2024年01月29日

大切に思う人、思われている人がいる

すこしでも想像してみれば、ある程度は分かるはず。すべての人にはそれぞれの人生があり、大切に思う人、思われている人がいる。命は個々で歩むものであると同時に、縁によって結ばれて互いに影響し合いながら存在している。自分の今までの歩みを振り返って見ても、これは比較的容易に分かるはず。

自分の欲望や都合、慢心した理想によって、勝手に他者を殺傷することは悪業だ。これは現世において報いを受ける因となるのみならず、来世における命のあり方を直接決定する因となる。簡単に言えば、そういう悪業を自分自身に植え付けてしまうと、来世は地獄という命のあり方になる。地獄に落ちると表現されるが、むしろ自分自身の心が地獄なのだ。だから地獄に落ちる。

もちろん、その悪業を消し去ることは可能だ。無限とも言える期間、地獄の苦しみを受け続ければ、いつかは悪業は消える。無限とも言える期間になることは間違いないけどね。現世においても過ちに早々に気づき、真摯にその悪業に向き合い、悪業が花開かずいつか消滅するかのような大きな善業を自分自身に植え付けることが出来れば、もしかしたら地獄行きは逃れることが出来るかもしれない。

でも、そんなことにならないよう、すこしでも想像してみることが大切だ。想像が苦手であっても、他者だって自分と同じように生きているし、大切に思う人、思われている人がいると知ってほしい。他者を殺傷することは、その人が大切に思う人、思われている人の命をも傷つけることになる。だから、悪業が極めて大きい。

地獄の閻魔様は、こうした悪業の象徴なのだ。決して逃れることが出来ない。決して許されることがない。それほど厳しく、冷徹なものが悪業だ。私はそんな地獄に落ちたくないので、出来るだけ他者のことを想像し、思うことにしている。せこい欲望も都合も理想もあるけれども、他者を殺傷してまで押し通す価値なんてまるでないね。それを肯定するような本も世にはあるが、読む価値は絶対にない。


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posted by 伊東昌彦 at 10:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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