2019年05月19日

不断煩悩得涅槃

「煩悩」って聞きますと、かなりのマイナスイメージ。除夜の鐘ついて祓うっていう、アレでしょ。よこしまな心だと思うし、浮気とかそういう浮っついた話の。それから人を妬んだりとか、まあ、ないほうが良さそうな部分。でも、煩悩がないとどうなってしまうんでしょう。仏さまって感じ?

「涅槃」というのはその煩悩が消し飛んだ状況のことで、大乗仏教でもひとまず到達すべきと言われます。しかしこの煩悩ってのは、本当に厄介な存在。もの凄い修行積まないと消えない。煩悩の元と言うか、煩悩を発生させる原因は業なんだけど、この業は前世やもっと前からのお土産みたいなもので、たくさん自分は持ってる。でも意識的に捨てることはとても難しい。腐れ縁なんです。

仏教は煩悩との対峙でもあるんだけど、これがまた自分自身の所有だから厄介なんです。悪魔とかそういうのが他にいるんじゃない。他でもない自分そのもの。だから捨て難い。いえ、捨てたくないと言ったほうが正解かもしれません。楽しいことって、意外と煩悩まみれなこと多いでしょ。私だったら、たとえば好みの女性とデートしたいとか。これ結婚していようがいまいが、まったく関係ない。愛欲は煩悩なんですな。

これ悩んだ坊さん多いらしいです。だからお釈迦様は男子寮と女子寮に分けたんだと思う。近くにいると互いにムラムラするから。ムラムラしない人もいるだろうけど、私だったらムラムラしますね。もう絶望的。涅槃なんて無理。もう辞めようかなって。お釈迦様に辞表とか。

芸術だって煩悩を表現したんじゃないかってもの多い。スポーツだって他者との競い合い。食事もそう。おいしいもの食べたい〜。今日は焼肉にしよう!とか。すごい煩悩。私、最近思ったんですが、中3ぐらいからバンドやってて、たしかにロック大好きだった。でも、同時に女性にもてたいという思いも、まさに一心だった。あんまラブソング好きじゃないけど、でもそういうのあったなあって。

人間ってのは営みそのものが煩悩だと言えるので、それなくなったらつまらないのは確かでしょう。少なくとも人間的な面白味はなくなる。生きていること、それ自体も大きく煩悩を含む事柄だから、そりゃ煩悩を断てって言われてもホイホイできないわけですよ。仏教が2500年近く続くわけだあ。実はあんまり解決していないという、なんともシュールなこの現実。

だからと言って煩悩のまま生きたら、絶対に滅茶苦茶になります。

仏さまは煩悩を断じておられる。だからこそ、自分へのこだわりなく、すべて平等にどのような存在にも慈悲を注がれる。私たちも本来、そうあるべきです。しかし、現実には難しい。そんな自分を知ること、自分の本心、つまり煩悩におおわれた部分に向き合うことこそ、まずは必要かと思います。私は戒律を受けない浄土真宗の坊さんですが、戒律の戒はとても好きです。律は出家修行者用の罰則規定ありのルールなんですが、戒は仏教徒であれば誰しも持つものです。これには罰則規定はない。戒めなんです。自分自身への戒め。

戒めを持つ生き方ってのが、本当の意味での宗教的生き方かなと思います。

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2013年04月13日

瞑想もいいですよ

毎朝お経をあげるわけですが、最近、お経のあとに少し瞑想をしています。浄土真宗の教学には瞑想はありませんが、個人的には教えの実践として有効だと思っています。瞑想=自力ではないでしょう。むしろ、自力の難しさを実感させられます。まあ、私はそういう意味で瞑想しているのではなく、あくまでも方便(つまり手段)として捉えています。なので、禅とはまったく違います。瞑想は自分の煩悩を知る上でとても重要なものです。呼吸とともに心を整えますと、感情の揺れが実感できるようになります。瞑想としてはとても初歩的なことなのでしょうが、私にはそれで十分です。次から次へと自分勝手な思いが沸き起こります。意識の下で、自己への執着心が働いているのでしょう。唯識思想ではこれを「マナ識」と言いまして、常に働いているものとします。

ところで、浄土真宗では「二種深心」と言いまして、阿弥陀さまの本願力を深く信ずると同時に、自らの凡夫性に深く気づかされることを肝要とします。しかし、物のあふれた現代では、手前勝手な思いばかりが先行しまして、「二種深心」という慎ましい心は起きにくいかもしれません。教学的に言えば、こうした心を阿弥陀さまからいただいてはいても、スルーしてしまいがちだ、と言えましょうか。

心を整えてみますと、愚かな自分に出会うことができます。振り返ることの大切さを痛感いたします。前向きに生きることは大切でしょうが、脇に目がいかなくなりますと、勝手ばかりで生きてしまいそうです。なので、少しの時間、瞑想をしているわけです。生来、自己中な性分なもので。。。

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2012年10月17日

自分に気づくことから

仏教は仏に成る教えです。仏に成るためには煩悩(欲望、自己中心的な心)を滅する必要があります。したがいまして、仏教はこの煩悩を滅するための教えということになります。様々な修行はその方法なのです。最近、巷でも「煩悩を滅する方法」などと謳った指南書が売れているようですね。それらは全部、実は仏と成る方法が記されているわけです。

しかし、本を読んだくらいで即座に滅するほど、この煩悩というものは単純な存在ではありません。なにせ、私たちの肉体、これがそもそも煩悩による1つの結果として得てしまったものなのですから、これは大変です。しかも、それなら今すぐ肉体を捨てれば良いのかと言いますと、そう簡単でもないのです。煩悩を持ったままですと、来世にそれは持ち越されてしまうので、何の解決にもならないのです。つまり、私たちは煩悩に縛られつつ、同時に煩悩を滅していく方向に歩まねばならないわけです。これはもう、うまく煩悩と付き合っていくしかないでしょう。

私たち浄土仏教では、まずそんな自分に気づくということから始まります。自分のことも良く分からないのに、いきなり修行しても成果は上がらないでしょう。自分はどんな存在なのか、これを知ることがまず肝腎です。仏教には経典が多々残されていますが、これらは多く自分の存在について書かれたものです。経典を勉強することは、自分を勉強することでもあるわけです。

何か面白くないことが置きましたら、何かしら自分に起因するところがないか考えてみてください。大抵は何かあるはずです。嫌な人でも、その人を嫌がるのは自分でありますし、何かあるでしょう。繰り返すうちに、自分のすがたが見えてくるはずです。それほど難しいことではありません。

こうしたことでも、十分に仏教を実践していると思います。

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2012年06月14日

密教と煩悩

密教教学は華厳思想や唯識思想や如来蔵思想などを進化させたところがあり、教学的には理解し易いところもあります。もちろん、とても深遠でありますので、そうそう完全に理解できるものではありません。ほんの初歩的な部分でという意味です。

しかし、どうも実践的なところ、つまり煩悩をどう扱うかということについて、密教以前の大乗仏教の思想からは良く分かりません。煩悩を肯定的に捉え、悟りへのエネルギーにしていくということのように思えますが、凡夫の段階でそれはどう有効になっていくのでしょう。

長寿や繁盛を願う現世利益と、そういった執著から脱っする悟りと、両者の間、どのあたりで転換、つまり回心があるのでしょう。もう少し勉強してみたいと思います。

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2012年06月11日

密教と浄土門

私は浄土門の坊さんですが、地元では禅宗や密教の先輩方とも交流をさせていただいております。禅宗のお寺はやはり境内が美しく、普段の生活でも学ぶべきことが多々あります。また、密教は教えが独特であり、個人的な研究の側面からも、今、とても興味があります。

地元の密教寺院は東寺真言宗のお寺が多く、「六福寺めぐり」でお世話になっているご住職も、東寺真言宗弘済寺のご住職です。実は浄土門と密教はあまり接点がありませんが、歴史的には無関係ではありません。浄土門である浄土宗や浄土真宗が始まる前(平安時代)、浄土教は天台宗の比叡山や奈良の東大寺などで研究・実践されていました。いずれも密教が深く浸透するなかで行われていたので、浄土教を密教に引き入れて解釈することも多くなされておりました。たとえば、東大寺別当をされた永観さんは、「阿弥陀如来」の「阿」と、密教で重視する「本不生」を示す「阿」(←本来はサンスクリット語の「a」。否定を意味する)に共通性を見出しています。

密教は日本仏教とチベット仏教で今も伝承されており、とくチベット仏教はインド密教をそのまま継承していると言われます。日本仏教では禅宗や浄土教も盛んになりましたが、チベット仏教では密教がメインです。ただ、日本仏教でも密教の果たした役割は極めて重いものがあり、浄土教であっても、密教と無関係であるとは全く言えません。また、浄土教のなかでも、浄土宗や浄土真宗と言った浄土門は、前述のように密教とあまり接点がないように見えますが、やはりどこかで思想的な恩恵を受けていると思われます。

仏教は本来、世俗の欲を消し去る実践をしますが、密教ではその欲を悟りへ至るための手段として、上手く活用していくそうです。不勉強なので表現に間違いがあるかもしれませんが、現実にある人間存在において、そこに悟りを見出していこうとする姿勢なのかと思います。「煩悩即菩提」という仏教の言葉がありますが、これを最も実践的に展開させたのが密教だと言えましょう。

弘済寺のご住職も、先日の「六福寺ツアー」で、こうした密教の特質についてお話下さいました。浄土門では欲を肯定することはありませんが、欲にまみれたこの私が、欲のあるまま、そのままに阿弥陀如来に救われていくという教説となります。人間存在を直に見つめるということにおいて、どこか密教の影響を受けている気がしないでもありません。

永観さんの残された書籍から、何かヒントが得られそうです。学会で発表するまではいかないかもしれませんが、今後、研究を進めていきたい分野ではあります。

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2012年04月26日

減酒にチャレンジ

ただいま減酒にチャレンジ中です.禁酒ではなく減酒というところが甘ちゃんですが.1杯飲んだらノンアル,1杯飲んだらまたノンアルってな作戦です.姑息な作戦ですが,今のところ順調です.

ただ,腹減るんですよ,これがまた.元来,酒飲み出すと酒オンリーになる人だったのですが,ノンアルのせいか,むしょうに腹が減るのです.もうパクパクパクパク,止まりません.こりゃ逆に太るね.

禁酒まで勇気がなく,煩悩と付き合っています.

posted by 伊東昌彦 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 良質な煩悩ライフ-life

2012年04月03日

仏との関係において

我々は煩悩盛んな身の上です.仏教は煩悩を滅することを説くものです.しかし,これがなかなかなくならない.そんな身の上だからこそ,仏はおるぞと言いたまう.有難いことです.

ただ,私は思うのです.それは決して堕落を意味しない.煩悩の肯定ではない.悪の肯定では有り得ない.どこまでも仏と私だけの関係において,私が煩悩にまみれた悪だと言うことです.

仏のいない煩悩の肯定は仏教ではありません.単なる堕落です.

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2012年03月20日

煩悩の解説

煩悩とは自己中心的な勝手な心であり,間違えた考えを押し通そうとする心です.

煩悩と言いますと,仏教ではまず根本的な@「貪」(とん),A「瞋」(じん),B「癡」(ち)の三毒を挙げます.

@「貪」は貪欲(とんよく),つまり命や物事への執著です.
A「瞋」は瞋恚(しんに),つまり思い通りにならないことへの怒りです.
B「愚」は愚癡,つまり自分も含めた世界のあり方を知らないことです.「愚」は「無明」(むみょう)とも言いまして,三毒のなか,他を生み出すものとされています.

また,六大煩悩という見方もありまして,これは上記三毒に,C「慢」(まん),E「見」(けん),D「疑」(ぎ)の三つを加えたものです.

C「慢」は他者への優越意識であり,自己保全をすることです.
D「見」は悪しき見方であり,自分も含めた世界のあり方を誤って理解することです.
E「疑」は道理を疑うことであり,正しい見方を信じ切れないことです.

そして,さらにD「見」を,D‐1「薩伽耶見」(さつがやけん),D‐2「辺執見」(へんしゅうけん),D‐3「邪見」(じゃけん),D‐4「見取」(けんしゅ),D‐5「戒禁取」(かいごんじゅ)の5つに開き,全部で十煩悩とすることもあります.(これら5つは少し難しいので解説は省略します)

仏教には唯識思想というものがありまして,瞑想をしながら自らの心を解析し,これを体系化する学問が生まれました.それによりますと,煩悩はさらに解析され,これらに派生的な20の随煩悩(ずいぼんのう)というものも見出されました.

それらの解説は次回といたします.

(伊東昌彦)

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2012年03月16日

煩悩とどう向き合うか

煩悩は基本的にはないほうが良いのです.執著心であり,無用な苦を生み出す要因です.仏教ではその煩悩を転じて智慧となす道を説くわけですが,これがまた中々難行なのです.一つ消えたらまた一つ生まれ,一つ消えたらまた一つ生まれる.煩悩なんてそんなもんです.モグラ叩きゲームそのものです.生涯消滅することはないでしょう.少なくとも私の場合は.

であるならば,煩悩とどう向き合うのかがより大事なこととなります.自分の内にある煩悩ですが,コントロールするのが大変なのです.そもそも,「自分」という意識なんて,心のごく一部でしかないと言えます.心には厄介な存在が多いのです.「自分」という意識でさえも,「自分」への執著心であると言えるでしょう.

煩悩を良く制御することができれば,苦を最小限に食い止めることができるかもしれません.仏教には「少欲知足」という言葉がありますが,これもそうした実践の一つです.ああ,もう一つデザート食べたい,お昼にそう思いましたが,グッとやめておきました.

(伊東昌彦)



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2012年03月09日

DJショウゲン

住職である伊東昌彦とDJショウゲンは表裏一体です.
まあ,同一人物なので当たり前ですが・・・.

思うに、音楽は美しいものですが、人が作り出している以上、究極的にはやはり煩悩です.
煩悩とは執著心です.
しかし,私どもは煩悩とともに生きねばなりません.

音楽は私どもに「良質な煩悩ライフ」をもたらしてくれるものです.

そう思うならば、仏さまのお導きと言えるかもしれません.

合掌

(伊東昌彦)
posted by 伊東昌彦 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 良質な煩悩ライフ-life