2020年02月27日

楽友会中止のお知らせ

楽友会ご参加の皆様、日頃より大変お世話になっております。さて本日開催の楽友会ですが、イベント開催に関します政府発表もございましたので、急遽中止とさせていただく存じます。当日のお知らせになりましたこと、お詫び申し上げます。来月につきましては状況を鑑みまして、またご連絡申し上げます。今後ともよろしくお願いいたします。

善福寺住職 伊東昌彦
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2020年02月21日

お寿司屋さんのカウンター

小田原のお寿司屋さんに行きました。檀家さんに連れて行っていただき、あまりにも美味しくて家族でも行ったのです。いわゆる昔ながらのお寿司屋さんで、大将と言うのでしょうか、カウンター席では気風のよいマスターが面前で握ってくれます。実のところ、わが家の子はこうしたお寿司屋さんのカウンターにまともに座ったことがなく、事実上、初めての体験であったと思います。マグロと納豆巻しか食べない次男(小学生)には少々辛かったかもしれませんが、長男はかなり満喫してくれたようです。残念ながら娘は塾で不参加でしたが、いつか連れて行きたいなと思っています。

しかし小田原と聞きますと、お寿司屋さん多そうなイメージがあるかと思いますが、今は8軒しかないそうです。かつては80軒もあったそうですが、今は8軒。すごい減りようですよね。回転寿司は増えています。私は回転寿司も好きなので別に回転寿司のせいだとは思っていませんが、たしかに値段的には勝負にならないところありますよね。でも、回転寿司と昔ながらのお寿司屋さんってのは、同じ寿司ではありましても、味はさておき、食べるまでの手続きはまるで違います。そう考えますと、単純に回転寿司のほうが安いからと言うよりも、むしろその手続き、つまりマスターとのやり取り自体、さらに言えば人と人とのコミュニケーションの変化に問題があると言えるでしょうか。

物とインターネットが接続されるIoTの時代到来と言われますが、私たち生物がインターネットと直接接続されることは当分不可能でしょう。かならずこの五感のどれかを通じて、インターネット上の物事と接触するしかないわけです。どこまで行ってもアナログですね。アナログの感覚を捨ててしまうと、私たちはいつか、本当にデジタルなインターネットの世界に支配されてしまいそうです。電気機器が全部インターネットとつながっても、電源プラグを抜けばその機器はシャットダウンします。バッテリーがあっても、充電されなければエネルギー切れでシャットダウンです。電源プラグ抜くなんて、なんてアナログなことなんでしょう。でもそういう方法が残っていないと、インターネットの暴走は防げそうにありません。コミュニケーションはアナログの最たるものです。そこを捨てるということは、人をやめることにもなりかねません。

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2020年02月07日

小中一貫校と中高一貫校

小中一貫校(小学校と中学)、皆様も最近聞かれたことあるかもしれません。国や都道府県は既存の公立小学校と公立中学校を再編し、あらたに9年間の公立小中一貫校の設置を推進しています。少子化が進むなか、どの地域でも学校統廃合は課題となっています。統廃合によって小中一貫校を新設することも多いようです。当然ながらメリットもあるでしょうし、デメリットもあろうかと思います。公立小学校と公立中学校を一貫化することは、いずれも管轄が市区町村であることから難易度は比較的低いでしょう。都道府県が推進してはいても、1つの市区町村の教育委員会と行政と議会で決めることができるからです。

一方、公立の中高一貫校(中学と高校)という存在を、皆様はご存知でしょうか。これは主として既存の都道府県立高校をもとに、簡単に言えば都道府県立中学校をそれに加えて成り立っています。中高一貫(←ここでは高校入学が可能な学校も含めます)と言えば、私のような年代ですと私立と国立しかなかったように思います。私立は独自教育を掲げての中高一貫であり、国立は国立大学の付属ということで実験校としての存在です。私立はたとえば慶應義塾であれば小学校と大学も含めて16年一貫という場合もあり、国の方針に基づいていないということは明白です。福沢先生です。国立中高一貫校は東京だと東大教育学部付属、学芸大附属、筑波大付属があります。いずれも教育学と関わりのある学校です。実験的に共学であったり別学であったり、色々な形態が用意されているようです。東大合格者の多い筑波大付属駒場は男子校ですね。

都道府県の設置する公立中高一貫校は、こうした私立や国立の中高一貫校と形態は同じもので、選抜制なので入学するには試験に合格しないとなりません。巷の小学生向け進学塾では「公立一貫校コース」を設けているところも増えてきました。私立や国立の中高一貫校を目指す小学生と同じように、それなりに早い時期から受験勉強を始めないと合格することは難しいのが現状です。ちなみに都市部を中心に中学受験が過熱している背景には、こうした公立中高一貫校の増加があります。都道府県のなかには、小中一貫校化を推進しながら、同時にこうした中高一貫校を設置しているところが増えてきているのです。

しかし、この2つの形態はいずれも一貫校でありながらも、内実としては相当に存在意義が異なります。小中一貫校は地域にある一般的な学校で、中高一貫校は大学進学を前提とした進学校です。中高一貫校は大学受験に有利だと言われます。小中一貫校化のメリットを喧伝しておいて、同時に選抜制の中高一貫校も自前で設置している。たしかに私立のようには費用のかからない公立において、色々な形態の学校を用意することは意義あることと思います。勉強をしたい子にとっては、選抜制であっても進学校である中高一貫校は魅力的です。それで費用が比較的かからないとなれば、これは本当に有難いことです。それは理解できることなのですが、独自教育の私立や、実験校としての国立ではない、日本では広く等しく教育の機会を与える役割のある公立が、同じ一貫校でありながらも、あからさまに形態の異なる2つの存在、つまり地域の一般校である小中一貫校、そして進学校としてエリート教育をする中高一貫校という2つの形態から成り立っている、もしくはそれに向かっているという現状に、余計なお世話ながら不安を覚えます。

もちろん、現状においても都道府県立の公立高校には入学試験があり、大学進学実績の優れた高校もあります。しかし、現状では公立中学校から、高校進学を目指す皆が同じようにそれぞれの学校の入学試験に臨みます。これは機会において平等です。中高一貫校も公立小学校から出願可能ですので、一見すると同じように機会において平等かのように見えるのですが、現実は違います。中高一貫校は今、非常に人気の高い学校です。人気があれば試験倍率は上がります。県立高校は中学校での成績によって志望校を決めますので、倍率が実質5倍なんてことはないでしょう。しかし中高一貫校は実質5〜6倍なんてこともあるのです。私立や国立であっても、なかなか実質5倍にいきません。2〜3倍程度です。これはものすごい倍率なのです。合格するためには、少なくとも私立や国立を目指す子たちと同じ程度の勉強を、進学塾で早期から始めないと難しい。進学塾は費用がかかります。高校受験でも塾代はかかりますが、中学受験のほうが費用はかさみます。費用を出せる家庭は出せばいいのですが、仮に小中一貫校と中高一貫校が併存している場合、こうした受験対策が可能な家庭の子だけ、小中一貫校を途中で離脱するかたちで中高一貫校を目指すことになります。そして、大学進学実績の優れた公立中高一貫校に優秀な生徒を集まれば、その都道府県において、既存のトップ公立高校の学力レベルは相対的に下がることでしょう。トップ公立が入れ替わることすらあるかもしれません。そうなりますと、公立中高一貫校に合格するための進学塾費用を捻出できない家庭の子は、いくら成績が優れていてもその地域のトップ公立には入学できないという事態になります。

こうした状況が全国的に広がり盛んになったらどうでしょう。校数の少ない私立や国立ではなく、全国各地にほぼまんべんなく広がる公立において、一般校とエリート校の二極化が出現するのです。子は日本の将来です。全国各地で二極化教育が実施されれば、それがそのまま日本の社会を基礎づけることになります。つまり、日本の社会も明確に二極化されるということになるかもしれません。全国的に広がらなければ、それほど問題にはならないことでしょう。都道府県が勉強の出来る優秀な子により高いレベルの機会を与えることは社会的にも良いことですし、私も反対はしていません。ただ、全国的に広がったら…。日本全国、小中一貫校を途中で離脱していく子たちが増え、その子たちは残った子たちとは別の道を歩むことになる、なんてまるで別の国のような状況が身近になってしまうかも。小中一貫9年+高校3年、一方では小中一貫校途中離脱6年間+中高一貫6年という、同じ公立校でありながら、こうしたまったく異なる教育課程が併存することになります。ちなみに多くの生徒が高校進学する時代、9年+3年はアンバランスに思えてなりません。既存の6年+3年+3年で十分で、もし中学1年生になるとき、急激な学習段階のアップなどで問題となるならば、小学校と中学校の連携をもっと深めれば問題解消につながるのではないでしょうか。

なお、この記事においては、中高一貫校であっても高校からの入学も可能な学校も一貫校として含めましたが、昨今、公立中高一貫校であっても、高校からの募集を停止するところが出てきています。私立にそういう動きが顕著ですが、公立も私立の後追いを始めたわけです。なぜ日本の公立でこうしたエリート校を作ろうとするのか、私にはまったく理解できません。たしか日本ではエリート校を公立では作ってはいけない、という決め事のあることをどこかで見たような気もしますが、何かの見間違いだったのかもしれません。いずれにしましても、公立はこんなダブルスタンダードのような真似事はせず、もっと勉強意欲のある子に返済不要な奨学金を用意すべきだと私は思うのです。公立中高一貫校に合格するため、多くの家庭が進学塾に費用をかけるような状況を作り出すよりも、よほど健全です。ちなみに公立中高一貫校がたくさんできれば、私立一貫校も経営が圧迫されることになるでしょう。民業圧迫という点でも問題です。奨学金を与え、その意義を理解させた上で使命感をもって学ばせたほうが、より日本のためにはなるように思います。

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2020年02月05日

わが家での節目が終えました

今日は2月5日です。あまり知られていませんが、中学受験がほぼ終わりを告げる日なのです。それぞれの家庭によって教育方針は異なります。わが家は宗教関連学校に通学させたいという考えがあり、3人とも受験をさせました。本人たちは迷惑であったかもしれません。とくに長女は今でも私が厳しすぎたと批判的です。その度に私は謝っています。実際、そうであったと反省をしているからです。ただ、受験をさせた意図は理解してくれていますし、今の学校で出会った友人や部活には満足してくれていると思います。肝腎な宗教教育については、これまた効果あったと私はほくそ笑んでいます。と言いますのは、長女はプロテスタント系の学校なのですが、聖書の授業を受けたことにより、キリスト教と日本人の感性について自ら感じるところがあったようだからです。

長男はカトリック系に通っています。長女の学校に比べて宗教的儀式への参加は緩いようですが、倫理の授業ではキリスト教から西洋哲学、そして東洋哲学や仏教思想まで扱ってくれているようです。長男はアカデミックな側面からそれらの思想に興味は多少持ってくれているようですが、ミサや黙想をする会にはまったく興味を示してはいません。彼なりの思いもあるようなので、私からは何も指示はしないことにしています。そして次男がこの度、受験を終えまして何とか宗教教育のある学校に合格することが出来ました。当初は仏教系を志望していたのですが及ばず、プロテスタント系の学校です。お寺なのに異様だと思う方もいらっしゃるでしょうが、伝統教団であれば中高で触れるキリスト教は教養程度のものが多く、むしろ勉強になることは多いようです。家のなかでは仏教一色なので、いろいろな思想に触れることは人格形成の上でも大切なことだと私は思っています。

その次男の学校は最もキリスト教色が強いと思われ、入学式も完全に宗教形式な模様です。度合いとしては、次男>長女>長男の学校という具合です。次男は寺院後継予定者です。わが宗派は基本的には高校1年生のときに得度という最初の習礼を受けることができますので、夏休みを利用して早々に京都まで生かせる予定です。次男の学校には幸い大学もありまして、普通に勉強をしておけば多分進学できると思うので、大学受験が免除される分、早めに浄土真宗の教育を受けさせたいと思っています。わが宗派は缶詰状態のいわゆる修行期間は短いのですが、座学に費やす時間はそれなりにあります。最低でも1年間は京都に行かせて、そこで1年間の行事なども経験してもらえればと思っています。大学卒業後は京都1年間での修学になるでしょう。

ちなみに私は京都に行くのが嫌だったので、東洋大学の大学院に張り付いていました。それでも何とかなるのですが、どうしても本山とは縁遠くなってしまいますし、交友関係も地域限定になってしまうので京都に行ったほうが良いでしょう。

今日もこれから午前9時から試験が始まるという学校が多いと思います。長女も5日まで頑張りました。長男は3日で終了、次男は2日で終了でしたので、長女は本当に忍耐強く頑張ったと今でも思います。もう高校2年ですが、根性だけは姉弟では一番あるようで、5年間剣道部で修練いたしました。お陰様で先日、三段を与えられました。試合にはあまり勝てませんでしたが、部活辞めたいと言いつつも最後まで貫徹出来たことは大きな成長であったと思います。部活の友人にも恵まれまして、剣道部とのご縁がなければドロップアウトしてしまいそうな時もありました。友人との出会いに心から感謝いたします。

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2020年01月30日

定員とのことで有難うございます

前回ご紹介したTSUKIJIアカデミーですが、いつの間にか定員になっていたようです。有難うございます。数人の参加で、ほぼ個人講義になるっぽいと予測していたので、嬉しい誤算ではあります。だいたい内容は決めましたので、あとは微調整だけなのですが、当日、二日酔いの可能性があり危険です。実は次男が今受験の最中でして、ちょうど2月2日にほぼ終了予定となります。なので2日夜は舞い上がって父が率先して飲んでしまいそうなのですが、控えめにしたいと思います。

皆様、よろしくお願いいたします。

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2020年01月17日

ぬるま湯な私、「知足」を学びたい

今週末からセンター試験ですね。私には直接縁がありません。私は獨協中学高校から獨協大学法学部という絵に描いたようなぬるま湯。言い訳をするならば、昭和48年生まれの私にとって東大はもちろん、早慶だって到底ひっくり返っても手が届かない。単に私がアホだっただけという説もありますが、これでも獨協中学は今よりずっと難しかったし、私の成績は真ん中より上だったような気がします。獨協大学も外国語学部は上智や青山に次ぐ位置であったし、法学部も成蹊や成城と同じようなもんだった。もちろんバブル偏差値。しかしとにかく人数多くて、これでもかと言うほどの競争、競争、競争でした。

大学受験のときの夢は早稲田、現実的には中央でしたが挫折しました。もう面倒くさくて。根性ないのです。昨今、都内大学は定員問題で難化したと聞きますが、それでも巷で「最低でもマーチ」とかいうセリフを見聞きするたびに、決して今は人数少なくて楽だという嫌味ではなく、漠然と「あー、私たちの世代は何だったのか・・・」という思いが湧き出てきます。40代のリストラが多くなっているようです。競争に競争を重ねてきた私たちの世代が今、もうお払い箱なのでしょうか。

人数だけ多く、語学もそれほどできず、ネットネイティブでもない40代。恵まれた世代だと言われてきました。たしかに親世代が築き上げた社会の恩恵を思い切り受けて育ちました。ひと言で言えば、ぬるい世代なのでしょう。日本経済は下り坂です。人口もぐっと減ります。国力は落ちることでしょう。右肩上がりで生まれ育ってきた私たち40代。親世代の真似事では生きていけない時代到来で、果たして生き残っていけるのでしょうか。

実のところ、私は住職とはいえ厳密には兼業住職で、ほかにも在宅中心ながら仕事を持っていました。しかし、不本意ながら今年からなくなりました。とても残念です。寺院経営はよほど大きなお寺でないかぎり、非常に不安定なものです。その不安定さを補うことが私の積年の課題であったわけですが、7年ほど前から職を得ることが出来ていました。また何か別の方法を考えないといけません。私なんてまだマシなほうで、お寺なので住む家はありますし、住職なのでリストラにあうこともありません。会社勤めの友人を見ますと、給料は上がらず仕事だけは異様に増えていくという現状に疲弊し切っています。

企業は人件費削減に生き残りをかけているかのようです。こんなときは「仏教には「少欲知足」という言葉があります」とか、わかったような顔で語り出したくもなるのですが、そんな簡単なことではないでしょう。生活にお金のかかる現代ですが、削るにしても限界はあります。家族がいればなおさらです。我慢にだって限界はあります。「少欲」と言われても困るでしょう。

ただ、この言葉で肝腎なところは「知足」であり、それは「我慢しろ」ではないようです。実際には足りているにもかかわらず、何かと余計なことしているのが私たちなのではないでしょうか。ゴミ箱を見るとよくわかります。今年は「知足」ということを学んでいく1年にしたいと思います。

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2020年01月10日

新年、良い出会いを念じます

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、長男の通う学校の先生が紹介されていました。数学の先生で私より少し年上の方です。独特な教え方をされているようで、多くの生徒たちは数学を楽しんでいるかのように見えました。中学高校の数学は解答を出すものですが、先生は解答までのプロセスをより重視されているようで、授業中に解答は出さないそうなのです。私からしますと数学は解答まで懊悩するものであったので、これは驚きです。長男もあまり数学は得意ではありませんが、もしかしたらその楽しさを感じることができたのかもしれません。

この学校はちょっと変わった学校で、キリスト教の倫理教育のもと、規律と自由がうまい具合に両立されています。遅刻とトイレ掃除には厳格なようですが、あとはまるで何も規則がないかのようです。生徒も一般的よりもやや変わった子が多いように見受けられ、わが家の変わっている長男も馴染んでいます。一般的な学校だと窮屈になってしまう子であっても、それなりに自己発現ができそうな雰囲気にあるようです。番組で紹介された先生の教授法も、こうした型にはまらないような子たちには向いているのでしょう。これは偏差値云々に関係するというよりは、自由な発想を重んじることに関係していると思われます。

長男は小学校時代、友達と遊びに行ったのは6年間で1度だけです。決して学校がつまらないというわけではなかったそうなのですが、頻繁に遊ぶようにはなりませんでした。私とはタイプが違うので心配でしたが、今は気の合う友人に恵まれたようです。人生において出会いこそ大切です。面白い数学の先生に出会うことができて、長男も少しは数学の苦手意識を払拭できたかもしれません。あまり遊びに出ることはなかったのですが、先日はなぜか大磯でカラオケを友人たちとしてきたそうです。親としては嬉しく、この出会いのご縁に感謝するばかりです。皆様にとりましても、良い出会いのある1年でありますよう、心からお念じいたします。

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2019年12月21日

私とあなた、あなたと私

カトリック学校に通っている息子を経由しまして、キリスト教関連の学校通信を拝読できる機会に恵まれています。キリスト教学校の先生や保護者の方々からの寄稿文を読むことができまして、坊さんの私にとりましては非常に新鮮です。何が新鮮かと言いますと、物事の切り取り方にまるで違うところがあるのです。たとえば、これは私の考えた例話ですが、子が受験に合格したとき、まずは子の努力を褒めますよね。褒めるのは別に宗教的な感覚ではありません。そしておそらくキリスト教の場合は、合格へ導いて下さった神への感謝、そして子を支えて下さった方々への感謝の気持ち、と連なっていくように思います。そして、子がよりよい学校生活を送れるよう、神へ祈りを捧げましょう、というように明るく締め括られるでしょうか。違っているかもしれませんが、最後は神への祈りということが重要になろうかと思います。

一方、仏教というか、私の場合ではどうかと言いますと、やたらと内省的になります。子を褒めることから始まるとは思うのですが、ひとまず子を指導して下さった先生方、そして学校や塾の仲間たちへの謝意を表した上で、いきなり合格までの道のりについて、親である自分自身の行動が正しかったのかどうか検討をし始めます。受験生である子の立場にたって、大きなプレッシャーのなかにある子のことを慮ることができていたかどうか、親の希望ばかりが優先されていなかったかどうか、そんなことを語り出しそうです。子は親の失敗を補填するための存在ではないとか、親の満足のためにあるのではないとか、どうも暗くなりがちです。私だけかもしれませんが。

単純に私が内向的な性格であるがためとも言えますが、仏教ではつねに他者の立場というものを考えます。自他平等というのが仏の境地であり、私たちにはそれを実践することが出来なくとも、それに向かうことは推奨されるからです。そしてさらに、「自未得度先度他」と言いまして、自分よりも他者を優先して物事に対峙すべきことも説かれます。受験生である子とどのように接することが出来たのか、ちゃんと子のことを思い、親の身勝手さで追い詰めるようようなことがなかったかどうか、そんなところが問題視されるわけです。「神と私たち」という構図ではなく、「私とあなた、あなたと私」という構図と言えましょうか。超越的な関係性と言うよりも、普段の生活における関係性、つまり人間関係ということになります。

これは一般論ではありますが、子は親に育てられるなかで人間関係を学ぶところが大いにあります。親子関係というものは、非常に大きな関係ですよね。もちろん、場合によっては親が直接子を育てられないという環境もあるわけですが、育てられる環境にあって敢えて育てないというのは、戦前の天皇家もそうでしょうか。上皇様は直接、今の天皇陛下をお育てになられたと聞いています。天皇家においては大きな改革をされたと思います。子を直接育てることができるのであれば、できればそうしたいと願うのが親でありましょう。親に育てられ、ときには対立しながらも、そういう交流のなかで他者との関係性を私たちは学んでいきます。もちろん、学校などでも学ぶことができるのですが、基礎的な部分は親から学ぶことが最大であると思います。

今、親子関係がうまくいかず、悲しい事件に発展してしまったことが頻繁に報道されます。昔から一定程度はあった事件なのでしょうが、多くなっているという記事も読んだことがあります。どこの家庭も親は仕事で忙しいのですが、可能なかぎり親子での会話を持ちたいものです。繰り返しになりますが、親子会話は人間関係の基礎的な部分を形成します。親であれば人任せではなく、自分のところへやって来てくれた子を可能なかぎりしっかりと自らの手で育てたい、私はそう思っています。人任せでも子は育っていくでしょう。しかし、もしかしたら人間関係の基礎的な部分を、うまく学べないまま成長してしまうかもしれません。人々の営みは自分中心で成り立っているわけではありません。人は平等であり、平等につながっているからこそ、互いに敬い助け合うことができるものです。

私は親子関係が良かったかと言えば、むしろ悪かったと言えるかもしれません。しかし悪いなりに両親と接する時間は大きかったと感謝しています。こんな自分のために、忙しい時間を割いてくれていたんだと思いますと、今さらながら申し訳ないという思いが湧き起こってきます。お寺は仕事と生活が一体化しており、自然に親子が接する時間は増えることになります。そんな恵まれた立場にある私が言うのもお門違いかもしれませんが、親が子を育てるということは自然な営みであり、それ以上に仕事を優先させることというのは、道理に反しており本末転倒も甚だしいかと感じます。あのとき、もっと子の話を聞いておくべきだったと振り返って悔やんだところで、もうどうにもならないということもあることでしょう。

私たちは関係性のなか生かされています。私は他者の存在抜きにはあり得ない存在なのです。

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2019年12月10日

小学校の登校時間

次男は小学校6年生です。今朝も7時50分の学校開門時間に合わせて家を出ました。しかしこの時間だと、通学路に他の登校児童はあまりいないそう。多くの児童が、開門より早い時間に学校に到着して門前で待っているようです。なるほど、早起きはいいことですし、早く学校に行って友達と会いたいということもあるでしょう。私自身のことを振り返りましても、8時15分開門でしたが、時間前に門前で待っている友達もいたように記憶しています。遅いよりも早いほうがいいとは思います。

ただどうも次男の学校は早すぎるように感じます。開門よりも20分早い7時30分にはかなりの児童が集まっているようです。以前、開門時間前に登校しないように、とのお達しが学校からありましたが、あまり改善されていないのでしょう。朝から門前でガヤガヤですと、近隣の方にも迷惑がかかります。あまり早い時間に到着しますと、まだ当番の先生も来ていないような状況になるかもしれません。何かトラブル、事故や事件に巻き込まれますと、これは非常に問題です。

早く登校する児童がいますと、先生もそれに合わせて早く出勤することもあるでしょう。先生にも家庭を持たれている方は大勢いるでしょうし、お子さんもいらっしゃることもあろうかと思います。先生の働き方について、今、ようやく改善の兆しが見えてきています。先生は何でも屋ではありませんし、先生にだってご自身の生活があります。それを無視するような感覚が保護者にありますと、先生たちは疲弊してしまいます。先生になりたいと思う学生が減ってしまうとことも、もしかしたらあるかもしれません。

実のところ、早い時間に登校するということの背景には保護者の都合もあるようです。保護者の出勤時間に合わせて子も家から出してしまうというわけです。出勤時間が早い会社であれば、こういうこともあるでしょう。子を置いて出勤するわけにはいかないという事情も理解できます。しかしながら、学校はそれぞれの家庭のフォローをしているわけではありません。ましてや、先生が児童の家庭の事情に合わせて出勤するということは、教育環境のあり方としておかしいと思います。

教育というものは、まず家庭があって、そこに学校や地域が関係してきます。もちろん様々なケースがありますが、基本的には家庭中心でなければ、子の教育をすることは難しくなります。だってそうでしょう、自分たちが授かった子なわけですから、家庭中心でなくどうするというのでしょうか。先生は家庭の事情も理解してくれますし、できるだけ寄り添ってくれるよう努力をされていることが多いかと思います。だからと言いまして、保護者が早く出勤をするから、校門も早く開けてくれというのは甘えを通り越して、無茶苦茶です。

私たち保護者は、学校というものをどこか勘違いしているのかもしれません。子を主に教育するのは家庭であって、学校は副次的な存在です。歴史的に見ても、寺小屋だって江戸時代になってようやく出来たものです。寺小屋がなければ、当たり前ですが家庭で子を教育してきたのです。子を育てることは大変なことです。現代的には出費もかなり多くなります。私が小学校のころは専業主婦のお母ちゃんも多かったと思いますが、今は共働き家庭が主流です。女性が働きに出ることは大いに結構なことですが、そうしないともたない事情もあります。一般論ですが、お父ちゃんの給料が上がらないのです。

先生方は家庭の事情に合わせて早く出勤する必要はありませんが、児童が早く登校してしまうことの背景は、実際には単純なことではなく、日本の社会や経済の複雑な事情がそのまま反映されてのことと言えましょう。子を育てるには出費がかさむと書きましたが、本当にお金のかかる世の中になったと感じます。ただ、わが家では子を3人恵まれまして、それなりに元気に育ってくれている現状において、振り返れば無駄な出費も多かった。たとえば水泳教室。次男だけ幼稚園から5〜6年はやったかなあ。やってない長男のほうが泳げます。あらまあ。

水泳教室が意味ないということではありません。次男にはあまり向いていなかったのです。それを無理矢理継続させていたから、出費だけかさんだということです。習い事というものは、何でもやらせればいいというわけではありませんし、よくよく子の特性をつかまないといかんなと思いました。ちなみに私自身はと言いますと、水泳教室は見学だけで拒否、英語教室は1年ちょっと、書道は祖母に習うも遊んでおしまい、公文だけなんとか数年はもったかという始末。習い事、嫌いなんですよね、実は。泳げますけどww

私はすぐ拒否するので出費はかさまなかったかもしれません。意外と親孝行。

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2019年11月05日

次世代の育成に不安

日本のお寺は今、転換期にあると言えます。伝道と経営のバランスが変わり、より経営に重きを置く必要が出てきていると感じます。こうしたなか、お寺では後継者育成を仏教の勉強・修行だけに特化するわけにもいかず、法人経営者としの勉強も必須となっていくかもしれません。しかし、仏教と経営は同じベクトルではなく、仏教思想を経営に活かすことは可能であっても、根本では異なる価値観をそれぞれ持っています。場合によっては混乱するかもしれませんし、うまく消化できないかもしれません。いずれにしても次世代は大変だと思います。

有難いことに善福寺にも後継者候補たる息子に恵まれたわけですが、住職としてどう導いていけばよいのか不安です。私自身は半ば荒廃しかけた状況を何とかしたいという思いで必死なだけで、計画なく進んで来てしまっただけです。自分と同じようにせよと言ったところで、状況が異なりますので彼も困るでしょう。そもそもやりたくないと思っているかもしれませんが、今はまだ私の言うことを聞いているだけです。来年度は中学生となりますが、どんどん色々なことを学ぶことでしょう。視野も広がります。親の言っていることに疑問も持つことでしょう。

お寺に生まれてしまったことは、たしかに住む場所には困らないのですが、自由はあまりなく制限のある生活をしなければならないことを意味します。とは言いましても、住むところはあるわけですから、坊さんにあまり魅力を感じなくとも、ひとまず僧籍をいただきまして、それから自分のやりたい事をしつつ、独自の坊さん像を作り上げていくのもいいと思います。息子にはお寺一色である必要はなく、色々なことにチャレンジするなかで住職としての素養を身につけてほしいと思っています。むしろ、そういう言い方しないと後継者になってくれないかもしれません。
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2019年10月30日

坊さんメランコリー

ようやく秋晴れが続きそうな天候になってきました。台風や大雨での被害は甚大でした。箱根登山鉄道も復旧の目途が立たないようです。強羅には函嶺白百合小中高がありますが、児童・生徒の皆さんが通学できているのか心配です。長男の学校でも通学路変更のままだそうです。今年は中部・関東・東北で被害甚大となったわけですが、毎年日本全国どこかしらで台風による大きな被害が発生しています。東京23区ではかなりのインフラ整備が行われておりますので、ひとまず今年は洪水等の大災害は避けることができました。しかし、コンクリートによる一方的なインフラ対応には限界があるのは目に見えています。そもそも、そんなものを日本全国に設置することは費用的に不可能です。経済活動中心の国づくりで果たして良いものなのかどうか、岐路にあることを感じます。

災害のこともありまして、今月はあまり気分が晴れません。先月は母の本葬、今月は報恩講というように大きな行事も続いたので、心身ともに疲れ気味で消極的な発想になっているのかもしれません。秋になりますと、たとえば金木犀の香りにふれると中高時代の学園祭を思い出します。香りのほか、音楽というものも思い出を蘇らせる効果がありますよね。あの曲を聴くとあの人を思い出すとか、それぞれあろうかと思います。秋のもの悲しさというものが、こうした気分をまた盛り上げてくれるのかもしれません。やや冷えるなか、夕方まで遊んで急いで帰路につく先には沈みゆく夕日が見えたりして、今でも夕日を見ると家で母が待っているかのように思えてきます。しかし物事は、つねに移り変わっていきます。諸行無常なのです。秋は本当に美しい日本の象徴のように思えます。

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2019年10月23日

経済は「経世済民」であってほしい

台風被害のあと、いきなり秋になりまして落ち葉も舞うようになりました。朝方冷えるので今日も落ち葉が増えそうです。県内の台風被害は甚大でした。南足柄市でも河川や土砂の被害があり、水道も一時的にですが止まりました。隣の箱根町では復旧作業にすら入れない状況だとも聞きます。毎年大きくなるような気のする台風ですが、やはり温暖化が影響を及ぼしているのでしょうか。ダムや堤防における想定を上回る降雨量をもたらすとなりますと、人工物での対応にも限界があるのかもしれません。鉄筋コンクリートの建物よりも、維持作業が必要とはいえ木造の建物のほうが長持ちをするようですし、人の手によるものであっても、出来るだけ自然の真似事をしたほうが正しいようにも思えます。

個人的な思いですが、日本は国家として成熟しつつありますし、これからは成長よりも維持することが課題かと思います。商売をしてお金儲けをすることだけを念頭にしていると、結局のところ私たちの生活基盤である衣食住の確保が疎かになることにつながるでしょう。経済活動は必須ではありますが、そもそも「経済」とは「経世済民」のことであるとの説もあります。商売することは大いに結構なことで、寺院であっても商売的側面はあります。なければ維持できません。維持するだけでも必須ではあるのです。しかし、それはやはり経済活動なのですから、「世を経て民を済(すく)う」ものでければなりません。商売をすることが人々の衣食住を支えることになっていかなければ、日本の未来は暗いものになることでしょう。

私は近隣の奉仕団体にも所属しておりますが、そこには小田原地域の社長さん方も所属されています。そこでは職業を通じての奉仕活動を学び実践していくことを目指しており、まさに「経世済民」を本旨としているかのようです。私は住職なので本来的には商売をしているわけではなく、むしろ「経世済民」に共鳴するところはあるのですが、私以上に奉仕に熱心な社長さんもたくさんおられまして、感服するところも多くあります。昭和時代には高度成長とともに成金的な者も多かったようですが、今は金ぴかな社長さんは少ないのかもしれません。創業してうまくいく業種がネット関連のもになったということもあるのかもしれませんし、昭和時代の創業であっても、世代が変わったからということもあるかもしれません。

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2019年10月19日

再起動〜なかったことにする

先月末に母の本葬・四十九日・納骨を終えました。よくあることなのだと思うのですが、気分がすぐれません。やる気が出ないのです。10月は比較的昼間に時間が空くことが多く、留守番が多かったのも関係するかもしれません。あまり暇だと困ってしまう人なのです。しかし、来週末には報恩講があります。再起動しないといけません。

私の好きな映画『ターミネーター』シリーズも、「再起動」を目指した続編がありましたがコケました。意外と難しいことなのかもしれません。来月にはそれはなかったことにして再度続編が公開されるとのことです。往年のキャラも再登場とのことで、とても楽しみです。不滅ですね。

なかったことにする。日本的伝統においても「水に流す」という思考があります。いい考え方だなあと思います。私は今までこういう思考が出来なかった人なのですが、今日からは都合の悪いことは「なかったことにする」ということにして、何事もスッキリといきたいと思います。

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2019年10月02日

皆様に感謝申し上げます

母の本葬を執行しました。門徒さんにも通知させていただき大勢の方にご参拝いただきました。皆様、本当に有難うございます。無作法なところがありましたこと深くお詫び申し上げます。生前は母が大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。受付には総代さん世話人さんにご協力をいただきました。日曜日であるにも関わらず快くお引き受けいただき、感謝の言葉もございません。ロータリークラブの仲間もお参りに来てくれました。また、中高時代の友人も遠くから駆けつけてくれました。彼らの友情に深く感謝いたします。すべてが有難い母を通しての仏縁であり、あらためて母の慈悲を感じました。自分自身が生を受けてから今まで、つねに導きをいただいていたことに改めて気づくことが出来ました。

私と両親の関係は本ブログで綴ったとおりですが、1つの区切りを迎えたことは確かなようです。過ぎたことはもうそのままにしておこうと思っています。何かが解決されたわけではないのですが、そのままで良いと思うことが出来ました。父はまだ元気でありますので、これからは父とどういう感じになるのかは分かりません。私は46年間という長い時間をほぼ両親とともにしてきました。綺麗なことなんてありません。何度も言い合いをして喧嘩をして時には涙してきました。本気であるからそうできたのでしょう。両親を縁として大きく育てられたと言えるかもしれません。どの家庭でも多少なりとも問題はあることでしょう。問題があっていいのです。こういう息子につき合ってくれた母に感謝いたします。

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2019年09月24日

南足柄市の小中学校再編

南足柄市では現在、公共施設再編についての市民懇談会が行われています。私が気になるのは小中学校の再編問題です。簡単に言えば、少子化展望にともない、校舎も老朽化して予算も不足気味なことから、学校を合併して学区再編をするというものです。計画案によりますと、どうやら善福寺を開校の場とする福沢小学校も廃校計画に上がっています。人口の多い東京におきましても、たとえば私の母校も隣の小学校と合併して新しい学校になるようですし、これは全国的に見られる計画なのかもしれません。

学校がなくなることは、地域にとって寂しいことではあります。福沢小学校も開校する際には、地域住民の強い要望と尽力があったと聞きます。こうした公立の小中学校というものは、地域住民にとって輝く存在であることでしょう。それがなくなってしまえば、地域の空気も違ったものになってくるかもしれません。いずれにしましても、大きな存在感を持っていることは確かです。それがもし、唐突にあと数年後にはなくなるということになれば、現在通学している子を持つ親御さんも多いわけですし、混乱を招くことでしょう。

少子化だから、老朽化したから、予算がないから、理由は明確に挙げることができるでしょう。それはおそらくいずれも理に適っており、決して批判的な目を向けているわけではありません。ただ、長い歴史を持つ学校ですし、そこには多くの市民の声や思いがつまっています。ここは拙速よりも巧遅でしょう。いきなり児童・生徒数が2〜3人になるというわけではありません。天災は予測できませんが、いきなり校舎が崩れ落ちるわけでもありません。いきなり予算が不足する事態になるということも、あっては困ります。歴史を振り返るような余裕を持ってほしいと思っています。

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2019年09月22日

善福寺能のご案内

報恩講で鎌倉能舞台による善福寺能を開催します。今年は「杜若」です。

東国行脚の僧が三河国の八橋の沢辺に憩い、咲き匂う杜若に見とれていると、里の女が現れ、八橋の杜若にまつわる故事を語り、杜若こそ在原業平の形見の花だとのべて、僧を自分の庵室へ案内する。女は唐織を、初冠・長絹・飾太刀に装いを改め、自分は杜若の精だと告げ、業平は極楽の歌舞の菩薩の化身であり、その詠歌は法身説法の妙文で、非情の草木も救われると説く。続いて、業平の多くの恋愛事も、結局は、彼女たちを済度するための方便としての結縁だったと明かされる。(『能楽ハンドブック改訂版』、三省堂2000年)

10月26日(土)午後5時 善福寺本堂 是非お参り下さい!
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2019年09月01日

遺族の心情に寄り添うよう

先日母が亡くなりまして、ひとまず近親者で密葬を済ませました。後日、本葬をする予定にあります。施主になりましたのは祖母以来2度目のことですが、母となりますと当然のことながら思うところは大きかった。両親のことでは長年非常に頭を悩ませてきましたので、親不孝な解放感と同時にそれに伴う罪悪感もあり、少々疲れました。私は皆さんの葬儀をする立場にありますが、改めて皆さんそれぞれがそれぞれ、異なる思いのなか葬儀に臨まれているということに思い至りました。悲しみでいっぱいの方、感謝の心でいっぱいという方もいらっしゃれば、私のように感謝してるのかしていないのか、何だか自分でもよく分からないという方もいらっしゃることでしょう。浄土真宗では通夜のあと必ず法話をしますが、可能なかぎり遺族の心情に寄り添うよう心掛けたいと思います。これも母からの学びの1つなのでしょう。やはり母とは有難い存在です。

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2019年08月19日

今週は巨人戦でドームに行きます

今年も無事お盆を終えることができました。この脱力感がたまりません。まるで中高時代の中間期末試験後のようです。「あれやろこれやろ」と思っていても、いざその時になると「何しようかなあ〜」となるのです。中高時代はそれで結局ゲーム、ドラクエ。昨日は久しぶりに甲子園をテレビ観戦しました。すごい良かったです。おじさんになったからなのか、子と同じ年代の選手が奮闘している姿に喜びを覚えました。あのピッチャー、うちの娘と同学年だよ・・・、とか。同学年には見えないほど心身ともに鍛えられている姿、カッコよかった。わが娘も昨日は模試でしたが、帰りは何やらセーラームーンのグッズを買いにどこかでフラフラしていたようです。セーラームーンですよ、セーラームーン、お仕置きするという。娘、高2なんですよ。プリキュア世代なんだけど、最近また流行っているのか不明です。精神年齢どうなってんのかなあ。

今週は巨人戦のチケットをいただいたのでドームに行きます。今年はロータリーの先輩に2試合もいただいてしまいすごい嬉しい。巨人好きも松井選手がヤンキース行ってから徐々に薄まってきてしまっていたのですが、ここにきてまた復活しそうです。やっぱおっさんはプロ野球観戦しながらビールがよく似合うと思うのです。ところで、チケットをいただいた先輩はご自身でご創業されたIT関連会社の社長さんなのですが、とてもダンディであり茶目っ気もあり人望もあり貫禄あり、しかも話がとてもうまく、尊敬する先輩です。坊さんやってますと、どうしても他業種の方との交流が減りがちなのですが、知り合うことができて良かったと思います。有難うございます。私が思うに、寺の住職、お医者さん、学校の先生、この3つの職業に共通して言えることは閉鎖性、あえて言えば独善性かもしれません。もちろん一般化はできないことなのですが、主観として住職は自分でやっているので常にそう感じますし、お医者さんは兄を見ていると、医者として独善的であるべき側面はあるんでしょうが、まあ医者以外の人の意見はあんま聞かないって印象です。兄だけかもしれませんけどww。それから学校の先生ですが、こちらは以前、私がPTAの会長やっていたときの校長先生がよく仰っていたことで、そうなりがちだから、積極的に異業種の方の講演を聴くように現場の先生にはご指導されているとのことでした。教育委員会の会議におきましても、先生方は問題解決に本当に真摯に向き合っておられるのですが、狭い人的交流のなかで堂々巡りをしているような印象を受けることもあります。おそらく学校での問題は先生方が何とかしないといけないという自負心のあらわれでもあるのでしょうが、少々窮屈に感じることもあります。いずれも業界的に閉じがちであるということもありますが、IT時代になり問題もかつてとは違う方向や新しい要因を持って出てくるなか、旧態依然になりがちな代表選手がこの3業界であるかもしれません。坊さんはちょっと違和感ありますが、皆さん「先生」と呼ばれてしまう職業ですし、同じ「先生」でも士業の方は異業種と関わる仕事も多そうで、この3業種は異業種と積極的に交流しなくとも本質的には成立可能なところが問題なのかもしれません。

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2019年07月26日

今昔 お寺からの眺め

善福寺サイトに新しいページが誕生しました。その名も「今昔 お寺からの眺め」。善福寺近辺から神奈川県西部まで、歴史深い風景をご紹介できればと思います。まずは今月の7月29日(しちふく)にツアーのある南足柄七福寺。他にも順次内容を充実させていきますので、ご覧ください!

http://www.zempukuji.or.jp/konjyaku

善福寺住職 伊東昌彦
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2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

posted by 伊東昌彦 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii