2018年10月15日

漠然とした不安によって

40代は精神に異常を来しやすい年代のようですが、とても良く分かる話です。私自身、親に育ててもらい独立し、有難いことに子にも恵まれ頑張ってきたつもりです。しかし、漠然としたことなのですが不安を感じます。順不同で簡単に言えば、仕事の成果が若い頃より出ないこと、今までと同じように家族を養っていけるのか、そして、両親をどう介護していけば良いのか、とても不安です。おそらく多くの方が、漠然とした不安を抱えていらっしゃることでしょう。

幸い坊守の両親は心身ともに健康ですが、私の母は週2回デイサービスに通っています。調子が良いときは犬の散歩に外出しますが、悪いときは記憶も錯綜してしまうほどになります。母と話をした叔母から聞いたことなのですが、ちょうど調子が悪いとき、母は叔母に「今、お薬師さまの隣に引っ越してきたの」と言うらしいのです。「お薬師さま」とは中野の新井薬師のことで、母の実家は新井の隣にある上高田です。今は善福寺の境内に住んでいるわけですが、部屋から善福寺の山門が見えるので、それを「お薬師さま」と勘違いしているようなのです。

一方、父はアル中治療以降、精神的にとても不安定になってしまっており、私もうまくコミュニケーションが取れません。実のところ、私自身も父のアル中治療に付き合うなか、精神的にかなり参ってしまったところがあります。それから父と話をすることが苦痛になってしまい、母のことも、なかばほったらかし状態であったのです。父は母につらく当たることも多かったようで、母の状態が悪くなった要因になってしまいました。気づいたときには軽い認知症になっており、今に至るというわけです。

両親の介護について、知識としては色々と触れる機会もありました。しかし、こうして現実になってきますと、気持ちをうまく軌道に乗せることが出来ません。とくに父とはアル中のことで長年対立してきた経緯もあり、心に引っ掛かったものを取り除くことは至難の業です。心というものは、やはり積み重ねなんだなあと改めて思います。仏教では「業(=自分の行いとその影響)」は蓄積していくもので、それが原因となって次の結果をもたらすとします。自分のしてきたことや考えというものは、一朝一夕で心からなくなるものではなく、いつか何らかの結果を出すため、心にちゃんとしまい込まれてしまっているのです。

私たちが意識している「私」は、仏教的に言えば心の表面に張り付いている膜みたいなものです。対外的には「私」があたかも心の統括者のように顔を出しているのですが、それは心の核から派生した一部に過ぎません。膜である「私」は心をちゃんとコントロールすることなんて出来ないわけです。出来ることと言えば、可能なかぎり心を良い状態と接するようにし、心の自浄作業を促すことぐらいでしょうか。「私」は能動的にいらないものを取り除くことは出来ないので、そう仕向けることに努めることになります。それが仏道修行です。自力だろうが他力だろうが、やってることはどちらも同じです。

家族のことをブログに書くことには批判もあるかもしれません。両親には申し訳ないと思いつつ、坊さんだってこうした不安や悩みを抱えているということ、自責の念を持ちながら書きました。これからどうすれば良いのか、まったくもって不安です。この不安っていう気持ちは、多くの問題行動を引き起こす原因にもなります。不安は恐れを生みますし、恐れによって人は意固地になりがちです。意固地になりますと他者とのコミュニケーションがうまく取れなくなることもあるでしょう。不安とは安心ではないということで、とても居心地の悪い感覚ですよね。

posted by 伊東昌彦 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
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