2022年01月11日

人と人とのつながり

私が小学生のころ、今から40年ほど前の記憶をたどりますと、今よりも近所付き合いというものはあったように感じます。密閉性の低い住宅であったかもしれませんが、近隣の生活音はごく当たり前のように耳に入ってきました。繁華街からは距離のあるせまい住宅地育ちです。夏になれば扇風機しかないので窓は全開放。夫婦喧嘩や酔っ払いの声も記憶にあります。近隣の夕食の支度も分かります。物理的のみならず精神的にも近隣と距離が近かったからでしょうか、お裾分けをいただいた記憶もあります。留守にするときはお隣さんに声かけして留守を告げました。う〜む、今ではちょっと考えにくいかなあ。むしろ言わないですよね。見方によっては留守を公言しているようなものですから、防犯上問題だと考えてしまいます。しかし、その当時はそれが防犯であり、必要なことだったのだと思われます。目に見えるつながりによって助け合っていました。

人と人とのつながりというものは、現代人にはかなり薄れたと言われています。インターネットでつながることはあっても、現実世界で実際に上記のようなつながりは稀かもしれません。助け合いの精神はどんな時代であっても必要だと思います。しかし、助け合いの精神というものは、必要であるから自然発生的に人と人との間に湧き起こってくるものです。現代人に助け合いの精神がないかと言えば、それはまったく違います。そもそも社会というシステム自体が助け合いの構造になっていますし、単独で生きている人はいません。防犯のために声掛けをしていたものが、今は住宅の防犯設備の性能が向上したり、警備会社も一般家庭へ普及したことにより、助け合いの方法が変化しただけです。それは商売だからと言うかもしれませんが、商売だって助け合いの精神から出てきたものでしょう。売り手だけ満足していては商売になりません。買い手だって世間だって満足するから商売なのです。経済の語源は経世済民です。

食生活の変化もあってか、お裾分け文化は風前の灯火と言えそうですが、それはつまり生活のなかで不要になってきたからに他なりません。助け合いの精神が消えたわけではなく、かつてに比べて人の心が荒んできたわけでもなく、そもそも生活スタイルが変わったのです。たとえば夫婦二人であっても、ともに同じように仕事を持っていることが多くなりました。料理に費やす時間も多くは取れず、一方、食材を少量で買い求めることが出来るようになり、余分に作るということが非効率になった影響は大きいでしょう。それは決して否定されることではなく、むしろ社会の助け合い精神が発揮されていると私は思います。色々と生活スタイルに合うよう便利になりました。かつての真似事をして形式的に助け合ったところで、不要であれば続きません。助け合う精神、人間性というものは、実生活のなか、とりわけ経済や仕事を通じてこそ求められなければならないものです。

posted by 伊東昌彦 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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