2018年09月10日

事実を伝えること難しい

最近どうもネタ切れで、なかなか文章書けません。仏教も最近は思想系よりも歴史系にはまってまして、頭をこねくりまわすようなこととは距離があります。歴史もすごい好きで、「事実」を知りたいって衝動にかられるときがあります。しかし、この「事実」ってのが厄介で、だいたい物事が起きたその現場にいたとしても、人間ってのは「主観」でしか脳に記録できないわけですから、それをまた何か文章なんかに写すなんていうと、もうねえ、かなり「事実」からずれるんじゃないかと思うのです。

見たこと感じたことをそのままズバリ!、と記録できれば良いのですが、よく考えたらそりゃ無理な相談なんですよね。たとえば風景を写真に撮りましても、あれ?、撮ったらどうも見た感じと違うなあってことあるでしょう。そりゃ写真のほうが正しいんですが、自分にとっては違うと思えてしまう。人間の思う「事実」ってのは、その時の主観も含まれているから。だから、写真と自分の記憶は違って思えて当然なんだと思うんです。「歴史」は「事実」というよりは人間の「営為」なので、その主観が生きていればいるほど、いわゆる「歴史問題」を解決するのは困難になりますね。

思想系やってても思うんですが、たとえば私の勉強した吉蔵っていう中国の坊さんだと、もう本当に大量に文章を残してくれているんです。でも、ふと思うときがあるんですよ、これ読んでも本人にちゃんと意味聞かないと、実は違うってこともあるんだろうなあって。私はなんて無駄なことをしているのかと。吉蔵師が考えていたことも、それが「事実」として文章にうまく表現されているかと言えば、やはり限界はあるでしょう。吉蔵師はそれを分かって書いているから、現代的には異様に冗長だったりするのです。だから仏教では対面することが大事だと言うんですけど、本人が書いた文章であっても「事実」とは限らないとすれば、こりゃもう大変なことですよね。


だったら理系にすりゃよかったね。


乱雑さより整然さに美しさを感じるほうなので、もしかしたら理系だったのかも。父や兄にくらべて芸術性もないなあと思いますし、芸術や文学に対する素養は少ないほうだと思います。しかし、中3の代数でこけたのがすべての始まりだったのか・・・。今でも覚えてるけど、クラスでビリで、先生もあまりにも悲惨だと思ったのか、呼び出しのとき×を△にしてくれた獨協の本木先生、有難うございます!

ほんと、数学はダメでした。幾何はまだマシだったけど、数列で撃沈して微積は意味が分からなかった。おまけに化学物理も不可で、まあまあなのでは現国と地歴、あとは生物。なんだほとんど記憶系じゃないかという、何とも思考の出来ない十代だったわけです。ちなみに今は古典やってるけど、当時は古典もまったく出来なかった。古典の世界のイメージができず、記憶するのも苦痛でありました。よく歴史苦手な人がイメージできないとか言うけど、たしかにそうですよね。イメージないと覚えられないんですよ。それほど「主観」ってのは人間の営みにおいて大事なんだろうなあと、うまく本題に戻ることが出来ました。

posted by 伊東昌彦 at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 住職恣意 -jyushokushii
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