今日から7月ですね。私は7月12日が誕生日です。昔は自分の誕生日が好きでした。両親や祖父母も祝ってくれましたし、大人に近づくのが嬉しかったですね。最近はそうでもありません。単純に年取ったなあと思ってしまうのもありますが、仏教ではそんなにめでたくないからだと思います。キリスト教だと生まれることが宗教的に祝福されるかと思いますが、仏教だとそうでもないんですよね。
なぜかと言えば、キリスト教は多分、神に選ばれて人として生まれてくるのに対して、仏教は過去世からの自分の行いの結果として、善くも悪くも人としての命のステージに生まれ出るからです。非常に個人的な問題なのです。ラッキー要素もあって選ばれるということではなく、自分の成績のまま・・・、って感じなんです。いちおう「可」なので60点ぐらいとか。しかも人はまだ迷いの世界の真っ只中なので、迷ったままやって来ました、ああ、どうしようかな、と。
もちろん、生まれ出るときには自ら両親を探して、自分に相応しいと思える両親の間に生まれ出るという説もありますので、めでたい要素がまったくないわけではありません。また、迷いから覚りへ至る道程において、まず人に生まれないとそのきっかけすら掴めないとも言われます。人に生まれることが覚りへの近道になるわけですから、結構いい路線にはいるわけです。これはめでたい。ただ、やはりすごく地道なイメージであるからなのか、ハッピーな雰囲気ではないような気もしますよね。
むしろ、ここまで育ててくれた両親や周囲の人に感謝すべきかなと思います。そうでないと坊さんにはなってないわけですし、今の自分はありません。それなりに努力して生きていくことが出来るようになったのも、両親の導きがあってのことと言えそうです。
ちなみに大人になった私は、祝ってもらうのが得意なほうではありません。小恥ずかしいというのもありますし、人を祝うほうが得意なほうなのです。誕生日にはかつての両親や祖父母を思い、感謝の心を深めたいと思います。こうした環境に育つことができて、そういう意味において非常にラッキーかつハッピーであったのかもしれません。仏教としては、たしかに過去世による行いに関係しているのですが、今の私は過去世の記憶がありませんので、やはり率直にそう思えます。
2021年07月01日
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