尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。
今回は『御伝鈔』のなかでも有名なシーンとなりまして、山伏の弁円(べんねん)が登場いたします。皆さん、山伏のイメージはどんなでしょう?頭には頭襟(ときん)をかぶり、体には六つの房のついた結袈裟(ゆいげさ)をし、手には錫杖(しゃくじょう)や法螺貝(ほらがい)を持っている。歌舞伎で演ぜられる武蔵坊弁慶が分かりやすいかもしれません。天狗の姿も山伏スタイルに似ています。ただ、実際には何をしている人なのか、お坊さんなのかそうではないのか、意外と謎が多いなあと感じられる方もいらっしゃるでしょう。そこでまず、山伏について簡単に説明をしてみます。
山伏は日本古来の山岳信仰の行者であり、仏教伝来以前から存在していました。深山に籠ることにより自身の霊力を高め、それによる衆生救済を目的としています。祟りなどを鎮める役割も担っていたことでしょう。仏教伝来によって、とりわけ密教による修行体系が取り入れられ、加持祈祷を行う理論も整備されました。こうして確立された宗旨を修験道(しゅげんどう)と言い、山伏は修験者とも呼称されます。『御伝鈔』でこの後出てくる「箱根霊告」の舞台、箱根山も修験道の霊山であり、親鸞聖人在世当時において、山伏は意外と身近な宗教者であったことがうかがえます。なお、弁円はお坊さんでありましたが、山伏は仏教以外の系統に属している場合もあります。
山伏の弁円は、親鸞聖人が滞在された稲田草庵に近い筑波山を拠点にしていたようで、おそらく周辺の方々の信望を得ていたのでしょう。そんな弁円にとりまして、京都から来たとはいえ、新参者であるにも関わらず人々の信望を得ている親鸞聖人は、目障りな存在であったかもしれません。信者を横取りされてしまうのではという疑心にかられ、弁円は親鸞聖人に道端で危害を加えようと策謀します。しかし、なかなか遂げることができず、奇異に思いながら直接草庵に押しかけたのでした。
さてさて、草庵の玄関で出て来いと尋ねた弁円ですが、親鸞聖人は構えることもなく、自然な出で立ちで迎えられました。そのお顔を見られた弁円の心からは、たちどころに害す心が消えたそうです。そのうえ後悔の涙も流したそうですので、親鸞聖人のお顔は光り輝きまさに如来のようであったのでしょう。深山に籠り修行することは難儀なことですし、弁円にも日頃の悩みが多かったと思います。親鸞聖人に悩みを打ち明けられました。これこそ回心であり、真実の教えにめぐり遇えた瞬間です。弁円は浄土真宗に帰しまして、親鸞聖人から法名を明法(みょうほう)といただき、弁円改め、ここに明法房として門弟に加わったのでした。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
2022年11月06日
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