2019年09月03日

宗教と本能、その相反する側面から

宗教というのは、たいていは他者、そして人以外の命との関わりを説くと思います。一般的に言えば慈愛の心によって、可能なかぎり共存していこうという方向が見られることでしょう。しかし一方、人の本能的な側面を観察してみますと、生きることへの強い渇望が見られます。人という「種」を保存し、そしてなお「人」のなかにあっても、さらに自らに連なる子孫を残し、自己保全の存在性というものが明らかです。敢えて言えば、自己は他者よりも優先し、他者を押しのけても生き残ることが本能だと言えそうです。

不思議ですよね。こう考えますと、宗教というのは本能に背いている。本能というものが、大袈裟に言えば宇宙誕生からの原則であるとすれば、なんでその宇宙のなかにある人は、こうした宗教、つまり宗教心を持つように進化したのでしょうか。だからこそ人は偉大なんだなどと言うつもりは毛頭ありませんが、なんだかエラーしているかのようにも思えます。なぜならば、場合によっては宗教心というものが、人の覇権を制御するブレーキにもなるからです。なんでブレーキを持つことになったのでしょう。

私なりに考えてみますと、宗教心というものはリミッターのようなもので、ある程度進化した生命というものを、それ以上独善的に繁栄させないための装置なのではないかと思うのです。宇宙は可能性の宝庫でしょうし、1つの方向性だけで成り立っているわけではありません。多様性がなければ宇宙たりえず、独善的な存在というものは本来的には不要です。だからこそ、宗教心が発生するようになっている。多様性に気づかせるため、そういう精神作用が働くようになる、というのはどうでしょう。

posted by 伊東昌彦 at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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