2019年08月19日

今週は巨人戦でドームに行きます

今年も無事お盆を終えることができました。この脱力感がたまりません。まるで中高時代の中間期末試験後のようです。「あれやろこれやろ」と思っていても、いざその時になると「何しようかなあ〜」となるのです。中高時代はそれで結局ゲーム、ドラクエ。昨日は久しぶりに甲子園をテレビ観戦しました。すごい良かったです。おじさんになったからなのか、子と同じ年代の選手が奮闘している姿に喜びを覚えました。あのピッチャー、うちの娘と同学年だよ・・・、とか。同学年には見えないほど心身ともに鍛えられている姿、カッコよかった。わが娘も昨日は模試でしたが、帰りは何やらセーラームーンのグッズを買いにどこかでフラフラしていたようです。セーラームーンですよ、セーラームーン、お仕置きするという。娘、高2なんですよ。プリキュア世代なんだけど、最近また流行っているのか不明です。精神年齢どうなってんのかなあ。

今週は巨人戦のチケットをいただいたのでドームに行きます。今年はロータリーの先輩に2試合もいただいてしまいすごい嬉しい。巨人好きも松井選手がヤンキース行ってから徐々に薄まってきてしまっていたのですが、ここにきてまた復活しそうです。やっぱおっさんはプロ野球観戦しながらビールがよく似合うと思うのです。ところで、チケットをいただいた先輩はご自身でご創業されたIT関連会社の社長さんなのですが、とてもダンディであり茶目っ気もあり人望もあり貫禄あり、しかも話がとてもうまく、尊敬する先輩です。坊さんやってますと、どうしても他業種の方との交流が減りがちなのですが、知り合うことができて良かったと思います。有難うございます。私が思うに、寺の住職、お医者さん、学校の先生、この3つの職業に共通して言えることは閉鎖性、あえて言えば独善性かもしれません。もちろん一般化はできないことなのですが、主観として住職は自分でやっているので常にそう感じますし、お医者さんは兄を見ていると、医者として独善的であるべき側面はあるんでしょうが、まあ医者以外の人の意見はあんま聞かないって印象です。兄だけかもしれませんけどww。それから学校の先生ですが、こちらは以前、私がPTAの会長やっていたときの校長先生がよく仰っていたことで、そうなりがちだから、積極的に異業種の方の講演を聴くように現場の先生にはご指導されているとのことでした。教育委員会の会議におきましても、先生方は問題解決に本当に真摯に向き合っておられるのですが、狭い人的交流のなかで堂々巡りをしているような印象を受けることもあります。おそらく学校での問題は先生方が何とかしないといけないという自負心のあらわれでもあるのでしょうが、少々窮屈に感じることもあります。いずれも業界的に閉じがちであるということもありますが、IT時代になり問題もかつてとは違う方向や新しい要因を持って出てくるなか、旧態依然になりがちな代表選手がこの3業界であるかもしれません。坊さんはちょっと違和感ありますが、皆さん「先生」と呼ばれてしまう職業ですし、同じ「先生」でも士業の方は異業種と関わる仕事も多そうで、この3業種は異業種と積極的に交流しなくとも本質的には成立可能なところが問題なのかもしれません。

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2019年07月26日

今昔 お寺からの眺め

善福寺サイトに新しいページが誕生しました。その名も「今昔 お寺からの眺め」。善福寺近辺から神奈川県西部まで、歴史深い風景をご紹介できればと思います。まずは今月の7月29日(しちふく)にツアーのある南足柄七福寺。他にも順次内容を充実させていきますので、ご覧ください!

http://www.zempukuji.or.jp/konjyaku

善福寺住職 伊東昌彦
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2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

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2019年06月07日

教育虐待という言葉に触れて

最近よく見かけて気になる言葉に「教育虐待」というものがあります。これは教育を受けさせない虐待ではないようです。むしろ教育の名のもと過度に子へ勉強を強制することにおいて発生する虐待であり、具体的には成績下降時の過度の叱責や制裁が当たります。成績落ちたら叱られる、成績落ちたからおもちゃ没収される。昔からよくあるシーンだと思いますが、やり過ぎなんです。

これは私の印象ですが、教育虐待というのは中学受験前後に関係することが多いように思います。今や中学受験準備は小学校に上がる直前から始まるという、何とも言葉にならないような驚きを禁じ得ません。本ブログでも数回書いたように思いますが、わが家では子そして私自身も中学受験に挑みました。その経験から申し上げますと、たしかに中学受験というものは「虐待性」を孕んでいると言えそうです。

中学受験は親が関与しながらも受験勉強の主体は親ではなく子だけになり、親がいくら立派であっても子が振るわなければうまく行きません。いわゆるお受験である小学校受験、そしてこれらとはやや性格の異なる高校受験においても虐待性は認められるとは思いますが、前者は親自身も受験対象となることもあるようですし、後者に至っては一部で中学受験化していることもあるとはいえ、一般的には親の関与は大きくありません。

このように中学受験は親の関与が高いと同時に、いかに子に勉強をさせ成績を上げるのかということが重大案件になりますので、結果的に過度の勉強をさせることにつながっていくことは容易に想像が出来るわけです。私自身もその落とし穴にはまりそうになったこともあり、今でも上の子に咎められることがあります。私自身は受験とは相性が悪いというか、努力をしないのがダメなんでしょうが、うまい結果ではありませんでした。子には自分よりも難易度が高い学校へ合格してほしいという一心、つまり自分の失敗経験の名誉回復を子に託すという無茶苦茶なことをしそうになったわけです。

幸い途中で気がついたので過干渉はやめたのですが、それでも上の子には辛い思いをさせたかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになります。とは言いましても、中学受験の骨格形成を担うことの多い進学塾は、塾生の成績向上による難関校合格こそが業績を左右することになるので、そんな家庭の事情なんてお構いなしに過度のカリキュラムを半ば強制的に提供してきます。

私は今、進学塾に対してやや批判的に書いてしまっていますが、実は勉強をたくさんしたからと言って難関校に合格できるわけではないという現実は、進学塾こそよく知っているはずです。努力を継続するということも含め、勉強にも先天性の要素がかなり影響します。もちろん子はまだ発達段階ですので、これから伸びていく子もたくさんいることでしょう。

小学校6年生において、今のその子にとって、学力のほか性格なども含めて適した学校に入学させることこそ、親が本来すべきことなのです。偏差値の高いより難関な学校に押し込むことではありません。一方、塾はその反対で、偏差値の高いより難関な学校へ塾生を合格させることこそ、彼らの本業です。親と塾では目的が一部重なりながらも、見るべき到達点は異なるということになるので注意が必要なわけです。塾は塾として至極当然のことをしています。

成績が親の思い通りにならなくても、それも含めて自分の子です。そしてそれと同時に、子は自分とは人格が異なる存在です。子は子の人生を歩んでいます。親とは違って当然。教育虐待が原因の1つとなって事件が起きることがあります。とても悲しいことですが、ねじ曲がった親心なんて子には不要であり、私もそうなるところであったと猛省をしています。

親子であっても、それぞれがそれぞれの命において生きています。親子は縁が深くつながりも深いわけですが、そうではあっても別々なのです。個々が独立しつつも縁によって結び支え合っているというイメージが仏教的な命の見方です。子は親の所有物でもなんでもありません。親が立派だからと言って親のように立派になならなきゃいけないわけもなく、親がいまいちだからと言って親より立派にならなきゃいけないわけでもありません。

私は基本的には中学受験には賛成です。10歳前後で脳を鍛えることはその後の発達にも好影響を与えると思っているからです。また、10歳前後になると個性がより確立され、皆が同じような学校で大丈夫ということにはならなくなってきます。真ん中の子は地元小学校ではやや浮いたろところがあり心配でありましたが、今、そういう浮いてる子がたくさんいそうな学校に通っており、自分より浮きまくっているような仲間に出会えて楽しそうです。

親子であっても自分勝手な「思い」の押しつけは迷惑な話ですよね。

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2019年05月01日

令和を迎えまして

令和元年になりましたね。今朝お経をあげまして、静かな1日の始まりでした。目の前の松田山や大磯丘陵を眺めましても、あたりまえですが何事もなかったかのよう。自然にとっては太陽が昇り沈む1日、そして季節がめぐる1年は大事であっても、元号はどうでもいい話ですよね。しかし、元号に慣れ親しんでいる日本人からしますと、なんとなく新たな気分になるような気もするかもしれません。元号の歴史については詳しく知りませんが、そもそもは暦を支配するということからはじまり、吉祥を願っての使用であったと思われます。そういう意味においては、現代では前者は機能停止していると言え、後者のみが情緒的に機能していると言えるでしょうか。

私はあまり合理的な思考の人ではないのか、情緒的ではあっても元号にはそれなりに居心地の良いものを感じます。実際のところ、西暦との併用が一般的ではありますので、元号はなくても問題ないという意見もあるかもしれません。ただ、西暦はあくまでもキリスト教の信仰を基準とした暦ですし、普遍的とは言えないものです。だからと言って、いつから人が人としてのスタートを切ったのかは分からないわけですし、人文的に決めざるを得ないのもたしかです。天皇が象徴であるのであれば、それに直接連関する元号も象徴ということになるわけですが、未来を思い描きこうありたいという国民の願いの象徴とするならば、それを漢字二文字で表現するのはなかなか文学的に趣きが深いと感じます。

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2019年04月30日

鼻毛は伸びる、耳毛も伸びる

門徒さんとお話をしておりまして、東京に出るとどうも鼻毛が伸びるとのことでした。理由を聞きましたら、田舎住まいでたまに都会にいくと排気ガスに反応するからと。半分冗談のお話でしたが、なるほどたしかにそれはあるかも。都会住まいの方々の鼻毛が伸びているということではなく、違う環境に行くと身体的防御作用が働くということでしょう。あり得る話かもしれませんね。

私も鼻毛はよく伸びるほうなのですが、最近は耳毛。耳たぶではなく、入口あたりから数本ひょいひょいと伸びてくるんですよ。ご高齢の方でもいらっしゃいますよね、かなりロングな方。若い頃は生えないものなのでしょうか。良く分かりませんが、いずれにしても最近耳毛なのです。耳毛は何で伸びるのかなあ。上記鼻毛の理論から言いますと、排気ガスのような有害物質が耳に入ってこないため?!

耳は鼻と違って空気を吸い込む機能はありませんので、入ってくるものと言えば音です。有害な音を耳毛がかき消すということなのか。ボウボウになると遮音性高まるのでしょうか。しかし、どのように有害無害を判定するのか、とても不思議です。毛にそんな人文的なことが出来るとは思えないのですが・・・。むしろ逆に遮音性が高まると危険ですよね。

耳毛が生える理由はおそらく別のところなのでしょう。年を重ねたら周囲の音や声が聞こえなくなるようでは困ります。耳自体の機能も低下するでしょうし、むしろ聞こえたほうがいい。また、年を重ねて経験を積みますと、どうも自己中心的になりがちなのも私たちです。自分のやり方が固まってくるからでしょう。頑固になってしまう傾向はありますよね。であれば、むしろ耳毛は綺麗にカットしておいたほうが良さそうです。

周囲の声に耳を傾けることは、いつになっても大事なことだと思います。経験を積んではいても、それはあくまもで自分自身という狭い経験でしかなく、あまり頼りになるとは言い難いこともあるでしょう。年を取ればなおさら、家族の声にちゃんと耳を傾けるようでありたいと思うのです。たとえば車の運転もそうですよね。私は車が好きなので、ハンドルを手放すことが出来るか不安です。でも、耳を傾けていきたいと思っています。

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2019年04月27日

令和小学校になる

10連休ですね。お寺はあまり関係ありません。今日から気分だけ味わいたいと思います。娘が海外に行こう行こうとうるさいのですが、大人になったら勝手に行けと言っておきました。私だって行きたい。住職交代したら行こう。でもあまり行きたいところはなく、ハワイ別院とブータンぐらい。あと台湾。旅行は好きなんですが、前日になると急にめんどくさくなる性分なので、そんなに欲求はなく平穏です。

自分自身、放浪性はまったくなく、異様に土着性が高いと分析しています。故郷の中野には特別な思いがありますし、今いる大雄山周辺もいいとこだなあと思っています。ただ、中野はやや薄れてきたかなあ。ここ15年で随分と様子も変わったようですし、母校である上高田小学校も隣の新井小学校と統合され、あらたに令和小学校となるようです。ニュースでやっててビックリしました。こんなかたちで母校が出るとはねえ。

中野には母方の伯父が住んでいるのですが、たまには会いにいきたくなりました。
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2019年03月30日

学歴社会の難しさ

昨日、教育委員会辞令交付式に参列してきました。開式時間ギリギリになってしまい、毎度のことですが申し訳ございません。ご定年になられる先生方のほか、ご退職・ご転任になられる先生方が大勢来られていました。教育長の言葉のなかに、点数だけにとらわれる教育ではなく、その先につながっていく教育を目指すという内容がございました。私も賛同いたします。点数、つまりペーパー試験で良い点数を取ることは、児童・生徒にとりましては勉強の第一義とも言える事柄です。しかし、先生方や保護者からしますと、点数を重視しながらも、同時にそれ以上に児童・生徒の将来への展望を持たねばならない。教育の第一義は決して点数ではないと思います。

日本はある程度学歴社会ですので、たとえば一部上場企業に入社したければ、その会社が設ける学歴のフィルターを通過しなければなりません。また、今最も人気のある国家資格と言える医師になるためには、事実上、医学部医学科へ進学しなければなりません。私も大学で就職活動にあたる頃、父の勤務する会社もしくは関連会社の様子を父へ聞いたところ、悲惨なことに一蹴されました。ちなみに父のみならず母もその会社出身であり、かつ大伯父がかつて役員でありましたが、それでも私なんかではダメなのです。もしかしたら、業界として私には向いていないと父は考えたのかもしれませんが、学歴としてダメだともはっきり言われました。

こうしたこともあるので、試験で点数が取れるようになることは日本では意味あることになります。将来の目標が学歴に関与するのであれば、頑張って点数取るしかないでしょう。会社がなぜこうした学歴フィルターを設けるかと言えば、簡単に言えば手っ取り早いからだと思います。会社は教養があり、その会社にとって有為な人材が欲しいのですが、入社希望者の評価を一からやるとなると時間がかかって仕方がない。今までの経験からして、学歴で判断しても問題ないことが多かったので、多くの会社で学歴が入社判断の主要基準とされるのでしょう。ということであれば、それを否定するのは教育とは言えません。

ただし、ペーパー試験の出来不出来が人物評価の中心になるような社会は異常ですし、試験が得意だというのはその人のひとつの側面でしかありません。試験難易度の高い学校を出たからといって、その人が本当に社会にとって有為な人物かは計り切れません。社会で何をしたのかということのほうが重要でもあります。学歴フィルターは会社という小さな枠内であれば機能するでしょうが、社会は一部上場企業だけで成り立っているわけではないので、教育現場において、ペーパー試験だけに意識を注がせるような指導には関心出来ません。試験はあくまでも通過点であり、通過しなければならない関門ではありますが、それは将来、ひいては人生の目的でもなんでもない。

今も昔も、たとえば東大に何人入ったとか、東大東大とだけ連呼するような高校は、はっきり言って教育を放棄していると思えます。東大に何人入ったということが高校の評価になるならば、こんな簡単なことはない。東大に入るのは難しいことだけど、そういう学校にしたいのであれば、塾と同じことをすればいい。塾のノウハウを学校に注入し、大きく特待生枠を設け、入学試験を何回もやったりして有能な生徒を入学させることが出来れば、おそらく10年もすれば東大に合格する生徒が増えてくる。でも、それは塾がやる仕事でしょう。塾は教育を支えてはくれていますが、決して教育を主目的にしているわけではない。塾は営利が主目的であるのだから、東大に何人合格させたというのが宣伝になっていい。

しかしながら、学校は違う。私立学校でも学校法人であれば営利第一であってはならないはずです。もちろん、学校であっても経営していかねばならないので、生徒が集まらねば苦しい。集めるためにはどうするのか、誰でも思いつくことはいわゆる進学実績を上げることでしょう。保護者にとっては、出来れば高い実績のある学校に子を入学させたい。その実績のなかに子が入るかは未知なのですが、少なくともその学校に入学できれば、その権利を得たかのような錯覚に陥る。本当は子自身が入学後に努力をしなければならないわけですが、親というものは愚かなもので、そう思ってしまう。いい会社に入るためには学歴が重要だし、だから進学実績ばかりに目が行ってしまう。

何だか悪循環です。進学実績ばかりアピールする学校が増えたからなのか、それとも進学実績ばかりに目が行く保護者が増えたからなのか。この時期、学校別の東大合格者数が週刊誌やネットに出ますが、主観ですが昔よりも一部の学校に合格者が集中しすぎているような気もします。そりゃ成績優秀な学校はそれはそれでいいんですが、そのからくりは何なのかなあと考えますと、上記のような状況もあるかと頭に浮かんでしまいます。東大に子が入学できれば嬉しいことですが、無理に押し込んでも意味がないし、入学が目的になって欲しくない。その先がどうなのか、そこまで考えての東大であれば大いに応援するところだけど、東大東大とだけ連呼している学校は、ちゃんと生徒一人一人の将来も見据えて連呼しているのか、私には分かりません。

社会に出れば、自分が数値化されて評価されることもしばしばです。しかし、それはあくまでも便宜上のことであり、会社等の限られた範囲で許されていることでしょう。数値化が一般的となれば、これは恐ろしいことです。そんな社会にはなってほしくないなあ。そして、保護者として親としても、試験の点数などの数値で子の出来不出来を判断したり、そこばかりに目が行く子に育ててしまうことがないよう、気をつけたいとも思っています。皆さんの周囲にも、学歴はそれほど高くなくとも、立派だなあと思える人がいらっしゃることでしょう。人は多様性の塊です。学歴だけではない。私たちはひとつの側面だけを切り取って話題にしがちですが、少なくとも人に関することであれば、それは慎重になりたいものです。

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2019年03月25日

思い出補正

皆さん、「思い出補正」という言葉を知っていますか?これはネット上で使われ始めた言葉なので、あまり古いものではありません。しかし、なかなか言い得て妙だと思うのです。たとえば昔のアニメについて、どうしても幼い頃に見ていたアニメには思い入れがあるものです。現代のアニメと比べてみても、やはり昔の、あの時のアニメに勝るものはないと思えてしまう。今のアニメはあそこがダメだとか、ここががダメだとか次々に文句は出るのですが、昔のあのアニメは無批判に近くいいのひと言。

具体例を挙げれば、ガンダムの最初のやつと、最近のガンダムを比べるときなんかが当てはまります。明らかに古いほうが荒い部分が多いわけなんですが、それでも良い印象が心に焼き付いているのでしょう。私も聞かれれば、当然のように最初のガンダムのほうがいいと答えます。つまらない都合の悪い部分は忘れているんだと思います。その証拠に今、第1話からすべて観賞し直そうとは思いません。多分、つまらなくて第3話ぐらいで挫折することでしょう。たまに動画サイトなどで、面白い部分だけを観るからいいのかもしれません。

私は思考がネガティブなほうなので、物事を悪いほうへ考える癖があります。まあ、そもそも仏教ってのは楽天的な思考回路ではないので、生来の性格に加えて、仏教を学んだことも影響しているのかもしれません。良く言えば現実的であり、物事が奇跡的に上手く行くなんてことは考えもしないほうです。こんな私ですら、やはり「思い出補正」はかかるものなのです。不思議ですよね。過去のことになりますと、ネガティブな側面は忘却の彼方なわけです。

しかし、だからこそ生きていられるのでしょう。辛いことは忘れたいという思いは誰しもありますし、それをいつまでも昨日のことのように憶えていては辛さは増すばかり。うまく「思い出補正」されるように出来ているのです。冷静に考えて、補正がないと実際は結構ひどいもんだと思います。昔好きだった人であっても、おそらく今会わないほうがいいでしょう。補正されているからいいんです。年取れば昔と同じなわけないですし、幻滅するよりは補正のなかで楽しんでおくほうが得策でしょう。

仏教的に言いますと、それこそ自己都合の塊だということになります。現実直視が仏教なので、補正は意味がないということになりますが、そこは固いこと言わず、補正のなかで迷っているのが私であるならば、だからこそ救いの仏様はいらっしゃるわけですし、それでいいんだと思います。ネガティブ思考で、かつ原理原則を重んじてしまう頭の固い私ですが、少し柔らかくなってきたような気もします。インド仏教にはあまりない発想ですが、中国日本仏教においては、迷いも含めてあるがままを大事にする側面がありますので、それはそれでいいんだと勝手に納得するのです。

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2019年03月10日

無理すると苦しい

今日はちょっと法事が遅い時間なので午前中ひまです。

突然ですが、私は群れない方針で生きてます。単に友達少ないだけじゃん、ではなく。自慢星人なのでたくさんの人とつき合うと自慢疲れしてしまうからです。これを言い換えれば、あんま多様な人とつき合うとペースが乱れるから。大勢と知り合って会話をすることは大事なことだけど、どうも私には出来ない。だからいつまでたっても器ちっちゃいんだけど、「これでいいのだ」と最近開き直っているわけです。これでいいのです。

人生は苦だと仏教では説きます。なぜ苦しいのかと言えば、理に反して無理なことするから。無理とは理が無いことで、「そりゃ無理だよあんた」ってことでしょう。仏教では四苦と言いまして、生と老と病と死です。最後の死について言えば、「死にたくないって言っても、この世の命は有限だからねえ、無理ですね」となります。無理なこと通そうとするから苦しいことになると言うのは、たしかにその通りだと思います。まあ、普段から「それ無理それ無理」言ってると、やたら消極的でつまらん奴だと思われるから、あんま口にはしないほうがいいですが。

いずれにしても大人数は苦手で、なんでも少人数制がいい。バンドも人数少ないほうがいい。飲むのも少ないほうがいい。大人数だったら独りのほうがまだいい。すごい独善的になりそうだけど、もとよりそんな性格なので社交性があるとは言い難く、何事も独自路線になりがちで、結構な大失敗もするんですよ。誰にも相談しないから、ははは。でも、それでも自分で責任負えるようであれば、なんかスッキリしません?


私は会社勤めは難しかったでしょうが、坊さんだったらから何とかなっているだけかもしれません。お寺は多くの場合、とくに浄土真宗は家族でやっていくことが多いので、支えてくれる家族には感謝です。

人生は苦の連続で、それは自分で管理できるものばかりじゃありません。無理はしたくなくとも、無理しないといけない時もあります。誰でも無理はしたくない、そんなこと分かり切っていますよね。しかしその上で、しなくてもいい無理までしているのが私たちではなのかもしれません。辛いとこです。

私も大人数の飲み方にも出かけることありますし、色々な会や組織に属しているので、たくさんの方々とつき合うことは意外と多いほうだと思います。勉強になることも多く、多様なつき合いをすることは大事なことだと重々承知しています。そうではあっても、やはり群れないほうが自分にはしっくりきます。生き方に強いこだわりを持っているわけではありませんが、生きたいように生きたいと思うのです。難しいこともありますが、できればそうありたいと最近思っています。

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2019年03月06日

運転に出るその人の精神

車を運転しているとイライラもあります。小心者だから普段は大人しいけど、ハンドル握ると強気になってしまう。嫌ですよね〜。私です。不思議ですよね。人対人だとビビるのに、なんで車対車だと豹変するのか。車内にいるからか、外からは丸見えなんだけど。私のみならず、最近よくドライバー同士のトラブルがあるようで、皆でイライラが募っているのかなあ。

若いころ、やはり悪っぽくするのがカッコいいもんだと思ってました。バンドもやってたし、バンドの人って悪っぽく見える人多いでしょ。でも、いいバンドってのは、どこか真面目なとこがあって、チャランポランに見えても真剣にバンドやってるから曲もいい。主張や精神を精一杯歌詞にしたり、ギターやベースやドラムの求道者にようになっているのは、やっぱり真面目にバンドに取り組んでいるからだと思う。

私が好きなバンドって、着ているもの普段着なんですよ。派手な服装やメイクでいかにもロックスターってのも好きなんだけど(それはそれで真面目だから)、最終的には普段着バンドがいいようになったなあ。まあ、カッコの問題はどうでもいいんですが、心を打つのはそのバンドの精神に共感するからなんでしょう。人はやっぱり精神なんだと改めて思います。

車を運転するってことは、社会において結構重大なことです。下手すれば人命に関わるわけだし、真面目に取り組んで当然でなければならない。社会は多くの人々で成り立っているのだから、そのなかでの行動はチャランポランじゃ困る。固い言い方になりますが、運転だってちゃんと真面目に取り組まないといけない。大事なことに真面目になれるというのは、これはその人の精神によるところも大きいと思います。

マナーの良い運転は美しいし、何よりその人の精神の美しさを具現している。精神が美しいということは、チャランポランではなく真面目であって、初めて成し得ることではないでしょうか。そこに本当の格好良さというものはあるわけで、ちゃんとしているほうが余程カッコいいもんだと、昔々、母親に言われた言葉の意味がこの年になってようやく分かりました。

美しく、格好の良い運転を心がけたいものです。・・・とは言いましても、根が小心な私は運転でトラブルになったことはありません。少しばかり小心のほうが、むしろ良いこともあるかもです。

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2019年03月01日

修正する力

私は結構しばしば、よく間違いをします。昔は間違いをするのが嫌で、なかなか認められなかった。よくいるじゃないですか、そういう阿呆な輩。根拠のないプライドばかり高くってねえ、甘えん坊さんなんですよね。周囲に甘えていたんだと思います。甘えられるのっていい。とても楽。お陰様ですね。

とは言いましても、甘えられる周囲はたまったもんじゃありません。両親や友人、女房(坊守)はとても迷惑だったと思います。しかし40歳も過ぎたころ、周囲を見渡せば甘えられる人も年を取り、女房もいい加減にしろと言いたげな雰囲気を醸し出すなか、ようやく間違えを修正する方法を見出しました。

すごい簡単でした。周囲の人の話を聞くだけ。昔から自己中だったので、とにかく自分本位でした。大事なことも勝手に気分で決めたり、間違いを指摘されれば逆ギレ連発。うわっ出た、最悪なやつ。しかも酒癖悪いとくれば、私でも付き合いたくないと思えてしまう。ははは、こんな人嫌ですよねえ。

宇宙なんて間違いだらけだと思います。間違えるから進化があるのでしょう。間違えを放置しないで即座に修正できるから宇宙が成り立っているような気がするのです。修正する力が働くからこそ、何事も万事進んでいくのではないでしょうか。間違えたら修正すりゃいいんですよ。意外と簡単なことでした。

30代はなんだか生きづらいなあと思えるときもあり、座りの悪さを感じる日もありました。そういうのは結局自分自身の問題であり、自業自得という仏教の教えが身に沁みます。大事に育ちすぎてしまったのか、両親の慈愛に溺れていたのかもしれません。しかしまあ、何という成長の遅さ。呆れますねえ。

修正する力こそ進化の原動力なのだと思います。そのためには傾聴ですね。

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2019年02月08日

児童虐待の報に接して

児童虐待が増えているとの報道が今朝ありました。以前も聞いたことです。歴史的に見れば減っているとも言えるのかもしれませんが、現代的には増えているのは明白でしょう。報に接するたびに大きな憤りを感じます。仏教では阿弥陀如来の慈愛を親に譬えることがあります。如来は利他そのものですから、自分を省みないような親の愛をそこに見るのです。しかし、やはり如来と人とでは大きな違いがあります。あたり前のことですが、どんな親でもかつては子です。人はいつになっても経験から抜け出せないところがあります。如来はそうした過去の経験をすべて捨てているわけですが、人はそうはいきません。子であったときに受けた何らかの影響というものが、親になったときの行動指針になっていることは誰でも思うことでしょう。どんなに親が嫌いであっても、同じような親になってしまうということもあるようですし、それこそ経験から抜け出せていないことの証拠だと思います。

私もそうです。父の口癖は「勉強しろ」でした。私は父のように優秀ではなかったので、申し訳ないという気持ちと同時に、こういう親にはなりたくないものだと密かに思っていました。しかし今、私は子に向って「勉強しろ」です。なんだ同じではないか。酒ばかり飲んでいる父でした。ああはなりたくないものだと学生時代に思ったものですが、ああ、今日も酒飲みたいなあと思ってます、酒量は違いますが。基本的にはなかなか変わらないのが遺伝子なのか、良く分かりません。顔や声、仕草も似ているようです。

野田市での事件の父親は、いったいどんな家庭環境だったのでしょう。調べる気にもなりませんが、何かあったんだろうなあと思います。亡くなった子のことを思うと胸が張り裂けそうですが、こうした悲しい事件を少しでも減らすためには、児童相談所の充実や法整備はもちろんですが、基本は家庭環境の向上でしょう。景気が悪くなればこうした事件も増えるわけですが、それでもなお家庭環境を悪化させないため、国はもっと予算を割いてもらいたいものです。子は宝なんだと日本人は長年思ってきていること、今こそ忘れないでもらいたい。

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2019年02月05日

2月になるとわが母校

どうもこの時期、2月になると自分や子の受験を思い出してしまいます。何だか最近の受験は長丁場らしく大変です。私なんて獨協立教学習院でおしまい。いずれの学校も今より難しかったんですよ。立教や学習院なんて四谷大塚で言えば60前後はあったんじゃないかなあ。青山学院の女子なんて桜蔭やJG並みだったような気が。今、再び付属校人気らしいですが、小学生も大変。

なお獨協も今より10ポイント以上偏差値良かった…、と思う。先日、獨協中高の仲間と飯田橋で飲みまして、どうも獨協中高の経営はいかんねえという話になりました。偏差値ガタ落ちなんです。仲間は皆小規模ながら経営しているので興味があるんだと思います。私も一応、経営者の端くれなのですが、寺は会社に比べればのんびりしたもんです。住職であっても他業種の方と交流するのは価値あることでしょう。

学校もお寺も、時代とともに変化しないと置いてけぼりです。獨協中高はドイツ語を学ぶ学校が前身なので、かつてはドイツ語クラスもありました。でも今ではドイツ語の需要はあまりなく、ドイツ語クラスも消滅です。自由な校風で生徒の自主性が重んじられる学校でもありました。時代が変わりまして、ドイツ語という特徴がなくなった学校はカラーのない学校へ、そして進学実績を上げるため管理教育へ。

わが母校ながら、時代に乗るのが巧いとは言えないかなあ。ドイツ語の需要がなくとも、それが長年の特色であるのだからドイツ語教育を前面に出すべきだと思うし、今風の管理教育なんて伝統私立校には上手くできないでしょう。だって先生の顔見ても懐かしい顔多いんだから、そりゃ無理な話じゃなかろうか。ドイツは今なお学ぶべきところがある国だし、仮に日本でドイツへの興味が薄れていたとしても、それを逆手に取ってさらなる特色にしていけばもっと注目されると思うんだけど、気のせいか。

お寺も同じとこあるかもしれません。何でも今風がうけるわけでもなく、長年大事にしてきたところに、さらに磨きをかけるべきなのかと、わが母校の現状から学びました。有難う獨協中高!復活に期待!!

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2019年01月12日

ストレスフルな坊さん

40代ってのはどうも悩み多いですね。20代は親に甘えて、30代はいきがって、40代になってへこんでます。幸い子を授かったので子の進学、両親も幸い健在なのですが健康不安、おまけに肝腎の寺院経営も不安定と、皆さんも同じだと思いますが、これで50代さらに60代はどうなってしまうのか。もとより性根がないというか、フラフラしがちな性格で、そうかと思えば自己主張好きという困ったちゃん。主体性をもって生きているつもりなんですが、どうも人のことも気になるという、扱いにくい野郎なのです。女房も大変だろうなあと思います。そして実際大変そうだ。

先日、箱根であった新年会でのこと、お隣の方と話をしていまして、「ホントの話、ストレス解消って酒以外に何かあります?」って話題になりました。ないんですよね。マジでないんです。そりゃ色々とご意見あろうかと思います。スポーツやれば?とか。ぜんぜんやる気になんかならないし、わざわざ時間作るのもねえ。だったら一杯やるわってなっちゃう。でも飲み過ぎはよくないし、最近どうも二日酔いが激しくて翌日もよくない。ストレスあるから酒も進んでしまう。絵に描いたような悪循環。

仏教は本来出家主義なので、こうした世俗浮世のことは捨てて、修行に邁進するのが解脱への道だと説きます。まったくその通り。でも浮世離れしてしまっていて、これじゃあんま普通の人の悩みに応えることができない。途中から大乗仏教ってのが出てきて、これは利他を強調するのですが、普通の人が救われていく道も説くようになった。出家も大事なんだけど、在家にも注目が集まるようになって、日本仏教では在家主義も根づくようになった。浄土真宗の坊さんは出家しないから在家なんです。つまり私は坊さんでありながら普通の人で、浮世どっぷり坊主なのでした。

坊さんが修行のストレスならまだしも、日常生活や家族のことでストレス抱えるなんて笑っちゃうけど、日本仏教ではむしろ現象としてよくあることなのです。日本仏教は浮世において仏教しろって言うわけだから、意外と難しい面もある。坊さんが法衣のまま車運転して反則切符とか何とか話題になったけど、すごく浮世で笑えない。私も葬儀会館や火葬場行くのに運転するから。でもまあ、法衣のうえに作務衣でも羽織って、なおかつ運転用のスニーカーでも履いてれば問題ないので、ご当人は気の毒だけど、安全面も考えてこうすることにしました。すごい浮世。

でもこれ大事なことで、だから日本仏教はダメだとか、そういう意見には意味がない。出家主義が日本には根づかなったいことは事実だし、性に合わないんでしょう、日本人の。お釈迦様の説かれたところとは違うんだけど、それもまあいいんじゃないかと思います。日本仏教はこうして成り立ってるんだから、それでそのまま行ったほうが意味あることだと思う。宗教ってのは流れも大事だし、急に上からああだこうだと言うのは宗教として危険。上から目線の宗教ほど危険なものはないので、それは控えるべきでしょう。

現在はツイッターのような短文傾向ですが、どうも短文で表現できるほど国語出来ず、いつも長文化してしまいます。ツイッターで発信する人って俳句や短歌に強いと思うなあ。私は苦手だけど。センスあると思う。で、今回は何を言いたかったかというと、今年もストレス解消に悩みそうだなあということでした。好きなことやるのが一番なんだけど、ストレス多いときって、どうも好きなこともやる気にならないことあるので、早めにやってしまうのがいいかも。今、任天堂DSのファイナルファンタジー3やってます。毎年やろうやろう思って買ってあったんだけど、ぜんぜん進んでなかった。

でもこれ、リメイクなんだけど基本古いRPGだからか、レベル上げを意識しないとクリアできないから大変。昔、獨協中高時代の友人K君が中2か中3の頃これやってて、あまりにも理不尽な難度に憤慨し、コントローラー投げる程度ならいいものの、本体のファミコンを破壊したという逸話があります。ラストダンジョンの難易度はリメイクで下がったようですが、気持ちは分かります。その彼も、いまでは立派に飲食系のご家業を継いで、六本木で獅子奮迅の活躍を見せています。中学のころ、K君の家によく遊び行って(六本木だからか妙に大人になった気分ww)近くのゲーセン(たしかスクエアビルの1F)でストリートファイターをやった。ストUじゃなくて初代のやつね。しかも思い切り手で叩くっていうアレ。K君うまくてねえ〜

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2018年12月12日

おじさん的な感動の仕方

皆さん、『マイティジャック』という特撮をご存知でしょうか。『マイティボンジャック』ではなく、円谷プロ制作のほうです。私はウルトラマンな世代(しかも幼稚園でタロウかレオがリアルタイム)なので、名前しか聞いたことなかったのですが素晴らしい作品ですね。発進するとこが『宇宙戦艦ヤマト』のようで、私はヤマトのオリジナルかと思っていましたが違いました。また、『Thunderbards』のあと数年で作られたらしく、これまた凄いなあ。

おじさんになったせいか、どうもCGばっかりだと感動が薄れるんですよね。CGも好きなんですが、質感はまだ本物にかなわないですし、作り物感があふれていても特撮のほうが感動してしまう。なんでかなあ、CGだって製作している人は大変な努力をしているはずなんだけど、特撮のほうがそれが伝わってくるですよね。まあ多分、私がそういう世代だからなんでしょうが、心が伝わりやすいってとこもあるかなあ。おじさん達の努力がにじみ出ている。

心の伝わり方ってのは、おそらく世代によってかなり違うんでしょう。最近は他にも、ファミコンで高度なグラフィックを実現していたゲームに感動しました。おじさん的な感動の仕方だと思います。
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2018年12月02日

電話嫌いになっている私

堀江貴文さんは電話嫌いなようで、何かの記事でそう仰っていました。私の記憶によりますと、たしか一方的に電話かかってきて、いきなり貴重なマイ時間を占拠されるからというような理由だったと思います。う〜む、なるほど、たしかにその通りの側面はあるわけで、実は私も中年になってから電話不得意です。メールに慣れてしまったからでしょうか、電話で要件をいきなり前触れなく言われますと、その瞬間での回答に窮してしまうことがあるのです。折り返し電話すれば良いのでしょうが、だったらメールや何かのほうがいいのになあと思ってしまいます。

中高時代、とにかく電話大好きでした。友人の電話番号、まだ二人分は完璧に憶えています。なんとその番号は東京03のあと、4ケタではなく3ケタになりますので、随分昔のことになるなあと感慨深い思いがします。やたら深夜まで電話。用事なんてないんですよ。今からカップラーメン食べるとか、あ〜つまんね〜、とか互いに言ってるんだからアホかと思いますよね。電話代もかかるので親にはよく叱られました。とにかく今じゃ考えられないほどの電話好きで、まあ、今は娘もラインの無料電話で同じような状態なので、若い頃はこういう状況になる人はある程度いるのかもしれません。

ちなみに坊守(=女房)は電話嫌いで、彼女が20歳だか21歳で私がその3つ上という時分に知り合ったのですが、とても迷惑そうでした。そんな私ですが、今じゃすっかり電話しない派になってしまい、なんでもメールかメッセンジャーかラインかって具合なんですから、年取ると性格変わるんだなあと感心します。言い換えれば、色々と考えないといけない状況や条件が多くなって、若い頃のようにほぼ何も考えず瞬時に回答することが出来なくなったのかもしれません。嫌ですね〜、今日ヒマ?と聞かれ、ヒマに決まってんだろ、と返答していた時代が懐かしく思えます。

ちなみにお寺の場合、ヒマなんだけどヒマじゃないというのが多く、ホントは今も結構ヒマなんですが、出かけるわけにもいかないので、ヒマに決まってんだろ、とは言い難いわけです。

メールなどに慣れてしまうと、たしかにいきなり重要人物から電話かかってくると焦ります。携帯だからこっちは移動中だったり、ほら、用を足している最中とか、色々な状況あるじゃないですか。焦って出ても即回答しないでいいような内容だったりすると、だったらメールしといてよね、と思ってしまうことしばしばです。ただ、メールなどもまだまだ全世代に浸透しているわけではないので、メールアドレス公開していてもメール見ない方もいます。個人的には見ないのであれば教えないでくれと思うのですが、これは仕方のないところでしょう。たまに見るとか、そういう使い方もないわけではないでしょうし。

堀江貴文さんの意見に触れまして、今まであたり前だと思っていたことが、実はよくよく考えてみると変じゃない?ってこと、結構あるもんだなあと思いました。あたり前の毒とも言えるでしょうか、物事、それがあたり前だと思ってしまうと思考停止してしまいます。私は堀江さんと同年代ぐらいだと思うのですが、この年でああいう思考が出来るのって凄いなあと思いました。私なんてもう凝り固まってしまい、新しい思考って出てこないんですよね。前例踏襲になってしまい、頭のなかがまるでお役所。それはそれで問題なく進むには都合いいんでしょうが、まったく斬新ではなくなりますよね。新しいものを受け付けなくなっている私ですが、今こそ、何か新しいものにチャレンジすべきではなかろうかと、思うだけ思っています。

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2018年11月08日

子を導くことの難しさ

ここ数年のことなのか分かりませんが、最近、主として公立中学校での運動部のあり方に注目が集まっています。簡単に言えばハードすぎるということです。休みは週1回というレベルなようですね。かく言う私は思い切り文化部な人なので、運動部事情は分からないわけです。文化部でも演奏系はハードらしいのですが、私はぜんぜん生物部。夏休みの餌やり当番はハードでしたが、もちろん気楽なものでした。顧問の先生はほぼいない状態でしたので、色々と自分たちでやりたい事考えて、結構楽しかったなあ。とまあ、繰り返しますが気楽なもんでした。

学校でのスポーツは教育の一環だということが、大学スポーツの問題に関係して再確認されたことは記憶に新しいことです。スポーツには勝敗があるものですが、観客に技術や戦略の高さを見せるプロでないのであれば、むしろ勝敗は価値として半副次的なものと言っても良いかもしれません。ましてや中学生において、まだ体格的にも成長過程にあるにも関わらず、勝利至上主義のもと部活動をさせるというのは、自主運営文化部、そして部活ではなかったですがこれまた自主運営バンドで青春していた私からすると、なかなか別世界に思えてくるのです。

おそらく運動部の方からしますと、その部活動から培った精神というものは貴重であり、社会に出てからも大いに役に立つということになるのでしょう。そして実際、社会のリーダーであるような方々にはスポーツマンの方が多く、立派だなあと思うことしばしばです。しかしどうやら、最近はあまりにも勝利にこだわりすぎたせいか、逆に中学生を苦しめているのではなかろうか、という見方が出てきているようなのです。昔の子と今の子を単純に比較することは出来ませんが、それでもなお、過度とも言える部活指導に苦しんでいるとのことなのです。

こうした部活には大人の指導者がいるでしょうし、保護者のサポートもかなりあるんじゃないかなあと思います。しかし、それでも問題視されている。生徒が自主的にほぼ毎日練習したいと言ってくるのか、問答無用で練習をさせているのか、もちろん個々のケースで違うことでしょう。しかし、中学生はまだまだ心身ともに成長段階にあることは間違いなく、直接であろうが間接であろうが、大人の指導があって初めて部活動が出来ているのは確かなことです。実のところ大人からすれば、中学生に「自主的発言」をさせるのは簡単なことだと思います。そう仕向ければ良いだけですから。

これは部活動に限ったことではなく、様々な習い事や受験塾においても似たようなことが言えると思います。たとえば私は子を中学受験させましたが、中学受験は完全に産業化しており、塾業者や一部の学校の扇動によって親は盲目的になりがちです。塾の用意した偏差値という、本来は学校のランク付けではないものが、あたかもランク付けのような存在となり、偏差値至上主義がまかり通っています。偏差値は志望校へ向けての勉強には役立ちますが、そもそも志望校は偏差値だけによって決めるものではないでしょう。とくに私立学校は独自教育をしているわけですから、偏差値だけで志望校を決めるのは奇妙な話です。

少しでも偏差値の高い学校へ子を入学させたい。こう思う親も多いわけですが、それは上記のような部活における勝利至上主義と重なって見えてきます。中学受験において、親は受験の情報源を持っていない場合が多く、ほとんど塾やその関係者からの情報に頼ることとなります。彼らは商売熱心ですから、一所懸命に親を偏差値至上主義へ誘導します。「お子さんなら、もう少し上の学校狙えますよ」、こう言われて気分の悪くなる親はあまりいないでしょう。しかし、そのためにはもっと講座を受講させて、ほぼ毎日、夜遅くまでお弁当持参で塾に子を拘束させねばならない。ライバルたちもやっているからと、親はあまり疑問に思わず費用をバンバン出す。

親がこうであれば、その話を真に受ける子も同じような思考になっていくことでしょう。親に喜んでもらたいのが子の本心です。だから難関校へ自分も行きたいと言う、言っているうちに、そのうちそれが本心のようになってしまう。大人によって、子が扇動されていく構図です。正直言いまして、小学生が難関校に行きたいとか、その学校がどんな学校かも予想できないのに、まだ中学校生活を体験したこともないのに、独自に判断できるわけありません。多くの場合、大人に言わされているんですよ。もちろん、実際に学校を見て本人が気に入った、それがたまたま難関校であった、ということもあるでしょう。しかし、見学に行く学校を選ぶのは親ですし、子が勝手に選ぶなんてことはレアケースです。

親であれば、わが子にはこうあってほしい、こんな大人になってほしいと思い描くことは罪ではありません。むしろ、そのようなイメージを持つことは必要で、だからこそ子を育てる責任があるんだと思います。難関校に入れたいというのも良いでしょう。しかし、それが本当に二人三脚のようになっているのか、親の独善的な発想・妄想、そして暴走になってはいないか、ちゃんと自己診断しないと危険だと思います。部活の試合で勝たせてあげたい、そのように考えるのは親としては自然です。しかし、子の成長速度よりも、勝利することを優先させていないだろうか。中学受験の場合は、それ自体が産業化しているところもさらに問題であり、子が塾経営の道具にされてしまう可能性すら孕んでいます。

私も中学受験を経験しました。結果、一時的に勉強大嫌いになりました。親には感謝していますが、これは事実です。

部活動も受験も必要です。部活動は正課では学べない仲間との連携や責任などを学ぶことが出来ます。受験だって基礎的な学力向上には不可欠だと思います。私は大学受験は推薦に逃げましたので、大学では英語、とくに語彙不足に苦労しました。そして、いずれも子に忍耐力を身につけさせることになりますので、この点においても私は評価しています。私は大学受験の苦労を知りません。そして、あまり忍耐力があるほうではありません。ただ、大人にはちゃんと子の気持ちに寄り添ってもらいたいと思うのです。子が主役であるにも関わらず、脇役である大人が勝手していませんか?子をうまいようにコントロールして私物化していませんか?私はこの点こそ最大の問題だと感じています。

私もまだ子育て中であり、子を導くことの難しさを日々実感している最中です。陥りがちな過ちとして、「オレがなれなかったものになってくれ」です。子が勝手に思うぶんにはいいんですが、押し付けになりがちなんです、私の場合。偉そうなこと書きましたが、自分自身が一番危なっかしい。

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2018年10月25日

eスポーツがオリンピックに?!

私はいわゆるファミコン世代で、街角にあるアーケードゲームも大好きでした。地元の新井薬師前駅付近にあるキク薬局という老舗薬局には、なぜかアーケードゲームが2台ほど設置されていました。ほぼ連日通っており、とくに「ドンキーコング(おそらくクレイジーコング)」と「タイムパイロット」がお気に入りでした。また、付近の廣瀬ビルだったかなあ、おでん屋さんの横に1台ぽつんとあり、あれ何だったか…、「ジャンピングバギー」という名だったか。すごい燃えました。50円です。あとはより新井薬師に近いおもちゃ屋さん「ふじや」にもゲームコーナーがあり、そこでは「ペンゴ」と「ドンキーコングJR.」、そしてさらに新井薬師門前の駄菓子屋さんでは、たしか「スクランブル」があって、そこではまだ眺めているだけの低学年でした。

しかし、それほどいい腕ではなく、まあまあといいったレベルです。下手じゃないんですけどね。ファミコンではやっぱりスーパーマリオです。これ燃えましたねえ。ほんとプロ級かと思えるくらい上達しましたが、中学で出会ったS君はさらに上手く、なんと江東区のダイエーかなんかで開催されたスーパーマリオ大会で準優勝したという猛者でした。彼にはゲームで勝ったためしがないと思います。スト2もやたら上手かった。

私、ゲーム凄い好きなんですよ。

最近、eスポーツ(エレクトロニック・スポーツ)と言いまして、スト2のような対戦型ゲームをスポーツとして捉えた概念が生まれ、これがまた世界的に流行っているようなのです。プロになると一般スポーツのプロ選手並みに稼ぐそうで、ゲーム少年であった私からすると驚きです。

ゲームでお金稼ぐ日が来るとはねえ。ゲームってのは、お金使うばっかりかと思ってた。

このeスポーツに国際オリンピック委員会が興味を示しているそうです。あれまあ、儲かりそうだと何でも取り入れるのか、スポーツと名称があるから問題ないのか、よく分かりませんが商魂メラメラです。とあるニュースで日本のeスポーツプロ選手が紹介されており、彼曰く「何時間も座ってゲームするから体力づくりのためにもフィットネスジムに通っている」(筆者要約)とのことでした。う〜む、ゲームは健康的だとは言えないし、これって事実上、トレーニングと言うよりも、体悪くならないためのフィットネスジム通いなんじゃないかなあって、率直に思いました。その選手がというよりも、スポーツなんだっていうことを取材側が取り付けたいのではなかろうか、と勘ぐってしまいそうな報道姿勢だったわけです。ゲーム好きだからeスポーツには批判的じゃないんだけど、オリンピックの精神とはズレているような気もするねえ。どうなんでしょう?

eスポーツはeスポーツでいいんじゃないかなあ。何でも1つに統合する意味ないし、それぞれでいいと思うけど。大きな勢力に取り込まれるとロクなことないのは今に始まったことじゃないし、個性を大事にしてもらいたいと思うのです。かつてスノーボードがオリンピック種目になる際、たしか「文化的に異なる」という理由で参加を辞退した有名ボーダーがいました。私はそういうほうが好きです。

それぞれが、それぞれの色を持っているわけですから。

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2018年10月18日

住職になるには「覚悟」か?慣れか?

医学部医学科で入試に関しての問題が噴出しています。卒業生の子を優先していることもあったという報道でした。この件につきまして、ある著名なお医者さんの先生が持論を展開されているようです。勝手に要約しますと、「医師家庭の子は医師になるための心構えが出来ている。学科試験に合格したのであれば、面接試験において医師家庭の子を優先しても問題はない」、ということだったかと思います。ここまででしたら、ふ〜ん、なるほどねえという感想程度だったのですが、その先生は何とご出家をされているようなのです。わが宗派と近い宗派とのことで、さらに驚きました。

僧侶資格試験のときに一度不合格となった際、若い子たちが合格するのに、なぜ自分は不合格なのかと担当者へ詰問したところ、寺の子たちは僧侶となる「覚悟」が出来ているから、というような返答であったそうなのです。なるほど、「覚悟」というと大袈裟ですが、たしかに寺院子弟は幼少の頃からお経に慣れ親しんでいる場合も多く、また、住職としての親を見ていれば、僧侶とは何なのか、何を考えて行動しているのか、ということを知る機会も多いことでしょう。そもそも住んでいる場所が寺なので、これはかなり特殊な環境下に置かれてはいますが、特殊な故、それが自然体となって身についていくことは貴重です。

浄土真宗は伝統的に世襲ですが、世襲ではなかった宗派であっても、やはり幼少の頃から小僧さんとして住職の元で寝起きを共にすることが多かったわけで、成長とともに僧侶になっていくのでしょう。これは神道においても同じでしょうし、また、伝統芸能においても同じことが言えるかと思います。親を間近に見て、親を真似て一人前になっていくという側面もあるはずです。ただし、もちろんそうではない場合もあるわけで、これに限ったことではありません。今は世襲の良い面を上げましたが、世襲への甘えからどうしもない奴が育つってことも大いにあり得ます。

世襲だと人材として小粒になりがちなので、要領よくこなすことだけが得意な人材が増殖するかもしれません。知った顔で融通を利かすようなことも増えるでしょうし、進歩せず停滞した仲良しグループになってしまいます。たとえば仏教界でいえば、仏教界が社会から置いてけぼりになりそうであるにも関わらず、それにまったく気づかない閉鎖性を生み出す原因にもなることでしょう。世襲というものは、マニュアル化の難しい特殊性(例:檀家さんとの良好なお付き合い方法)を面授・体得・継承するという点で優れていますが、わがままな甘えん坊を生む土壌にもなっていると思えます。

お医者さんの場合はどうなんでしょう。開業されている先生だと、お寺に近いようなこともあるのかもしれません。また、お医者さんは命を預かることもある仕事ですし、冒頭の先生が仰るように心構えが必要であることは間違いないでしょう。幼い頃から揺るぎない志があるならば、ちょっとのことで挫折することもないでしょうし、とくにお医者さんは一人前になるのに多大な費用がかかると聞きます。心構えは大切なことだと私も思います。ところで急に思い出しましたが、私の中高時代には周囲にお医者さんの息子が多くいました。なんちゃって進学校だったからでしょうか、結構どうしようもない奴もいたような…。すごいお金持ちなんですが、今何してんのかなあ。

坊さんの場合、「覚悟」はどうなんでしょう。そもそも「覚悟」とは「さとり」を意味するので、今はなくて良いのだ、という屁理屈が聞こえてきそうですが、やっぱり住職であるならば、「覚悟」がないと続けていくのは大変だと思います。私なんて、いまだに寺で暮らすということに慣れてません。「覚悟」がないんでしょう。自分でもそう思います。幼稚園ぐらいからお経は習っていましたが、家はお寺ではなかったので、お寺の特殊環境に慣れないのです。おそらく、これはおそらくですが、三人のわが子にとっては、お寺が普通に自然なこととなっていることでしょう。羨ましいなあと思うと同時に、それが故、休日に遠出が出来ないことを申し訳なく思います。ちょっと悲惨。

いずれにしましても、先生の仰ることは理に適っている側面もあろうかと思います。なお、これと入試の問題は別問題ですので、それが正しいのか正しくないのかは私には良く分かりません。

posted by 伊東昌彦 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii