「源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。」
仏教は古来、仏道と呼称されることが多かったようです。仏教という表現はむしろ新しく、明治時代以降に定着したとも言われます。他にも書道、華道、芸道、剣道、柔道など、道のつく言葉はいくつか見られます。それぞれお師匠さまから長く指導を受け、技術の伝承のみならず、その技術を通して高い精神性を獲得することを目指しています。ただ、お師匠さまに届くのはそう簡単なことではなく、同門と比べて自分の到達度はどうなのか、いろいろと気になるものでしょう。今回のご讃題も引き続き『御伝鈔』からいただきましたが、法然聖人門下においても、仏道修習の到達度について話題になったことがあったようです。
『御伝鈔』によりますと、ある時、法然聖人門下において、思いもよらない言い争いが起きました。信心について親鸞聖人が、ご自身の信心は法然聖人の信心とかわらないと言われたことに対し、ある同門が異議を唱え、親鸞聖人へ詰問したところから始まります。その同門からすれば、お師匠さまの信心とかわらぬとは何事か、なんと生意気なことを言いおって、と腹立たしく思ったことでしょう。信心が自分自身の修練によって得られるのであれば、それもうなづけます。しかし、法然聖人の仏道は本願他力の浄土門ですので、私たちが阿弥陀如来の本願をいただき、たまわりたる信心でお浄土へ参らせていただくものです。自力で信心を獲得するのではありません。
親鸞聖人は詰問に対して、「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。」と回答されました。他力信心、すなわち阿弥陀如来よりたまわりたる信心であるから、そこに「わたくし」の力量は関係ないと言うことです。だからこそ、「(法然)聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信(=親鸞聖人)が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と続けられました。法然聖人の信心も親鸞聖人の信心もたまわりたる信心です。ひとしく、かわらないのです。
ちょうどその時、同座されていた法然聖人が仰いました。とても温厚なご性格ですので、おそらくその場をうまく取り持たれたことでしょう。「信また各別なり」とのことで、信心にもいろいろあると仰せです。自力の信心もあれば、他力の信心もあるのです。他力の信心とは凡夫が阿弥陀如来からたまわる信心であるからこそ、ご讃題にあるように、お師匠さまである法然聖人(=源空)の信心も、お弟子さまである親鸞聖人(=善信房)の信心も、少しもかわることなくひとつだと教えられました。詰問した同門たちは舌を巻き、口を閉じてしまったということです。
(本文は『やさしい法話』6月号へ寄稿したものです)
2022年08月04日
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