2023年09月26日

クローンだって別々の命

本日9/26付けの日経新聞1面に、「テクノ新世 Technopocene「神の」領域へA」という記事がありました。亡くなった息子さんの遺体から精子を取り出し、代理母によって孫を得ようとする夫婦。亡くなったペットのクローンを飼っている夫婦。クローンが家に来たときには、「家に帰ってきた」と感じたと言います。いずれも大切な存在が亡くなってしまい、なんとかその悲しみを乗り越えようとしていることが分かります。これは誰しもが経験する可能性のあることであり、とても自然な感情と言えます。

テクノロジーのことは私には分かりませんが、宗教家として言えることは、亡くなるということも自然だということです。子のいない息子さんが亡くなったということは、それ以上でもそれ以下でもありません。ペットも亡くなれば、同じことです。非常に辛いことですが、仮にその分身とも言える存在や、クローンである存在があったとしても、決して同じ命ではありません。器である肉体が近い存在であっても、あくまでも命は別の存在として来たと言えます。

日経新聞は記事の最後に、哲学者であるスティーブン・ケイブ氏の、「これまで宗教が担ってきた(死を乗り越える)物語を科学が語り始めただけだ」という言葉を引きます。そして、日経新聞の言葉として、「科学によって死の悲しみを乗り越える。そんな時代がやってきた。」と結びますが、引用されたケイブ氏の言葉を見る限り、やや勇み足のような印象です。

科学技術はもちろん生命の領域まで触手を伸ばし、あたかも死について語り始めたように見えるでしょうが、それをもって「死の悲しみを乗り越える」「時代がやってきた」とは断定できません。宗教であっても、自分や大切な方の「死の悲しみを乗り越える」ということは主要な課題とはいえ、乗り越えることは簡単なことではありません。仏教では「生老病死」と言いまして、この世における4つの苦悩のことですが、必ず命あるものは死ぬのだと説きます。これが真理です。現代的に言い換えれば、これが自然なのです。こうした真理を受け入れることが、唯一、「死の悲しみを乗り越える」ことにつながると言えます。

私はケイブ氏のことはほとんど知りませんので、もしかしたら、記事の締め括り方に間違いはないかもしれませんが、科学技術も生命の領域まで来たということを述べているだけで、科学によって死を乗り越える、とは言ってないのではないかと思えます。もし、仮に科学万能主義のようなことを言っているのであれば、それはもはや哲学ではないでしょうし、敢えて記事にするようなことでもないかと思えます。クローンなどの存在で死の悲しみを乗り越えることが出来るのであれば、特筆すべきことはなくなるからです。そうすればいいだけですから。

posted by 伊東昌彦 at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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