2021年08月27日

次世代型のお寺とは

今のお寺のあり方は基本的には江戸時代からのものであり、それが何と今まで継続しています。葬儀や年回法事を担うということで、言うなれば死別の悲しみの受け皿になってきました。それが全国的に認知され続けてきたからこそ、社会のなかで役立つお寺であったのでしょう。しかし、どうも最近はそうでもなく、お寺に期待することは特にないという風潮が高まってきたかもしれません。言い方を変えれば、お寺は社会に役立っていないと感じる人々が増えたということです。お寺の怠慢ということもあるでしょう。高圧的な住職であったり、お布施を強要することがあったりしますと、さらによくありません。

仏教は人生を生老病死と見ます。生まれて老いて病気になり死んでいくのが私たちです。最大の悩みであるとも言えるわけですが、不老不死にはなれません。むしろ人生は生老病死なのだと知ることこそが、根本的な悩み解決に向かう糸口となります。お寺はそういうことを常に伝えていかねばなりません。葬儀や法事そして法話会などでその都度こうした話をするわけですが、これ以外にも伝える方法があっても良さそうです。言葉だけではなく、社会的行動によって伝えることだって可能でしょう。次世代型のお寺が今こそ必要なのです。

ただし、問題があります。私にはまったくその具体案が頭に浮かばないのです。ここ数年はずっとこの事ばかり考えています。医療や福祉と協働するなど、本山ではすでに動きが見られるのですが、では私はどうすれば良いのかまだ妙案が出てきません。もっと頭をひねる必要がありそうです。

posted by 伊東昌彦 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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