2019年03月10日

無理すると苦しい

今日はちょっと法事が遅い時間なので午前中ひまです。

突然ですが、私は群れない方針で生きてます。単に友達少ないだけじゃん、ではなく。自慢星人なのでたくさんの人とつき合うと自慢疲れしてしまうからです。これを言い換えれば、あんま多様な人とつき合うとペースが乱れるから。大勢と知り合って会話をすることは大事なことだけど、どうも私には出来ない。だからいつまでたっても器ちっちゃいんだけど、「これでいいのだ」と最近開き直っているわけです。これでいいのです。

人生は苦だと仏教では説きます。なぜ苦しいのかと言えば、理に反して無理なことするから。無理とは理が無いことで、「そりゃ無理だよあんた」ってことでしょう。仏教では四苦と言いまして、生と老と病と死です。最後の死について言えば、「死にたくないって言っても、この世の命は有限だからねえ、無理ですね」となります。無理なこと通そうとするから苦しいことになると言うのは、たしかにその通りだと思います。まあ、普段から「それ無理それ無理」言ってると、やたら消極的でつまらん奴だと思われるから、あんま口にはしないほうがいいですが。

いずれにしても大人数は苦手で、なんでも少人数制がいい。バンドも人数少ないほうがいい。飲むのも少ないほうがいい。大人数だったら独りのほうがまだいい。すごい独善的になりそうだけど、もとよりそんな性格なので社交性があるとは言い難く、何事も独自路線になりがちで、結構な大失敗もするんですよ。誰にも相談しないから、ははは。でも、それでも自分で責任負えるようであれば、なんかスッキリしません?


私は会社勤めは難しかったでしょうが、坊さんだったらから何とかなっているだけかもしれません。お寺は多くの場合、とくに浄土真宗は家族でやっていくことが多いので、支えてくれる家族には感謝です。

人生は苦の連続で、それは自分で管理できるものばかりじゃありません。無理はしたくなくとも、無理しないといけない時もあります。誰でも無理はしたくない、そんなこと分かり切っていますよね。しかしその上で、しなくてもいい無理までしているのが私たちではなのかもしれません。辛いとこです。

私も大人数の飲み方にも出かけることありますし、色々な会や組織に属しているので、たくさんの方々とつき合うことは意外と多いほうだと思います。勉強になることも多く、多様なつき合いをすることは大事なことだと重々承知しています。そうではあっても、やはり群れないほうが自分にはしっくりきます。生き方に強いこだわりを持っているわけではありませんが、生きたいように生きたいと思うのです。難しいこともありますが、できればそうありたいと最近思っています。

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2019年03月06日

運転に出るその人の精神

車を運転しているとイライラもあります。小心者だから普段は大人しいけど、ハンドル握ると強気になってしまう。嫌ですよね〜。私です。不思議ですよね。人対人だとビビるのに、なんで車対車だと豹変するのか。車内にいるからか、外からは丸見えなんだけど。私のみならず、最近よくドライバー同士のトラブルがあるようで、皆でイライラが募っているのかなあ。

若いころ、やはり悪っぽくするのがカッコいいもんだと思ってました。バンドもやってたし、バンドの人って悪っぽく見える人多いでしょ。でも、いいバンドってのは、どこか真面目なとこがあって、チャランポランに見えても真剣にバンドやってるから曲もいい。主張や精神を精一杯歌詞にしたり、ギターやベースやドラムの求道者にようになっているのは、やっぱり真面目にバンドに取り組んでいるからだと思う。

私が好きなバンドって、着ているもの普段着なんですよ。派手な服装やメイクでいかにもロックスターってのも好きなんだけど(それはそれで真面目だから)、最終的には普段着バンドがいいようになったなあ。まあ、カッコの問題はどうでもいいんですが、心を打つのはそのバンドの精神に共感するからなんでしょう。人はやっぱり精神なんだと改めて思います。

車を運転するってことは、社会において結構重大なことです。下手すれば人命に関わるわけだし、真面目に取り組んで当然でなければならない。社会は多くの人々で成り立っているのだから、そのなかでの行動はチャランポランじゃ困る。固い言い方になりますが、運転だってちゃんと真面目に取り組まないといけない。大事なことに真面目になれるというのは、これはその人の精神によるところも大きいと思います。

マナーの良い運転は美しいし、何よりその人の精神の美しさを具現している。精神が美しいということは、チャランポランではなく真面目であって、初めて成し得ることではないでしょうか。そこに本当の格好良さというものはあるわけで、ちゃんとしているほうが余程カッコいいもんだと、昔々、母親に言われた言葉の意味がこの年になってようやく分かりました。

美しく、格好の良い運転を心がけたいものです。・・・とは言いましても、根が小心な私は運転でトラブルになったことはありません。少しばかり小心のほうが、むしろ良いこともあるかもです。

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2019年03月01日

修正する力

私は結構しばしば、よく間違いをします。昔は間違いをするのが嫌で、なかなか認められなかった。よくいるじゃないですか、そういう阿呆な輩。根拠のないプライドばかり高くってねえ、甘えん坊さんなんですよね。周囲に甘えていたんだと思います。甘えられるのっていい。とても楽。お陰様ですね。

とは言いましても、甘えられる周囲はたまったもんじゃありません。両親や友人、女房(坊守)はとても迷惑だったと思います。しかし40歳も過ぎたころ、周囲を見渡せば甘えられる人も年を取り、女房もいい加減にしろと言いたげな雰囲気を醸し出すなか、ようやく間違えを修正する方法を見出しました。

すごい簡単でした。周囲の人の話を聞くだけ。昔から自己中だったので、とにかく自分本位でした。大事なことも勝手に気分で決めたり、間違いを指摘されれば逆ギレ連発。うわっ出た、最悪なやつ。しかも酒癖悪いとくれば、私でも付き合いたくないと思えてしまう。ははは、こんな人嫌ですよねえ。

宇宙なんて間違いだらけだと思います。間違えるから進化があるのでしょう。間違えを放置しないで即座に修正できるから宇宙が成り立っているような気がするのです。修正する力が働くからこそ、何事も万事進んでいくのではないでしょうか。間違えたら修正すりゃいいんですよ。意外と簡単なことでした。

30代はなんだか生きづらいなあと思えるときもあり、座りの悪さを感じる日もありました。そういうのは結局自分自身の問題であり、自業自得という仏教の教えが身に沁みます。大事に育ちすぎてしまったのか、両親の慈愛に溺れていたのかもしれません。しかしまあ、何という成長の遅さ。呆れますねえ。

修正する力こそ進化の原動力なのだと思います。そのためには傾聴ですね。

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2019年02月08日

児童虐待の報に接して

児童虐待が増えているとの報道が今朝ありました。以前も聞いたことです。歴史的に見れば減っているとも言えるのかもしれませんが、現代的には増えているのは明白でしょう。報に接するたびに大きな憤りを感じます。仏教では阿弥陀如来の慈愛を親に譬えることがあります。如来は利他そのものですから、自分を省みないような親の愛をそこに見るのです。しかし、やはり如来と人とでは大きな違いがあります。あたり前のことですが、どんな親でもかつては子です。人はいつになっても経験から抜け出せないところがあります。如来はそうした過去の経験をすべて捨てているわけですが、人はそうはいきません。子であったときに受けた何らかの影響というものが、親になったときの行動指針になっていることは誰でも思うことでしょう。どんなに親が嫌いであっても、同じような親になってしまうということもあるようですし、それこそ経験から抜け出せていないことの証拠だと思います。

私もそうです。父の口癖は「勉強しろ」でした。私は父のように優秀ではなかったので、申し訳ないという気持ちと同時に、こういう親にはなりたくないものだと密かに思っていました。しかし今、私は子に向って「勉強しろ」です。なんだ同じではないか。酒ばかり飲んでいる父でした。ああはなりたくないものだと学生時代に思ったものですが、ああ、今日も酒飲みたいなあと思ってます、酒量は違いますが。基本的にはなかなか変わらないのが遺伝子なのか、良く分かりません。顔や声、仕草も似ているようです。

野田市での事件の父親は、いったいどんな家庭環境だったのでしょう。調べる気にもなりませんが、何かあったんだろうなあと思います。亡くなった子のことを思うと胸が張り裂けそうですが、こうした悲しい事件を少しでも減らすためには、児童相談所の充実や法整備はもちろんですが、基本は家庭環境の向上でしょう。景気が悪くなればこうした事件も増えるわけですが、それでもなお家庭環境を悪化させないため、国はもっと予算を割いてもらいたいものです。子は宝なんだと日本人は長年思ってきていること、今こそ忘れないでもらいたい。

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2019年02月05日

2月になるとわが母校

どうもこの時期、2月になると自分や子の受験を思い出してしまいます。何だか最近の受験は長丁場らしく大変です。私なんて獨協立教学習院でおしまい。いずれの学校も今より難しかったんですよ。立教や学習院なんて四谷大塚で言えば60前後はあったんじゃないかなあ。青山学院の女子なんて桜蔭やJG並みだったような気が。今、再び付属校人気らしいですが、小学生も大変。

なお獨協も今より10ポイント以上偏差値良かった…、と思う。先日、獨協中高の仲間と飯田橋で飲みまして、どうも獨協中高の経営はいかんねえという話になりました。偏差値ガタ落ちなんです。仲間は皆小規模ながら経営しているので興味があるんだと思います。私も一応、経営者の端くれなのですが、寺は会社に比べればのんびりしたもんです。住職であっても他業種の方と交流するのは価値あることでしょう。

学校もお寺も、時代とともに変化しないと置いてけぼりです。獨協中高はドイツ語を学ぶ学校が前身なので、かつてはドイツ語クラスもありました。でも今ではドイツ語の需要はあまりなく、ドイツ語クラスも消滅です。自由な校風で生徒の自主性が重んじられる学校でもありました。時代が変わりまして、ドイツ語という特徴がなくなった学校はカラーのない学校へ、そして進学実績を上げるため管理教育へ。

わが母校ながら、時代に乗るのが巧いとは言えないかなあ。ドイツ語の需要がなくとも、それが長年の特色であるのだからドイツ語教育を前面に出すべきだと思うし、今風の管理教育なんて伝統私立校には上手くできないでしょう。だって先生の顔見ても懐かしい顔多いんだから、そりゃ無理な話じゃなかろうか。ドイツは今なお学ぶべきところがある国だし、仮に日本でドイツへの興味が薄れていたとしても、それを逆手に取ってさらなる特色にしていけばもっと注目されると思うんだけど、気のせいか。

お寺も同じとこあるかもしれません。何でも今風がうけるわけでもなく、長年大事にしてきたところに、さらに磨きをかけるべきなのかと、わが母校の現状から学びました。有難う獨協中高!復活に期待!!

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2019年01月12日

ストレスフルな坊さん

40代ってのはどうも悩み多いですね。20代は親に甘えて、30代はいきがって、40代になってへこんでます。幸い子を授かったので子の進学、両親も幸い健在なのですが健康不安、おまけに肝腎の寺院経営も不安定と、皆さんも同じだと思いますが、これで50代さらに60代はどうなってしまうのか。もとより性根がないというか、フラフラしがちな性格で、そうかと思えば自己主張好きという困ったちゃん。主体性をもって生きているつもりなんですが、どうも人のことも気になるという、扱いにくい野郎なのです。女房も大変だろうなあと思います。そして実際大変そうだ。

先日、箱根であった新年会でのこと、お隣の方と話をしていまして、「ホントの話、ストレス解消って酒以外に何かあります?」って話題になりました。ないんですよね。マジでないんです。そりゃ色々とご意見あろうかと思います。スポーツやれば?とか。ぜんぜんやる気になんかならないし、わざわざ時間作るのもねえ。だったら一杯やるわってなっちゃう。でも飲み過ぎはよくないし、最近どうも二日酔いが激しくて翌日もよくない。ストレスあるから酒も進んでしまう。絵に描いたような悪循環。

仏教は本来出家主義なので、こうした世俗浮世のことは捨てて、修行に邁進するのが解脱への道だと説きます。まったくその通り。でも浮世離れしてしまっていて、これじゃあんま普通の人の悩みに応えることができない。途中から大乗仏教ってのが出てきて、これは利他を強調するのですが、普通の人が救われていく道も説くようになった。出家も大事なんだけど、在家にも注目が集まるようになって、日本仏教では在家主義も根づくようになった。浄土真宗の坊さんは出家しないから在家なんです。つまり私は坊さんでありながら普通の人で、浮世どっぷり坊主なのでした。

坊さんが修行のストレスならまだしも、日常生活や家族のことでストレス抱えるなんて笑っちゃうけど、日本仏教ではむしろ現象としてよくあることなのです。日本仏教は浮世において仏教しろって言うわけだから、意外と難しい面もある。坊さんが法衣のまま車運転して反則切符とか何とか話題になったけど、すごく浮世で笑えない。私も葬儀会館や火葬場行くのに運転するから。でもまあ、法衣のうえに作務衣でも羽織って、なおかつ運転用のスニーカーでも履いてれば問題ないので、ご当人は気の毒だけど、安全面も考えてこうすることにしました。すごい浮世。

でもこれ大事なことで、だから日本仏教はダメだとか、そういう意見には意味がない。出家主義が日本には根づかなったいことは事実だし、性に合わないんでしょう、日本人の。お釈迦様の説かれたところとは違うんだけど、それもまあいいんじゃないかと思います。日本仏教はこうして成り立ってるんだから、それでそのまま行ったほうが意味あることだと思う。宗教ってのは流れも大事だし、急に上からああだこうだと言うのは宗教として危険。上から目線の宗教ほど危険なものはないので、それは控えるべきでしょう。

現在はツイッターのような短文傾向ですが、どうも短文で表現できるほど国語出来ず、いつも長文化してしまいます。ツイッターで発信する人って俳句や短歌に強いと思うなあ。私は苦手だけど。センスあると思う。で、今回は何を言いたかったかというと、今年もストレス解消に悩みそうだなあということでした。好きなことやるのが一番なんだけど、ストレス多いときって、どうも好きなこともやる気にならないことあるので、早めにやってしまうのがいいかも。今、任天堂DSのファイナルファンタジー3やってます。毎年やろうやろう思って買ってあったんだけど、ぜんぜん進んでなかった。

でもこれ、リメイクなんだけど基本古いRPGだからか、レベル上げを意識しないとクリアできないから大変。昔、獨協中高時代の友人K君が中2か中3の頃これやってて、あまりにも理不尽な難度に憤慨し、コントローラー投げる程度ならいいものの、本体のファミコンを破壊したという逸話があります。ラストダンジョンの難易度はリメイクで下がったようですが、気持ちは分かります。その彼も、いまでは立派に飲食系のご家業を継いで、六本木で獅子奮迅の活躍を見せています。中学のころ、K君の家によく遊び行って(六本木だからか妙に大人になった気分ww)近くのゲーセン(たしかスクエアビルの1F)でストリートファイターをやった。ストUじゃなくて初代のやつね。しかも思い切り手で叩くっていうアレ。K君うまくてねえ〜

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2018年12月12日

おじさん的な感動の仕方

皆さん、『マイティジャック』という特撮をご存知でしょうか。『マイティボンジャック』ではなく、円谷プロ制作のほうです。私はウルトラマンな世代(しかも幼稚園でタロウかレオがリアルタイム)なので、名前しか聞いたことなかったのですが素晴らしい作品ですね。発進するとこが『宇宙戦艦ヤマト』のようで、私はヤマトのオリジナルかと思っていましたが違いました。また、『Thunderbards』のあと数年で作られたらしく、これまた凄いなあ。

おじさんになったせいか、どうもCGばっかりだと感動が薄れるんですよね。CGも好きなんですが、質感はまだ本物にかなわないですし、作り物感があふれていても特撮のほうが感動してしまう。なんでかなあ、CGだって製作している人は大変な努力をしているはずなんだけど、特撮のほうがそれが伝わってくるですよね。まあ多分、私がそういう世代だからなんでしょうが、心が伝わりやすいってとこもあるかなあ。おじさん達の努力がにじみ出ている。

心の伝わり方ってのは、おそらく世代によってかなり違うんでしょう。最近は他にも、ファミコンで高度なグラフィックを実現していたゲームに感動しました。おじさん的な感動の仕方だと思います。
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2018年12月02日

電話嫌いになっている私

堀江貴文さんは電話嫌いなようで、何かの記事でそう仰っていました。私の記憶によりますと、たしか一方的に電話かかってきて、いきなり貴重なマイ時間を占拠されるからというような理由だったと思います。う〜む、なるほど、たしかにその通りの側面はあるわけで、実は私も中年になってから電話不得意です。メールに慣れてしまったからでしょうか、電話で要件をいきなり前触れなく言われますと、その瞬間での回答に窮してしまうことがあるのです。折り返し電話すれば良いのでしょうが、だったらメールや何かのほうがいいのになあと思ってしまいます。

中高時代、とにかく電話大好きでした。友人の電話番号、まだ二人分は完璧に憶えています。なんとその番号は東京03のあと、4ケタではなく3ケタになりますので、随分昔のことになるなあと感慨深い思いがします。やたら深夜まで電話。用事なんてないんですよ。今からカップラーメン食べるとか、あ〜つまんね〜、とか互いに言ってるんだからアホかと思いますよね。電話代もかかるので親にはよく叱られました。とにかく今じゃ考えられないほどの電話好きで、まあ、今は娘もラインの無料電話で同じような状態なので、若い頃はこういう状況になる人はある程度いるのかもしれません。

ちなみに坊守(=女房)は電話嫌いで、彼女が20歳だか21歳で私がその3つ上という時分に知り合ったのですが、とても迷惑そうでした。そんな私ですが、今じゃすっかり電話しない派になってしまい、なんでもメールかメッセンジャーかラインかって具合なんですから、年取ると性格変わるんだなあと感心します。言い換えれば、色々と考えないといけない状況や条件が多くなって、若い頃のようにほぼ何も考えず瞬時に回答することが出来なくなったのかもしれません。嫌ですね〜、今日ヒマ?と聞かれ、ヒマに決まってんだろ、と返答していた時代が懐かしく思えます。

ちなみにお寺の場合、ヒマなんだけどヒマじゃないというのが多く、ホントは今も結構ヒマなんですが、出かけるわけにもいかないので、ヒマに決まってんだろ、とは言い難いわけです。

メールなどに慣れてしまうと、たしかにいきなり重要人物から電話かかってくると焦ります。携帯だからこっちは移動中だったり、ほら、用を足している最中とか、色々な状況あるじゃないですか。焦って出ても即回答しないでいいような内容だったりすると、だったらメールしといてよね、と思ってしまうことしばしばです。ただ、メールなどもまだまだ全世代に浸透しているわけではないので、メールアドレス公開していてもメール見ない方もいます。個人的には見ないのであれば教えないでくれと思うのですが、これは仕方のないところでしょう。たまに見るとか、そういう使い方もないわけではないでしょうし。

堀江貴文さんの意見に触れまして、今まであたり前だと思っていたことが、実はよくよく考えてみると変じゃない?ってこと、結構あるもんだなあと思いました。あたり前の毒とも言えるでしょうか、物事、それがあたり前だと思ってしまうと思考停止してしまいます。私は堀江さんと同年代ぐらいだと思うのですが、この年でああいう思考が出来るのって凄いなあと思いました。私なんてもう凝り固まってしまい、新しい思考って出てこないんですよね。前例踏襲になってしまい、頭のなかがまるでお役所。それはそれで問題なく進むには都合いいんでしょうが、まったく斬新ではなくなりますよね。新しいものを受け付けなくなっている私ですが、今こそ、何か新しいものにチャレンジすべきではなかろうかと、思うだけ思っています。

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2018年11月08日

子を導くことの難しさ

ここ数年のことなのか分かりませんが、最近、主として公立中学校での運動部のあり方に注目が集まっています。簡単に言えばハードすぎるということです。休みは週1回というレベルなようですね。かく言う私は思い切り文化部な人なので、運動部事情は分からないわけです。文化部でも演奏系はハードらしいのですが、私はぜんぜん生物部。夏休みの餌やり当番はハードでしたが、もちろん気楽なものでした。顧問の先生はほぼいない状態でしたので、色々と自分たちでやりたい事考えて、結構楽しかったなあ。とまあ、繰り返しますが気楽なもんでした。

学校でのスポーツは教育の一環だということが、大学スポーツの問題に関係して再確認されたことは記憶に新しいことです。スポーツには勝敗があるものですが、観客に技術や戦略の高さを見せるプロでないのであれば、むしろ勝敗は価値として半副次的なものと言っても良いかもしれません。ましてや中学生において、まだ体格的にも成長過程にあるにも関わらず、勝利至上主義のもと部活動をさせるというのは、自主運営文化部、そして部活ではなかったですがこれまた自主運営バンドで青春していた私からすると、なかなか別世界に思えてくるのです。

おそらく運動部の方からしますと、その部活動から培った精神というものは貴重であり、社会に出てからも大いに役に立つということになるのでしょう。そして実際、社会のリーダーであるような方々にはスポーツマンの方が多く、立派だなあと思うことしばしばです。しかしどうやら、最近はあまりにも勝利にこだわりすぎたせいか、逆に中学生を苦しめているのではなかろうか、という見方が出てきているようなのです。昔の子と今の子を単純に比較することは出来ませんが、それでもなお、過度とも言える部活指導に苦しんでいるとのことなのです。

こうした部活には大人の指導者がいるでしょうし、保護者のサポートもかなりあるんじゃないかなあと思います。しかし、それでも問題視されている。生徒が自主的にほぼ毎日練習したいと言ってくるのか、問答無用で練習をさせているのか、もちろん個々のケースで違うことでしょう。しかし、中学生はまだまだ心身ともに成長段階にあることは間違いなく、直接であろうが間接であろうが、大人の指導があって初めて部活動が出来ているのは確かなことです。実のところ大人からすれば、中学生に「自主的発言」をさせるのは簡単なことだと思います。そう仕向ければ良いだけですから。

これは部活動に限ったことではなく、様々な習い事や受験塾においても似たようなことが言えると思います。たとえば私は子を中学受験させましたが、中学受験は完全に産業化しており、塾業者や一部の学校の扇動によって親は盲目的になりがちです。塾の用意した偏差値という、本来は学校のランク付けではないものが、あたかもランク付けのような存在となり、偏差値至上主義がまかり通っています。偏差値は志望校へ向けての勉強には役立ちますが、そもそも志望校は偏差値だけによって決めるものではないでしょう。とくに私立学校は独自教育をしているわけですから、偏差値だけで志望校を決めるのは奇妙な話です。

少しでも偏差値の高い学校へ子を入学させたい。こう思う親も多いわけですが、それは上記のような部活における勝利至上主義と重なって見えてきます。中学受験において、親は受験の情報源を持っていない場合が多く、ほとんど塾やその関係者からの情報に頼ることとなります。彼らは商売熱心ですから、一所懸命に親を偏差値至上主義へ誘導します。「お子さんなら、もう少し上の学校狙えますよ」、こう言われて気分の悪くなる親はあまりいないでしょう。しかし、そのためにはもっと講座を受講させて、ほぼ毎日、夜遅くまでお弁当持参で塾に子を拘束させねばならない。ライバルたちもやっているからと、親はあまり疑問に思わず費用をバンバン出す。

親がこうであれば、その話を真に受ける子も同じような思考になっていくことでしょう。親に喜んでもらたいのが子の本心です。だから難関校へ自分も行きたいと言う、言っているうちに、そのうちそれが本心のようになってしまう。大人によって、子が扇動されていく構図です。正直言いまして、小学生が難関校に行きたいとか、その学校がどんな学校かも予想できないのに、まだ中学校生活を体験したこともないのに、独自に判断できるわけありません。多くの場合、大人に言わされているんですよ。もちろん、実際に学校を見て本人が気に入った、それがたまたま難関校であった、ということもあるでしょう。しかし、見学に行く学校を選ぶのは親ですし、子が勝手に選ぶなんてことはレアケースです。

親であれば、わが子にはこうあってほしい、こんな大人になってほしいと思い描くことは罪ではありません。むしろ、そのようなイメージを持つことは必要で、だからこそ子を育てる責任があるんだと思います。難関校に入れたいというのも良いでしょう。しかし、それが本当に二人三脚のようになっているのか、親の独善的な発想・妄想、そして暴走になってはいないか、ちゃんと自己診断しないと危険だと思います。部活の試合で勝たせてあげたい、そのように考えるのは親としては自然です。しかし、子の成長速度よりも、勝利することを優先させていないだろうか。中学受験の場合は、それ自体が産業化しているところもさらに問題であり、子が塾経営の道具にされてしまう可能性すら孕んでいます。

私も中学受験を経験しました。結果、一時的に勉強大嫌いになりました。親には感謝していますが、これは事実です。

部活動も受験も必要です。部活動は正課では学べない仲間との連携や責任などを学ぶことが出来ます。受験だって基礎的な学力向上には不可欠だと思います。私は大学受験は推薦に逃げましたので、大学では英語、とくに語彙不足に苦労しました。そして、いずれも子に忍耐力を身につけさせることになりますので、この点においても私は評価しています。私は大学受験の苦労を知りません。そして、あまり忍耐力があるほうではありません。ただ、大人にはちゃんと子の気持ちに寄り添ってもらいたいと思うのです。子が主役であるにも関わらず、脇役である大人が勝手していませんか?子をうまいようにコントロールして私物化していませんか?私はこの点こそ最大の問題だと感じています。

私もまだ子育て中であり、子を導くことの難しさを日々実感している最中です。陥りがちな過ちとして、「オレがなれなかったものになってくれ」です。子が勝手に思うぶんにはいいんですが、押し付けになりがちなんです、私の場合。偉そうなこと書きましたが、自分自身が一番危なっかしい。

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2018年10月25日

eスポーツがオリンピックに?!

私はいわゆるファミコン世代で、街角にあるアーケードゲームも大好きでした。地元の新井薬師前駅付近にあるキク薬局という老舗薬局には、なぜかアーケードゲームが2台ほど設置されていました。ほぼ連日通っており、とくに「ドンキーコング(おそらくクレイジーコング)」と「タイムパイロット」がお気に入りでした。また、付近の廣瀬ビルだったかなあ、おでん屋さんの横に1台ぽつんとあり、あれ何だったか…、「ジャンピングバギー」という名だったか。すごい燃えました。50円です。あとはより新井薬師に近いおもちゃ屋さん「ふじや」にもゲームコーナーがあり、そこでは「ペンゴ」と「ドンキーコングJR.」、そしてさらに新井薬師門前の駄菓子屋さんでは、たしか「スクランブル」があって、そこではまだ眺めているだけの低学年でした。

しかし、それほどいい腕ではなく、まあまあといいったレベルです。下手じゃないんですけどね。ファミコンではやっぱりスーパーマリオです。これ燃えましたねえ。ほんとプロ級かと思えるくらい上達しましたが、中学で出会ったS君はさらに上手く、なんと江東区のダイエーかなんかで開催されたスーパーマリオ大会で準優勝したという猛者でした。彼にはゲームで勝ったためしがないと思います。スト2もやたら上手かった。

私、ゲーム凄い好きなんですよ。

最近、eスポーツ(エレクトロニック・スポーツ)と言いまして、スト2のような対戦型ゲームをスポーツとして捉えた概念が生まれ、これがまた世界的に流行っているようなのです。プロになると一般スポーツのプロ選手並みに稼ぐそうで、ゲーム少年であった私からすると驚きです。

ゲームでお金稼ぐ日が来るとはねえ。ゲームってのは、お金使うばっかりかと思ってた。

このeスポーツに国際オリンピック委員会が興味を示しているそうです。あれまあ、儲かりそうだと何でも取り入れるのか、スポーツと名称があるから問題ないのか、よく分かりませんが商魂メラメラです。とあるニュースで日本のeスポーツプロ選手が紹介されており、彼曰く「何時間も座ってゲームするから体力づくりのためにもフィットネスジムに通っている」(筆者要約)とのことでした。う〜む、ゲームは健康的だとは言えないし、これって事実上、トレーニングと言うよりも、体悪くならないためのフィットネスジム通いなんじゃないかなあって、率直に思いました。その選手がというよりも、スポーツなんだっていうことを取材側が取り付けたいのではなかろうか、と勘ぐってしまいそうな報道姿勢だったわけです。ゲーム好きだからeスポーツには批判的じゃないんだけど、オリンピックの精神とはズレているような気もするねえ。どうなんでしょう?

eスポーツはeスポーツでいいんじゃないかなあ。何でも1つに統合する意味ないし、それぞれでいいと思うけど。大きな勢力に取り込まれるとロクなことないのは今に始まったことじゃないし、個性を大事にしてもらいたいと思うのです。かつてスノーボードがオリンピック種目になる際、たしか「文化的に異なる」という理由で参加を辞退した有名ボーダーがいました。私はそういうほうが好きです。

それぞれが、それぞれの色を持っているわけですから。

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2018年10月18日

住職になるには「覚悟」か?慣れか?

医学部医学科で入試に関しての問題が噴出しています。卒業生の子を優先していることもあったという報道でした。この件につきまして、ある著名なお医者さんの先生が持論を展開されているようです。勝手に要約しますと、「医師家庭の子は医師になるための心構えが出来ている。学科試験に合格したのであれば、面接試験において医師家庭の子を優先しても問題はない」、ということだったかと思います。ここまででしたら、ふ〜ん、なるほどねえという感想程度だったのですが、その先生は何とご出家をされているようなのです。わが宗派と近い宗派とのことで、さらに驚きました。

僧侶資格試験のときに一度不合格となった際、若い子たちが合格するのに、なぜ自分は不合格なのかと担当者へ詰問したところ、寺の子たちは僧侶となる「覚悟」が出来ているから、というような返答であったそうなのです。なるほど、「覚悟」というと大袈裟ですが、たしかに寺院子弟は幼少の頃からお経に慣れ親しんでいる場合も多く、また、住職としての親を見ていれば、僧侶とは何なのか、何を考えて行動しているのか、ということを知る機会も多いことでしょう。そもそも住んでいる場所が寺なので、これはかなり特殊な環境下に置かれてはいますが、特殊な故、それが自然体となって身についていくことは貴重です。

浄土真宗は伝統的に世襲ですが、世襲ではなかった宗派であっても、やはり幼少の頃から小僧さんとして住職の元で寝起きを共にすることが多かったわけで、成長とともに僧侶になっていくのでしょう。これは神道においても同じでしょうし、また、伝統芸能においても同じことが言えるかと思います。親を間近に見て、親を真似て一人前になっていくという側面もあるはずです。ただし、もちろんそうではない場合もあるわけで、これに限ったことではありません。今は世襲の良い面を上げましたが、世襲への甘えからどうしもない奴が育つってことも大いにあり得ます。

世襲だと人材として小粒になりがちなので、要領よくこなすことだけが得意な人材が増殖するかもしれません。知った顔で融通を利かすようなことも増えるでしょうし、進歩せず停滞した仲良しグループになってしまいます。たとえば仏教界でいえば、仏教界が社会から置いてけぼりになりそうであるにも関わらず、それにまったく気づかない閉鎖性を生み出す原因にもなることでしょう。世襲というものは、マニュアル化の難しい特殊性(例:檀家さんとの良好なお付き合い方法)を面授・体得・継承するという点で優れていますが、わがままな甘えん坊を生む土壌にもなっていると思えます。

お医者さんの場合はどうなんでしょう。開業されている先生だと、お寺に近いようなこともあるのかもしれません。また、お医者さんは命を預かることもある仕事ですし、冒頭の先生が仰るように心構えが必要であることは間違いないでしょう。幼い頃から揺るぎない志があるならば、ちょっとのことで挫折することもないでしょうし、とくにお医者さんは一人前になるのに多大な費用がかかると聞きます。心構えは大切なことだと私も思います。ところで急に思い出しましたが、私の中高時代には周囲にお医者さんの息子が多くいました。なんちゃって進学校だったからでしょうか、結構どうしようもない奴もいたような…。すごいお金持ちなんですが、今何してんのかなあ。

坊さんの場合、「覚悟」はどうなんでしょう。そもそも「覚悟」とは「さとり」を意味するので、今はなくて良いのだ、という屁理屈が聞こえてきそうですが、やっぱり住職であるならば、「覚悟」がないと続けていくのは大変だと思います。私なんて、いまだに寺で暮らすということに慣れてません。「覚悟」がないんでしょう。自分でもそう思います。幼稚園ぐらいからお経は習っていましたが、家はお寺ではなかったので、お寺の特殊環境に慣れないのです。おそらく、これはおそらくですが、三人のわが子にとっては、お寺が普通に自然なこととなっていることでしょう。羨ましいなあと思うと同時に、それが故、休日に遠出が出来ないことを申し訳なく思います。ちょっと悲惨。

いずれにしましても、先生の仰ることは理に適っている側面もあろうかと思います。なお、これと入試の問題は別問題ですので、それが正しいのか正しくないのかは私には良く分かりません。

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2018年09月29日

再読!『仏典はどう漢訳されたのか』

坊さんもトレーニングが必要です。少なくとも私は最近そう思います。なぜかと言いますと、とにかく憶えたことを忘れてしまうのです。私の場合は学問になりますが、大人になってから憶えたことの持続力がありません。あの言葉どこの出典だったかなあ、あの坊さん、いつの時代で名前どんな字だったかなあと。結構見事に忘れるのです。お経の読み方は幼少の頃から体得したので忘れないとは思うのですが、大人になってからの知識はダメです。

それからこれは実生活のことですが、知り合いの名前が出てこないのです。ああ、ほれ、あの人だよ、あの人っ!!、という具合に坊守に話すことしばしばです。ちょっとマズいんじゃないかと思うほど、記憶力が減退しています。まあ、知識なんてのは忘れてしまってちょうどいいとも言えるのですが、まだ憶えていたい。法話会でも困るんですよ。私の法話は知識ネタが多いので、忘れてしまうとカッコ悪いんですな、これがまた。ああ、何だったっけ、あの人、忘れちゃったけど、そういう坊さんがいたんですよ、とかそんな風になってしまう。

今は中国の坊さんの名前を忘れてしまっており、再度、船山徹先生の『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店、2013年)を読み直しています。経典翻訳の事情って面白いんですよ。経典は本来は漢文じゃなかったわけで、インドのサンスクリット語とか色々混じった言語とか、そんなのが使われていました。それをインド人の坊さんと、中国人の坊さん、なかには坊さんじゃない人も参加して、一生懸命翻訳して下さったのです。現代よりも言語間の情報ないですし、もの凄く大変な作業だったと思います。ちょっと専門的で難しい言葉も出てきますが、宗派の教学ではあまり出てこないような裏話的な内容もありますので、とてもお勧めな一書です。

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2018年09月21日

戦闘指揮における倫理?

AIの軍事利用について国際的な議論が始まっているようです。その報道に触れまして気になったコメントがありました。戦闘指揮をAIにさせるのは倫理的に良くないとの内容でしたが、単純に人ならいいのかと思ってしまいました。敢えて言いますが、戦闘指揮はAIのほうが優れているのではないかと思います。しかし、もちろんそんなことを議論しているのではなく、AIには戦闘中において倫理面における攻撃の要・不要の判断が出来ないだろ、ということなんだと思います。

戦争映画を見ていますと、人対人なので当たり前ですが、倫理面での描写が戦争の残酷さを和らげ、観るものに感動を与えるヒューマンドラマとして仕立てられていることが多いと感じます。実際、戦場には映画になりそうな話がないわけではないでしょう。しかし、本質はあくまでも相手への攻撃、つまり、大義としては個人攻撃ではなく国家への攻撃ではあっても、現場では殺人の正当化に他ならないわけです。そもそも、倫理なんてそこにあるのでしょうか。

戦争に倫理がないというのは言い過ぎで、多くの軍属が「早く家に帰りたい」と思っているのであれば、やはりそこには人々がともに生きるための規範たる倫理が存在すると言っても良いでしょう。ただ坊さんとしては、倫理という言葉を使うのであれば戦争をしないのが最も倫理的と言えるんじゃなかろうかと、そう思うわけです。どうも戦争を肯定するために、もしくは肯定と同時に倫理という言葉を白々しく使っているように見えて、非常に居心地の悪い感触でした。

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2018年09月10日

事実を伝えること難しい

最近どうもネタ切れで、なかなか文章書けません。仏教も最近は思想系よりも歴史系にはまってまして、頭をこねくりまわすようなこととは距離があります。歴史もすごい好きで、「事実」を知りたいって衝動にかられるときがあります。しかし、この「事実」ってのが厄介で、だいたい物事が起きたその現場にいたとしても、人間ってのは「主観」でしか脳に記録できないわけですから、それをまた何か文章なんかに写すなんていうと、もうねえ、かなり「事実」からずれるんじゃないかと思うのです。

見たこと感じたことをそのままズバリ!、と記録できれば良いのですが、よく考えたらそりゃ無理な相談なんですよね。たとえば風景を写真に撮りましても、あれ?、撮ったらどうも見た感じと違うなあってことあるでしょう。そりゃ写真のほうが正しいんですが、自分にとっては違うと思えてしまう。人間の思う「事実」ってのは、その時の主観も含まれているから。だから、写真と自分の記憶は違って思えて当然なんだと思うんです。「歴史」は「事実」というよりは人間の「営為」なので、その主観が生きていればいるほど、いわゆる「歴史問題」を解決するのは困難になりますね。

思想系やってても思うんですが、たとえば私の勉強した吉蔵っていう中国の坊さんだと、もう本当に大量に文章を残してくれているんです。でも、ふと思うときがあるんですよ、これ読んでも本人にちゃんと意味聞かないと、実は違うってこともあるんだろうなあって。私はなんて無駄なことをしているのかと。吉蔵師が考えていたことも、それが「事実」として文章にうまく表現されているかと言えば、やはり限界はあるでしょう。吉蔵師はそれを分かって書いているから、現代的には異様に冗長だったりするのです。だから仏教では対面することが大事だと言うんですけど、本人が書いた文章であっても「事実」とは限らないとすれば、こりゃもう大変なことですよね。


だったら理系にすりゃよかったね。


乱雑さより整然さに美しさを感じるほうなので、もしかしたら理系だったのかも。父や兄にくらべて芸術性もないなあと思いますし、芸術や文学に対する素養は少ないほうだと思います。しかし、中3の代数でこけたのがすべての始まりだったのか・・・。今でも覚えてるけど、クラスでビリで、先生もあまりにも悲惨だと思ったのか、呼び出しのとき×を△にしてくれた獨協の本木先生、有難うございます!

ほんと、数学はダメでした。幾何はまだマシだったけど、数列で撃沈して微積は意味が分からなかった。おまけに化学物理も不可で、まあまあなのでは現国と地歴、あとは生物。なんだほとんど記憶系じゃないかという、何とも思考の出来ない十代だったわけです。ちなみに今は古典やってるけど、当時は古典もまったく出来なかった。古典の世界のイメージができず、記憶するのも苦痛でありました。よく歴史苦手な人がイメージできないとか言うけど、たしかにそうですよね。イメージないと覚えられないんですよ。それほど「主観」ってのは人間の営みにおいて大事なんだろうなあと、うまく本題に戻ることが出来ました。

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2018年09月01日

最近こういうの多く、残念

永代供養墓の前にあるアルミ製の結界です。車に踏まれてペチャンコ。悲惨のひと言。

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2018年08月21日

住職のフェイズブック

こちら住職のフェイスブックページです。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100010094177609

今まであまり長続きしなかったのですが、今回はちゃんと更新しています。友達が少ないので友達になってやってください。100人ぐらいは結構早くいきましたが、それからまったく、全然ダメ。友達いないんですよね。しくしく

内容は趣味ばかりです。
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2018年06月23日

六福寺めぐり

≪南足柄 六福寺めぐり≫ 開催のお知らせ

今年も6月29日が近づきまして、六福寺めぐりの季節になってまいりました。例年バスツアーでの開催でしたが、今年はウォーキングにしまして、関本にある三福寺をめぐりたいと思います。

6月29日(金) 午前9時30分 大雄山駅集合
歩き→龍福寺(法話)→歩き→廃寺善福寺(法話)→長福寺(坐禅・食事・トーク)
午後2時 大雄山駅解散

トークでは日頃聞けないようなご質問を、何でも聞いてみて下さい。

費用は昼食ふくめて2000円となります。
皆様、是非ご参加ください!

posted by 伊東昌彦 at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii

2018年06月21日

一念発起して論文

ここ数年、学問から少々遠ざかっておりまして、まったく論文発表をしておりません。博士論文には今後の課題とか何とか、立派なことを書いておいたのですが、何もしていないという体たらく。研究してきた内容も忘れがちになってしまい、これではいかんと一念発起しました。

これまで三論宗系統の浄土教を研究してきましたが、私はやはり浄土真宗の坊さんです。今までの研究成果を親鸞聖人まで結び付けまして、研究を終えたいと思っています。やたらと終わりが早いですが、あとは成果発表というよりは、自分自身の学びとして勉強を続けていきたいと思っています。

と、これまた立派なこと書きましたが、要は体力と能力の限界を感じまして、住職やりながらの研究は私には無理だな、と言うことです。住職でありながら研究者でもある先生は大勢いらっしゃいますが、本当に凄いバイタリティだと思います。

なお、今回の論文テーマは親鸞聖人の仏身仏土論につきまして、奈良時代の智光さんの仏身仏土論との近似性という側面から論じるものになりそうです。智光さんはかなりの碩学なのですが、中央からは遠ざけられてしまったりと不遇な人であり、なおかつ人物像も有名な行基さんとの対比のなか、あまり良い印象で語られてはいません。

伝承とは往々にして一方的なものの見方に終始するものですが、私は結構その裏側というか、本当のところを知りたがる傾向にあるので、智光さんの生涯にはとても興味があると同時に、そのように扱われてしまった智光さんを応援したくなる気持ちにもなります。

おそらく1年ぐらいかかると思いますが、来年にはどこかで発表したいなあと密かに思います。

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2018年05月06日

ゴールデンウイーク

皆様、連休をいかがお過ごしでしょうか?

私は毎年、ゴールデンウイークには意外と骨休めが出来るわけです。坊さんはあまりちゃんとした休日はないのですが、この時は法事もほぼなく、また、ご参拝の方もかなり少なめになるので、1泊で箱根付近に行くことが多いのです。最近、結構ストレスたまっているなあと感じていたので、少しはリラックス出来たかと思っています。

ところで、こうした連休ではなく、日頃のちょっとしたストレス発散の方法をお持ちでしょうか?スポーツをしたり、様々な趣味の時間を持ったり、それぞれでしょう。ゲームをするという方もいるでしょうし、ストレス発散になれば大人でもいいんじゃないかと思います。私もたまに昔やったゲームをします。やり方を新たに憶えなくて良いので、昔のゲームのほうが楽なのです。

また、夏が近づくと日が長くなるので、夕方から一杯やるのが最近のお気に入りです。まあ、2杯ぐらいで帰宅するのですが、ほろ酔いで気分がいいので楽しみになっています。かつて、中野の新井薬師門前の交差点に間口の広い焼き鳥屋さんがありまして、幼い頃、遠目で眺めていた記憶があります。たしか昼間からやっていたような…。母親からは近づかないよう言われていたかと思うのですが、今、行ってみたいなあ。

ちなみに、中野ブロードウェイの地下には、「デイリーチコ」という名であったか、巨大ソフトクリームの店がありまして、多分まだあるのと思うので、家族を連れて行きたいと思っています。昔は左右で違う店だったと思うのですが、いつの間にか、と言いましても40年近く前の話ですが、2軒が一緒になったような記憶です。違ったかなあ。

その頃、向かって右手におでん屋さんがありまして、その奥に讃岐うどんの店があって、よく母親に連れていってもらいました。ソフトクリーム、おでん、うどん、この3点セットを良く覚えています。しかし、おでん屋さんから讃岐うどんに行く手前にサーティーワンが出来まして、私はサーティーワン派になってしまったわけです。ダイキュリアイスが好きでしたが、今はもう存在しないようです。無念です。

新井薬師には15年ぐらい行っていないので、そろそろ郷愁を感じてきました。母親の実家がまだありまして、叔父がいるのですが、元気にしているかなあ。昔は従兄弟もよく新井薬師に来たものですが、それぞれ家庭があるので集まることも今はありません。ちょっと寂しいですね。法事がこうした縁を結んでくれるものなのですが、法事自体、皆を呼んで営むということが難しいこともあり、小規模になりがちです。前回は私たち家族だけで営みましたが、次回は皆に積極的に声掛けをしてみようかと思います。
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2018年04月23日

善福寺と武家勢力

お寺の歴史をひも解いたとき、何らかのかたちで公家や武家勢力が関係していることが多いでしょう。鎮護国家のための祈祷寺院や、先祖を祀る菩提寺はもちろんのこと、民衆の信仰によって創建された寺院であっても、本堂建立の資金は武家に頼っている場合があると思います。時の有力者の外護がなければ、寺院護持はなかなか難しいことであったかと思います。

善福寺は浄土真宗の一末寺ではありますが、武家勢力とそれなりに関係している歴史があります。開基の了源上人(伊東祐光)は伊東祐親の孫にあたりますので、そもそも武家であったわけですが、祐親系統の伊東氏は平清盛の後ろ盾を得ていたようです。また、戦国時代に善福寺は小田原北条氏の一向宗禁制に遭遇しますが、解除後には一向宗本寺としての朱印免状を得たようでもあります。

伊豆伊東氏と小田原北条氏との関係によって、あるいは寺院としての格を保ってきた側面も考えられることでしょう。進納などの直接的支援があったかどうかは分かりませんが、お寺の「看板」にはなっていたのではなかろうかと推測します。伊東氏との関係は今までも調査をしてきましたが、北条氏との関係はよく分からないこともあり、これから何らか調査してみたいと思っています。
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