2024年06月21日

被害者報道への疑問

通夜葬儀、そして火葬のあと、収骨をして遺骨を骨壺に納めます。最近は収骨までお供することは減りましたが、かつては最期までお供いたしました。収骨は家族や近親で行うことが通例だと思います。坊さんである私は、読経のあと、収骨室の外で待つことが多かった。なぜかと言いますと、私は家族や近親ではありません。故人にとって素っ裸とも言える遺骨を、他人にしげしげと見られるのは辛いかなと、そんなように感じたからです。

最近思うのですが、事件や事故などに遭われた被害者の方々、お顔とお名前が全国に大々的に報道されますよね。昔からそうだと思います。少なくとも私が幼かった頃からも。一方、加害者に対しては顔はもちろん、名も伏せられる場合もある。加害者の顔と名を報道しろと言っているわけではありません。被害者の方々のお顔とお名前、そんなに報道する意味ありますかね。私は知らなくていい。客観的にこういう事件や事故があって、年齢は知りたいけれど、もうそれで十分。

なぜ晒し者とならねばならないのか、私にはまったく理解が出来ません。亡き方へ思いを馳せることが出来なければ、人の痛みに共感することは出来ないでしょう。なんのための報道なのか、疑問です。


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posted by 伊東昌彦 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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