2019年11月10日

それがよーわからんのだよね…

週末に友人たちと3人で東京の大井町で会いました。獨協中高大時代の友人(大井町の人)と、あとは友人と言ったら本人には失礼かもしれないけど、学生時代の彼女です。別にどうでもいい話なんですが、いわゆる「元カノ」を友人と言うのもしっくりこないんですよね、個人的に。だからと言って「元カノ」なんてねえ、さらに失礼な雰囲気漂うしなあ。しかしまあ、私も彼女にとっては「元カレ」なので、そう言われても別にいいかなあ。なんだか学生時代は妙に気が合って、学年も一緒でやたらと印象深いやつだったので、とくにそう思うのかもしれません。私の人生において、家族のほか親友なみに重要なやつではあります。

それでどういう話をするのかと言いますと、それがビール飲み過ぎてよー覚えてないんですよ。私はいつも終電があるから遅くなれず、東京で飲むときは夕方の待ち合わせにしてもらっています。私に合わせてもらっているので迷惑な話だと思いますが、友人たちには感謝しています。それで4時半から飲んだので、結局たくさん飲んでしまうわけです。大井町の友人と元カノはファッション好きなので、なんだかファッションの話で盛り上がっていたように思います。私はあまり興味ないのですが、2人が楽しそうに語り合っているのを眺めていると嬉しい気持ちになったことです。

2人とも平日はとても忙しい。私とはまったく生活リズムが異なるので、よく分かりませんが、むしろ一般的なのでしょう。私はやはり住職ということもあり、特異なリズムであると言えるでしょう。2人は仕事の悩みも多そうですが、そんな話は一切せずに好きな分野の話をして過ごせたことがとても贅沢に思えたわけです。普段、私たちは結構自分を欺いて生きています。私は公私の区分が曖昧なのでそうでもないんですが、そうせざるを得ない時もたまにあるので、会社で仕事をしている方々は言うまでもないと思えます。でも、なんでそんな生き方をしないといけないのでしょう。

それはもちろん、生きていくためでしょう。どうやら生きるということは、とてもストレスがたまることのようです。じゃあなんで生きているのでしょう。これはとても素朴な疑問で、生死を自分で決めることが難しい私たちにとっては、なおかつ解決が難しい疑問でもあります。だから哲学者や僧侶は一所懸命思考したのだと思います。でも簡単に言えば、よーわからん、ってことになるんじゃないかなあ。昔、お笑いのダウンタウンさんのコントで、「日本の匠を訪ねて」というものがありました。私、大好きなんですけど、内容としてはレポーター役の浜田さんが、伝統工芸作家役の松本さんの工房を訪ねる、というもので、頑固でありながらどこか滑稽な制作過程を題材にしています。「しごみざる」とか、「ひねりっこちゃん」とか。

それで松本さんが制作している工芸品は、何かしら楽器のようなものなのですが、同時に神聖な存在にもなっており、先代制作のものは神棚に祀られています。先代から、おそらくもっと昔から伝承された技を披露する松本さんの姿からは、凄みすら感じられます。おそらく工房に入るときには、自分自身を清めてから作業に取り掛かるのだと思われます。お弟子さん(今田さん)もとられていて、その彼の朴訥さがまたいい雰囲気なんです。下積みをしているのでしょう。1つ制作するのに2ヶ月半もかかるようで、プロ用は40万円もするということです。制作過程も佳境に入りまして、入魂のような作業段階をへて完成します。

完成品は独特な風貌であり、お寺の本堂に置いてあってもおかしくないと思います。それでレポーター役の浜田さんが最後、しめの言葉を松本さんに聞くわけです、「これは何に使うものなんですか?」と。そして、それに対する松本さんの返答は、「…それがよーわからんのだよね…」。先代制作のものが神棚にあるような神聖なものを制作して、それを次世代に伝えるために弟子もとっている。それなのに、よーわからんと。あまりにも面白過ぎて頭から離れません。しかし本当に秀逸なのは、何のために一所懸命やっているのか、引いて言えば何のために生きているのか「よーわからん」のに生きている私たち人の姿そのものが、とても滑稽だと言うことにつながっていくと思えるところです。

しかしながら、私たちは何かしら目的がないとうまく生きていくことができません。目的を敢えて探すならば、大乗仏教的には「利他」ということになるでしょう。もう、それしかない。でも、利他行しなくても本当は問題なんてないんです。悪いことしてもいいってことじゃないですよ。自分のためだけに生きていても、他人に迷惑かけなければ問題ないと言えば問題ないですよね。大乗仏教的に言いましても、それを覆すだけの教理なんてないと思います。ただ、そうは言いましても、それだけでは無味乾燥な人生になりそうです。私たちは1人で生きているわけではないので、支え合いつながりのある命をいただいています。人のために何かしたくなるのはむしろ必然的であり、そうあるべき存在なのかもしれません。

利他とは「自利利他」と表現されることが多く、自分自身の利と他者を利することが同列に語られます。自利が先に来ているのは、私たちはいまだ自分中心のものの見方から脱することが出来ていないからでしょう。大乗仏教的には本来、利他のほうが先になります。そして最終的には自他平等となり、分け隔てがなくなるというわけです。私たちはこの自利と利他のはざまで思い悩むことも多いでしょう。自分を捨てるということは、なかなか出来ることではないからです。自分を欺くことはとても辛い。自利と利他がうまく融合することができれば、とても理想的な人としての生き方になるような気もします。私は会社勤めをしたことがありませんので、あまり勝手なことは言えない立場でもありますが、「自利利他円満」という言葉もあります。円は完全を意味しています。

posted by 伊東昌彦 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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