2022年09月03日

宗教家は謙虚でありたいものです

宗教の定義というのは宗教学者によって様々かもしれませんが、簡単に言えば生死についての信仰だと思います。生まれる前とか、死んだ後とか、人知を超えたところまで及ぶ情感です。信仰は理性的には思い込みの類かもしれません。情感ですから。しかし重要なことは、信仰は強要されるものではないということです。言い換えれば、誰でも手前勝手に信仰すべきでありで、脅された挙句、信じ込まされるようなことがあれば、それはもう信仰ではありません。

伝統的な日本仏教でありましても、時代によっては地獄のあり様を過度に説いて恐怖感を煽ったり、女性は罪深いからとか根拠のない妄言を宣布した一味もあり、宗教として大きく逸脱したこともありました。はっきり言いまして、地獄の詳細な様子なんて人に分かるはずもありませんし、性によって罪が増すとか意味不明です。これは単なる脅しです。脅して信じ込ませるというのは、現代的には強迫罪ですとか詐欺罪に当たります。宗教ではありません。

宗教家は謙虚でありたいものです。人に強いることがあれば、もう宗教家ではなくなります。人には抑止力が必要なときもあるので、地獄という存在はこの世で罪を犯さないために意味があります。でもよく考えてみれば、地獄に落ちるか落ちないかの判定は宗教家がするものではありません。それは人それぞれの行為によっています。宗教家がそんなこと分かるはずもありません。全部チェックしているわけじゃないんですから。宗教家がいい加減なこと言っちゃいけません。地獄の閻魔様は怖いから、嘘つくんじゃないぞ、っていう方向性が正しいのです。抑止ですから。

posted by 伊東昌彦 at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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