2019年06月30日

絲綢之路を聴いて

私はかつて、そう小学校低学年の頃だったと思います。日本武道館で喜多郎さんのコンサートに連れて行ってもらいました。母と兄と一緒でした。当時、おそらくNHKで『シルクロード』という番組をやっていて、家族で仲良く観ていたと思います。私は幼く、何が何だか良く分かりませんでした。まあ、簡単に言うとあまり面白くなく、父と兄が興味深そうに観ているのを、横で眺めているという様相だったと思います。ブラウン管からは喜太郎さんの「絲綢之路」がテーマ曲として流れていました。コンサートでのことはあまり覚えていませんが、上のほうからステージを眺めると、喜多郎さんが何やら絵描きさんのように見えたことが、今でも印象深く思い起こされます。いい時代でした。この曲を聴くと、なぜか自分がいつかどこかへ還っていく身であるような気がします。

博士論文を書いているとき、よく「絲綢之路」を聴きました。私はいわゆる「課程博士」なので博士課程在学中に論文を提出します。期限があるのです。また、博士課程進学が30歳を超えてからでしたし、すでに善福寺の仕事もしておりましたので、出来るだけ早く書きあげたいという思いもありました。急いで出すものではないのですが、本業として研究者になるイメージではなかったので、本業である住職業務に影響が出ないよう、早めに審査を受けたいという思いがありました。論文執筆ははっきり言ってとても辛く、1日10時間以上も書き続ける日々が続いたと思います。もとより論理的思考に弱く博士論文を出すような頭ではないので、頭は100%以上の出力であったと思われます。そんなときこの「絲綢之路」を聴きますと、2000年以上の仏教の歴史が今、シルクロードを通って自分の手元にまで届いていることがイメージされ、奮起することが出来ました。

また、井上靖さんの小説『敦煌』の映画化である『敦煌』も好きで、これはたしか私が中学2年ぐらいの頃の上映だったと思います。故・中川杏奈さんの姿が中央アジアの雰囲気に合致しており、素晴らしい美しさでした。主演の佐藤浩市さんとの非情な愛の物語も良かったのですが、映画のラストにおいて、佐藤浩市さんが敦煌の地において、まさに無念無想で経典を火事から守り洞窟に運ぶ姿が印象的でした。今、自分の手元にある経典が、どのような経路を辿ってきたのか、本当のところは分かりませんが、おそらくこうした名もなき人々の思いによって、こうして運ばれてきたのだと思うと、「絲綢之路」を聴きながら、思わず涙する自分自身に酔ってしまいそうでした。それがどうも最近、研究から遠ざかってしまい、いけません。

仏教に限らず、どんな宗教でも人為的な営みです。仏教ではそんな人為性を捨てて、宇宙の真理にいたることを示すわけですが、人が人であることをやめることは出来ません。たとえば地球環境を守ろうという運動が盛んですが、人が地球環境を破壊したところで、別に惑星である地球が死ぬわけではないでしょう。人が住めなくなるだけです。人が住めなくても地球は存在し続けます。地球を真っ二つに割るほどの力なんて人にはありません。つまり、こうした一見すると地球にとって良さそうな運動であっても、実のところは人のために人が運動しているに過ぎないという見方も可能です。生きている限りにおいて、人は人であることの束縛から逃れることは出来ないのです。人為的な束縛から逃れることは不可能なのです。しかし実際、人の営みがあるからこそ、私たちは生きている、生かされているのも事実であり、これを否定することに意味はないでしょう。

仏教は真理にいたる道ですが、真理の岸に到達するためには筏が必要です。私たちはたくさん人々からたくさんのの筏をいただき、今日まで生かされてきました。それはもう無数と言ってもいいでしょう。それこそ宇宙の大きな生命の営みの一部なんだと、そう実感してもいいと私は思います。科学を否定的に捉える人もいますが、科学であってもメカニカルであっても生命の進化とも言えるでしょう。映画『スタートレック』ではメカの親分のようになったNASAのボイジャーが還ってきました。これも生命の営みなんだと私は思います。つまり、人為的だと思っているものであっても、人為性なんていうものは仮の存在でしかなく、実はすべてが人為性を超えた宇宙的規模での営みであるとも言えます。筏であったと思っても、実は筏も真理の顕現であり、日常のこと生活のことすべてが真理の顕現であるとも結論可能ではないでしょうか。

華厳教学に「初発心時便成正覚」という言葉があります。覚りを求める心が起きたときにはすでに覚っているのだということなのですが、真理の岸はどこか遠くにあるわけではありません。今ここ、私の人為的な日常や生活こそが覚りの真っ只中なわけであり、単に気づいていなかったというのが実情なようです。「絲綢之路」をテーマ曲にして、シルクロードを通って、たくさんの人々に守られ、経典はようやく私の手元にやって来てくれました。宇宙はこうした縁によって形成されているのであり、それこそが真理なのでしょう。人為的な営みに日々感謝しています。私は出会うためにこの世に生を受けたのでしょう。それこそが真理であり、この世にこうして人として生まれることになった自分自身の業に対しても、深い感謝の思いを持つのでした。ちなみに「絲綢(しちゅう)」とは絹織物のことのようで、日本語としてはあまり使わないかもしれません。

posted by 伊東昌彦 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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