2020年06月06日

自粛警察する前に

自粛警察って言葉、ここんとこ何度か耳にしました。正義を振りかざすって言うのでしょうか、ネット上でもよくありますよね。すごく正しそうに思える主張。一見すると間違ってないように思えてしまいます。でもよく考えると、何だか違和感あるなんですよね。一面的だからでしょうか。一面的には正しいとも言えるのですが、他方面からすると正しいとも言い切れない。正義って難しそうです。

ところで「正義」というのは、言うまでもなく「正しい義」という意味です。「義」は何かと言いますと、結構曖昧な言葉だと思うのですが、「道理にかなっている」ということでしょう。だとするならば、その「道理」っていうのが根本となり、それに違うことがない思考や行為が「正義」となります。「道理」って何ですかね。分解すれば物事の筋「道」となる「理」となりますので、つまりは「理」ですね。

この「理」というのは倫理・道徳の根本になるでしょうし、宗教においても宗教の根本として「理」という概念は用いられます。おそらく相対的ではなく、絶対的に捉えられていると思います。とは言いましても、宗教も含めて人が考えているわけですから、意外といい加減なのかもしれません。都合によって変化してしまうことがあっては、もちろん絶対的ではありません。

仏教で「理」と言いますと、通常は「真理」という言葉が用いられます。「真理」は「理」をさらに深めた言い回しです。では仏教の言う「理」は何かと言えば、人為的な物事をすべて離れたという意味になります。なるほどそうなると、ちょっとは絶対的な方向に近そうですね。でも、人が語ったりすると、一気に相対的になってしまうからこれまた不思議です。経典なんていらん、という考えもあるのです。

正義は道理に基づいているのですが、道理は振りかざした途端に恣意的なものに成り下がる危険性を常に含んでいます。正義を語る際、もっとも気をつけねばならぬことでしょう。歴史をひもといてみても、正義はしょっちゅう変化しています。いい加減なもんですよね。皆が勝手に都合で使っているからです。レストランの営業の可否についても、いい加減な正義に基づいていると言えるんじゃないかなあ。

posted by 伊東昌彦 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/187568194
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック