2019年02月08日

児童虐待の報に接して

児童虐待が増えているとの報道が今朝ありました。以前も聞いたことです。歴史的に見れば減っているとも言えるのかもしれませんが、現代的には増えているのは明白でしょう。報に接するたびに大きな憤りを感じます。仏教では阿弥陀如来の慈愛を親に譬えることがあります。如来は利他そのものですから、自分を省みないような親の愛をそこに見るのです。しかし、やはり如来と人とでは大きな違いがあります。あたり前のことですが、どんな親でもかつては子です。人はいつになっても経験から抜け出せないところがあります。如来はそうした過去の経験をすべて捨てているわけですが、人はそうはいきません。子であったときに受けた何らかの影響というものが、親になったときの行動指針になっていることは誰でも思うことでしょう。どんなに親が嫌いであっても、同じような親になってしまうということもあるようですし、それこそ経験から抜け出せていないことの証拠だと思います。

私もそうです。父の口癖は「勉強しろ」でした。私は父のように優秀ではなかったので、申し訳ないという気持ちと同時に、こういう親にはなりたくないものだと密かに思っていました。しかし今、私は子に向って「勉強しろ」です。なんだ同じではないか。酒ばかり飲んでいる父でした。ああはなりたくないものだと学生時代に思ったものですが、ああ、今日も酒飲みたいなあと思ってます、酒量は違いますが。基本的にはなかなか変わらないのが遺伝子なのか、良く分かりません。顔や声、仕草も似ているようです。

野田市での事件の父親は、いったいどんな家庭環境だったのでしょう。調べる気にもなりませんが、何かあったんだろうなあと思います。亡くなった子のことを思うと胸が張り裂けそうですが、こうした悲しい事件を少しでも減らすためには、児童相談所の充実や法整備はもちろんですが、基本は家庭環境の向上でしょう。景気が悪くなればこうした事件も増えるわけですが、それでもなお家庭環境を悪化させないため、国はもっと予算を割いてもらいたいものです。子は宝なんだと日本人は長年思ってきていること、今こそ忘れないでもらいたい。

posted by 伊東昌彦 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/185521920
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック