2019年03月30日

学歴社会の難しさ

昨日、教育委員会辞令交付式に参列してきました。開式時間ギリギリになってしまい、毎度のことですが申し訳ございません。ご定年になられる先生方のほか、ご退職・ご転任になられる先生方が大勢来られていました。教育長の言葉のなかに、点数だけにとらわれる教育ではなく、その先につながっていく教育を目指すという内容がございました。私も賛同いたします。点数、つまりペーパー試験で良い点数を取ることは、児童・生徒にとりましては勉強の第一義とも言える事柄です。しかし、先生方や保護者からしますと、点数を重視しながらも、同時にそれ以上に児童・生徒の将来への展望を持たねばならない。教育の第一義は決して点数ではないと思います。

日本はある程度学歴社会ですので、たとえば一部上場企業に入社したければ、その会社が設ける学歴のフィルターを通過しなければなりません。また、今最も人気のある国家資格と言える医師になるためには、事実上、医学部医学科へ進学しなければなりません。私も大学で就職活動にあたる頃、父の勤務する会社もしくは関連会社の様子を父へ聞いたところ、悲惨なことに一蹴されました。ちなみに父のみならず母もその会社出身であり、かつ大伯父がかつて役員でありましたが、それでも私なんかではダメなのです。もしかしたら、業界として私には向いていないと父は考えたのかもしれませんが、学歴としてダメだともはっきり言われました。

こうしたこともあるので、試験で点数が取れるようになることは日本では意味あることになります。将来の目標が学歴に関与するのであれば、頑張って点数取るしかないでしょう。会社がなぜこうした学歴フィルターを設けるかと言えば、簡単に言えば手っ取り早いからだと思います。会社は教養があり、その会社にとって有為な人材が欲しいのですが、入社希望者の評価を一からやるとなると時間がかかって仕方がない。今までの経験からして、学歴で判断しても問題ないことが多かったので、多くの会社で学歴が入社判断の主要基準とされるのでしょう。ということであれば、それを否定するのは教育とは言えません。

ただし、ペーパー試験の出来不出来が人物評価の中心になるような社会は異常ですし、試験が得意だというのはその人のひとつの側面でしかありません。試験難易度の高い学校を出たからといって、その人が本当に社会にとって有為な人物かは計り切れません。社会で何をしたのかということのほうが重要でもあります。学歴フィルターは会社という小さな枠内であれば機能するでしょうが、社会は一部上場企業だけで成り立っているわけではないので、教育現場において、ペーパー試験だけに意識を注がせるような指導には関心出来ません。試験はあくまでも通過点であり、通過しなければならない関門ではありますが、それは将来、ひいては人生の目的でもなんでもない。

今も昔も、たとえば東大に何人入ったとか、東大東大とだけ連呼するような高校は、はっきり言って教育を放棄していると思えます。東大に何人入ったということが高校の評価になるならば、こんな簡単なことはない。東大に入るのは難しいことだけど、そういう学校にしたいのであれば、塾と同じことをすればいい。塾のノウハウを学校に注入し、大きく特待生枠を設け、入学試験を何回もやったりして有能な生徒を入学させることが出来れば、おそらく10年もすれば東大に合格する生徒が増えてくる。でも、それは塾がやる仕事でしょう。塾は教育を支えてはくれていますが、決して教育を主目的にしているわけではない。塾は営利が主目的であるのだから、東大に何人合格させたというのが宣伝になっていい。

しかしながら、学校は違う。私立学校でも学校法人であれば営利第一であってはならないはずです。もちろん、学校であっても経営していかねばならないので、生徒が集まらねば苦しい。集めるためにはどうするのか、誰でも思いつくことはいわゆる進学実績を上げることでしょう。保護者にとっては、出来れば高い実績のある学校に子を入学させたい。その実績のなかに子が入るかは未知なのですが、少なくともその学校に入学できれば、その権利を得たかのような錯覚に陥る。本当は子自身が入学後に努力をしなければならないわけですが、親というものは愚かなもので、そう思ってしまう。いい会社に入るためには学歴が重要だし、だから進学実績ばかりに目が行ってしまう。

何だか悪循環です。進学実績ばかりアピールする学校が増えたからなのか、それとも進学実績ばかりに目が行く保護者が増えたからなのか。この時期、学校別の東大合格者数が週刊誌やネットに出ますが、主観ですが昔よりも一部の学校に合格者が集中しすぎているような気もします。そりゃ成績優秀な学校はそれはそれでいいんですが、そのからくりは何なのかなあと考えますと、上記のような状況もあるかと頭に浮かんでしまいます。東大に子が入学できれば嬉しいことですが、無理に押し込んでも意味がないし、入学が目的になって欲しくない。その先がどうなのか、そこまで考えての東大であれば大いに応援するところだけど、東大東大とだけ連呼している学校は、ちゃんと生徒一人一人の将来も見据えて連呼しているのか、私には分かりません。

社会に出れば、自分が数値化されて評価されることもしばしばです。しかし、それはあくまでも便宜上のことであり、会社等の限られた範囲で許されていることでしょう。数値化が一般的となれば、これは恐ろしいことです。そんな社会にはなってほしくないなあ。そして、保護者として親としても、試験の点数などの数値で子の出来不出来を判断したり、そこばかりに目が行く子に育ててしまうことがないよう、気をつけたいとも思っています。皆さんの周囲にも、学歴はそれほど高くなくとも、立派だなあと思える人がいらっしゃることでしょう。人は多様性の塊です。学歴だけではない。私たちはひとつの側面だけを切り取って話題にしがちですが、少なくとも人に関することであれば、それは慎重になりたいものです。

posted by 伊東昌彦 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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