
境内では遅めの梅が咲きました。老木ですが毎年とても綺麗です。
仏教、とりわけ唯識仏教では人の存在とは煩悩なのだと説きます。煩悩があるから命があるのです。言い換えれば命とは煩悩そのもの、と言うことにもなり得ます。煩悩が消えれば自分も仏です。消すためには聞薫習(もんくんじゅう)と言いまして、仏教の教えを聞くことがスタートとなります。それは聞・思・修とも言いまして、聞いて、思考して、実践する、と段階を踏んでいきます。
煩悩は貪り・怒り・愚かさの3つに代表されます。なかでも愚かさは無明(むみょう)と言いまして、煩悩すべての根源となります。光明がないのです。自分自身の問題点を直視する智慧がありません。だから人のものが欲しくなったり、人の行為に怒ったりします。ものがなくなれば恐怖し、他者の存在にも恐怖し、恐怖のあまり攻撃的になります。嫉妬や傲慢も煩悩です。
一方、命は煩悩そのものですが、煩悩があるからこそ皆でこうして出会うことが出来ました。奇妙な言い方になりますが、煩悩がなかったら自分も存在しませんし、家族や友人、好きな人と出会うこともなかったわけです。煩悩は根源的にはそりゃ悪いものなのですが、あるからこそ皆と交流して話を聞くことができ、それによって自分自身の問題点に気づかされていきます。
人の話を聞かなくなると煩悩は増大していきます。恐怖は猜疑心を生みます。聞薫習によって煩悩は花にもなりますが、花を蹴散らす暴力にもなります。家に帰って家族や友人の話をよくよく聞くべきです。攻撃するのではなく、聞くのです。唯識仏教においては、他者も自分自身の一部として受け取ることが出来ます。話を聞かないということは、自分自身の声に耳を貸さないということにもなります。
独裁者はいつの時代も無明の体現者です。智慧がありません。聞かないからです。