2012年06月11日

密教と浄土門

私は浄土門の坊さんですが、地元では禅宗や密教の先輩方とも交流をさせていただいております。禅宗のお寺はやはり境内が美しく、普段の生活でも学ぶべきことが多々あります。また、密教は教えが独特であり、個人的な研究の側面からも、今、とても興味があります。

地元の密教寺院は東寺真言宗のお寺が多く、「六福寺めぐり」でお世話になっているご住職も、東寺真言宗弘済寺のご住職です。実は浄土門と密教はあまり接点がありませんが、歴史的には無関係ではありません。浄土門である浄土宗や浄土真宗が始まる前(平安時代)、浄土教は天台宗の比叡山や奈良の東大寺などで研究・実践されていました。いずれも密教が深く浸透するなかで行われていたので、浄土教を密教に引き入れて解釈することも多くなされておりました。たとえば、東大寺別当をされた永観さんは、「阿弥陀如来」の「阿」と、密教で重視する「本不生」を示す「阿」(←本来はサンスクリット語の「a」。否定を意味する)に共通性を見出しています。

密教は日本仏教とチベット仏教で今も伝承されており、とくチベット仏教はインド密教をそのまま継承していると言われます。日本仏教では禅宗や浄土教も盛んになりましたが、チベット仏教では密教がメインです。ただ、日本仏教でも密教の果たした役割は極めて重いものがあり、浄土教であっても、密教と無関係であるとは全く言えません。また、浄土教のなかでも、浄土宗や浄土真宗と言った浄土門は、前述のように密教とあまり接点がないように見えますが、やはりどこかで思想的な恩恵を受けていると思われます。

仏教は本来、世俗の欲を消し去る実践をしますが、密教ではその欲を悟りへ至るための手段として、上手く活用していくそうです。不勉強なので表現に間違いがあるかもしれませんが、現実にある人間存在において、そこに悟りを見出していこうとする姿勢なのかと思います。「煩悩即菩提」という仏教の言葉がありますが、これを最も実践的に展開させたのが密教だと言えましょう。

弘済寺のご住職も、先日の「六福寺ツアー」で、こうした密教の特質についてお話下さいました。浄土門では欲を肯定することはありませんが、欲にまみれたこの私が、欲のあるまま、そのままに阿弥陀如来に救われていくという教説となります。人間存在を直に見つめるということにおいて、どこか密教の影響を受けている気がしないでもありません。

永観さんの残された書籍から、何かヒントが得られそうです。学会で発表するまではいかないかもしれませんが、今後、研究を進めていきたい分野ではあります。

posted by 伊東昌彦 at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 良質な煩悩ライフ-life
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