2024年02月16日

何事も「聞・思・修」

少なくとも地球というまとまりにおいて、本来、生命は好きなように生きていい。常識や規則があるのは人だけ。ペットであっても好きに生きていい。そもそもペットになるのは人の支配下に置かれたからで、生存のための強弱では弱いから。

ただし、何事も自業自得。言い換えれば、自分の行為とその影響の結果は、自分で引き受けねばならない。我慢する必要はないけれど、好きなように生きたことの結果は、ちゃんと自分で責任持たないといけない。生きるということは冷酷なことなのだ。人のなかに常識や規則が作られたのは、出来れば悲惨な結果を避けたいという本能からだろう。冷酷な現実は耐え難いものだ。しかし常識や規則はすべて人に適合するほど万能ではない。これもやはり、強い存在によって設定されている。

仏教の考えにおいて、「生まれ」は今の自分ではどうにもならない。それは先天的な業(行為とその影響)によるものであるから、今の自分ではなく、過去の自分(→今、業は引き継ぐが人格は異なる)の業の結果だから。しかし、今、どう生きるのかは、今の自分で決めていい。もちろん思い通りにならないことも多いが、方針を決めるのは今の自分でいい。好きに生きていいのだ。

お釈迦様も説かれた。生まれでバラモン(→インドの伝統的宗教家で、身分的に最上位)になるのではなく、生き方によってバラモンになるのだと。

たとえば身体的な先天的性別を変えたいのであれば、可能なかぎり努力してもいい。ただし、性別変更という行為と、その影響から来る結果は、すべて自分で責任をもって引き受けねばならない。影響は個人的にも社会的にも色々とあることだろう。「後始末はよろしく」、ではダメだ。引き受けるほどの覚悟がないのであれば、別の方法を考えなければならない。自分の行為とその影響は、周囲に良く思われることもあれば、悪く思われることもある。そのすべての結果は自分が引き受ける。

何事も「聞・思・修」と言って、まず聞く、そして自分で考える、それから行動へ移す。考えなしに生きていけるほど、生命というものは緩くはなさそう。


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posted by 伊東昌彦 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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