2023年05月30日

指導死という言葉に触れて

インターネットでニュースを見て、「指導死」という言葉を知らなかったので調べてみたところ、多くの事例があることが記されていました。今に始まったことではなく、かつ、どの学校にもということではありませんが、学校の先生のなかには指導不適格な人物がいることは頷けます。

敢えて言いますと、学校の先生は児童生徒にとって、学校、とりわけクラスではまさに「天下」です。

以前、PTA活動を通じて知り合った校長先生が語っておられましたが、「教師は良くも悪くも学校しか知りません。多くの教師が大学を卒業して、そのまま学校へ就職しています。他業種を知る機会のないまま、ずっと学校にいるわけです。若い先生方には他業種の方の話を聞いたり、体験する機会をもっと持って欲しい」という趣旨であったかと記憶しています。

世間知らずになるなってことです。情報を得るためのアンテナはいつも立てていましょうと。閉じたなかにおいては、熱意もいつしか傲慢になるかもしれません。

行き過ぎた指導というものは、往々にして傲慢です。そうならないことを願います。

posted by 伊東昌彦 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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