Rockをもて仏教す Part10
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、そこだけ勝手に仏教解釈をしてみます。今回は高校1年のときに池袋で間違えて買ってしまい、けれども聴いてみたらかっこよくて今でも好きなThe Eaglesから、やはりHotel Californiaです。
Mirrors on the ceiling,
The pink champagne on ice
And she said, “We are all just prisoners here, of our own device”
And in the master’s chambers,
They gathered for the feast
They stab it with their steely knives,
But they just can’t kill the beast
イントロのギターから泣かせます。全体的にメロディーはとても憂鬱な雰囲気の曲です。1969年を境にしてアメリカの精神は失われしまったと嘆くことで有名ですが、それは商業的音楽の蔓延への批判を意味しているとも言われます。ただ、こうした高尚な譬喩と同時に、やはり注目すべきはドラッグ依存症への警鐘だと思います。ホテルカリフォルニアは鏡張りの天井ですとか、ピンクのシャンパンとか、とても魅惑的な場所です。でも、その滞在者は皆、そのホテルの魅惑に囚われている。と同時に、とても居心地のいいものだと感じてもいる。
ドラッグ依存症なのです。ナイフで他の滞在者を刺し殺そうとするけど、彼らを殺すことはできない。彼らは獣のような存在なのですが、おそらく自分自身も同類だから。ロックにはこうした、自己嫌悪からくる怒りを歌詞にすることが多いと思います。この曲は怒りに任せているわけではありませんが、ひどい苛立ちを感じます。自分自身に向き合っているつもりでも、背を向けてしまっている自分に頭くるのでしょう。それはそうです。ドラッグ依存症ではなくとも、誰しも自分自身に向き合うことは難儀なことです。たいてい自分の行動なんてダサいものですから。
理想と現実に悩み始めるとキリがありません。自分のダサさを受け入れなければ、いつまでも獣を排除することはできないでしょう。刺し殺そうとするのではなく、敢えて言えば受け入れることでしょうか、自分も獣であったということを。譬喩とはいえ、獣に失礼なような気もしますが、譬喩にあふれた魅力的な曲です。
2020年01月30日
2019年09月13日
2019年01月15日
Rockをもて仏教す Part7
Rockをもて仏教す Part7
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。前回のBad Religionと同時期に好きになったThe Offspringから、The Kids Aren't Alrightです。
When we were young the future was so bright
The old neighborhood was so alive
And every kid on the whole damn street
Was gonna make it big and not be beat
Now the neighborhood's cracked and torn
The kids are grown up but their lives are worn
How can one little street
Swallow so many lives
なんともまるで今の日本だなあと思えてしまう冒頭です。昭和48年生まれの私からしますと、ああ、そうかもね、と昔が懐かしんでセピア色。私が生まれ育った街も様変わりしたことでしょう。一緒に遊んだ仲間たちはどうしているかなあ。1人も消息知らんなあ。小学校入学から仲良くしてもらったH君、明るい未来を歩んでくれているだろうか。でも多分、40代になればそれぞれ皆モヤモヤ抱えながら生きてるんだろうなあ、と思わず哀愁漂ってきてしまいます。The Offspringも「泣きコア」ですからね。うんうんと大きく頷いて涙目でも構いません。
諸行無常なのです。平家物語そのものがこの世であり、鐘の音のように響いては消えていく。桜の花のように、美しく咲いては散ってゆく。桜の花は、明日は嵐が吹くかもしれずとも、それでも文字通り懸命に咲いています。散り際に美しさを見るのは、日本人の情けでしょうか、それとも達観した美徳とも言えるでしょうか。私には良く分かりませんが、洋の東西を問わず、諸行無常であることは普遍です。仏教は現実直視の世界観を持っています。現実の苦悩からの脱却として、苦悩の原因を自己のみへ求め、瞑想修行によって自己解決に至るのがインド仏教です。直視して修行スタート。
パンクロックはとても現実的です。私はパンクロックが大好きです。
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。前回のBad Religionと同時期に好きになったThe Offspringから、The Kids Aren't Alrightです。
When we were young the future was so bright
The old neighborhood was so alive
And every kid on the whole damn street
Was gonna make it big and not be beat
Now the neighborhood's cracked and torn
The kids are grown up but their lives are worn
How can one little street
Swallow so many lives
なんともまるで今の日本だなあと思えてしまう冒頭です。昭和48年生まれの私からしますと、ああ、そうかもね、と昔が懐かしんでセピア色。私が生まれ育った街も様変わりしたことでしょう。一緒に遊んだ仲間たちはどうしているかなあ。1人も消息知らんなあ。小学校入学から仲良くしてもらったH君、明るい未来を歩んでくれているだろうか。でも多分、40代になればそれぞれ皆モヤモヤ抱えながら生きてるんだろうなあ、と思わず哀愁漂ってきてしまいます。The Offspringも「泣きコア」ですからね。うんうんと大きく頷いて涙目でも構いません。
諸行無常なのです。平家物語そのものがこの世であり、鐘の音のように響いては消えていく。桜の花のように、美しく咲いては散ってゆく。桜の花は、明日は嵐が吹くかもしれずとも、それでも文字通り懸命に咲いています。散り際に美しさを見るのは、日本人の情けでしょうか、それとも達観した美徳とも言えるでしょうか。私には良く分かりませんが、洋の東西を問わず、諸行無常であることは普遍です。仏教は現実直視の世界観を持っています。現実の苦悩からの脱却として、苦悩の原因を自己のみへ求め、瞑想修行によって自己解決に至るのがインド仏教です。直視して修行スタート。
パンクロックはとても現実的です。私はパンクロックが大好きです。
2018年11月16日
Rockをもて仏教す Part 5
Rockをもて仏教す Part 5
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において、こういう難しいロックもあるんだなあと勉強になったBad Religionから、代表曲とも言えるAmerican Jesusです。
We've got the American Jesus
Bolstering national faith
We've got the American Jesus
Overwhelming millions every day
皮肉たっぷりのこの曲、パンクっぽくて好きです。Bad Religionは歌っているグレッグ氏が学者なせいか、とても歌詞は難しく真面目にパンクしてます。あんま不良っぽくない。だからなのかメッセージは明確かつ強力で、あんまファンタジってない。ステージもやたら普段着なので、親近感湧くんですよね。ホント、そこらへんにいるフツ―のおっちゃんって感じで、失礼ながら最近は頭もさっぱりしつつあるようです。
アメリカの神様は国家の信念を支えており、何百万人の人々を毎日圧倒しているとのことです。これは2回目のサビです。そもそもBad Religionっていうバンド名からして、何やらアメリカの宗教、つまりキリスト教、主としてプロテスタントを揶揄している雰囲気ありますよね。バンドのロゴは十字架禁止を意図したようなデザインです。この歌詞がアメリカ万歳、神様万歳を意味しないことは明白です。
地球上では歴史的にも現代的にも、宗教は政治と密接に関係していることが多いようです。日本も実はそうですが、欧米のキリスト教ほどではないかもしれません。そこは一神教とアジア的な多神教・汎神教の違いなのかも。日本だと宗教的な義務感ってあまり感じない、と言うかないに等しいですよね。一神教は唯一神のもと統合されるので、上意下達でこうあるべきだ論的に民意が動いていくことも多いのかなあ。
グレッグ氏において、神はいつの間にかアメリカという国家仕様になってしまったように見えるのでしょう。アメリカの振る舞いすべてを支える存在として、神は換骨奪胎されてしまった。グレッグが無神論者あるのかは分かりませんが、おそらく無神論者ではないでしょう。私にはそう思えます。宗教、キリスト教の人類的意義を真面目に考えているがゆえ、敢えて無頼に振舞っているかのようです。坊さんとして、グッときますね。
のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において、こういう難しいロックもあるんだなあと勉強になったBad Religionから、代表曲とも言えるAmerican Jesusです。
We've got the American Jesus
Bolstering national faith
We've got the American Jesus
Overwhelming millions every day
皮肉たっぷりのこの曲、パンクっぽくて好きです。Bad Religionは歌っているグレッグ氏が学者なせいか、とても歌詞は難しく真面目にパンクしてます。あんま不良っぽくない。だからなのかメッセージは明確かつ強力で、あんまファンタジってない。ステージもやたら普段着なので、親近感湧くんですよね。ホント、そこらへんにいるフツ―のおっちゃんって感じで、失礼ながら最近は頭もさっぱりしつつあるようです。
アメリカの神様は国家の信念を支えており、何百万人の人々を毎日圧倒しているとのことです。これは2回目のサビです。そもそもBad Religionっていうバンド名からして、何やらアメリカの宗教、つまりキリスト教、主としてプロテスタントを揶揄している雰囲気ありますよね。バンドのロゴは十字架禁止を意図したようなデザインです。この歌詞がアメリカ万歳、神様万歳を意味しないことは明白です。
地球上では歴史的にも現代的にも、宗教は政治と密接に関係していることが多いようです。日本も実はそうですが、欧米のキリスト教ほどではないかもしれません。そこは一神教とアジア的な多神教・汎神教の違いなのかも。日本だと宗教的な義務感ってあまり感じない、と言うかないに等しいですよね。一神教は唯一神のもと統合されるので、上意下達でこうあるべきだ論的に民意が動いていくことも多いのかなあ。
グレッグ氏において、神はいつの間にかアメリカという国家仕様になってしまったように見えるのでしょう。アメリカの振る舞いすべてを支える存在として、神は換骨奪胎されてしまった。グレッグが無神論者あるのかは分かりませんが、おそらく無神論者ではないでしょう。私にはそう思えます。宗教、キリスト教の人類的意義を真面目に考えているがゆえ、敢えて無頼に振舞っているかのようです。坊さんとして、グッときますね。
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2018年10月30日
Rockをもて仏教す Part 4
Rockをもて仏教す Part 4
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において最も影響を受けたRed Hot Chili Peppersから、初期の名作Behind the sunです。
Now while I shower in the rain
I watch my dolphin swim away
The one who listens to the surf
Can feel the pulse beat of the earth
And like my dolphin swims so free
The sun does swim into the sea
Behind the sun
この歌はもう、はっきり言って意味不明です。下ネタ連発なのか、それとも何らかの衝撃であちらの世界に行ってしまっているのか、私にはサッパリ分かりません。しかし、最初から最後まで、イルカちゃんが導き手になっているのは面白いなあと思います。イルカちゃんっていうのは、これは下ネタ系の暗喩だとは思いますが、本来的な自分自身ということなのではないでしょうか?作詞者は男性です。そう考えますと、意外と深い(?)歌詞に思えて来るから不思議。
海と太陽というのは自然の象徴でしょう。その代弁者がイルカちゃんなのですが、それは自分自身でもある。つまり、自然と自分自身は本来的にはつながっている、むしろ同一であるにも関わらず、自分自身はそれに気づいていない。凄い!やたらと深い歌詞になってしまいました。仏教では眼前に広がる自然も自分の心の投影だと理解します。敢えて言えば自分自身が、自分自身の心を眺めているのが自然なのです。それをイルカちゃんが教えてくれている。イルカちゃんこそ、おそらく真如からのはたらき、つまり自分自身の内面にある仏に他ならないのです。
曲名にもなっている「Behind the sun」という詞は、太陽の向こう側にこそ、自然の向こう側にこそ、真如法性はそこにあるのだという意味・・・、ではないかもしれませんが、そのように理解することは可能です。いずれにしても、とても難解な歌詞に見えるのですが、おそらく、もっと単純なことを言っているのだと思います。彼女と自分とのホットな時間のこととか、容易に想像できますね。ハハハ
善福寺 住職 伊東 昌彦
のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において最も影響を受けたRed Hot Chili Peppersから、初期の名作Behind the sunです。
Now while I shower in the rain
I watch my dolphin swim away
The one who listens to the surf
Can feel the pulse beat of the earth
And like my dolphin swims so free
The sun does swim into the sea
Behind the sun
この歌はもう、はっきり言って意味不明です。下ネタ連発なのか、それとも何らかの衝撃であちらの世界に行ってしまっているのか、私にはサッパリ分かりません。しかし、最初から最後まで、イルカちゃんが導き手になっているのは面白いなあと思います。イルカちゃんっていうのは、これは下ネタ系の暗喩だとは思いますが、本来的な自分自身ということなのではないでしょうか?作詞者は男性です。そう考えますと、意外と深い(?)歌詞に思えて来るから不思議。
海と太陽というのは自然の象徴でしょう。その代弁者がイルカちゃんなのですが、それは自分自身でもある。つまり、自然と自分自身は本来的にはつながっている、むしろ同一であるにも関わらず、自分自身はそれに気づいていない。凄い!やたらと深い歌詞になってしまいました。仏教では眼前に広がる自然も自分の心の投影だと理解します。敢えて言えば自分自身が、自分自身の心を眺めているのが自然なのです。それをイルカちゃんが教えてくれている。イルカちゃんこそ、おそらく真如からのはたらき、つまり自分自身の内面にある仏に他ならないのです。
曲名にもなっている「Behind the sun」という詞は、太陽の向こう側にこそ、自然の向こう側にこそ、真如法性はそこにあるのだという意味・・・、ではないかもしれませんが、そのように理解することは可能です。いずれにしても、とても難解な歌詞に見えるのですが、おそらく、もっと単純なことを言っているのだと思います。彼女と自分とのホットな時間のこととか、容易に想像できますね。ハハハ
善福寺 住職 伊東 昌彦
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2018年10月29日
Rockをもて仏教す Part 3
Rockをもて仏教す Part 3
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。
I’m playing my role in history Looking to find my goal
Taking in all this misery But giving in all my soul
Made in heaven, made in heaven It was all meant to be, yeah
Made in heaven, made in heaven That’s what everybody says
偉大すぎて説明の要なしと言えるQueenから、Made In Heavenです。実際にはボーカルのフレディ個人名義作だったかと思いますが、手元にあるのがQueen名義のCDなので、そういうことにしておきます。
この歌はもう思い切り宗教歌なわけですが、実は結構、多くの日本人にとりましては、心の底から共感するということが難しいかなあと思います。この歌を貫き通す信仰はズバリ、「神の思し召し」です。フレディ自身はゾロアスター教徒なのか、ちょっと良く分かりませんが、歌詞からは一神教的な思いを感じ取ることが出来ます。ゾロアスター教は一神教です。しかし、こうした一神教的な感覚は日本には根づかず、多神教やちょっと汎神教(←真理の現れが世界なのだとするような教えの分類のことでしょう)的な感覚こそ、一般的な「日本人」を作り上げている土台の一部と言えます。つまり、そこには人々が従うべき絶対的な神の存在性は薄く、物事それぞれがそれぞれ機能し、有機的にダイナミックに結びついている。敢えて言えば勝手に物事が進んでいくなかで、乗り遅れないよう一所懸命に祭祀をするのが日本人ではないかなあと。これは「自然」ということであり、あるがままにあるということを重んじるのが、日本的日常とでも言いましょうか。
さて、歌詞を見てみますと、自分は歴史上での「自分」という役割を演じ、自らの最終目的を探しているのだと言います。神によって定められた役割があるという信仰であり、それを知ることこそ人生なのだという、強い信念が見て取れます。おそらく、同じ一神教徒であるキリスト教徒の方々にとっても、大きく頷かれるところかと思います。その後に続く、悲惨な事柄も自分の魂のなかに受け入れようという歌詞からは、神に跪く敬虔な姿が想像されます。そして、こうした一連の事柄は「Made in heaven」、つまり、天国にいる神が造りたもうたものなのだ、それは運命なのだと、皆がそう言っていると結論づけるのです。
皆さん、いかがでしょう。私は坊さんだからでしょうか、こうした信仰のあり方に敬意を表すると同時に、どことなくこそばゆいような感触を禁じ得ません。ここまで大々的に信仰を表明できるというのは、むしろ立派なことだと思うのですが、自分にはないなあと。ただ、仏教では物事について、そのまま真実のありようを受け取ることこそ悟りなのだと説くわけですが、ゾロアスター教などの一神教においても、神の意思ということにおいて、実は同じようなことを言っていることに気づかされます。
仏教ではあくまでも自己における内的変革、つまり、余計なフィルターを通さず物事に透徹していく心を持つことを重んじます。坐禅のような瞑想修行はもちろん、仏への信仰においても、仏への信仰を通じて自己変革を達成することこそ仏道なのです。そして、その変革によって先入観による執着を捨て、真に自由なものの見方を体得していきます。すなわち、これは一神教徒においても、神の名のもとに悲惨さを含め、すべてをあるがまま受け入れていくのですから、そこに変革を見ることができるでしょう。道程は違えども、究極的には仏教であっても諸々の一神教であっても、同じような境地に達するのではないでしょうか(ただし、道程が異なるという点は重要です)。
歌詞にあるこうした表現の仕方に、違和感とまでは言わなくとも、なかなか共感を持てないというのが多くの日本人的感覚かもしれません。しかし、最後に行きつくところは同じであったというのは、面白いことだと思います。仏教では「八万四千の法門」と言いまして、人の数だけ教えの入口はあるのだとします。宗教が違うということは入口が違うということになりますが(本来は仏教内でのことですが、ここでは広く捉えました)、よくよく考えればどんな宗教でも同じ人間同士の営みなのですから、突飛なものではなく長く続いている宗教であれば、同じようになるのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。
善福寺 住職 伊東 昌彦
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ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。
I’m playing my role in history Looking to find my goal
Taking in all this misery But giving in all my soul
Made in heaven, made in heaven It was all meant to be, yeah
Made in heaven, made in heaven That’s what everybody says
偉大すぎて説明の要なしと言えるQueenから、Made In Heavenです。実際にはボーカルのフレディ個人名義作だったかと思いますが、手元にあるのがQueen名義のCDなので、そういうことにしておきます。
この歌はもう思い切り宗教歌なわけですが、実は結構、多くの日本人にとりましては、心の底から共感するということが難しいかなあと思います。この歌を貫き通す信仰はズバリ、「神の思し召し」です。フレディ自身はゾロアスター教徒なのか、ちょっと良く分かりませんが、歌詞からは一神教的な思いを感じ取ることが出来ます。ゾロアスター教は一神教です。しかし、こうした一神教的な感覚は日本には根づかず、多神教やちょっと汎神教(←真理の現れが世界なのだとするような教えの分類のことでしょう)的な感覚こそ、一般的な「日本人」を作り上げている土台の一部と言えます。つまり、そこには人々が従うべき絶対的な神の存在性は薄く、物事それぞれがそれぞれ機能し、有機的にダイナミックに結びついている。敢えて言えば勝手に物事が進んでいくなかで、乗り遅れないよう一所懸命に祭祀をするのが日本人ではないかなあと。これは「自然」ということであり、あるがままにあるということを重んじるのが、日本的日常とでも言いましょうか。
さて、歌詞を見てみますと、自分は歴史上での「自分」という役割を演じ、自らの最終目的を探しているのだと言います。神によって定められた役割があるという信仰であり、それを知ることこそ人生なのだという、強い信念が見て取れます。おそらく、同じ一神教徒であるキリスト教徒の方々にとっても、大きく頷かれるところかと思います。その後に続く、悲惨な事柄も自分の魂のなかに受け入れようという歌詞からは、神に跪く敬虔な姿が想像されます。そして、こうした一連の事柄は「Made in heaven」、つまり、天国にいる神が造りたもうたものなのだ、それは運命なのだと、皆がそう言っていると結論づけるのです。
皆さん、いかがでしょう。私は坊さんだからでしょうか、こうした信仰のあり方に敬意を表すると同時に、どことなくこそばゆいような感触を禁じ得ません。ここまで大々的に信仰を表明できるというのは、むしろ立派なことだと思うのですが、自分にはないなあと。ただ、仏教では物事について、そのまま真実のありようを受け取ることこそ悟りなのだと説くわけですが、ゾロアスター教などの一神教においても、神の意思ということにおいて、実は同じようなことを言っていることに気づかされます。
仏教ではあくまでも自己における内的変革、つまり、余計なフィルターを通さず物事に透徹していく心を持つことを重んじます。坐禅のような瞑想修行はもちろん、仏への信仰においても、仏への信仰を通じて自己変革を達成することこそ仏道なのです。そして、その変革によって先入観による執着を捨て、真に自由なものの見方を体得していきます。すなわち、これは一神教徒においても、神の名のもとに悲惨さを含め、すべてをあるがまま受け入れていくのですから、そこに変革を見ることができるでしょう。道程は違えども、究極的には仏教であっても諸々の一神教であっても、同じような境地に達するのではないでしょうか(ただし、道程が異なるという点は重要です)。
歌詞にあるこうした表現の仕方に、違和感とまでは言わなくとも、なかなか共感を持てないというのが多くの日本人的感覚かもしれません。しかし、最後に行きつくところは同じであったというのは、面白いことだと思います。仏教では「八万四千の法門」と言いまして、人の数だけ教えの入口はあるのだとします。宗教が違うということは入口が違うということになりますが(本来は仏教内でのことですが、ここでは広く捉えました)、よくよく考えればどんな宗教でも同じ人間同士の営みなのですから、突飛なものではなく長く続いている宗教であれば、同じようになるのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。
善福寺 住職 伊東 昌彦
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2018年06月20日
Rockをもて仏教す Part 2
Rockをもて仏教す Part 2
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。
The only thing real is the way I feel
And that's the pain that's deep inside
The battle from within is gonna begin
And there ain't nowhere to hide
(War inside my head) Can you sense it
(War inside my head) Can you see it
(War inside my head) Can you feel it
(War inside my head)
今回はアメリカ西海岸のハードコアバンド、Suicidal TendenciesのWar inside my headから引用してみました。このバンドは能天気そうに見えるスケーターに人気がありますが、歌詞は結構内面的で暗いものが多く、私の好みです。そもそも、バンド名自体、直訳すれば「自殺的傾向」ということで、何だか問題を抱えていそうな名前ですよね。
さて、これは頭のなかでの葛藤を歌っていると思うのですが、唯一本当の事柄というものは自分の感覚なのだと言います。なるほど、現実は心によっているとする唯識思想に通じるものがあり、興味をそそられます。また、それは痛みであり、深い内面的なところからもたらされるとのことです。痛みという部分は、仏教的には苦悩としたほうが分かりやすいですね。仏教ではまさに、この世は四苦八苦だと説きますので、痛みの連続とも言えるでしょう。
これを内面的な戦いなんだと表現するところが、やや仏教では難しいかもしれません。隠れるところがないというのは、まさにその通りであり、自分と向き合っていれば、自から隠れるところはありません。ただ、何かと対峙して戦うというのは、もう一歩踏み込んで、相手は自分自身なんだということ、いえ、相手など存在せず、すべては心のなかにある自分自身の問題なのだと突き詰めたいところです。
善福寺 住職 伊東 昌彦
のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/
ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。
The only thing real is the way I feel
And that's the pain that's deep inside
The battle from within is gonna begin
And there ain't nowhere to hide
(War inside my head) Can you sense it
(War inside my head) Can you see it
(War inside my head) Can you feel it
(War inside my head)
今回はアメリカ西海岸のハードコアバンド、Suicidal TendenciesのWar inside my headから引用してみました。このバンドは能天気そうに見えるスケーターに人気がありますが、歌詞は結構内面的で暗いものが多く、私の好みです。そもそも、バンド名自体、直訳すれば「自殺的傾向」ということで、何だか問題を抱えていそうな名前ですよね。
さて、これは頭のなかでの葛藤を歌っていると思うのですが、唯一本当の事柄というものは自分の感覚なのだと言います。なるほど、現実は心によっているとする唯識思想に通じるものがあり、興味をそそられます。また、それは痛みであり、深い内面的なところからもたらされるとのことです。痛みという部分は、仏教的には苦悩としたほうが分かりやすいですね。仏教ではまさに、この世は四苦八苦だと説きますので、痛みの連続とも言えるでしょう。
これを内面的な戦いなんだと表現するところが、やや仏教では難しいかもしれません。隠れるところがないというのは、まさにその通りであり、自分と向き合っていれば、自から隠れるところはありません。ただ、何かと対峙して戦うというのは、もう一歩踏み込んで、相手は自分自身なんだということ、いえ、相手など存在せず、すべては心のなかにある自分自身の問題なのだと突き詰めたいところです。
善福寺 住職 伊東 昌彦
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2018年05月25日
Rockをもて仏教す
のこす記憶.comのコラムで新しいシリーズを始めました。私はロック好きなので、仏教とロックを無理矢理、かなり強引にくっつけてみました!
Rockをもて仏教す Part 1
Reality’s a dream
A game in which I seem to never find out just what I am
I don’t know if I’m an actor or ham
A shaman or sham but if you don’t mind, I don’t mind
ロックの歌詞から個人的に面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈を施してみたいと思います。そもそも社会の諸事象というものは、とくに仏教に基づいて存在しているわけではありません。そうであれば、むしろ本来の存在意義とは別の角度で、仏教的な見方をしてみることのほうが実りありそうです。作詞者には失礼ですが、それぞれの曲の主旨はさておき、少々図々しくチャレンジしてみたいと思います。
まずはイギリスのパンクバンド、BuzzcocksのI don’t mindから引用してみました。いきなり現実は夢なんだと言うところ、かなり仏教マインドあふれています。そしてさらに、現実なんて自分が何者なのか分からないようなゲームなんだと。大根役者なのかも分からんし、インチキ霊媒師なんだとしても、君が気にしないのなら、自分も気にしない。気にしないってというところも、とても仏教していて私は好きです。
かつて日本仏教においては、夢も現実に準じる、いえ、霊的にはそれ以上の価値で捉えられていたようです。夢のお告げです。夢だからこそ、直接、自分の心に語りかけてくると思うことは、あながち荒唐無稽というわけではありません。現実においては私たちの五感がかなり敏感に作用し、心を落ち着かせることは難しいことです。霊的な作用というものは五感ではなく、心に作用するとするならば、肉体的には寝ている状態である夢のほうが効果的でありそうです。
そもそも、今、私たちが思い込んでいる現実存在というものは、本当に真実だと言えるのでしょうか。私たちは大根役者やインチキ霊媒師かもしれませんし、上っ面なところだけをなぞって生きているに過ぎないとも言えるかもしれません。でも、真実をまた解明しようとすることが正しい生き方かと言いますと、そうとも言い切れません。なぜならば、何が真実であるかを判断するような智慧を、私たちは持ち合わせていないからです。
であるならば、そのまま、気にしないでいいじゃないか。あんたもいいなら、オレもいいよっていう、肩の力を抜いた生き方をしたほうが、むしろ真実に近づけるかもしれません。仏教的に言いますと、真実というものは何か特別なものと言うよりは、あるがままを、あるがままに受け取ることによって見えてくるものかもしれないからです。こだわらない生き方とも言えるでしょうか。押しつけがましいのはやめてくれって、そんなところでしょう。
善福寺 住職 伊東 昌彦
のこす記憶.com https://nokosukioku.com/note/
Rockをもて仏教す Part 1
Reality’s a dream
A game in which I seem to never find out just what I am
I don’t know if I’m an actor or ham
A shaman or sham but if you don’t mind, I don’t mind
ロックの歌詞から個人的に面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈を施してみたいと思います。そもそも社会の諸事象というものは、とくに仏教に基づいて存在しているわけではありません。そうであれば、むしろ本来の存在意義とは別の角度で、仏教的な見方をしてみることのほうが実りありそうです。作詞者には失礼ですが、それぞれの曲の主旨はさておき、少々図々しくチャレンジしてみたいと思います。
まずはイギリスのパンクバンド、BuzzcocksのI don’t mindから引用してみました。いきなり現実は夢なんだと言うところ、かなり仏教マインドあふれています。そしてさらに、現実なんて自分が何者なのか分からないようなゲームなんだと。大根役者なのかも分からんし、インチキ霊媒師なんだとしても、君が気にしないのなら、自分も気にしない。気にしないってというところも、とても仏教していて私は好きです。
かつて日本仏教においては、夢も現実に準じる、いえ、霊的にはそれ以上の価値で捉えられていたようです。夢のお告げです。夢だからこそ、直接、自分の心に語りかけてくると思うことは、あながち荒唐無稽というわけではありません。現実においては私たちの五感がかなり敏感に作用し、心を落ち着かせることは難しいことです。霊的な作用というものは五感ではなく、心に作用するとするならば、肉体的には寝ている状態である夢のほうが効果的でありそうです。
そもそも、今、私たちが思い込んでいる現実存在というものは、本当に真実だと言えるのでしょうか。私たちは大根役者やインチキ霊媒師かもしれませんし、上っ面なところだけをなぞって生きているに過ぎないとも言えるかもしれません。でも、真実をまた解明しようとすることが正しい生き方かと言いますと、そうとも言い切れません。なぜならば、何が真実であるかを判断するような智慧を、私たちは持ち合わせていないからです。
であるならば、そのまま、気にしないでいいじゃないか。あんたもいいなら、オレもいいよっていう、肩の力を抜いた生き方をしたほうが、むしろ真実に近づけるかもしれません。仏教的に言いますと、真実というものは何か特別なものと言うよりは、あるがままを、あるがままに受け取ることによって見えてくるものかもしれないからです。こだわらない生き方とも言えるでしょうか。押しつけがましいのはやめてくれって、そんなところでしょう。
善福寺 住職 伊東 昌彦
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