日本という国を考えたとき、保守的な人もいれば、革新的な人もいるのは当然です。何事においても良い部分は残し、良くないところは変革するものだからです。どちらかにあまりにも拘泥しすぎるのは良くない。仏教では中道と言いまして、極端に走ることは苦しみを増す原因になると説きます。たしかに極端ですと周囲の話を聞かなくなり、落とし穴にはまる可能性は高いでしょう。
私はつねに中道でありたいと思っていますが、性格的には古いものが好きなたちです。古いものの仕組みというか、かつての人々がどう考えてそのように至ったのか、そういう過程を知るのが好きです。たとえば何で神社があるのかとか。何かに対して、おそらくいわゆる自然だとは思うのですが、そこに恐れを懐き、その対策として祀った。為政者はそうした庶民感情を巧みに利用して支配を広げた。そういう過程です。
これは『古事記』や『日本書紀』の誕生においても同じです。為政者のいらんところは切り捨てる。都合のいいところは増幅したり、さらに創作して追加する。こうした過程で誕生したのでしょう。古いものは好きなのですが、それらの存在を絶対視して、その背景を知ろうとしない態度は好きではありません。仏教も同じです。祈祷や現世利益はインド仏教の本流ではありませんが、日本では最初それがうけた。当時の富裕層にとっては、諸行無常とかそういう現状否定的な教えよりも、逆に現状維持のほうが大事だったからです。
日本の伝統を知りたければ、こうした物事の背景まで理解しないといけない。理解した上でああだこうだ言うのは大いに結構なことですが、それを経由しないのは閉鎖的な思考を生む危険があります。実のところ、歴史を振り返れば庶民はこうして支配されてきました。庶民を意味わからんという状態にしたほうが、為政者にとっては都合がいいのは間違いありません。しかし、現代の民主主義ではあり得ない話です。
何が日本の伝統なのかと言えば、とても難しいのです。だいたいよくある伝統というものは、どこかで誰かが都合よくこしらえたものだからです。私は古いものが好きですが、誰かの都合を好きなわけではありません。その都合がどんな内容なのかを知ることは好きですが、その意のままにはなりたくない。歴史を客観的に振り返るという営みがあってこそ、保守と革新はしっかり作用していくのではないかと思えます。そもそもいつから日本になったのか、こういうところから知りたいのです。
2022年07月16日
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