突然ですが、浄土真宗には喪中がありません。したがいまして、喪中葉書というものは存在しないのです。一般的な慣例にしたがっても構わないとは思いますが、厳密には存在しないことになります。喪に服すということの起源は、おそらく中国大陸にあると思います。簡単に言えば死者が迷わないよう、遺族が何かしら制限のある生活をするということになるでしょうか。浄土真宗では死者は迷わないので、とくに遺族が何かする必要もないのです。だから喪に服すことはしない。しかしそもそも、今は喪中葉書と言いつつも、多くの方が喪に服してはいないでしょう。たしか喪中であれば外出も控えなくてはならず、ひたすら位牌に向って供養しないといけないはずです。形式だけが残っているということでしょう。ただ、いかに浄土真宗でありましても、大切な方が亡くなったあとはその方を偲ぶことを優先し、できるだけ慎み深く生活したいものです。なぜならば、その方の死を縁として、自分自身の死についても思いを馳せる時間を大切にすべきだからです。
母が亡くなりましたので、さて年賀状はどうしたものかと思っていました。私はそもそも年賀状において、「おめでとうございます」の決まり文句は使いません。たしかに1年間を過ごすことが出来たということについて、心のなかにめでたいという思いはあります。人は節目がないと居心地が悪いこともありましょう。しかし仏教思想に照らしてみるならば、とりわけお正月がめでたいということにはなりません。毎日めでたい、有難い。そういう発想になるからです。諸行無常のなか生きている私にとって、明日があるかもわかりません。それがこうして、今日という1日が訪れたわけですから、とてもめでたく有難いことです。だから私は毎日、朝が一番機嫌がいいのです。起きた瞬間から回路全開になるような感じです。ブログもたいてい朝書いています。
2019年12月04日
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