「自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり」
今でもそうかもしれませんが、とりわけ昭和時代に育った人たちは、物事は最後まで頑張るよう親や先生から教えを受けることが多かったと思います。もちろん程度の差はありますが、はじめから諦めるよう言われたことはないでしょう。人生には難題が待ち受けていますので、努力を重ねることは一般的に必要不可欠なことだと認識されています。ただ、そうは言いましても、実際にはそんな簡単なことではなく、誰もが同じようにできるとは到底思えません。状況も異なります。努力を否定するわけではありませんが、努力だけではどうにもならないこともまた、人生にはたくさんあります。たまには諦めてみること、あってもいいかもしれません。
学生時代によく読んだ漫画で、今でも人気の『SLAM DUNK』(作・井上雄彦)という、バスケットボールを題材にした作品があります。劇中、チームの試合運びがピンチのとき、ある選手に向って監督が、「あきらめたらそこで試合終了ですよ…」と声をかけます。その選手は挫折経験があり、自分自身が生まれ変わろうともがいているような状況でした。監督はそのことを知っています。この言葉は字面だけで読めば、「まだ試合は終わっちゃいない、最後まで諦めずに頑張れ」と受け取ることができます。単純に勝利至上主義であれば、それもあり得るでしょう。ただ、『SLAM DUNK』ではストーリー背景として、挫折や敗北にも価値が置かれています。作者の真意とは異なるかもしれませんが、試みに仏教的な再解釈を施してみますと、セリフの裏側が読み取れるように思えてきます。
仏教での「あきらめる=諦める」という言葉は、途中で物事を投げ出すという意味ではありません。「諦」という字は「四諦八正道」のようにも使われ、これは「真理」という意味になります。したがって、「諦める」と読むならば、これは「(真理を)あきらかにする」という意味合いになるのです。「試合終了」があきらかになる、つまり勝敗が決まるということですが、自分にとって勝利とは何か、敗北とは何か、そこがあきらかにならなければ、前に進むことは決してできないというメッセージが見えてきます。言い換えれば、試合を通じて知る、謙虚に自分を見つめることの大切さです。
仏教の修行も基本的には努力を重ねていくものです。しかし、自分を過信して闇雲に突き進むこと(=自力)は、むしろ傲慢さを増長することになります。自分の力だけを頼りにし、愚かさを省みることなく、監督の声、いえ、阿弥陀如来からの呼び声も無視するようでは、まっとうな修行などできるはずもありません。真実の浄土(=報土)へ往生することはできないのです。今ある自分を「諦める」、すなわち、あきらかにすることができれば、自然に阿弥陀如来の呼び声が聞こえてくるはずです。自分自身の愚かさに「気づけよ」という呼びかけです。勝利だけに学びがあるわけもなく、敗北からの学びがあってこそ、人生は前に進むことができることでしょう。
(本文は『やさしい法話』9月号へ寄稿したものです)
2020年10月17日
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