2019年12月21日

私とあなた、あなたと私

カトリック学校に通っている息子を経由しまして、キリスト教関連の学校通信を拝読できる機会に恵まれています。キリスト教学校の先生や保護者の方々からの寄稿文を読むことができまして、坊さんの私にとりましては非常に新鮮です。何が新鮮かと言いますと、物事の切り取り方にまるで違うところがあるのです。たとえば、これは私の考えた例話ですが、子が受験に合格したとき、まずは子の努力を褒めますよね。褒めるのは別に宗教的な感覚ではありません。そしておそらくキリスト教の場合は、合格へ導いて下さった神への感謝、そして子を支えて下さった方々への感謝の気持ち、と連なっていくように思います。そして、子がよりよい学校生活を送れるよう、神へ祈りを捧げましょう、というように明るく締め括られるでしょうか。違っているかもしれませんが、最後は神への祈りということが重要になろうかと思います。

一方、仏教というか、私の場合ではどうかと言いますと、やたらと内省的になります。子を褒めることから始まるとは思うのですが、ひとまず子を指導して下さった先生方、そして学校や塾の仲間たちへの謝意を表した上で、いきなり合格までの道のりについて、親である自分自身の行動が正しかったのかどうか検討をし始めます。受験生である子の立場にたって、大きなプレッシャーのなかにある子のことを慮ることができていたかどうか、親の希望ばかりが優先されていなかったかどうか、そんなことを語り出しそうです。子は親の失敗を補填するための存在ではないとか、親の満足のためにあるのではないとか、どうも暗くなりがちです。私だけかもしれませんが。

単純に私が内向的な性格であるがためとも言えますが、仏教ではつねに他者の立場というものを考えます。自他平等というのが仏の境地であり、私たちにはそれを実践することが出来なくとも、それに向かうことは推奨されるからです。そしてさらに、「自未得度先度他」と言いまして、自分よりも他者を優先して物事に対峙すべきことも説かれます。受験生である子とどのように接することが出来たのか、ちゃんと子のことを思い、親の身勝手さで追い詰めるようようなことがなかったかどうか、そんなところが問題視されるわけです。「神と私たち」という構図ではなく、「私とあなた、あなたと私」という構図と言えましょうか。超越的な関係性と言うよりも、普段の生活における関係性、つまり人間関係ということになります。

これは一般論ではありますが、子は親に育てられるなかで人間関係を学ぶところが大いにあります。親子関係というものは、非常に大きな関係ですよね。もちろん、場合によっては親が直接子を育てられないという環境もあるわけですが、育てられる環境にあって敢えて育てないというのは、戦前の天皇家もそうでしょうか。上皇様は直接、今の天皇陛下をお育てになられたと聞いています。天皇家においては大きな改革をされたと思います。子を直接育てることができるのであれば、できればそうしたいと願うのが親でありましょう。親に育てられ、ときには対立しながらも、そういう交流のなかで他者との関係性を私たちは学んでいきます。もちろん、学校などでも学ぶことができるのですが、基礎的な部分は親から学ぶことが最大であると思います。

今、親子関係がうまくいかず、悲しい事件に発展してしまったことが頻繁に報道されます。昔から一定程度はあった事件なのでしょうが、多くなっているという記事も読んだことがあります。どこの家庭も親は仕事で忙しいのですが、可能なかぎり親子での会話を持ちたいものです。繰り返しになりますが、親子会話は人間関係の基礎的な部分を形成します。親であれば人任せではなく、自分のところへやって来てくれた子を可能なかぎりしっかりと自らの手で育てたい、私はそう思っています。人任せでも子は育っていくでしょう。しかし、もしかしたら人間関係の基礎的な部分を、うまく学べないまま成長してしまうかもしれません。人々の営みは自分中心で成り立っているわけではありません。人は平等であり、平等につながっているからこそ、互いに敬い助け合うことができるものです。

私は親子関係が良かったかと言えば、むしろ悪かったと言えるかもしれません。しかし悪いなりに両親と接する時間は大きかったと感謝しています。こんな自分のために、忙しい時間を割いてくれていたんだと思いますと、今さらながら申し訳ないという思いが湧き起こってきます。お寺は仕事と生活が一体化しており、自然に親子が接する時間は増えることになります。そんな恵まれた立場にある私が言うのもお門違いかもしれませんが、親が子を育てるということは自然な営みであり、それ以上に仕事を優先させることというのは、道理に反しており本末転倒も甚だしいかと感じます。あのとき、もっと子の話を聞いておくべきだったと振り返って悔やんだところで、もうどうにもならないということもあることでしょう。

私たちは関係性のなか生かされています。私は他者の存在抜きにはあり得ない存在なのです。

posted by 伊東昌彦 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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