2022年06月29日

暑い、境内掃除は朝

もう6月も終わりますね。しかし梅雨明けとは、正直驚きです。40度なんていう報道でも驚きなのに、もう梅雨明けとは。なんとも時代の変遷を痛感します。これが地球温暖化の影響なのかは分かりませんが、40年前、私が小学生だった頃と比べ気候が変わったことは確かなようです。こんな暑くなかったなあ。

地球の歴史を振り返りますと、何事も変化に対応できたものが生き残るそうです。しかし人は変化に対応するのが苦手でしょう。昔がよかったとか、前例にないからとか、そういうのとくに日本人好きそう。とくに私。選挙ポスターの掲示板を見ても、う〜む、なにかのタレントショーの案内かなと思ってしまいます。マジックショーとか。でも、これが今なんですよね。

仏教では諸行無常と説きまして、世の中は常に変化していると洞察します。あたり前と受け取れるかもしれませんが、敢えてあたり前を説くには理由があります。それは人が変化に鈍感で対応するのが苦手だからです。戒律も同じ理屈で説かれます。なかには守れそうにないものもある。嘘つくなとか。口だけじゃないですよ。心で嘘ついてもダメ。私には無理です。しかし、守れないから敢えて説くのです。これには抑止の意味合いもあるわけです。

今日も暑いので朝に境内掃除をしました。日中は厳しい。植木屋さんが入ってくれていますが、とても大変そうです。小田原の安藤造園さんです。いつも有難うございます。

境内の木々を見ていますと、本当に諸行無常を感じます。もうしょっちゅう落葉。いろいろな植物が育ってますので、種類によって落葉季節がバラバラなのです。真夏と真冬のほんの少しだけは何も落ちません。今は竹が終わりまして、銀杏の新しい葉の弱いところが落ちます。銀杏の葉っぱはやっかいで、泰山木と並んで集めるのが面倒な葉です。たいていのお寺には両方あります。

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2022年06月10日

お参り用の車

会社法人ですと、社用車としてメルセデスベンツやレクサスを購入することが出来るそうです。社長さんが得意先を接待することもあるでしょうし、ごくあたり前のことかと思います。社長さんがある程度豪華な車に乗っているということも、会社の信用に関係することでしょう。

宗教法人でも業者接待の必要性がないわけではありませんが、頻繁にはありません。そもそも商売をしているわけではないので、宗教法人にも商売という側面があるとはいえ、業者接待は宗教法人設立の本旨からは外れてくると言えます。宗教法人の本旨はその宗教を信奉する人々を教化育成し、さらに伝道布教に努めることにあるからです。

と言うことで、宗教法人ではお参り用の車を購入することは可能です。軽自動車の住職も多いですが、私は剛性の面で軽自動車にやや不安を感じるので、高速も乗ることを考えて小型車にしています。門信徒の皆さんを送迎する必要があれば、中型や大型の車でも購入が可能かと思います。ただし、メルセデスベンツやレクサスですと、必要以上に豪華と当局から指摘されることもあるでしょう。

私の場合、近所は山で急坂も多いのである程度のパワーがあり、なおかつマニュアル車であることが望ましいのです。四輪駆動であればなお良し。そして小型でないと狭い道に入れませんので、軽自動車並みのボディサイズが求められます。以前はヴィッツに乗っていましたが、やや大きかったです。門信徒の皆さんの送迎をすることはないので、乗車人数は2人でも4人でも問題ありません。

ちなみに車好きなので、外見にもちょっとこだわりがあったりします。まあ、二の次ですが。

こうした条件を完全に満たす車はなかなかありません。今、ある車を検討中ですが、四輪駆動の用意がされていません。お寺はそもそも急坂なので、雪が降ると二輪駆動だと完全にアウトです。う〜む、非常に悩んでいます。しかし、車は何を買おうか悩んでいる時が一番楽しい。ワクワクします。

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2022年05月31日

古いままで新しく

古くて権威的で威張っているお寺なんて嫌ですが、だからと言って柔らかすぎてもお寺っぽくないような気もします。住職がいつもTシャツ普段着ってのも、そりゃ親しみやすいかもしれないけど、それ以上ではないと思います。

アナログなお寺も今の時代遅れているように感じますが、だからと言って何でもデジタルってのも、う〜む、良いようで違和感あるかもしれません。心の安穏、さらに言えば魂の安穏というのは、果たしてデジタル空間で満たされるものなのでしょうか。

人がデジタル空間と直接接続される時代が来れば、それもあるかもしれません。しかし、その時代はまだ来ていません。いつか来ると思いますが、まだでしょう。

お寺であっても時代や社会に取り残されてはいけませんが、迎合するだけではお寺の持つ社会的意義は失われることでしょう。

古さっていうのは、ときに心の安穏、魂の安穏を満たしてくれるようにも思えます。古いままで新しくなっていくことがお寺には必要なのかもしれません。

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2022年05月20日

ブログは長文で読みにくい性分

最近ブログを書く間隔が長くなってきてしまいました。自分でブログ開設をしておきながら、普段あまり他の方のブログを読むことも少なくなっています。ブログは一方的に情報発信することに長けていますが、読者との交流という面では扱いづらさがあります。今はいろいろな方の意見がネット上で見られる時代です。ブログ開設者が提供する話題を読者同士で忌憚なく議論出来れば良いのですが、そういう役目はツイッターや掲示板に強さがあります。ブログをやる場合でも、ツイッターなどのSNSと連携したほうが良いとも言われます。

とまあ、よく言われることを書いてみましたが、このように長文になるのがブログの強い面でありながら、一方、時代的には長文は敬遠される傾向にあります。私も実際、あまり長い文章をネット上で読もうとは思いません。自分で長文書いておきながら変な話ですが、ブログは自己満足に陥りやすいということでしょう。

性格的に交流下手なので、こうした一方的かつ自己満足系の情報発信が好きと言えば好きです。今後も本ブログは続けます。しかし、本ブログが利用している「さくらのブログ」はどうやらブログには後ろ向きのようで、新規開設はもう出来なくなっています。あまり利用する人もいないのでしょう。仕方ないです。

私もスマホを見ている時間が長くなりましたが、スマホだと画面も小さいせいか長文は読みません。動画も3分以上のものは見ないと思います。元よりせっかちな性分なのですが、必要なところだけかいつまんで見ておしまいなのです。カップラーメンも3分が限界で、5分の赤いきつねであってもカタ麺状態で食べてしまいます。ウルトラマンも3分だし、なんだか小さい頃から3分というのに慣れ親しんでいるかのようです。

ツイッターは短文投稿なので、読み手としては私の性格にピッタリです。ただし短文を書くのが苦手で、どうもこう冗長になってしまいます。困ったもんだなあと、最近、思っています。

考えてみますと、実は経典も同じかもしれません。百巻とか五十巻といった大部の経典はたしかに専門家には必要ですが、人気のある経典は『阿弥陀経』一巻や『般若心経』一巻とか短いものです。声を出して読むのに適しているというのもありますが、あまり長いのも読みづらいですよね。途中で飽きますし。ははは

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2022年04月16日

オンライン併用にしてよ〜

コロナ禍において完全もしくは一部オンラインという状態が一般化しました。複数人が集う会議、そして机上で成立する授業はオンラインと親和性が高いと思います。もちろん人は相手を認識する際、平面的というより立体的に認識し、周囲の雰囲気も含めてコミュニケーションを図ります。ですから平面的なオンラインだけでは完全なコミュニケーションにはならず、上記のような会議や授業であってもオンラインだけで終始してしまっては成果は不完全です。直接リアルに対面して相互確認することを任意のタイミングで入れこむことは必須だと感じます。

しかしオンラインを導入して、対面しなくとも解決できる場面をいくつも発見できました。移動がないので時間をより有効に使うこともできました。大勢が時間と場所を揃えるのって、よく考えたらとても難しいことだったわけです。ただ、なぜか完全リアル対面にこだわる人もいます。私にはとても不思議でなりません。せっかく便利になったのになあ。オンライン併用が理想的なスタイルだと思うのですが、ダメな人もいるのでしょう。リアルで参加したい人だけ行けばいいじゃん、って思ってしまうのです。出不精なので。

ところでわが宗派はとても古い体質ですが、会議でのオンライン併用には対応が早くとても有難かったです。そして今後もオンライン併用でいくとのことで、おお、いつものパターンとは違う。どこか進化したのかと思っていたのですが、どうやら会議での交通費支給をしなくて済むからという理由らしく、ああ、それもそうだなと。たしかに費用面での効率は良いです。そこもオンライン併用の利点ですよね。わが家はたいてい中心地から遠いので、実際に交通費は比較的かかるのです。

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2022年04月14日

注射はいつも苦手です

4月14日付けのNHKの報道によりますと、「ワクチン接種でも得られるタイプの抗体については、いずれの都府県でも96%以上の人が持っていましたが、厚生労働省によりますと今回の結果からは発症や重症化などの予防に十分な免疫があるかどうかは分からないということです」とのことです。え?そうなの?

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220414/k10013581281000.html

先日3回目の接種を受けました。3回すべてファイザーです。1回目と2回目は副反応ほぼなし。3回目は12時間後に発熱が24時間ほど、ひどい倦怠感が48時間ほど続きました。似たような報道は以前にもあったかもしれませんが、もっと早く明確に報道して欲しかった。予防にならないんじゃ、素人的には意味ないかと思ってしいますねえ。

もうなんか手段と目的がひっくり返ってて、大丈夫かな厚労省。

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2022年04月08日

地元小学校の入学式に参列しまして

小中学校では要支援の児童生徒が増えていると聞きます。先日、役目で地元小学校の入学式に参加しました。校長先生からは、式における要支援の新入生への対応の説明がありました。要支援の新入生は数名でしたが、人員配置などかなりご苦労をされている様子が窺えました。この対応は6年間継続して行われます。この学校では最大で600名以上の児童がいた時期もあったそうですが、今はその半分の人数であるとのことでした。少子化ではありますが、要支援の児童生徒は増えているようです。

しかし、私には何故増えているのかが謎でした。私は団塊ジュニアですので多くの児童生徒がいる時代でしたが、私が小学生のときからまだ40年ほどしかたっていません。40年でそんなに生活や家庭環境に変化ありましたでしょうか。たしかに昔に比べれば、今は両親がともに就労することが多い時代ではあります。また、核家族化がより進んだというのも確かです。しかしこうしたことは後天的な影響にはなるかもしれませんが、先天的な要因にはなり得ません。要支援であることは先天的なものかと思います。

ただ1つ言えそうなことは、昔も要支援の児童生徒は多かったけれども、とくに支援されていなかったということです。私の通った小学校にも、今なら要支援だろうなあというクラスメイトが学年に1人いました。授業中に外出するのは日常茶飯事でした。しかし、特別な支援はされていませんでした。担任の先生はご苦労されていたかと思いますが、クラスメイトもそういうつもりで、一緒に何とかうまくやっていたように記憶しています。もしかしたら他にも今で言う要支援に該当するクラスメイトもいたかもしれませんが、あまり問題視されていなかったと思います。

昔に比べて今は支援が厚くなったというのが、もしかしたら要支援の児童生徒が見た目には増えたと言える要因なのかもしれません。支援があるということは有難いことです。ただ、その支援が本当に正しい方向性を持っているのかというと、それは少し考えるべき部分もあるかもしれません。そもそも皆で学校に行って、皆で同じ授業を受けて、ある一定の時間それに従って行動するというのは、よく考えれば誰しも出来るということではないでしょう。私も授業に集中するのは苦手なほうで、よくよそ見をしていて叱られました。もたないんですよね。時間が長くて飽きるのです。

学校というシステムは大人数を教育する上で極めて効率的ではありますが、人はそれぞれ性格も何もかも違うので工場生産のようにはなりません。どうすべきかは今の私には分かりませんが、何でも同じように当てはめていく方法には根本的な欠陥があるように感じます。このコロナ禍において、問題はありながらもリモート授業ということが試行錯誤のなか行われました。こうしたあり方は決して緊急避難的なものではないと思います。教育にはリアル対面でないと難しいところもありますが、部分的にはリモートも有益です。児童生徒の教育がもっと良い環境になっていくことを切に願っています。

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2022年04月01日

築地アカデミー

今年度は築地本願寺での築地アカデミーに出講します。総合研究所東京支所の委託研究員としてのお役目ですが、ここのところ研究離れなので楽しみです。お題は『無量寿経』と『正信偈』になりまして、学術的な側面から向き合ってみようかと思います。とりわけ『無量寿経』については、藤田宏達先生の『原始浄土思想の研究』(岩波書店)を久しぶりに読み直してみました。『無量寿経』の翻訳について詳しいのはもちろんですが、私は個人的に翻訳の背景に興味がありロマンを感じてしまうので、準備そっちのけで読み入ってしまいました。同時に船山徹先生の『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店)を読みますと、さらに翻訳作業の背景がイメージされてきます。藤田先生の本は古いので入手が難しいかもしれませんが、船山先生の本は最近のご出版なので手に入ると思います。経典翻訳にご興味のある方は是非、私のおすすめです。

船山徹著『仏典はどいう漢訳されたのか ‐スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年)

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2022年03月09日

民族問題と宗教問題は解決が難しい

ソ連が崩壊したのは高校3年から大学1年のあたりだったかと思います。小論文試験でソ連問題が出るとの噂があり、付け焼き刃で勉強したのを覚えています。結局出題されたのは物質主義関連であり、まったく当てが外れました。しかし大学時代も旧ソ連や東欧関連の話題は豊富で、国際法関連の授業(何だか忘れました)でのレポートでは東欧の未来についてレポートしたような気がします。もちろん平凡な出来でしたが、ソ連という頸木が外れた今、民族の坩堝であるこの地域がどうなるのか憂慮する本を読んだことが妙に記憶に残っています。そして実際、争いは耐えず現在に至っています。

ウクライナによるEU加盟申請にはEU内で慎重論があるそうですね。ウクライナはヨーロッパとは言えないとか。そんな理由があると報道されていました。いわゆるヨーロッパ人からしますと、スラブ人の国々は「違う」となるのでしょうか。そもそもスラブ人(Slav)と英語のslave(奴隷)が関係あるというのを最近知りまして、非常に驚きました。なるほど、そういうことかと。西方教会と東方教会というように宗教も異なりますし、西欧中心のEUからしますと、なかなか難しいということになるのかもしれません。

そして日本ですが、今に始まったことではありませんが、自国をどう守っていくのかは本当に喫緊の課題です。日本は欧米、とりわけアメリカと強固なつながりがありますが、もちろん欧米とは民族も宗教も異なります。日本人は民族や宗教という概念に疎いところがありますが、世界を見ればそれだけで戦争になるほど、これらは大きなファクターなのです。東アジアでは宗教は多重構造なので、東アジア内ではあまり宗教間対立は見られませんが、キリスト教やイスラム教の方々からすれば、間違いなく日本人は異教徒ということになります。

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2022年02月18日

境内の木々を小さくしています

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ここ数年、境内の木々を小さくしています。大きく育ちすぎまして、枝の落下が危ない状況になっているからです。今は本堂裏です。檀家様にいただきました伐採費用をもとに、数本を中井町のグリーンパームさんにお願いしています。

それにしてもすごい技術です。本堂より数メートル高いので、おそらく20メートルはあろうかと思うところまで登られています。下はお墓ですので、枝を落とすことができません。1本1本ロープで落下防止をしながら枝を切り落とします。素晴らしい。なお、高所恐怖症の私には絶対に無理です。

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2022年02月01日

打ち込める心こそ大事

2月1日になると自分の中学受験を今でも思い出します。獨協中学は今年、やや人気回復のようですね。OBとして嬉しいな。中高一貫校に行くと、地元友人との交流は薄くなりがちなんだけど、中高時代6年間の友人とは異様に濃くなります。今でも仲良し。

勉強はもちろん大事なんだけど、あの6年間で何かに継続的に打ち込める心を養えたならば、それこそ社会に出て強いと感じます。部活だけではなく、たとえばバンドとかゲームとかアニメでも、何でもいい。振り返れば、そういう打ち込める心を得たやつらは、まあまあ上手く行ってるかなあ。勉強はいまいちであったとしても。

私はちょっと最近その心が薄らいできたようで、自分でも心配です。今年は夢中になっていた自分を取り戻したいなと思っています。獨協中学を受験される諸君に幸あれ。と言いつつも、実は大学受験も今日ありまして、わが浪人中の娘にも頑張ってほしいと思います。

中高時代は楽しかったらしいけど、楽しすぎて勉強の仕方を忘れたようです。学校でたくさん教えてもらったはずなのになあ、何をしてんだかって思いますけどね。そんな娘も6年間打ち込むものはあったようで、それはそれで社会に出てからの糧になることでしょう。

ちなみに勉強に打ち込むのも大いに結構なことだと私は思います。

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2022年01月18日

学校は人間形成の場

私は地域のロータリークラブに加入しています。ロータリークラブは地域の経営者が集う、異業種間での奉仕と親睦の団体です。会社法人経営の方が多いですが、なかには私のような宗教法人経営や医療法人経営の方もいます。しかし経営を学ぶことが主目的ではなく、あくまでも地域や日本社会への奉仕、ひいては国際奉仕や世界平和がクラブの存在目的となります。言葉をかえれば、ロータリークラブ活動を通じて経営者としての倫理観を高め、職業を通じて人間教育を広めていく場とも言えます。

ロータリークラブには会員交流のために雑誌が発刊されています。この雑誌には全国各地のロータリークラブが紹介され、会員が誌面に登場することもあります。自分自身の職業の紹介であったり、様々な奉仕活動の報告であったり、ロータリークラブの会員として、他の会員の参考になる情報を提供しているわけです。

ある時、この雑誌に有名進学校の関係者の方が登場されました。ロータリークラブ会員とのことで、学校関係は会員としては珍しいので驚きつつ拝読しました。しかし、読み進めるうちに非常に残念な思いになったことです。学校での教育全般について話されていたのですが、力を入れられている部分がどうも東大合格者数のことなのです。ご自身が役職に就任されてから大きく飛躍したと。

たしかに近年は極めて多くの東大合格者を輩出している学校ですが、私が中学受験したときからも優秀な学校であったと記憶しています。なにもそこまで、しかもロータリークラブの雑誌で喧伝することなのか、非常に疑問を感じたことです。もっと教育者として人間形成をどのように考えているのか、社会へはばたく中高生をどのように育てているのか、そういう部分に力を入れて話をしてもらいたかった。たしかに東大合格者数が増えたことは結構なことですが、その価値観の掲揚こそが、今回の東大前での刺傷事件の一因になっているのではないでしょうか。

ロータリークラブは地域の高校と共同で奉仕活動をすることもあります。奉仕活動を通じて立派な社会人になってもらいたいと願うからです。東大合格者数を誇ることがロータリークラブの価値観では決してありません。そして学校というものは、勉強や学問を通じての人間形成の場であると私は信じています。

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2022年01月17日

刺傷事件、とても悲しい

東大前での刺傷事件の報に触れて思いました。ああ、そういう発想になってしまったかと。東大に行けとか医学部に行けとか、それが絶対善のように加害者が大人から言われたことも事件の一因なのは明白です。東大合格者数高校ランキングとか世に出ますし、まるでスポーツを観戦するかのように面白がる大人も多いでしょう。学校説明会で臆面もなく東大合格者数を喧伝する中学高校もあります。異常だと思います。塾なら理解できます。それが役目です。しかし中学や高校という学校は純然たる教育機関であり、東大合格者数で塾生を集めて増収を図る営利目的で存在しているわけではありません。塾だって教育の一端を担ってはいますが、学校とは目的が異なります。社会人として生きていけるよう教育するのが学校です。当たり前ですが、東大進学は手段でありゴールではありません。ゴールは社会人となり一人の人間として生きていくことです。

刺傷することは許されることではありません。まず被害者の方々の救済が先決なことは言うまでもない。そして一方、加害者はこの行為に真摯に向き合わねばなりません。加害者周囲の大人も同じです。加害者は来年東大を受けると発言していたそうですね。刺傷行為に対しては罪を償わねばなりませんが、同時にとても悲しく、加害者がとても可哀相に思えてなりませんでした。昨今の首都圏における教育熱の過剰ぶりには驚きを隠せませんが、教育を履き違えている大人どもは多そうです。

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2022年01月11日

人と人とのつながり

私が小学生のころ、今から40年ほど前の記憶をたどりますと、今よりも近所付き合いというものはあったように感じます。密閉性の低い住宅であったかもしれませんが、近隣の生活音はごく当たり前のように耳に入ってきました。繁華街からは距離のあるせまい住宅地育ちです。夏になれば扇風機しかないので窓は全開放。夫婦喧嘩や酔っ払いの声も記憶にあります。近隣の夕食の支度も分かります。物理的のみならず精神的にも近隣と距離が近かったからでしょうか、お裾分けをいただいた記憶もあります。留守にするときはお隣さんに声かけして留守を告げました。う〜む、今ではちょっと考えにくいかなあ。むしろ言わないですよね。見方によっては留守を公言しているようなものですから、防犯上問題だと考えてしまいます。しかし、その当時はそれが防犯であり、必要なことだったのだと思われます。目に見えるつながりによって助け合っていました。

人と人とのつながりというものは、現代人にはかなり薄れたと言われています。インターネットでつながることはあっても、現実世界で実際に上記のようなつながりは稀かもしれません。助け合いの精神はどんな時代であっても必要だと思います。しかし、助け合いの精神というものは、必要であるから自然発生的に人と人との間に湧き起こってくるものです。現代人に助け合いの精神がないかと言えば、それはまったく違います。そもそも社会というシステム自体が助け合いの構造になっていますし、単独で生きている人はいません。防犯のために声掛けをしていたものが、今は住宅の防犯設備の性能が向上したり、警備会社も一般家庭へ普及したことにより、助け合いの方法が変化しただけです。それは商売だからと言うかもしれませんが、商売だって助け合いの精神から出てきたものでしょう。売り手だけ満足していては商売になりません。買い手だって世間だって満足するから商売なのです。経済の語源は経世済民です。

食生活の変化もあってか、お裾分け文化は風前の灯火と言えそうですが、それはつまり生活のなかで不要になってきたからに他なりません。助け合いの精神が消えたわけではなく、かつてに比べて人の心が荒んできたわけでもなく、そもそも生活スタイルが変わったのです。たとえば夫婦二人であっても、ともに同じように仕事を持っていることが多くなりました。料理に費やす時間も多くは取れず、一方、食材を少量で買い求めることが出来るようになり、余分に作るということが非効率になった影響は大きいでしょう。それは決して否定されることではなく、むしろ社会の助け合い精神が発揮されていると私は思います。色々と生活スタイルに合うよう便利になりました。かつての真似事をして形式的に助け合ったところで、不要であれば続きません。助け合う精神、人間性というものは、実生活のなか、とりわけ経済や仕事を通じてこそ求められなければならないものです。

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2022年01月03日

2022年になりました

皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。神奈川県西部は雪とはなりませんでしたが、年末からかなり冷え込んでおります。除夜の鐘も例年より寒さを感じました。

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毎年、とくに個人的な目標は立てませんが、何となく1年たつと変化を感じます。ダラッと過ごしているからかもしれません。敢えて言いますと、老眼がひどくなりまして読書に難儀しています。自分自身で信じがたいことですが、祖父の残した昭和っぽい虫眼鏡が役立つこともあります。

あとは、願いというほどではないのですが、浪人中の娘の進学先が決まればなあとは思います。個人的にはそんなところですが、早く新型コロナウイルスが収束してくれることは常に願っています。 

皆様のご多幸をお念じ申し上げます。 合掌

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2021年12月31日

ジョウビタキがかわいい

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本年はお世話になりました。来年も精進いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

さて写真はジョウビタキです。境内にはカラス、鳩、スズメのほか、ヒヨドリやセキレイ、そしてこのジョウビタキを見かけます。問題児のヒヨドリ(夏場に本堂で大暴れする)とはちがい、とても人懐っこく近くでおとなしくしています。かなり接近しても逃げないので、こうしてスマートフォンで撮影できます。かわいいですね。

合掌

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2021年12月29日

銀杏もようやく落葉

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まだ少し残っていますが、ようやく落葉しました。ここ数日の寒波の影響もあったと思います。しかし年々遅くなっているような気もします。やはり温暖化なのでしょう。

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2021年12月12日

銀杏が黄葉しました

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境内銀杏が黄葉しました。十数年ほど前に枝を剪定しましたら、その後、黄葉しなくなってしまいました。ようやくここまで回復です。それにしても時期が遅くなりました。温暖化なのでしょう。今日も比較的暖かいですね。

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2021年11月02日

国語は総合的かつ基礎的な科目

また電車で通り魔事件が起きました。電車は密閉された公共ですのでよく考えれば危険は多い。幼少からあまり気にせず乗車していましたが、それは公共の安全が一定程度の水準で保持されていたからですね。日本人はこの公共という意味合いについて、再確認したほうが良いかもしれません。

ところで犯人ですが、こうした輩は小学校のころどんな勉強をしてきたのかなあ。不遇であったのか事情は分かりませんが、国語の教科書を読んで勉強したことはあるでしょう。その中には物語もたくさんあったはずです。小学校の国語は総合的な科目です。物語の登場人物を通して道徳を学ぶことも出来ます。

名作と言われる物語には、多く人間同士のトラブルが描かれています。教科書には名作が多く掲載されています。小学校は人間教育の基礎だと私は思います。中学も高校も人間教育の場でしょう。教科勉強だけではありません。学校の先生には、人間教育をしているんだという矜持をさらに持ってもらいたいなあ。

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2021年10月14日

伝統という言葉に潜む実態

伝統って何なんでしょう。すごく抽象的で分かりにくい。もう少し具体的に、日本の伝統とは。さらに分かりにくい。では、わが家の伝統となりますと、う〜む、教育を大事にするところ・・・、と思いつきましたが、これは単に父親の考えで、それを私が継承しただけかなあ。父方の祖父祖母も同じ考えだったかもしれませんが、直接聞いたことがないので本人たちの考えまでは分かりません。つまり、わが家の伝統だと感じつつも、ひも解いてみればせいぜい2代〜3代前のことであったわけで、年月としては案外浅そうです。

わが家のことは置いておきまして、では日本の伝統となるとどうでしょう。日本の歴史は長そうですし、そもそも国家なのでわが家よりも伝統が具体化していそうです。日本の伝統を大切に、という言葉も巷にはあふれかえっています。でも、ひと言では言い表せません。伝統芸能とか伝統工芸とか、政治とか宗教とか様々ありますが、1つ言えることは、いずれもどこかの時代で誰かが何かしら「まとめ」ている事柄を、現代人は伝統だと感じているということです。これはわが家の場合と同じです。

私たちが伝統だと感じている事柄には、由来のよく分からない自然発生的な要素も含まれますが、構成は異なります。構成は誰かがこしらえているのです。たとえば神話を伝統とするならば、神話は語り継がれた要素を含んでいるものですが、どこかで誰かがまとめているから神話となって今に伝わっています。当然、まとめた人の主観、敢えて言えば思惑が入って構成されています。いらないと感じた要素は切り捨てられています。それを後代の私たちは伝統だと思い込んでいるわけです。伝統という言葉は便利なものですが、意外と要注意だと私は思っています。

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