2022年05月12日

『御伝鈔』上巻 第三段「六角夢想」

「救世(くせ)菩薩はすなはち儲(ちょ)君(くん)の本地(ほんじ)なれば、垂迹(すいしゃく)興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。」

ご讃題は『御伝鈔』の「六角夢想」の段になります。親鸞聖人が京都の六角堂に参篭されたあと、振り返って語られた仰せとなります。六角堂で聖人は救世菩薩から夢告を得られ、世俗のなかで仏法を広める決意をされます。出家のできない凡夫がそのままで救われる道、浄土真宗のみ教えを広めるため、ご自身も結婚をして在家生活を送られたのです。救世菩薩は六角堂のご本尊であり、観音菩薩のことを指しています。六角堂は聖徳太子のご建立で、ご本尊の観音菩薩像は太子の念持仏であると伝わります。親鸞聖人は太子を日本における教主として尊崇されており、教えを乞うために参篭されたのでしょう。

この「六角夢想」では救世菩薩の夢告が肝要なのですが、今回は救世菩薩と聖徳太子、そして阿弥陀如来の関係についてお話をいたします。浄土真宗では阿弥陀如来をご本尊としますが、お寺の本堂には聖徳太子のご絵像も脇に掲げられています。しかし、救世菩薩はおられません。これはどういうことなのかと言いますと、仏教の考えには、本地(=本体)としての如来や菩薩は、人々を救うため世間に仮のお姿になって垂迹(=出現)される、というものがございます。ご讃題もこの考え方に立脚しておりまして、救世菩薩は儲君、すなわち聖徳太子の本地であり、仏法を興隆させるため、聖徳太子ご建立の六角堂でその尊容を示されたというのです。

聖徳太子は救世菩薩が世に出現されたお姿であり、それはつまり観音菩薩であるということです。親鸞聖人は観音菩薩から夢告をいただくことにより、ご自身の歩みを大きく進められました。と言うことは、浄土真宗のお寺のご本尊も六角堂と同じく、観音菩薩であってもおかしくはないようにも思えます。しかし、そうではありません。

『無量寿経』には観音菩薩は阿弥陀如来のもと「最尊第一」と説かれます。言うなれば、観音菩薩は阿弥陀如来の一番弟子なのです。観音菩薩が尊容を示されたということも、それは阿弥陀如来のはたらきによっています。『御伝鈔』ではご讃題に引き続き親鸞聖人の仰せとして、「今の行者、錯(あやま)りて脇(きょう)士(じ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」ともございます。つまり、観音菩薩は聖徳太子の本地でありますが、さらに阿弥陀如来が観音菩薩の本仏であるということになるのです。観音菩薩や聖徳太子は脇において崇めるべきであり、礼拝するご本尊はあくまでも阿弥陀如来ということになります。仏教ではたくさんの如来や菩薩が説かれますが、こうした関係を知っておくと理解が深まります。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)



posted by 伊東昌彦 at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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