2022年07月10日

オビワンのドラマ

ディズニー化したスターウォーズは私のようなオールドファンにとっては奇妙だったけど、最近のドラマものは違和感をそれほど覚えませんでした。『マンダロリアン』とか『ボバ・フェット』はとても面白かった。7・8・9の映画は作っている人もどことなく制約があるというか、どこか不自由な印象だったけど、ドラマだと好きな人たちが好きに作ってみました感があって良かったです。

私はオビワンのファンなので、今回の『オビ=ワン・ケノービ』もとても楽しみでした。ユアン・マクレガーは年齢的に同年代に近いせいか勝手に親しみを感じており、その演技もアクションも最高。今回のドラマは賛否両論でしたが、私は満足でした。敢えて言えば、戦闘シーンはもう少し工夫があっても良かったかな。私のようにスターウォーズとか、あとガンダムとか戦隊モノとか、そういう空想戦闘シーンに慣れている者からすると、ちょっと物足りなかったというか、なんだか変に思えたんじゃないかなあ。

でもオールドファンにとっては、やはり4からスターウォーズを見ているので、そこにどうやってドラマがつながるのか、オビワンがなんでああいう達観した感じになっていったのか、その過程がとても大事だと思うんですな。戦闘シーンや、他にもやや怠い感じの運びはあったけど、オビワンの内面がとてもよく表現されていて、その点は満点だと思います。オールドファンだからとか、そういうことではなく、どのスターウォーズから見始めたかによって、今回のドラマの評価は変わるように感じました。

人は誰しも過ちをおかすものであり、その呪縛からどう脱していくのかというのは人生の課題です。仏教では人の行為やその影響力は自分の心に記録され、そして未来を形成する種になると説きます。善悪どんな行為であっても、自分自身の心に根をはっているわけです。だから苦しい。種からどんどん芽が出てきて自分自身を苦しめるのです。オビワンも苦しんでいました。愛弟子のアナキンが悪に走ったことについて、自責の念にかられていたのです。

しかしアナキンも自分自身の行為によって、そのように悪の存在になったのです。まさにアナキン自身の問題なのです。アナキン自身が自分で解決せねばならない。オビワンの出来ることはただ1つ。自分自身の信念にもとづき悪を許さず行動することでしょう。そこにオビワンは気づいたからこそ、大きな前進を得ることが出来たのだと思います。非常に的確な内面描写であり、坊さんとしても楽しめたオビワンのドラマでした。

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2020年05月01日

面白かったですよ、スターウォーズ9

昨日、スターウォーズ9を観賞しました。まず何より、JJ監督がいかに故キャリー・フィッシャーさんを大切にされていたかが伝わり、とても感動しました。その点だけでも見る価値は多いにあったと思います。そして、8の監督さんには申し訳ないのですが、8よりもスターウォーズであって嬉しかった。スターウォーズのテーマというものは、私は「善と悪」だと思います。これは創造者であるジョージ・ルーカスのこだわりでしょう。人の考える「善と悪」というものが、いかに不安定なものであるのか、それをうまくSFに流し込んだ功績は偉大です。8にはこの点で見劣りするところがありましたが、9ではちゃんと扱われていました。ただ、やや表面的でしょうか、善悪というものがスカイウォーカー家の家庭内騒動に収まってしまっているところに、この問題の普遍性を感じることは出来ませんでした。せっかくSF、そう宇宙が舞台なのですから、もっと宇宙的な大きな視点で、1人の人間の小さな弱さというものを見せて欲しかったかなあ。

昭和時代の不良ドラマみたいなんですよね。不良息子「親父!、オレが間違ってたよ」、親父「そうか、今からでも間に合うぞ、ちゃんと彼女守ってやれ!!」、みたいな感じでした。分かりやすいですけど。

あと、これ昨日はじめて気づいたんですけど、ディズニーの7、8、9それぞれ、それなりにスターウォーズなんですが、決定的にそうでないとこありました。ああ、やっぱり自分はオールドファンなんだなあと思いましたが、そうです、ディズニーのスターウォーズには、紛れもなくジョージ・ルーカスがいないのです。そのかわり、いきなりミッキーちゃん出てきそうな雰囲気はあり、ディズニーランドでした。たしかにディズニーランドにもスターツアーズあるんですが、あれあそこだけ異質ですよね。あそこだけルーカスなんですよ。スターツアーズできたとき、ちゃんとルーカス来てるし。そして私、そのルーカスとすれ違ってしまったww

いずれにしても、JJ監督は大変な仕事をちゃんと全うされたと思いますし、十分面白いスターウォーズであったことは確かです。9まで観ることが出来て、感謝感激です。

あと期待はオビワンのドラマです。ユアン・マクレガー出演なので、きっとユアン氏はオビワンの苦悩を理解されていると思います。ユアン氏の剣技は最高でしたが、より心理的描写に力を入れてもらいたいなあと、そんな思いで待っています。

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2018年01月06日

エピソード8を観て

スターウォーズのエピソード8を観てきました。小田原で観たんですが、極めて空いていました。10人ぐらいしかいなかった。小田原だから空いているのか、それとも映画を映画館で見る人が減っているのか分かりませんが、とにかく快適でした。ただ、上映時間が長くて、すぐトイレ行きたくなる私にはちょいと辛かった。短いよりは嬉しいのですが、トイレタイムが欲しくなってしまいそうで。

さて、スターウォーズもディズニー映画になりまして2作目です。もう完全にディズニーでした。作中の見せ場は、まあ、ほぼ女性ばかりでした。女性がダメとかではなく、ああ、ディズニーはやっぱり「プリンセス」なんだというのが良く分かった(前にも書いたかもしれませんが)。でも、全体的には楽しかったし、新しいスターウォーズの幕開けでした。「ジェダイ」や「スカイウォーカー家」という特殊で別格な人々の内輪揉めではなく、完全に一般化しましたね。

しかしながら、ジョージ・ルーカスが長年スターウォーズで問うてきた、善と悪という人類として普遍的な課題については、あまり深い考えはないように感じました。ルーカスはその表現力は別としても、一人の人間の心のなかにある善と悪の葛藤について、結構真面目に取り組んでいたと思う。それがダース・ベイダーなんだけど、そもそもディズニー・スターウォーズにはベイダー出てこないし、引き継がれてもいない。ハン・ソロの息子であるカイロ・レンがその役なんだろうけど、暴れているだけで内面の葛藤は今のところ良く分からない。触れてはいるけど、薄っぺらいかなあ。ただまあ、ベイダーもエピソード6になって、ようやく悩んでいるのが分かったほどなので、それはこれから、次のエピソード9で描かれるのかも。

いずれにしても、スカイウォーカー家は退場のようで、残るはカイロ・レンだけになってしまいました。エピソード9の後にも、より新しいスターウォーズが続くようなので、これはもう、あまり昔の雰囲気に執着していると取り残されそうです。ディズニー社が存続するかぎり、スターウォーズも存続していくことでしょう。おじさんの私としては、昔からのファンの思いも大切にして〜、と願うところですが。

ルーカスの描くスターウォーズは暗かった。主人公の性格も暗い。宇宙の描き方も暗い。ディズニーになってからは明るい。主人公は明るいというわけではないが、主張がはっきりしていて明朗な感じだ。宇宙もキラキラ輝いている印象。宇宙については単純に技術の問題かもしれないけど、絵として気分がいいショットが多かったように思う。

私は人の内面を映画全体に映し出したような、渇きとジメジメ感が同時に存在するルーカスのスターウォーズが好きだったわけだけど、新しいディズニー・スターウォーズも、新時代の幕開けとして、今後も楽しみにしていきたいなあと思います。ただ、そう思えるのは、私がディズニー慣れをしているからでしょう。カミさんがディズニー大好き人間なので、間隙を縫って「夢と魔法の国」へ出かけるわけです。もとより嫌いではないので、私も楽しんでいるわけですが、それにしても、こうした「慣れ」がなかったら、新しいスターウォーズはちょっと厳しかったかも・・・、しれませんねえ。

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2017年05月05日

善悪とスターウォーズ

この連休かなりスターウォーズを観ています。日頃から息子たちと観ているのですが、その3倍ぐらい。ディズニー映画になったとはいえ、幼少の頃から慣れ親しんできたその世界観は変わっていません。善悪の明確な対立軸は西洋的な思考を感じますが、そこにフォースという神秘性が加わり、東洋人である私であっても、親近感を継続できる仕上がりになっているような気もします。気のせいかもしれませんが。

善悪は人にとって難しい問題です。何を基準にするのかで善悪なんてコロコロ変わってしまうからです。裏を返せば、善悪を抜きにして人を語ることは出来ないわけで、善のない世界、悪のない世界、どちらも人の世界ではないと言えましょう。スターウォーズであっても、宇宙人を含めて人の世界であるのですから、善悪が共存するのは当然のことです。悪が滅んでハッピーエンドでは、あまりにもご都合主義として言いようがありません。

フォースには善悪両面があるそうです。これは創造者であるジョージ・ルーカスが果たした最大の功績ではないかと思えます。もしフォースが善のみであり、そのフォースを使って悪を打倒するというのであれば、よくあるハリウッド映画になっていたことでしょう。まあ、それも気分爽快で良いのですが、何回も観ようとは思わないかも。

仏教においては、仏というものは非善非悪とも言うべきあり方で、人の善悪を超えていると考えます。悪も否定して、なおかつ人の善も否定していくのです。これは誤解を招くかもしれませんが、人の善というものは、上にも書いたように基準や状況で変わってしまうものです。その人都合なのです。これは極めて表面的な善であると言えましょう。悪と表裏一体であるとも言える。一方では善に見えても、他方では悪に見えてしまうからです。善ということを考えるならば、非善非悪という立場で考えていかないと、結局は善悪から抜け出せないのかもしれません。何だか小難しいことですが、人は勝手なところがあるということ、忘れてはならないことだと思います。

これからのスターウォーズでは、どうやら善悪がテーマになっていくようなのです。悪が打倒されて善の世界になったかのように見えても、ふたたび悪が勃興していく。では善とは何なのか、善だと思っていたことは善ではなかったのか・・・、とても楽しみです。

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2016年12月28日

キャリー・フィッシャーさんを偲んで

キャリー・フィッシャーさんが亡くなりました。私は『スターウォーズ』シリーズのレイア姫としてしか知りませんが、長年のファンとして感謝の思いでいっぱいです。行動力のあるヒロイン像は、SF映画の世界に新しい風を吹き込ませたと言えるかもしれません。ディズニーに移ってからの「7」でも再演され、貫禄のある演技を見せてくれたばかりのことでした。

ところで『スターウォーズ』は当然エンターテインメントですが、「フォース」という概念が登場し、ちょっと東洋的で神秘的な印象を与える映画でした。フォースはかつて「理力」と訳されたこともあるように、この世界に溢れる真理から力を拝借するというような意味合いが含まれているようです。「理力」なんて、なかなかの名訳だと思いません?

ただし、ヒットするにつれてフォースは単純な超能力、つまり念力やテレパシーや予知といった側面が強調されるようになっていったと感じます。どうやらフォース自体には倫理的な善悪はないようですが、人のなかにうずまく善悪のバランスには関係しているようなのです。善悪のバランスを取る方向にフォースははたらき、宇宙を存在たらしめていると言えるのでしょう。このような小難しい設定はマニアには好まれますが、一般的とは言い難いところがありますね。

『スターウォーズ』はスカイウォーカー家の人々の成長と苦悩を映し出すヒューマンドラマでもありますが、その舞台は広大な宇宙です。ライトセーバーや宇宙船も魅力的ではありますが、宇宙と人との関わり合いについて、もっと突っ込んだ解釈があってもいいかなあ。1作目で語られたフォースから、どんどん離れていっているような気がするんですよね。

いずれにしましてもファンを何十年も楽しませてくれる映画であり、そのヒロインであるキャリー・フィッシャーさんは偉大な存在であったと思います。きっとフォースと一緒になられたことでしょう。私たちは皆、宇宙の真理に還っていくものなのだと思います。

合掌
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2016年01月04日

スターウォーズの新作

スターウォーズの新作がディズニーで制作されました。映画館に行かれた方も多いことでしょう。私も早く観たいと思っています。ところでハリウッド映画というものは、当然のことながらキリスト教の影響下に制作されている作品が多いと感じます。これは意識しているしていないに関係なく、キリスト教文化のなかで生まれ育った制作者であれば、その影響が出ることは必然的とも言えるでしょう。日本という国土で生まれ育った私たちは、いつの間にか日本文化を身につけて思考し、日々行動しているものです。意識なんてしていなくとも、思わず日本文化なのです。

スターウォーズという映画作品は、今回のディズニー制作のものを外せば、これはジョージ・ルーカスという監督の自主制作に近いので、ひときわ監督の個性が輝いています。おそらく配給会社からの指示というものは比較的少ないんじゃないでしょうか。ジョージ・ルーカスはアメリカ人なわけですが、実はスターウォーズの世界観というものは、やたらとアジアの宗教思想を感じさせるものとなっています。つまり、キリスト教のような一神教の雰囲気ではないのです。これもジョージ・ルーカスの個性の1つでしょう。

スターウォーズには、宇宙に遍満している「フォース」という見えない力が出てきます。これは一神教の「神」とは無関係です。むしろアジアの汎神論に近い。山川草木に霊力がみなぎっている状態にも見受けられます。私は宮崎駿監督の作品も好きですが、こちらからも汎神論的思考を見い出すことが出来ます。アメリカではあまり人気が出ないようですが、一神教的思考に慣れてしまっていますと、理解するのが難しいのかもしれません。スターウォーズはそういう意味でも興味深い作品だと思います。

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2014年05月13日

スターウォーズ7

スターウォーズの続編が制作されるようです。ファンにとっては、本当に信じられないようなことで、今からとても楽しみです。どんな話になっていくのでしょうか。ダースベイダーの再登場はないかもしれません。しかし、そもそもスターウォーズはベイダーの話ということなので、何らかの影響はもたらすことでしょう。

善人と思える者であっても、どこかに悪人になるタネは持つものだ。善人であったり、悪人であったりということは、その人の周辺環境や状況によって、どのようにもなってしまうものなのだ。おそらく、これが本作のテーマであったと、私は勝手に思っています。悪人(→作中ではベイダー)になるつもりはなくとも、そうなってしまうのが人間のあり様です。

たとえば、今は可愛い小学生が、今後、どのように成長していくのかは、誰にも分かりません。悪人になるのが夢だなんて言う小学生はいません。しかし、周辺環境や状況によって、どのようにも転がって行ってしまう可能性が我々にはあるのです。仏教ではそれを業と呼びました。前世やさらに前世からの行為とその影響の蓄積、つまり業によって、私どもは思わぬ方向に迷い込んでしまうことが多いのです。

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2013年08月28日

ディズニーランドも30周年

夏休み、息子とディズニーランドの「スターツアーズ」を体験してきました。相変わらず酔いましたが、とても楽しかった。映像にはいくつかバージョンがあるようで、また乗ってみたいと思います。

ところで、仏教とは無関係になってしまいますが、東京ディズニーランドが30周年ということでした。私が小学生の頃に開園でしたので、私もおじさんになるわけです。思えば、ディズニーランドも随分と進化したもので、今では日本を代表する観光地の1つとなりました。運営会社のオリエンタルランドの経営努力には、素直に賛辞を送りたいと思います。

ディズニーランドには賛否両論あるようですが、私は好きです。完全に思考停止で受け身なリゾートですが、たまには良いものです。長蛇の列に並ぶのはご免ですが・・・。

ただ、少し気になりますのが、最近の傾向です。新しいアトラクションが幾つもできまして、リピーターを飽きさせませんが、多くは映画のキャラものです。そりゃディズニーランドですから、ミッキーマウスを始めとしまして、キャラが基本なのは分かります。それはそれで良いのですが、その陰で渋いアトラクションが消えてしまっています。

「ミート ザ ワールド」(←消滅)や「ビジョナリアム」(←消滅)といった、大人も楽しめる「学び」のあるアトラクションは、新しく造られません。人気がないのでしょう。子ども受けしませんし、商売考えましたら、ちょっと厳しい。しかし、ディズニーランドというものは、単なる遊園地であったのでしょうか。とにかく盛り上がり、楽しければそれで良い、という雰囲気ではなかったような気もします。少なくとも、ミッキーマウスとともに、アメリカの歴史を感じさせ、それらが世界につなぐっていくというような物語が柱にあったと思います。

今はキャラもの全盛期です。子どもは楽しんでいますが、往年(?)のファンとしましては、賑やかすぎまして、逆に寂しい。「ウエスタンリバー鉄道」が、おじさんにはちょうど良い具合です。

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2012年10月30日

スターウォーズと煩悩

スターウォーズの世界では、ジェダイと呼ばれる聖職者的超人(?)が共和国を守護しています。ジェダイになるためには、まず素質があることと、幼少時からの心身のトレーニングが不可欠となります。素質がとてもあれば、少し年をとってからでもトレーニングをされることもあります。いずれにしましても、出家者のように厳格な規律のもと、師の下で長年に渡ってトレーニングを重ね、成人するころには独立させてもらえるようです。独立すれば弟子をとることができますが、結婚をすることはできません。共和国のために命を捧げている立場なので、家庭を持つことは禁止されているのでしょう。平和を守ることが使命であり、場合によっては、ライトセーバーという特殊な電子剣を使って騒乱者の排除を行います。

さて、映画ではジェダイが主人公となるのですが、基本となる実写版全6話のうち、前半はアナキンというジェダイの話で、後半はその息子のルークの話となります。アナキンは正義感あふれるジェダイでしたが、愛に悩んでしまい、道を踏み外してしまいます。それが元で銀河は大混乱に陥るわけですが、アナキンは死の間際、息子のルークによって正義を取り戻し、銀河には再び平和が訪れることになります。スターウォーズはSF冒険活劇ではありますが、人を愛することの意義を問うという側面があり、私はその点に惹かれます。すなわち、人を愛しすぎるがゆえ、自分勝手な思いが他者をも飲み込んでしまい、悲惨は結果を自分や他者にもたらすという教訓が描かれているのです。多分。

少し踏み込んで言いますと、アナキンはパドメという女性に好意を持つようになり、いつしかジェダイの規律に反して内々に結婚してしまいます。しかし、実母との悲惨な別れがアナキンの心に影を落としていたということもあり、大切な存在に対して、彼は異常なまでの執着心を持ってしまっていたのです。内々に結婚してしまったということも、自分の執着心を抑えられなかった結果でしょう。彼は愛と規律の間で悩むことが多くなったようで、その結果、ジェダイの存在意義にまで疑問を持つようになってしまいました。おそらく、その過程においては、独身を貫くことの意義についても考えたことでしょう。ジェダイは個人の欲望を消し去ることで心を整え、さらなる力を発揮できるようにトレーニングをします(おそらく)。しかし、人の欲望はそうそう消せるものではありません。むしろ、多くの場合、それは抑えられているだけとも言えるでしょう。実は、本編ではなくサイドストーリーでのことではありますが、アナキンの師であるオビ・ワンにおいても、愛を捨て切れていないのではないかという描写がなされていました(かなり抑えているようでしたが)。ジェダイはかなり厳しいトレーニングを要するのですが、こう考えてみますと、意外と悩みが多いのではないかと思えます。ちなみに、アナキンは愛しすぎた故のことでしょうか、パドメを自らの手で亡き者にしてしまいます。

ところで、仏教も本来は出家主義でありました。苦しみの元である煩悩(=欲望)を消し去るためには、そのさらに原因となる部分を断つ必要があり、修行者は敢えて家族は持たないという生活形態を採用したのです。家族を持てば愛が深まります、愛は慈悲という側面もありますが、渇愛という側面もあります。まさに上記のアナキンのような状態になるということで、家族を持つことは否定されたわけです。しかし、煩悩を消そうと努力すればするほど、僧は内向きになってしまい、社会と隔絶した存在になってしまいました。仏教は決して一部の修行者のみの教えではなく、広く社会のためにあるべきものです。それがいつの間にかうまくいかなくなり、出家主義ということを見直そうとする運動が出てきました。それは在家における仏教実践も重点に置いたもので、大乗仏教運動と言われています。大乗とは皆が救われていくという意味で、より大きな乗り物ということだと思われます。仏教の出家主義が解消されたわけではありませんが、その意味を今一度考える機会になったようです。

仏教は煩悩を断つということが最終的な目標ではありますが、大乗仏教においては、少し余裕を持ってその事を考えるようになりました。たとえば、この世でいきなり煩悩を断つのではなく、来世やそのまた来世、さらに来世で断つことができるような教えが説かれ出しました。極楽浄土の思想はその典型的なものであり、この世である程度の善行が積めれば、来世はその報いとして極楽浄土へ生まれることができ、そこで煩悩を断つことができると言うのです。この世では煩悩とうまく折り合いをつけて生活することが奨励されるのです。また、煩悩を断つことの手段として、まず人の心のなかを詳細に観察することも行われました。いきなりハードな修行をするのではなく、言うなれば、まず煩悩を良く知るということでしょう。煩悩がどんな奴であるのか、よくよく観察してみるわけです。その上で少しずつ少しずつ煩悩を断っていって、いつの世か完全に断つことができればそれでいいんじゃない、という具合です。一方、煩悩がそのまま悟りなんだという思想も出てまいりまして、かつての出家主義のように、在家の状態をただ否定するだけではなく、それを元にした転換を目指すような修行も見られるようになりました。いずれにしましても、煩悩をやみくもに断つということではなく、煩悩をきっかけにするような思考に変わったということです。

私の実践する浄土仏教も、もちろん大乗仏教のうちでありまして、出家在家を問わない教えだと言えます。私は結婚していますが、別にしたくなければしなくても構いません。親鸞という方は、結婚をして浄土仏教を実践していく道を選ばれました。今は論じませんが、だからと言って仏教ではなくなったということではありません。結婚生活をしながら、自身が煩悩ある身であるということをよくよく知ることができれば、これも煩悩を断つ第一歩だと言えるわけです。家庭を持つということも、決して否定されることだけではありません。もちろん、持たないでいける人はそれで良いと思います。それぞれ、自分に合う方法をしていけば良いだけなのです。

さて、スターウォーズの話に戻りますと、アナキンは仏教で言うところの大乗仏教運動のきっかけとも言える存在だと思えます。映画ではそれで戦争が悪化したり、自分のカミさんを亡き者にしてしまったりと、結構キツイ表現がなされていますが、人の持つ欲望をどう捉えていくのか、欲望はなければそれで解決なのか、それとも他につきあい方があるのか、こうしたテーマに果敢に取り組んだ作品、それがスターウォーズなのではないかと、・・・演繹的に考えています。

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2012年09月01日

悪行の報いはどうなるのか?

久しぶりに「スターウォーズ」ネタです。ヴェイダーことアナキンは救われたのか、前回まではそんな疑問がありました。今回はまた別の角度から見てみたいと思います。まず、「スターウォーズ」を見ていない方のため、今回の記事に関する部分について、極めて簡単に粗筋を述べます。

アナキンという心の純粋な少年がいました。彼は「ジェダイの騎士」(銀河の民主主義の守護者のような存在)にスカウトされ、母親の元を離れて修行の道に入ります。もとより高い才能(銀河に平和のバランスをもたらす者と予言されていた)を持っていましたので、グングンと力をつけ、「騎士」(ナイト)までなることができました。騎士として立派になりましたが、もとより感情に流されやすい激情型の性格で、しばしば問題を起こしました。

最も重大な問題は、ジェダイは独身主義なのですが、隠れて結婚してしまったことです。また、母親を途中で亡くすことから、大切な存在を守りたいという思いが暴走し、やたらと執着心が強くなってしまいました。ジェダイは公に生きる身ですので、執着心は出来れば少ないほうが良いと思われます。ジェダイの修行は強大な力をその者に与えますので、自分のためにその力を使ってもならないからです。

そんなアナキンは、まんまと悪の親玉(→銀河皇帝)に騙され、下僕になってしまいます。「オレと組めばカミさんも守れるぞ」とそそのかされたわけです。今まで善人の範疇にいたアナキンは、「ダースヴェイダー」というダサい名前を皇帝からもらい、ジェダイの力を悪用しまくるのです。つまり、人殺しをさんざんやらかしてしまうのです。

一般的に見て、すでにこの時点でアウトなんですが、スターウォーズの場合、なぜか最終的にセーフとなってしまいます。アナキン、つまりヴェイダーは、悪の限りを尽くした後、成長した息子に「あんたにはまだ善人の心がある」とか言われ、これまた簡単に皇帝を裏切ってしまいます。まったく感情に流されやすいタイプなのです。そして、そこで皇帝を葬り去るのですが、その時の傷がもとで自分も命を落とします。最後はジェダイの側に帰還し、ついでに銀河にも平和が訪れることなりますが、果たしてアナキンが悪の側にいた時にした犯罪行為はどうなるのでしょう?

映画のラストで、なぜかアナキンはかつての師匠とともに幽霊となって登場します。少し申し訳なさそうな顔ですが、堂々とジェダイの仲間として仲良くしているのです。悪いことしたけど、結果オーライじゃない?ってことなのでしょう。スターウォーズはこんなアナキン少年のお話なのでした。

以上が粗筋となります。かなりはしょっており、しかも見直していないので、所々意味不明なところもあるかもしれません。ご寛恕ください。

粗筋のなかでも触れましたが、やはり問題となるのは、結果オーライならば途中の悪事は±0になるのかということです。宗教的に見て、彼は心を入れ替えたことによって救われたとの見方もあります。前回はその点を考察しました。しかし、どうも座りが悪いので、順番が逆かもしれませんが、改めて倫理的な観点から見直してみたいと思います。

大事を成すためにはある程度の犠牲は仕方がないという見方もありますが、アナキンの場合は自ら進んで悪事を働いています。善の心を持ちつつ、敢えて悪の道を行くというスタンスかと言えば、そうでもない。映画の描写によりますと、アナキンは敢えて自らダースヴェイダーになったというよりは、コロっと悪の誘惑に負けたという具合に見えます。平和への信念は消えていると思えます。ジェダイに帰還できたのも、たまたま息子がいい奴に育っていたため(アナキンは自分では育てていない)、うまく元の鞘に戻ることができただけでしょう。まあ、彼は猛烈にラッキーなわけです。

自らの信念に基づく行動ではなく、いずれも他者の誘いに乗ってしまっただけのアナキン。かなりしょぼい奴ですが、悪行のボスは皇帝だとしても、その右腕となって働いていたので、基本的には有罪でしょう。ボスの皇帝を倒したからチャラになるというものではなく、ちゃんと罪を償わないといけません。アナキンはヴェイダーに転向したあと、かつての師匠と対決して敗れ、サイボーグになってしまいます。このサイボーグ化ですでに贖罪したという見方もあるかもしれませんが、悪行はむしろサイボーグ化の後のほうが凄いようですし、この見方は問題外でしょう。

ところで、仏教では自業自得を説きます。どんな善行悪行でも、その結果は自らのもとに善報悪報となって返ってくるということです。この説は仏教の枠を超えて、日本人一般にも支持される倫理観ではないでしょうか。ただ、現実は往々として異なる様相を呈しますが、心情として自業自得でなければと思われている方、多いのではないかと思います。現実が異なる様相を呈するのは、おそらく、その報いが現世にだけ現れるものではないからでしょう。来世かもしれませんし、さらに後の世かもしれないからです。まあ、仏教的な見方ですが。。。

しかし、アナキンは幽霊となって堂々と登場します。悪の限りを尽くした報いはどうなったのでしょう?もう終了?それともこれから?

どうもスターウォーズの世界では、ジェダイが幽霊となって登場するということは、宇宙と一体になったことを意味するようで、これにてアナキンの悪行の報いは終了したと受け取れます。まあ、やはり救われたということなのでしょう。しかし、一体どこで報いがあったのでしょう?摩訶不思議です。救われれば報いは受けないのでしょうか。「救い」と「報い」の関係、今後の課題です。

ただ、悪の側に立って大勢の人を殺しておきながら、最後に悪のボスを倒したからオッケーというのでは、観ている子どもの教育にも良くないでしょう。アメリカ的民主主義の現れなのかもしれませんが、いらぬ誤解を与えそうです。

一人の命を奪うということは、その人だけではなく、周囲の人々の人生をも踏みにじることです。それは何千何万となれば、これはとんでもない。まったく許されません。本来ならば、ちゃんと報いを受けるべく、閻魔さまの前に行かねばなりません。かるく8億年は地獄から出られないでしょう。

仏教では命の重さを計測するような思想はありません。いずれも尊い。人に限らず、動物植物すべて尊いと見ます。だから食事の前に手を合わせるのです。私の命と同じく尊い命をいただくわけです。当然のことと言えましょう。

スターウォーズを観ていまして、ラストは何か変だ、どうも落ち着かない、と思う方も多いと思います。ラストの描写は、日本人一般には馴染みの薄い感覚なのかもしれませんね。

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2010年07月20日

みんなヴェイダーだった

殺人を犯したならば,懺悔のような回心がなければ,救われることはないでしょう.他力の浄土仏教においては,私たちは阿弥陀仏から「救うぞ!」と誓われた存在です.この世に命をいただくということは,救いのなかで生きることに他なりません.ただ,私たちは迷うのです.本当に阿弥陀仏は私のことを思って下さっているのか,実に迷うのです.だから好き勝手なことを妄想し,一時の安穏を得ようともがくのです.

ヴェイダーもそうでしょう.宇宙を支配すれば苦しみもなくなると,瞑想ではなく,妄想に明け暮れたのです.自らの力では苦悩から脱することのできない,そんな普通の彼だからこそ,本来は救われるべき存在なのです.もしルークという導き手がいなければ,ヴェイダーは死してなお迷いの世界を廻ることになったでしょう.

ヴェイダーは悪の権化としてイメージされますが,私たちとどこが違うのでしょう.常に今の生活から脱したいと思い,愛する人を支配し,他者を蹴落としてまで頂点を目指し,手段を選ばない.星間戦争という舞台をニューヨークに変えても,おそらくそれほど違和感ないんじゃないかな.決して彼だけが特別な悪玉ではなく,彼はむしろ普通の人であって,どこにでもいる凡夫です.

ところで,以前仕事の関係で裁判を傍聴したことがあるのですが,犯罪に対しての印象が若干変わりました.私はいわゆる「犯人の顔」(注:その時点では被告人でした)を見たことがなかったのですが,ごく普通の人に見えました.しかし,これは当たり前でしょう.考えてもみて下さい,傍聴席にいる私がいつ被告人席につくか,絶対にないとは言い切れません.おそらく,その裁判の被告人も,まさか自分が被告人席にいることになるとは考えてもみなかったことでしょう.

時と場合によっては罪を犯してしまう,それが私たちの本性です.善良に生きているつもりで,なおそう言えると思えてなりません.もちろん犯罪を肯定しているわけではありませんが,危うい自分だということは知っておくべきでしょう.自分の意思に反して…,ということはいくらでもあるからです.

ヴェイダーもジェダイとして頑張っていました.間違えてメイスの腕斬っちゃったのかもしれませんが,あそこで議長を斬る可能性だってあったわけですし,どう転ぶかわかりません.状況によって何をしでかすか分からない,私たちはみんなヴェイダーなのです.これからはDJショウゲンではなく,ダースショウゲンと名乗りましょう.あ,ダメだ.皇帝のアプレンティスにならなければいかんかった.モール,ティラナス,ヴェイダー…,なんか微妙なセンスだな.自分で考えちゃダメなのかな.

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2010年07月19日

ヴェイダー懺悔した

そんなヴェイダーですが,問題はシスにくら替えした後,さんざん虐殺を繰り返してしまったことです.物語の中で最も人間臭いと言えるのは彼ですが,案の定,大罪を犯してしまいました.最後には息子のルークに助けられ,ようやくシスから足を洗うのですが,残念ながら臨終を迎えます.自業自得な人生,息子に出会えただけでも幸せと思うべきか.合掌…

まあこれで終わりでも良いような気もしますが,そこは気の利くルーカス監督,ラストシーンでは幽霊で復活です.版を重ねて顔に若干の変化が見られましたが,いずれにしましても,とどめを刺したオビワンとは仲良さそうにしていました.ヨーダも一緒にいましたので,雰囲気からしても地獄に落ちたのではないでしょう.彼はジェダイのご先祖のいる世界にめでたく生まれたのであり,要するに救われたのです.あんだけのことやっといてですからね,やはり「救われた」という表現が適切でしょう.

直接懺悔と言えるようなセリフはなかったようですが,ルークの前で喋ったこと〜昔の訳では「私のことではお前が正しかった」とか言っていたような〜,これを懺悔と見なすならば,彼はそれによって救われたということになるのでしょうか.皇帝を投げた時点で懺悔があったとも言えますが,とにかく自らの過ちを悔いるような,心の変化があったことは確かなようです.

人を傷つけることと,人の命を奪うことは,罪の重さという点で明確に異なります.なぜならば,多くの場合,人を傷つけても謝罪することはできますが,命を奪ってしまっては,本質的に謝罪のしようがないからです.罪を償うことが極めて難しい、それが殺人という行為なのです.偶発的な場合もありますので,もちろんその中でも区別をしなければなりませんが,ヴェイダーの場合は明確な殺意があります.星間戦争という非常事態下であったことを考慮しても,大量虐殺が許されるはずはないでしょう.

しかし,ヴェーダーは息子の前でその行為を悔い,おそらくスターウォーズ世界の神に許しを請うたのでしょう.だからこそ「ジェダイの帰還」なのであり,彼は救われたのでした.エー,そんだけー?と一瞬思うでしょう.しかし,それは違います.シンプルに見えても,おそらく監督の意図するところはもっとデープで,実は全人類のすがたがヴェイダーに投影されているのです…,多分.
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2010年07月17日

なぜダースヴェイダーは救われたのか

さて,それでは実際のところはどうなのか,私の興味のあるところから話題にさせていただきます.

ズバリ!「なぜダースヴェイダーは救われたのか?」.これ昔から気になっていたんですよ.でもなかなか法話会では話題にできないじゃないですか,やっぱねえ.フッフ.実はスターウォーズもの凄く好きなんです,私.ビックリするくらい.フィギュア好きの方や,メカ好きの方,色々といらっしゃるでしょうが,私はストーリー重視派です.基本的には映画ですが,拡張世界の小説も結構読みました.でも途中で飽きちゃったなあ.今は映画とあまり離れない小説まで読んでいます.

ダースヴェイダーと言えばとにかく悪の権化.あの分かりやすいスタイル,あのダークなボイス,そしてあのサウンド.最高ですね.私、ダースヴェイダー電話持っています.これ実際に使えるやつで,しかも着信音は帝国のマーチ♪ インタラクティブヨーダとともに寺宝に指定しています.ストーリー重視とか言っといて,こういうアイテムはしっかり持っていました.

そのダースヴェイダーの昔話が新しい三部作として制作されまして,一作目ではかわいい坊や,二作目からは随分と風貌が変わりましたねえ.反抗期に何かあったのでしょう.オビワンも大変だったでしょうが,こちらはあまり老けていませんね.人それぞれです.

それは良しとしまして,とにかく昔話が語られることによって,どんな人にも当てはまるような部分を持っている,意外と普通の彼だということが分かりました.ジェダイのアクションは普通ではありませんでしたが,考えていることは普通でした.ストーリー上,ダースヴェイダーにならないといけないので,超強引な展開は気になりましたが,人間の相をよく描いているとは思いました.

だってそう思いません?なりふり構わない上昇志向と独占欲,自意識過剰で人の言うことなんてちっとも聞かない.「ああ,これオレだ…」,少なくとも私は思いました.多少なりとも当てはまるところがあるなあと.
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