この世のあり様は、すべて「諸行無常」が真理です。移り変わりの世界であって、固定的であることはなく、それぞれの物事が互いに関係し合いながら、それぞれ別々に変化していきます。仏教ではそう考えています。真理とは普遍的なものであり、どこかに真理が存在しているということではなく、正しいものの見方をすれば真理は自から認識可能です。
ところで仏教は宗教です。生死を語ること、とりわけ死後を語る。真理とその普遍性を語る。この2点だけでも完全に宗教です。死後なんて宗教じゃないと語れませんし、真理と言いましても、もしかしたら普遍的ではないかもしれません。いずれも立証は今のところ不可能ですので、これを説くことこそ宗教の醍醐味です。仏教においては、真理の顕現もしくは具象化が「仏」であり、仏と成る、すなわち成仏することは真理に到達することを指しています。仏像は真理の象徴であり、実践者が目指すゴールでもあります。
裏を返せば、こうした事柄を言い出す思想というのは、宗教とまでは言い切れなくとも、宗教性をかなり帯びていると言って間違いありません。哲学がそうです。東西を問わず、哲学のなかにはかなり宗教へ近づいたものもあります。西洋哲学は合理性のイメージが強いかもしれませんが、キリスト教と相互に影響を受けている面もあるようです。
ちなみに倫理というものは道徳や規範であり、人と人との間での事柄に限定されます。哲学も人の理性によっているのでその点で倫理と通じてはいますが、哲学は人の存在について根本的原理を探る営みかと思いますので、やっている事は違います。倫とは仲間のことです。倫理に普遍性はありません。限定されたなかでの道徳や規範になります。
いずれにしましても、普遍性ということを説きだすと宗教的になりがちです。そもそも、何らかの思想というものに普遍性があるのかどうかは、よく考えたら誰も分からないことであり、創唱者がそうだと説いて、それに賛同する人がいれば、まあ、そこではそうなんだろうなあということに過ぎません。信じるか信じないかの問題です。
世間には宗教とは言えなくとも、宗教的な発想はいくらでもあります。大切なことは、どんな思想であっても、一方的に信じ込まないことです。私は坊さんなので基本的には仏教思想を信じていますが、経論のなかにはいくらでもいい加減な表記はあります。肝腎なことは、正しいものの見方です。極めて難しいことではありますが、出来るだけそれに努めることで、生き方は随分と自由になってくると思います。信じ込むということは、自由を犠牲にすることでもあるからです。
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2024年02月29日
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