供養という言葉は、原意としては「仏に仕える」というような意味合いになりますが、現代日本では亡き方を追悼する(もしくは慰霊する)という意味で用いられることが多いでしょう。追悼ということも含め、何となくぼんやりとした印象の言葉ではありますが、父(前住職)が亡くなりまして、1つ明確になったことがございます。
父が亡くなり、通夜葬儀、そして四十九日法要納骨と終えまして、同時に遺品整理をしています。遺品からは息子である私の知らなかった父の側面ですとか、「父として」ではなく、ひとりの人としての姿も拾い集めることが出来ました。言い換えれば、より伊東宗之(←父です)という人物を知ることが出来たのです。
供養とは、亡き方を生前よりも増して知っていく、より知っていくことではないかと思います。よく考えれば、祖父のことも祖母のことも、よく知っていたかと言えば、そうではない側面も多いことでしょう。断片的ですが残っている若い頃の写真からは、たしかに祖父や祖母の当時をイメージすることは可能ですが、かなり限られたものになってしまいます。写真にコメントがあるだけでも、かなりイメージ増幅には役立ちます。祖父や祖母が大切に考えていた事柄を、私ももっと知ることが出来れば、今の自分自身の生き方にも何かしら影響があるようにも思えます。
自分の大切な事柄を、少しでものこし伝えていければなあと、そんな思いでいます。
記憶をのこすことは、広く言えば次世代にとって意味あることだと思います。
2023年08月20日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190514962
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190514962
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック