2018年08月20日

自我を抑え込むのは苦しい

お盆も無事終了しまして、少々気が抜けたような感じです。それにしましても、本当にお盆が終わると秋ですよね。空気が変わるというか、朝もとても涼しく気持ちの良い日が続いています。私は夏生まれなので基本的に夏好きなのですが、おじさんになってからは秋好きになってきました。冬が近づき、やや鼻から吸う空気にも冷気が漂っているような状態が好きです。しかし多くの子供たちにとっては、あまり早く秋になってしまうと残念は思いが募るばかりかもしれませんね。これから親御さんが夏休みというご家庭もあるでしょうし、せめて夏休み中は夏らしく。そんな思いも同時に沸き起こってきました。

ところでわが家は、小学生・中学生・高校生と3人の子供に恵まれました。高校生は大学受験も近いので、今夏から少しづつ勉強を始めています。学校の成績は超低迷ですので、あまり上位は狙えそうにはありませんが、自分で進路を決めて欲しいと思っています。小学生は上の二人と同じように宗教系の学校に入れるのか、まだ進路は検討中ではありますが、一応、勉強はしているようです。カリキュラムを間引きながらですので、上の二人に比べれば緩いかもしれません。そして、一番ヒマなのは中学生です。部活動も文化部なので、かなりヒマなようで、終日ゴロゴロしていることもあります。数日前は2日間で『あしたのジョー』を全巻読破していました。読み終えていきなりシャドーボクシング。インドアな性格なので、まあこれはこれで良いのかもしれませんが、私以上のもやしっ子になっていると思います。

わが家はお寺ということもあり、おそらく一般ではないところもあろうかと思います。私は先代がサラリーマンでしたので、お寺では育たず、ごく一般的なサラリーマンの息子として生まれ育ちました。だから分かるのですが、やはりお寺で生まれ育つと、当たり前ですが「お寺の子」になりました。浄土真宗の場合は誰かにお寺を継いでもらわないと困るので、結構お子さんを育てることに神経を使うこともあるでしょう。私はとくに一般人なので、むしろ力が入り過ぎてしまったところがあるかもしれませんが、それぞれの子にどういう学校が合うのか、かなり考えて進学をさせたりしました。奏功しているかは分かりませんが、親から見て上の二人は進学先の友人とうまくやっているように見えるので、ひとまず安心しています。ただし結果的に見まして、親の思惑通りというよりは、ラッキーであったところもあったかもしれません。

子供にとりまして、学校というのは家庭と同じぐらい重要な社会です。ここが合わないと厳しい。大人はある程度、自分で居場所を見つけることが出来るわけですが、子供はそうはいかず、決められた場所にちゃんといないとダメってことになりがちです。多くの場合、多少問題があっても何とかなるんでしょうが、何とかならない場合、子供は困ってしまうことでしょう。勝手に転校するわけにはいきませんし、基本的には我慢を強いられるということになります。

「我慢」ってのは元々は仏教用語で「慢心」のような意味合いです。現代的にはむしろ逆に「忍耐」という意味で使われていますので、正反対になってしまったようです。しかし、この現代的な我慢というものには限度があるわけで、それを超えれば爆発してしまう可能性を孕みます。それは自我を抑え込んでいるからでしょう。仏教的には抑え込むのではなく、消していかねばなりませんが、それは厳しい修行によってようやく達成されるほど難しいものです。「慢心」と聞きますと悪いイメージですが、これこそ自分自身だとも言えるわけで、自分自身を抑えることほど苦しいものはないでしょう。苦しんでいる子供は大勢いるのです。

大人になれば苦しい状況でも奮起せねばならないことがありますので、学校での苦しみもそのトレーニングなのだという考えもあるでしょう。半分ぐらいは私も同調しますが、しかし上記のように、子供は大人に比べて自分自身で苦しみから逃れることが難しい状況にあります。トレーニングなんだという考えだけで子供に我慢を強いるのは、はっきり言って無茶苦茶だと私は思います。つまり、こうした状況に子供を置くことになる現代的な教育環境そのもの自体に、大きな欠陥があるのではないかと思えてきます。なんだか箱のなかに適当に子供を入れて、蓋をしておしまい、というような大雑把さを感じてしまいます。そんな大雑把でいいのか!?

私は今、「適当」という言葉を使いました。「いい加減」という意味での使用です。しかし字義からするならば、本来は「ふさわしい」という意味合いが強いはずです。「適して」、「当たって」いるわけですから、当然だと思います。子供の教育においては、この本来的な意味で「適当」な環境が与えられるべきではないでしょうか。とくに10歳ぐらいを超えたあたりから、子供には随分と自我や個性が育ってきます。中学にもなって皆で同じようにっていうのは、そもそも無理がある発想なんじゃないかと。多くの中学生が夏休みも運動部で汗を流すなか、『あしたのジョー』をかなり真剣に読んでいるわが家の中学生、そして、今朝のニュースでは同学年の子が自ら命を絶ったかというニュース。どのような背景があったかは分かりませんが、夏休みが終わる前ということを考えますと、学校の事柄が無関係ではなさそうです。学校であっても家庭であっても、教育は常に個々を伸ばすものであってもらいたいと切に願います。

posted by 伊東昌彦 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/184216340
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック