2019年05月01日

令和を迎えまして

令和元年になりましたね。今朝お経をあげまして、静かな1日の始まりでした。目の前の松田山や大磯丘陵を眺めましても、あたりまえですが何事もなかったかのよう。自然にとっては太陽が昇り沈む1日、そして季節がめぐる1年は大事であっても、元号はどうでもいい話ですよね。しかし、元号に慣れ親しんでいる日本人からしますと、なんとなく新たな気分になるような気もするかもしれません。元号の歴史については詳しく知りませんが、そもそもは暦を支配するということからはじまり、吉祥を願っての使用であったと思われます。そういう意味においては、現代では前者は機能停止していると言え、後者のみが情緒的に機能していると言えるでしょうか。

私はあまり合理的な思考の人ではないのか、情緒的ではあっても元号にはそれなりに居心地の良いものを感じます。実際のところ、西暦との併用が一般的ではありますので、元号はなくても問題ないという意見もあるかもしれません。ただ、西暦はあくまでもキリスト教の信仰を基準とした暦ですし、普遍的とは言えないものです。だからと言って、いつから人が人としてのスタートを切ったのかは分からないわけですし、人文的に決めざるを得ないのもたしかです。天皇が象徴であるのであれば、それに直接連関する元号も象徴ということになるわけですが、未来を思い描きこうありたいという国民の願いの象徴とするならば、それを漢字二文字で表現するのはなかなか文学的に趣きが深いと感じます。

posted by 伊東昌彦 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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