2020年12月15日

教養と自由

私は東京の関口台にある、いわゆる中高一貫校で学びました。麻布中高や開成中高と同じくらい古い学校なのですが、入学難易度は遠く及びません。しかし中高6年間をほぼ同じ面子と学ぶわけですから、同窓生とは妙に仲がいい。ひとにぎり優秀な仲間もいますが、多くはそれなりです。そもそもそれなりな生徒しか入学していないので、いくら先生が頑張ったところで頭打ちでしょう。ただし、思い返せばこれは授業なのかと思えるような独自な授業もあり、偏差値を上げることにはほぼ役に立っていなかったかも。かつては優秀な時代もあった学校ですので、学者になり切れなかったような卒業生が先生として赴任していたようです。一部の生徒にしか理解できないような内容であったり、ひたすら板書しかしなかったり、今から30年以上も昔の話なので、そういう大らかさであっても保護者から苦情はあまりなかったのでしょう。進路指導なんてほとんどありません。大したことない進学実績だったのに、今では通用しないでしょう。

では中高時代に何を学んだのかと言えば、少々考えてしまいますが、敢えて言えば教養と自由です。教養のない自由は勝手を生みますし、自由のない教養は不用品かつ危険です。教養と自由によって、健全な独立精神を自然に学んでいったのかと思えます。同窓生には学者になったり医者になったりした者もいますが、大学に進学しなかった者もいます。しかし大学進学をしていなくとも、彼らは小規模ながら自分の会社を経営していたりします。中高時代はまったく勉強していなかったような者が、一所懸命に経営について日々探求をしているのです。社会人としての責任と矜恃を保ちながら、自由な発想で活躍している彼ら畏友を見ていますと、ああ、まさに教養と自由が根づいているなあと感じます。

先日、母校同窓会より冊子が送られてきまして、かつて教鞭を取られていた先生による寄稿がありました。先生は母校の伝統について、「生徒の余裕派的な思考と行動を可能とする精神の自由闊達さと鷹揚な学問的雰囲気にある」と言われ、さらに「こうした雰囲気は暗記や記号選択のテクニックを押し付けるだけの教育では育まれるものではありません」とも言われます。また、諸先生方につきましても、「教師自身が多少は世間知らずで浮世離れしていても、教養と学術を大事にする知的な生活スタイルをもっていなければなりません」と解説をして下さいました。なるほど、だから独自な授業内容に思えたわけですね。しかし、こうした一見すると受験には不向きな教育こそ、今までの日本を支えてきたのではないでしょうか。これは母校にかぎらず、かつては多くの学校で実践されてきたことなのでしょう。

昨今、とにかく成果主義ということなのか、大学への進学実績ばかりが注目されます。少しでも実績が落ちれば、保護者から見向きもされない学校になってしまう恐れがあるのです。それでは学校も困りますので、習熟度別クラス編成を導入したり、大学受験に有効な環境作りに励むようになるわけです。そして、いつしか教養と自由を重んじる雰囲気は薄くなり、管理教育による枠組みばかりが重んぜられることとなっていくのでしょう。この雰囲気というのが結構重要で、十代にその学校にいたから自然に獲得された気というのは一生ものと思えます。身についているのです。自由闊達さと学問的雰囲気こそが、わが母校が創立より残してきた伝統だったのでしょう。さて私にも身についているはずですが、今のところ上手に活用できていないような気もします。活用できるか否かは、卒業後の自己研鑽に大きく関係することは言うまでもありません。

日本人はとりわけ雰囲気を大事にします。場合によっては論理性がなく問題だと言われることもありますが、論理性がまだしっかり身についていない中高生にとって、1日をどういう雰囲気のなかで過ごすのかは大切なことです。雰囲気は人間性の土台となります。論理性はその上で習得すれば良いでしょう。正しい論理構築は教養と自由によってもたらされるとも言えますし、日本の学校はこの雰囲気を大事にし、次代へのこして欲しいものだなあと思います。

posted by 伊東昌彦 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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