になってしまう傾向はありますよね。であれば、むしろ耳毛は綺麗にカットしておいたほうが良さそうです。

周囲の声に耳を傾けることは、いつになっても大事なことだと思います。経験を積んではいても、それはあくまもで自分自身という狭い経験でしかなく、あまり頼りになるとは言い難いこともあるでしょう。年を取ればなおさら、家族の声にちゃんと耳を傾けるようでありたいと思うのです。たとえば車の運転もそうですよね。私は車が好きなので、ハンドルを手放すことが出来るか不安です。でも、耳を傾けていきたいと思っています。

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2019年04月27日

令和小学校になる

10連休ですね。お寺はあまり関係ありません。今日から気分だけ味わいたいと思います。娘が海外に行こう行こうとうるさいのですが、大人になったら勝手に行けと言っておきました。私だって行きたい。住職交代したら行こう。でもあまり行きたいところはなく、ハワイ別院とブータンぐらい。あと台湾。旅行は好きなんですが、前日になると急にめんどくさくなる性分なので、そんなに欲求はなく平穏です。

自分自身、放浪性はまったくなく、異様に土着性が高いと分析しています。故郷の中野には特別な思いがありますし、今いる大雄山周辺もいいとこだなあと思っています。ただ、中野はやや薄れてきたかなあ。ここ15年で随分と様子も変わったようですし、母校である上高田小学校も隣の新井小学校と統合され、あらたに令和小学校となるようです。ニュースでやっててビックリしました。こんなかたちで母校が出るとはねえ。

中野には母方の伯父が住んでいるのですが、たまには会いにいきたくなりました。
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2019年03月30日

学歴社会の難しさ

昨日、教育委員会辞令交付式に参列してきました。開式時間ギリギリになってしまい、毎度のことですが申し訳ございません。ご定年になられる先生方のほか、ご退職・ご転任になられる先生方が大勢来られていました。教育長の言葉のなかに、点数だけにとらわれる教育ではなく、その先につながっていく教育を目指すという内容がございました。私も賛同いたします。点数、つまりペーパー試験で良い点数を取ることは、児童・生徒にとりましては勉強の第一義とも言える事柄です。しかし、先生方や保護者からしますと、点数を重視しながらも、同時にそれ以上に児童・生徒の将来への展望を持たねばならない。教育の第一義は決して点数ではないと思います。

日本はある程度学歴社会ですので、たとえば一部上場企業に入社したければ、その会社が設ける学歴のフィルターを通過しなければなりません。また、今最も人気のある国家資格と言える医師になるためには、事実上、医学部医学科へ進学しなければなりません。私も大学で就職活動にあたる頃、父の勤務する会社もしくは関連会社の様子を父へ聞いたところ、悲惨なことに一蹴されました。ちなみに父のみならず母もその会社出身であり、かつ大伯父がかつて役員でありましたが、それでも私なんかではダメなのです。もしかしたら、業界として私には向いていないと父は考えたのかもしれませんが、学歴としてダメだともはっきり言われました。

こうしたこともあるので、試験で点数が取れるようになることは日本では意味あることになります。将来の目標が学歴に関与するのであれば、頑張って点数取るしかないでしょう。会社がなぜこうした学歴フィルターを設けるかと言えば、簡単に言えば手っ取り早いからだと思います。会社は教養があり、その会社にとって有為な人材が欲しいのですが、入社希望者の評価を一からやるとなると時間がかかって仕方がない。今までの経験からして、学歴で判断しても問題ないことが多かったので、多くの会社で学歴が入社判断の主要基準とされるのでしょう。ということであれば、それを否定するのは教育とは言えません。

ただし、ペーパー試験の出来不出来が人物評価の中心になるような社会は異常ですし、試験が得意だというのはその人のひとつの側面でしかありません。試験難易度の高い学校を出たからといって、その人が本当に社会にとって有為な人物かは計り切れません。社会で何をしたのかということのほうが重要でもあります。学歴フィルターは会社という小さな枠内であれば機能するでしょうが、社会は一部上場企業だけで成り立っているわけではないので、教育現場において、ペーパー試験だけに意識を注がせるような指導には関心出来ません。試験はあくまでも通過点であり、通過しなければならない関門ではありますが、それは将来、ひいては人生の目的でもなんでもない。

今も昔も、たとえば東大に何人入ったとか、東大東大とだけ連呼するような高校は、はっきり言って教育を放棄していると思えます。東大に何人入ったということが高校の評価になるならば、こんな簡単なことはない。東大に入るのは難しいことだけど、そういう学校にしたいのであれば、塾と同じことをすればいい。塾のノウハウを学校に注入し、大きく特待生枠を設け、入学試験を何回もやったりして有能な生徒を入学させることが出来れば、おそらく10年もすれば東大に合格する生徒が増えてくる。でも、それは塾がやる仕事でしょう。塾は教育を支えてはくれていますが、決して教育を主目的にしているわけではない。塾は営利が主目的であるのだから、東大に何人合格させたというのが宣伝になっていい。

しかしながら、学校は違う。私立学校でも学校法人であれば営利第一であってはならないはずです。もちろん、学校であっても経営していかねばならないので、生徒が集まらねば苦しい。集めるためにはどうするのか、誰でも思いつくことはいわゆる進学実績を上げることでしょう。保護者にとっては、出来れば高い実績のある学校に子を入学させたい。その実績のなかに子が入るかは未知なのですが、少なくともその学校に入学できれば、その権利を得たかのような錯覚に陥る。本当は子自身が入学後に努力をしなければならないわけですが、親というものは愚かなもので、そう思ってしまう。いい会社に入るためには学歴が重要だし、だから進学実績ばかりに目が行ってしまう。

何だか悪循環です。進学実績ばかりアピールする学校が増えたからなのか、それとも進学実績ばかりに目が行く保護者が増えたからなのか。この時期、学校別の東大合格者数が週刊誌やネットに出ますが、主観ですが昔よりも一部の学校に合格者が集中しすぎているような気もします。そりゃ成績優秀な学校はそれはそれでいいんですが、そのからくりは何なのかなあと考えますと、上記のような状況もあるかと頭に浮かんでしまいます。東大に子が入学できれば嬉しいことですが、無理に押し込んでも意味がないし、入学が目的になって欲しくない。その先がどうなのか、そこまで考えての東大であれば大いに応援するところだけど、東大東大とだけ連呼している学校は、ちゃんと生徒一人一人の将来も見据えて連呼しているのか、私には分かりません。

社会に出れば、自分が数値化されて評価されることもしばしばです。しかし、それはあくまでも便宜上のことであり、会社等の限られた範囲で許されていることでしょう。数値化が一般的となれば、これは恐ろしいことです。そんな社会にはなってほしくないなあ。そして、保護者として親としても、試験の点数などの数値で子の出来不出来を判断したり、そこばかりに目が行く子に育ててしまうことがないよう、気をつけたいとも思っています。皆さんの周囲にも、学歴はそれほど高くなくとも、立派だなあと思える人がいらっしゃることでしょう。人は多様性の塊です。学歴だけではない。私たちはひとつの側面だけを切り取って話題にしがちですが、少なくとも人に関することであれば、それは慎重になりたいものです。

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2019年03月25日

思い出補正

皆さん、「思い出補正」という言葉を知っていますか?これはネット上で使われ始めた言葉なので、あまり古いものではありません。しかし、なかなか言い得て妙だと思うのです。たとえば昔のアニメについて、どうしても幼い頃に見ていたアニメには思い入れがあるものです。現代のアニメと比べてみても、やはり昔の、あの時のアニメに勝るものはないと思えてしまう。今のアニメはあそこがダメだとか、ここががダメだとか次々に文句は出るのですが、昔のあのアニメは無批判に近くいいのひと言。

具体例を挙げれば、ガンダムの最初のやつと、最近のガンダムを比べるときなんかが当てはまります。明らかに古いほうが荒い部分が多いわけなんですが、それでも良い印象が心に焼き付いているのでしょう。私も聞かれれば、当然のように最初のガンダムのほうがいいと答えます。つまらない都合の悪い部分は忘れているんだと思います。その証拠に今、第1話からすべて観賞し直そうとは思いません。多分、つまらなくて第3話ぐらいで挫折することでしょう。たまに動画サイトなどで、面白い部分だけを観るからいいのかもしれません。

私は思考がネガティブなほうなので、物事を悪いほうへ考える癖があります。まあ、そもそも仏教ってのは楽天的な思考回路ではないので、生来の性格に加えて、仏教を学んだことも影響しているのかもしれません。良く言えば現実的であり、物事が奇跡的に上手く行くなんてことは考えもしないほうです。こんな私ですら、やはり「思い出補正」はかかるものなのです。不思議ですよね。過去のことになりますと、ネガティブな側面は忘却の彼方なわけです。

しかし、だからこそ生きていられるのでしょう。辛いことは忘れたいという思いは誰しもありますし、それをいつまでも昨日のことのように憶えていては辛さは増すばかり。うまく「思い出補正」されるように出来ているのです。冷静に考えて、補正がないと実際は結構ひどいもんだと思います。昔好きだった人であっても、おそらく今会わないほうがいいでしょう。補正されているからいいんです。年取れば昔と同じなわけないですし、幻滅するよりは補正のなかで楽しんでおくほうが得策でしょう。

仏教的に言いますと、それこそ自己都合の塊だということになります。現実直視が仏教なので、補正は意味がないということになりますが、そこは固いこと言わず、補正のなかで迷っているのが私であるならば、だからこそ救いの仏様はいらっしゃるわけですし、それでいいんだと思います。ネガティブ思考で、かつ原理原則を重んじてしまう頭の固い私ですが、少し柔らかくなってきたような気もします。インド仏教にはあまりない発想ですが、中国日本仏教においては、迷いも含めてあるがままを大事にする側面がありますので、それはそれでいいんだと勝手に納得するのです。

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2019年03月10日

無理すると苦しい

今日はちょっと法事が遅い時間なので午前中ひまです。

突然ですが、私は群れない方針で生きてます。単に友達少ないだけじゃん、ではなく。自慢星人なのでたくさんの人とつき合うと自慢疲れしてしまうからです。これを言い換えれば、あんま多様な人とつき合うとペースが乱れるから。大勢と知り合って会話をすることは大事なことだけど、どうも私には出来ない。だからいつまでたっても器ちっちゃいんだけど、「これでいいのだ」と最近開き直っているわけです。これでいいのです。

人生は苦だと仏教では説きます。なぜ苦しいのかと言えば、理に反して無理なことするから。無理とは理が無いことで、「そりゃ無理だよあんた」ってことでしょう。仏教では四苦と言いまして、生と老と病と死です。最後の死について言えば、「死にたくないって言っても、この世の命は有限だからねえ、無理ですね」となります。無理なこと通そうとするから苦しいことになると言うのは、たしかにその通りだと思います。まあ、普段から「それ無理それ無理」言ってると、やたら消極的でつまらん奴だと思われるから、あんま口にはしないほうがいいですが。

いずれにしても大人数は苦手で、なんでも少人数制がいい。バンドも人数少ないほうがいい。飲むのも少ないほうがいい。大人数だったら独りのほうがまだいい。すごい独善的になりそうだけど、もとよりそんな性格なので社交性があるとは言い難く、何事も独自路線になりがちで、結構な大失敗もするんですよ。誰にも相談しないから、ははは。でも、それでも自分で責任負えるようであれば、なんかスッキリしません?


私は会社勤めは難しかったでしょうが、坊さんだったらから何とかなっているだけかもしれません。お寺は多くの場合、とくに浄土真宗は家族でやっていくことが多いので、支えてくれる家族には感謝です。

人生は苦の連続で、それは自分で管理できるものばかりじゃありません。無理はしたくなくとも、無理しないといけない時もあります。誰でも無理はしたくない、そんなこと分かり切っていますよね。しかしその上で、しなくてもいい無理までしているのが私たちではなのかもしれません。辛いとこです。

私も大人数の飲み方にも出かけることありますし、色々な会や組織に属しているので、たくさんの方々とつき合うことは意外と多いほうだと思います。勉強になることも多く、多様なつき合いをすることは大事なことだと重々承知しています。そうではあっても、やはり群れないほうが自分にはしっくりきます。生き方に強いこだわりを持っているわけではありませんが、生きたいように生きたいと思うのです。難しいこともありますが、できればそうありたいと最近思っています。

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2019年03月06日

運転に出るその人の精神

車を運転しているとイライラもあります。小心者だから普段は大人しいけど、ハンドル握ると強気になってしまう。嫌ですよね〜。私です。不思議ですよね。人対人だとビビるのに、なんで車対車だと豹変するのか。車内にいるからか、外からは丸見えなんだけど。私のみならず、最近よくドライバー同士のトラブルがあるようで、皆でイライラが募っているのかなあ。

若いころ、やはり悪っぽくするのがカッコいいもんだと思ってました。バンドもやってたし、バンドの人って悪っぽく見える人多いでしょ。でも、いいバンドってのは、どこか真面目なとこがあって、チャランポランに見えても真剣にバンドやってるから曲もいい。主張や精神を精一杯歌詞にしたり、ギターやベースやドラムの求道者にようになっているのは、やっぱり真面目にバンドに取り組んでいるからだと思う。

私が好きなバンドって、着ているもの普段着なんですよ。派手な服装やメイクでいかにもロックスターってのも好きなんだけど(それはそれで真面目だから)、最終的には普段着バンドがいいようになったなあ。まあ、カッコの問題はどうでもいいんですが、心を打つのはそのバンドの精神に共感するからなんでしょう。人はやっぱり精神なんだと改めて思います。

車を運転するってことは、社会において結構重大なことです。下手すれば人命に関わるわけだし、真面目に取り組んで当然でなければならない。社会は多くの人々で成り立っているのだから、そのなかでの行動はチャランポランじゃ困る。固い言い方になりますが、運転だってちゃんと真面目に取り組まないといけない。大事なことに真面目になれるというのは、これはその人の精神によるところも大きいと思います。

マナーの良い運転は美しいし、何よりその人の精神の美しさを具現している。精神が美しいということは、チャランポランではなく真面目であって、初めて成し得ることではないでしょうか。そこに本当の格好良さというものはあるわけで、ちゃんとしているほうが余程カッコいいもんだと、昔々、母親に言われた言葉の意味がこの年になってようやく分かりました。

美しく、格好の良い運転を心がけたいものです。・・・とは言いましても、根が小心な私は運転でトラブルになったことはありません。少しばかり小心のほうが、むしろ良いこともあるかもです。

posted by 伊東昌彦 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii