2021年06月04日

親鸞聖人御消息第十二通

「「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり」

私は今年、年男ということで四十八歳になりますが、最近喜んだことと言えば車を買い替えたことぐらいです。しかしその喜びも新しい車に慣れてしまえば、すぐに日常のこととなってしまいます。所詮は物質的な欲求です。欲しい欲しいと思ってカタログをながめているときが一番幸せとも言えそうです。他に何かあったかなあと、ちょっと真面目に考えてみますが、とくにありません。数年前に入院して病後とくに問題ないとか、もちろん家族が無事に日々過ごしているとか、喜ぶべきことは他にもあります。ただこれらのことも、いつの間にかあたり前のこととなれば、日常のなかに埋没していってしまいます。

ところで「日常」とは普段の日々のことですが、よく考えますと表現を間違えています。本来、毎日一定でないと「常」とは言えません。恒常的でないとならないのです。日々刻々と変化しているならば、「日常」とは言えないはずです。私たちは錯覚しているのです。「顚倒(てんどう)」とも言いますが、事実をひっくり返して理解してしまっています。私たちは「日常」ではなく、本当は「無常」のなかを生きている存在です。「常」なく移り変わるなか、あれが欲しくて手に入れば忘れ、これが欲しくて手に入れば忘れ、その繰り返しになかなか気づきません。

なぜ喜びが長続きしないのかといえば、そもそもこうした錯覚・顚倒のなか、一時しのぎの側面でしか物事を受け取っていないからでしょう。車を買い替えても、買い替えた瞬間、新しい車は古い車となっていきます。ほんのひと時に思えます。また、私たちが無事に暮らしているということも、慣れてしまえば普段のこととなり喜びは薄らいでいきます。無事であるということは、たしかに恒常的なことではありません。明日、いえ次の瞬間どうなるのか、本当は誰にも分かりません。しかし今のところは大丈夫だろうと、いい加減な満足で誤魔化しているのが私たちです。いずれも一時しのぎと言えます。

さて、ご讃題は親鸞聖人が引かれた『華厳経』の一節となりますが、親鸞聖人がお示し下さる喜びとは、欲望を満たすこととは本質的に異なりそうです。信心をいただくということにこそ、喜びがあると見て取れます。信心とは、私たちが自らの錯覚・顚倒に気づかされる阿弥陀如来からの呼び声です。呼び声が私たちに届き信心となり、錯覚・転倒のない浄土へ向かはしめます。日々の物事も今までとは違ってくることでしょう。いただく信心であるからこそ、「如来とひとし」と説かれます。無常のなか生かされていることを知れば、古くなった車も輝いて見えるかもしれませんし、無事でいることも、かけがえのないこととして受け取れるようになることでしょう。

(本文は『やさしい法話』3月号へ寄稿したものです)

posted by 伊東昌彦 at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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